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2015.7.31 ツイッターから転載…時頼と源氏物語の原稿、「第三章第三代執権泰時と時頼」完了。スマホが壊れて新しくなったのを機に入れたアプリのフォトエディターで遊んでます!

7月21日
時頼と源氏物語の原稿、「第三章第三代執権泰時と時頼」を書き進んでいます。時系列に並べると、時頼4歳の父時氏、六波羅探題を終えて鎌倉に戻り死去→竹御所、将軍頼経と結婚→御成敗式目制定・明恵上人逝去→北条実時、小侍所別当に→竹御所崩御。仙覚新釈迦堂住持に→親鸞一切経校合、です。

書き直しを決める前の原稿では時頼に特化して書いていたので、実時が小侍所別当になったことも、竹御所と頼経の結婚も、仙覚登場も入れる機会がありませんでした。親鸞の一切経校合と時頼を書くことになって年代をたどったら自然にこの流れが。やっと原稿に厚みがでました。

私のなかには惑星の楕円軌道のようなイメージがあって一旦は挫折して遠のいても必ずもとの位置に戻って完成する。円環…。文学に挫折して長いけれどその間歴史に嵌まってこれでいいと思っていたけれどやはり軌道は生きていて文学に戻りつつある。失われたはその円環の小説。そんな感じがしています。

今日で一年。調べてみたらそうでした。昨年七夕の日に建長寺様で「七夕と源氏物語」の講演をさせて頂き、休憩時間に廊下で『北条時頼と源氏物語』のタイトルが突然浮かんだのでした。「第一章六波羅で時頼誕生」を書き終えたのが去年の明日。先にタイトルが浮かび文章はあとからがパターンのよう。

緑の水鏡@井の頭公園。涼やかです。

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7月22日
北条時頼と源氏物語の原稿。遡って書き直している第三章「第三代執権泰時と時頼」、やっと第八章で書こうとしていた実泰に戻ってきました。実泰が自害を企てたために実時が後を継いで小侍所になったのでした。それを記すのが『明月記』。金沢文庫図録では誰からの情報か不明とありますが、親行ですね。

7月23日
朝一番でスマホが壊れ警察署からは落し物が届いていると電話があってなんという日!と思いつつ警察とスマホのショップで半日潰して疲労困憊。少し休んで息を吹き返しました。スマホは保証に入っていたので五千円で新品と交換して下さるそう。届くまで代理のスマホまで貸して頂けてほっとしています。

といいながら、台風が近づいている空は雲が吹き荒れて青く澄んだ空に羽根のように薄い白い雲や少し灰色の妖しい雲やなんかなんか気象の大変さを孕んでいて、そういう空が好きだから満喫しました。

7月25日
今日の夕焼け。スマホが壊れて同型の新品と交換して頂いて最初の撮影。最初の投稿。データの復旧とか使っていたアプリを思い出しながらのインストールとかこれからいろいろ。

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7月26日
鉄道模型がやってきた@吉祥寺アトレ地階 今日の夕方まで

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やっと北条時頼と源氏物語の原稿の書き直し、「第三章 第三代執権泰時と時頼」を書き終えました。ふうっ~とひと息。今日中に校正して手放します。(そうしないと後が詰まってる……泣。と、そろそろ焦りが)

原稿の最後は親鸞の帰京。文暦二年2月に一切経の校合に加わり、泰時が設けた宴席に参加して9歳の時頼から質問を受け、答えに感服した時頼を利発と称えた。その7月に同じ泰時から念仏者禁制が出されて親鸞は帰洛したらしい。時頼が親鸞を信奉しそうなのを避けるため?という気がしてしまいました。

7月28日
北条時頼と源氏物語の原稿、第三章第三代執権泰時と時頼を手放してとても軽くなった気分の机周り。これで心置きなく鎌倉の源氏物語と万葉集の二本にかかれます。あと、鎌倉と比企というテーマが一つ。これは新しいから楽しみ。小川町と鎌倉将軍について書く予定。多分まだ誰も真剣にとりあげていない。

アプリでフォトエディターというのがあったので試しに使ってみたくなり、やってみた結果です。先日のアトレで撮った鉄道模型。

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7月30日
フォトエディターで今朝作ったスマホの壁紙用写真です。

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『鴨東通信』夏号、西谷功氏「釈迦十六羅漢図―苦行の釈迦像と泉湧寺の宋式儀礼」を興味津々に拝読しました。

中に「常思惟」の語があり最近検索したことを。「おもう」には「思う」と「想う」があり、私の周りでは想うを使う方が多い。でも私は思うのほう。違いを検索したら、思うは思惟・思想・思索・思念など哲学的。想うは想像・構想など対象が具体的。なのに思うが軽く感じられるのは常用漢字だからかも。

雷が鳴って雨脚の強い雨が降り出しています。

吉祥寺の朧な夕焼け。

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反対側ではもう満月といっていい月が。でも朧な輝き。

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北東から投網を広げたような雲がみるみるのしてきて月が隠されてしまいました。綺麗な満月を観られたのにあっという間に。

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7月31日
時がたったからというだけでなくやはり鎌倉の源氏物語から抜けた広がりがすべてに大きく関わっている。広がりって大切。必至になっている時は当然だけどやはりその時は視野も狭いしぎすぎすしている。結果を出して手を引くとこんなに醸造。余裕。昨夜は失われた時を求めてに浸って寝ました。

茶碗に珈琲をそそいだ…。プレヴェール「朝の食事」。日常の何かの動作をするたびにこの句が浮かぶ。別れの朝、恋人の、自分の、一挙手一投足が脳裏に眼に焼きつけられてゆく。この句によって私も一つ一つ確認しながら生きている気がする。本の扉に「恵存 …様」と記してまたそう思いました。

読書通信社というところから『新本特価情報』を送って頂いて見てたら『玉葉』全三巻¥32,000が¥6,415と。思わず手がでそうなのをぐっとこらえて『明月記』ならと。余裕ができたら『明月記』を読んで過ごしたいと思っていたことも。山中智恵子さんみたいに。

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2015.7.22 ツイッターから転載…朝日新聞デジタル【カズオ・イシグロが語る「ホームズ・谷崎・プルースト」】に触発されて。峰岸純夫先生『中世東国の荘園公領と宗教』より親鸞の一切経校合と時頼のことなど

7月16日
鎌倉ガイド協会のHP「トピックス」に6月13日の講演【鎌倉の源氏物語と万葉集】を載せていただきました。これは今まで万葉集と源氏物語を別々にしてきた講演を一緒にして時系列に沿ってお話したものです。膨大で華麗で波瀾万丈の歴史絵巻…副題です!
http://www.kcn-net.org/guide/topics.php

7月17日
台風のあとは空の青が綺麗。

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なんだかよくわからないけれど、松尾剛次氏『知られざる親鸞』の玉日姫の辺りを拝読していてざわざわしています。わからないからか謎が解けないからか関心が深まったからか親鸞が好きだからかもっと知りたいからかわかりません。超特急で読み飛ばしてるので。

7月18日
秋開講のTAMA市民塾。今日はお世話になる塾幹事の方々と講師の交流会。自己紹介でどんな講座か説明したら、芭蕉の古文書を読む講座の講師の方が、面白そうですね、最初に鎌倉の現地を受講生と歩くといいですよ、僕も深川を歩きましたと。そうか、ガイド協会の方に案内して頂くのもいいかも…。

講座は定員32名のところ、応募数45名で成立していました。自己紹介して戸惑ったのですが、今まで鎌倉を基盤に鎌倉の方に訴えていたのが、今度は多摩。鎌倉の方に鎌倉と古典の関係をお伝えするのと意味が変わってきます。多摩特化のテーマを考えなくては。

帰りの車中の徒然ツイート。長くなるかも。昨夜Eテレでカズオ・イシグロ氏が、ずっと書いてきて思うのは心情を伝えたいのだと。心情が入らないのがノンフィクション、小説は心情を書くと。これは私がずっと講演をしてきて最近感じる事。『源氏物語と鎌倉』出版当初は鎌倉にも源氏物語かあった事実を

知って頂きたい一心でした。が、何度も講演を繰り返しているうちに私の中で変化が起きて、事実と事実の間の人と人の交流にこそ真実があると。いわば歴史の行間。これは講演を聴いて頂けば事実の背後にまで踏み込んでお話できていますが、例えば先日のガイド協会の講演要約みたいなものには載りません。

だから昨年頃から書きたい気持ちが募って時頼と源氏物語の原稿を始めたのですが、あえて時頼をはじめ人物の内面にしつこく踏み込んで書いています。そうしたらある方から「貴方はいったいどこへ進もうとしてるのか」と。今まで論文を見て頂いていたからメンタルな内容になって戸惑われたみたい。

ああ、先生は私の論文を待っていて下ってるとわかりながら、これを言ったら裏切ることになると頭の隅で思いながら、お答えした言葉は「小説です」でした。時頼の原稿はまだその中間ですが、完璧に小説に戻る気持ちになっています。たぶん講演活動を経て文学に挫折していた硬い心がほぐれました。

でも、完全に小説に戻るにはまだしなければならない事がたくさん。今夏には鎌倉の源氏物語や万葉集、比企の仙覚など幾つか。終わったら玄覚の論文。それよりなにより時頼と源氏物語の刊行。小説に戻るのは来年以降?吉祥寺に着きました。

松尾剛次氏『知られざる親藍』に時頼が9歳の時親鸞と会っているとあり、それは親鸞が執権泰時の一切経校合に関与していたからと。親鸞とのことは知ってたけど、時頼が小さすぎて原稿から省いていたのだけれど、その一切経が頼経の明王院のためのものだと知って、これは入れなくては!となりました。

昨日『知られざる親鸞』を拝読してざわざわしていると呟いたのはここにも隠された歴史があるのを見たから。親鸞が兼実娘の玉日姫と結婚したのは事実のよう。それを事実でないとした歴史が途中からできて今に。鎌倉の源氏物語が知らされてなかったことを知った時の義憤を思い出したのでした。(続

そして、その玉日姫との縁が泰時の一切経校合に関係してきて、親鸞がそのプロジェクトに参加できたのは頼経の縁ではないかと松尾先生は書かれています。頼経は兼実の曾孫です。親鸞の妻として知られる恵信尼はもしかしたら玉日姫の姉の宜秋門院任子に仕えていた女房だったかもと。玉日姫亡きあと結婚。

ここでも思うのですが、どうも私は「公家」の匂いがすると俄然惹かれる。反対に教科書的に知らされているのはみんな庶民的。親鸞も。でも親鸞が京都に帰って亡くなった禅房は玉日姫と新婚時代を過ごした邸で、ということはずっと九条家の婿的存在だったこと。そんな親鸞像、知りませんでした。

7月19日
カズオ・イシグロが語る「ホームズ・谷崎・プルースト」:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASH7H4D4JH7HUCVL00R.html

方法論や価値観が一致しているのに作品に入れないと思っていたら、カズオ・イシグロ氏が今度はプルーストを「間違いなく多大な影響を受けた」とされながら「一番好きな作家とはいえない」と。この真逆。なんだろう。面白いと思う。

【カズオ・イシグロが語る「ホームズ・谷崎・プルースト」】から、「プルーストを読んで、テレビと同じような本は必要ないとわかった」と。いいな!と思いました。(ちょっと今朝のゾクゾク……)

待っていて下さる方がいても10年間鎌倉の源氏物語に迂回して書けなかったあいだにその方は亡くなられてでも私はきっと書き抜きたいと思っているのだけれど、迂回した10年が迂回ではなくテーマの発見もしくは蓄積だったと気づく昨今。記憶が物語を紡ぐにしても書く事象はやはり際立っていなければ。

北条時頼と源氏物語の原稿。第二章松下禅尼から第三章はいきなり第四代執権経時に飛んでいました。第三代執権泰時はその中に含めて書いていました。が、9歳の時頼が親鸞の一切経校合に立ち会ったことを書くならと、第三章を変更して「第三代執権泰時と時頼」に。これから遡って訂正加筆にかかります。

私のしていることはいつもマイナーだからツイッター的にいうとRTもファボもして頂けません。でもそれこそが新規開拓していることの自負に。源氏物語の写本や光行さんのことも『源氏物語と鎌倉』の執筆中からしつこく繰り返し呟かせて頂いていて今では少し市民権を得てきています。今度は時頼。

9歳の時頼が一切経校合の親鸞を会話した話は高橋慎一朗氏『北条時頼』(2013)にもあって読んでいました。『知られざる親鸞』(2012)を読むまで気に留めてなく反省。お二人が挙げられている峰岸純夫先生「鎌倉時代東国の真宗門徒」は所収の『中世東国の荘園公領と宗教』はなんと我が本棚に。

峰岸先生の親鸞論を拝読していたからこそ『知られざる親鸞』を拝読しても全く未知の領域でなくすうっと入っていかれたのですが、たどりついてみたらここが原点だなんて、読書というのは自分が深まっていないと大切なことも気づかずに過ぎてしまうものなんですね。でもこうして戻ってくるから安心。

吉祥寺から見た夕焼け。昨日も同じ夕焼けが見られました。

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RTして頂きありがとうございました。恐縮しています。やっと文学の感性が戻ってきたと感じる昨今、痛切に「文学」を思います。今朝のカズオ・イシグロ氏から触発されて第一巻から熟読し直してみたくなりました。私にも師です。猛暑のなかご自愛下さいますよう。

北条時頼と源氏物語の原稿。第八章として実時を書いていたのだけれど、父の実泰から書かなければならなくなって、そうしたら竹御所も書かなければならなくなって、錯綜して中断していました。第三章を泰時にしたら、そこに全部入って実時の出発点が見事に収まります。結局加筆ではなく書き直しに。

7月20日
昨夜の就寝前の読書は二冊。峰岸純夫先生『中世東国の荘園公領と宗教』と高遠弘美先生訳プルースト『失われた時を求めて』第一篇。どちらも以前拝読しているから懐かしく。読書ってこういう懐かしさもいいですね。たどって来た道時々の思いがいっぱい詰まっていて頁から飛び出す。汽笛が…とか。

峰岸先生の「鎌倉時代東国の真宗門徒」に「口伝鈔」の9歳の時頼と親鸞の会話の内容が書かれてました。一切経校合のあとの泰時主催の宴席で時頼が親鸞に魚肉を食する時に袈裟を着用するか否か質問したとのこと。親鸞の答えに納得する時頼が利発と称えられている。北条氏系でない門徒側の記録でです!

松尾剛次先生は親鸞の教えが鎌倉で普及する事叶わなかったのは、鎌倉が時頼と蘭渓道隆の厳しい戒律仏教になったからではないかと。9歳の時頼から十年以上たっての事ですが、その間に親鸞にも時頼にも時代の大変な変動があったことをこれから見ていきます。少なくとも親鸞に時頼への不信感はなさそう。

井の頭公園の夕焼け。三日間連続で夕焼けが見られました。

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2015.7.16 ツイッターから転載…『吾妻鏡』の会に行き、大宮八幡宮の七夕神事に行きました。鎌倉ガイド協会の講演のHPに載せる原稿のこと、松尾剛次先生『知られざる親鸞』など

7月6日
雨のなか、吾妻鏡の会に向かっています。奥州平泉の泰衡に義経追討の院庁の宣旨が出されたところです。タッキーファンの私には辛い条です。なでしこも、頑張って!

新しく入会された方が母校の教師をされていて、在職中の校長が私の中学時代の憧れの先生だったことが判明。懐かしさに話が盛り上がった時、九月にOB会があるから、その時卒業生でこんな活躍をしてる人がいるとみんなに紹介すると。憧れの○○先生、その方に『源氏物語と鎌倉』を知って頂くなんて、時空を超えてタイムスリップする気分です。母校での講演、鎌倉の源氏物語を後輩に知って貰いたいと思っていたのが実現するかも。

10月開講の府中市TAMA市民塾の講座「鎌倉の万葉集と源氏物語」。さっき受付で応募状況を伺ってきたら、定員オーバーで抽選になるそう。鎌倉での活動をそのまま今度は多摩で。鎌倉の源氏物語とはいうけど、源氏物語はただの国民的文学ではありません。世界に冠する文学です。

7月7日
大宮八幡宮の七夕神遊びの神事に生きました。

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新暦の七夕は雨の通例どおりに今年も雨。宮司様のお話にもありましたが、今年の旧暦の七夕は8月20日とか。その頃は晴れるにしても、大宮八幡宮様は七月七日の日付けを守られて新暦で。鎌倉の源氏物語のイベントも新暦にするなら、雨でも大丈夫なシンポジウムがいいなあと。それが願い。

大宮八幡宮では七月一日から十五日まで清涼殿で乞巧奠の飾りをされます。七夕の室礼をと考えて冷泉家の乞巧奠を参考に始められたそうです。その後鎌倉の鶴岡八幡宮でもされるようになったのでした。同時に乞巧潜り神事が行われ、宮司様を先頭に五色の布を垂らした中を地の輪くぐりのように廻ります。

五色の布を垂らしたこの中を、左回り、右回り、左回りと、三回繰り返します。どうぞ皆様行かれて下さい。

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芸事の上達を祈る七夕。そのために飾りの中でも雅楽の楽器が置かれます。これは琵琶と六弦の事。和琴だそうです。隣に篳篥や龍笛もあります。

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7月8日
六月にさせて頂いた鎌倉ガイド協会の方々への講演のHPに載せる原稿が届きました。しっかり受け止めて頂いて、「七夕は鎌倉の源氏物語の日」宣言が一つのムーブメントになっていくよう頑張って下さる手応えを感じ、嬉しく思っているところです。今年の七夕には間に合わなかったけど・・・

7月9日
雨の井の頭公園。神田川の源流です。

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今日の道中のお供は金沢文庫図録『北条実時』。貴方が鎌倉の公家社会を開いてくれたと言って頂けるようになって私の役目は終わったと安堵の思いで感じる昨今、どんどん本来の仕事である小説に戻ろうという気持ちが募っています。鎌倉の源氏物語が決着つく日がくるとは思わなかったから諦めてたのに。

雨の横浜駅。

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雨の鎌倉。これも風情。ラッシュを避けて少し一息。今日のご講演は松尾剛次先生。折があったら伺いたいけど半ば諦め気味だったのに廊下で機会を頂けて質問を。親鸞上人のこと。伺ったら平凡社新書で『知られざる親鸞』を出されているとの事。今日の収穫。

建長寺様の桔梗。

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白い蓮の蕾。明日開くでしょうか。

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建長寺様境内の柏槇、ビャクシン。蘭渓道隆が中国から持ってらした種を蒔いたものだそう。海を渡ってきた種子がこんなに成長して何百年も。柏槇、私はまだ一枚も満足した写真を撮れてません。風格負け。

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7月10日
鎌倉の源氏物語に専念しているあいだ封印していたことを徐々に徐々に外していってます。今夜は短歌絶叫コンサートに。安心して「追憶」に浸りました。

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7月12日
水引草。懐かしい花ですけど、鉢植えでみつけて嬉しくて植えたら繁茂することすること。八重葎の庭に一役担っています。

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松尾剛次先生『知られざる親鸞』を拝読中。小説等で読んで知っていても親鸞をこのような正式な研究で読むのははじめて。親鸞は慈円のもとに入室し、二度目の夢告を得た延暦寺大乗院は九条兼実が旦那で、慈円が天台座主の時に建立された。それゆえ兼実は慈円の弟子の親鸞を知っていた可能性があると。

7月14日
今日は先月の鎌倉ガイド協会の講演のHP用原稿の仕上げをします。二時間ぎっしり詰まった内容のテープ起こしはさぞ大変だったとご苦労を思いながら手を入れさせて頂いています。(講演時、一旦休憩になった時に、メモとれない!と悲鳴があがりました。それ程突っ走ってお話しました。笑)。種々感謝!

寛元四年(1246)仙覚が「寛元四年本万葉集」完成の項にさしかかりました。先日ガイド協会の方とお会いしたら「講演で仙覚の業績を知ったのであの後妙本寺をガイドした時、今まで以上に仙覚碑や竹御所の説明をすることができた」と。「七夕の源氏物語の企画も手伝いますよ」と言って頂き頼もしく。

でも、私はもうやるべきことは全部やった、後は鎌倉の方に任せてと思っていたのですが、七夕の源氏物語の企画は私が動かないと結局何も起きないのかなあと、今年の七月七日の現状からも思いました。私個人で動くレベルの問題ではないと思って引いたのですが・・・

7月15日
八丈島で地震が連続して起きているのに、その八丈島の方向から雲が発生しているので気になって撮ってきました。いわゆる地震というほどの雲でないから三宅島の?とか。

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この雲、おかしな雲で、八丈島の方向(南)から北へ架橋しています。全く見事な架橋です。

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架橋する低空の雲のない空はこんなに綺麗でした。

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講演を間近に控えた方の咳ツイートにドッキリしたあと、メールを見たら昨夜送付した鎌倉ガイド協会の講演のHP用原稿の返信。「先生の手直しで光輝いた文になっている事に感動しています」といって頂いてひとまずホッと。明日載せて下さるそう。実はこの講演、私も前日まで咳で苦しんでいたのです。

7月16日
今日は新月。心に決めていたことの一つの賭けをしました。結果がでるといいのですが。いろいろとこれから挑戦です。

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2015.7.7 ツイッターから転載…蘭渓道隆の生誕地と蘭の花のこと。カサブランカが咲きました。北条実時の父実泰のこと。など

6月29日
蘭渓道隆のご生誕地には今も蘭の花が咲いていて、日本への禅の普及に故郷を発ってから二度と帰ることのなかった禅師の故郷への思いが蘭渓道隆というお名前に込められていると聴いて、蘭の花に思いを馳せています。

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先のツイートの蘭は世界ラン展で撮りました。野生の蘭はこんなふうに生えているのかと興味深かったです。蘭渓道隆のご生誕地の蘭は川べりにも生えているそうだから、こんなイメージかと、先日緑化センターで見て買った小さな鉢の蘭です。

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世界ラン展での森のなかの群生のようす。この写真の方がよかったかも。ワイルドで。

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昨夜から時頼と源氏物語の原稿「第八章北条実時と源氏物語」にかかりました。終わりが見えているので表紙の絵を考えていて蘭の花の線描を使いたくなり、それで蘭を見ています。鎌倉の源氏物語は時頼が関わっているので拠点は建長寺様。

建長寺様の宝物風入に伺うと中国人観光客の方々が蘭渓道隆の頂相を見ると突然一斉に五体投地をして敬意を表する。日本人の私達は建長寺開山様と思って拝観するだけ。曹洞宗の道元の本は出るのに何故臨済宗の蘭渓道隆のはないの?と疑問だったけど、同国人という違いがあるのだと最近納得しました。

蘭渓道隆の伝記は中国で出版されれば価値が認められて普及するでしょうけれど、鎌倉にとって、鎌倉の禅にとって、ひいては日本の禅にとって蘭渓道隆は最初のの大恩人なのだから、今のような知られなさ過ぎは申し訳ないと思う昨今です。鑑真と同列に知られておかしくないと、私は思うのですが。

6月30日
カサブランカ。今朝また二輪咲きました。一眼レフを出してしか撮れない静謐さです。

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セイヨウニンジンボク。昨日剪定した枝の花の部分を活けました。ハーブ系の芳香が素敵です。

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窓を開けて作業しているから庭のカサブランカの芳香が届いて室内に。そろそろ空気が冷えてきたけど閉められない……。贅沢…。

7月2日
雨のカサブランカ。水滴が綺麗です。今日、五つ目が咲きました。

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雨上がりの武蔵野の雑木林。しっとりと綺麗です。

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時頼と源氏物語の原稿、「第八章 実時と源氏物語」を書いているのですが、また難問にさしかかって謎解き実行中です。私がしているのは従来の定説のまま引き継がれている分野ばかりで、どなたも疑問を持たれないで来ています。なのに源氏物語での人間関係を投入すると、?、ということがしばしば。

7月3日
ずっと実時の父実泰を追っていたのですがたぶん掴めました。実泰が一条実有と異父兄弟であり、狂気の自殺未遂をおこしたことを定家が明月記に書いていて、それを金沢文庫図録では「ともに『吾妻鏡』の伝えない情報。真相は明らかでない」と。でも親行と共に将軍に近侍してるから情報源は親行ですよね。

今まで親行と「河内本源氏物語」の関係だけで追ってみてたから、親行が将軍頼経に供奉した時に実泰もその数人のうちの一人だったことまで気がまわりませんでした。今度実時と『源氏物語』の関係で『吾妻鏡』を問い直したら、実時以前にもう父実泰が親行と近い仲。こういう発見で深まっていきます。

7月5日
雨の日曜日。最後の一輪、六つ目の花が咲いて庭のカサブランカが壮麗です。六月はあんなに余裕だったのに気がつくと七月ももうこんな。今週から外出もあるしといきなり焦り気分。実時と源氏物語の章がやっと動き出したのでとにかくこれを仕上げて、そうしたら幾つかの小さな原稿をと心のなかで配分中。

起承転結というけど、原稿は凸凹の凹のようになると落ち着く。両脇の高い部分が起と結。長い底の部分を越えて這いあがってくる歓喜が結。実泰を書いてたら母が伊賀氏なので伊賀氏の変の負い目を背負う人生。伊賀氏の変を六波羅探題で処理したのが時頼の父時氏でした。はからずも実泰で起に戻りました。

Amazonでまたランキングが跳ね上がりました。ここのところ活動してないし、どなたとも連絡をとっていないから、きっかけは何だったのでしょう。コンスタントに下がり気味だったから最近見てなかったので、いつからかも不明。少し前に物凄く跳ね上がっての今なら、その時見たかったなあと(笑)

閉じようとしたタブレットを見たら先程見たAmazonのページが開かれていて、さっきよりまた順位が上がってる。こんな夜中の変動。どなたかしら、どういう方かしらと思いが巡る。本は時空を越えて、例えば空海の時代の書を今の私が読めるし現実に知らないどなたかとも世界を共有できる。素敵です。

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2015.7.5 ツイッターから転載…慶應義塾大学清家展での清原教隆と御成敗式目の問題は虚説→『北条時頼と源氏物語』の第八章は「北条実時と『源氏物語』」とすることに

6月25日
原稿が鎌倉の源氏物語の核心部分に入ってきたので拙著『源氏物語と鎌倉』を読み返す。おかしいくらいにここに時頼が書かれてない。如何に政治史が考慮外だったかと。それで時頼を照合すると、執権を退くのが親行が河内本を完成させた翌年。宗尊親王が鎌倉歌壇の最盛期を築いた時にはまだご存命でした。

という訳で、はからずも北条時頼と源氏物語の原稿は鎌倉の時頼の時代の政治史になっていて、苦手だった宮騒動、宝治合戦が理解できてきました。今また、時頼の時代の最後の私なりの解明です。(こうして時頼をたどってきて思うのは、知られている時頼像とあまりの違いにまるで別人の感)

清原教隆が下向した仁治二年は執権泰時の時代で、教隆43歳、親行54歳、実時18歳。親行は将軍頼経の歌の師であり、教隆は道家から派遣されてきたから当然頼経に。実時は幕府と御所を繋ぐ役職の小侍所別当。と、ここに於いて御所で源氏物語の識者が揃います。実時はまだ若い!です。

6月26日
今朝は不思議な朝焼け(とまではいきませんでしたが)の空でした。この隙間の奥にこれから朝日が昇ってくるのですが、ここだけこんなに綺麗で、反対側の空は灰色にどんより。

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印刷博物館「ヴァチカン教皇図書館展Ⅱ」の余韻から離れたくなくて『薔薇の名前』を読んでいるのですが、やはり導入部の凄さ。でも以前読んだ時の印象ではそれがだんだん続かなくなって最後はふつうのサスペンスになったような。描写の迫力に人為は及ばないなあと思ったのでした。時頼の原稿に戒め。

道中のお伴は『薔薇の名前』。でも全く違う世界に行くから帰りもこの気分でいるかは定かではありません。(なのに単行本は重い!)

「偉大な一巻の書物にも似て、この世界がわたしたちに語りかけてくる痕跡を読み抜くこと、それがいかに大切であるか」(薔薇の名前)。この小説、創作意欲をそそります。書物は世界であるみたいなわかったようなこと、書いてみたいですね!この小説は手記の手法。源氏物語の草子地に通じるかも。

だけど、薔薇の名前っていいタイトル。私もこんなタイトルをつけられたらいい! まもなく目的地到着です。

来てよかった。清原「教隆」の名前のある史料にばっちり遭遇。御成敗式目関連の史料です。教隆は選者でした。この展示をツイッターで見て知ってたから潜在的な意識となって教隆が浮かんだのでしょうか。不思議です。

帰りにこの写真を撮っていたら建長寺様でお会いした編集者さんがいらしてこんにちはと。私の頭の中は教隆との遭遇で動揺していて、更にこんな所で鎌倉関連の方とと動揺してご挨拶に狼狽えて。まだまだダメだなあと、帰りの道を独り歩きしながら、反省しました(笑)

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さて、帰りの道中のお伴、どうしましょう。折角持ってきた重たい本。今日を最後にすることにして薔薇の名前かな。教隆は机に向かって正式にしましょうと、今のところの気持ちです。

雨の東京タワー。今日この地を訪れた記念に。

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あらゆる芸術のなかでも建築は、太古の人びとがコスモスと名づけた宇宙の秩序を最も果敢におのれのリズムのうちに取り入れて再創造することをめざすものであり、いわば、おのれの四肢の完璧な均衡の上に燦然と輝いて立ちあがる巨大な生き物にも似て、それが造られることをめざすもの…(薔薇の名前)

慶應義塾大学清家展で「清原教隆は御成敗式目の撰者の一人知られる」と知り、今まで読んだ史料にそれはなかったと不審で、全部見直したのですが、永井晋氏「中原師員と清原教隆」にも、金沢文庫図録『北条実時』にも、上横手雅敬氏『北条泰時』の御成敗式目の項にもありませんでした。どういうこと?

その上、御成敗式目の制定は、永井晋先生が「教隆の鎌倉下向は仁治二年」とされたより9年も前。なのに、清家展に展示されていた『御成敗式目注』には「撰者事」の項にはっきりと教隆の名前が。謎です。まさか御成敗式目は京都で編まれた?明日図書館に行って泰時の時代を見直します。

上横手雅敬氏『北条泰時』より。「式目編纂の経過は必ずしも明らかでないが、泰時を中心に、評定衆の中でも法律に堪能な太田康連・矢野倫重・斎藤浄円・佐藤業時らが、編纂にあずかった主要メンバーであったらしい。」←と、清原教隆の名前はありません。

6月27日
雨上がりの道端。薊が咲いています。

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雨上がり。蜘蛛の巣についた水滴が綺麗。

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貴重な内容をありがとうございました。昨夜からずっと考えているのですが、やはり教えて頂いたこの記事のとおりと思いました。展示の「御成敗式目注」は室町・戦国時代の清原宣賢自筆で「清大外記教隆」となっています。教隆が大外記になったからこその以降の繁栄だったそうです。

昨日の慶應義塾大学清家展での清原教隆と御成敗式目の問題。会場では教隆がそんな偉業にも携わっていたのかと興奮して帰りましたが、ツイッターで教えて頂いた「のちの虚説」という説に私は賛同します。年代を照合するとそうでしかありえません。鎌倉側での史料に載っていないのはおそらくそういう結論

がでているからなのでしょう。清家展で頂いたパンフに「撰者の一人としても知られる」とあるのは、鎌倉の事跡と照合されてないからと思います。ご存知だったら質問させて頂いた時に「虚説も」と一言言って頂けたでしょうから。興味深いのは「御成敗式目注」の清原宣賢が吉田兼倶の三男で清原家に養子に

入って清原姓になっていること。吉田兼倶は小川剛生氏が『徒然草』の兼好出自を捏造したとする人です。そういう時代だったのでしょうか。自家の権威の為の捏造は、源光行の家系でも子孫により行われていて、その為に光行・親行親子の偉大な業績が汚点をもってみられてしまっています。子孫がしたのに。

今日の夕焼けは綺麗でした。これはまだ凄まじく焼ける前で、こういう雲が全面的に広がって焼けて凄い空になります。このだんだん焼けていく途中の空が好きです。

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その少しあと。ほんの場所を移動しただけの時間でみるみる変わります。

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夕焼けの極致ですね。

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6月28日
カサブランカが咲きました。百合は新潟の母の実家で祖母が玄関脇に群生させていた山百合の記憶があるから私の原点。TLを遡って今朝は打たれる記事が多かった。そんな朝。これはまた泰時の時代に戻って御成敗式目を書かなければならないのかと覚悟した時頼と源氏物語の原稿も無事に切り抜けました。

それで今朝になって閃いた章題は「第八章 北条実時と『源氏物語』」。今までずっと「北条時頼と何々」で進めてきていたので、今度も「北条時頼と北条実時」かなあと考えていたのですがなんか変で。この際この章で鎌倉時代の『源氏物語』事情を徹底的に書きます。清原教隆が絡んでいます。

それにしても清原教隆の御成敗式目問題でも思ったのですが、光行や定家の「河内本源氏物語」「青表紙本源氏物語」が自らの生の根源に萌した衝動にほかならなかったのに対し、後世家学となっていくと子孫の間で取り合いや権威の箔付けが起きて不純になる。だから私は後世の『源氏物語』は無視。

カサブランカの花の白は得も言われぬ純白の白。夜中に半開きで、あ、明日咲く!とときめいたのですが、なんか真っ白と違和感あったのは、潜在的に山百合が私のなかにあって、斑点がないのが不思議だったのでした。開いたのを見て、カサブランカは山百合ではなかったと気づいた次第。純白、綺麗です。

カサブランカ、見事すぎて溜息。

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