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2013.5.13 ツイッターから転載…称名寺と『徒然草』の卜部兼好の関係を調べています。兼好が金沢文庫で『尾州家河内本源氏物語』を手にしたかもしれなくて

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5月10日
なんか、また大変な事! 卜部兼好と『源氏物語』の問題。ある目的があって吉川人物思想書『卜部兼好』を拝読。兼好が鎌倉に下向して六浦に庵を構え、金沢文庫に通って典籍に読み耽ったことは周知の事実。で、ふと気付いたのですが、兼好が読んだ典籍は北条実時がらみの『源氏物語』ではなかったかと。

『卜部兼好』に『源氏物語』との関連記述は金沢文庫とは関係のない箇所で一件しかなかったのですが、なにか引っかかって考えていたらそんな案が。考えてみると『徒然草』には『源氏物語』を彷彿とする段があります。それで検索したら、論文がありました。両者の関係は周知の事実なんだったのですね。

私の目下の関心は、「河内本源氏物語」を完成した親行と親交のあった実時が、みずからも『源氏物語』を書写したり、更迭された宗尊親王の残した『尾州家河内本源氏物語』を金沢文庫に収めたりのそれらが、金沢文庫でその後どうなったかという問題。兼好はもしかしたらそれらに目を通していたのかも!

今友人と電話で話していて、吉田兼好は金沢文庫で『尾州家河内本源氏物語』を見てたのかもよと告げると面白~いと乗ってくれました。で、私は調子にのって、『尾州家河内本源氏物語』に兼好の指紋がついているかもしれないわね、と。昨夜来、『徒然草』にある『源氏物語』風の段の謎に浸っています。

鎌倉の『源氏物語』を調べていたら、『尾州家河内本源氏物語』と瓜二つの『西本願寺本万葉集』から『万葉集』が浮かびあがって、と思ったら、今度は『徒然草』。いったい鎌倉の文化はどこまで奥が深いのでしょう。『古今集』も実は並行してあるんです。

5月11日
卜部兼好が金沢文庫に通い当時の金沢北条氏当主貞顕と親しかったあたりの年表を作っていたら、二人は5歳違いの同世代で、兼好は後二条天皇に仕えていた。その頃貞顕は六波羅探題として在京。任期がほぼ後二条天皇時代なので、二人の親交は京都で始まったとみていいのではということが見えてきました。

5月12日
吉川弘文館人物叢書『卜部兼好』を拝読しているのですが、50代になって兼好は「一条猪熊旅所」で定家自筆の青表紙本『源氏物語』を他の本と対校したとあり、「一条猪熊旅所」を最初人名かと思っていてどうやら通りの名らしいとやっと見当ついたところです。京都の方には自明なのでしょうけれど。

この頃兼好は順徳院宸筆の御本で『八雲御抄』を。翌年には正本をもって自筆の『古今和歌集』を校合とあるので、兼好は二条家のなかでそういう立派な本を与えられて校合する役割を担っていたのでしょうか。尊氏が京都に攻め入って新田軍と戦い、楠木正成が湊川で討死という混乱の世のなかでです。

高校の教科書で奥山に猫またというものありてとか、仁和寺の法師の失敗談など風流とかけ離れた段を読まされて兼好像が作られた弊害は大きいですね。飛鳥川の淵瀬は暗唱するくらい好きでしたし、『源氏物語』ふうの段の価値観は人生の基盤になっているくらいなのに。

またまた大胆な仮説といわれそうですが、兼好の鎌倉下向の理由が解けそうです。兼好は二回は下向していて、一回目は称名寺に。まだ金沢文庫ができる前です。二回目に金沢文庫を訪ねて当主貞顕と親交を。そこで『源氏物語』を目にしたとは先にツイートしました。兼好下向のキーワードは仁和寺です。

今は鎌倉の文化圏から離れ東国の片隅に忘れられたようにひっそりとしている称名寺ですが、蒙古襲来の時期、執権時宗の時代には亀山天皇の勅願所であり、ゆかりの深い宝物がたくさん残されています。熱田神宮の宝物であった楊貴妃の珠簾が亀山帝の勅で移されて、など。

写真は称名寺の山門上部です。兼好がいた時に称名寺にこの山門があったかどうか。時期的にどうでしょう。

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