2015.2.24 ツイッターから転載…講演「関東における中世寺院のネットワーク」から龍見寺経塚出土の経筒を撮ったことなど
2月17日
あれっ?と。これってシンプルな問題だったのではと突然。尾州家本の正嘉二年書写の奥書が実時の自筆か否かの問題。自筆だったら尾州家本は校訂しなくても河内本だった筈。それが酷過ぎる程の校訂を経て河内本になっていて、元々は青表紙本にも似た別の本文。奥書は後から付け加えた事になるのでは?
2月20日
そういえば「河内本源氏物語」の事。鎌倉ペンクラブの講演にいらして下さった源氏物語で著名な先生も、『源氏物語と鎌倉』を謹呈させて戴いた先生からも、「私たちの時代は『河内本源氏物語』は読むな」と言われましたからと。「河内本源氏物語」の普及が滞っていた背景には人為的な背景があったよう。
「河内本源氏物語」というと必ず言われる言葉。「河内本源氏物語」は校訂者の作為が入っているから読む必要がない…。でも私が言いたいのは本文どうこうの問題ではなく、親子二代にも渡る人生をかけてまでそれを成した人がいるという事であり、そういう営みを慈しんで歴史を見ることが大切という事。
もう三年前になりますが『源氏物語と鎌倉』を上梓して尊敬するというより憧れの『源氏物語』の権威の方に謹呈させて戴いた時、お返事を戴けるような方ではないにも関わらずお礼のお葉書を頂戴し、「『河内本』は懐かしい。取り上げて戴いて嬉しかった」と。学問の世界での蔑視が何かをゆがめています。
2月21日
各駅停車に乗ったらやたら特快・特急待ちが多くまた「当駅で3分待ちです」。早く出たからいいけどうっかりすると遅刻。今後各駅停車は要注意。やっと、というか、まだ国立。
多摩モノレール車窓。柴崎体育館駅通過。遠くに浅川沿いに建つ普済寺様の屋根が見えています。普済寺様の遺跡発掘調査に通っていた頃はモノレールはまだ建築中でした。
高幡不動の五重塔が金色に輝いています。
こちらに来るとこの風景を見るのが楽しみ。
間に合いました。関東における中世寺院のネットワーク。日野市郷土資料館です。
会場は満席。中世寺院真慈悲寺発掘調査チームの活動の一環です。
もう少しここにいたら山の端に沈む低い位置の三日月を見られるかしらと思いつつ、帰ります。
帰りの車窓。高幡不動の五重塔は沈む夕陽を背にシルエット。
経塚の最古は道長が金峯山に埋めた経筒。しかもこれが貴重なのは御堂関白記という一級史料の文献と照合できる事。文献資料と照合できる経塚は他に2、3例だそう。それから平安貴族に流行して、一時期途絶えて、また中世に復活。多摩の百草一帯の経塚は中世。横山党とか武蔵七党が関係。
経塚は西国に多く、東国では今日の講演の多摩の百草一帯と、あと埼玉に少し。比企を回っている時よく耳にした平沢(へいたく)寺にその一例があって、ここは畠山重忠の祖父にあたる方の寺院とか。しかも経筒を作った鋳物師が百草と同じ藤原守道。興味深いネットワーク!
細く高く聳える木の間越しに見える三日月と金星。ロシア絵本のような素敵な構図なんですが、スマホでは無理。いつかゆっくり月を撮りたい。@井の頭公園
八王子市龍見寺の大日如来。西村公朝氏が銘があれば国宝と言われたそう。藤原末期の作で宝冠は円成寺のより立派とか。地元近くにこういう仏像のおわしますことを知りませんでした。http://ryukenji.jp/publics/index/83/ …
2月22日
八王子市龍見寺経塚のパンフ・表紙。経筒の発見は偶然が多いので写真に撮られてなく、これは偶然別件の試掘調査で発見されたものですから貴重な出土状況写真として紹介されました。ただあまり立派な例ではないとの断り付でした(笑)簡易な埋経のよう。
八王子市龍見寺経塚のパンフ・裏表紙。経筒の写真を撮らせて頂きました。それでパンフを持っているのですが、ここにすでに大日如来座像が。当時は経筒に夢中で仏像に気が行かなかったんですね。
八王子市龍見寺経塚のパンフ・経筒の中。この経筒は長方形の銅板をぐるっと丸めて留めた仕様。銅板が薄いので少し破損しています。経筒には他に鋳造仕様があります。調査員さんから「中を撮りたいんだけどどの角度がいいかなあ」と言われて撮った数枚。
そうだと思いついてFBに使っていたアイコンの写真に変えたらなんだかツイッターなのにFBになった気分。これで投稿まで変わったりして。というのは冗談ですが、デザインは気分を変えますね。心機一転ということで。
2月23日
苧環を植えました。園芸熱再燃とまではいきませんが、しばしのくつろぎ。