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2014.11.2 ツイッターより転載…『北条時頼と源氏物語』原稿の蘭渓道隆の件で開けました! 2月にさせていただく講演のテーマも「北条時頼と源氏物語」にします。

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鎌倉文学館講座室をお借りしての講座【鎌倉の歴史を楽しむ会】第三回のお知らせです。今回のテーマは『とはずがたり』。日時:11月11日(火)13:00~15:00 会場:鎌倉文学館講座室 参加費:無料。入館料を各自お払い下さい。

10月24日
飛鳥、奈良の仏教が学問仏教であり、平安仏教はそれからの脱皮にあったといい得るが、鎌倉仏教はその脱皮を遂げた。禅が知識や文化としてではなく、心の教えとなったということは信仰の禅となったことに他ならない。鎌倉文化は禅の心の表象であったということである。(古田紹欽『日本禅宗史の流れ』)

↑時頼の原稿を書くのに禅を追っていてなんとなく感じていた事が文章になっていましたので引用させて頂きました。時頼をはじめ、鎌倉時代の禅をする方々が、それまでの仏教の対し方と何か違うと感じ、それがどういう事に起因しているか、そればかりが気になって考えていました。

10月26日
昨夜、時頼が蘭渓道隆に会いました。『時頼と源氏物語』の原稿。博多に上陸した禅師は宋で交流のあった月翁智鏡に呼ばれて京都泉涌寺に滞在。その勧めで鎌倉に下向され寿福寺に。時頼はそこに駆けつけます。教えを乞う内に常楽寺住持にと。それから建長寺建立となって開山に。世紀の一瞬の昨夜でした。

それにしても蘭渓道隆に会った時頼の表情はどうだったのでしょうね。逢いたくて逢いたくてでも逢えるはずがないと思っていた方が思いがけず地元にいらしていて布教活動をされている。それを知った時の時頼の驚きの表情とともにドラマで見たいなあと思ったりしました。目がうるんでいたりしてなどと。

二月にさせて頂く講演、まだテーマを決めてなかったのですが、さっき閃いて「北条時頼と源氏物語」にして頂こうと。先日の台風で担当の方とお会いできず相談が延びていたもの。台風がなかったら別のテーマで決めてたでしょう。これも機縁でしょう。

10月27日
時頼の原稿。大船の常楽寺は鎌倉に着いて寿福寺にいた蘭渓道隆に時頼が会って住持に迎えた寺院。建長寺建立まで純粋な中国禅の布教道場でした。今は大船という鎌倉と違うエリアのイメージでひっそりしていますが日本の仏教史の大変な役割を果たした寺院。書いていてそれがひしひしと伝わってきました。

禅宗史や蘭渓道隆伝では立派な法語が引用されたり百人の僧が参集した等と紹介されていますが、一般の人にはそれがどういう価値のことかわからない。ふ~んといった感じで通過してしまいます。私も建長寺建立までの繋ぎの寺院というイメージでかかったのですが、意味を深めていくと見えてきました。

10月28日
おはようございます。昨日わかった事。(わかるのが遅いといわれそうですが。)蘭渓道隆が常楽寺に入ったら百人の僧が門を叩いたとあるのは、当時入宋したかった各地の禅僧が入宋しなくても常楽寺に行けば純粋な中国禅を学べたからだったんですね。百人は誇張した数字ではなく事実だったということ。

12月に蘭渓道隆が常楽寺に入ったら1月にはもう百人。時頼は4月に寺地を広げて堂を新設という盛況。これはミニ博多化したってことなんだとやっと理解。当時博多が入宋・来朝禅僧の起点で賑わってました。蘭渓道隆の到来でその盛況が鎌倉にもでき、それで時頼も建長寺建立まで思い切れたのでしょう。

現在の忘れられたような常楽寺をみて蘭渓道隆が建長寺に入るまでいた寺院と単なる中継ぎ的にみていてはいけないと思ったのでした。考えてみれば時頼にしてもいきなりあの大規模な建長寺を蘭渓道隆に与えるなどという暴挙はよほどの「勝算」がなければできない。常楽寺で時頼はそれをみたわけです。

原稿は資料を見てただ「百人の僧が参集したそうです」と書いてもつまらない。それで悩むわけですが、悩む裏には必ず深い意味があってそれをつかむまで苦しみます。でも昨日やっとつかめたようなことがわかると原稿は一気に進みます。

やっと全貌がつかめて興奮気味です。道元が鎌倉にきた時、時頼に会っています。道元は禅を学ぶには入宋しなければならない事や博多の状況を話した事でしょう。蘭渓道隆は宋で道元の弟子と会って道元と会いたく思っていました。それで来朝した時手紙を書くのですが、道元がそれを受け取ったのは鎌倉ででした。道元はそれも時頼に話した事でしょう。時頼は蘭渓道隆の名前も博多の様子も、各地の僧がどんなに熱烈に入宋したがって博多に集まっているかを知っていた訳です。だから寿福寺に蘭渓道隆がいると知って駆けつけたし、常楽寺の活況の意味を真に理解できた。これが建長寺建立までの背景です。

今夜は星がものすごく綺麗! オリオンがくっきり。

10月30日
時頼の原稿、先が見えていたのですが所用で二日間無駄にしました。常楽寺から建長寺建立までたどりついてあとはまとめるだけ。本当は常楽寺に残された文殊菩薩像から鎌倉の宋代の文化にも触れたかったのですが、長くなるので次回に。建長寺様の風入と一月の文殊菩薩像開扉を待ってそうしたら書きます。

常楽寺の文殊菩薩堂です。1月25日の文殊菩薩祭以外は開扉されない秘仏とか。『常楽寺略記』に我が国における五文殊の一つ。鎌倉時代の作とありますが、御首は天竺で作られたのを開山蘭渓道隆が宋より請来し、自ら尊容をつなぎ安置と。半跏像です。

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常楽寺には蘭渓道隆お手植の銀杏の木があって、一度倒れたのも彦生えが育って今や大木に。一見したところでは一本の大木に思えるほどでした。建長寺開山という近寄りがたい開山様も常楽寺では親しみを覚えて感じられます。

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10月31日
『源氏物語と鎌倉』の前に書いていた歴史エッセイ「寺院揺曳―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―」をオンデマンド出版しました。詳細をFBに載せました。

http://www.facebook.com/odayuriko.f

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