2014.8.14 今年上半期の活動のまとめ…FBページにアップしました。
これは四月に行った埼玉県での講演のチラシです。この時、今まで別々のテーマとしていた《鎌倉の源氏物語》と《鎌倉の万葉集》を合体してお話しましたので、いわば集大成のような気持ちになりました。で、副題に「膨大で華麗で波乱万丈の歴史絵巻」とつけた次第。
それからまた、その後も金沢文庫のボランティアガイド等をされているNPO法人横浜金澤ボランティアガイド協会の方々に「北条実時と源氏物語」に絞って講演させて頂いたり、建長寺様で「七月七日と源氏物語」と題する講演をさせて頂いたりで、集大成の気分はどんどん募りました。
昨年までは、こういう講演などのイベントがあると、その都度フェイスブックにアップして記録に残していたのですが、晩秋頃から写真のアップができなくなって、写真を載せられないなんてつまりませんから、FBページとしばらく離れていました。
今朝、何気なく、「ん?、もしかして」と試したことがあります。それまで記事を書いて写真を添付していたのができなくなって困っていたのですが、逆に、写真をアップして記事を添付するのはどうだろうと、思いついたんです。
そうしたら、なんと、できました!
というわけで、昨年秋から滞っていたFBページを、前の通りに使えるようになりました。で、気がつくと、滞っていた分は今年のお正月から七夕の建長寺様まで。まとめたら、なんと、奇しくも今年の上半期のまとめになってしまいました。以下、FBページです。
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写真の投稿ができなかったので、今年に入っての活動がまったく記録されてませんでした。なのでまとめてここに記しておきます。七月七日の建長寺様七夕講演までこんなふうな活動をしていました。
1月~3月 よみうりカルチャー横浜教室
【写真でたどる 源氏物語と鎌倉】
1月19日 多摩交流センター【鎌倉武士たちの『源氏物語』】
2月22日 日野自動車栄輝会【鎌倉の比企一族と『万葉集』】
2月~5月 調布市民講座
【冷泉為相と六浦路と称名寺】
4月23日 国立女性教育会館【鎌倉の源氏物語と万葉集】
6月22日 NPO法人横浜金澤シティガイド協会【北条実時と源氏物語】
7月7日 建長寺【七月七日と源氏物語】
2014.8.10 ツイッターから転載…『北条時頼と源氏物語』第二章「ファーストレディ松下禅尼」をPDFにしてアップするまで
7月30日
歴史は人の思いと動きの結果です。歴史という大河の中にはたくさんの人の思いと痕跡が残されています。或いは寺院、或いは古典、若しくは作品、若しくはただ痕跡として。文献史学からはずれているために見落とされて語られてこなかった歴史は膨大です…というようなキャッチコピーを考慮中です。
7月31日
執筆中の『北条時頼と源氏物語』。第二章「ファーストレディ松下禅尼」のための、時頼と安達氏の関係系図を作りました。
今年はじめての蝉しぐれ。ひぐらしもあちこちで@井の頭公園雑木林。
8月1日
唐突ですが仏画では宋風が好きです。たまたま今建長寺様の売店で購入した「宝冠釈迦三尊像」の絵葉書がでてきて改めて思いました。この仏画は建長寺史を読んでいたら開山蘭渓道隆が請来されたものとか。成程と思った次第。水色の色彩がとても綺麗です。
8月2日
昨日の建長寺様所蔵「宝冠釈迦三尊像」。画像検索した時にこの画に触れた論文があったのでダウンロードして拝読したら、鎌倉地方特有とされている仏像の「法衣垂下像」の規範だったかもしれないと。蘭渓道隆が請来したこの仏画から時頼たちが新たな形式として造り出したのが法衣垂下像、または遊戯坐。
東慶寺の水月観音像の優雅な遊戯坐像は憧れでしたが、この形式が鎌倉特有といわれ、今まで「鎌倉地方」となんとなく貶められていたのに違和感を感じていたのですが、これは『吾妻鏡』が建長寺創建を書きながら、その後の中国僧などの禅宗の興隆を書かなかったからなんですね。
その為に鎌倉には武士の文化しかなかったようなイメージになって、東国の武士が造った仏像だから田舎くさい「地方」の特有と。そうではなく、中国僧という一級の文化が鎌倉で繁栄した結果が、法衣垂下像・遊戯坐像になったとしたら、今までの歴史観っていったい何なの!といった感じ。
8月3日
時頼の原稿に戻りました。途中別件に手をつけてしまうと原稿の集中体制に戻るのが大変。昨夜は気乗りしないのを睡魔と闘いながら無理矢理引っ張ってなんとか軌道に。なんと時頼母松下禅尼の出自を書いていて景盛に。突然、頼朝の時代に戻ってしまっています。松下禅尼は比企尼の娘の丹後局の孫です。
再掲ですが、松下禅尼の系図です。比企尼―丹後局―景盛―松下禅尼―時頼。この血筋はただごとではないです。
鎌倉に所々残る、というより、鎌倉にだけ残る仏像の法衣垂下形式。それは、武士の都だけの観念で消されていた中国僧の到来で鎌倉にも栄えた南宋文化の遺品だったことがわかり、今朝の内心の呟きは「時頼はこんなちっぽけな鎌倉を目指していたのではない!」に。従来の鎌倉観の一新です。時頼観かも。
メモ: 思いついたら止まらなくなって。時頼は四歳まで過ごした六波羅で、定家が完成させたばかりの青表紙本源氏物語を見ている。なぜなら父時氏が定家と親交あって、六波羅の任が終り鎌倉に帰る時、為家が見送りに遣わされた程だから、きっと家族ぐるみのつきあいで、時頼も定家宅に連れられて行った。
書きはじめの時に苦しむのは灌漑用水を造ろうと必死に固い大地を掘っているのに似ている。原稿が興に乗って次々にアイデアが浮かぶのは、掘り終わった用水路にさらさらと水が流れるのと同じ。と、そんな事を思う一日の終わり。ここまでくるのが大変だけど、ここまで来たら、楽しい!
8月4日
昨夜時頼母こと松下禅尼を書くのに父安達景盛を書いていたら、そうだ景盛もこの時期高野山にいて京都に近かったから、娘夫婦が六波羅探題に赴任したなら訪ねたはずと気がつき、これも書かなければと思う。想像を張り巡らさなくても人の動きで京都時代の時頼の幼年期が埋まっていく。
そうよね、時頼誕生は景盛にとって孫だもの。当然駆けつけたはず。と、うかつさに呆然。こんな連続。
思うことあって書いておきます。昨年、講演させて頂いた後、研究者さん方からのご反論で傷つく事があり落ち込んだら、ある方に「でもこれは世界で貴方しかやってないことをやってるんだよ」と励まして頂きました。まだまだ私一人の世界ですがいつかみんなが享受できる世界になるよう頑張ります!
それとは別に、『北条時頼と源氏物語』は面白いくらいに人脈が繋がってドラマを見るよう。文学っていいなあ、って思います。網野善彦先生が書いてらしたけれど、「文学は遅れてやってくる」。文学こそ集大成なのでしょうね。発酵を待ってます。
丹後局が病気になった時、頼朝が心配して甘縄の盛長邸を訪ねたり祈祷して、癒えると安堵と『吾妻鏡』にあるくらいに頼朝に愛された女性。その丹後局の子が景盛で、景盛の子が松下禅尼。つまり時頼の母は丹後局の孫。比企の乱を境に丹後局は恐らく薩摩に。その頃松下禅尼が生まれているから禅尼は丹後局
と直接には会っていない。けれど、頼朝が訪ねた丹後局の家で松下禅尼は生まれ育った筈だから(時氏が亡くなって帰った実家がその邸だから)、時頼母は丹後局の話を聞いて育ったと思う。更級日記の作者が源氏物語に憧れたように、少女時代の時頼母も丹後局に憧れたのではないかなあと想像しています。
いったいに比企氏の女性は妖艶なよう。丹後局だけでなく、頼家の若狭局、義時の姫の前など。その血筋の松下禅尼だもの、彼女も美しかったのだろうなあと。夫の六波羅探題赴任で上洛し定家と交流するのですが、そんな時『源氏物語』に触れる話も出たでしょう。その膝元に2,3歳の時頼がいました。
8月5日
吾妻鏡の私の興味は京都から将軍が来るようになった後半から。なので丹後局と頼朝の条の現代語訳を持っていないので図書館でコピーしてきました。進行中の『北条時頼と源氏物語』第二章「ファーストレディ松下禅尼」を書き進めています。定家との交流を綿密に書いたのは禅尼が上東門院を尊敬していたと
いうから。上東門院といえば紫式部が仕えた中宮彰子。鎌倉にいて尊敬するほどの知識を得られるはずないから、彼女が得たのは夫の時氏と一緒の六波羅探題赴任時代で、定家との交流でだっただろうとの推測。松下禅尼は国母としての中宮彰子にいずれ自分が鎌倉の執権の母になった時の責任を倣ったのでは。
8月6日
『北条時頼と源氏物語』第二章「ファーストレディ松下禅尼」はこれから上東門院を書くのですが、テーマをみつけた時のわくわく感と対称的に没頭した疲労困憊を思うとまだ手つかず。かかったら第二章終了だから第三章は?と考えて、だんだん宝治合戦とかに入っていくのだけれどこれもまた大変だなあと。
そういえば。松下禅尼こと時頼の両親の時氏夫妻が六波羅探題で赴任したちょうどその時、定家が「青表紙本源氏物語」を完成。年譜を見たらその頃鎌倉から光行が上洛しているので、2,3歳の時頼も交えて、定家宅で、時氏夫妻と光行が合流し、全員で「青表紙本源氏物語」を眺めた事もあったなどと妄想。
上東門院の仏教信仰について書き進んでいたら気分がすっかり道長の経筒・上東門院の比叡山横川如法堂に納められた経箱になって、時頼の原稿を書いていることを忘れそう。経塚を追って調べていた事があるので懐かしく。経塚論攷の三宅敏之先生の事も思い出されてなど。
8月7日
上東門院が延暦寺横川如法堂に納めた経箱。女院の仏法にかける強い意志が感じられる遺品です。これは覚超の法華経奉納に協力てのこととか。覚超は銅筒として納めたのですがたしか落雷で焼失。現在残っているのは上東門院の経箱だけとか。綺麗です。
進行中の『北条時頼と源氏物語』第二章「ファーストレディ松下禅尼」、ほぼ終了。明日校正してまたPDFにします。松下禅尼が上東門院を尊敬したということで上東門院を書きましたが、あまりに立派で、後半がぐっと引き締まりました。さすが国母。上東門院の思想が時頼に引き継がれたかも、などと。
今日の雲には勢いがあります@三鷹市
8月8日
最近一条天皇の愛は定子にだけあったようなことがどんどん広まって美談のようになっている風潮が嫌いです。歴史的事実は知りませんがその度に彰子の心中を思ってしまって辛いから。と思っていたら年代を見たら同時代に天皇をとり合った訳でもないし。時頼を書いていて上東門院について調べたら
こんな賢い女性がこの世にいるだろうかと思うほどの女性。書き終わって心が凛と引き締まって一晩あけてもまだ。これでは賢帝一条天皇も一目置かれただろうなと。その凛とした強さに松下禅尼は惹かれたのだろうし、もしかして時頼にもその資質が引き継がれているのかもという思いが捨てきれません。
上東門院の賢さ。昨日女院の華麗な経箱をご紹介しましたが、それを埋納する時彰子は反対したそう。埋納は僧侶らの「経典が朽ちるのを防ぐ為に」でした。彰子の反論は「浅き人の目には、朽ち損なわれ給ふと見る時ありとも、実相の理は常住にして朽ちせず」。真理を見通した女性だったよう。
真面目な人の系譜、上東門院ー松下禅尼ー時頼、などという系列が心に浮かんでいたのですが、彰子の「実相云々」を読んだら、ただの真面目でなく、本質を見る人の系譜だと思いました。
8月9日
7月13日の夕焼けの空。撮りっ放しで忘れていました。やっとPCに取り込んで。まだ水色の空が残る夕焼け空は中世絵画の背景のよう。色彩が無限で撮っていてももう無限としか。
北条時頼と源氏物語第三章は第四代執権経時と将軍頼経かな。と思考中。ここのところをずっと解明したく思っていたのですが機会がなくてそのまま何年も。折角だからやってみるか、と。執権対将軍家というふうな教科書的図式でなく有機的な人と人の繋がりを。いよいよ頼経か~。そして九条家。複雑そう。
8月10日
北条時頼と源氏物語』第二章「ファーストレディ松下禅尼」。時頼の母松下禅尼は、夫時氏の六波羅探題赴任に従い京都で六年間過ごします。そこで定家と交流。『源氏物語』の話から紫式部が仕えた上東門院を教えられて、国母上東門院を敬慕します。 http://twitdoc.com/370G
『北条時頼と源氏物語』第二章「ファーストレディ松下禅尼」をPDFにしました。『徒然草』の障子貼りでつつましい女性として有名な松下禅尼ですが、二十代の頃夫時氏の六波羅探題赴任に従って六年間京都に滞在しています。いわばファーストレディ。『徒然草』とは全く違う松下禅尼を書きました。