2014.2.23 昨日某企業OB会新春講演会【鎌倉の比企一族と『万葉集』】を無事に務めて、明日のよみうりカルチャー横浜教室【鎌倉の『源氏物語』 第二回鎌倉の源氏物語文化(1)頼朝・頼家・実朝の時代】のパワポの編集の最後の追い込みをしています。
フェイスブックより転載…22日夜。日野自動車様OB会の新春講演「鎌倉の比企一族と万葉集」を無事に終えて帰宅の途につきました。終わると同時に、ああ、楽しかった!と叫ぶ人も。比企の乱は知ってたけど、今日の話は知らなかったと、楽しんで頂きました。私も去年に引き続いての二度目なので気心知れて懇親会まで楽しかったです。
よみうりカルチャー横浜教室のパワポの編集をしていて、実朝の時代にきたら、鴨長明が飛鳥井雅経に伴われて鎌倉に下向し、実朝に謁見したところに遭遇。と、ここで何故飛鳥井雅経がと説明しなければならなくなって、それならばやはり雅経の鎌倉下向の最初から入れなければということに気がつきました。
今まで、鎌倉の『源氏物語』に蹴鞠の流れを入れると煩瑣になるので、あえて雅経には触れないできました。でも、宗尊親王の時代になると、雅経の子と孫が『源氏物語』のことで活躍します。ここはやはりしっかり雅経を登場させておくべきでしょう。
ということで作った雅経の下向スライドです。光行の鎌倉下向の二年後くらいに雅経が下向したことになります。
これは、雅経が頼家と実朝に蹴鞠を教えたことのスライド。頼家が真剣に学ぶ傍で小さな実朝が見よう見まねで蹴鞠をしているのを見て雅経も可愛いと思ったことでしょう。そんな過去があるからこその、鴨長明を伴った鎌倉下向での二人の再会に意味があるのです。
ということで、目下、明日の講座に向けてパワポの編集作業奮闘中です。
2012.2.20 よみうりカルチャー横浜教室の講座の第二回【鎌倉の『源氏物語』 鎌倉の源氏物語文化(1)頼朝・頼家・実朝の時代】用パワポの編集をしています。
◇フェイスブックより転載
よみうりカルチャー横浜教室【三回集中講座 『源氏物語』と鎌倉】の第二回目が来週の月曜日なので、そのパワポの編集をしています。先月は「京都の源氏物語文化」でした。今月と来月が「鎌倉の源氏物語文化」で、今月は「頼朝・頼家・実朝の時代」、来月が「摂家将軍・皇族将軍の時代」です。
途中受講も可能です。通史では見えない陰の舞台をいたします。お気持ちがあったらいらして頂けたら嬉しいです(と、宣伝みたいですが、結構踏み込みますのでせっかくならともったいなさが湧いてきて)。
「鎌倉の『源氏物語』」は今までしてきたことですが、こうして機会を頂いてたどりなおすと、忘れていた事が掘り起こされたり、新たに深い追究ができたりして新鮮です。その都度深まっていくので、さながら小説の下準備をしているよう。春には時間ができますから、小説を書き始めたい気持ちが募ってきています。
昨日ご連絡を頂いて、7月7日の建長寺様での講演【七夕は鎌倉の源氏物語の日】は、建長寺様と「かまくら学府」様の合同開催に決まったと頂きました。建長寺様の禅研究会のプログラムに入れて頂いていますが、もうお一方の講師を目下調整中とか。どういう方に決まるのでしょう。心して待たせて頂いています。
2011.2.11 講演【鎌倉の比企一族と『万葉集』】用のパワポの編集にかかりました。(ツイッターから転載)
「帝になれなかった皇子の系譜~鎌倉の源氏物語~」、白河天皇の項を書いたら8枚。宗尊親王までで8枚くらいと思って始めたのにこれでは到底終わりそうにないから、次の講演準備のパワポの編集に戻りました。「鎌倉の比企一族と『万葉集』」です。
おはようございます。万葉集の世界に戻った朝です。今度の講演は仙覚さんの生涯をたどるのですが、業績の偉大さを知って頂くために最初に万葉集の「お勉強」からはじまります。柿本人麻呂とか山上億良は知っていても訓点はあまり留意されてませんから。
こんなふうなお話ということで、万葉集の「お勉強」スライドをご紹介させて頂きます。6枚の連投になります。最初の3枚は万葉仮名を読み下した訓点の歴史です。これは古点についてのスライド。
次点についてのスライドです。村上天皇の命で源順らが読み下した古点で、万葉集の歌の約4500首に訓点が点けられたのですが、残った500首を道長を筆頭にいろいろな方が挑戦されたのを次点といいます。
新点のスライド。次点のあと152首にまだ訓点が点けられず残っていました。その152首全部に訓点を点けて万葉集の歌の全部が読めるようになったのですが、それをしたのが仙覚でした。仙覚の訓点を新点といいます。
仙覚さんの功績によって全部の歌が読めるようになった『万葉集』は、『西本願寺本万葉集』という写本によって伝わっています。現在、私達が書店で手にする『万葉集』はすべてこの『西本願寺本万葉集』によっています。
岩波文庫『万葉集』の凡例にも、底本は『西本願寺本万葉集』と記されています。
鎌倉の源氏物語を追及していて、鎌倉の源氏物語の象徴たる『尾州家河内本源氏物語』と瓜二つの写本の『西本願寺本万葉集』に出逢ったのが、私が仙覚さんを研究することになるそもそものきっかけでした。
2012.2.10 「帝になれなかった皇子の系譜~鎌倉の源氏物語~」という原稿を書いています。
ここのところの講演で久々に『源氏物語』を集中して考えていたら、【鎌倉の源氏物語】の根幹が「帝になれなかった皇子の系譜」だと気づき、突然それを書いておきたくなりました。書き始めるまでの逡巡をツイッターに呟いていますので、それを転載させて頂きます。
2月7日
私の鎌倉の源氏物語論の根幹は「帝になれなかった皇子の系譜」です。二十歳まで即位できなかった白河天皇がご自身を光源氏になぞらえ、その源氏物語文化圏で育った平清盛が平家の王朝文化を築き、それを源光行が鎌倉にもたらして、やはり帝になれなかった皇子の宗尊親王の時代で華開いた、という。
ここまできてやっとわかったのですが、後嵯峨院の時代の源氏物語文化への違和感。腐敗したような爛熟さは、後深草天皇も亀山天皇も源氏物語を踏襲しても帝位についているから根幹のところで紫式部が書いた光源氏の哀切さ真剣さがないんですね。
講演のテーマが源氏物語に集中したお蔭で鎌倉の源氏物語が帝になれない皇子の系譜とわかり、この勢いで原稿に書いておきたい思いが湧いたのに、次に控える講演のテーマが比企一族と万葉集。パワポの編集にかかったら源氏物語は吹き飛んでしまうでしょうから本当に原稿にしておきたいのです。が…
2月9日
昨日久々に撮るだけの目的で公園に入ったら歩くほどにファインダーで切り取りたい視界が表面的でなくなっていく。奥へ奥へと深まっていく感覚。これって書くことと同じだなあと思いました。書くほどに意味が深まっていきます。
鎌倉の源氏物語の根幹が「帝になれなかった皇子の系譜」と気づいて書きたい思いが突然湧いたのですが、次の講演の準備も始めなければいけないしと悩んでいました。でもやはり原稿にしておこうと決めて昨夜から始めました。タイトルはそのまま「帝になれなかった皇子の系譜~鎌倉の源氏物語~」です。
2月10日
「帝になれなかった皇子の系譜~鎌倉の源氏物語~」を書き進めていたら世の中のさまざまなことがいつもは気になって聞いてしまう事も一切耳に入らなくなって、ツイッターやFBのTLを見るのも止めてしまいそう。次の講演準備もしなければならずゆっくりしていられないのでしばらく集中します。
「帝になれなかった皇子の系譜~鎌倉の源氏物語~」は、紫式部の『源氏物語』→白河天皇への影響→平清盛の王朝文化→平家の王朝文化で育った源光行の鎌倉下向→宗尊親王の鎌倉での源氏物語活動という流れで、白河天皇の項を終了。八枚になりました。
2012.2.5 ツイッターから転載…調布市の市民グループの方の講座で四回にわたってお話させて頂きます。明日がその一回目。パワポを編集しました。
明日6日、調布市で市民の方々の自主グループで《鎌倉の源氏物語と万葉集》についてお話させていただきます。4回の講座で、『源氏物語』を2回、『万葉集』を2回の予定です。2月と3月は『源氏物語』。ということで明日の分のパワポの編集をしていました。
◇明日の調布市の講座用パワポの編集が終わりひとまず安心。今年は昨年までと比較にならないほど私事が多く、昨年だったらきっとパニックに陥っていたでしょうけれど、蓄積が余裕になっていい具合に進んでいます。明日のテーマは鎌倉の源氏物語。二回分の(一)で「京都の源氏物語文化が鎌倉へ」です。
◇昨年までと違うところは内容にも。一回の講演で語っていたのを今年は何回かに分けての講座。ということは概略だったのを詳細に、というふうにその分中身が濃密になります。で、省いていた写真が復活したりして。これはその一枚。鎌倉の永福寺発掘調査で出土した幡吊り金具等です。宝冠や天蓋飾り等の金具も出土していて華麗な寺院だったことを偲ばせてくれます。
◇「(一)京都の源氏物語文化が鎌倉へ」は、紫式部の『源氏物語』→平家の王朝文化に育った藤原定家と源光行→光行の鎌倉下向→光行が仕えた源家三代将軍の時代、という構成です。実朝の時代の終焉とともに定家と光行の活躍期が終わります。(二)以降が摂家将軍・宮将軍の時代です。
◇明日の講座に使うパワポの推敲を終えました。使った写真は全部で155枚。今までで最多です。蓮のスライドはラストの一枚。80歳になった定家と光行が相次いで世を去り、親行が光行の「河内本源氏物語」校訂を引き継いだというスライドです。