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2013.10.16 ツイッターから…大東文化大学オープンカレッジ「仙覚律師の研究と生涯」、都幾川「比企の二大文化遺産 仙覚の万葉集と国宝慈光寺経」のパワポの編集

10月9日
疲労が溜まってほんとうは徹夜して作業しなければならないのに三日連続で仮寝のつもりのダウン。二日間朝まで寝てしまい今夜もと思ったらこんな時間にすっきり目が覚めました。大東文化大学オープンカレッジ用のパワポの編集、再開します。昨日の撮影ですべて写真が揃ったから。今パワポを開いた処です。

10月10日
中断していたパワポの編集。仙覚さんの生涯編に入っていて、今回は竹御所との絡みを重点におくから、竹御所の生涯と並行して進めます。その最初の一枚。二人とも同じ年の生まれで、それが建仁三年比企の乱の年、というスライドです。

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「仙覚律師の研究と生涯」用のパワポの編集が進んでいます。研究篇が終わって中断し、再開して生涯篇にかかっているのですが、ここにきてやはり写本の問題に。写本の歴史が関係者の歴史を浮上させてくれます。系図を作りました。

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パワポの編集をしていると思わぬ事に気がつきます。これは永福寺現地説明会の写真に「頼経に供奉して親行も訪れた」コメントをつけたスライド。二回目ですが、今回は仙覚がテーマなので「この頃仙覚は新釈迦堂にいた」事に気づきコメントを加えました。

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パワポの編集。「建長七年七月七日 源親行『河内本源氏物語』完成」のスライドまできました!《七夕は鎌倉の源氏物語の日》宣言の根拠です

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10月11日
講演「仙覚律師の研究と生涯」用パワポの編集、終わりました。仙覚の生涯をたどってとても長い小説を読み終えたかのような気分です。今回は大学での講座なのでとても細密に仙覚の事跡を入れました。誰もまだやっていない仕事かも。

仕えていた将軍頼経が宮騒動で帰洛し、庇護者を失って万葉集歌枕の実地踏査の旅に出た仙覚。その足で京に行き、頼経と再会し、おそらくその仲介で後嵯峨院に万葉集を献上。京で真観らと交わりしばらく滞在したよう。いつ鎌倉に戻ったか、というのが下のスライドです。

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単純に事跡だけ見ていてもわからないことが、パワポの編集をすると見えてくるものがある。後嵯峨院に万葉集を献上した仙覚律師奏覧状。唐突な感があったけれど頼経が間に立ったと考えると不自然がない。宗尊親王は後嵯峨院皇子だから、それで鎌倉に戻った時、親王にも万葉集を献上したのだと。

今朝は5時頃まで徹夜して寝ようと思ったらお電話。内覧会の梯子のお誘いにとてもそれは無理と。その後ツイッターで『尾州家河内本源氏物語』全巻一挙公開を知り行かなくてはと鼓舞され、夜よみうりカルチャーから1月からの講座の募集の件でお電話。鎌倉武士と源氏物語でまた奮起。そんな一日でした。

10月13日
オープンキャンパス「仙覚律師の研究と生涯」。資料作成が終わり、明日投函したら、いよいよ残すは19日の都幾川の講演、「比企の二大文化 ~仙覚の万葉集と国宝慈光寺経~」用パワポの編集だけ。乗り切れるかパニックを起こしそうだった10月の予定。一つ一つクリアしてやっとここまできました。

徹夜してこんな時間になってしまいました。もう昨日になりますが、昨日は「仙覚律師の研究と生涯」のレジュメを送付。パワポデータを入れたUSBも同封しました。大学で作動すればあとは行くだけで楽になります。その後1月に募集して下さるカルチャーのチラシ用原稿を書いて送信。そんな一日でした。

10月14日
おはようございます。今日から19日の都幾川の講演用パワポの編集に入ります。夏ごろからずっと気にかけていて他の諸々が終わったらと思っているうちについに今週の土曜日に日が迫ってきています。都幾川では会場の設置や車の手配が進んでいます。頑張ります。

「比企の二大文化遺産 《仙覚の万葉集》と《国宝「慈光寺経」》」用のパワポの編集をしています。最初の切口をみつけるのが大変だからと思って夏にそれだけは道筋をつけておいたのに進まず、仕切り直し。結局また紫式部の『源氏物語』からはじめることにしました。

これは、慈光寺経は三大装飾経だから平家納経からはじまってと考えて、それなら平家納経は国宝源氏物語絵巻の影響を受けているのだから白河院の時代からはじまってと考えていったら、結局紫式部になってしまったという経緯です。パワポは絵として華やかにまとめようという意識は明確にもっています。

パワポの編集、乗ってきました。ずっと同じ歴史なのだけれど講演の度にテーマが違うからその都度新しい視点が見えて楽しい。今回は慈光寺経がテーマなのではじめて平家納経とともに久能寺経にも言及しました。

日本三大装飾経。古い順に、久能寺経は待賢門院璋子のために西行が勧進。平家納経は清盛が厳島神社に奉納。慈光寺経は後京極良経を悼んで九条家が制作。と、そうそうたる方々の制作で華やかな陰に深い思いがあります。国宝「源氏物語絵巻」に連なる華麗なる装飾経文化です。

10月15日
お早うございます。都幾川の講演は慈光寺経の由来から後京極良経が重要人物なのですが一般の方にあまり専門的な名前が並んでもと思って定家から始めていました。でもやはり俊成を避けて通れませんでした。「源氏見ざる歌詠みは遺恨事なり」。

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今都幾川の方からのメールで、当日比企に詳しいの方と安達氏末裔の方のセッションを入れるのはどうでしょうと。もちろん大賛成。都幾川に安達氏末裔の方が住んでいらっしゃるんです。武士ってこうなのだろうなあといったどっしりと風格ある方です。セッション、実現するといいなあ。

白鳥の湖、観たいな。少しはこんな余裕、欲しいな、と。

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都幾川の講演では夏のEXPOで知り合った青年が司会をして下さいます。彼は劇団を主宰していて劇の新しい主人公を探してるというので仙覚さんを勧めました。それから彼は都幾川に嵌まってしまって頻繁に訪ねていられるよう。セッションは彼のアイデアです。何かの壁の打開になるといいです。

窓に台風の強い雨風。そんな中パワポの編集をしていました。でも眠くなりましたので今日はこれまで。頼経が2歳で鎌倉将軍として下向したところまできました。このあたりは比企かぐやの講演と重複。これから寺泊など新規の写真を入れていきます。

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10月16日
台風の被害に遭われた方に心痛みます。こちらは思ったほどでなく通過したのに。パワポの編集は前半の慈光寺経が終わって後半の仙覚にと昨夜呑気にツイートして寝ましたが、考えたら後半はその仙覚が慈光寺経に絡んでくる。それを編集するのははじめてなので時間的に油断できないと今思ったところです。

都幾川の講演「比企の二大遺産 仙覚の万葉集と国宝慈光寺経」用パワポの編集、ひとまずピリオド。何かあったら大変とHDDとUSBとさらにバッグに入れて持ち歩く用のUSBに保存。何年か前からUSBを携行して出かけるようになりました。長い歴史をたどっているから毎日映画を観ているようです。

「長い歴史」の補足:今回は紫式部が『源氏物語』を書いた時から、平家文化の時代を経て、源家三代の時代の鎌倉、比企の乱・承久の乱を経て、摂家将軍頼経の時代、皇族将軍宗尊親王の時代、そして、尾州家本源氏物語・西本願寺本万葉集が流出して現在の所蔵先に収まるまでです。

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2013.10.12 ツイッターから…都幾川の慈光寺を訪ねたり、来年の七月七日に建長寺で《七夕は鎌倉の源氏物語の日宣言》の講演をさせて頂くことが決まったことなど

10月5日
今日は新月。はじまりの日。と思っていたら、今携帯にメッセージが入っていて、来年鎌倉で《鎌倉の源氏物語》についてお話をさせて頂くことができそう。やっと念願の「七夕は鎌倉の源氏物語の日」のお話が鎌倉の皆様に通じます。あり得ない幸せが続いています。

美輪様の名言
悪口を言われたら柳に風と受け流す。自分が清らかで優しければ「念返し」で悪い念は相手に戻る。

珍しく下のようなRTをさせて頂きました。今の私にぐっとくる言葉だったから。いいことばかりツイートしてと思われているかもしれませんが、いいことの裏にはこういうことが控えています。私もあえて心強くこの思いでもってここ数日を過ごしていました。そうしたら今日のメッセージ。励まされました。

10月6日
昨日ツイートさせて頂いた《鎌倉の源氏物語》の講演の件。個人の夢がぽ~んと跳ね返ってきていきなりの現実に。最近フォローして頂いた方には何の事?かもしれませんので補足を。鎌倉で作られた「河内本源氏物語」が完成したのは「建長7年7月7日」。桐壺巻で、光源氏の両親の桐壺帝と桐壺更衣が玄宗皇帝と楊貴妃に譬えられ、その玄宗皇帝と楊貴妃が愛を囁いたのが七夕の日。それにこだわっての奥書です。

ようやく明日の『吾妻鏡』発表担当の準備を終わりました。都幾川の講演のことや、急に飛び出した鎌倉の源氏物語のことなどで気持ちがざわついて、訓読の練習に身が入らなくて困りました。ダメだなあと思います。まだまだ修練が足りません。

10月7日
昨夜は吾妻鏡の発表準備終了後、久々にパワポの編集を。仙覚さんの生涯のスライド作成にとりかかってしばし夜の更けるのも忘れて没頭してしまいました。なので寝不足。でも、やはり制作は心ゆたかになります。楽しくて。

吾妻鏡の発表、終わりました。今日の条に後白河院宛の頼朝の書状があって、学界では守護地頭に関する問題として大変重要な箇所だったそう。この時代まだ守護はなく地頭だけ。それは義経を捕まえる為に各地に武士を配したのでした。が、その武士達の横領が目に余るものになり、停止を朝廷に申し出た書状です。

徳大寺実定からの訴えでそれを知った頼朝が、大いに驚き慌てて一生懸命書いたことがわかる書状です。私が忙しいのをご存じの講師の先生が、私に任せてはおけないとばかりに率先して解説して下さって無事に終了しました。そんな大変な箇所だったとは気付かず伺って初めて知って愕然の今日でした(笑)

結果として地頭は廃止され、国地頭がゆくゆく守護になるのですが、文治二年のこの時はまだ守護という名称はなかったそう。吾妻鏡の編纂は後年だから自然に使ってしまったのでしょうという事でした。守護地頭と一緒に習ったから、てつきり同時に存在していたとばかり思っていました。

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後徳大寺左大臣がんばってるー (´▽`*)

10月8日
おはようございます。寝不足と諸々の所用の疲れで昨夜は軽く横になったらそのまま。お蔭でこんなに早く起きてしまいました。いろいろ親身になって下さる方の温かさに励まされた昨日。気を取り直して心機一転、今日から別人格のつもりで頑張ります(なんか大上段…笑)。

パワポの編集、進んでいます。

打てば響く、ツーといえばカー、って案外重要ですね。今、今日の行動の事である方にメッセージを送信したら、ほんとうに打てば響くのタイミングでお気をつけてのお返事。それだけで心が明るくなりました。

撮りたい場所ができて機をみていて何度ももう諦めるしかないと思ったのですが、今朝起きたら突然、今日だ! となって急遽支度して出てきました。パワポの編集に使いたい写真です。天気はいいし、気分は上々。でも疲れが溜まっているらしくつい乗り過ごしそうに。危なかった。今日一日心して動きます。

古い瓦が。僧坊跡?

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これはたしかな僧坊跡です。

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今日は慈光寺様にご挨拶に伺いました。鎌倉時代の慈光寺は関東最大の天台宗寺院で、僧坊が75個もあったそう。山道を下っていると、ここがそう、あ、ここも、と所どころに平場がありました。そして山岳寺院慈光寺はこんな山奥にあります。

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慈光寺参道の途中にある青石の板碑群。大きい事で有名です。

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10月9日
昨日慈光寺様から歩いて山をおりてきたので今朝は骨がボキボキ。やっと少し軽く動けるようになってきました。でもそのお蔭で今まで車で通過してしまっていた釈迦堂跡や青石の板碑群の写真を撮れました。やっと撮れた!とほっとしています。

昨日の写真1.国宝「慈光寺経」の中の《法華経信解品(しんげぼん)》。国宝慈光寺経を都幾川では陶板にし、いろいろな寺院に分散して飾っています。慈光寺様本堂にはこの信解品。後鳥羽院中宮宜秋門院が担当されての制作です。

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昨日の写真2.国宝の三大装飾経はこの慈光寺経と、平家納経、久能寺経です。慈光寺様本堂に、田中親美様複製の久能寺経が飾られていました。陶板かどうかわかりませんが。

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昨日の写真3.慈光寺を出てすぐ見える目の前の光景。山また山の連なり、素敵です。山岳寺院として修行されていた方々はこういう下界とは一線を画した別世界で暮らしていたのですね。

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昨日の写真4.参道を下りたところは県道の宿という交差点。右端の建物が19日の講演を企画して下さっている寧々房さん。慈光寺は奥の山の上です。

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昨日の写真5.観音様の上に虹がかかりました。ほんとうは虹ではなく、夕陽にかかっている暈の一部ですが。@大梅寺

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告知させて頂きます。来年の七月七日、七夕の日に、鎌倉の建長寺様禅研究会臨時例会で、【七夕は鎌倉の源氏物語の日宣言】をさせて頂きます。これは私個人の思いでなく、鎌倉に『源氏物語』をもたらした源光行、「河内本源氏物語」を完成させた親行の信念として、一緒に祝っていただけたら嬉しいです。

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2013.10.2  くっきりと綺麗な虹がでました

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今日の虹は鮮やかでした。くっきりと一色一色が際立って。アップで撮ってみました。

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2013.10.1 都幾川の写真展の設営に行って参りました。無事に終わって、明日から開催です→追記:都幾川について考えました

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ツイッターから転載:
1.やすらぎの家、到着です。

2.写真展の設営が無事に終わり、帰りの車内です。写真は都幾川。澄んだ水の色がほんとうに信じられないほど綺麗。ここは異郷です。こういうところで写真展を行わせて頂く不思議なご縁を感じます。

3.写真展はパネルを金具に吊り下げるだけなので簡単ですが、19日の講演にいらして下さる方が、奥さまがその日無理で、写真展だけでも観たいとおっしゃられるからといらして手伝って下さいましたので、とても助かりました。

4.会場の写真をもう一枚。企画して下さっている寧々房さんの陶器の行灯を飾りました。その後講演会場を提供して下さる正法寺様に。鎌倉のある方がよろしく頼むとお電話して下さったそうで、足が震えて中風になったよと和尚様がご冗談を。話が弾みました。

5.写真展の設置に行った都幾川は慈光寺の南。山岳寺院慈光寺は山頂にあり、北側をおりるとそこが小川町。そもそも都幾川に行ったきっかけは仙覚さんが出家した寺院慈光寺という事でした。でも今日気づきました。都幾川は仙覚さんの慈光寺とは別と。慈光寺、小川町、都幾川、それぞれに意味があります。

6.どうしてこういうことになったか考えたのですが、慈光寺を訪ねようとして検索すると都幾川から登る案内がでるんです。それで慈光寺を訪ねて満足して帰ったのはいいのですが、仙覚さんの足跡をたどる意味では北側から登攀しなければならないのに、それにやっと気づいたのでした。

講演を企画して下さっている寧々房・澤井かや様がブログに書いて下さいました。http://blogs.yahoo.co.jp/kayasaawai/37348724.html

追記:10月2日

10月2日
昨日都幾川の正法寺様でのこと。和尚様に送って頂きながら外に出て振り返ると、玄関の軒下に「看脚下」と。和尚様にどういう意味ですかとお訊ねすると、看るは物事の本質まで見ることだと。看病の看るも、ただ症状を見るのでなく、根源の病気を突きとめる見方の看るでしょと。深く納得したのでした。

引き続き都幾川について考えています。ひと括りに比企と言ってきましたが、昨日訪ねた都幾川は小川町とどこか違う。何だろうと考えていて今日出した結論。仙覚にとって小川町は人と暮らす日常の場。都幾川は学問に専念する非日常。それが空気の違いとなって感じられるのかも。成程と自己納得です。

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2013.9.30 ツイッターから…いよいよ明日から10月。都幾川の写真展がはじまります!

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都幾川の写真展【写真でたどる源氏物語と万葉集の歴史】は明日搬入です。作品パネルは既に搬送していて、明日現地へ行って受取り、設置にかかります。写真展タイトルとごあいさつのボードを作り持っていきます

ご挨拶文を考えていて思い出したのですが、「鎌倉の源氏物語・比企の万葉集」という東国の古典の問題に関わることになったそもそもの発端は、金沢文庫にあった『尾州家河内本源氏物語』の存在でした。そこに文庫の創設者北条実時の奥書が記されているからです。

奥書は実時の自筆とされていて、その為に尾州家本は実時の制作といわれていました。が、調べていくうちにどうも違う。では、誰の制作?と途方に暮れていた時に東博で冷泉家展があり、そこに宗尊親王の『中書王御詠』が展示されていました。それを見た時、直観的に、宗尊親王の制作だと思ったのです。

『中書王御詠』の大きさと装丁がどことなく尾州家本に似ているのです。それまで国文学界で揺るぎない定説だった実時制作説に異論を打ち出すことになりそうな気配に蒼褪めて、帰宅すると私は千葉の友人に「どうしよう……」と真剣に不安を打ち明けて聞いて貰ったりしました。

その後の研究で、尾州家本の奥書は実時の自筆はないことがわかり、年代的に詰めていったらまたしても宗尊親王に突きあたり、『源氏物語と鎌倉』では親王制作説をとっています。その根拠が仙覚の『万葉集』との関わりです。『西本願寺本万葉集』が『尾州家河内本源氏物語』と瓜二つの装丁なんです。

仙覚が宗尊親王に『万葉集』を献上してできた『西本願寺本万葉集』。それと同じ装丁の『尾州家河内本源氏物語』。だから尾州家本も親王の制作という経緯です。実時は幕府の代表として親王に仕える小侍所別当。親友に「河内本源氏物語」の源親行がいて、と親王御所は華やかな文学サロンでした。

写真展では歴史の経緯を、史跡の写真を時系列に展示して追って観て頂く構成になっています。が、今ツイートさせて頂いたような写本のことは何も。深いところで写本が重要なのに、写真展では無理だなあと思った次第で、それを「ごあいさつ」にまとめました。

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