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2014.12.31 今年最後の投稿:ツイッターから転載…蘭渓道隆のことなど

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12月31日
中国語が耳に馴染むようにとタブレットで始めた漢詩。やはり最初に聴いた女性の声の静夜思が心地よく今朝も聴いてたら、通りかかった主人が、何、それ、随分音がいいね、と。このタブレットの売りはドルビーオーディオ。迫力あります。技術畑の主人の反応はいつもこれ。中国語には無反応(笑)

Googlemapで蘭渓道隆の故郷、蜀を検索して、かなり内陸なのを見て、こんなに遠いんだと絶句。迂闊にも鎌倉にいらした宋僧の方々を今まで同じ生きた人間として見た事がなかったから、これからそんな事を考えながら時頼の時代を見なくてはと思う。蘭渓道隆は二度と故郷に帰る事はなかった。

思いがけず2014年の締め括りが蘭渓道隆になったのはやはり生誕800年記念の法要に出席させて頂いたから?と思う。それで今年最後のツイートに甲府市東光寺の蘭渓道隆作という庭園の写真をご紹介して一年の感謝とさせて頂きます。2000年撮影。

◇今年も一年、大変にありがとうございました。どうぞ佳いお年をお迎えください。

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2014.12.31 ツイッターから転載…フェイスブックを止めたこと、タブレットで中国語の漢詩を聴いていることなど

12月29日
「大蔵経テキストデータベース」では何ができるのか(変更履歴 はてな版) http://d.hatena.ne.jp/digitalnagasaki/20141228/1419789429 …

↑私が立川市普済寺出土の経石分類を担当した時は法華経の一字検索が出版物であったくらい。多字一石経だったので使わずに大蔵経から金剛経や法華経をコピーして全部手と目で確認しながら半年かけて分類した。データ検索ならあっという間に完了する事を私は体験としてやった。それが今に生きてます。

FBを止める事にした昨夜、やっていてよかったと思う記事。建長寺様には今年宝物館が造られていてそれが立川の普済寺様のご寄贈。遺跡発掘で創建当時の地盤が出た時から経過を見ていて昨夜真っ白な宝物館が完成したのを見ました。まさかこんなところにご縁繋がりとはと不思議。見届けられてよかった。

タブレット、もう少し四苦八苦するかと思ったら結構使える。PCだとデスク作業みたいで疲れるからあまり見なかったのを、PCのない部屋でyoutubeを見る気楽さ。暮れの所用のない時間の過ごし方として呑気に中国語の李白静夜思を聴いてます。慌ただしかった一年の保養に。中国語ははじめて。

暮れの公園。この視角、はじめてですが綺麗。

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FBを止める宣言をして一日たつけれど後悔の念が少しも湧かない。それよりこれからにかける思いのほうが強い。鎌倉の源氏物語のためにここ何年か夢中になって突っ走って来たけれど、それも終わりと思えるのは今年後半のリアルな方々との交流があったから。それを深めて来年からやっていきます。

12月30日
平凡社新書、荘魯迅『声に出してよむ漢詩の名作50』。中国語の音声をダウンロードできるので好きな詩編を選んでタブレットに。暮れの用をしながらはPCでは無理。タブレットだと傍らに置いてこんな贅沢が。蘭渓道隆のいた時頼の時代を感じたく、思いついて漢詩を。

中国語が部屋に響いている不思議。昨日の静夜思は女性の声だったから気づかなかったけど、今日のは男性で、これって創建当時の建長寺がこうだっただろうと実感。何故急に中国語?というと、今年刊行された『蘭渓道隆語録』が当然のこととして中国語。これは語録を手にしただけでは感じがつかめないと。

facebookのアカウントを削除しました。今後は執筆に専念という覚悟に自分を追い込みました。なんか《源氏物語と鎌倉》にとりかかる以前に戻った気分。不思議な境地です。今タブレットで打っているのですが、これもキーボードのローマ字入力が久しぶり。新しいのに昔に帰る気分はやはり不思議。

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2014.12.28 ツイッターから転載…小松茂美氏『平安朝伝来の白氏文集と三蹟の研究』より光泉寺切のこと、今年中にフェイスブックを止めること、タブレットレビューのことなど

12月21日
林温氏「鎌倉仏教絵画考」より。鎌倉武士層の立場からすれば、宋朝禅の宗教性、思想性に対する共感はもとよりあったであろうけれども、それだけでなく、宋朝禅とともに紹介された周縁文化物とでもいうべき文学・芸術についても大きな魅力を感じたに相違ない。伝統的な文化の上に君臨する京都朝廷を統制

しようとする鎌倉幕府にとって、やはり伝統的文化は憧憬の対象ではありつづけたけれども、京都にもない新しい文化を大陸から先取するということがどれほど重大な意味を持ったか、想像することは用意である。禅僧とともにもたらされた文物は彼らを驚嘆させ、魅了する新鮮さと共感性を伴っていた。

↑ 現在の北鎌倉の静謐な雰囲気とはほど遠く、鎌倉時代には進取の気鋭に満ちた活気がありました。禅という枠にとらわれて建長寺・円覚寺様を厳かで静粛なだけでみようとするのでなく、禅のもつ華麗で逞しい活気ある文化を追体験しようとする意識も必要なのではないでしょうか。

12月24日
今朝の空は綺麗でした@三鷹市

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雑木林の上に細い月が昇っていました@井の頭公園

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12月25日
「東京大学史料編纂所に所属する史料読みのプロ42名の選りすぐりの逸話を集めたアンソロジー」とカバー裏に記載ある『日本史の森をゆく』(中公新書 12月刊)をご恵送頂きました。なんと贅沢なご本!と感嘆。逸話を楽しむ以上に史料への対し方を学べるのでは?と期待しつつ拝読させて頂きます。

12月26日
執筆中の『北条時頼と源氏物語』。原稿がまだ仕上がってもいないのにもう表紙のデザインが気になっています(笑)。思うのは自由だし楽しみ。『源氏物語と鎌倉』の姉妹編というより仕上げ編だから対にしたいのだけれど、鎌倉編が金だからといって時頼編を銀にはしたくないしなどと。絵は決まりそう。

↑ 仕上げ編というのは『尾州家河内本源氏物語』にある実時奥書についての見解で進展があったから。今度こそ最終地点に着地かな?と思っています。

12月27日
水に映った木立が綺麗でした@都立有栖川宮公園  今日はこの公園内にある図書館に。時頼筆といわれる光泉寺切白氏文集資料をコピー。

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小松茂美氏『平安朝伝来の白氏文集と三蹟の研究』から「光泉寺切・『白氏文集』断簡11葉」拝読。時頼筆とされるこれらについて「伝承筆者については確証ない」が、「書風から鎌倉時代のものであることは疑いない」とありました。時頼が白氏文集をやっていたか確証が欲しかったので、残念。

そしてこの11葉は二人の筆者になり、それは巻3と巻4をそれぞれが分担したという事。だとするともしその一人が時頼だとして、もう一人は誰? いずれにしても光泉寺切だからといって全部が時頼筆とはいえないよう。建長寺様に1葉あるらしいから、あながち時頼は無関係と断定できない気もするし。

12月28日
昨日は図書館で小松茂美氏の光泉寺切についてのコピーをしてきましたが、それともう一件したのが金沢文庫の永井晋先生『金沢北条氏の研究』から貞顕の部分。六波羅探題に北方南方と両方を就任し長く在京していた貞顕の鎌倉における文化人度は他を圧倒しています。「たまきはる」等書写しています。

今年亡くなられた山中裕先生は金沢文庫の近くにお住まいで文庫の国文学史料にお詳しく、私の「北条実時と『異本紫明抄』」をとても喜んで下さり、こういうのを読みたかった、とおっしゃって下さったのですが、その時永井先生の『金沢北条氏の研究』をとても評価されてました。思い出です。

今日の空は線がいっぱい。先程はハロと幻日ができかけました。

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今年いっぱいでフェイスブックを止めることにしました。もったいないとは思うのですが、少しアナログの世界に籠って考えるのもいいかなという気が募っていて、今その旨を載せました。来年から落ち着いた世界に浸れることを楽しみに。http://www.facebook.com/odayuriko.f

今頃になってタブレットレビュー。Kindle Fire H D です。電子書籍をKindleで読もうと春先に購入してあったのですが、箱から出すこともなく今日やっと。スマホがギャラクシーノートなので、娘がママってスマホは人より大きいのに、タブレットは人より小さいのねと。

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2014.12.21 ツイッターより転載…林温氏「鎌倉仏教絵画考―仏画における鎌倉派の成立と展開」を拝読中のことなど

12月15日
実時の自筆奥書をみつけて鎌倉の源氏物語が新しい段階に入りました。一つの資料が展開をもたらしてくれました。光行さんの時と全く同じ。資料は過去からの囁きかけですね。虚心に耳を澄ませて訴えを聞き取れば当時の状況が見えてきます。二月のペンクラブの講演でお話させて頂こうとこれから詰めます。

井の頭公園、紅葉が綺麗です。

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12月17日
東博が日に輝いていました。JPA展(日本写真作家協会展)を見ての帰りです。

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12月18日
「北条氏の邸宅をさがせ」の見出しに誘われ、秋山哲雄氏『都市鎌倉の中世史』拝読中。なんと、山内にあった義時の「当時館」を泰時が継承して「巨福礼別居」となり、それをさらに継承した時頼がそこに建長寺を建立、と。北条氏は父の別荘跡に寺院を建立する倣いがあるらしいと。

「北条氏の邸宅をさがせ」の秋山哲雄氏『都市鎌倉の中世史』。拝読していますが文献史学者さんでいられながらどこか他の学者さんと違うと思っていたら、鎌倉で発掘をされていた経験がお有りと。道理でと納得。リアルな地面感覚があるからこその「北条氏の邸宅をさがせ」的発想なんですね。

12月19日
連なって飛んでいるように見える雲が出ています@下北沢付近  この写真ではよくわかりませんが、部分的にまさにそう見える雲です。

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12月20日
メモ: 石田博氏「北条時頼と光泉寺切」拝読。國學院雑誌1983年。「光泉寺切」は『白氏文集』新楽府の巻3と4に限られる。挙げられているのは11例。小松茂美氏『平安朝伝来の白氏文集と三蹟の研究』による。時頼筆か否かには触れられず。宗尊親王が古筆の名家だからその関係が強いのではと。

メモ: 納富常天氏「道元の鎌倉教化について」拝読。駒澤大学仏教学部研究紀要1973年。檀越波多野義重の招請によるとして、義重のこの時期の在鎌倉事項が一覧に。これは確認できて嬉しい。他に道元の弟が鶴岡別当定親だったり三浦泰村室が妹だったりの係累から招請の背景が探られている。

水月観音は水辺の岩に座し、水に映る月を眺めている美しいを通り越して妖しいといってもいいような観音さま。東慶寺の彫刻の観音さまが有名ですが、建長寺にこの観音さまの仏画があります。元画か高麗画かという舶載の仏さまですがほんとうに綺麗。ただ傷みが激しく風入れで拝観した時もほぼ全面黒々。

建長寺様には同じく舶載の宋画宝冠釈迦三尊像かあり、こちらは仁和寺孔の雀明王像と並ぶ評価を得ているそう。でもやはり傷んで本来の彩色が観られません。仁和寺孔雀明王像の華麗さに惹かれて宋画ファンになった私としては、なんて惜しいことを、修復して公開して頂けないかしらと思ってしまいます。

林温氏「鎌倉仏教絵画考―仏画における鎌倉派の成立と展開」を拝読中です。これ程魅力的な仏画が二幅もあるのに何故京都の仏画のような脚光を浴びないのだろうと不思議でした。謎が解けました。禅宗では拝む対象を自らの心の外にもとめなかったから次第に禅宗特有の水墨画の観音像になっていったと。

たしかに修行される雲水さんに華麗な彩色の仏画は不用かもしれないけれど、時頼は、時宗は、その時代の鎌倉人は、華麗な仏画を見て宋の新しい文化を感じ、鎌倉に活気が溢れていたわけだから、現代のように「禅宗だから水墨画」的感覚でなく当時の活気を感じる手だてとして重要なのではと思います。

メモ: 高橋慎一朗氏「北条時頼と蘭渓道隆」拝読。禅文化228号。兀庵普寧が来日すると蘭渓道隆が建仁寺に移る。なぜ?誰の指図?と気になっていた部分を高橋先生は「この人事は蘭渓の配慮による」と推測。「あらゆる人の言葉に真摯に耳を傾ける時頼の性格を熟知していたから、二人の師がいては修行

に差し支えるからと」。→ 時頼があれほど慕った蘭渓を建仁寺に追いやり兀庵に師事したかなあという疑問が氷解。高橋先生の時頼に対する眼差しが優しいからこその推測。文献や事跡重視でなく人の心を読んでの推測に感銘。時頼が蘭渓に送った慟哭のような手紙を思いだして泣きたい気分になりました。

昨日駒澤大学図書館で十本近く論文をコピーしてきて終日拝読してやっと残り二本、川添昭二氏「鎌倉仏教と中国仏教」と村井章介氏「東アジアにひらく鎌倉文化」になりました。この二本は長いのでこれからじっくりとりかからせて頂きます。楽しみ。

12月21日
新春を待ちきれないで水仙が咲いています@三鷹市玉川上水べり

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林温氏「鎌倉仏教絵画考」より。鎌倉武士層の立場からすれば、宋朝禅の宗教性、思想性に対する共感はもとよりあったであろうけれども、それだけでなく、宋朝禅とともに紹介された周縁文化物とでもいうべき文学・芸術についても大きな魅力を感じたに相違ない。伝統的な文化の上に君臨する京都朝廷を統制

しようとする鎌倉幕府にとって、やはり伝統的文化は憧憬の対象ではありつづけたけれども、京都にもない新しい文化を大陸から先取するということがどれほど重大な意味を持ったか、想像することは用意である。禅僧とともにもたらされた文物は彼らを驚嘆させ、魅了する新鮮さと共感性を伴っていた。

現在の北鎌倉の静謐な雰囲気とはほど遠く、鎌倉時代には進取の気鋭に満ちた活気がありました。禅という枠にとらわれて建長寺・円覚寺様を厳かで静粛なだけでみようとするのでなく、禅のもつ華麗で逞しい活気ある文化を追体験しようとする意識も必要なのではないでしょうか。

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2014.12.13 ツイッターより転載…建長寺様の禅研究会のこと。京都村と勝手に名付けた浄光明寺一帯を横須賀宣車窓から撮ったこと。実時の自筆奥書や白氏文集のことなど。

12月11日
三鷹はさっきまで雨が降っていましたが、晴れて陽が射しています。このまま午後までもつといいなあと。

追記:『本郷』の「時頼と風雅」は人物叢書『北条時頼』に入れられなかった分だそうです。

渋谷、ハチ公広場のイルミネーションです。B4lxihzceaalcqj

《後記:建長寺様の禅研究会を拝聴するために鎌倉に行きました。禅研究会というのは、建長寺様が10年前から毎月一回続けている勉強会で、私の講演もそのプログラムに入れて頂いたのですが、今年夏に100回を数えました。七月の私の講演が99回でした。建長寺様では今年開山蘭渓道隆師の生誕800年を迎えられ、11月に記念法要を営まれたのですが、記念に『蘭渓道隆語録』を出版されて、今日の禅研究会の講師舘隆志氏はその監修をされた方。出版までのご苦労の裏話を興味深く拝聴しました。その後皆様と食事会に行って、そこでも興味の尽きない深いお話をたくさんお聴きする事ができ、充実した一日となりました。舘先生はまだお若い、とても清々しい方でした! 禅研究会では10年経って一区切りつき、歴史や文化といった外枠を埋めることができた。来年からいよいよ思想という根幹の領域に入っていくとのこと。10年たってやっと入り口という深い深い深慮遠望の総長様のお話には、さすが「禅」と感銘しました。》

12月12日
写本問題はもう止めたと決めたのにたまたま実時自筆の奥書を見てしまったからもやもやと心が定まらずに昨日一日を過ごしました。時頼を書いているのに叡尊下向に絡んで実時が出てくるなど何故かここのところ実時がやたらと関わってくる。時頼と源氏物語はもうあと宗尊親王を書けば終わりのところにきていると思っていたけどこれは新たに実時の項をもたなければならないのかも。宗尊親王の源氏物語に実時が関わっていて、それに実時の奥書の自筆問題が絡むから。ここにきてもしかしたら『源氏物語と鎌倉』では状況証拠でしかなかった問題に決着がつくかも。光行さんの源氏物語をしていた時と似てる。

補足:光行さんの源氏物語とは、鎌倉に源氏物語をもたらした光行さんを書いている時、数章書き進めては最後の章で挫折を繰り返しました。後でわかったのはその段階では決着がつくはずなかったから。その後ある方から『西本願寺本万葉集』のご教示を頂いてそれで一挙に問題が解決して出版できたました。

舘隆志氏「鎌倉期の禅林における中国語と日本語」拝受。知りたかったことなので一気に拝読。蘭渓道隆以来たくさんの中国僧が渡来し説法されているけれど言語の障害はなかったのだろうか謎でした。昨日は舘氏から相当厳しかったと思いますよとも。そうだと思いますが、それでも当時中国式を守ったよう。

12月13日
鎌倉に向かっています。今日は私自身のイベントでないので気楽なのんびり旅。こんな時最近東横線を使っています。のんびり感倍増。

実時の白氏文集との関係を再読しようと資料の山の「実時」箱の中から阿部隆一氏「北条実時の修学の精神」を取りだし持って出ました。車内で読んで驚嘆。白氏文集を抜粋した『管見抄』は実時の手になると。時頼の白氏文集切に実時との関連を覚えたのだけれど、関与してますよね、実時が。

先のツイート、阿部氏のご論。ただ147号とだけメモしてあって、三浦古文化かな、金沢文庫研究かな、など懐かしい。当時は書かなくても自明だったんですよね。三浦古文化はもう廃刊になったし、私は恵まれた環境のいい時に金沢文庫関連の調べに入ったなと今更に思う。
(『金沢文庫研究』でした)

京都村。と、勝手に名付けました。先日来関心を持って歩いている、鎌倉は扇ケ谷の奥の浄光明寺周辺の一帯。このあたりに京都から下っていらしたお公家さん方の邸宅が集まっていたのかなあと。横須賀線車窓より。ひっそりと奥まった静かな盆地のよう。

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鎌倉ペンクラブのペンサロンで宝塚のお話を聴いた後、次回二月は私が北条時頼と源氏物語のお話をさせて頂くので、最後にその予告をされたから、すっかり自分が講演して終わったみたいな疲れが出てしまいました(笑)。

行きの車窓の京都村。思ったショットに撮れなかったから帰りに再挑戦。今度はもっとひどいショットになってしまいました。奥の金色に輝く山裾の一帯がそうです。あの輝きを鎌倉時代の京都から下っていらしたお公家さん方もご覧になっていた?

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二月の講演はいつものパワポを使ったのでなく資料重視のレクチャーと思っていたのですが、今日のペンクラブの雰囲気ではパワポを使った方がよさそう。となると構成が変わるから帰りの車内で目まぐるしく頭が働いて、なんと紫式部でなく上東門院から始めようかと。形式が決まると思考が整います。

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2014.12.10 ツイッターより転載…:『本郷』No.107(2013.9)より高橋慎一朗先生「時頼の風雅」を拝読。世に中には光泉寺切というのが存在し時頼筆といわれる『白氏文集』の断簡だそう。

12月4日
クリスマスシーズンの銀座。友人の絵を銀座の画廊に見に来て久しぶりなので少し放浪。最後は定例の鳩居堂で匂袋の購入。匂袋は便箋の焚き染め用。特殊な配合なのか吉祥寺の鳩居堂になく銀座に出ると買って帰ります。

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12月5日
のんびり上野の森の美術館を楽しんできました。これから本格的に時頼の原稿に入るからその前の寛ぎ。ウフィツィ美術館展を鑑賞。素敵でした。この写真はロダンだけれど、黄金色の銀杏に映えるカレーの市民です。

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12月6日
昇ったばかりの黄色みがかった大きな満月。今夜は雲がなく煌々と耀いています。

12月7日
昨夜の千日回峰行を成し遂げられた塩沼亮潤師のご対談、正座する思いで魅入ってしまいました。すべてを捨てきることのできた方のお顔とはこんなに晴れやかなのだと。回峰行をすることで世の人のためになりたいとおっしゃられていましたが、少なくとも昨日のTVのあの一瞬で私は功徳を頂きました。

途中、塩沼亮潤師がTVで観てご自分もそれをと志された酒井雄哉師の千日回峰行が映りましたが、私もそれを見ていたから思いが重なりました。行を達成した者は大行満大阿闍梨の称号を与えられるが、しかしそれは社会に何の意味もなく、行は達成したその時から達成したことを忘れることが大事と。

昨夜の昇りはじめた時の満月。黄色い大きな月でした。その後間もなく厚い雲に覆われ、これを撮ったのが嘘のように思えました。最近はパワポの背景用に余白をとって撮る習性になっている事もありますが、風情ある画面にしたい意図も。

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満月が昇っていました。今日は片付けものをして思い切りがいいのに気づき、昨日の回峰行の塩沼師の影響があるにしても、私自身一段階終わったのだと実感。調べるものが今までと違ってきてるから今までのを躊躇なく捨てたりしまいこんだり。

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12月8日
メモ:『本郷』No.107(2013.9)より、高橋慎一朗先生の「時頼の風雅」拝読。世に中には光泉寺切というのが存在し、時頼筆といわれる『白氏文集』の断簡だそう。それがたしかに時頼の自筆か確かめようがないそうだけれど、時頼が『白氏文集』に関心を持っていた可能性は捨てきれないと。

それは、手鑑「藻塩草」のなかにある一枚で、e国宝で見ることができます。http://www.emuseum.jp/detail/101051/228/000?d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E7%99%BD%E6%B0%8F&class=&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=2&mode=simple&century= …

追記:光泉寺は時頼が忍性を開基として建立しようとした寺院ですが、途中で時頼が亡くなってしまったために完成しなかったよう。所在地も史料も残っていない謎の寺院だそうです。

12月9日
井の頭公園、綺麗です。

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メモ: 金沢北条氏と大江氏の関係は、実時の妹が広元の孫の広時の妻。広元の妹の子の重清が広元の猶子となり、その子が重輔で、その子の清有が金沢北条氏三代貞顕と親交。貞顕の六波羅探題南方在任中清有は六波羅評定衆として仕え、貞顕に所持本を貸して、貞顕がそれを書写。

スマホでエバーノートを使えるよう頑張っているのですがどうも私には不用な気がして止めようと思った矢先、先程のメモのようなのをどんどんノートにしていけばいいかもと思いつきました。(資料をスキャンして溜めていけば紙の資料が処分できると始めたエバーノートですがそれもまだ)

12月10日
今ポストに届いていたお葉書。鎌倉の連続講座に皆勤でいらして下さっている方から。「今まで点であった知識が線となりいろいろなことがつながってきました」と。鎌倉の方々は相当歴史に深い知識をお持ちで私などの入る余地がない筈ですが、皆様目を輝かせて聴き入って下さるのは繋がるからなんですね。

エバーノートを使おうとスマホにうつつをぬかしていたらどんどん集中力が切れて研究の熱意まで消失。便利だからと機能を追うよりも今私に大事なのは不便でも充実したやり方。これ以上気分が散漫にならないうちにもとに戻ります。今までどおりTL上にメモを置いてそれをブログにまとめるという。

で、再びメモ:『神奈川県史』に実時の筆跡の写真が載っていて、それが『尾州家河内本源氏物語』の奥書の筆跡と似ている気がする。『尾州家河内本源氏物語』の奥書が実時の自筆か否かでこの写本を作ったのが誰かという重要な問題に関わるのだけれど。

しばらく時頼と源氏物語に集中していて、ふっと講演ではやはり鎌倉の源氏物語からはじめなくてはと気づいたら、降って湧いたように実時の自筆の写真が。別のご論を拝読するためにコピーしたものなのにそのページの上の段に。目を疑いました。俄然、『尾州家河内本源氏物語』に気分が戻りました。

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2014.12.3 昨日、鎌倉文学館講座室をお借りしての【鎌倉の歴史を楽しむ会】第四回「『十六夜日記』と浄光明寺周辺」が無事に終わりました。

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昨日、鎌倉文学館講座室をお借りしての【鎌倉の歴史を楽しむ会】第四回「『十六夜日記』と浄光明寺周辺」が無事に終わり、ほっとしています。

九月の始めた講座ですが、四か月、駆け足で過ぎました。初回が快晴。二回目は台風直撃で急転直下晴れたもののはらはら。三回目は二回とも熱心にいらして下さったボランティア活動をされている方々が来られないご用があって残念がられ、といろいろありました。そして四回目の昨日は写真でご覧のとおり快晴。振り出しに戻ってきれいに今年を納めることができました。

来年は?とご参加者様方からお訊ね頂いたのですが、来年は二月に鎌倉ペンクラブで「北条時頼と源氏物語」の講演させて頂くので、これからその準備にかかり、三月に再開しようと思っています。

昨日の「十六夜日記』と浄光明寺周辺」ですが、浄光明寺は扇ケ谷の泉谷にあり、同じく扇ケ谷の支谷清涼寺谷には新清涼寺、そして隣に海蔵寺という一帯をとりあげました。

扇ケ谷は『吾妻鏡』では亀谷となっていて、飛鳥井雅経の次男二条教定邸があったのが亀谷の泉谷。浄光明寺のあるところです。

以前からこのことが気になっていて、そうしたら、新清涼寺は将軍家に仕えた近臣中原師員の後妻で、みずからも九条家から派遣されて将軍に仕えた女房だったという亀谷禅尼が建てた寺院。そして、海蔵寺は宗尊親王が七堂伽藍を建てたのが鎌倉幕府滅亡時に焼失して上杉が再建して今にという寺院。

何故、この一帯に、こんなふうに将軍や公家関係の寺院や邸宅が集まって感じられるのだろうと思ってとりあげたのが昨日のテーマです。

結論ですが、京から下ってきた方達は、この一帯に邸宅を建てて住んでいたのではないでしょうか。いわゆる中華街とか、そういうような同郷の方々が集まった一帯。

鎌倉は、若宮大路には御所や得宗家の邸宅。六浦路には重要御家人の邸。というように、その地域毎に邸宅の特色があります。

これまで京から下ってきた方々はどこに住んでいられたのだろうと知りたく思っていたのですが、それが浄光明寺一帯ではないか、というのが私の推測です。たぶん、点在していたのではなく。

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