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2015.2.24 ツイッターから転載…講演「関東における中世寺院のネットワーク」から龍見寺経塚出土の経筒を撮ったことなど

2月17日
あれっ?と。これってシンプルな問題だったのではと突然。尾州家本の正嘉二年書写の奥書が実時の自筆か否かの問題。自筆だったら尾州家本は校訂しなくても河内本だった筈。それが酷過ぎる程の校訂を経て河内本になっていて、元々は青表紙本にも似た別の本文。奥書は後から付け加えた事になるのでは?

2月20日
そういえば「河内本源氏物語」の事。鎌倉ペンクラブの講演にいらして下さった源氏物語で著名な先生も、『源氏物語と鎌倉』を謹呈させて戴いた先生からも、「私たちの時代は『河内本源氏物語』は読むな」と言われましたからと。「河内本源氏物語」の普及が滞っていた背景には人為的な背景があったよう。

「河内本源氏物語」というと必ず言われる言葉。「河内本源氏物語」は校訂者の作為が入っているから読む必要がない…。でも私が言いたいのは本文どうこうの問題ではなく、親子二代にも渡る人生をかけてまでそれを成した人がいるという事であり、そういう営みを慈しんで歴史を見ることが大切という事。

もう三年前になりますが『源氏物語と鎌倉』を上梓して尊敬するというより憧れの『源氏物語』の権威の方に謹呈させて戴いた時、お返事を戴けるような方ではないにも関わらずお礼のお葉書を頂戴し、「『河内本』は懐かしい。取り上げて戴いて嬉しかった」と。学問の世界での蔑視が何かをゆがめています。

2月21日
各駅停車に乗ったらやたら特快・特急待ちが多くまた「当駅で3分待ちです」。早く出たからいいけどうっかりすると遅刻。今後各駅停車は要注意。やっと、というか、まだ国立。

多摩モノレール車窓。柴崎体育館駅通過。遠くに浅川沿いに建つ普済寺様の屋根が見えています。普済寺様の遺跡発掘調査に通っていた頃はモノレールはまだ建築中でした。

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高幡不動の五重塔が金色に輝いています。

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こちらに来るとこの風景を見るのが楽しみ。

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間に合いました。関東における中世寺院のネットワーク。日野市郷土資料館です。

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会場は満席。中世寺院真慈悲寺発掘調査チームの活動の一環です。

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もう少しここにいたら山の端に沈む低い位置の三日月を見られるかしらと思いつつ、帰ります。

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帰りの車窓。高幡不動の五重塔は沈む夕陽を背にシルエット。

経塚の最古は道長が金峯山に埋めた経筒。しかもこれが貴重なのは御堂関白記という一級史料の文献と照合できる事。文献資料と照合できる経塚は他に2、3例だそう。それから平安貴族に流行して、一時期途絶えて、また中世に復活。多摩の百草一帯の経塚は中世。横山党とか武蔵七党が関係。

経塚は西国に多く、東国では今日の講演の多摩の百草一帯と、あと埼玉に少し。比企を回っている時よく耳にした平沢(へいたく)寺にその一例があって、ここは畠山重忠の祖父にあたる方の寺院とか。しかも経筒を作った鋳物師が百草と同じ藤原守道。興味深いネットワーク!

細く高く聳える木の間越しに見える三日月と金星。ロシア絵本のような素敵な構図なんですが、スマホでは無理。いつかゆっくり月を撮りたい。@井の頭公園

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八王子市龍見寺の大日如来。西村公朝氏が銘があれば国宝と言われたそう。藤原末期の作で宝冠は円成寺のより立派とか。地元近くにこういう仏像のおわしますことを知りませんでした。http://ryukenji.jp/publics/index/83/

2月22日
八王子市龍見寺経塚のパンフ・表紙。経筒の発見は偶然が多いので写真に撮られてなく、これは偶然別件の試掘調査で発見されたものですから貴重な出土状況写真として紹介されました。ただあまり立派な例ではないとの断り付でした(笑)簡易な埋経のよう。

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八王子市龍見寺経塚のパンフ・裏表紙。経筒の写真を撮らせて頂きました。それでパンフを持っているのですが、ここにすでに大日如来座像が。当時は経筒に夢中で仏像に気が行かなかったんですね。

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八王子市龍見寺経塚のパンフ・経筒の中。この経筒は長方形の銅板をぐるっと丸めて留めた仕様。銅板が薄いので少し破損しています。経筒には他に鋳造仕様があります。調査員さんから「中を撮りたいんだけどどの角度がいいかなあ」と言われて撮った数枚。

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そうだと思いついてFBに使っていたアイコンの写真に変えたらなんだかツイッターなのにFBになった気分。これで投稿まで変わったりして。というのは冗談ですが、デザインは気分を変えますね。心機一転ということで。

2月23日
苧環を植えました。園芸熱再燃とまではいきませんが、しばしのくつろぎ。

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2015.2.17 ツイッターから転載…鎌倉ペンクラブの講演【北条時頼と源氏物語】のことなど

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2月11日
夕景@井の頭公園

どうしてもこの写真を使いたいと動かしていたらTOPの位置に収まりましたので文字を入れました。《鎌倉の源氏物語》に何故時頼かの説明です。今までこれが必要と思ってなかったのに、作ってみて必要だったと気づくなんて。やっと核心が動き始めた感。

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2月12日
明後日の講演【北条時頼と源氏物語】用スライドの一枚。夫時氏の六波羅探題に従って上洛した松下禅尼はいわば鎌倉幕府のファーストレディ。『徒然草』の質素なエピソードでしか彼女のイメージを持っていてはいけないと思います。松下禅尼は時頼の母。

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松下禅尼が尊敬した上東門院は比叡山横川の円仁の如法経を埋納する計画に資金援助し、自らも法華経を書写して経箱を埋納しました。その願文のスライド。この精神が松下禅尼を通して時頼の建長寺建立に引き継がれていると私は思っています。

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上東門院の願文、凛として素敵です。松下禅尼が尊敬して憧れる気持ち、わかります。この時代の女性は実相などという言葉をいとも簡単に使うんですね。それとも上東門院が特別なのでしょうか。このスライド、私の中では今回のハイライトと思うのですが、この重みを上手くお伝えできるでしょうか。

娘から電話。古本屋さんに「青表紙本源氏物語」の山岸徳平先生監修の全巻箱入複製があるけど買う?と。5十数万円だったのが1万だよと。う~んと。見たら買ってしまったかも。家にいたからネットで見て定家の青表紙本そのままでないのを確認し要らないと。八木書店さんの「河内本源氏物語」が欲しい。

吉祥寺の新と旧。キラリナができて少し都会的になったけれど街はまだ古いまま。でもキラリナの進出で変化が早くなりました。駅前にあった本屋さんがエクセルシオールになったり。写真奥、出来つつある小さな広場は骨董店の跡地。

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2月13日
明日の講演用パワポ、早くから準備していて余裕だったのに、後半の時頼の部分になったら気が入って枚数が膨らみ、早々に準備していた前半部分を大幅にどころか殆ど削除。だいたいいつもこのパターン。理で進めていても結局は無駄。余裕なんて結構邪魔なものですね。切羽詰まって本物が出てくる。

気晴らしの吉祥寺で徒然ツイート。鎌倉ペンクラブの会報に入江曜子さんが書かれている三島由紀夫が面白い。春の雪の冒頭の舞台が鎌倉文学館だったなんて。当時佐藤栄作さんが住んでらして、夫人と三島のお母さまが知り合いで取材が叶ったそう。取材した事が余す処なく作品に書かれてあるとか。

↑ 読んだのはまだ鎌倉を今のように知る前だったから、当時私は勝手に都心の山の手にあるどこかと思ってました。幼い頃過ごした家が細川家の別邸だった回遊式大名庭園の公園近くだったから、そこの藤棚が重なって覚えられたりして。

鎌倉ペンクラブ幹事の方から明日よろしくとのメール。盛会だそう。鎌倉文学館講座室をお借りしての講座にいらして下さっている方々が申し込んで下さっているはずだからかな。幹事さんも予習に大野晋さんの源氏物語を読んで下さったり、少しずつ鎌倉に源氏物語が広がっていくのが楽しいです。

吉祥寺からの帰り、雲がおかしいと思っていたら、神奈川で竜巻のニュース。気象は人の力ではどうしようもないけれど、雲や風で危ないことは感じられる。常に自然に耳を澄ませていたいと思います。

明日の配布資料作成終了。パワポに関係のない史料も濃密に入れました。これは聴講できないけれどレジュメが欲しいとわざわざお電話下さった方がいらっしゃるため。聴いて下さった方だけにならガイドとして簡単に済ますつもりでした。これからパワポの詰めです。

寛元四年(1246)、時頼が執権になった年は大変重要です。四月に宮騒動が起き、七月に将軍頼経が京に送還されたその同じ七月に蘭渓道隆が博多に上陸しています。その時仙覚は頼経から『万葉集』の校訂を命じられて比企谷にいて送還後も続けます。

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2月14日
無事に鎌倉に向かっています。講演は2時からですが我家からだと3時間はみないと。昨夜は3時頃パワポを完成。私的には案外早く終わったので余裕で就寝。そんな3時頃になってやっと今日お伝えしたい事の核心が見えてきました。それで始めた筈なのに歴史を最初からたどっているうちに薄らいでました。

車窓の徒然にツイートさせて頂きます。時頼が何を目指したか。六波羅探題で生まれた時頼は真の文化都市を知っています。文化が何たるかも熟知しています。祖父泰時が後嵯峨天皇の即位を決めるのを見ていた時頼は、鎌倉幕府執権の責任の重さを知りました。それで自分が執権になった時、何をするか真剣に

考えたと思います。道元が鎌倉に来たのは後家人波多野義重の招請でした。義重は六波羅探題時代に道元に帰依し自分が守を勤める越前に永平寺を建立します。その義重のたっての願いに道元は鎌倉に下ったのでした。鎌倉で道元はまだ二十歳そこそこの、宝治合戦で三浦氏を滅ぼした罪に悩む時頼を教化

します。その頃蘭渓道隆が博多に上陸。蘭渓道隆はまだ宋にいる時、道元の弟子の日本僧に会って道元の話を聞き、会いたいと思っていました。それで博多から道元に手紙を書きます。道元がそれを受け取ったのが鎌倉ででした。当然時頼は道元から蘭渓道隆の事を聞いたでしょう。同時に博多が宋や日本の禅僧

の渡海の拠点となって繁栄している事も。文化都市博多が時頼の心に住み着きました。道元が永平寺に帰ったのと入れ替わりに、偶然蘭渓道隆が鎌倉に来て寿福寺に滞在します。時頼は驚愕した事でしょう。そうして時頼と蘭渓道隆の交流が始まりました。時頼が目指したのは、禅宗を起点とする文化都市鎌倉。

勿論自身の希求からの真剣な禅宗への帰依はありました。が施政者時頼は鎌倉の文化都市化、鎌倉の全国的活性化を目指したのです。勝算はありました。博多をみていますから。その勝算あっての建長寺建立でした。果たして鎌倉は無住がまるで異国というほど賑わい活性化します。この歴史の流れ、大切では?

以上ですが、昨夜こういう事を原稿に書いていたから時頼と源氏物語を講演のテーマにしたのだと思い出した時、ここでもまた六波羅探題が鍵になっていたと気づきました。義重です。道元の関係は深く関わらずにしまったので、パワポにそれを入れてません。追加しようか迷ったのですが諦めて就寝。

鎌倉ペンクラブの講演、無事に終わりました。本当に盛会でした。思いがけない方や思いがけない先生もいらして下さって、それぞれにご専門の分野でのご感想を。ご自分たちは源氏本文や歌ばかりを見てて光行や仙覚を考えた事がなかったから楽しかったと。そうなんですよね、従来の研究は作品主体だから。

その後、打ち上げに誘っていただいて、文学の話に舌鼓を打って、今散会した処です。無事に終わって感謝です。

今後の講演の参考に訊かれたのですが、使った写真の枚数は133枚。立て板に水でお話してちょうど一時間半でした。凄かったねと。今日はいい事がありました。憧れの先生もいらして下さって、僭越ですがとご挨拶したら、楽しかったと。傍で聴いてらした私をお世話下さる方が涙ぐんでられました。

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帰途の車内。打ち上げで凄く奥が読める方がいらして(文学者だから当たり前ですが)、私の講演、この人凄く不安定に違うかも知れないけれど私はそう思いますって言ってて、実は相当自信持って言ってると思ったと別の方とお話されてたとか。わかりました?と言うと、そりゃわかるよと。その通りです。

渋谷コンコースの広告がおかしくて吹き出すのを朝もこらえたのですが、帰りの今は車内の中吊りにまで。「春はあげもの」。ウィスキーの広告。井川遥さんが綺麗だから見たいのに見るとおかしくて。

2月15日
おはようございます。鎌倉ペンクラブの講演が終わりひとまず早急に取り組んでいなければならないことのなくなった茫洋とした感のある朝。講演は何が大変かといって体調管理。次に機械の事。会場でパワポが無事に映し出されたのを見てやっとほっとします。だから緊張する時間がなくて助かります。

特快に乗ったのを忘れて降りそこねました(泣)

立川で降りて戻り。目の前で一本行ってしまいました。

フォーラムに間に合いました。

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昨日の講演。ご尽力戴いた方にお礼のメールして家を出たらそのお一人から返信。たくさんの来場者にビックリ、とても嬉しかったですと。もうお一方からは、これからの鎌倉の源氏物語を託されたお墨付きを戴いたのを傍で見ていて涙が出ましたと。自分のことのように喜んで下さる方に支えられています。

鎌倉ペンクラブの講演にいらした方から蕗の薹を頂きました。光明寺さんの裏山で摘まれたそう。山菜の天ぷら、大好きです。でももっと嬉しかったのは、小さな葉っぱが。スーパーのパックで買った蕗の薹には付いてないから。

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2015.2.11 ツイッターから転載…2月14日の鎌倉ペンクラブ講演【北条時頼と源氏物語】のためのパワポの作成が進んでいます。

2月6日
おはようございます。昨日から夜昼が逆転してこんな時間に起きてます。ヴァレリーみたいに四時に起きて執筆の習慣をと気張った時もありますがとっくに挫折。今度も続かないと思います。寿福寺様ご本尊の宝冠釈迦如来像が頭から離れません。室町時代作だそうですが、何故脱活乾漆像なのだろうと。

何故鎌倉には宝冠のお釈迦様が多くいられるのでしょう。もしかしてやはり蘭渓道隆が持ってらした建長寺様のあの綺麗な仏画の宝冠釈迦三尊像が規範になっているのかしら。寿福寺様も三尊像でした。普賢・文殊菩薩様は木像でした。お釈迦様だけ脱活乾漆像。三尊共に座像で山越えの阿弥陀様のようでした。

2月7日
今朝はこんな雲が広がっていました。家で見た時はぎっしりとした石垣状だったのですが。

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2月8日
昨夜、建長寺の宝冠釈迦三尊像を検索していたら、浄光明寺の阿弥陀三尊像は建長寺の宝冠釈迦三尊像を規範に造られたとありました。今は時代を経て黒ずみ、目視では線の判別もできないくらいに劣化した仏画も、造主久時の時代ではまだ鮮やかだったんだなあと感慨。

ついでに久時を調べたら、足利尊氏の正室登子の父。浄光明寺に尊氏が関係しているのは知っていて、その時に久時や登子のことも読んでいるはずなのに、太平記関連はやらない!と固く決めているからか、いつも即座に忘れます。このツイートで少しは覚えたかな(笑)

鎌倉ペンクラブ講演【北条時頼と源氏物語】用パワポ。後半になってやっと時頼が誕生。その二年前に「青表紙本源氏物語」が完成しています。父時氏の六波羅探題時代だから、定家と交流あった両親に連れられて時頼も見てたかもというスライドです。

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目には見えないけれどうっすらと霧がでているようでした@井の頭公園

もう今週末に迫った鎌倉ペンクラブの講演。ざっと必要分のスライドを作ってみたら150枚。これでは時間オーバーなので30枚位減らさないと。これは時頼の執権就任早々の宝治合戦直後に、道元が鎌倉に下って来たことのスライドです。

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2月9日
おはようございます。昨夜パワポのスライドの処理に前半の源氏物語の説明部分を殆ど削除しましたが、これだけ残しました。中宮彰子(上東門院)が時頼母の松下禅尼と絡んできますので。無住『雑談集』にある国母繋がりのエピソードです。

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今回はテーマを「北条時頼と源氏物語」としたことで、時頼の生涯、ひいてはその時代の政治史が鎌倉の源氏物語に絡んできます。今までと同じ内容の講演なのに全くはじめてのような編集になってきました。自分でやっていて楽しいです! 何故って、こんな歴史の紹介見たことないから。

2月10日
六波羅の地霊が?と思うしかない流れ。鎌倉の源氏物語の歴史を「光行→時頼→鎌倉流出」とたどると六波羅が重要に。平家時代の光行→初代探題泰時。二代探題時氏赴任で時頼誕生→金沢文庫最後の当主貞顕赴任。同じ写真を使ったので随所に六波羅。

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六波羅探題は平家が火を放って都落ちした六波羅を鎌倉幕府が継いでできた。従来の鎌倉の歴史では六波羅は左遷とか弟とかの幕府中枢からはずれた人の赴任扱いであまり重要視されていなかった感。でも文化の視点でいうと鎌倉人が京の雅を身につける最高の場所でした。文化の視点が欠けていたのだなあと。

話のついでですが、鎌倉幕府が六波羅を継いだからその地に頼家が建仁寺を建てたのでした。頼朝には三大寺院があり実朝には大慈寺があるのに頼家にはないとよくいわれますが、建長寺の禅研究会でどなたかがそう言ったら、いや、頼家には建仁寺があると即座にきっぱりと否定され感動しました。

2月11日
緑化センターに野菜を買いに。今日は青空が綺麗。薄い雲の中に飛行機雲を引いた機影が一機。

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2015.2.6 ツイッターから転載…鎌倉文学館講座室をお借りしての連続講座第五回は4月7日(火)で《『万葉集』と鎌倉》と、鎌倉十三巡礼で寿福寺本堂参拝のことなど。

2月3日
閉店した喫茶店「ボア」@吉祥寺。詩人の正津勉さんがここのケーキをお好きだったとか。一度入ってみたいと思いながら入らないままになってしまいました。もうとっくに閉店。

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鎌倉文学館講座室をお借りしての連続講座、第五回は4月7日(火)に決まりました。テーマは【鎌倉の万葉集 仙覚律師の功績】です。詳細はチラシができた時にお知らせさせて頂きます。

2月4日
明日が雪予報なので緑化センターに野菜を買いにきてまたお花を。この前買ったのの色違いがありました。ハーデンベルギアという名前だそう。この前のと一緒に寄せ植えして門扉に吊るそうと思います。緑のロータスプリムストーンとも一緒に。

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facebookを止めたので刷りなおした名刺が届きました。

在庫切れになっていたアマゾンの本はどうなったかしたらと見たら無事に補充されていました。ありがとうございました。購入して在庫切れにして下さった方にも、今さらですがありがとうございました。

鎌倉文学館講座室をお借りしての連続講座【鎌倉の歴史を楽しむ会】。第五回のテーマは「『万葉集』と鎌倉―比企谷妙本寺と仙覚律師の功績―」です。そのチラシに載せるコメント。
《 仙覚は寛元四年に第四代将軍頼経の命で「相州鎌倉比企谷新釈迦堂」に於いて『万葉集』の校訂をしました。新釈迦堂は頼経が難産で亡くなった正室の竹御所の菩提を弔うために建てたお堂です。あたかも時は宮騒動の年。命を下した頼経が京に送還された後も仙覚は残って「寛元四年本万葉集」を完成させます。仙覚の功績は、万葉仮名で書かれた『万葉集』の歌の訓点が施されていなかった最後の152首に施した終わった事。比企氏ゆかりという仙覚は、政治に翻弄されながらもひたすら研究に没頭してこれを成し遂げたのでした。》

2月5日
今日は鎌倉。折角なら降りしきる鎌倉を撮りたいからそのつもりで重装備。雪靴を持っていないから遺跡の仕事をしていた時のトレッキングシューズを出しました。三鷹はまだ霙です。

鎌倉はまだ雨。

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梅一輪。寒いです。

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鎌倉十三仏巡礼という特別拝観があり今日が初日。寿福寺様の本堂参拝でした。寿福寺様はふだんは中門の奥へ入れません。まして本堂の中には余程の企画でないと。蘭渓道隆が鎌倉で最初に逗留した禅寺。応募して叶いました。写真は中門の外から見た本堂。

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雪の降りしきる寿福寺様が撮れると折角準備してきたのに雪は降りそうにありません。夕方になるほどという予報だったから、終わって本堂を出たら外は真っ白を期待してたのに。でも折角の鎌倉なのでこれから予定してきた場所を幾つか撮って帰ろうと思いますが、トレッキングシューズが重たいです!

鎌倉時代の寿福寺はもっと広域で隣の英勝寺も優にその範囲だったとか。今の境内だけで考えていたから驚きました。本堂には宝冠釈迦三尊像の他、明治の廃仏毀釈まで鶴岡八幡宮にあったという巨大な仁王様が両脇に。宝冠のお釈迦様はなんと脱活乾漆像です。

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↑ 写真は通りに面している山門から見た中門。寿福寺は奥へ入れなくても手入れの行き届いたこの長い参道がいつ来ても気持ちいいです。今日の雨でまた風情ある参道が見られました。本堂の参拝はもちろん撮影禁止。しっかりと眼に焼き付けてきました。

帰途についています。寿福寺は何回も焼失したりしてるから蘭渓道隆のいた時代の本堂ではないしご本尊も当時のはわからないらしいけれど、本堂の脇に建長寺と同じ巨大なビャクシンがあって、蘭渓道隆との関連を思いました。

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2月6日
鎌倉ペンクラブ講演《北条時頼と源氏物語》のためのパワポの編集に戻りました。ざっと通しで見なおしてこの最後を復活。初期の頃これを最後に使っていましたが、リピーターさんが多くなって止めました。今度ははじめての方が多いので。

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2015.2.2 ツイッターから転載…鎌倉ペンクラブ新年会・NHKアーカイブスで観る1981年制作の高野山(修行のようすや虚空蔵求聞持法)のことなど

1月29日
雪が降っています。しんしんという音をたてて。何だろう。笹の葉にあたる音でもなくただ闇夜に降る雪の音。

1月30日
称名寺は春夏秋冬ほとんどの季節を撮っているのだけれど、雪景色だけは満足に撮れてません。意識して撮るようになってから降らなかった事と、降っても遠いから着いた時には溶けていたりして。今日は絶対撮れる!と思いつつ、もうその気にならないほど心が移っている。今は撮るより書く事に専念です。

1月31日
冬晴れの、冬枯れの、井の頭公園。爽やかです。

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今日の道中のお伴は小川靖彦先生の万葉集。時頼と源氏物語が春には決着つくだろうから、そうしたら仙覚さん論に取り組もうと思ってて、その準備に少しずつ読み初めています。

万葉集の写本・刊本の多様な姿は、それぞれが製作された時代の人々の『万葉集』に対する考え方を反映。平安時代の人々は『万葉集』の写本を美しい調度品に仕立て、鎌倉室町の人々は学問的で権威ある厳めしい古典テキストに。江戸時代は常にB5判よりひと回り大きい立派な姿の刊本として出版(小川氏)

というように私の万葉集研究は、源氏物語研究と同じく写本の追及です!「写本に関わった人々には興味深いドラマがあります」とは、鎌倉ペンクラブの講演のお知らせに書いて戴いたコメント。鎌倉で万葉集の写本に関わった人々の一人が仙覚さんです。

鎌倉ペンクラブの新年会でした。写真は建長寺の高井総長様と円覚寺の朝比奈恵温様。来月建長寺で行われる3.11の為の鎌倉宗教者会議のご案内をされているところ。詳細は帰ってからアップさせて頂きます。

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鎌倉ペンクラブは日本ペンクラブに継ぐ大きなペンクラブだそう。一次の時の文士といった方々が亡くなられているからイメージが違うけど、そういう文士の方々と実際に交流していた方がいられます。私も三年目でやっと場に慣れて、今度小林秀雄の話をして下さい等とお願いしてしまいした。聴きたいな!

2月1日
昨夜鎌倉ペンクラブで建長寺の高井宗務総長様と円覚寺の朝比奈恵温様が紹介された「新春講和の集い 鎌倉宗教者の祈り」の詳細です。2月19日13:00~。於:建長寺龍王殿。講和:鶴岡八幡宮吉田茂穂宮司・カトリック雪ノ下教会古川勉神父・建長寺派管長吉田正道老師。

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高野山アーカイブスを観ています。1981年の制作だから、現在よく放映される半ば観光案内的華やかな高野山紹介の番組と違う。高野山の僧侶がどのように修行されるか、修学院内での修行のよすをTVで観るのははじめて。今は虚空蔵求聞持法を紹介しています。

何故修行されるのですかの問に、世の中の理不尽を受け入れられるようになるためです、と答えられたような。ツイート中だったので曖昧ですが。

修行中で一番の苦行。真冬の水行。山は気温2度。氷が張った水につかって唱える般若心経。

アーカイブス、終わりました。朝のニュースもあって泣きたいような気持ち。心洗われました。今はブームだからしかたないのでしょうけれど、昨今の高野山案内の番組に違和感を持っています。こいう深秘を感じることなくて。

2月2日
車中の徒然のツイート。ペンクラブの新年会で『鎌倉六代将軍宗尊親王』を書かれた菊池威雄先生にお話を伺いました。実はこれを目的に行ったようなところがあります。執筆の動機を伺いたかったんです。宗尊親王は中世歌壇における重要な歌人なのに研究者が誰も紹介してない事への義憤に駈られてとの事。

誰かしなくてはと訴えたけど誰もしない。じゃあ誰がやる?と考えたら自分になったとの事でした。宗尊親王についての論は多々ありますが、一冊にまとまった本はないから菊池先生のご本が刊行された時には驚きました。最初の新年会でお会いしてたから『源氏物語と鎌倉』も注に揚げて戴いてます。

義憤に駈られてのご研究、素敵です。

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