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2014.7.27 ツイッターより転載…『北条時頼と源氏物語』執筆開始しました。第一章は「六波羅で時頼誕生」。PDFで公開。

7月22日
阿仏尼がそうだし、仙覚はもっとそうだったし、松下禅尼とか無住など出家後の名前で知られている人は事実を知らないとほんとうにただただ地味な質素な人に思ってしまう。出家する前にどんな華やかな過去があったかなど思いが至らない。既成観念を打開するところから私の原稿はいつも始まります。

既成観念もそうですが、学問の場での古い定着もそうですね。河内本をはじめた源光行は地下の役人風情であんな業績を残せるはずがないなどと言われた時期もあったくらい。だけど光行は諸大夫の身分で鎌倉に下向しても後白河宮廷と繋がっていたのがわかってきた。既成観念の打破は学問にも必要。

ちなみにピンとこない方もいられると思いますので。『徒然草』で倹約質素を勧める障子貼りで有名な段に登場する松下禅尼が北条時頼のお母さんです。

六波羅探題というと鎌倉幕府の中枢から離れるから左遷のような印象があるし、事実そうで早く帰りたがった人もいるけど、探題経験者と鎌倉にしかいた事ない武士たちとではその後の人間が決定的に違う。文化の深さを知っている人物と知らないで権力だけが優位と思っている人とでは違うものがあります。

北条時頼はお父さんの時氏が六波羅探題在任中に京都で生まれました。四歳まで京都育ち。この事は私が知らなかっただけというよりたぶんあまり知られていない。時頼の素養には京都の雅が既にあって、だから宗尊親王にも自然に仕える事ができたのでしょう。武骨な武士が仕えたのではないのです。

7月23日
恒例になりそうな早朝のツイ。考えてみれば当たり前なのだけれどこうやって時頼に絞って年譜を作らなければ気がつかなかった。人生はというより歴史はほんとうに重層的。義時が亡くなって六波羅探題にいた泰時が鎌倉に帰ってくる。代わりに時氏が六波羅探題に上洛しそれで京都で時頼が生まれる事に。

義時が亡くなった時、後妻の伊賀氏が自分の子の政村を執権につけ、娘婿の一条実雅を将軍にと企てて失脚する伊賀氏の変が起きる。実雅は朝廷に委ねられて上洛。その時河内本の源親行が従って上洛。おそらくその京都で定家と会い、定家は親行から鎌倉での河内本の話を聞いて発奮し青表紙本の制作に

とりかかり翌年二月に完成。実雅に付いて一緒に上洛した伊賀氏の弟達を鎮西に配流すべく身柄を預かったのが、六波羅探題に就任して上洛間もない時氏でした。このあたりで時頼の兄の四代執権経時が誕生。と、このあたりから書きはじめようかななどと考えています。

早朝の連ツイの続き。六波羅はかつて平清盛たち平家の方々の邸宅があった地。平家は都落ちに際し火を放って去ったという。そこを鎌倉幕府が継いで、頼朝上洛の時もここに宿舎が建てられた。承久の乱後六波羅探題が設置され、初代探題が乱で上洛していた泰時がそのまま留まって就任。時氏の父です。

鎌倉の源氏物語たる河内本を作る源光行は平家に仕えていておそらく六波羅に屋敷があった。平家の滅亡後光行は鎌倉に下向して鎌倉で源氏物語の校訂にとりかかる。下向のきっかけは頼朝の上洛だった。いわば六波羅は光行の原点の地。そこで時頼が生まれる事になるなんてと、これは奇しくもの運命。

最初の書きだしの文章ができたかも。土地はかつての栄耀栄華を記憶していて、時代を経て正しく受け継いでくれる人物が現れると気配となってその人に乗り移ります…。具象が抽象の言葉になったとき、あ、はじめられると、ほっとします。『北条時頼と源氏物語』、執筆開始かも。

7月24日
さっきから凄い雷雲の雷鳴と豪雨。どうもピンポイントでこのあたり上空に雲があるよう。一瞬停電しましたが、すぐ点きました@三鷹市 雷鳴が凄まじいです。

7月25日
今日は平家の都落ちの日だったんですね。火を放って灰塵に帰した跡地に六波羅探題が置かれ、時頼の父の時氏が赴任し、それで時頼が六波羅で生まれて四歳まで過ごした、というところを原稿に書いたばかり。奇しくも時頼は河内本の光行さんと同じ場所で生まれ育ったんだなあと驚いたばかり。因縁としか。

7月26日
今日は鎌倉。夜までです。せっかくだから早めに出て一仕事をと思っていたのにこの暑さでは無理。早々に諦めてのんびり仕度してたら今度はぎりぎり。原稿にかかってしまったから他の事はどうでもよくなって今はじっくり原稿に浸りたい。第二章は「松下禅尼は国母」。時頼のお母さんの話です。

鎌倉の帰りです。今日は湿気が強いからか、駅のホームに立っていると海の匂い。こんなところで潮風を感じたのは初めてです。

鎌倉で。まだ明るいからどこかに寄りたいと名残惜しい気持ちを抑えて撮った一枚です。この道を行った先に鎌倉時代に栄えた佐々目遺身院という寺院がありました。今は地元の人も知らない幻の廃寺です。

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7月27日
綺麗な後光!@三鷹市

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今日は新月なのですね。カレンダーにメモしていながら気づかず過ごすところでした。物事のはじまりの日。大切にします。ここのところ時頼に没頭しているから心がしんと鎮まって世の中の事があまり入ってきません。

『北条時頼と源氏物語』をPDFにしました。第一章「六波羅で時頼誕生」です。
http://twitdoc.com/35O7

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2014.7.21 ツイッターから転載…七月七日の建長寺様の講演の写真を鎌倉の方が撮っていて送って下さいました。

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鎌倉の方が七日の建長寺様七夕講演の写真を送って下さいました。自分では撮っていないので私もはじめて見る会場の光景。廊下に溢れるほどたくさんの方がお見えになってくださって鎌倉の方々の鎌倉の源氏物語に寄せる関心の深さが感じられました。

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写っているスライドは最後の一枚。建長寺様の花祭りの写真を背景に「4月8日にお釈迦様をお祝するように、7月7日に、鎌倉で、鎌倉の源氏物語を祝うようになって欲しい、というのが私の願いです」というコメントです。


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2014.7.21 ツイッターから転載…『北条時頼と源氏物語』のタイトルで書いてみたくなりました!

7月15日
西洋絵画のようで好きな光景@井の頭公園

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7月16日
昨夜人物叢書『北条時頼』読了。時頼というと渡辺謙さんの強いイメージしかなかったのですが、あれは後世の結果からみて作られたイメージ。実際の時頼はずっと反芻・逡巡を繰り返し真実を、執権としてのあり方を求め続けた真摯な人とわかりました。そうでなくて蘭渓道隆に帰依するなどないですよね。

昨夜の執念といったら自分でもふしぎ。眠くてたまらないのにとにかく読んでしまおうと。その前に泰時を読んでいた時の呑気さと大違い。時頼の時代に建長寺が建ち蘭渓道隆が開山となり鎌倉に中国僧や日本の禅僧が集まったというその背後に宗尊親王の鎌倉歌壇があります。それを俯瞰して書けないかなと。

泰時と時頼の違いがわかったかも。人物叢書『泰時』と『時頼』を拝読していて感じた違和感。同じ北条氏の祖父と孫なのにこの人間的迫力の差はなんなの?と思ったことの原点。また論証不可なのに決定的にそうとしか思えない。これってやはりエッセイにしか書けないのだろううなあ。

7月18日
宗尊親王を鎌倉に迎えた執権時頼を、鎌倉の源氏物語の歴史に重ねたら面白い事が見えてきました。父時氏が六波羅探題として上洛した年に河内本の親行も上洛していて、翌年定家が青表紙本を完成。時頼はその六波羅探題で生まれていて四歳まで京都で育ちます。これって時頼の人格形成に大きいですよね!

時頼が宗尊親王に礼節をもって仕えたと高橋慎一朗先生『北条時頼』にありますが、それは形式的な事でなく、自然に身に付いた礼節だった事でしょう。親王に対してというより、公家文化、雅な文化という事に。時頼が生きていたら宗尊親王の更迭はなかったと菊池威雄先生が書いていられます。

7月19日
広尾の都立図書館に行った帰りです。こういう時間の蓄積がいつしかまとまって一つの世界観に。ずっと講演などのアウトプットが続いたからほんとうに久々のインプットです。第二段階に入った鎌倉の源氏物語のはじめての取材かも。無住の雑談集をコピーしてきました。

無住って、宇都宮頼綱の妻の甥っ子、梶原氏の出なんですね。沙石集の無住としか知らなくて、地味な存在に思ってました。蓮生の関係者なら、時頼情報を書いてて当然。出どころはどこだろうと思って調べたのですが。

7月20日
鎌倉の源氏物語は宗尊親王が隆盛を。その親王を鎌倉にお呼びした執権が時頼。というわけで時頼の時代の文化を時頼もろとも浮かび上がらせた文章を書きたいと発奮しました。というのも狭いあの鎌倉の地で、親王を描くと時頼が見えてこない、時頼を描くと親王が見えてこないというのが現状だから。

7月21日
一昨日の広尾の図書館でコピーしたのは無住の雑談集から時頼のエピソード。小さい時、時頼は仏像やお堂を造って遊んでいたそう。それを周囲が見咎めて武士なのだから武術をこそと言ったら、泰時が怒って、この子は祇園精舎の大工だったのだからと。果たして成長すると建長寺を建てたと。

昨日は地元の図書館で市川浩史氏『吾妻鏡の思想史ー北条時頼を読むー』を。驚いた事に時頼よりも時宗のほうが鎌倉の画期を作った執権と思われていた時期があって近年やっと時頼になったと。だけど時頼のイメージは強権政治。蘭渓道隆に帰依し建長寺を建てた真摯な面が何も評価されてません。

早朝から連ツイで済みません。思うのですが鎌倉の源氏物語をやっていて思った事がここでも。どうも歴史学者さんは文化というものの力を過小評価されている、というか見えてません。文化では高尚な精神が重要。それがなくして源氏物語も建長寺もなかった。これからそれを書くのだとわくわくしています。

早朝の連ツイの続き。建長寺様での七夕講演が終わった時、これで一段落と思ったのも束の間忽然としてあるタイトルが思い浮かびました。『北条時頼と源氏物語』。それで時頼を調べ始めたのてすが、書けそうです。まさかの源氏物語との関係も(笑)。機が熟したといいますが、機は頂くもののようと実感。

これから市川浩史氏『吾妻鏡の思想史―北条時頼を読む―』を大量にコピー。この方を存じ上げなかったのですが、どうも歴史学ご専門の方ではないよう。親鸞も書いてらっしゃるから仏教系?だからなのでしょうね、ピュアな形で時頼に入ってらっしゃって正統な評価ができる…と、生意気言って済みません。

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2014.7.16 ツイッターから転載…11日の虹と彩雲、武蔵野大学で林望先生のご講演【源氏物語】拝聴、吉川弘文館人物叢書『北条泰時』拝読のことなど

7月12日
昨日の虹は内側の紫がとてもよく見えました。珍しいというか、はじめての気がします。輝きも強烈でしたし。ちなみに七色の順番は、赤橙黄緑青藍紫、だそう。

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虹が出ている同時刻、反対側の北西の空で彩雲が観られました。台風の影響の低層の黒い雲の奥に、高層の非常に綺麗な透明感ある羽衣のような雲があり、その一部が彩雲になっていました。

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武蔵野大学で林望先生の『源氏物語』のご講演を拝聴してきました。光源氏は案外狂言回しで実際の主人公は女君達、中でも紫上は至高という事で、若紫から御法までの紫上の名場面を、私達はレジュメで原文を見て、林先生が謹訳源氏物語を読まれるのを耳で聞くというご講演。深く感動堪能しました。

武蔵野大学に行く途中にいつも利用する図書館があるので早めに出て臨済宗関連の本を探したらなんと井筒俊彦氏『禅仏教の哲学に向けて』というご本が。こんなご著書あったかしらととりあえず借りて今解説を拝読したのですが、今年一月の刊行。英文で発表された論文集のの訳書でした。知らなかった訳。

解説ではなく訳者野平宗弘氏の解題でした。野平氏によるとこの一冊にまとめられた英語論文は『意識と本質』の「原テクスト」の一部と見なすことができるとか。こんな時期になって井筒俊彦の新しいご著書に触れられるなんてといつになく興奮しています。(と、全くの無の境地と逆ですが)

7月13日
昨日の林望先生のお話。源氏物語の主人公たる女君達の中でも出逢いから定命尽きるまでを描かれているのは紫上ただ一人。紫式部は紫上を通して至高の愛真実の愛を書いたと。彼女には次々に不幸が襲いかかるがそれが次に幸福に繋がる。最後は明石中宮に手をとられて亡くなるがこんな最高の幸福はないと。

今日の夕空@三鷹市 見事です!

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昨日の林望先生のお話。源氏物語の主人公たる女君達の中でも出逢いから定命尽きるまでを描かれているのは紫上ただ一人。紫式部は紫上を通して至高の愛真実の愛を書いたと。彼女には次々に不幸が襲いかかるがそれが次に幸福に繋がる。最後は明石中宮に手をとられて亡くなるがこんな最高の幸福はないと。

7月14日
歴史雑談録:772年前の今日、北条泰時が亡くなりました。鎌倉幕府第3代執権。執権として就任した翌年には、大江広元と北条政子が没し、泰時は大きな後ろ盾を失いますが、これを機に執権政治体制を確立していきます。源宗家と北条家による専制体制から、次世代的な合議政治への変換を行った功績は大きいかと。

たまたま人物叢書『北条泰時』拝読中。御成敗式目で有名な泰時。それは承久の乱でそのまま京都に残り六波羅探題として働いていた時、乱後の処理に法律の整備の必要を痛切に感じた事が原点と。それとその時明恵上人と交流した意義が大きいと。唐突に御成敗式目ができたのではなかった事に感銘。

7月15日
人物叢書『北条泰時』読了。これは宗尊親王の父帝後嵯峨天皇即位の時の状況をみる為でした。12歳の四条天皇の急逝で、順徳院皇子か土御門院皇子のどちらを即位させるか決めたのが泰時でした。京都では九条家を中心に順徳院皇子を望み、誰もまさか土御門院皇子に決まるなど思ってもみなかった時、使者

の安達義景がひっそりとした土御門院皇子のいられる邸を訪ねて決定を告げる。泰時は自分が天皇の決定を下す畏れ多さに苦悩しますが、順徳院皇子に決めたら再び承久の乱が起こるのは必定とその一心で決定。が、心労で五ヶ月後に亡くなります。人々は後鳥羽院の怨霊の祟りと噂したそうてすが、やはり乱を

避けた泰時の判断は正しいと私は思ってしまいました。乱は勢力争いの当事者どうしの事よりも巻き込まれた一般市民のほうが大変。明恵上人との交流で仏教者の心を育まれた泰時の心の底にはそれがあったのだろうなあと思いました。

それにしても後嵯峨天皇即位の仁治三年は大変。四条天皇崩御、御嵯峨天皇即位、北条泰時没、順徳院崩御、宗尊親王誕生。と、ここから後嵯峨天皇の白河院政を模倣した華麗な宮廷文化の院政時代に入っていくのですが、鎌倉にその宮廷文化を持ち込む事になる宗尊親王は、お生まれからして象徴的です!

2日のスーパームーンは雲がかかったり明るい満月だったりで変化が大きく、では朧月夜の満月をと思っても、露光を月に合わせると雲は夜空に同化して写らず。雲に合わせると月は明るすぎて真っ白。という訳で微妙な具合は難しいです。

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2014.7.13 ツイッターから転載…人物叢書『北条時頼』拝読のこと、大宮八幡宮の七夕【乞巧奠】に去年のお礼参りしてきました

7月9日
歴史は、後世から見て結果がわかっているから、凄い事を成し遂げた人は凄い人と思ってしまう。でもそうではないと先日教えられた。自分がその器でないと知っているから一生懸命学んで一生懸命にやった。結果として凄い歴史を作ったかも知れなくても、最後まで悩み続けた弱さの人もいると。

就寝前の読書に人物叢書『北条時頼』。可愛い記述を発見。時頼は父時氏が六波羅探題在京中の京都で誕生。四歳の時に時氏が鎌倉に帰るのですが、その時兄の経時は七歳。三百騎の家来を従え直垂を着て騎馬の父に、経時は小さい馬に乗って従わされたそう。経時、可愛い!と思わず微笑んでしまいました。

この記事はまた興味深い関連もあって、それはこの光景を見ていたのが定家息の為家で、為家から聞いて定家が日記に書き残したのでした。この後鎌倉に着いてすぐ時氏がなくなり、父親の執権泰時は嘆きながら次の執権としての経時の教育にかかる。時頼はまだあくまでも弟でしかなく、扱われ方の差は歴然。

7月11日
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杉並区の大宮八幡宮では乞巧奠の七夕飾りをされています。昨年参拝して《鎌倉の源氏物語》の行く末をお祈りしたらそれから講演・講座の連続。そしてトリにできすぎのような建長寺様の七夕講演。お礼参りしてきました。乞巧奠の飾りは15日まで。

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大宮八幡宮様の行事は雅です。七夕の夜に神遊びや雅楽の夕べ。九月九日には重陽の節句の「菊被綿(きくのきせわた)」。仲秋の名月には「十五夜の神遊び」。今年は10月5日夜だそうです。

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建長寺様の七夕講演で一段落つくと思ったのに却って深い闇に迷いこんだように心がしんと鎮っています。光行により鎌倉に源氏物語がもたらされて宗尊親王御所で文化の花開いた。と、ここまでは前哨戦でした。集大成として臨んだ七夕講演は終わりでなく、図らずも第2幕の幕開けになったよう。

通史という概略から個々の歴史を深める作業に入ります。先日の講演でも、鎌倉の歴史を相当ご存じの方から、後半の鎌倉の歴史が面白かったとのご感想を頂きました。源氏物語の写本と北条氏の歴史を絡めてのお話なんて、私としても本邦初公開でしたから。具体的には伊賀氏の変と青表紙本など。

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2014.7.10 ツイッターより転載…建長寺様の七夕講演が無事に終わりほっとしています

7月2日
来週月曜日の建長寺様での講演「七月七日と源氏物語」のパワポの編集はひとまず終えて見直し段階に入っています。中身が雅なので編集していても現実感が薄らぐほど気分いいです。先日ツイートの七月七日は書物の虫干しの日のスライドを作りました。

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7月4日
月曜日の七夕の日の建長寺様の講演。タイトルは「七月七日と源氏物語」。鎌倉の源氏物語「河内本源氏物語」は七夕の日に完成しました。だからどうしても七夕の日に講演させて頂きたかった。それを建長寺様が受け入れて下さいました。親行の識語です。

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鳳来寺本『源氏物語』識語:嘉禎二年二月三日ニ校書ヲ始メ、建長七年七月七日、其ノ篇ヲ果ツ。時ニ雁字終点ノ朝也。更ニ紫式部ノ往情ヲ暗ンズ、牛女結交ノ夜也。遥カニ驪山宮ノ昔ノ契リヲ思ヒ、翰ヲ染メ、牋ヲ操リテ、慨然トシテ記ス。朝儀大夫源親行 (花押)

スライドの背景写真は、今年の建長寺様の花祭り。法堂のしつらいです。七夕の朝、「河内本源氏物語」の完成に感慨に耽る親行の胸に去来したのはまず紫式部であり、そして七夕の夜に愛を囁き合った「長恨歌」の玄宗皇帝と楊貴妃でした。

7月5日
七夕の建長寺様講演「七月七日と源氏物語」用スライド、最後の一枚です。昨日upさせて頂いたたように、鎌倉の『源氏物語』は七月七日に完成しました。それを記念して「七夕は鎌倉の源氏物語の日」にしたいなあというのが私の願いです。

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パワポが完成してそれを入れたusbを持って歩く生活になりました。万が一pcが壊れたり盗まれたりしても大丈夫なように。私の講演は内容は難しいのですが、パワポの映像でお話するから歴史絵巻の映画を見るのと同じ。皆様「楽しかった~」「わかりやすかった~」と口々に笑顔で帰られます。

ジュンク堂に加藤昌嘉氏『揺れ動く源氏物語』と『源氏物語前後左右』の蛍光ピンクと蛍光黄緑の二冊が並んで棚に。勉誠出版。中古文学会での鋭い司会が記憶に新しく前後左右に注目してたので二冊は両A面というのに納得。小林秀雄を髣髴する眩暈とか蠱惑とかを覚えさせる文章の運び。これは……と唸る。

若い研究者さんは目眩ませられるでしょうけれどたまたま私は今度の「七月七日と源氏物語」のパワポの編集で『源氏物語』の本文研究の呪縛から解き放たれたばかりだから余裕で立読み。「従来の青表紙本・河内本という分類に意味がないには同意するがだからといって分類が主目的は本末転倒」にすっきり!

『源氏物語』の写本は池田亀鑑先生によって青表紙本と河内本とそれ以外の別本に分類されていたのが、最近の研究の主流は青表紙本と河内本を分けるのは意味がないから甲類、それ以外を乙類にと。私はそれでは光行が鎌倉にもたらした「河内本源氏物語」の存在が消えてしまうので反対でした。が、加藤氏の分類自体が『源氏物語』研究として本末転倒というのはいいですね! 私はあくまでも鎌倉の『源氏物語』として「河内本源氏物語」という言葉を使っていきますが、それはもう国文学的見地から離れる覚悟ができたから。鎌倉の源氏物語研究は新しく「文化」という視野で今後を進めます。

7月6日
一昨年には実現まで2,3年かかると思っていた事が、昨年秋に今年させて頂けることが決まり、でも信じられなくて何度も何度も疑っては確認してきたことが明日に。鎌倉の源氏物語。建長寺様での七夕講演。パワポを見直しています。

7月7日
折角の七夕に雨ですが、熱中症になるような猛暑にならなくてほっとしています。建長寺様の七夕講演。奇しくも今までの集大成となって越しかた方行く末を振り返る事となり、しばし感慨に耽りました。特に新人賞受賞後の挫折。その時の傷や環境が変わった為の人脈が鎌倉の源氏物語研究に生きた事に。

撮れなかったけど、鎌倉駅の上に半月のような月に雲がかかって朧月。山吹色に近い濃い色でした。今日の日の記念に目に焼き付けてきました。

建長寺様に桔梗が咲いていました。唐門と東屋のあるあたりに花供養等の三個の塚があり、そこに。ここだけ建長寺様の境内となんか異質と思ったら、長谷寺の造園師さんの手と。風情が優しく女性的です。

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建長寺様の傅大士@仏殿  先月の禅研究会では経蔵がテーマで、傅大士という人の話がでました。そうしたら誰かが建長寺様にもありますねと言われたので、今度行ったら撮ろうと思っていて撮りました。奥の暗い所にいられます。

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7月8日
梶の葉と折鶴。昨日建長寺様の七夕講演に筑波からいらした方がお土産に梶の葉を大量に持ってらして配って下さいました。鶴は休憩時間に鶴を折っている方がいられるなあと思っていたらなんと私に下さる為でした。日本ていいなあと思いました。

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梶の葉 2。先程のは折鶴に合わせて小さな梶の葉を選んで撮ったのですが、こちらのほうが鋭い剣先のようで立派です。

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昨日の建長寺様の七夕講演の不思議。休憩時間の廊下で折鶴をはじめ、何人かの方に次々とこれをと差し出され、10分しかないから深く考えないままお礼を言って受け取ってまとめて帰ってきて一段落した今頃になって見たら、のど飴や82円の切手シートやお懐紙等の身近な小物。不思議な親近感を覚えています。(のど飴はご自分たちがとった後の残りの袋。あんなにしゃべりっ放しでのどが渇いたでしょ、と持ってきて下さり、一個頂こうとしたら、あ、袋毎どうぞというもの。親しみが湧きました!)

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2014.7.1 ツイッターから転載…建長寺様での講演「鎌倉の源氏物語誕生秘話 七月七日と源氏物語」用パワポの編集に入って思うことなど

6月25日
建長寺「鎌倉禅研究会」のお知らせ: 特別例会 七月七日(月)13:00~16:30 第一講 織田百合子「源氏物語誕生秘話―七月七日と源氏物語―」。第ニ講 小川剛生先生「武士はなぜ和歌を詠むか」。聴講無料。入山料(三〇〇円)。

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6月26日
金沢文庫のボランティアガイドをされている方々への先日の講演。企画して下さった方のメールでは反響が大きく、参加できなかった方から配布資料を欲しいという声が多く寄せられて、結局不参加者全員に配ることにしたと。「金澤の郷土史にとって大事な一日となりました」と。よかった!

古いヒーリングサウンドのCDをみつけて聴いていたら嵌まってかけっぱなしに。鎌倉の源氏物語が解明できないうちはと十年間音楽を断っていたから突然の回帰に殆ど中毒的。音楽は陶酔するから避けてヒーリングサウンドならと思ったのに陶酔どころか瞑想。と思ってジャケットを見たら瞑想の為のでした。

『建長寺たより』第六十五号。下段に公開講座「鎌倉禅研究会」のお知らせがあります。第九十九回特別例会 七月七日(月)13:00~16:30 第一講源氏物語秘話 織田百合子。第二講武士はなぜ和歌を詠むか 小川剛生先生。

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講演「源氏物語誕生秘話 七月七日と源氏物語」用パワポの編集に入りました。といってもまだこの一枚ですが、とりあえず新月の今日のうちにはじめたくて。タイトルスライドです。考えて桜の建長寺様山門の写真を使いました。

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6月27日
おはようございます。瞑想のCDから離れられずに聞き入っています。何もする気が起こりません。朝なのに。十年間ずっと突っ走ってきたからたまにはこれもいいかなあと自分に許して聴いています。昨日きっぱりとある事を棄てたら向こうからそれが入ってきました。固執してたらたぶんなかった事。

建長寺様の講演「七月七日と鎌倉の源氏物語」用スライド。紫式部が二年間過ごした福井県武生では、それを栄誉に紫式部公園を造ったり、源氏物語アカデミーを主催する等しています。鎌倉にもそういう動きができるのを願ってこのスライドを作りました。

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源氏物語アカデミーに参加した時、二泊三日のプログラムで費用もかさむのですが、毎年の参加を楽しみに全国からの常連さんが多いのに驚きました。鎌倉にも『源氏物語』の文化があったのなら、そういう文化への貢献もできるはずと思って講演を続けています。七夕を鎌倉の源氏物語の日にと。

瞑想のCDを聴きながら寝ていると眠りが深い気がします。建長寺様の講演「七月七日と鎌倉の源氏物語」用パワポ、昨日は白河院院政時代まできて系図を作りました。この院政時代を後嵯峨天皇が範として鎌倉の源氏物語がという構図の講演になります。

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6月28日
「二つの院政期、そして前者に発生した物語が後者で花開くという構想、興味深いものですね」と、先程ツイートの内容を報告させて頂いた先生からお返事頂きました。成程と、今度は私が納得。「後者で花開く」はいいですね!それが鎌倉の『源氏物語』です。跳ね返ってくるご感想でステップアップします。

『増鏡』に後鳥羽院が「夏の頃水無瀬殿の釣殿に出でさせ給ひて氷水召して」「かの源氏物語にも」と常夏巻で光源氏が釣殿に出て、その御前で鮎が料理された場面を語られていて、後鳥羽院も「光源氏を生きた帝」だったんだなあと。『源氏物語』は宮廷での受容を外しては見えてこないものがありますね。

6月29日
鎌倉の源氏物語問題で写本を扱っているので本文研究みたいになっているのを軌道修正しようと思い、図書館で源氏物語の研究書をざっと目を通してたらおかしな気分に。研究は「在る資料」しか扱えないから、それをその時代の大きな事跡のものと言いきってはばからない。それっておかしいのでは?と。

鎌倉の源氏物語で宮廷の源氏物語受容として王権とかの国文学の論文に目を通していたらなんだか心が殺伐。資料と事跡は点。繋ぐと線。それで今までやってきたのだけれどある意味限界。文化は面。資料に残っていないもののほうが多いけどないのだから仕方ない。なのに研究は想像力を拒否ですものね。

油絵のような雲の空です。(6月29日硫黄島近海M6.2D170km 7月1日小笠原諸島西方沖M6.1D520km)

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7月1日
『源氏物語と鎌倉』を上梓しいざ講演という直前に三月のあの震災。大切な講演。実現して欲しいと願う傍から計画停電。刻々と状況は悪くなる一方で結局中止。運よく十月にできたけどそれまでの半年、定家や光行たちの動乱の世同様の生きた心地がしなかった時代を体験。よくよく鎌倉の源氏物語はこういう

人一人の力では抗し得ない天変地異に遭うものと思っていたらまた念願の七夕講演のまさにその時に被って集団的自衛権の閣議決定。官邸前に集まるたくさんの人の写真を見ながらまた源平の争乱下の定家や光行に心を重ね、今私が成すべき事、月曜日に迫っている建長寺様の七夕講演の準備に集中しています。

時代は人一人の力では変えられないかもしれないけれど、人が一生懸命にした事はその思いと共に永久に歴史の地層に蓄積され、その上に幾時代が積み重なろうと地下水のようにそれは滲み出て心ある人の心を潤す。文学をする事がその助けになるといい。という思いで月曜日の七夕講演を勤めさせて頂きます。

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