4月25日
マルケス訃報に接した日、TLで『族長の秋』は冒頭で結果がわかっているにも関わらずとあり、え?と思っていて、先程開いてみたらのっけから結末が。興奮して読んだにも関わらずこの驚くべき展開が記憶になくて、私は文学に何を読んでいるのだろうと自信喪失。まさに文学は何を書いてもいい!ですね。
鎌倉の源氏物語の問題がひとまず決着ついて、後は小説にまとめなければと考えているから、文学についての思考が楽しい。はからずも昨夜出版記念会で久々に文学者の方々と交流して、ハチャメチャな文学をやりたくなりました(笑)。光行さんはしかつめらしく書いても面白くないから。
ようやくPCに取り込みました。23日のヌエックでの講演です。これは先日アップした足立遠元娘の婚姻関係のところ。こんなふうに部屋を暗くしてスライドを次々と上映し、解説させて頂いています。自分では講談師とかトーキーみたいと思っています。

先程ヌエックに来て下さったかつての上司の方からメールを頂きました。パワポを伝授して下さったのもその方です。どんなご感想を頂くかはらはらしていました。「何が良いって織田さんがパワフル。私もパワフルのつもりですが、負けてます」だそうです。いえいえ何の、その方のパワフルさは凄いです。
と、冗談は置いて「織田さんが一番訴えたいポイントは何なんでしょうか。歴史的検証?源氏物語・万葉集の素晴らしさ?みんなに文化に触れてほしい?あるいは郷土史に触れて郷土を愛してほしい?あるいは全部?最後にでも訴求ポイントをあえて言ったほうが良いのでは」は有難く拝聴しました。
実はこれは鋭い突っ込みで、私自身最近わからなくなってきているのです。最初は埋もれていた鎌倉の源氏物語という問題を訴えるだけでシンプルでした。そこから派生していろいろな状況に対応していたら自分で何が一番重要かわからなくなってしまいました。答えもその場に応じるのかもしれません。
4月26日
調布の講座が迫っているので早々に片付けものを終わらせて準備にかからなければならず手は他のことをしていてもテーマを何にしようと思案がぐるぐる。今朝になってそうだ「冷泉為相と称名寺」にしようと定まりました。写真は撮っていてもフィルムだったりで足りないのが多く鎌倉に撮りに行きたいです!
とりあえず作ってみました。【冷泉為相と称名寺】のタイトルスライドです。副題は「謡曲六浦を巡って」。鎌倉の源氏物語とは全く別の話なので今までのパワポは使えず編集は一から。時間が足りないといいつつ結局いばらの道を選び取ってしまいました。

【冷泉為相と称名寺】の補足:称名寺には一人の公卿が訪ねたという謡曲六浦の青葉の楓伝承があります。それが冷泉為相だと。でもそれはあり得ないとされて伝承と言われていたのを「有りうる」と論証させて頂いた事があり、それをパワポでご紹介しようかな、と。
吉祥寺の新しい空。キラリナオープンでこんな光景が見える事に。

北条氏の中の金沢北条氏の系図スライドを作りました。金沢北条氏は、二代執権義時の孫の実時からはじまります。実時が称名寺と金沢文庫を造りました。

4月27日
早起きしたので玉川上水べりの藤を撮りに行ってきました。満開の房もありましたがまだ蕾のも。でも満開になっても藤棚に造っていない藤は山里のような近しさがあります。

姫ライラックです。

躑躅が見事で街を歩くとどこに行っても外科室を思い出すのですが、この一本はふしぎでした。これ、花の色が白かったり赤だったり斑だったりしていますが同じ一本の木です。

【冷泉為相と称名寺】用系図の三枚目、「御子左家と宇都宮氏の関係」です。これでだいたい登場人物が揃いました。これをレジュメにして送って、そうしたらパワポの編集にかかります。小説を書くような楽しみ。時間に余裕があればですが…。

昨夜から【冷泉為相と称名寺】の本編スライドの作成にかかりました。最初に謡曲「六浦」の説明をします。四枚続けてご紹介させて頂きます。背景の写真は称名寺で撮ったものです。その1。

その2。

その3。

その4。

4月28日
【冷泉為相と称名寺】の編集で宇都宮氏についてまとめました。栃木県益子町の尾羽寺は頼朝に仕えた三代当主朝綱建立。唯一残る堂宇の地蔵院は創建当時の阿弥陀堂で重要文化財。本尊阿弥陀三尊像は鎌倉時代作です。

こちらは地蔵院の本尊地蔵菩薩。特別に拝観させて頂いた時の撮影ですが真っ暗な中ブレてて済みません(泣)。こちらも鎌倉時代作です。

宇都宮氏の系図です。宇都宮氏は初代宗円が前九年の役の功で下野一宮二荒山神社の別当に任じられ代々神職に。それで後に御子左家と婚姻関係をもつような教養高い一族になったのでしょうか。宇都宮歌壇には後に仙覚も関わってきます。

4月29日
昨夜の驚き。【冷泉為相と称名寺】の編集で。文永六年に飛鳥井雅有が『嵯峨の通ひ路』にある為家に源氏物語の教えを受けた時、阿仏尼が同席していた。その時為相が七歳だったなんて。それならこの会談の最中にちょろちょろと現れたかもと。

今まで『嵯峨の通ひ路』の記述どおりにしか読んでいなかったので為相の存在にまで考えが至りませんでした。僅かに雅有が子息を同伴してるのでそれなら母親の実時娘もとまで。そこに少年為相が登場。俄然嵯峨の地が賑やかに。親たちが勉強会をしている間、少年達が竹林の中を駆け回っていたりして。
今日は出かけるので編集が夜になってしまいますが、これまで漠然と為相が称名寺を訪ねた可能性を探っていたのが、案外主役は阿仏尼で、為氏との訴訟が中心だと感じてきました。これから『十六夜日記』を投入していくのが楽しみです。早い時期に書いた論文は見直すと意外な深みに。
編集も後半にきてやっと為相が生まれテーマが浮かぶなど、それなら宇都宮氏の歴史まで遡る事はなかったと思いますが、私はいつもそう。鎌倉の源氏物語も光行が下向したところからでいいのに平家の王朝文化の更にその根幹まで探らないと気が済まない。因縁とか仏教的な感覚があるのかなと思うこの頃。
高幡不動に行きました。五重塔を撮ってみました。何度か行っているのに撮る気になったのははじめて。

高幡不動五重塔の相輪です。

それから、朝、麦の穂が綺麗でした。今は雨が降っているからこういうふうに撮れるのももうないでしょうね。

4月30日
【冷泉為相と称名寺】の阿仏尼邸跡碑のスライドです。阿仏尼は弘安二年(1279)に二条為氏との訴訟で鎌倉に下向。その道中記が『十六夜日記』ですが、中学の頃この美しいタイトルの日記がそんな大変な背景をもつなど知らずただ憧れていました。

阿仏尼碑は江ノ電に乗っていても車窓から見ることができます。鎌倉駅を出発して極楽寺駅を過ぎたらすぐの踏切脇。藤沢に向かって右の車窓です。そのあたりが月影ケ谷一帯でしょうか。海が近い風情ある感じはしません。

明日の講座【冷泉為相と称名寺】の編集がまだ終わりません。最近は核心に至るまでが長くて、やっとテーマをつかんだと思うと時間が迫っている、あとは徹夜の体力勝負、の繰り返しです(泣)。永仁元年の為兼の鎌倉下向が二人に記録されています。そのスライドを作りました。二枚ご紹介させて頂きます。
最初は『沙弥蓮瑜集全釈』です。沙弥蓮愉は宇都宮氏七代景綱。為家と結婚した頼綱娘は景綱の叔母にあたります。為兼は彼女の孫。景綱と為兼はそういう関係です。『沙弥蓮瑜集全釈』も面白いです!

次に『親玄僧正日記』から。同じ為兼の下向が別の人にも記録されているなんてと驚きました。親玄僧正が将軍久明親王を訪ねたら先に為兼が来ていたという内容です。為兼は伏見天皇の命を受けて下向してますから、何かいいつかって来たのでしょう。

5月1日
編集は未明に終わりました。昨夜の呟きの「核心に至るまで長い」は考えてみれば起承転結そのものなんですね。平坦な長い思考の先に深まりがあって核心に至る。それが作る事の醍醐味。体力や眠気との戦いは別ですが(笑)。ともかく無事に出かけられます。感謝です。
早めに出たので駅前のカフェで寛いでいます。初めて源氏物語や万葉集でない鎌倉の歴史を辿りました。結構嵌まって映画を観てきた後のような余韻。これは写真で進行しているからです。金沢文庫の三代当主に絡む冷泉為相や禅宗の僧侶さんたち。最後は夢窓疎石なので鎌倉滅亡後の天龍寺で終わらせました。
それにしても、金沢文庫二代当主顕時の娘が足利貞氏に嫁いで、その貞氏が中興開基なのが浄妙寺だなんて。そこから一挙にほぐれた謎解きでした。
終わってまたさっきの駅前カフェ。楽しんで頂きました!鎌倉は結構歩いてるけど、今日のお話のような歴史は知らなかったからまた歩きたくなったって、皆様がおっしゃいます。ツアーを組んだら参加しますから是非って。称名寺や建長寺などポピュラーな寺院しか登場しないんですけど、視点が違うから。
皆様がいつも写真が綺麗だとおっしゃって下さるから、称名寺の池の水面が青く綺麗に撮れてる時、水面を撮る時は青空が写りこんでいるところを撮るといいですよって一言添えたら、お茶の席でそれが話題に盛り上って、何がどういうふうに受け止められるかわからないなあと、おかしかったです!
あと、この教室から先日の埼玉での講演にいらして下さった方がいられるのに今日気がつきました。先月チラシをお配りしたからです。今度は七夕の建長寺様。こちらは鎌倉だからかなりなパーセンテージでご反応を頂きます。再会の楽しみみたいになりますね。また頑張って編集しなくては!