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2015.1.27 ツイッターから転載…1月25日の大船常楽寺文殊祭

1月26日
昨日は大船常楽寺の文殊祭。執権泰時創建のここは、時頼の招きで蘭渓道隆が建長寺ができるまで住持を務められた寺院。今は鎌倉での制作といわれてますが、ここの文殊菩薩様のお顔は蘭渓道隆の請来とも。毎年1月25日の文殊祭にご開帳されます。

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昨秋大船の方に常楽寺を案内して頂いた時に文殊菩薩像のことを知り、文殊祭には是非と心していたのに、暮れに足を痛めて実は訪れられるかはらはらしていました。間に合って回復。昨日無事に行ってくることができました。ご本尊の阿弥陀三尊像です。

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阿弥陀三尊像の脇に蘭渓道隆様の像が安置されています。仏殿は堂内が暗く前回はブレてよく撮れなかったので、昨日は一眼レフを持っていきました。なんとか……

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仏殿に隣接して萱葺き屋根の小さな文殊堂があり、文殊祭の法要がそこで営まれました。導師様が拝していられるのが文殊様ですが、幕の垂れた奥は暗くて目視では何もわかりません。文殊様の大きさどころかほんとうに見える位置にいられるのかも。

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転読(1) 小さなお堂にぎっしりと僧侶の方が詰めておられ、一斉に転読がはじまると荒々しいくらいの男性僧侶の方々の読経は凄い迫力。圧巻でした。転読の写真を何枚かアップさせて頂きます。

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転読(2) 以前から転読の写真を撮りたかったのですが、大きな寺院だと大きな本堂の中でされるので、参詣者には遠くでしか見られずあきらめていました。まさか文殊祭で遭遇するとはと張り切ってしまいました。

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転読(3)

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転読(4)

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転読(5)

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法要が終わり、僧侶の方々が退出されるところです。

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僧侶の方々がいられなくなって傍に寄ることができた文殊堂の内陣(この言い方でいいのかな?)。目視ではいられることもわからなかった文殊様ですが、ISO3200で撮ったら写っていました。PCに取り込んでびっくりしました。

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文殊様を守るように掛けられていた左右の仏画です。

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常楽寺、最後の一枚。好きな一枚なのでアップ。終了後、誰もいなくなった堂内で独り黙々と後片付けをされる若い僧侶さま。遠くからだったのでどういう動きをされているのかもわからないままシャッターを切ったのですが。

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2015.1.22 鎌倉ペンクラブの講演【北条時頼と源氏物語】のご案内

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鎌倉ペンクラブの講演【北条時頼と源氏物語】のご案内

日時:2月14日(土)14:00~

会場:早見芸術学園(鎌倉駅東口東急ストア並び)

参加費:千円

お申込み:0467-24-4002。

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2015.1.21 ツイッターから転載…研究は人と人との交流で喚起され育まれるを実感しました。今年は比企の仙覚さんを訪ねます。

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1月17日
鎌倉ペンクラブでの講演「北条時頼と源氏物語」のためのパワポの編集をはじめました。ペンクラブの方にはパワポを使うより資料重視のお話がいいかと思ったのですが、やはり私は写真重視の講演でいくことにします。タイトルスライドです。

1月19日
昨日は一日脳の初期化。読書も執筆も何もする気がなくただ日常の些事に勤しむ。そんな中講演のお話を戴いたりFBで交流した方からメールを戴いたり。夜になって寝ようとしたら「そうだ。鎌倉の武士の都は第一期と第二期に分かれるんだった」と思い出されて、突然時頼と源氏物語の方向性が見えました。

「古典である『源氏物語』は、多くの人々によって作られた写本の形で伝えられてきました。その写本とそれに関わった鎌倉ゆかりの人たちのドラマには大変興味深いものがあります。ユニークな切り口からの『源氏物語』をお楽しみ下さい。ご来場をお待ちしております。」(鎌倉ペンクラブから講演の応募用葉書が届いて、それに刷られていたご案内です。)

今まで講演に際しこの部分は自分で作成して提出していたので、今回そのご要望がないからどうなるのか楽しみにしていました。自分だと内容に沿って意味ある事を書き連ねてしまうけど、これは客観的簡潔さで、成程と目から鱗。

「平成二十七年睦月 お便り嬉しく頂戴いたしました。」ではじまる寒中お見舞いへのお返しのお葉書を戴きました。綺麗だなあと「睦月」の語にしみじみ眺め入り、一日心洗われて過ごしました。

1月20日
去年ご無沙汰した比企の方から寒中お見舞いの御返礼。「鎌倉のお仕事、お時間がありましたら比企氏・秩父氏関連の寺を訪ねて見て下さい。長時の極楽寺・浄光明寺。浄光明寺は秩父一族高坂氏の館跡と言われてます。高坂氏は足利尊氏に文化面で仕えていました」と。浄光明寺絵図の件、鎌倉文学館講座室をお借りしての講座でやりました!

次いで「尚、比企足立群内には慈覚関連の廃寺が多くあります。今は調べようが無いのですが、大寺院だった為焼討になったか?」と。ちょうど私も今年は比企にも行って足立氏ゆかりを訪ねたいと思っていました。時期を見て案内して頂こうと思います。今年は鎌倉だけでなく、比企にも戻れそう。

たまたま寒中お見舞いのご返礼に密教の方から戴いた日に高野山金剛三昧院多宝塔のお写真。不思議ですね。去年は禅宗一色だったのに、今年はまた密教が戻ってくる。交流も去年は鎌倉一色だったのに、今年は比企が復活しそう。人の動きのバイオリズムには見えない法則がある気がします。

1月21日
あんなに年初に中国語で漢詩を聴いたり蘭渓道隆の道をたどって写真集を見ていたのに二、三の方からの寒中お見舞いのお返事で比企や仙覚さんが喚起され、目下今年の基本体制の見直し中。今年は時頼と源氏物語の集大成でと思っていたけど、同時進行で入ってくる万葉集はやはりやらなくてはダメのよう。

仙覚さんについては調査したい事を放棄したままだったから、ちょうど今年がそれになるのかも。といいつつも、時頼と源氏物語が心から離れた訳でないのは、鎌倉の寺院の特別拝観の案内を見て、気になっていた蘭渓道隆ゆかりの寺院が含まれていたので往復葉書で応募。私の中で時頼と仙覚さんの時間が一緒に流れ始めました。

それにしても研究は本当に人と人との関係で喚起される。去年の今頃はまだ時頼に無関心。それが建長寺様という場の力で時頼に乗り移られたかのように突然奮起して書き始めた、と思ったらこの2月にはもう鎌倉ペンクラブで北条時頼と源氏物語のテーマで講演。人との交流の賜物です。仙覚さんもそうなります。

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2015.1.17 立松和平先生『道元禅師』を拝読して

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1月17日
立松和平先生の道元禅師拝読。宗教を小説にするのはつくづく難しいと感じました。何故ならたぶん正反対の領域だから。道元という祖師を人間として描くなら自在に筆をふるえるかもしれないけど、和平先生は永平寺の機関誌の連載という枠の中で書かれたから正法眼蔵から逃れられなくなったのでしょう。

後半の殆どが参集者への説法という形で正法眼蔵が語られるのですが、読んでいるとそのまま私まで道元の信者になって吸い込まれてしまいそうな危うさ。私はそうではなく読んでいるのだ!とブレーキをかけながら拝読。和平先生の誠実なお人柄が滲み出て辛いくらいでした。

今朝はちょうど借りてきてあった無門関にひととき浸りました。心地よい時間でした。蘭渓道隆語録の序にその一節があってホウタンさんも苦心されてました。牛が戸口を過ぎるのに体は通ったのに尻尾だけが残った話。私は中学の頃からこういう話が好きでわかるわからないでなく、読んでいて爽快です。

連ツイですみません。宗教と文学という事を考えるのですが、文学者は絶対に宗教家になれないと思うし、なったら書けないと思う。その覚悟がなくなまじに宗教に踏み込んでもいけないと思う。文学者には文学をする事が修行なのだから、清浄な宗教者の方々の下で這いつくばりながらでも悪も書かなくては。

というあたりが今年の新年にあたっての覚悟です。

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2015.1.17 ツイッターから転載…立松和平先生の『道元禅師』を拝読することに。そして、建長寺禅研究会が今年もまたはじまりました。

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新年になってほとんど写真を撮っていないし、あっても暗い写真ばかりだから、思いきって明るいのをと探しだしてアップ!します。今年もよろしくお願いしますの気分で。(1/17)

1月12日
知人にどっさりと古い切手を下さる方がいる。この前も鎌倉文学館の講座に持ってきて下さった。中にこの鎧の武将のがあって、これは誰に使おうかしらと楽しんでいたら、あっ、原稿を送る歴史の先生にと。前田青邨画伯の洞窟の頼朝だそう。

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1月13日
立松和平先生の道元を借りてきました。以前拝読した時は上巻で挫折し、本も差し上げてしまってました。やっと読めそう。というか、入宋した禅僧の方々の実際の様子を知るには小説が一番と思って。ついでに中国の写真集も。結構わかったつもりでいて地図的に何もわかっていない事に気がついたので。

1月14日
立松和平先生の道元、あとがきを拝読して執筆がどんなに大変だったかを知る。連載の20枚をこなすのに毎回大変な勉強をして、旅に出るにも何冊も本を持ち込んで、飛行機の間も寸暇を惜しんで読書したと。最初は苦行でしかなかったが、やがてこれは修行なのだと思えてきて楽しくなったと。

小説って何だろう。ベストセラーになる小説はそれはそれとして、道元のような本は絶対ベストセラーにならない。どういう人が読むのかと考えてやはり特殊な一部の人だろう。先生を知る私でさえ最初は挫折した。けれど今読み始めてる。読む人は少ないかもしれない。でもこういう小説がある事が大事。

私も小説を書く人だから、道元という作品より、立松先生が道元を書かれていた当時の状況や取材旅行を知りたくなってしまいました。道元連載中の評判も、最初の頃は?だったが修行に入ってからどんどんよくなってきている等、客観者は軽く言ってらしたよなあとか思うと書く人はほんと苦行ですね。

1月16日
昨日は建長寺様の禅研究会。今年初めての例会です。どしゃ降りの雨でしたが、楽しみにしていた昨年末に完成なったばかりの宝物館と対面。こちらは10年前に出土した経石を調査させて頂いた立川の普済様のご寄贈です。不思議なご縁です。

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どしゃ降りの雨の建長寺様の境内。今年から中国四川省の出身で法政で講師をされているホウタンさんという女性の「蘭渓道隆語録を現代語訳で読む」が始まりました。興味深いお話でした。彼女はただの四川省出身ではなく蘭渓道隆の生誕地のご出身です。

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1月17日
蘭渓道隆ご生地の蜀は長安から行くには険しい山を越えなければならず李伯に「蜀道難」の詩があるとホウタン先生がご紹介。語録では蘭渓道隆は揚子江を下って蘇州に出たそう。中国の地図と漢詩と歴史とあいまってのお話でした。ホウタン先生のホウは膨張の膨の月をとった漢字。タンは丹です。

昨日の雨は冷たく昼でも夕方のように暗くホームで強風に煽られながら世も末みたいでした。打って変わって今日の青空と暖かさ。寒中御見舞いを出し終わり建長寺様のホウタンさんの講義も聴いて昨年来の懸念事が一切終了。私の新年は今日からと思ったら鎌倉ペンクラブから講演の件でメール。新始動です。

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2015.1.12 ツイッターから転載…歴史を発見する原稿「鎌倉で作られた高貴な『源氏物語』の写本」、昨夜書き終わりました!今朝はのんびりです。

1月9日
鎌倉の源氏物語は平家の輝きを抜きにしては語れないのだけれど、ここのところ鎌倉にどっぷり漬かっていたから光行さんと平家の方々の交流に気分が戻れない。実時の自筆問題を終えてこれから光行さん、その後は仙覚さん。この短い原稿に走馬灯のように今までの人が登場する。それぞれが輝きますように。

自筆問題だけで論文的に終始するかと思ったら、突然色合いの違う光行さんの出番となって、今日は平家の資料と格闘です。でも、かつて輝いていたあの頃の光行さん気分が書けたら素晴らしい! (自画自賛でなく、平家の文化が素晴らしいんです!)

熱で体調がすぐれず終日寝てました。が、頭のなかはぐるぐるどうやったら平家と光行さんのことが上手く書けるかしらとそればかり。夜になって少し体力が出たので原稿に向かったら定家と光行が一歳違いの文学の同士で平家の王朝文化の恩恵を受けて育ったと。そこから書いたら進みました。

つまり定家の「青表紙本源氏物語」と光行さんの「河内本源氏物語」は平家の方々を偲ぶために成された写本だったということが重要と。平家が滅びたために光行さんは鎌倉に下り、それで鎌倉で「河内本源氏物語」が作られ、定家は京に残っていたから京都で「青表紙本源氏物語」ができたという構図。

一時は二大写本とまでいわれた「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」が、平家の王朝文化のなかで育った一歳違いの文学的感性鋭い二人により成されたということ。これはたまたまではなく、二人のうちにある平家の方々への鎮魂あってこそのことと。(やっと熱い思いが甦ってきました。)

1月10日
昨夜無事に光行さんと平家の関係を書き終わりほっとしたのも束の間、光行さんの鎌倉下向になったら今度は承久の乱や伊賀氏の乱、頼経の代になっての宮騒動など波瀾万丈の歴史が控えていた事に思いが至って茫然。全部書いたら枚数オーバー。鎌倉の源氏物語は余程世情と表裏一体です。

こんな事を忘れてるなんてと唖然としました。最近一つの事(最近では蘭渓道隆)に集中していると他の事に気が回らなくて、それが全くの忘却で頭のなかは白紙。昨夜みたいに思い出すと芋づる式に甦るのですがほんとうに唖然とします。自分のなかで舞台の暗転が起きてます。

4:09の未明の地震M3.6、私は眠っていたけど娘が起きていて、ママ、地震と。どんと音がして揺れたと。音は二回したと。TVをつけても速報がなく、娘が調べたネットでもわからず、地震でなかったらなんなのだろうと不安でした。震源地の杉並区は隣接なので音がしたらしい。嫌な感じです。

鎌倉の源氏物語はありとある中世の内乱をくぐります。光行さんと親行を書いていて承久の乱と伊賀氏の変を書き、もうすぐ仙覚さんの登場だなと思った時に、あれ、比企の乱はどこに?と。そうなんです。光行さん系統の事跡では比企の乱は入ってこない。仙覚さんの事跡はまったく別に流れていました。

これが源氏物語と万葉集という二系列なんですね。比企の乱の年に生まれた仙覚さんは成長して源氏物語の系統に入ってきます。仙覚さんと親行さんが合流するところから見えてくるのが《鎌倉の源氏物語》です。

鎌倉の源氏物語の原稿は仙覚さんが登場して佳境に入ってきました。眠くないし乗っているこのまま続けたいけれど寝ることにして今までの分を印刷。校正しながら休むことにします。それにしても鎌倉の源氏物語の波乱万丈たるや凄い。そしてその華麗な人脈も凄い!。目も眩むばかりの壮大なドラマです。

鎌倉の源氏物語は世の動乱をかいくぐって生きた人たちの大切な遺産。いつの時代も人は世情に翻弄されるしかないけれど、それでも必死にみんな生きてきました。その証の一つが『源氏物語』の二大写本。悲惨さが繰り返されませんように。

1月11日
鎌倉の源氏物語の原稿、正嘉二年に実時が完成したばかりの「河内本源氏物語」を親行から借りて書写したところまできていよいよという思いで興奮状態。しなければならない仕事もあるのにこのまま書き進みたくて日常生活にも気がいかず困っています(笑)。あとは一気に結論へ、です。

鎌倉の源氏物語の原稿、終わりました。20枚だからこれくらい。最終的に題を「鎌倉で作られた高貴な『源氏物語』の写本」としました。論考はまったくのサスペンスだから書いているあいだの謎解きしてゆく興奮がまだ鎮まりません。これから家事の日常に戻って頭を冷やします。

1月12日
NHK朝井リョウさんと東出昌大さんの対談、なんとなく観ています。手が回らなくて読めないし映画も観られないけど、朝井リョウって作家さんはなんとなく気になって見ます。年を重ねたり研究を重ねたりすると例えばツイッターの字面でさえしかつめらしくなる。それを警戒するのにお手本のような。

エゴサーチってネット上で検索して自分がどう思われてるかを知ることらしいけど、二人ともスルと言われてた。落ち込むよなって。そこに朝井さんが、世の中には幸せにしたい人とさせたくない人がいて、したい人は黙って見てる。させたくない人が悪い事を書き込むんだよねって慰めると。うん、と思う。

さわやかな若い人の対談て、いいなと思いました。さわやかにいこう!と。

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2015.1.9 ツイッターから転載…クローズアップ現代で谷崎潤一郎と松子夫人の書簡を見たこと、鎌倉の『源氏物語』の原稿を書き始めたことなど

1月3日
暮れに玄奘法師のTVを見て仏の教えのために途方もない旅に出たのは蘭渓道隆も同じと思う。なのに蘭渓道隆の日本での知られなさ。どうして?と考えて、日本の本格的な禅の開始が鎌倉で、時頼が建長寺を建てたことによるのが認識されていないのと一緒と思ったのでした。

来朝された宋僧のなかで、日本にまだ禅が普及していないと、宋に渡った日本僧から話を聞いて、それではとご自分の意志でいらしたのは蘭渓道隆お一人。日本に渡っても時頼と出逢うまでは失意で中国に帰る事も考えたそう。時頼との出逢いはギリギリでした。

鎌倉の源氏物語も埋もれていた。蘭渓道隆もどちらかというと埋もれた感。源氏物語も禅も日本文化の基層なのに、そしてそのことは熟知されているはずなのに、日本で流通している認識は偏っているか、ある時期からの後世。私はよほど知られていないことにしか関心をもたない質だなあと苦笑しています。

なんとなく、蘭渓道隆のたどった道を撮りながら司馬遼太郎さんみたいな仕事をしてみたいと思い始めた新年。でも鎌倉と違って蜀から博多、京都に鎌倉なんて、体力的に無理だろうなと。もっと早く気づけばよかったと思っても思考の深まりは体力と反比例なのが痛い!

1月4日
そんなにfacebookに時間をとっていたつもりはないのに止めたらとても空気が広い。気が散らないということかと思う。やっていた時はずっと頭の隅にあって読まなくてはアップしなくてはとなんとなく縛られていた。今は集中して本が読めるし安心して思考が深まる。ツイッターが増えたかも(笑)

1月5日
昨年十一月にツイートした原稿の件。企画が通って実現することに。今年は講演だけでなく原稿もと思っていたから、新年早々幸先いいお話。テーマは鎌倉の源氏物語がいいでしょうと仰って頂きました。

月齢君・ぴったり@sekki_getsurei3
ただいま《望》です《現在の月齢 14.14》(at 13:54)

1月7日
今日の空は雄大に雲が畝っています。当地上空が中心のようで、北と南の低空には綺麗な青空。

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北の低空の綺麗な青空。玉川上水越しに。遠く吉祥寺の街が見える高台まできて撮りました。

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入ったら当分出られなくなるから、折角気分が載っている蘭渓道隆を乱したくないから、実時と源氏物語の原稿にかかるのを躊躇していたのですが、友人と話してたら彼女がお正月からずっと原稿に専念してたとの言に刺激されて実時の原稿にかかることにしました。決めたらすっきり。全部一環なのだけれど。

クローズアップ現代、谷崎の細雪を観ています。

クローズアップ現代、終わりました。聞くともなく耳に入ってきた女性アナウンサーの花見のセリフ。ん、これは細雪?と画面を見るとクローズアップ現代の始まり。蘭渓道隆に漬かっていたらたぶん受け付けなかった。源氏物語にかかろうと決めたからスムーズに細雪が入ってきた。今年はいい流れです。

それにしても、文学は危ういなあとは改めての感慨。谷崎の危うさには警戒します(笑)

しかも、それが命がけで文学を守る意志の基なのだからどうしようもありません。あ~あ、忘れようとしていた文学の危険にいきなり晒されてしまった感は否めず。仕方ないからせめてこれが源氏物語の原稿に生きますように。

突然、書き始めました。今のところ仮題ですが、「高貴な、鎌倉で作られた『源氏物語』の写本」。どうして鎌倉の源氏物語の発掘にとだりついたか、そこから始めるようにとのお話でしたが、そこにいくまでに『源氏物語』の写本について書かなければと思ったら、写本のことばかりで進んでいます(笑)

久々の『源氏物語』の写本。やはり、楽しい!

1月8日
「高貴な写本」の原稿、進めています。昨夜のクローズアップ現代で気持ちが文学に戻ったからスムーズ。『尾州家河内本源氏物語』との最初の出逢いを書くのに金沢文庫の古い図録を出したら平成二年の「よみがえる中世―鎌倉北条氏の遺宝」展でした。次が江戸博の「北条時宗とその時代」展。懐かしく。

改めて。親行が建長七年に河内本源氏物語をさせた時はもう、建長五年に建長寺が創建されているから、親行は蘭渓道隆の中国語を聞いた事があるのだなあと。山ノ内一帯では中国語の禅宗。若宮大路の宗尊親王御所では王朝文化の粋の源氏物語。当時の鎌倉の一流文化の渾然一体感は半端でないです。

昨夜の松子夫人の手紙が忘れられずにいます。色違いの料紙を国宝和漢朗詠集のように数枚糊で貼って繋げ、墨跡で書いたあとそれを折って封筒に入れていた。あれは書きながら自分で足していったのかしらと。そして細雪の初版本。表紙の細雪の文字は松子夫人の手紙の文字だったのでは?と。

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2011.1.2 ツイッターから転載…円覚寺舎利殿の実朝ゆかりの舎利のこと、HPからfacebookを削除したことなど

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1月2日
メモ: 円覚寺舎利殿の舎利について。もとは中国で道宣が韋駄天より賜ったもの。能仁寺境内に埋められていた。実朝の前世が能仁寺の長老だったために夢でそれを感得。願成を中国に遣わして舎利を招来。この事が天聴に達し内裏に留め置かれるが、盛長を京都に遣わして鎌倉に迎え、勝長寿院宝塔に納め、

後に大慈寺五重塔に納めた。貞時の代になって円覚寺舎利殿が建立されて納められた。←菊地大樹「鎌倉仏教と禅」(『東アジアのなかの建長寺』)より。←何故円覚寺に舎利があるのか今まで不思議でした。というか、何故実朝が舎利を持っていたかが。

HPからfacebookを削除。久々のDreamweaverは緊張。blogの簡易さにHPの更新をしなくなり『源氏物語と鎌倉』を上梓したお知らせ以来。でも何故この本を書いたか、発端から出版までの経緯を熱く載せていますのでこれはもうずっとこのままにします。進展はblogで。

HP【孔雀のいる庭】http://www.odayuriko.com/  の topページに『源氏物語と鎌倉』を上梓することになった発端と経緯を長々と記しています。2010年暮れの刊行当初、しつこいくらいにツイートさせて頂いた内容ですが、私も忘れていた熱い思いが今朝の更新で甦りました。

「2008年開いた写真展で、『源氏物語』の「京都→鎌倉」という流布の経緯を写真で並べたとき、如何に藤原定家と源光行の文学的環境が平家文化圏で育まれたかを空間的に実感しました。二人が成した『源氏物語』写本の背景には、王朝文化の具現といわれた平家の公達との交流があったのです」

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2015.1.1 今年もよろしくお願いいたします。

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今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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