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2013.11.26 よみうりカルチャー横浜教室【源氏物語』と鎌倉 映像で巡る3回集中講座】募集開始のお知らせ

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よみうりカルチャー横浜教室の一月からの講座の募集がはじまりました。私は【『源氏物語』と鎌倉 映像で巡る3回集中講座】として、一月から三月までの第4月曜日、計3回の講座を持たせていただきます。内容は以下のとおりです。

1/27 京都の源氏物語文化
2/24 鎌倉の源氏物語文化(一)頼朝・頼家・実朝の時代
3/24 鎌倉の源氏物語文化(二)摂家将軍、皇族将軍の時代

【受講料】 会員: 3か月 3回 8,190円
【設備費】 378円
【途中受講】できます
【見 学】できます
【体 験】できます

よみうりカルチャー横浜
〒220-0011 横浜市西区高島2-18-1 横浜新都市ビル(そごう)9階
TEL/045-465-2010
http://www.ync.ne.jp/kouza/kouza_leaf.php?term=201401&center_no=112&code=01210045

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2013.11.20 妙本寺様が会場のかまくら学府第二回定例会【鎌倉と比企…二つの万葉集研究碑 ~『万葉集』の訓読は鎌倉で完成した!~】は無事に終わりました。

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11月16日、鎌倉の妙本寺様を会場に開かれた、かまくら学府第二回定例会での講演、【鎌倉と比企…二つの万葉集研究碑 ~『万葉集』の訓読は鎌倉で完成した!】は無事に終了しました。

『万葉集』の歌は約4500首ありますが、万葉仮名で書かれているために訓点をつけて読み解かなければなりません。平安中期の村上天皇の命で約4000首に訓点がつけられて、それが古点。平安末期から鎌倉初期にかけて、道長や俊成といった方々がつけたのを次点。そして鎌倉の万葉学者仙覚によって残っていた152首全部につけられたのを新点といいます。

つまり、現在私達が読んでいる『万葉集』は、最終的に仙覚が完成したのを読んでいる訳です。その仙覚の業績を残している写本が『西本願寺本万葉集』です。現在活字化されている『万葉集』はすべてこの『西本願寺本万葉集』が底本になっています。

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『西本願寺本万葉集』といえば、『尾州家河内本源氏物語』。そう、鎌倉の宗尊親王によって制作され、鎌倉の滅亡とともに流出して、現在蓬左文庫所蔵になっている、あの『源氏物語』の写本です。『西本願寺本万葉集』はこの『尾州家河内本源氏物語』と大きさと装丁が瓜二つの双子のような写本です。

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二つの写本は金沢文庫に収められていましたが、鎌倉滅亡時に足利将軍家に渡り、
『尾州家河内本源氏物語』は、その後、豊臣秀次→徳川家康→蓬左文庫
となりました。
『西本願寺本万葉集』は、その後、皇室→西本願寺→お茶の水図書館
となりました。
両方とも、最後の所有者に関わる名称になっているので、鎌倉で制作された鎌倉の文化遺産という名残りの片鱗もありません。

講演では、最初にこのような基礎知識をお話し、次に、仙覚は誰か。仙覚が鎌倉と比企を往還した鎌倉街道。仙覚が預け入れられた岩殿観音に仙覚の祖父比企能員館跡説があることなどをお話しました。

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岩殿観音が比企能員館跡というのは、近くにある足利基氏館跡がもともとは能員館で、その前面にある弁天沼や、中世にあったという阿弥陀堂を含む景色が浄土式庭園の景観になっていることからです。

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そんなふうなことをお話し、皆様に楽しんでいただきました。

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2013.11.7 11月16日(土)に、鎌倉の妙本寺様で鎌倉の『万葉集』についての講演させて頂きます。【鎌倉と比企 二つの万葉集研究碑~『万葉集』の訓読は鎌倉で完成した!その碑が妙本寺境内に~】

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かまくら学府第二回定例会で講演させて頂きます。

【鎌倉と比企…二つの万葉集研究碑
~『万葉集』の訓読は鎌倉で完成した!その碑が妙本寺境内に~】

11月16日(土)14:00~16:00
会場: 妙本寺(書院)...

参加費: 500円(資料代など)
申込締切: 11月10日
お申込: 銀の鈴社 0467-61-1930

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2013.11.2 ツイッターから10/31までを転載…都幾川の講演【比企の二大文化遺産 仙覚の『万葉集』と国宝「慈光寺経」】、大東文化大学オープンカレッジ【仙覚律師の研究と生涯】、都幾川の写真展【写真でたどる『万葉集』と『源氏物語』の歴史】を無事終了。その後、岩殿観音と鎌倉街道上道の恋ヶ窪を撮りに行ったことなど

10月17日
TLに、出雲に鮮明な環水平アーク。鳥取に白い狸。時代が時代なら改元してると呟かれていますが、ほんとうにそう。何か変ろうとしているのでしょうか。いいことでありますように。

10月18日
西行と清盛は同い年なんですね。大河清盛でそれは見ていましたが、今確認して改めて驚きました。都幾川の国宝慈光寺経と並ぶ三大装飾経の後の二つは西行勧進の久能寺経と清盛の平家納経。二つとも待賢門院璋子に関わる制作です。源氏物語絵巻を制作した璋子の影響。璋子という女性、改めて凄いなあと。

なにとなく芹と聞くこそあはれなれ摘みけん人の心知られて(西行)。この歌に西行の待賢門院璋子への思いを読みとったのは白洲正子さん。芹を摘むは叶わぬ恋の譬えとか。慈光寺経に西行の久能寺経が意外に深く関わっていたので一枚追加しました。

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10月19日
都幾川に向かっています。今日は満月。出掛けるのは午後からでよかったので、満月の正中時間には外に出て大いなる空気を満喫してきました。たまたま決まった講演の日程に重なるなんて。都幾川に着いたら別世界が待っています。これを大事にしていきます。

写真展会場のやすらぎの家ギャラリーから見える景色はこんな! 山また山の素敵な景色が見えます。

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∞音∞ a.k.a. 風*月
太陽の左右両サイドに、2つの幻日。さらに内暈は、すべてを結ぶ円の虹。その上に、逆さ虹の環天頂アークが。これだけの現象が同時に現れることは、かなり珍しいことです。感謝。

10月20日
昨夜、都幾川の講演を無事に終えることができました。いらして下さった方は60名。小さな山の中の「村」みたいなところでよくこれだけの方がいらして下さったと感動。地元の偉大な文化遺産国宝「慈光寺経」をメインにお話させて頂きました。後京極良経の急逝を悼んで制作されたということを。(11月5日訂正:主催者さんからの連絡でご参加者様を50名から60名に訂正しました。)

地元の方は慈光寺経は良経の為の制作とまではご存知でいられます。が、良経についてはおそらく何も。それで『新古今和歌集』の仮名序を書いたり巻頭歌を飾ったりと後鳥羽院の覚えめでたく、みたいなことをお話したのでした。写真を使って。『新古今和歌集』の院宣と完成の中間に比企の乱が起きます。

比企の二大遺産のもう一つの仙覚と万葉集は比企の乱からはじまります。それで新古今和歌集を語りながら、時系列でいうと間に比企の乱。京と鎌倉を行ったり来たり。混乱されるといけないので今まであえて鎌倉だけの時系列で通してきて、昨日はじめて行ったり来たりをしました。

終わった後ご参加の方に伺ったら、一瞬混乱したときもあったけれど大丈夫と。鎌倉の文化は京との連携があってはじめて成り立ちます。今まで武士の側だけで語られていたのは半分しか見えていません。これから「行ったり来たり」を積極的に語っていこうかな。京の文化が入ると突然雅になります。

昨夜の都幾川正法寺様での講演の写真をPCに取り込んでいます。一枚、こんなようすでしたとのご報告にアップさせていただきます。寺院の本堂という会場はとてもしみじみ落ち着く空間でした。

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埼玉県比企郡ときがわ町の正法寺様に飾られている陶板慈光寺経。都幾川では国宝「慈光寺経」を拡大陶板にして数ヶ所の寺院に分散展示されています。正法寺様に飾られているのは「法華経人記品」でした。

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昨日の正法寺和尚さまとの雑談で。お経の経は緯度経度の経。即ち縦。縦は真理なのだと。織物で縦糸は見えないだろ。だけど縦糸がなかったらバラバラになる。人間は横糸なのだ。縦糸のもとに成り立っている、と。和尚さまのお話にはいつも鳥肌がたつ思いがして素敵です。

10月21日
おはようございます。都幾川で体操したわけでもないのに全身痛い朝(笑)。スライドの写真130枚でお話したら1時間20分かかりました。今までも立ったままそれ位でしたが、畳だと机に寄りかかれない分負担があったのでしょうか。明日は大東文化大。送ったUSBも無事開けたようで楽しみです。

今夕の東の空@三鷹市。

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明日の大東文化大学オープンカレッジ「仙覚律師の研究と生涯」のパワポを見ています。こちらを先に作りそれから都幾川の慈光寺経のパワポにかかって講演したから、もう一度仙覚さんに気を入れ直さなくては。怒涛のようだった10月の予定が終盤に近付いてきています。

10月22日
何年か前論文を書くために仙覚さんの足跡を追って初めて比企に足を踏み入れたのが高坂。岩殿観音を訪ねる目的で。大東文化大学はその隣です。今初めて来た時に入った駅前の洒落た食堂で時間潰ししながら懐かしんでいます。あの日はその後慈光寺に行って小川町の仙覚碑を撮って帰ったのでした。

講座「仙覚律師の研究と生涯」を無事に終了し、その後皆様と懇談したとき、仙覚さんが、比企と鎌倉を行ったり来たりされたのはどんな道をたどったのでしょうと伺ったら、上ツ道でしょうと。徒歩で二、三日らしい。と、メモ。地図を見ると鎌倉と比企の中間に我地元があり、恋ケ窪が。この地名の由来が畠山重忠と土地の遊女の悲恋。重忠も通った道なら、なるほどです。

10月23日
昨日、大東文化大学から高坂駅方面を撮りました。広いキャンパスは東京ドーム六個分とか。活気ある大学にお見受けしました。大東文化大学は箱根駅伝で有名。来年のお正月も出られるそうです!

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おはようございます。昨夜は比企の方々の比企に対する熱意にあてられたようなひとときでした。地元の方のお話は含みが多く勉強になります。例えば比企の土は火山灰が多くさらさらしているから作物を作りやすく豊饒とか。比企で年貢の未納はなかったそう。富士宝永噴火・榛名山・赤城山など。

昨日一番驚いたのは比企と関係ないのですが、武蔵野。武蔵野といえば雑木林。と思っている人が多いけれどそれは国木田独歩『武蔵野』の影響で、実は雑木林は近世の植林政策の結果。中世の武蔵野は広い原野で草をかき分け進んだと。どうりでとはずがたり二条の記述と今の武蔵野に違和感がありました。

昨日仙覚さんが鎌倉と比企を行ったり来たりしたと教えて頂いた鎌倉街道上道。この地図、わかりやすいです。
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/chizu/saitama.html

19日に都幾川で「仙覚と慈光寺経」、昨日大東文化大学オープンカレッジで「仙覚の研究と生涯」と連続して仙覚さんについて講演させて頂いて、11月16日に妙本寺様でまた仙覚さんのお話。同じことの繰り返しは嫌なので何か新風をと考えていたら上道の事が。テーマも二つの碑なのでいいかもと。

10月24日
ツキが落ちたようにストンと抜けました。仙覚は誰かの問題から。仙覚と万葉集をパワポで編集していてずっとそれにこだわってきていたのですが、昨夜比企と鎌倉往還の上道をたどろうと思ったところから気分が一新。きっと大東文化大の講演でやり切った感。あとは文章にまとめるしかないのだと思います。

10月25日
昨夜から「比企万葉幻想―仙覚は誰か」の原稿に戻りました。柳田國男の兄井上通泰氏のご論を進めて「かなり追いこみ」(ある方から頂いたご感想)ましたが、比企の方々との交流で地元ならではの史料をご教示頂き更に深めていけそう。昨夜は玄覚を視野に入れてまでの年譜を見直しました。

歴史は人の血の流れだから、文献史料がなくてもそこに事跡が残っている以上、人の足跡をたどれば見えてくるものがある。それを状況証拠でしかないというなら、私はそれを文学で書いて浮かび上がらせる方法をとればいいのだなあと。文学として「比企万葉幻想―仙覚は誰か」を仕上げたく思っています。

先日比企の方々との談笑の折に聞き捨てならないことを耳にして、エッ?となり、東松山市の本を読み返したら、書いてありました。以前拝読したときはまだ私の知識が未熟で読み飛ばしていたもの。こういうことがあるから資料は一回読んで安心という訳にいかないと肝に命じなければ!

10月26日
昨夜懸念していたアウタライズ地震に緊張してTVをつけて5時過ぎまで。眠くないので「比企万葉幻想」の資料にあたっていたらやはり現地に行かなくてはの思いが募るばかり。岩殿観音の比企能員館跡説、浄土式庭園とセットで興味をもっていました。すでに古地図に載っていたのですね。比企判官旧地と。

この地に伝わる「くつわ虫伝説」。秋の夜の風情のくつわ虫が岩殿にはいない。それは比企の乱で逃げてきた身重の女性を匿っている為に人の気配を察せられないよう虫を根絶やしにした結果と。女性を伝説では能員の妻と。系図では子息時員の妻。生まれた男児が岩殿観音に預けられて育った員茂です。

くつわ虫伝説から岩殿観音にとって比企能員が大恩人だったことがわかる。それは正治二年に能員が政子に命じられ別当職も兼ねて殿宇を再建したから。三年後に比企の乱が起き逃れて来た妊婦の女性を匿ったのはそういう事情があったからなんですね。女性が館でなく寺院に逃げ込んだのも館では危ないから。

このあたり、ドラマ化して映像で観たいですね。この時生まれた男児員茂が仙覚というのが私の説なのですが、仙覚さんの人生は波乱に満ちてドラマチックです。美しく切ない。ちなみに「比企万葉幻想」は員茂が仙覚さんだという事を論証するのが目的です。

いっそ、論文などと言ってないでシナリオで書いてしまおうかな、という気になってしまいました。この魅力を人様にお伝えしてわかって頂いてそれから脚本なんて手順を考えたらまどろっこしくて。私、こう見えても以前脚本を勉強していたんです、なんて(笑)

10月27日
峰岸純夫先生「善光寺参詣と『宴曲抄』」拝読。頼朝が善光寺再建をして善光寺詣がブームとなった中世。その伝道ルートが鎌倉街道上道だった。宴曲抄に善光寺修行という上道の地名を読み込んだ作品があり、紹介されています。由比ヶ浜を起点に恋ヶ窪、宮瀧先生のご論で読んだばかりの苦林、等等。『中世東国の荘園公領と宗教』所収です。

善光寺の再建を頼朝がして善光寺詣がブームになったという歴史。以前から『とはずがたり』の善光寺参詣に、何故そんなところへわざわざ?と唐突感を持っていたのですが、こんな背景があったからなのですね。二条も通った鎌倉街道上道。そして武蔵野は雑木林ではなく渺茫と広がる茅の原。イメージ一新。

「現在の比企の方々はこの史実、文化遺産、誇りにして良いですね!」 と今日都幾川で開催している写真展【写真でたどる源氏物語と万葉集の歴史】に行って下さった方がFBに感想を寄せて下さいました。本当に地元比企の方が認識して誇って欲しい文化です。その写真展も明日が最終日。明後日撤収です。

本郷に掲載された齋藤慎一氏の「まぼろしの比企能員屋敷」を再読。仙覚と岩殿観音の関係を知るより前だったのでざっと拝読したまましまい込んでいました。先日の大東大講演のあとの皆様とのお話で再読しなければと思い探し出したのですが、改めて迫真の論理展開。くつわ虫伝説の地の能員屋敷説です。

10月29日
おはようございます。起きた時綺麗な水色の空が見えたのに今は曇天。写真展の撤収に都幾川に向かっています。晴れていたら足を延ばして撮影に回りたかったのですが、午後から雨の予報。図書館コースになりそうです。

比企一族の事をこんなに深く追うことになるとは思いもよらなかった2010年の冬。その頃の資料を出して再読していると、今ならわかる事がたくさん。あちらの比企氏とこちらの比企氏を分けて考える事ができて絞られてきました。それは地図上でもはっきり。物事は分別がつくところから始まります。

比企郡高坂の足利基氏館跡。実は基氏は逗留しただけで、もと比企能員館だったのでは?という地です。土塁が残っています。仙覚さんが預け入れられた岩殿観音はここからすぐ。

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東松山市足利基氏館跡の案内板。基氏は鎌倉公方で尊氏の次男だそう。実際は逗留しただけで、館としてはもっと古く比企能員の館だった可能性が。

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足利基氏館跡に隣接する弁天沼。別称、鳴かずの池。今はもう残っていない阿弥陀堂とセットの浄土式庭園だったよう。

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岩殿観音参道入口にあった参道絵図の案内板。弁天沼からはすぐ目と鼻の先。

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参道途中の熊野神社。

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岩殿山正法寺の案内板。頼朝の命で比企能員が復興した古刹とあります。

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岩殿観音観音堂。背後を岩の絶壁で囲まれています。

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絶壁はこんな感じです。

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岩殿観音鐘楼から参道を眺める。参道が尽きた向こうに基氏館跡や弁天沼があります。大きな阿字の板碑や阿弥陀堂後もありました。

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比企能員の孫の員茂が能員を弔うために建てたのが判官塚。それが大東文化大の敷地内になってしまうため現在の位置に移動したのが比企明神に。鳥居の奥に見える石碑にその経緯が刻まれています。

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判官塚由来の石碑。これを撮りたくて探し回りました。資料を読んでいる時には参道中程とあったのが、参道中程にある駐車場の脇をずっと登っていった奥だったので。車に傘をうっかり置いて出たら突然の土砂降り。比企氏の涙に感じました。

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石碑に「員茂」の名が。比企能員の孫で、比企の乱の時母親の胎内にいて比企に逃れて出産。生まれたあと岩殿観音に預け入れられました。くつわ虫伝説の女性から生まれた赤ちゃんです。私はこの人が仙覚と思って調べています。岩殿観音散策の写真を連ツイさせていただきました。時空を超えて往時の景観が残る異空間のような場所でした。

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10月30日
昨日の写真をもう一枚。岩殿観音正法寺の鐘楼です。萱葺きの屋根の趣が素敵でした。ここから見下ろして撮ったのが昨日現地でスマホからアップさせて頂いた参道の全景です。しみじみした情趣がまだ余韻をひきずっています。

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さきたま文庫『正法寺』より。高坂の正法寺は古くは岩殿寺といい、岩殿観音の別当寺。往時は「本坊六十六坊、関東並びに北国にも並びなき大伽藍、七堂悉瓦葺き也」。それが永禄年中の松山合戦の兵火で焼失したと。→七堂悉瓦葺の大伽藍って、凄いですね。正法寺は観音堂の仁王門脇にあります。

都幾川で講演させて頂いたのが岩殿山正法寺。高坂の岩殿観音も岩殿山正法寺ということで???でした。どっちが先かみたいな庶民的話題にまで。これによると高坂の正法寺は霊場岩殿観音の別当寺としての存在。観音堂が正法寺の伽藍の一つのように思っていたのは間違いだったようです。

ツイートをしていたら電話が鳴って、今年の二月に某会社のOB会で講演させて頂いたのですが、好評だったのでパート2ということでまたお願いしますと。大きな会社の製造業に携わった技術職の男性陣が面白いと言って下さったことが嬉しいです!

夜になって昨日都幾川から発送した写真展のパネルが届きました。またいつかの出番を待って写真パネルは廊下の片隅に。四切写真を40枚。畳大の発泡スチロールのパネル10枚に4枚ずつ貼って、展示はそれを飾るだけ。輸送も展示も簡易で便利な写真展。

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10月31日
おはようございます。昨日頂いた来年二月の講演のお話。タイトルを【鎌倉の比企一族と『万葉集』】として先程送信しました。今年二月の講演は【鎌倉武士と『源氏物語』】。表裏一体の歴史ですが、『万葉集』のほうは今年の講演後に比企の方々との交流ができて以降の、ここ半年の成果です。

鎌倉街道上道を撮りにきました。西国分寺の恋ヶ窪です。ここに街道が残っています。この道を畠山重忠が、新田義貞が、そして仙覚さんが通ったと思うと感慨深いです。歩いている人影が浮かんで見えるような気がしました。

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鎌倉街道上道の説明板。

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今日訪ねた写真を数枚アップさせて頂きます。最初に西国分寺恋ヶ窪の鎌倉街道上道から熊野神社。境内に『廻国雑記』の聖護院道輿准后「朽ちはてぬ名のみ残れる恋ヶ窪今はた訪ふも知記りならずや」の碑があります。

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恋ヶ窪の地名になった畠山重忠と土地の遊女夙妻(あさづま)大夫の悲恋。その夙妻大夫の墓と由来を記す碑が東福寺境内にありました。

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恋ヶ窪村分水。湧水が綺麗でした。

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恋ヶ窪から移動して新田義貞軍と北条方が合戦した分倍河原へ。京王線分倍河原駅前には新田義貞の立派な銅像が建っています。何度か目にしていましたがわざわざ撮りにくる日が来ようとは……。

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分倍河原古戦場跡碑。

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補足:昨年撮った武蔵国分寺僧尼寺跡の鎌倉街道です。切通しだそう。街道は国分尼寺の上を通っていて、ということはその頃すでに尼寺は衰退していたとなるようです。

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