2013.8.26 ツイッターより転載…京都/若宮八幡宮・俊成社・新玉津島神社・東福寺・九条通、21日の満月、25日/比企《かぐや》での講演
8月19日
10月19日の都幾川の講演【―比企の二大文化遺産― 《仙覚の万葉集》と《国宝「慈光寺経」》】のパワポの編集に入りました。最初の一枚です。文治元年壇ノ浦の歴史から始めることにしました。
10月19日の都幾川の講演【―比企の二大文化遺産― 《仙覚の万葉集》と《国宝「慈光寺経」》】のパワポの編集。まだ三枚目ですがアップさせて頂きます。今回は良経を深く、ということは『新古今和歌集』をとりあげられるので楽しみ。
8月20日
おはようございます。昨夜資盛さまが明日も37℃と呟かれたのを見てガッカリした京都に向かっています。
新幹線のなかで、持ってきた源氏物語地図を広げて見ています。
懇親会が終わって京都駅に戻ってきました。今日の学会の会場は花園大学。花園院ゆかりの地です。午前の部は失礼してずっと撮りたくてたまらなかった若宮八幡宮に。調べたら俊成様の邸宅が同じ五条だったと知り俊成社と新玉津島神社に回ってから目的の花園大学に行きました。
8月22日
無事に帰宅しました。という言い方が大げさでない今日の新幹線でした。京都駅でホームに立っていられないほどの豪雨・稲光の炸裂の中を発車。熱海・小田原間の豪雨で何度もストップ。30分以上遅れて東京に着いたら落雷で改札の機械が故障とのこと。雷雲が日本列島縦断しているかのようでした。
でも、21日は満月。米原を過ぎた頃、暗い車窓にふっと何かが見えて目を凝らしたら大きなまん丸いお月さま。あ、今日は満月だったと思いだし、しばし見惚れました。
それからもう一ついい事が。朝から東福寺を中心に九条界隈を撮って歩いたのですが、時間が余ったのでふっと考えて東寺に。着いたらなんと弘法さん! ネットで見ていて一度観たいものと思っていたので嬉しかったです。それで境内が賑わって到底じっくり撮る雰囲気でないので買い物三昧でした(笑)
20日に訪ねた京都の若宮八幡宮社です。六波羅密寺に近い五条通りに面しています。もとは源頼義が自邸内に石清水八幡宮を勧進した若宮社で、それで西洞院左女牛八幡宮とも。秀吉の時代などに移転して現在地に。
頼朝がとても崇拝して二度の上洛時にも参拝したのは石清水とここだけ。二度目の時に源光行が会って鎌倉に移住することが決まったよう。それで光行は頼朝に献上する目的で若宮社歌合を勧進したのでした。久保田淳先生の「頼朝と和歌」に詳細があります。
前から訪ねたく思っていたのですが西洞院とか左女牛とか難しく延び延びになっていました。タクシーに乗って道々訊ねたら西洞院はずっと西と言われ、そんなに違う場所に移転させられたのだと感慨。でも自邸内的小さな八幡社を想像していましたので、風格ある立派な構えに認識を改めました。
俊成が五条禅門と呼ばれていた邸宅跡に建つ俊成社。TLでコメダ珈琲店ができたと読んでいたのでそれを頼りに探しました。俊成を愛する地元の方々が建てられたそう。観光マップにはでていません。源氏物語地図でみつけました。
俊成社は烏丸通りに面しています。通りをはさんで新玉津島神社が。俊成が自邸内に歌道の神様を勧進したのが由来。ここで『千載和歌集』が編まれたのでした。都落ちの忠度が訪れたのも。江戸時代には『湖月抄』で知られる北村季吟が宮司だったとか。
新玉津島神社の説明板です。
日曜日に比企の講演が迫っているので京都の疲れを引きずっていられないから、今日は昼寝を決め込んで起きたら夜でした。でもさっぱりしてこれで一安心です。講演用の最後の詰めと京都の写真アップとをのろのろとしていきますね。21日に回って撮った写真は講演のスライド用なのです!
朝ツイートの新玉津島神社で江戸時代に宮司をしていたという北村季吟の『湖月抄』。江戸時代の『源氏物語』の註釈書ですが、ただ註釈を載せるだけでなく本文を全文載せての註釈。現在のように手軽に活字本で読める時代でなかったときは『湖月抄』で読んでいたそう。樋口一葉もそうだったと聞きました。
21日に訪ねたのは東福寺。九条兼実ゆかりの史跡が目的です。以前東福寺をはじめて訪れたのは同聚院が目的でした。東福寺の前身法性寺五大堂は道長の建立で、同聚院の不動明王像だけが今も残っているのだそう。道長も拝したお像と思うと感慨深いです。
8月23日
藤原俊成bot
実は「俊成邸=五条京極」の証拠とされているのは、治承4年ばれんたいんでーの火災なのじゃ。あの火災は「山塊記」などから「高辻北・万里小路西より出火し、綾小路南、万里小路東から五条京極まで焼けた」ことが知れる。
烏丸五条(現・松原)ならこの火災で焼失しえないからのう。
平 資 盛@
平安京の条坊図をGoogle Mapに重ねて遊んでみなはれ。(スマホ対応・GPS機能付き) | 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/osusume/%e5%b9%b3%e5%ae%89%e4%ba%acgooglemap/ …
昨年のツイートからサルベージ(・∀・)
比企かぐやのパワポの編集追加:東福寺で名残りの蓮がちょうどいい構図で咲いていました。それを使って作ったスライドです。
8月24日
おはようございます。九条界隈を歩いていてみつけた南図書館でとったコピー、村井靖彦先生の「東福寺のDNA」を拝読。なぜ九条に、なぜ東福寺が、がわかりました。羅城門が機能しなくなり南都に通じる大和大路の起点が近くの鴨川東堤となり、興福寺・春日社を南都に残した藤原氏の望郷が根底にと。
「今日、大和大路は三条大橋の東あたりを起点とするが、原大和大路は九条坊門末が起点だったのである」←古典を読んでいるとよく宇治へ行くのに法性寺前を通過の描写がありますが、こういうことだったのですね。東福寺になる前の法性寺はそれは広大だったよう。
東福寺から九条通に向かう途中に渡った鴨川。村井先生が書く「鴨川唐橋」がこのあたりにあった?「本邸の北面する九条坊門通を東へ進み、東京極大路を過ぎた先の鴨川にかかっていた」。朱塗りで異国風の橋だったそう。
比企かぐやの講演がいよいよ明日に。先程、準備をして下さっている方からのメールに「夕方かぐやに行ったら、チラシを見て明日きて下さるという東松山市にお住まいの方が場所確認でいらしてました。不特定の地元の方に来て頂けるのは嬉しいです」とありました。私もそう思います。
8月25日
比企に向かっています。源氏物語の尾州家本に関連して万葉集の西本願寺本を調べていて仙覚に突き当たり、ゆかりの小川町を訪ねる途中の駅に「つきのわ」とあるのを見て不思議に思ったのが何年か前。それが今日の講演になるなんて、ご縁って不思議ですね。
比企の帰りの車中です。比企の方がご自分達の歴史だからと声を掛け合って議員さんから町長さんから幼なじみさんからたくさん集まって下さって会場は大混雑。100名弱の方々がいらして下さったそう。やはり比企は熱いです。帰りに「今、比企は輝いている!だね」と言い合ってお別れしてきました。