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2013.8.26 ツイッターより転載…京都/若宮八幡宮・俊成社・新玉津島神社・東福寺・九条通、21日の満月、25日/比企《かぐや》での講演

8月19日
10月19日の都幾川の講演【―比企の二大文化遺産― 《仙覚の万葉集》と《国宝「慈光寺経」》】のパワポの編集に入りました。最初の一枚です。文治元年壇ノ浦の歴史から始めることにしました。

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10月19日の都幾川の講演【―比企の二大文化遺産― 《仙覚の万葉集》と《国宝「慈光寺経」》】のパワポの編集。まだ三枚目ですがアップさせて頂きます。今回は良経を深く、ということは『新古今和歌集』をとりあげられるので楽しみ。

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8月20日
おはようございます。昨夜資盛さまが明日も37℃と呟かれたのを見てガッカリした京都に向かっています。

新幹線のなかで、持ってきた源氏物語地図を広げて見ています。

懇親会が終わって京都駅に戻ってきました。今日の学会の会場は花園大学。花園院ゆかりの地です。午前の部は失礼してずっと撮りたくてたまらなかった若宮八幡宮に。調べたら俊成様の邸宅が同じ五条だったと知り俊成社と新玉津島神社に回ってから目的の花園大学に行きました。

8月22日
無事に帰宅しました。という言い方が大げさでない今日の新幹線でした。京都駅でホームに立っていられないほどの豪雨・稲光の炸裂の中を発車。熱海・小田原間の豪雨で何度もストップ。30分以上遅れて東京に着いたら落雷で改札の機械が故障とのこと。雷雲が日本列島縦断しているかのようでした。

でも、21日は満月。米原を過ぎた頃、暗い車窓にふっと何かが見えて目を凝らしたら大きなまん丸いお月さま。あ、今日は満月だったと思いだし、しばし見惚れました。

それからもう一ついい事が。朝から東福寺を中心に九条界隈を撮って歩いたのですが、時間が余ったのでふっと考えて東寺に。着いたらなんと弘法さん! ネットで見ていて一度観たいものと思っていたので嬉しかったです。それで境内が賑わって到底じっくり撮る雰囲気でないので買い物三昧でした(笑)

20日に訪ねた京都の若宮八幡宮社です。六波羅密寺に近い五条通りに面しています。もとは源頼義が自邸内に石清水八幡宮を勧進した若宮社で、それで西洞院左女牛八幡宮とも。秀吉の時代などに移転して現在地に。

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頼朝がとても崇拝して二度の上洛時にも参拝したのは石清水とここだけ。二度目の時に源光行が会って鎌倉に移住することが決まったよう。それで光行は頼朝に献上する目的で若宮社歌合を勧進したのでした。久保田淳先生の「頼朝と和歌」に詳細があります。

前から訪ねたく思っていたのですが西洞院とか左女牛とか難しく延び延びになっていました。タクシーに乗って道々訊ねたら西洞院はずっと西と言われ、そんなに違う場所に移転させられたのだと感慨。でも自邸内的小さな八幡社を想像していましたので、風格ある立派な構えに認識を改めました。

俊成が五条禅門と呼ばれていた邸宅跡に建つ俊成社。TLでコメダ珈琲店ができたと読んでいたのでそれを頼りに探しました。俊成を愛する地元の方々が建てられたそう。観光マップにはでていません。源氏物語地図でみつけました。

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俊成社は烏丸通りに面しています。通りをはさんで新玉津島神社が。俊成が自邸内に歌道の神様を勧進したのが由来。ここで『千載和歌集』が編まれたのでした。都落ちの忠度が訪れたのも。江戸時代には『湖月抄』で知られる北村季吟が宮司だったとか。

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新玉津島神社の説明板です。

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日曜日に比企の講演が迫っているので京都の疲れを引きずっていられないから、今日は昼寝を決め込んで起きたら夜でした。でもさっぱりしてこれで一安心です。講演用の最後の詰めと京都の写真アップとをのろのろとしていきますね。21日に回って撮った写真は講演のスライド用なのです!

朝ツイートの新玉津島神社で江戸時代に宮司をしていたという北村季吟の『湖月抄』。江戸時代の『源氏物語』の註釈書ですが、ただ註釈を載せるだけでなく本文を全文載せての註釈。現在のように手軽に活字本で読める時代でなかったときは『湖月抄』で読んでいたそう。樋口一葉もそうだったと聞きました。

21日に訪ねたのは東福寺。九条兼実ゆかりの史跡が目的です。以前東福寺をはじめて訪れたのは同聚院が目的でした。東福寺の前身法性寺五大堂は道長の建立で、同聚院の不動明王像だけが今も残っているのだそう。道長も拝したお像と思うと感慨深いです。

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8月23日
藤原俊成bot‏
実は「俊成邸=五条京極」の証拠とされているのは、治承4年ばれんたいんでーの火災なのじゃ。あの火災は「山塊記」などから「高辻北・万里小路西より出火し、綾小路南、万里小路東から五条京極まで焼けた」ことが知れる。
烏丸五条(現・松原)ならこの火災で焼失しえないからのう。

平 資 盛‏@
平安京の条坊図をGoogle Mapに重ねて遊んでみなはれ。(スマホ対応・GPS機能付き) | 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/osusume/%e5%b9%b3%e5%ae%89%e4%ba%acgooglemap/
昨年のツイートからサルベージ(・∀・)

比企かぐやのパワポの編集追加:東福寺で名残りの蓮がちょうどいい構図で咲いていました。それを使って作ったスライドです。

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8月24日
おはようございます。九条界隈を歩いていてみつけた南図書館でとったコピー、村井靖彦先生の「東福寺のDNA」を拝読。なぜ九条に、なぜ東福寺が、がわかりました。羅城門が機能しなくなり南都に通じる大和大路の起点が近くの鴨川東堤となり、興福寺・春日社を南都に残した藤原氏の望郷が根底にと。

「今日、大和大路は三条大橋の東あたりを起点とするが、原大和大路は九条坊門末が起点だったのである」←古典を読んでいるとよく宇治へ行くのに法性寺前を通過の描写がありますが、こういうことだったのですね。東福寺になる前の法性寺はそれは広大だったよう。

東福寺から九条通に向かう途中に渡った鴨川。村井先生が書く「鴨川唐橋」がこのあたりにあった?「本邸の北面する九条坊門通を東へ進み、東京極大路を過ぎた先の鴨川にかかっていた」。朱塗りで異国風の橋だったそう。

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比企かぐやの講演がいよいよ明日に。先程、準備をして下さっている方からのメールに「夕方かぐやに行ったら、チラシを見て明日きて下さるという東松山市にお住まいの方が場所確認でいらしてました。不特定の地元の方に来て頂けるのは嬉しいです」とありました。私もそう思います。

8月25日
比企に向かっています。源氏物語の尾州家本に関連して万葉集の西本願寺本を調べていて仙覚に突き当たり、ゆかりの小川町を訪ねる途中の駅に「つきのわ」とあるのを見て不思議に思ったのが何年か前。それが今日の講演になるなんて、ご縁って不思議ですね。

比企の帰りの車中です。比企の方がご自分達の歴史だからと声を掛け合って議員さんから町長さんから幼なじみさんからたくさん集まって下さって会場は大混雑。100名弱の方々がいらして下さったそう。やはり比企は熱いです。帰りに「今、比企は輝いている!だね」と言い合ってお別れしてきました。

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2013.8.24 ツイッターより転載…明日に迫ってきてしまいましたが、比企の古民家ギャラリー「かぐや」での講演のチラシです。

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8月25日(日)の比企の古民家ギャラリー「かぐや」での講演《あのとき、比企は輝いていた!》のチラシをご紹介させていただきます。企画したときにはずっと先と思っていたら、もう明日に迫ってきました。

仙覚さんが『万葉集註釈』を成した小川町に行くのに東武東上線に乗っていると、「つきのわ」という駅名があり、?、と目を留めたのが最初でした。「月輪」といえば九条兼実。どうしてこんなところに?と謎でした。しかも、帰って調べると、九条兼実を祀る月輪神社まであるのです。

古くからお住まいの方には旧知の歴史も、新しく移り住んだ方が増えて、さらに「つきのわ」という新しい駅までできても、歴史そのものとの縁は薄らいでしまっています。比企の方とそんなことを話しているうちに、ならば九条兼実にまつわる比企の話の講演をということになりました。

これは、比企の方々が、ご自分たちの土地の歴史をもっと理解して大切に今後も伝えようという意気込みで、ご自分たちの手で立ちあげられた企画です。タイトルの「あのとき、比企は輝いていた!」も、チラシの結句の「語り継ぐのは 私達」も、その方達のご自身の言葉です。

素敵だな、と思いました。学術的にだけ傾いて語っていた私には到底できない発想。感動しましたし、比企はやはりさすが比企、の思いがしたのでした。

日時: 8月25日 14:00~
場所: 古民家ギャラリー《かぐや》
        埼玉県比企郡滑川町福田 1560
        0493-63-0012
        東武東上線森林公園駅 北口「立正大学行き」バス
                        3つ目の「観音前」下車徒歩6分
入場料: 1,000円 お茶・お菓子付
問合せ: 080-2393-7001(山本)
       090-4830-4026(井上)
http://g-kaguya.com/

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2013.8.17 ツイッターより転載…比企の古民家ギャラリー「かぐや」での講演用パワポの編集が終わりました!→引き続き、都幾川の写真展と講演の準備にかかっています。

8月11日
やっと比企かぐやの講演用パワポの編集が流れるように動いてきました。間に合わないといけないからと無理にはじめても心残りがある間はダメで、昨夜玄覚の資料をとことん追及して納得したらパワポに専念できるようになりました!

比企かぐやの講演用パワポ。昨夜は滑川町月輪にある九条兼実ゆかりの神社と寺院を終了。何故この地に?と謎で、新編武蔵風土記稿でも荘園があったのかもとしか。息女が嫁いできた史実もみつかりません。今日はこれから建久七年のスライドを作ります。

写真は滑川町にある福正寺勢至堂の案内板です。赤の「↓」を付した行に「創建は建久七年」とあります。建久七年といえば兼実が失脚した年。まさにその年の創建ということはよほどの縁者がこの地にいたとしか思えないのですが、史実的にはほんとうに何も残っていません。

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窓の外がひっきりなしに光、ずっと雷が轟いています。大粒の雨が降りだしたようです。

凄まじい雷鳴と雷雲の空が去って外に出てきました。大気がひんやりとして心地よかったです。それにしても凄まじい雷鳴でした。窓から映画を見るように何本も太い稲光が見えるので見ていました。一回、あ、これは落ちた!と思ったほどの炸裂。京王線が落雷で停まっているようですが、あのときのかも。

8月12日
おはようございます。比企かぐや講演用パワポの編集。昨夜は建久七年兼実失脚後の年譜を作ったら、『新古今和歌集』の時代到来と、そこに比企の乱が。仙覚・竹御所が生まれたのはこういう時代だったのですね。

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今、比企のある方からお電話。仙覚さんにゆかりのある方です。25日の比企かぐやの講演にいらして下さるそう。鎌倉の妙本寺境内にある比企一族の墓を建てられた方とご一緒に。嬉しいのでツイートさせていただきました。

平家納経と並ぶ日本三大装飾経の一つ、国宝「慈光寺経」を説明するスライドを作りました。慈光寺経は平家納経に比べるとほとんど知られていませんが、埼玉県の比企郡都幾川の慈光寺にあり、九条家の方々により制作されました。

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凄まじい雷。稲光も連続です。

スマホで雷を撮るとこんなふうになります。これは光が横の線になって写っていますが、これと同じ太い柱状の縦の線に写ったのもありました。チェックしていて失敗したのだと思い、縦の柱状のコマを全部削除。その後、ツイッターで、それがスマホで稲光を捉えた写真と知りショックです。

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8月13日
岩波文庫の新古金和歌集を買いに吉祥寺に。パワポで慈光寺経の解説スライドを作るため。慈光寺経は兼実息の後京極良経の急逝を悼んで制作されました。新古金オタクに良経は既知の人でも一般には馴染みがない。何が一番身近かと考えて岩波の仮名序をご紹介しようと。手持ちのは書き込みがいっぱいで。

PSに繋いでいたプリンターが壊れて逐次校正ができずに不自由していたのをやっと新しく購入した機械の接続終了。はじめて印刷してみたのですが快調。この間スキャンもできずいろいろ滞っていました。これから再始動です。

8月14日
完全ではないけれど昨夜比企かぐやの講演用パワポの編集を着地させたのでこれで一安心。最後の詰めは大幅に変更になるにしてもこれで間に合わないという危機感からは脱出しました。今朝はもうその大幅な変更に思考がフル回転。このまま10月の都幾川の講演用にかかる気に。連続講演のメリットです。

比企かぐやの講演は【あのとき、比企は輝いていた!―九条兼実から仙覚まで―】。都幾川正法寺の講演は【比企の二大文化遺産 《仙覚の万葉集》と《国宝「慈光寺経」》】です。できれば両方繋げて聴いて頂きたいくらい。知れば知るほど「比企」は輝いています!

二つの講演。鎌倉や知り合いの皆様にご案内したいけれど、「たどりつく自信のある方はいらしてください」と付記しなければならないくらいに比企の地は馴染みがありません。だから、一層、比企の方の熱意が嬉しい!

8月15日
おはようございます。終戦記念日の朝です。昨日から比企かぐやの講演用パワポの編集が大詰めに入って集中しています。結びの部分を手直ししているのですが、仙覚さんの人生をずっとたどってきてその晩年。仙覚さんの成した万葉集研究の意義深さに打たれています。パワポは一篇の小説を書くよう。

仙覚は寛元四年に将軍頼経に命じられて万葉集の校訂に取り掛かりました。それが仙覚の万葉学者の出発。頼経所持の由緒正しい写本を与えられての校訂だったから。何故頼経が?を今まで考えたことなかったのですが、ここに九条家の理由があったのでした。即ち九条家には万葉集が必要だったのでした。

九条家は兼実からはじまります。ということは摂関家の知的遺産は全部近衛家に伝わって兼実のもとにないということ。摂関家の威厳を保つために兼実は懸命に父忠通の本を書写します。そういう中に万葉集があった。兼実所持の万葉集を道家が継ぎ、その子頼経は万葉集の位置をそう捉えていたのですね。

今までただ単に頼経が仙覚に万葉集の校訂を命じたとだけ把握していたのですが、背景には深い事情がありました。小川康彦先生『万葉学史の研究』を再読して気がついたことです。深まったころに初期のころ読んだ資料を再読するって重要ですね。

先程のツイ―トの続き。それにしても頼経は3歳で下向しているのに道家の考え方をしっかり継承しているのは、余程の識者を道家は一緒に下向させて頼経を教育したのですね。実時の漢籍の師清原教隆の下向もそれだったのかと今にして思います。

8月16日
比企かぐやの講演用パワポの編集は校正も含めてほぼ終了。思ったのは、とても残念なことだけれど、昨夜の集中力が今日はもう拡散して普通に戻っていること。昨夜はこれでもう日常に戻ることなく精神の厳しさが持続すると思ったのに(笑)。悟りも一回悟って終わりというのでないというから同じですね。

仙覚さんの生涯の最後のスライドです。小川靖彦先生が自筆書状を探りあてられて、その内容が鎌倉の北条実時に夏梨を一袋贈ったというもの。二人の親しい関係が伺えます。小川町図書館に展示されていた写真を使いました。素晴らしく立派な筆跡です。

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書状は読み下すと「夏梨をことさらに折りたる西枝を進上」となる文面です。小川先生はここに文学的遊び心、すなわち仙覚の文学的素養の深さがあると書かれます。それは「折西枝」が『新撰朗詠集』の大江匡衡の詩序を踏まえて言い添えたものと。筆跡の清々しさとあいまって素敵な仙覚さんです!

8月17日
都幾川のうどん屋さん「やすらぎの家」。季節限定の冷汁つけうどんが素晴らしくおいしく何度も行きたいくらいなのですが、遠くて。100年以上も前に建てられた風格ある古民家の2Fがギャラリーになっていて、10月にここで写真展を開きます。
http://www.town.tokigawa.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=11571

比企の方からメールで比企かぐやの講演を比企の方が喜んで下さってアピールして下さっているから入りきらなかったらどうする?って。そんなことになったら主催者さんが大変ですが、私はそれでヒントを得てパワポに比企遠宗館跡のスライドを加えました。

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昨夜ツイートした都幾川の写真展の件。昨年10月に都幾川のささら祭を撮りに行ったときにやすらぎの家の2Fがギャラリーと知り予約したもの。その頃は時間の余裕があったので楽観していましたが10月から月二回のカルチャーの講師。搬入搬出をいつにしようと体力温存を考えて思案中です。

比企では各地にささら祭があります。比叡山坂本の由来とか。さすが関東最大の天台宗寺院だった慈光寺文化の地。写真は昨年の都幾川の獅子舞。獅子がかしらについた白く長い房を降りみだして踊るのは勇壮そのものです。今年は13日に行われるようです。

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忘備録として:今朝比企の方からのお電話で、もと宮鼻村にあったという井草の大聖寺はたしかに宮鼻にあって、今は小さな祠か何かとして残っていてお薬師さんを祀っているそう。宮鼻は今の東松山市の高坂で、たしかに岩殿観音に近いです。比企の土地勘が今一なのでお訊ねしてました。

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2013.8.10 ツイッターから転載…「比企万葉幻想―仙覚は、誰か」の原稿に着手。そして、25日の比企の古民家ギャラリーかぐやでの講演用パワポの編集にも

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8月3日
図書館に来ています。先日集まった方々の熱気に煽られて突然私も調べる生活に突入です。今まで概略で読んでいた事の出典を見る楽しみ。醍醐味ですね。写真は広尾の都立図書館から見た空。

8月4日
すっかり気分が「比企万葉幻想―仙覚は、誰か」になっています。地元だけでなく近隣の市の図書館を使えるメリットを今回痛感しました。今まで国文学関連や美術の大型本が揃うA市の図書館で助かっていたのに、今回風土記など資料を探したらB市の方が充実。市によってこんなに違うのだと驚いています。

横浜に行くのですが、終点でなくなった渋谷駅の東横線に乗るのが嫌でなんとか他の方法はないかと考えも、湘南ラインのホームは遠いし、結局諦めるしかないですね。先程東北で大きな地震がありました。被害のないことを祈りつつ。

横浜の帰りです。帰りは迷う事なく東横線に。よみうりカルチャー横浜で打合せをして、1月から月一回で3月まで計3回、講座を持たせて頂く事になりました。

8月5日
おはようございます。過ごしやすい朝なのでつい原稿にかかって今まで。「比企万葉幻想―仙覚は、誰か」。原稿用紙にして8枚まで進み、ようやくこれがはじめにに相当する部分という自覚が芽生え、次の章は比企の乱?などと思いが進んできました。

午後から都立図書館に出て地元の図書館で入手できなかった分の資料をコピー。今帰りました。取り急ぎ書いておきますね。大変なことに気づいてしまったかも。もとより確証のつかめるものではありませんが、比企万葉幻想の原稿の最後の一文になるかも、くらいのこと。興奮しました。

8月6日
ようやく呑み込めてきました。比企氏には比企尼系と能員系とがあり、仙覚さんは能員系。地理的にもはっきり分かれて、比企尼系は、地図上で比企郡を上下に分けると上。能員系は下。先日も理解したはずだけど、風土記稿で事情がわかってやっと呑み込めました。

お付き合いさせて頂いている比企氏ゆかりの方が比企尼系でいられるから、どうしても引きずられて能員系(金剛寺系)を調べる気持ちにならずにいたのですが、この度風土記稿で見極めがついて、今度こそ明確な主題意識をもって進めそうです。

「比企万葉幻想」の原稿にすっかり嵌りました。仙覚の原稿なら今までの蓄積で余裕で書けると思っていたのに始めたら、まったく違う切り口からの世界が広がって、今までの知識を並べようとすると途端につまらなくなって熱が冷めてしまう。余程私は知らない世界に切り込むのが好きなんだなあと。

痕跡はところどころに残っていてただそれが繋がれていないか伝承で片づけられてしまっている。学問は想像が許されないからと手がつけられなくて放置されている歴史の痕跡。それは正しいけれど、人の道としてどうかなあと疑問。なぜって、研究者が教えてくれなければ一般はその歴史を享受できないから。

8月7日
新月は物事を新たにはじめる時ということでFBページのカバー写真を替えました。鉄砲百合が大量に開いて豪華だったときの写真です。名前に入っている花を使うのはためらわれていたのですがこの際と。

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新月の日にもうひとつ。8月25日の比企かぐやでの講演「あのとき、比企は輝いていた!」のためのパワポの編集に着手しました。最初の一枚。タイトルです。変更するかもしれませんが、取り急ぎ。

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8月8日
起きたときに、あっと閃いて。昨夜アップの講演のスライド、タイトルをこのようにしました。パワポは考えるツールといいますが、ほんとうに編集に着手すると思考が絞られます。

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図書館にきています。今日は資料ではなく絵巻を探しに。それぞれに充実した図書館を機に応じ使い分けさせて頂けるのは助かります。

緊急地震速報にはほんとうにどうなることかと思いましたが、今の日本はいつ何が起こってもおかしくない時代。そういう中、比企とか仙覚とかいっているのは呑気に見えるかもしれませんが、仙覚も源氏物語の光行同様時代を必死に生き抜いた人。その二人を歴史上に残すのが私の使命と私も必死です。

8月9日
昨日は新しく入手した比企氏系図や地誌の資料を年表に落とす作業をして就寝。年代としては整合性つくものの、この錯綜した意図的としか思えない混乱はと目を白黒。何しろ仙覚さんは比企氏残党ですから身分を隠すのに躍起の系図です。でも持っていた系図の先が書かれている系図の出現は興奮ものです。

パワポの編集に専念するつもりが、集めてあった玄覚の資料を見出したら今まで。玄覚は仙覚の『万葉集註釈』奥書にある人で、仙覚の弟子といわれる人物。鎌倉の比企谷で仙覚自筆本の『万葉集註釈』を書写しています。二人の関係を年譜に落としてさらに比企系図を加味したら、面白くなってきました。

系図は地誌と重ねる事で見えてくるものがある。既に皆様ご存じの事かもしれませんが私には新鮮。系図が時間なら、地誌は空間。人は時間の中で空間を移動するから、系図だけではどうにも揺らいであやふやでしかなかったのを、土地を加味したら3Dで座標軸が定まりました。

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2013.8.2 ツイッターから転載…資料を読んで触発されて、「比企万葉幻想―仙覚は、誰か」の原稿を書きはじめました!

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8月1日
日付が変って八月になりました。私には肝を据えてかからなければならない日々のはじまりです。覚悟をFBページにまとめました。http://www.facebook.com/odayuriko.f

覚悟ついでに、書こうと思っている原稿のタイトル、「比企万葉幻想―仙覚は誰か」を、「比企万葉幻想―仙覚は、誰か」に替えました。ただ「、」を一つ入れただけですが(笑)。6月10日に書こうと決めて、以来、私の中で流れていた時間です。

今日は、先日比企の方々と畠山氏の方との歓談で頂いた情報をもとに図書館に籠って資料の確認をしました。調べる生活が戻ってきました。《源氏物語と鎌倉》に籠って10年。その過程で《比企と仙覚》が浮上。これから比企の問題に「心ゆくまで」堪能しつつ隠ります。

今日手にした資料は『日本荘園史大辞典』『姓氏家系大辞典』『日本地名大辞典』『新編武蔵風土記稿』。今まで漠然と国文学的観点から比企氏・比企一帯を見ていましたが、歴史の先生のご教示でこういう視野が開かれました。目から鱗!

皇嘉門院聖子は武蔵に所領をもっていて、それが船木田荘と稲毛荘。船木田荘は今の八王子市・日野市。稲毛荘は川崎。それが九条兼実の長子良通に譲与され、九条家領に。武蔵国における九条家領はこの二件だけでした。

8月2日
少しのつもりで図書館でコピーした資料を見始めたら面白くて止まらない。萬葉集註釈をなした仙覚がいた地、増尾に、宗尊親王の名前が出てくる。或いは守邦親王かもとか。数年前初めてこの記載を読んだ時は違和感しかなかったのですが、仙覚の事跡を知った今は有り得るかもと。伝承にしても、ですね。

守邦親王は鎌倉幕府最後の将軍で、宗尊親王の曾孫だから、仙覚繋がりでこの地に縁があってもおかしくない。ウィキでは幕府の年に鎌倉で逝去となっていますが、大塚の神社の由緒には慈光寺に近いどこかに逃れてこの地に神社を勧請した。それが八幡神社とか。伝承にはなにかしら意味があるはず。

『新編武蔵風土記稿』にあった宗尊親王の記載が終日心を離れず、夜になって、そうだ!ここから始めようと閃いて始めました。「比企万葉幻想ー仙覚は、誰か」。原稿はいつも思考の決着がついてからと思っているとなかなか先に進みません。それで最初の一行が浮かんだ時に見きり発車してきましたが、今度もそうなりそうです。

FBページに「比企万葉幻想―仙覚は、誰か」を書き始めたことを記しました!http://www.facebook.com/odayuriko.f

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