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2015.8.30 ツイッターから転載…上代文学会夏季セミナー第一回「万葉集写本学入門」(於青学)に参加してなど

8月21日
今日は涼しいですね。久々の外出。原稿が一段落する空白にちょうど間に合ったと思ったら親しい方からお電話があってポストにもお便りが。いつも維摩経だなあって思います。不思議ですが、いつもそういう流れ。 これは、母校繋がりで今後の展開が楽しみ。

黄色い車両。地下鉄銀座線です。(まるでおのぼりさん、笑)

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たしかこの路地の奥にシナリオセンターがあって十年通いました。ライターとしてデビューする機会はあったのですがそれをゴールと思ってなかったので心ゆくまで講師の先生の文学論に浸りました。向田邦子さんのマンションもあったかな。

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こちらは憧れの蔦の絡まる校舎の大学。高校が隣だったので。ここも毎年通いました。中世貿易陶磁研究会に。中世の遺跡発掘調査では中国の陶磁器の勉強が欠かせません。研究者さんに混じって興奮しながら学ばせて頂きました。

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ほぼ二時間、仙覚さん、仙覚さん、の名前が頻出してあり得ない空間にいます!

青学の小川靖彦先生主催の上代文学夏季セミナー第一回「万葉集写本学入門」に来たのですが、最後にもう一部レジュメを購入して帰ろうと受付にいたら、小川先生に「織田さんですよね」と。源氏物語の世界で嫌な思いを重ねてきてるので今日もひっそりしてたのですが。

小川靖彦先生は小川町の仙覚さんの普及に努められていて私はブログのそのご業績から入ったのでいわば原点の方。小川町の話を少し伺いました。前の町長さんが熱心でいられたとのこと。世界遺産に登録された細川紙もほんとうは小川町史をたどると詳しいんですよねと。お話できてほっとしています。

中世貿易陶磁研究会のあとはいつも交差点をわたったプロントで珈琲を飲んで帰るのですが、交差点を渡って入ったお店がなんか違う。プロントではないみたい。前にはなかったお店かも。入っても気づかずメニューを見て?と。バールセット?どうやら憧れのバル初体験のよう。

珈琲なら寛ぐけど予定外のバルセットでは落ち着かなくて早々に出てきました。(もったいない!)。振り返ったらやはりプロントでした。システムが変わって夜はバルになるのかも。楽しい一日でした。これから帰ります。

帰りの車中の徒然ツイートです。万葉集の世界にも源氏物語と同じく、池田亀鑑先生の『源氏物語大成』のような『校本万葉集』というのがあるのですね。各写本の異同を綿密に載せたもの。驚いたのはこれも佐佐木信綱先生が関わってられる。小川町の仙覚顕彰碑を建立された方です。

『万葉集』は『源氏物語』のようには本文の異同がないから、長歌の訓点のつけ方で分類するとはっきり見えてくるものがある。と、お話されたのは国文学研究資料館の田中大士先生。万葉集の訓点には平仮名別提訓、片仮名別提訓、片仮名傍訓がありその順に古くて仙覚が底本にしたのは片仮名傍訓と判明と。

八月初旬の高岡市の万葉集シンポによほど日帰りで行きたかったのですが、今日のセミナーにはその時講師をされた田中先生や、さらに高岡市の万葉歴史館から新谷学芸員が複製の春日本などまで持ってらして、拝見しながらレクチャーを受けられて、高岡に行かれなかった諦めがつきました。

フォロワーさんから。プロントは昔から夜はバルになるのだそう。

8月22日
たぶん調布の花火大会の音だけれどいつもの年より大きく感じる。気のせいかしら…。吉祥寺に出て小川靖彦先生監修『万葉うためぐり―学僧仙覚ゆかりの武蔵国小川町を歩く』を買ってきました。気になってた本。昨日お話することができたからこの際にと。比企の学僧、仙覚さんです。

小川靖彦先生監修『万葉うためぐり―学僧仙覚ゆかりの武蔵国小川町を歩く』あとがきより。「学僧仙覚律師は『万葉集』の研究史上の巨星です。律師の献身的な研究があったからこそ、今日私たちは『万葉集』を読むことができます。律師の学問的情熱に深い敬意を覚えずにはいられません。」

比企の方は本当に仙覚さんを郷土の誇りに思ってられます。御手杵の槍を復元されている比企の方も、私が仙覚さんを研究しているからこその交流です。研究者さんにしか知られていない仙覚さんを本や講演で私が広めるのを喜んで下さっているのですが、そこに御杵の槍が加わるとは!不思議なご縁です。

8月23日
新しいことのはじまりは右に倒れるか左に倒れるかわからないからいつもはじめた時は不安。こんな思いをするならいっそはじめなければよかったといつも後悔。でもはじめなかったら先へ進めないし幾つもこれを乗り越えてきたから今があると自分で自分を鼓舞して過ごす。そんな朝でした。多分、展開。

今日は国文学学会の大会に行かれず家に籠っているしかなかったので一昨日の万葉集セミナーの復習をしてました。訓点の付け方の歴史は明解でした。仙覚さんの写本は他の写本より異体字など難しい漢字が使われているそうです。それは仙覚さんが難しい漢字ほど本来の『万葉集』に近いと思っていたからと。

一昨日ご講演の田中大士先生「非仙覚本系統から仙覚校訂本へ」は、2012年創刊の『アナホリッシュ国文学』に「万葉集仙覚校訂本の源泉」を載せていられる方。感激して拝読していたまさかその方のお話を伺えるとは思ってもいませんでしたから、それだけでもう一昨日は幸せ!でした(笑)

田中大士先生「非仙覚本系統から仙覚校訂本へ」を少しご紹介。『万葉集』は『古今集』や『源氏物語』より本文の異同が少ないから本文からの研究ができない。それで、長歌の訓の異同を調べた。すると、仙覚がどの本を底本にしたかがみえてきた。仙覚が寛元本の底本にしたのは片仮名傍訓本でした。

それにしても『万葉集』の世界も『源氏物語』と同じでした。『源氏物語大成』に匹敵する『校本万葉集』があり、本文の異同を調べて諸本を分類したり、底本が何か調べたり・・・。同じだなあと感慨をもって拝聴していたのですが、写本学なのだから当たり前なのでしょうね。私ひとり感激してたりして…。

8月24日
先日の万葉集セミナーで頂いた資料で勉強中です。思考がすっかり万葉集バージョンになっています。新沢典子氏「本文批評における仮名万葉の価値」より。仙覚は万葉集や同時代文献の確定例を拾って万葉集を訓んだ人物であり、時代の下る仙覚の訓み(新点)が古点・次点よりも妥当である場合が多い。

8月26日
城崎陽子氏『万葉集を訓んだ人々』。本棚にあって、あら、先日青学の万葉集セミナーで講演された方と。気になって購入していたものの未読でした。改めて中を見たら今ならわかるみたいに身近な感じ。万葉集の原稿に入ろうかと思案してます。

8月27日
母校の中二の頃に憧れだった物理の先生に橋渡しして下さる方と出逢い『源氏物語と鎌倉』と鎌倉での講演活動報告を贈らせて戴いたらポストにお便り。「あなたの歩んでいる人生はすばらしく貴いものです。おめでとう」と。時空を超えて中二の頃の先生と繋がりぐっときました。若いころの貴重な原点です。

8月28日
城崎陽子氏『万葉集を訓んだ人々』おわりにより。『万葉集』が訓まれた歴史を考えることは、私にとって幸福この上ない時間となりました。同時に、その喜びが、自身の問題だけでなく、時代を超えて伝えられてきた古典籍の端々にみえる「万葉集を訓んだ人々」の情熱であることにも気付かされたのです。

8月29日
古典研究は、時代を反映した文化研究に他ならないことにも気づきました。(城崎陽子氏『万葉集を訓んだ人々』)。まさにそうだと思うのですが、鎌倉の源氏物語問題が一段落し研究だけに浸っていられた枠が外れ、社会という大海原に出た今、文化に対する意識の普遍性って何だろうと真剣に考えています。

8月30日
未来がかかる今日の一日。公的にも私的にも。こんな時に『源氏物語』でも『万葉集』でもないでしょと思うのですが、だからこそ私はの一心で歯を食いしばる思いで取り組んでいることがあります。今朝いただいたメールで一喜一憂ではなく、今までだったら一憂になったかもしれないことも一喜になって。

「万葉集・仙覚の世界」という短い文章を書きました。久々に寄稿。書きはじめて思ったのは、あ、文章が変ってる・・・
考察しながら書き進んでいるからどうしても文章が固くなってしまいます。なのに、短いこのコント的エッセイでは講演タッチで話しかけるよう。はっとして、これだ!と思いました。一日考えたのですが、北条時頼と源氏物語の原稿、こういう文体にはじめから書き直すことにしようかと。

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2015.8.26 ツイッターから転載…『北条時頼と源氏物語』の原稿第八章「時頼と宗尊親王」執筆の経緯と、比企の「御手杵の槍」のこと

8月12日
迷走しましたが時頼と源氏物語の原稿に戻って第八章宗尊親王を仕上げることに。昨夜第一章から読み直して就寝。第八章を北条実時にしたら父実泰と親行の関係が見えて竹御所や親鸞を入れて第三章を書き直したりして迷走したのでした。気分が錯誤するのでもう実時はやめて一気に宗尊親王にいきます。

宗尊親王を書くのに『増鏡』からはじめています。後嵯峨天皇はよほど第一皇子宗尊親王を可愛く思ってらしたよう。母は四条天皇に仕えていた内侍で、四条院崩御で新帝後嵯峨天皇への剣璽の渡御に参ったのをそのまま寵愛されたのでした。が、中宮側の西園寺家を憚り源姓にするより鎌倉将軍にと。

三鷹ではざあっと清々しい雨の音がしたと思うと止んだり。遠雷が聞こえているような・・・

夕陽の光芒が綺麗でした。

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やっと本質まで掘り下げたかも。猛暑で頭がボケたかな?って愚痴りたいほど原稿に向かっても本質感が湧かなかった。書きたい事があるのに書けてない感は自分でわかる。掘り下げてたどりつく。これが醍醐味。源氏物語の構図。これを書かなければならなかった。宗尊親王には。

8月13日
宗尊親王の下向を書いているのですが、11歳で両親から引き離されひとり異国の鎌倉に旅立つ少年。そのようすを母棟子は「きびはにうつくしげにて」と見て「身に沁みていとおしくもったいない」と。「きびはに」はか弱いの意。将軍の鎌倉下向には永の別れになるやも知れぬ親子のこんな情愛が。

と、こんなふうに宗尊親王の「人間」を追っているといつ親王の鎌倉での源氏物語にたどりつくかと。これから鎌倉到着のようすを書きます。学術書では「京を出立された」「鎌倉に到着された」で済まされている親王の下向。『増鏡』『吾妻鏡』に詳細に記された行列のもようなどを紹介するいい機会かと。

暮れなずむといっていいのかな? 好きな語だけど正確はわからない。

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8月14日
両親から引き離されてひとり鎌倉に下って来た11歳の少年が慣れない異国の地で知らない大人達に将軍と崇められて行事をこなしているのだけれど、やはり病気になってしまう。昏睡状態が続き祈祷の効果もなく焦る幕府。吾妻鏡のそんな条を読んで寝たから起きても不憫感が募って切ない朝です。宗尊親王。

宗尊親王を更迭したのは時宗。時宗は次男だけど母が重時の娘だったから、時頼は将軍家に仕える女房が母の長男時輔でなく時宗を嫡子に。宗尊親王が時輔を優遇するのは同じ立場だから。時宗は親王にとって弟の後深草天皇。時宗は兄を優遇する親王に恨みを持っていたから更迭もできたんだなあと。

時頼と源氏物語の原稿、宗尊親王の章はほぼ最終章。時頼が亡くなるから。宗尊親王の源氏物語は時宗の時代だからその後として書く予定。当初は親王の源氏物語の功績を国文学的にまとめて終わりと思ってたのに、書き始めたら人間関係からくる心理小説状態。これが面白くて書く醍醐味と嵌っています。

凄い突然雨が。音が物凄い大粒のよう。

8月15日
夏の夕暮れ。光芒が綺麗。

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宗尊親王の原稿。やっとここに清原教隆。慶應清家展で御成敗式目に関係してるみたいにあって驚き、なかったと確認して葬り去ってたらここに浮上。実時を書こうとしてたら親行と教隆。忙しくて全部忘れていて宗尊親王を書き進んでいたらおのずと。筆の先から繰り出されました。俄然進みます。

宗尊親王の原稿。書くべきことを書いている感がないまま進んでいたからフラストレーションが溜まって仮寝。寝過ぎて起きたら思考が整っていて清原教隆を書けと。これは既に『源氏物語と鎌倉』所収の論文「北条実時と『異本紫明抄』」に書いているから簡単。『異本紫明抄』も入れられます!

8月16日
宗尊親王の下向が11歳。実時が父実泰から小侍所別当を引き継いだのも11歳。と思ったら、将軍頼経が雪の中を騎馬で竹御所のもとに向かい、供奉したなかに実泰と親行がいた時の頼経も11歳。というわけで、私の原稿は11歳の少年オンパレードになっています。健気感に溢れてしんみり。

今日の夕暮れ。今日は雲が騒然としています。こういう日の空は絵画のようで撮りがいがあって好きです。北東から東は青空ですが、白いレンズ雲あるいはうなぎ雲的な雲が多発していて珍しいです。

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白いレンズ雲あるいはうなぎ雲的な雲です。

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時頼と源氏物語の原稿、第八章を「第六代将軍宗尊親王と『源氏物語』」に変更。最初は「実時と『源氏物語』」でした。それが変って「時頼と宗尊親王」に。すぐに「宗尊親王と時頼」に変えて、そうしたらついに「宗尊親王と『源氏物語』」に。二転三転しましたが、これぞ大詰めの気分でかかっています。

8月17日
TLを遡って今頃になって昨夜の屋根が突き破られるかと思ったくらいの怖かった雨、洪水警報が出ていたのを知りました。今更に天変地異はほんとうに怖いと思いました。

桔梗は野に咲く花。TVにそう流れてはっとしました。寺院や料亭の庭の綺麗に整えられて咲く桔梗ばかり見て原点を忘れていたことに。この写真は2012年の緑化フェア会場で。この時も驚き感動したのでした。

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静かに雨が降っています。窓を開けていると寒いくらいです。今日も原稿に向かいます。一気に終結を迎えそうなところにきています。その時どうなるだろうかと。あっけらかんとするでしょうか。衝撃的になるでしょうか。昨年八月にはじめた原稿。これがあったから乗り切れたこともありました。恩人です。

比企の方からお便り。比企の東松山市は前橋藩の松山陣屋があったところですが、前橋藩は通称松平大和家といわれたそう。空襲により東京の松平大和家の宝物が悉く焼失したが、松山陣屋にはある程度遺品が残っています。結城市で話題になったレプリカのお手杵の槍は松平大和守家のだったそうですね。 

何度も東松山市へは行っているのにいつも仙覚さん目的で、松山陣屋のお話を伺っても馬耳東風でした。結城市で話題の槍がまさかこんな身近になるなんてと驚きました。東松山市ではまだ博物館がありませんから、比企の方がこれから頑張られていつか遺品の公開をされたいそうです。

腑に落ちるまで時間がかかる質なので……。比企の原稿は年末ころまでにらしいから、先日勢いで仙覚・玄覚さんの原稿にかかろうとはじめたけどやはり止めてよかったと夜になって気づく。その前に時頼の原稿を仕上げようと目下追い込み中。いいサイクルで廻ってるかも。時頼の原稿、また膨らんでます。

清原教隆が実時と出逢って実時の『源氏物語』への関心が深まるのだけれど、教隆が道家から派遣されてきた年が、四条天皇崩御の前年と知って、これは~と。道家もまさか翌年から下り坂の運勢になるとは思わず、鎌倉にいる将軍頼経の補佐に教隆を遣わした……。以前は気づかなかった歴史の相互の関連。

父島M5.4。16日投稿のレンズ雲あるいはうなぎ雲的雲はいわゆる地震雲といわれる雲です。別に「空が騒然」とも書きました。どちらも大抵翌日どこかでM5規模の地震が起きる前兆の気がします。

8月19日
昨夜『吾妻鏡』にこんな記事をみつけ考え込んでしまいました。「建長6年12月12日 今日御所で評定が行われた。その後北条時頼が召しにより宗尊親王の御前に参られた。あらかじめ酒肴が準備されており、御一門の若者ならびに宿老が多く祇候していた。魚鳥などをその場に召し出され、壮士らに料理

させた。時頼は特に興に入られたという。御酒宴はほとんど歌舞の儀に及んだという」…この6日後の18日に「御所で『光源氏物語』の御談議が行われ、河内守(源)親行が祇候した」があり、これが宗尊親王の『源氏物語』に関する記事の初見です。私は今まで親行だけを見ていましたので時頼の記事を

見落としていました。これを関連づけて考えていいものか否か。悩んだのですが、今は親行の源氏物語談義は時頼の酒宴に対する返礼だったのではないかというところに落ち着いています。『源氏物語と鎌倉』では宗尊親王に近侍する実時の計らいと書きました。が、その背後に指示する時頼がいたということ。

宗尊親王の源氏物語については『源氏物語と鎌倉』や論文「北条実時と『異本紫明抄』」で書き尽しているから、時頼の原稿はもうあと一気に書くだけと思っていました。なのに先程の『吾妻鏡』の記事発見のように初期の段階では気づかない背後の深さ。歴史を敬虔に読み込んで行くべきなのでしょう。反省。

時頼の記事から思考が動き出して宗尊親王と源氏物語の項を一気に書き終わりました。これから手を入れて今度こそ最終章に入ります。(と、これもただの気休め予測かな(笑)また膨らんだりして・・・)

暗くなった吉祥寺。TLで一日の世情をたどりながら人の世の営みということに思いを馳せ、今夜推敲する原稿に思いを馳せ、でも今は街の喧騒が一番近しいとひとときの寛ぎに賭ける。鋭気を養うのは重要。

8月20日
宗尊親王の原稿を打っていたら突然プログラムの再インストールが始まってシャットダウン。保存できてるか確認しようがなく、あ~あと。時頼と源氏物語のテーマで始めた原稿ですが、書き進むほどに時頼の表舞台での事跡は源氏物語から離れ、活躍は実時。仕方ないと諦めていたら突然吾妻鏡の記事の発見。

これは!と俄然奮起したら、陰の司令官時頼の語が浮かびました。思えば第一章を六波羅探題で生まれた時頼で始め、父時氏の赴任の翌年に定家の青表紙本源氏物語が完成していると書きました。最終章にきて親行の河内本源氏物語が完成した時、時頼の胸に母松下禅尼から聞いたその話が去来したのでは?と。

まったく無関係と、書いている私自身が強引な結びつけだなあと思わないでもなかった時頼と源氏物語。『源氏物語と鎌倉』も「衝撃的なタイトル」といわれましたが、もっと衝撃的かもと思っていたこの原稿。必然のサイクルで終わらせられそうです。心から感謝します。インストールが終わったみたいです。

比企の方からご恵送頂きました。平成16年刊です。私が刀剣乱舞を知っているとお返事したらさすがお若いですねと送って下さいました(笑)。ツイッターで拝見してただけです。中に結城市のお手杵の槍の復元から寄贈までの一章もあります。

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今回比企で再びお手杵の槍を復元されようとしてるのですが、結城市のよりもっと本物に近くなっているそう。拵(鞘)が牛皮から本来の熊皮になっていて、その熊皮を求めて新潟県まで行かれたそう。比企、熱いです! 公開されたらまたご報告させて頂きますね。

やっと吾妻鏡の記事の意味を理解しました。親行の源氏物語談義の記事が、その前の時頼が歓待された酒宴の返礼だから記事がたった一行と素っ気ないんですね。今まで実時個人の主催と思ってましたから素っ気なくて当然と。でもそうなら何故そんな個人の主催のを吾妻鏡に載せたのか、違和感がありました。

酒宴の返礼なら、細かく説明しなくても、わかる人にはわかるわけだし、時頼主催の談義なら吾妻鏡に載せて当然。ずっと持っていた違和感がやっととれました。それにしても考えがまとまるまで時間のかかること!質だから仕方ないとしても……

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2015.8.12 ツイッターから転載…玄覚さんの論文準備と、鎌倉の原稿を三つのテーマで書きました。

8月8日
玄覚の論文のための資料をあたろうと仮寝して起きて夜を明かしたのですが、ふっと先程最初の一行、「最初に仙覚について書いておきたい」が浮かんだと同時に書く態勢に入った気が。玄覚の資料を漁るのは膨大で楽しみだけれど、その前に仙覚をきちっとおさえておくことにしてはじめます。

ずっと以前エクセルで作っておいた玄覚に関する年譜です。ここからどんな世界が飛び出てくるか楽しみ。

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ずっと以前から玄覚について書きたくてデスクトップにワードのアイコンを表示させたままになってました。で、それを開いて書きはじめようとしたら玄覚のエクセルアイコンがあって、久々に開きました。そうか、こういう年代だったんだ~と確認。

朝から連ツイ済みません。エクセルの表、ピンボケで見づらいのですが、上のほうの中央に「穴八幡」の語があります。比企の小川町にある古墳です。玄覚について書こうとしていたワードの文章を開いたら、冒頭はこの穴八幡からはじまっていました。忘れてたけど、この展開、面白いかも。

小川町の穴八幡古墳です。

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穴八幡古墳がある高台から遠望する小川町。2013年の撮影です。この辺りをこんなふうに撮って歩いて、今また戻って改めて謎の歴史を探っていこうとするなんて。旧題は「仙覚は誰か」でした。今度は「玄覚は仙覚の弟子か」です。

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8月9日
埼玉県比企郡ときがわ町の霊山院です。栄西の高弟栄朝が創建。関東最古の禅宗寺院です。慈光寺の隣にあり、創建当時は慈光寺の塔頭でした。朝の慈光寺に茶畑があったツイートで思い出しました。花の季節はまさに桃源郷のような花の寺になります。

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花の季節の霊山院がどんなに桃源郷かというと、こんなにです。あまりに花々が華麗で目移りがして情けないくらいにどう撮っていいのか苦しみました。

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比企の原稿のタイトル、途中経過の今案。「仙覚は誰かと、玄覚は仙覚の弟子かの問題」。

8月10日
いつもより涼しいから出てきて吉祥寺。用が済んでこれから図書館に回るか思念中。まもなく小説にかかるから頭のなかはどんな文体にするかずっと思考を張り巡らしていて図書館もそれが目的。プルーストがあればもうそれでいいのだけれどふつうの歴史小説の文体も見ておくべきかなどと。

春に源氏物語を赤い本(岩波の体系)で読み、続けて今失われた時を求めてを再読し始めたら、二つは心理小説的に似ているのだとばかり思っていたのだけれど、文体というか、文章の繰り出し方が一緒な気がしました。源氏物語は草子地という特殊な手法だけど、失われたの一人称もそんな気が。

久しぶりの雨に緑が輝いています@井の頭公園雑木林

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図書館に来ています。影響されたくないし、私は私の文体で自然体でいけばいいと割り切っても、あまりに私はふつうの日本の歴史小説に馴染んでないから、やはり借りにきました。今、書庫から出して頂く待機中です。

出ようとしたら、どしゃぶり。

ロビーで、ちょうど借りたばかりの本に目を通していて、一章終わって外を見たら日が差してきています。雨があがったみたい。

同じことを書いてもしようがないから先人の方々が歴史をどう処理してられるか知るのが目的だったと思いました。拝読していくなかで、そこかしこの歴史の裏の読み方がまったく違うと気がついて。私の見ている世界は今までのとまったく別。自信をもって書いていけそう。文体も、まったく別でいいのだと。

昨夜分散していた比企と仙覚・玄覚さんの資料を出して整理整頓しました。それで論文にとりかかろうと思ったのですが、玄覚の資料を見たら国文学的にじっくり嵌ってしたく、それは今はたぶん叶わないから諦めて、時頼の原稿優先に。というわけで図書館から歴史小説を借りて拝読してみたのでした。

文体がまるで違う。まるで違うから入っていけない。吐息そのもののように流れる文章が好き。あるいは意識がそのまま文章になったような。バルトを今読んだらどうなのかしらとTLを見てて思ったり。アカシア、開いてみようかな、などと。

8月11日
11日、黙祷の思いで一日を過ごします。天災も人災も含めてこれ以上の悲しみが起きませんように。

鎌倉の方からお電話。原稿が届いたと。一件落着です。掲載写真については秋に妙本寺様にご許可を頂きに参ります。比企を書くと必ず妙本寺様が原点に。比企の乱の場所ですものね。「鎌倉にはいらしてますか?」と問われて「猛暑なので全く」と笑い合いました。秋に鎌倉街道を歩かれるそうです。

それでふと「比企に通じる鎌倉街道は上道だけど、さっき仰ってた足利に行くのは?」と。調べたら中道。これは巨福呂坂あたりを出発点とするみたい。前に鎌倉から足利まで鎌倉街道で、神奈川・東京・埼玉・栃木を繋ぐ駅伝をされたそう。秋に歩かれる時には参加させて頂きたいです。

岩崎茂樹写真集『妙本寺の四季』をお贈り戴きました。綺麗な四季の写真集です。こんなふうにお心にかけて戴けるのもあり得ない僥倖ですが仙覚さんのご縁。写真掲載のご許可のお礼に『源氏物と鎌倉』を持っておそるおそるお訪ねしたのが刊行した2011年冬。もうすぐ四年になります。

夕方の空。一面こういう状態でした。これは北西。長野方向です。

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北東の空もこんなでした。

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2015.8.7 ツイッターから転載…鎌倉の方の依頼原稿を書きました。テーマは三つ。楽しかったです。

8月1日
緊張したから胃がキリキリとまではいかないけどチクチク。秋開講のTAMA市民塾。定員オーバーの講座は抽選で、その抽選をしてきました。公平を期すために別の講座分を担当。共同作業に慣れてないから迷惑かけてないかミスしないかハラハラ。無事に終えましたが自分の講座がどうなったかも不明。

共同作業、苦手だなあ…。と、つくづく。

鎌倉の方の依頼原稿の一つ、「源氏物語と京都との交流」を突然書き始めました。春にお話を頂いて鎌倉の源氏物語について書くのかと思いこんでいたのですが、改めてテーマを確認したら京都との交流。これは飛鳥井雅有しかないでしょ! という訳で俄然乗って書けそう。鎌倉出身の源氏のひじりです。

補記・飛鳥井雅有の生涯:鎌倉で宗尊親王に仕えた二条教定の子息。新古今歌人飛鳥井雅経の孫。小侍所別当北条実時の娘婿。少年時から宗尊親王に仕えて蹴鞠も。御所には河内本源氏物語の源親行がおり、そういう環境の中で源氏物語の教養が身について育つ。晩年は京都の伏見宮廷で源氏の聖と呼ばれた。

8月2日
さぼっている訳でないのに頭も予定も詰まってやらなくてはやらなくてはという思いばかりが募っていました。時頼の原稿を済ませて頭が軽くなり、昨日TAMA市民塾の予定をこなしたらもうその夜のうちに新しい原稿への情熱が湧く。執筆ってほんとうに物理的。短い文章なので一気に仕上げて寝ました。

鎌倉の方から頂いた三つのテーマの一つを終え、次にと確認したらまた間違っていたことが判明。「比企と鎌倉」とばかり思ってたのに「比企と源氏」でした。あまりに私の守備範囲と離れていて呆然。でも思い出しました。比企には大蔵館があるではないですか。木曽義仲の生誕地。大蔵合戦を調べてます。

鎌倉の源氏物語関連なら手元になにもなくても書けるけど、源氏とか大蔵合戦となるとまだ不安。間違ってもいけないので峰岸純夫先生監修『東国武士と中世寺院』拝読中です。この本、買っておいてよかった……。吉祥寺にジュンク堂ができた時、もう資料としては図書館で借りて済んでいたのに買ったもの。

埼玉県比企郡の大蔵館跡の写真。仙覚さんの母を調べるのに秩父武士の係累関係をみてたから急に大蔵合戦をとなっても安心してとりかかれます。

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そういえば、大蔵合戦で義賢を書けばおのずと義朝を書くことになるから比企尼関連をいれられると単純に思ってたけど、比企尼を入れたら範頼の吉見町を書けるし、そうしたら慈光寺を入れられる。範頼の子が範頼が滅ぼされた後に入れられてるから。と、大蔵合戦だけでは済まなくなりドラマ性がでました。

吉祥寺ハモニカ横丁。距離をおくために出てきました。公園はだいぶ涼しくなっていました。蝉しぐれとまではいかないけど蝉がうるさいくらいでした。ツクツクボウシは今年はじめて。ハモニカ横丁。一度立ち呑みしてみたいのですが。

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比企と源氏の原稿。大蔵合戦で義朝の子義平が義賢を討つ。義賢の二歳男児が木曽義仲。義朝に仕える比企遠宗の妻が比企尼で伊豆に流された頼朝に二十年間仕送りをして支えた。比企尼は頼朝の弟の範頼を吉見観音に稚児として匿った。範頼は吉見町に館を構え、妻は比企尼の長女丹後局の娘…と、今ここ。

8月3日
比企と源氏の原稿。範頼と吉見町→範頼子息の慈光寺まで書いたら紙面が尽きて比企といえば仙覚の小川町。これを入れたかったのに入らない……と一瞬困ったけど、考えたら仙覚は源氏でないし入れなくていいのだと。次の「万葉集と鎌倉」で書くからこれでいいのだと。たまたまだけれど上手く廻ってます。

あと少しなのに範頼の生い立ちで四苦八苦。頼朝・義経ほどは詳細がわかってなくて、平治の乱のあと吉見観音の稚児僧だったとか、範季の養子になったとか。吉見観音は比企。でも範季といったら京都。しかも範の字を頂いてるくらいだからこちらの方が信憑性あるし…。範季は後鳥羽天皇を養育した人物…。

でも、吉見町には御所の地名もあり、範頼館跡まである…。そして、その館跡は吉見観音に隣接…。整合性をどうやってつけましょう……

しつこく済みません。そういえば範頼はどこで亡くなったかも説がいろいろ。修善寺で討たれたとか、海を渡って逃れてきて太寧寺で自害とか、金沢八景を歩いていたら範頼の墓というのがぽつんとあったり、比企に生き延びた説も……

四苦八苦しつつ比企と源氏の原稿終了。範頼の生い立ちは平治の乱後比企の吉見観音で稚児僧として過ごしたあと、範季の養子となって範の一字を貰ったという私見で書きました。副題は「源義朝から頼朝・範頼の歴史を孕む比企」。書き終えてできて副題ですが、比企が鎌倉幕府の黎明期のような気がします。

さあ、いよいよ仙覚さん。と密かに武者震い。で、眠気がとれてしまってます。鎌倉の原稿の三つ目は「鎌倉と万葉集」。同じ比企という土地を書くのに「比企と源氏」ではまったく万葉集が入らなかった。その分たっぷり書けます。楽しみ。やっぱ故郷なんだな、小川町。私にとって。勝手にだけど。

8月4日
「比企と源氏」、完全にピリオドをうって「万葉集と鎌倉」にかかれるのだけれど気分転換にのんびり。ここにくるまでなんとたくさんの修羅を経たものかと思ったりするけど余裕。修羅を経て静かなるときあかときの底に澄みたる(棲みたる)大いなる修羅。わずか二首だけ大切に温存しているマイ短歌です。

昨日の夕景です。カナトコ雲になりかけの雲が金色に縁どられて後光のような放射まであって綺麗でした。

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これは今日の夕景。沈む太陽が大きく真っ赤でした。スマホでは白くしか写らず、フォトエディターで加工してみたのですが、やはり真っ赤な太陽にはならずに残念。昨夜は昇りたてにしても赤すぎる月に驚いたばかり。空がどんよりして変です。

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「万葉集と鎌倉」の原稿に入ったのですが、仙覚さんと竹御所への思いが深くて書いているとふくらむばかり。前哨戦段階でもう紙面の半分を越えています(笑)。ともかく一度書いて、どう削るか探ります。

8月5日
原稿にかかると植木の水やりが疎かになるから私のガーデニングは緑の葉が厚い観葉植物系でないとダメ。万年青は家の守りだから絶やしてはいけないと言って母が此処に移ってくる時掘って持って来たもの。私には大切な実家の万年青です。今朝水やりがしながらこれだけは守ろうと思ったのでした。

仙覚と竹御所はロンドなんだと気づく。音楽用語は専門でないから使わないけど、たしかに輪舞曲。私にとって最もインパクト受けた映画のタイトルは愛と哀しみのボレロ。以来人生がボレロとなって見えて仕方ない(笑)。竹御所の小説のタイトル、哀しみのロンドなんてしたら完全にパクリだなあと。

と、ちいさな原稿をこなしながら頭のなかはいつか書く小説の構想やそのための準備に思いがぐるぐる。こうやって膨らんでいきます。竹御所、松下禅尼の小説に入りそう……。

でも、そうやってるとやたら膨大。

薄明光線が綺麗でした。

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こちらは反薄明光線。裏後光ともいうようです。薄明光線が太陽が雲の裏にある時にできる光線。対して反薄明光線は反対側の太陽がない空にできる光線です。こんなに綺麗な薄明・反薄明光線は久しぶり。

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綺麗なので薄明光線をもう一枚。少しアップしました。

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これは井の頭公園から。もう雲の輝きが消えていますが。よく雲を追って撮りに回ります。すると全く別と思っていた方向が同じだとわかり、頭のなかの地図にひとつのラインが引かれます。グーグルマップで確認してずっと広大に見ると楽しいです。

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「万葉集と鎌倉」がその前の二つ「源氏物語と京都との交流」「比企と源氏」と全く違って流れるような文章になっているのがおかしい。前の二つは短いけど論文調。対してこちらは竹御所と仙覚という二人のドラマを書いているからだなと。必要かもしれない歴史も飛ばして思いの流れに。これ、楽しい!

「万葉集と鎌倉」の原稿、終わりました。副題は「『万葉集』の陰に比企氏ゆかりの仙覚と竹御所」。書き終わってから考えてつけました。それにしても、この二人、一度も会っていないのですが寄木細工状態にぴったり組み合わさって『万葉集』の完成に貢献しています。

8月6日
巨大な積乱雲。毎日この方向に雲が発生していますが、今日は巨大でした。井の頭公園にて。

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添付の写真を揃えて梱包して、原稿が手を離れたとばかりに気が軽くなり、一日自由を満喫していたのですが、夜になるほどだんだん私にはまだしなければならない仕事があるという気持ちが募り、今はもう玄覚の論文に取りかかる覚悟が据わってしまいました。しなければと思いつつ取りかかれなかったのに。

忘れないために。メモ。玄覚の原稿のタイトル「鎌倉の万葉学者玄覚は仙覚の弟子か」。玄覚の件が頭から離れなくなって浮かんでしまいました。玄覚は殆ど研究されてないけど、京都で仙覚よりも活躍してて、冷泉家の方とも懇意。それをどう解釈するか。 

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