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2014.11.29 鎌倉文学館講座室をお借りしての講座【鎌倉の歴史を楽しむ会】第四回「『十六夜日記』と浄光明寺周辺」のお知らせ

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鎌倉文学館講座室をお借りしての講座【鎌倉の歴史を楽しむ会】第四回「『十六夜日記』と浄光明寺周辺」のお知らせ。

日時:12月2日(火)13:00~

会場:鎌倉文学館講座室

参加費:無料。各自入館料をお払い下さい

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2014.11.24 ツイッターから転載…15日/鎌倉の湘南邸苑文化祭で旧満鉄総裁山本条太郎邸の文化の贅を堪能、17・18日/建長寺様開山蘭渓道隆生誕800年法要とその前日の記念講演会でのパークホテル宿泊、22日/鎌倉ペンクラブの講演に行って等、ほぼ一週間のうち三回も鎌倉に

11月13日
『北条時頼と源氏物語』の原稿。第七章は漠然と蘭渓道隆が残した常楽寺の文殊菩薩像と建長寺の宝冠釈迦如来像について書きたいと思っていたのだけれど、頂いたご本を拝読していたら自ずと思考が整って「時頼と建長寺の文化」となりました。建長寺建立当時の鎌倉は今と全く違った文化と賑わいです。

11月14日
『東アジアのなかの建長寺』(勉誠出版)。建長寺様で毎月行われている禅研究会が今年100回を迎え、また今年が開山蘭渓道隆の生誕八百年の記念の年にあたるために企画・刊行されました。村井章介先生はじめそうそうたる執筆陣でいられます。http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100397

11月15日
鎌倉に向かっています。今月に入って何回目の鎌倉だろうと思いながらこれで終わりでなくまだあと最低二回は。しかも今度は大変な事になりそうでどうしようと緊張しています。毎年11月は私にとって特別な月なのだけれどやはり今年も何かありそうです。

今日も金沢文庫研究を持って出たのだけれど、途中留守電に入っていた用を聴いたら緊張して、ぼうっと車窓を眺めています。晴れた秋の空に空気が澄んでさわやか。逆光に薄が銀の輪郭を描いて綺麗です。

今日は鎌倉のいつもは非公開の邸宅、旧満鉄総裁山本条太郎邸を建築の先生のお話を伺いながら見学。それにしても見事な別荘文化でした。

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旧山本条太郎別荘から相模湾遠望。茜色もほのかな夕暮れです。

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今日の鎌倉はいつもの連続講座と無関係なのだけれどいらして下さった方やチラシでご存じの方が何人かいらして講座の話題に。当日伺えなかったご感想を頂いたり、来月も行きますとおっしやって頂いたり。ある方からはあまり聞いた事のないテーマばかりですねと。三回やって少しずつ浸透してきています。

11月16日
そう何回も鎌倉には行けないし、だからといってスニーカーの場とヒールの場を一日でこなすのは無理と悩んでいましたが、ふっと逆にすればいいと思いついて、スニーカーとカジュアルな上着をケースに詰めていくことにしました。これで午後の有効活用ができるかなと。

11月17日
朝から昔書いた小説が心に浮かんで離れないのは主人公の白拍子が貴顕に推参するのに萎縮したがる自分を一生懸命励ましたから。それと同じだと。知らない世界に入っていくのはいつになっても嫌ですね。できるなら逃げたい。でもここを乗り越えなければ次はないから白拍子のように自分を鼓舞しています。

鎌倉に向かっています。つい二、三日前に来たばかりなのに、あの時はまだまだだったのに、車窓から見える木々が大分色づいてきました。

鎌倉の海。今日は夜の海が見られます!

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建長寺様開山蘭渓谷道隆の生誕800年記念講演、蘭渓道隆語録を作られた佐藤秀孝先生と、『東アジアのなかの建長寺』を監修された村井章介先生のお話を拝聴した後夕食会に。終わって今は皆様それぞれたぶん夜明かしの二次会。私は部外者だからお邪魔にならないよう一人部屋に帰ってきました。

村井章介先生もおっしゃっていましたが、時頼の時代の文化を今の視点で見たら間違うと。禅宗とか律宗など宗派分裂は江戸時代になってから。時頼の時代には交流し助け合っていたと。日本で禅といえば東山文化、そしてわびさび。時頼の時代はその前なんです。

それにしても今日の夕食会のお坊様方率の高かったこと。八割方はお坊様だったでしょうか。それもそうそうたるご面々。私が思うのは、こういう時のお坊様様方の所作の美しさです。日常では絶対に遭遇できない美しさがそこにはあって、日本はこれを忘れてはいけないといつも反省します。

念願の鎌倉の海を眺めてきました。スマホではこれが限界。

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『東アジアのなかの建長寺』を読んで納得した事。元寇の時、鎌倉幕府は宋から渡来した僧侶から元のリアルな情報を得ていたから、予想もついたし判断が的確だったと。鎌倉幕府が鎮西探題を設けて必死に対処したから難を逃れたまでは知ってたけど、その陰に禅僧の存在ありとは!

禅というと宗教の問題に思ってしまうけど、村井章介先生もおっしゃってましたが、時頼の時代を知るには歴史の文献だけではだめ。宗教も美術も文化も全部見渡して初めて全体像が見えます。そうして見た時頼がなんと従来の時頼像と違う事!華やかです。

11月18日
有明の月かなと思う月がのぼる鎌倉の暗い海を眺めています。北斗七星がくっきり見えています。日の出はまだ。

鎌倉の海の日の出。光の道ができました。

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建長寺開山蘭渓道隆の生誕800年記念法要のために飾られた五色の布が靡く三門です。

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建長寺様を出て鎌倉駅のロッカーに入れていたスニーカーを出してヒールと履き替え、いざこれから写真撮影モード。お寺様の法要は別天地。もっと浸っていたいけど、そうもいかないから、気持ちの切り替えにしばし休んで始動です。

ずっと撮りたかった亀ケ谷切通の鎌倉駅側入口。反対の建長寺様側は撮ってあるのですが。それと、浄光明寺様との位置関係を把握したくて訪ねました。背中合せだけど近かったです。

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11月19日
11月18日の有明の月です。

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11月18日の建長寺様開山蘭渓道隆生誕800年法要開始前の法堂内の様子。昼に建長寺様がアップされた法要の動画をRTさせて頂きましたが、それは時頼が見て体験した禅宗のほぼそのものと思ってご覧頂けたらと思います。

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『吾妻鏡』に建長寺は建長5年の創建落慶供養の記事しかありません。その為に従来の時頼像からは禅宗文化が欠落しています。が、村井章介先生が言われてますが、建長寺は当時の高等教育の場、つまり学問の場でした。蘭渓道隆は日本に正式の禅宗を伝え、時頼は二人で相談してこういう高度な文化を鎌倉に現出させたのでした。『吾妻鏡』だけでは見えてこない時頼像です。それを把握するためには建長寺様に伝わる文化や人間の交流を加味しなければいけません。今回私が『北条時頼と源氏物語』を書いているから、それなら実際の法要をと観る機会を頂いたのでした。時頼の高度な知性がそこにありました。

11月22日
時頼没の日に鎌倉。これも因縁かしらと。今朝「一大文化の潮流」という言葉が閃いて、時頼がもたらした禅文化はまさにそうだと愕然。鎌倉は今まであまりに武士の都の範疇に囚われて、こんな凄い文化の潮流を築いた人を矮小化してしか紹介してない。鎌倉の源氏物語と同じ事がここでも起きていました。

文化は文化の価値を知る人にしか理解できない。これは鎌倉の源氏物語をしてきていろんな方に訴えてそのご反応で知った実感。源氏物語がなんだとか文献に書いてないからと一蹴され続けましたが、心ある方は即座に反応して下さった。書かれていない事を読むのが文化の力です。

安達泰盛邸跡という鎌倉の御成小学校。機会がなく撮ってなかったから、今日は早く出て午後の用の前にまわりました。

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そうしたら、なんと、道を隔てて問注所跡碑が。やはりここは当時の一等地ですね。位置関係がわかるように撮りました。

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鎌倉駅に戻ってきました。疲労が溜まっているから賑やかな観光客の方たちのなかで満身創痍の武士みたいにとぼとぼ歩いてます(笑)。これから鎌倉ペンクラブの講演で浄智寺ご住職の朝比奈恵温師のお話を伺います。

講演が終わって鎌倉国宝館に行く途中です。昨年開催の「北条時頼とその時代」展の図録を買いに。昨年は関心なかったのに、今頃になって重要になりました。鶴岡八幡宮に夕陽が映えて綺麗。この太鼓橋は中世の文献では赤橋となっています。昔は登って渡れたのに。

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朝比奈恵温師のお話は素敵でした。鎌倉の建長寺・円覚寺という修行道場を持つ寺院には、今も、何百年も前と変わらない厳しい修行の生活を続けている人がいるというお話。私たちの目に見えないところにある奥の深いお話には感銘などといった常套句で片づけられない感慨を覚えました。

蘭渓道隆が常楽寺から建長寺に移るのに三時間かけての盛大な行列だった小袋坂の道を通りたくて鎌倉から大船行きのバスに。時刻表を見て15分待つ覚悟したのにすうっと目の前に。週末の渋滞で前のバスが遅れたのかも。ラッキーとばかりに乗って大船に着きました。のんびり帰ります。

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2014.11.12 ツイッターより転載…鎌倉文学館講座室をお借りしての【鎌倉の歴史を楽しむ会】第三回「『とはずがたり』二条と鎌倉の人たち」まで

11月1日
十一月になりました。私にとって特別な月です。運気があがるという。今年は何があるかなと毎年楽しみに待っています。と思ったら今朝もう素敵なメールを頂きました。それからお電話も一本。幸先いいスタートでこの一か月乗り切ります! 撒いてきた種が着実に芽を出してきています。

『北条時頼と源氏物語』の原稿。第六章「北条時頼と蘭渓道隆・建長寺建立」終了。一週間別件で手間取り予定が狂ってしまったので焦っています。とりあえず一稿終了。ほっとしたところです。壮大な宇宙感覚のような建長寺建立を追体験できて幸せです。それにしても時頼は凄い!です。

11月2日
お茶の花が咲いています。

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『北条時頼と源氏物語』第六章「時頼と蘭渓道隆・建長寺建立」脱稿。一日置いて書き忘れていた文章が浮かんだのを挿入。これを忘れてはダメじゃない!と苦笑しつつ。建長寺建立の詳細ははじめて読んだので新鮮でした。常楽寺から建長寺までの蘭渓道隆入寺の三時間にも及ぶ荘厳な行列、観たかったと。

『開山大覚禅師伝』より:入仏式当日は、大覚禅師は百人の警固の武士に守られ三百五人の僧徒と三人の庵者を従えて辰の刻常楽寺を出発、途中行列を作って巨福山に入った。時に午の一刻である。本日のこの盛大な入仏式の練供養に、参加することのできた警固の武士、及び令人(楽人)は、一般参加者と共に、今更の如く大覚禅師の徳を称えると共に、この建長寺造営の大事業を完成した、施主時頼公の偉勲を称賛せざるを得なかった。… こんな行列のあった事を今まで私は鎌倉が舞台のドラマで見たことも聞いたこともありませんから驚きました。時頼のイメージが一新しています。

時頼はたった一人で、といっても蘭渓道隆と相談しながらですが、見た事もない巨大な中国禅の伽藍を建立する事を決め実現したのです。頼りとしたのは京都で東福寺を完成させて開山になっている円爾。殆どこの三人で鎌倉に今では普通になっているあの建長寺の光景を出現させたのでした。

今、私の頭の中で時頼は、殆ど織田信長です(笑)。大胆で決断力があって、行動力があって迅速で。違うのは、時頼が宝治合戦のような事を二度としないために建長寺を建てたという事。求道の人、時頼ならではの行動でした。

謎。(これで連ツイ最後)。あれだけの大伽藍の建立を躊躇なく殆ど一瞬にして決断し、京都の円爾に相談をかけ、日本にはまだない建築様式、禅宗文化だから、建築も調度も恐らく全て輸入。財政に懸念が全くない。こういう事業家時頼のイメージが、廻国伝説とただの質実剛健で固まっているのは何だろう。

11月3日
リンドウの紫が綺麗でした@海蔵寺

建長寺様宝物風入。初めてなので鎌倉国宝館の学芸員さんが解説して下さる講座に参加して拝聴してから宝物を拝観。時頼の原稿で深まっている思いに重ねての学芸員さんのお話は興味が尽きなかったです。外に出たら屋根の緑青がいつになく目に入りました。

今日心に残った一つ。蘭渓道隆は眼光が鋭いと誰もが言っていて、それを表現したからか、頂相の目の部分に金泥を塗っている。頂相の目に金泥を使うなど、蘭渓道隆以外にないと。実際の宝物ではそこまで確かめられませんでしたが。

建長寺様仏殿ご本尊の地蔵菩薩様。だいたい何かが終わった帰り道に通ると夕刻も遅い時間で、西陽が射し込んでいたり日中に見るのと違う光景。今日はもう灯が灯されていて初めて見る仏殿内でした。

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11月4日
昨日の海蔵寺様のリンドウ(1)

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昨日の海蔵寺様のリンドウ(2)

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昨日の海蔵寺様のリンドウ(3)

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昨日の海蔵寺様のリンドウ(ラスト)

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昨日の海蔵寺様のリンドウは手入れの行き届いた境内の艶やかな緑の苔に映えて素敵でした。寺院にはその寺院特有の植栽がありますね。

昨日の建長寺様宝物風入では中国からいらした観光客のグループと一緒になりました。そうしたら皆様が突然ご本尊と両脇に並ぶ一対の蘭渓道隆像に向かって五体投地の拝礼をされはじめたんです。蘭渓道隆は宋からいらした方だから中国の方にとっては「ご自分の国の」なのでしょうね。それを実感しました。

吉祥寺がクリスマス仕様になっていました。

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はじめました。来週火曜日に迫った鎌倉文学館講座室をお借りしての講座【鎌倉の歴史を楽しむ会】第三回「『とはずがたり』二条と鎌倉の人たち」。タイトルスライドです。特異な人生を送った二条に敬意を表して青い薔薇の写真を使いました。

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前回使用した歴代将軍図に、二条を入れ込みました。七代惟康将軍更迭を見送り、八代久明将軍を迎える準備に右往左往する鎌倉の人達を補佐します。久明将軍は二条を翻弄した後深草天皇の皇子。微妙過ぎる二条の立場です。とはずがたりは実話です。

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11月5日
昨日無事にとはずがたりにとりかかったものの時頼の原稿終了直後から気にかかって離れない疑問。『吾妻鏡』に建長寺の記事は落慶供養のみ。従来の説では時頼が旧仏教と分けていて禅は政治に関係なかったからとか。が、この時実時は?とか金沢北条氏は?と思うと『吾妻鏡』の編纂とも関わってくる気が。

もう少し後に時頼が実時と一緒に西大寺叡尊を迎えた時は、実時が使者となって頻繁に宿泊されている新釈迦堂の叡尊を訪ねます。実時は禅とは関係なかったようで、金沢北条氏が禅と関わってくるのは二代顕時から。ここのところ、とはずがたりが終わったら突き詰めて考える必要ありかも。

メモ:血気盛んな経時は危なくて祖父泰時が冷静沈着な同い年の実時を補佐につけた。でも三歳下の弟時頼は彼自身が冷静沈着だから実時の必要はなく、時頼政権の間実時はあまり出番がなかった? 若い時宗政権になり蒙古襲来の対処に重鎮として実時が再び重要になった、とそんな構図が見えてるのですが。

『金澤文庫研究』をご恵送頂いてしまいました。しかも高橋秀栄先生「称名寺の二代長老釼阿と『関東往環記前記』」所収。なんとタイムリーな!と感動しています。釼阿は表白文や廻向文に『前記』の実時の言葉を忠実に引用していたそうです。

仮寝して起きてとはずがたりの編集に集中していますが、今回は歴史ではなく日記なので、まずは日記そのもののご紹介をと本文引用スライドをたくさん作っています。第一部「とはずがたりの全容」第二部「時代や人物など背景説明」第三部「鎌倉の二条」といった構成。久々の国文学、やはり楽しい!

11月6日
原稿を書いたあとにひきずる余韻は二日酔いなんだ!と思った昨夜。やっととはずがたりに集中して時頼が抜けました。今は、実兼……。雪の曙ですが、まったくこういう人に出逢ってしまったら人生変わりますよね。二条にしてもただ後深草院だけが相手だったらふつうなのに。でも、有明の月が現れるか……

【鎌倉の歴史を楽しむ会】第三回「『とはずがたり』二条と鎌倉の人たち」用スライドの一枚。14歳の二条が後深草院の寵愛を得てそのあまりの溺愛ぶりに周囲の妬みを買います。東二条院は後深草院中宮。二条が鎌倉に来た時にまた話題にのぼります。

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二条の家系と雪の曙の西園寺家を図式化しました。二条は源通親の曾孫なんですね。国文学的に大納言雅忠の娘と読んだだけでは理解できず最近知ったばかり。雅忠の父が通光と知り、え!、と遡って確かめて。通光は源光行の源氏物語研究の恩人です。

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作成が後先になりましたが【鎌倉の歴史を楽しむ会】第三回「『とはずがたり』二条と鎌倉の人たち」用スライドの冒頭です。とはずがたりの衝撃性は昭和に入ってからの発見ということも。やっと時頼の二日酔いから抜けたので構成が動きだしています。

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11月7日
『とはずがたり』は時代でいうと後嵯峨院崩御で始まり後深草院崩御で終わります。その両方に「両六波羅参る」とあって六波羅探題の凛々しさが描かれます。後嵯峨院の時の南方が北条時輔。その直後時輔は二月騒動で滅び、二条は人生の無常を感じます。後深草院崩御の時の北方が金沢北条氏の貞顕です。

大宮院は後嵯峨天皇后で後深草・亀山両帝の御母。とはずがたりに大宮院が静養に嵯峨の大井殿にいかれた時に女房として召された二条の記事が。二代の国母としての感慨を述べられてます。ちょうど錦の大井川の写真がありましたので作ってみました。

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大宮院は西園寺実氏と北山准后の娘です。『増鏡』に華麗な北山准后九十の賀の章がありますが、大宮院の計らいで二条はそれに出ます。北山准后は二条にとって祖父の姉。二条の人脈はとても華麗です。図式化しました。

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『とはずがたり』の編集。ようやく二条が宮中を追い出されました。というと非情ですが、追い出されなかったら出家して女西行を志さなかったし鎌倉にも来てません。それにしても妬み,コンプレックスは怖い。今夜から鎌倉部分の編集に入ります。

正応二年(1289)32歳の二条は鎌倉に入ります。極楽寺の僧は京と違わずと書いてから、有名な「袋の中に物を入れたるやうに住いたる」と、鎌倉の第一印象が書かれた箇所をスライドにしました。化粧坂から見た写真は撮ってなくて海の写真を。

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11月8日
鎌倉で『とはずがたり』二条が親しくなった資宗は、霜月騒動で安達泰盛を滅ぼし、平禅門の乱で貞時に討たれた平頼綱の子の一人。兄の宗綱を二条は関白にも劣らない威風堂々と評価。弟の資宗は平禅門の乱で父と一緒に討たれます。図式化しました。

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平頼綱は大河時宗で北村一輝さんが演じられて強烈でした。『とはずがたり』二条が頼綱邸に招かれて会う場面があります。頼綱邸のけばけばしさもとはずがたりの中では異色の強烈さです(笑)。後深草院や西園寺実兼といった一流中の一流の男性を相手にしてきた二条にかかっては鎌倉はかないません。

【『とはずがたり』二条と鎌倉の人たち】用編集ひとまず終了。今回は古典を味わって頂く構成なので本文引用が中心。なのでいつもは写真を130枚位使う処今回は55枚です。ふつうなら字が多いと嫌がられるのに、講座にいらして下さる方は知りたい一心の方が多く、文章が多いといって有難がられます。

11月9日
今お電話を頂いて『とはずがたり』についてのご著書を出されている先生とお話しました。鎌倉で私が語るのも僭越ですからご挨拶のお手紙をさせて頂いてのお電話。とはずがたり、いいですよ、どんどんおやり下さい、と言って頂きました。一先ずほっとしました。貴方のは比較論なのがいいと。

そういえば、比較論という事を別のどなたかからも仰って頂いた事が。いろんな事をしてきたからなあと思います。

前からこだわっている孔雀経ですが今回のとはずがたりがテーマでも出てきます。鎌倉で孔雀経を修した記録の『親玄僧正日記』の親玄が実は二条の従兄妹。このあたりの人間関係と政治的背景、面白いです。略系図を孔雀の写真を背景に作りました。

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11月11日
おはようございます。今日は鎌倉文学館講座室をお借りしての【鎌倉の歴史を楽しむ会】第三回。「『とはずがたり』二条と鎌倉の人たち」をテーマにお話させて頂きます。一時からです。もったいないくらいに知られていない古典『とはずがたり』の魅力をお伝えできるよう頑張ります!

鎌倉が近づいて車窓には薄が風に靡いています。

鎌倉文学館の講座の後お茶して皆様と別れて鎌倉駅です。とはずがたり、こんな文学だったの!と鎌倉の方に驚きと共に関心を持って頂きました。鎌倉の方にはまた独特な感想がお有りと思うのですが、ゆっくり伺えなかったのが残念です。来月は十六夜日記。来月も来ますと言って頂いたのが心強かったです。

車内の女性のファッションが今年初めて見るコーデュロイにニットという素材。秋というよりもう冬近しの感。

11月12日
昨日は鎌倉文学館講座室をお借りしての講座、【鎌倉の歴史を楽しむ会】第三回「『とはずがたり』二条と鎌倉の人たち」の日でした。鎌倉文学館では秋の薔薇が満開。観たいところですが、パソコン一式を持っての移動では土を踏み歩く園内は無理。それで、遠くから一枚。遠くに薔薇園が見えているのがわかって頂けるでしょうか。歩けばすぐなのですが。

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『とはずがたり』は二条という女性が心の機微を交えながら当時の状況を書き連ねているのが特徴。後深草院の愛人という優雅な経験を積んだ人なのに、何でも興味津津で、自分で歩いて目で確かめないと気がすまない質のようです。ジャーナリストの資質があるのかなあなどと思っています。機微がわかって読むと、鎌倉の章は物凄い楽しいです。それが鎌倉の方に伝わったでしょうか。

昨日たまたま刷り上がったばかりのご本を頂いて読み始めたらたちまちもう心は時頼に。とはずがたりも重要だけれど、今の私はやはり時頼と源氏物語の原稿を仕上げるのが最重要課題だなあと思いました。

ジブリの森付近の紅葉@三鷹市

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2014.11.2 ツイッターより転載…『北条時頼と源氏物語』原稿の蘭渓道隆の件で開けました! 2月にさせていただく講演のテーマも「北条時頼と源氏物語」にします。

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鎌倉文学館講座室をお借りしての講座【鎌倉の歴史を楽しむ会】第三回のお知らせです。今回のテーマは『とはずがたり』。日時:11月11日(火)13:00~15:00 会場:鎌倉文学館講座室 参加費:無料。入館料を各自お払い下さい。

10月24日
飛鳥、奈良の仏教が学問仏教であり、平安仏教はそれからの脱皮にあったといい得るが、鎌倉仏教はその脱皮を遂げた。禅が知識や文化としてではなく、心の教えとなったということは信仰の禅となったことに他ならない。鎌倉文化は禅の心の表象であったということである。(古田紹欽『日本禅宗史の流れ』)

↑時頼の原稿を書くのに禅を追っていてなんとなく感じていた事が文章になっていましたので引用させて頂きました。時頼をはじめ、鎌倉時代の禅をする方々が、それまでの仏教の対し方と何か違うと感じ、それがどういう事に起因しているか、そればかりが気になって考えていました。

10月26日
昨夜、時頼が蘭渓道隆に会いました。『時頼と源氏物語』の原稿。博多に上陸した禅師は宋で交流のあった月翁智鏡に呼ばれて京都泉涌寺に滞在。その勧めで鎌倉に下向され寿福寺に。時頼はそこに駆けつけます。教えを乞う内に常楽寺住持にと。それから建長寺建立となって開山に。世紀の一瞬の昨夜でした。

それにしても蘭渓道隆に会った時頼の表情はどうだったのでしょうね。逢いたくて逢いたくてでも逢えるはずがないと思っていた方が思いがけず地元にいらしていて布教活動をされている。それを知った時の時頼の驚きの表情とともにドラマで見たいなあと思ったりしました。目がうるんでいたりしてなどと。

二月にさせて頂く講演、まだテーマを決めてなかったのですが、さっき閃いて「北条時頼と源氏物語」にして頂こうと。先日の台風で担当の方とお会いできず相談が延びていたもの。台風がなかったら別のテーマで決めてたでしょう。これも機縁でしょう。

10月27日
時頼の原稿。大船の常楽寺は鎌倉に着いて寿福寺にいた蘭渓道隆に時頼が会って住持に迎えた寺院。建長寺建立まで純粋な中国禅の布教道場でした。今は大船という鎌倉と違うエリアのイメージでひっそりしていますが日本の仏教史の大変な役割を果たした寺院。書いていてそれがひしひしと伝わってきました。

禅宗史や蘭渓道隆伝では立派な法語が引用されたり百人の僧が参集した等と紹介されていますが、一般の人にはそれがどういう価値のことかわからない。ふ~んといった感じで通過してしまいます。私も建長寺建立までの繋ぎの寺院というイメージでかかったのですが、意味を深めていくと見えてきました。

10月28日
おはようございます。昨日わかった事。(わかるのが遅いといわれそうですが。)蘭渓道隆が常楽寺に入ったら百人の僧が門を叩いたとあるのは、当時入宋したかった各地の禅僧が入宋しなくても常楽寺に行けば純粋な中国禅を学べたからだったんですね。百人は誇張した数字ではなく事実だったということ。

12月に蘭渓道隆が常楽寺に入ったら1月にはもう百人。時頼は4月に寺地を広げて堂を新設という盛況。これはミニ博多化したってことなんだとやっと理解。当時博多が入宋・来朝禅僧の起点で賑わってました。蘭渓道隆の到来でその盛況が鎌倉にもでき、それで時頼も建長寺建立まで思い切れたのでしょう。

現在の忘れられたような常楽寺をみて蘭渓道隆が建長寺に入るまでいた寺院と単なる中継ぎ的にみていてはいけないと思ったのでした。考えてみれば時頼にしてもいきなりあの大規模な建長寺を蘭渓道隆に与えるなどという暴挙はよほどの「勝算」がなければできない。常楽寺で時頼はそれをみたわけです。

原稿は資料を見てただ「百人の僧が参集したそうです」と書いてもつまらない。それで悩むわけですが、悩む裏には必ず深い意味があってそれをつかむまで苦しみます。でも昨日やっとつかめたようなことがわかると原稿は一気に進みます。

やっと全貌がつかめて興奮気味です。道元が鎌倉にきた時、時頼に会っています。道元は禅を学ぶには入宋しなければならない事や博多の状況を話した事でしょう。蘭渓道隆は宋で道元の弟子と会って道元と会いたく思っていました。それで来朝した時手紙を書くのですが、道元がそれを受け取ったのは鎌倉ででした。道元はそれも時頼に話した事でしょう。時頼は蘭渓道隆の名前も博多の様子も、各地の僧がどんなに熱烈に入宋したがって博多に集まっているかを知っていた訳です。だから寿福寺に蘭渓道隆がいると知って駆けつけたし、常楽寺の活況の意味を真に理解できた。これが建長寺建立までの背景です。

今夜は星がものすごく綺麗! オリオンがくっきり。

10月30日
時頼の原稿、先が見えていたのですが所用で二日間無駄にしました。常楽寺から建長寺建立までたどりついてあとはまとめるだけ。本当は常楽寺に残された文殊菩薩像から鎌倉の宋代の文化にも触れたかったのですが、長くなるので次回に。建長寺様の風入と一月の文殊菩薩像開扉を待ってそうしたら書きます。

常楽寺の文殊菩薩堂です。1月25日の文殊菩薩祭以外は開扉されない秘仏とか。『常楽寺略記』に我が国における五文殊の一つ。鎌倉時代の作とありますが、御首は天竺で作られたのを開山蘭渓道隆が宋より請来し、自ら尊容をつなぎ安置と。半跏像です。

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常楽寺には蘭渓道隆お手植の銀杏の木があって、一度倒れたのも彦生えが育って今や大木に。一見したところでは一本の大木に思えるほどでした。建長寺開山という近寄りがたい開山様も常楽寺では親しみを覚えて感じられます。

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10月31日
『源氏物語と鎌倉』の前に書いていた歴史エッセイ「寺院揺曳―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―」をオンデマンド出版しました。詳細をFBに載せました。

http://www.facebook.com/odayuriko.f

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