2014.3.21 ツイッターから転載…よみうりカルチャー横浜【『源氏物語』と鎌倉】に伊賀氏の変を加えたこと、『六代勝事記』など
3月18日
よみうりカルチャー横浜教室【『源氏物語』と鎌倉】第三回用のパワーポイント作成をしています。今回は摂家将軍・宮将軍の時代。で、何故、頼経が第四代将軍として鎌倉に下向することになったかの系図を作成しました。頼経は頼朝の血を引いています。
と、投稿して、政子が両親と引き離されて2歳で下向した頼経を引き取るような形で慈しんで育てたかの意味(その心境)がわかりました。政子には残された数少ない頼朝の血を引く忘れ形見同様の頼経だったのですね。
フェイスブックでこの投稿にご指摘を頂きました。頼朝の血を引くという言い方は正しくなく、「頼朝の血に連なる」「頼朝の血に繋がる」とした方がとのこと。私も「引く」には抵抗があったのですが熟考せずにそのまま書いてしまいました。「連なる」に訂正させて頂きます。
つまり、と想念が膨らんでしまいました。頼経には義朝と由良御前の血が流れているのですね! 大河清盛での玉木宏さんと田中麗奈さんが脳裡に浮かんで離れません(笑)
久しぶりにのんびり吉祥寺に出たついてにジュンク堂に回ったら『六代勝事記』(和泉書院)があって買ってしまいました。図書館でコピーしたのは持っているのに。でも解説が充実していて楽しみ。作者の一人に源光行説があります。光行は『海道記』にも作者説があり、ゆっくり見なおしたいです。
3月19日
弓削繁編著『六代勝事記』解説を拝読。少しご紹介させて頂きます。まず作者ですが、昨日源光行説もあると書きましたが既に特定されていました。松殿摂政基房の嫡男、左大臣隆忠です。執筆の動機は承久の乱の戦争責任を究極的に後鳥羽院に帰し、これを鑑戒として今後の帝王の道を呈言しようとしたこと。
隆忠は乱後関東方の計らいで即位した12歳の若い後堀河天皇にこの著を献上。帝王学の書なのでした。故に「承久の乱に関する第一等史料として愚管抄等と並んで最も重要な資料」「かつて政権の中枢にあった高級貴族が時の天皇に献じた著作であるという点で、内容的にも信頼のおける権威ある文献」
どれ位重要かの一例。「『吾妻鏡』が関東で起こった実朝の暗殺や、承久の乱の際の政子の演説を記すのに、はるか京都の公家の手になる本書を頼りにした」。そして何より一個の文学作品として優れていて「簡潔・流麗にして深重な意味を湛えた駢儷体風の美文は既に定評を勝ち得ていて、殊に平家一門
西海漂泊の叙述や後白河院への哀悼文、三上皇の配流記事に溢れる抒情性は、儒教的倫理観に基づく鋭い批判精神と相俟って独自の勝れた史論を構築している」。和泉書院刊のこの本は影印と翻刻と解説からなっていて思いがけず豊饒な楽しみになりました。隆忠は慈円の甥、良経と従兄弟。さすがです。
諸々他事をしてよみうりカルチャー横浜【『源氏物語』と鎌倉】第三回用パワポの編集に戻りました。前から進めていたもののどうにも思考が詰まって動かなくなっていました。他事を済ませて戻ったら、そうか、伊賀氏の変をいれなくてはならなかったんだ!と気づきました。思考が詰まるって物理的ですね。
3月20日
伊賀氏の変の人間関係を図にしてみました。伊賀氏の変は義時の後妻伊賀氏が子息政村を執権にし、娘婿の一条実雅を将軍にしようとした陰謀が発覚して政子に追放された変です。この時政子の意志で執権についたのが泰時です。
伊賀氏の変は歴史的に重要視されていませんが、定家の「青表紙本源氏物語」成立に大きく関わったと私は思っています。つまり、実雅が鎌倉を追放されて上洛する時、仕えていた親行も幕府に無断で一緒に帰洛してしまうのです。親行が上洛したこの年、定家が「青表紙本源氏物語」の書写を開始しました。
つまり、定家は親行の文学者としての若い情熱に触れて『源氏物語』の書写を発奮した、というのが私の説です。定家は親友光行の子息親行を信頼していて、『拾遺愚草』の清書を頼むなどしています。