« September 2015 | Main | November 2015 »

2015.10.27 ツイッターから転載…鎌倉芸術祭養老孟司氏講演のこと、ちいさな連載をはじめようかな、などのこと

10月16日
遊行寺宝物館で開催中の「一遍聖絵」展。一遍上人が時宗に鎌倉入りを阻止されるこぶくろ坂の「第五巻第五段」は現在展示中で26日までだそう。長い巻物なので展示の入れ替えはくるくると巻きとっていくのだそう。それで26日以降は隠れてしまいます(笑)。展示替えってそういうことなんだ~と納得。

今更だけれど写真の力ってあると思う。だけど安易に頼ると失うものがある。と、そんな事を思う。先日の日本いけばな芸術展。感銘を受けた作品をツイートしてて余程写真を載せたかった。文章で説明するより正確だから。でも堪えて書いてたら気持ちが宇宙の奥までいった。写真と文章の拮抗。そんな事。

昨夜のツイートの続き。日本いけばな芸術展の件。照明はとても大切。稲を使って里山を表現された友人の作品は素晴らしかった。写真をupしてご紹介したかった。でも豪華な作品に相応しい会場の照明が彼女の作品には不似合い。写真では外観を紹介するだけ。心ゆくまで自分で照明したく思ったのでした。

10月17日
来週開講の講座用パワポ。会場の機械に合うかデータを昨日USBで送って一安心。日曜講座で一回使ってるから大丈夫な筈。練習は直前に。それまで時頼の原稿の最終章にかかるには情ないけど気が散漫。五月に鎌倉での連続講座を終えてから長い休暇でした。それで時頼の原稿が書けたのであって最終章は…

10月18日
古典和歌関連のエッセイの連載をとのメール。講演や原稿で絶っていた連載。久しぶりにやってみようかな!と。 というか、連載をしたくなっています。

10月19日
道中のお供は小川靖彦氏『万葉集と日本人』。王朝女流文学と万葉集は一見遠いものにみえるが、女流文学者達は万葉集を尊重していたと。枕草子では重要な歌集は古万葉と古今とあるそう。

続)二十巻本の万葉集が書写されるようになるのは一条天皇の時代頃から。訓読事業に携わった人の手元に残った本をもとに書写が始まったと思われる。この間に制作されたのが、抄出本の万葉集。醍醐天皇宸筆の抄出本万葉集がある。醍醐天皇は能書家だったから、料紙や装丁も美しいものだったでしょう。

源氏物語の梅枝巻には嵯峨天皇書写の万葉集が登場する。嵯峨天皇の抄出本は、醍醐天皇宸筆の古今集とともに光源氏の弟の蛍兵部卿宮が秘蔵していたことになっている。が、嵯峨天皇の時代にはまだ平仮名は誕生していないから、嵯峨天皇を理想の帝王と考えていた紫式部が美しい抄出本があって当然とした。

上記連ツイ。万葉集の歴史と源氏物語の歴史のあいだを行ったり来たりしている私には、二つがこんなにシンクした記述は夢のよう。享受史だからでしょう。楽しい! 連ツイに間が空きましたが乗り換えの移動。鎌倉に向かっています。

10月20日
昨日はお誘いを受けて鎌倉芸術祭30年記念の養老孟司氏講演を拝聴。奈良・京都・鎌倉がいいのは人の出入りがあるから。長い歴史の中で人が手入れしてきたことが受け継がれ、それが雰囲気を作っている。だから人が集まる。それがいいのだとのこと、本題に入る前のお話ですがなるほどと思いました。

本題の鎌倉は、鎌倉で制作された九相図に象徴されると。亡骸の描写が実にリアル。それは日常見ている者の目。つまりそれが鎌倉なのだと。他地域で制作された九相図では曖昧で間違っているのさえあるそうです。鎌倉は乱世の時代。乱世は身体。平和な治世では情報が重要。身体をはる世では感性が磨かれる

治世では情報だけが信じられていく。それが今の世。空調・室内照明・平らな床・外に出ない生活、そういう快適な生活のすべてが身体の感性を磨く能力を失わせている。←と、『バカの壁』に書かれたことの変奏曲のようなお話でしたが、これはほんとうに現代の世への警鐘。なんとかならないかしらと。

養老孟司氏は鎌倉の方だったんですね。講演のあと鎌倉駅まで歩いて出たら鎌倉の源氏物語でお世話になっている方と偶然お会いして懇談。ちょうど連絡したかったと今後の打合せ会になってしまいました。養老孟司氏のお話をすると幼馴染だそうで、タケシちゃん、タケシちゃん、と。鎌倉は狭いです(笑)

昨日の建長寺様仏殿。西陽を浴びて輝いていました。

P

珍しい、茅葺屋根の茅の取り外し作業に遭遇。束ねては下のトラックに投げ下ろしてました@建長寺様

Crw_uy7usaebfba

逆光の西陽の山門の影@建長寺様

Crw_qlpveaexf_y

時頼と源氏物語の原稿の最終章に入る前のひととき。開講する講座の準備も済みこれから始める小さな連載のテーマを考えたり。こんな自由な時間にはバルトのタンジールのような文章が合うのだけど、それは小さな連載に合わない。こんな時鎌倉はまだ私には枷なのだなあと思う。小さな連載をどんなふうに?

これ、読んだのかしら。ジョルジュ・プーレ『プルースト的空間』。覚えてないし線が一本も引いてない。『テクストの快楽』を出そうとして隣にあった本。白い表紙で厚さが同じだったから薄暗闇の中でバルトの本だとばかり思って持ってきた。こういう本たちの文章の繰り出し方。鎌倉に生かせないかなあ。

と、現実にいろいろ溜まってきそうだから、ちょっと逃げてます。今だけ。

10月21日
「断章・鎌倉歌壇」。小さな連載のタイトル、今思いつきました。深夜のツイートの余韻。せっかくなら鎌倉歌壇をテーマに深めていきたいと思っていたのですが、そうすると固い文章になってしまうというのが悩みでした。断章にして、自分が思う、というふうな文章の繰り出しは可能?

『テクストの快楽』、開いてみよう…。ヴィトゲンシュタインも…。

「わたしの理想はある種の冷たさである。情熱に口をはさむことなく、情熱をとりかこむ寺院」。ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』…、探してるのにみつからない(泣)。もう過去とかかわらない意志で本棚を整理した時どこかに移してしまったよう。断章本の書き出しを見たかったけど。

|

2015.10.24 ツイッターから転載…『北条時頼と源氏物語』第九章時頼開悟の段を書き終えたら、副題が「松下禅尼の影響の下に」となりました。

10月8日
やっと兀庵普寧が来日して建長寺住持になったのと入れ替わりに蘭渓道隆が建仁寺に出ていったことの私なりの見解ができました。そこに叡尊が関わってきます。なので章のタイトルを「第九章叡尊と兀庵普寧と北条時頼」とし、また最終章が先送りになりました。建長寺様で少し見聞きした経験が生きました。

ヒントは臨済禅です。この観点で蘭渓道隆が建長寺を出たことの意味を論じた学説はまだ拝見していません。

馬渕和雄氏『鎌倉大仏の中世史』に加えて塩澤寛樹氏『鎌倉大仏の謎』を拝読して鎌倉の大仏様の歴史が大雑把にですがわかってきた気が。頼朝が東大寺の大仏再建に尽力し、頼朝を信奉する執権泰時が鎌倉も鎮護国家にと計画して、まず木造の大仏を建てた。それは鋳造する銅が間に合わないから。銅は中国銭

で賄うためにその頃から勧進が行われていた。鋳造が始まったのは時頼の時代で建長寺を建立していたのと同時期。木造の大仏を原型としたらしい。礎石の石工が叡尊率いる律宗集団で、弘長二年の下向もそれに関係するかも。完成もこの弘長二年らしい…と、あまりに見慣れて考えた事もなかった歴史です!

時頼と源氏物語の原稿。蘭渓道隆の建仁寺への転出について四苦八苦しましたが、叡尊との関係で私なりの見解を書いたら、急転直下第九章が終わってしまいました。締めは兀庵普寧による時頼の開悟です。先送りになった最終章で時頼は亡くなり、時宗の代になって尾州家河内本源氏物語が作られます。

10月9日
昨夜就寝前「松下禅尼は文永四年(1267)までは生きていたそうです」の一行が浮かびました。最終章、最後の一行です。一つが終わると次の何かが浮かぶ。そうすると、あ、ほんとうに今のが終わったんだという確認になり、次にもう心が進む。そして最後の一行だから、今度こそほんとうに最終章。

10月10日
今日は外出だから最終章にかかる予定なく、なので第九章を反芻してたら、書いていた時には見えなかった全貌が。叡尊を招請したのは実時です。そうすると今まで感じていた関東往還記の違和感が氷解します。往還記によると実時の使者は三回訪れていて一回目はただ一切経を寄進するから下向してと。二回目

はその一切経を宋から持ってきた定舜が来て下向について話し合っただけ。定舜は実時の発願で入宋し一切経を二藏購入して帰った僧。その一藏を実時は西大寺に寄進。もう一藏は称名寺に収めて、それが現在金沢文庫に所蔵されている一切経です。三回目の使者は最初と同じ人物でこの時、時頼も願ってると。

ここに時頼の名前が出たことで叡尊の下向は時頼と実時によるものとされてきましたが、時頼は話に乗っただけでしょう。そうすると下向後も実時がせっせと通って世話したり学んだりするのに、時頼と会ったのは大分日を置いてからの不審が解けます。今まで禅に傾倒する時頼に近侍しているのに、実時は?と

謎でした。実時は忍性に会って真言律宗に傾倒していたんです。それで叡尊に一切経を寄進したり下向を望んだり。この後忍性の仲介で下野薬師寺の審海を称名寺第一世長老に迎え、称名寺を真言律宗寺院にします。忍性も鎌倉に招き、それから忍性が極楽寺長老になっていく。時頼というビッグネームが今まで

関東往還記の読みを誤らせていたと思います。金沢文庫に通いつめて始まった私の中世史の知識がこんなところに結びついてきました。これも、円環。

横浜に鎌倉の方からご案内頂いた花むすび展に来て堪能しました。横浜は街路に出るなり、さすが横浜。お上りさんしてます。

Photo

雲が不穏だから、なんだか西洋絵画のような眺望。山下公園から。停泊してる船は何でしょうか。

A

バス、赤いくつ号。

Kh

東京駅に移動して丸善丸の内店で慶應義塾大学貴重書展に。家康刊行の吾妻鏡を見てきました。金沢文庫本とか古典籍の蒐集に努めた家康。没後は御三家に分けられたそう。尾州家河内本源氏物語もその中だったかなあ。帰って確認します。

Ug

10月11日
丸善丸の内店で開催中の慶應義塾大学貴重書展に昨日行きましたが、斯道文庫は凄いですね。ジュンク堂書店吉祥寺店に『図説書誌学 古典籍を学ぶ』があって、あまりに素敵なので購入していたのを昨日帰宅してから出して見て改めてそう思いました。書誌学は難しくてよくわかりませんが眺めて眼福。

10月12日
時頼と源氏物語の原稿。第九章を書き直したら、副題に決めた「松下禅尼の影響の下に」のフレーズがすんなり入ってきました。びっくり。

10月13日
綺麗な色の空@井の頭公園

Ad

10月14日
衝撃的な出逢いかも。昨日の日本いけばな芸術展。その作品は豪華さを誇らんばかりの会場にあって対極的に厳しく屹立していた。小品なのに宇宙があり哲学があった。水盤に離れて置かれた剣山二つ。左には枯れて黒ずんだ数珠玉。右も枯れたアイリス系のもう実になった茎。思わず鴫立つ沢が浮かびました。

6
(作者のお名前を失念しました。申し訳ございません。)

生花にこういう世界観を観たのはじめて。さながら凛と詰まったお茶室のようでした。実際そこだけお茶室だったのかもしれない…。水をはった黒い水盤。葉を落として茎だけが束ねられた黒ずんだ数珠玉。アイリス系の茎の実も朽ちて黒ずんで。こんなに美しい「黒」というのもはじめての気がします。

10月15日
埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催されている「慈光寺」展。慈光寺経の全巻展示ということで11月に行こうと予定していたのですが、前記(11月1日まで)と後期(3日から)のニ回に分けての展示とのこと。詳細が伝わってきてなかったので急遽10月中にも行かなくてはと焦っています。

今頃になってわかりました。遅い!というもの。きっと先生も空から見て笑ってらっしゃるでしょう。以前その方の論集に一遍上人をと割り当てて頂いたことがあります。その頃すでに鎌倉の源氏物語にとりかかっていたので無理と辞退させて頂いたのですが、どうして私が一遍を?とずっと謎でした。(続

私はその方の書かれた論文で戦場における時宗集団の役割を知り感銘を受けていたのです。それをお伝えしてあったからなんですね。その時一遍の論文を書いていたら今の私は違った方向にいってたし公開中の絵巻全巻展示も逃さず行くでしょう。時の流れが別に動いています。でも思い出して懐かしい。

昨日の日本いけばな芸術展。会場の日本橋高島屋一階エントランスにて。(吉祥寺アトレがまだロンロンだった時、一階エレベータ脇に季節毎のこういう生花が飾られていて素敵でした。アトレになってなくなって未だに諦められないでいます)

D

綺麗な秋の空@吉祥寺

Photo_2

時頼と源氏物語の原稿の最終章にかからなければいけないのですが、そろそろ来週の準備にもかからなければと始めました。TAMA市民塾、第一回から第三回まで鎌倉の『源氏物語』と『万葉集』をします。配布資料として○○通信みたいなのを作って、慈光寺経展のような情報をお知らせしたいなど思考中。

10月16日
遊行寺宝物館で開催中の「一遍聖絵」展。一遍上人が時宗に鎌倉入りを阻止されるこぶくろ坂の「第五巻第五段」は現在展示中で26日までだそう。長い巻物なので展示の入れ替えはくるくると巻きとっていくのだそう。それで26日以降は隠れてしまいます(笑)。展示替えってそういうことなんだ~と納得。

今更だけれど写真の力ってあると思う。だけど安易に頼ると失うものがある。と、そんな事を思う。先日の日本いけばな芸術展。感銘を受けた作品をツイートしてて余程写真を載せたかった。文章で説明するより正確だから。でも堪えて書いてたら気持ちが宇宙の奥までいった。写真と文章の拮抗。そんな事。

昨夜のツイートの続き。日本いけばな芸術展の件。照明はとても大切。稲を使って里山を表現された友人の作品は素晴らしかった。写真をupしてご紹介したかった。でも豪華な作品に相応しい会場の照明が彼女の作品には不似合い。写真では外観を紹介するだけ。心ゆくまで自分で照明したく思ったのでした。

10月17日
来週開講の講座用パワポ。会場の機械に合うかデータを昨日USBで送って一安心。日曜講座で一回使ってるから大丈夫な筈。練習は直前に。それまで時頼の原稿の最終章にかかるには情ないけど気が散漫。五月に鎌倉での連続講座を終えてから長い休暇でした。それで時頼の原稿が書けたのであって最終章は…

|

2015.10.6 ツイッターから転載…『北条時頼と源氏物語』の原稿のこと。副題を「―松下禅尼の影響の下に―」とすること、叡尊下向のことなど。

10月3日
どことなく野生の風情。秋の公園。

Cqw8zf2uaae4ha2

二転三転してますがまた副題が。『北条時頼と源氏物語』の原稿、「―松下禅尼の影響の下で―」に。育ちをみると時頼はお母さん子です。祖父泰時が四歳違いの兄経時を次期執権とするべく特別扱いの教育をするあいだ、弟時頼は母松下禅尼の下で過ごす日々が多い。父時氏は早世しています。そういう関係の

男の子はきっとお母さんのいうことをきく「いい子」だったでしょう。その現れが『徒然草』の松下禅尼が障子貼りをするエピソードで、禅尼は「執権になったばかりの時頼に施政者として質素を」教えようとするのです。時頼は二十歳。時頼が日頃から「いうことをきく子」だったからそうしたのでしょう。

10月4日
遡って見ていてノルマンディーとか今朝の散歩とか自然に関するツイートに反応。なぜか心が騒ぐといった感じ。日常から脱出したいのかな?と。昨日の朝は差し迫っている決断の時に深いところで重圧を感じていたのか起きたら何十年ぶりかの蕁麻疹。今朝はそれがなくほっとしたのですが。頑張ります。

拝読後差し上げてしまっていた本が必要になり借りてきました。馬渕和雄氏『鎌倉大仏の中性史』。叡尊が鎌倉に下向された弘長二年は吾妻鏡が欠けている。だから叡尊下向が幕府の中でどんな位置を占めるのかわからない。かつて石井進先生がこの年鎌倉で不穏な事があったらしいと書かれ、それを知りたく。

馬淵和雄氏『鎌倉大仏の中世史』、大急ぎで読了。刺激が強すぎました(笑)。馬淵氏の説はいつもそう。今回衝撃的だったのは兀庵普寧が「外来の者が人天を惑わせている」とする外来の者が蘭渓道隆説で通っているのを、馬淵氏は忍性と。外来を渡来の意でなく外道者と読めばという。納得とともにほっと。

『鎌倉大仏の中世史』は叡尊率いる律宗集団が時頼と組んで日本列島全般にわたる宗教や文化の大改革、いわば京都に比肩する勢力を築こうとした。それが弘長二年と。時頼の廻国伝説や東北の天台宗寺院の禅宗への改宗などすべてがそうと。蘭渓道隆の建仁寺への移籍もその使命のもとであり、叡尊の下向も

その一端で・・・と。考古学者の立場から実証されているから重みがあります。ただ私としては兀庵普寧による開悟はあくまでも本来の宗教の悟りで考えたいから、政治的な意味での律宗集団の長としての叡尊下向とばかりは考えたくなく、今日はもう休んで少し頭を冷やします。

10月5日
なんだか素敵@明大前駅

Cqgzshfucaasfsg

かつて石井進先生が弘長二年に鎌倉にひそめく事があったと書かれ、なのに吾妻鏡はその年が欠けていて、なのに鎌倉の大仏はその年に出来たらしいし、松島瑞巌寺など東北の寺院が天台宗から禅宗に改宗したのがその年で、さらに同じこの年に嵐渓道隆が建長寺を出て京都建仁寺に行きやはり禅宗寺院に改宗。

と、馬渕氏の弘長二年不穏説は実感あり過ぎです。時頼の廻国伝説はあり得ないけど、全国的に展開される天台宗から禅宗への改宗事件が廻国伝説を生んだのだろうと。あれほどの鎌倉の大仏が誰が造ったかいつ造られたか何も資料が残ってないこと自体が異常です。馬渕氏は時頼しかいないと。

|

2015.10.2 ツイッターから転載…10月になりました。いよいよ決戦の時の思いです。

10月1日
もう十月。秋はいつも転機の時節だけど今年は一段と重く決戦の時の気が。時頼の原稿は早急に仕上げなければならないし、月一回のTAMA市民塾の講座も始まる。多分十一月が本格的な決戦の時で、それを乗り越えて十二月に比企のお手杵の槍の内覧会にご招待戴いているからそこで一つ展開がある筈。

詩のフレーズはそれ自体命の重みをもっているかのような存在感がある。プルースト『失われた時を求めて』第一巻の、主人公が眠れなくて悶々としている夜の闇の中で遠く汽笛の音が聞こえるというところがいつ読んでも好きなのだけれど、そこもなにか詩と関係していると去年読んだ。納得でした。

今一歩踏み出すためのメールをしなければならない時が迫っているのだけれどそれを考えてきりきりと胃が痛い……。独り感慨にふけってシャルル・アズナブールを聴くそんな夜。静けさと闇が心地よく。

10月2日
ツイッターは大切だし楽しい。昨日はシャープさんの落し物騒動が面白く、平凡社ライブラリーさんのツイートには共感。私もツイッターには恩恵を受けていると思う。一ヶ月くらい見てなかったアマゾン。昨日見たらランキングが跳ね上がっていて最近は活動してないからツイッターのお陰と。感謝です。

懐かしくなって出してみました。『人間の建設』。荒川修作さんのと違うなあと思ったらカバーをはずすと同じでした。「情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化はその現れである」←傍線がひかれていた箇所。

Cqrzssmuwaeudau

今日の井の頭公園。爽やかでした!

Cqtsqiaveaaincc

|

2015.10.2 ツイッターから転載…『北条時頼と源氏物語』の原稿のこと。時頼の開悟や、叡尊の鎌倉下向から奈良西大寺への旅。

9月23日
時頼がかかわった最後の仏教者叡尊を書こうとして年譜を見たら、なんと叡尊が鎌倉に滞在したのは時頼が兀庵普寧について開悟を得た年。えっ!と思って時系列を追ったら、2月叡尊下向→春、蘭渓道隆が建長寺を出て京の建仁寺に。兀庵普寧が建長寺二世→7月叡尊帰洛→10月兀庵普寧により時頼開悟。

叡尊を鎌倉に招聘したのは時頼と実時で、鎌倉の仏教界の乱れを戒律厳しい叡尊により正して貰いたいからでした。叡尊の鎌倉滞在を記す『関東往還記』に建長寺も含めての禅宗側の事情は書かれてないから、今まで結びつけて考えなかったけれど、蘭渓道隆が建長寺を離れた事情がこのあたりにある?と興奮。

9月24日
昨夜の叡尊の件、私はこんなふうに考えます、として書こうと思います。寝て起きてもやはりそう考えておかしくないと。というより、これでいろんな辻褄が合うんです。どうしてそんなに切羽詰まって時頼と実時が叡尊を鎌倉に招聘したのかなど。今まで不審だったことが解決。

9月25日
ちょっとどきどき。仙覚についての調べが深まってきて自分の文章で書けるようになり先日小さなコラムを書いたらわかりやすいとあちこちで感動を頂き、あとお一人ご連絡がないなあと思っていた方から今朝ポストに封書。来年の学会で報告して下さいと。考えてはいたのですが背中を押して頂きました。

叡尊と蘭渓道隆の関係、定休日で図書館に行かれないのがネックで進められないと思ってたら、『関東往還記』では宗尊親王と時頼の関係を書きたかったのに蘭渓道隆にいってしまったらまた寄り道と内心困ってました。図書館の休日で頭が冷やされて、ここは蘭渓道隆より宗尊親王と取捨選択ができたよう。

時頼と宗尊親王の関係は終始麗しいです。11歳の時から時頼にかしづかれて宗尊親王には近臣というより父親のような頼れる存在なのかなあと。叡尊があまりに鎌倉で人気で信者が殺到するのを聞いて親王も受戒を思い立たれるのですが、時頼がそっと諭して諦めさせるところ、私は好きです。

私も誤解していましたが、鎌倉幕府が宗尊親王を更迭したといってもそれは時宗。時頼は終始礼をもって仕えました。時頼が時宗を弟なのに嫡子とし、兄時輔より上にしたことに、宗尊親王は弟の後深草天皇が帝になり、ご自分がなれなかった生涯と重ねられたのでは?時宗に冷たくあたられた結果の更迭。

書くことは思いを表出することだから、カタストロフィーとか大団円とかの言葉が浮かぶこの終末、蘭渓道隆とか宗尊親王とか、時頼、仙覚といった人たちの思いが、さながら愛と哀しみのボレロのようになって私のなかでぐるぐると蠢き噴き出すのを待っている。愛しさが滲んで結構辛い。そんな夜です。

9月26日
泉涌寺。博多から鎌倉に移る途中の京都で、嵐渓道隆が一年半ほど逗留された寺院です。宋で出会った月翁智鏡の招きで境内の来迎院に住されました。ここでは今でも宋音で経典が読まれまれるそう。

Cpzv_rouyaamisx

奈良に行っていました。これを撮りたくて。今日、明日と、采女祭り。管絃船が出ます。

Cp02i8svaaae0uu

奈良、西大寺東塔の跡。今の境内にある伽藍は後世のものだそうてすが、この東塔跡は創建当時のとか。たまたま采女祭りで奈良に行く予定をしてたら時頼の原稿で西大寺の叡尊を書くことになり、急遽予定に入れて訪ねました。

Cp05snbu8aaxz6z

東大寺と西大寺があったのに西大寺はなくなり東大寺だけが残ったと思い込んでいました。だから西大寺があると知っても本気で訪ねようと思わずにきました。が、たまたま行く機会を得て行った西大寺には重要文化財叡尊像があり、東塔跡が。西塔もあった筈。往時は今の十倍の大きさだったそうです。

西大寺の大茶盛式は関東でもニュースで流れます。が、その光景が華やかで私としては戒律厳しい律宗寺院に不似合いな気がして、それで今の西大寺は叡尊の時代とはどこかで断絶している後世の寺院なのだろうと勝手に思っていました。が、検索したらこの茶会こそ叡尊の理知に根ざしたものでした。

9月27日
月が昇ってきました。中秋の名月。低い位置の月は木の枝や電線が入って避けて撮るのが大変。でも雲がかかって紅彩が綺麗でしたので頑張りました。ここを逃すと雲がなくなってしまうので。

4177

9月28日
西大寺に行った収穫。『叡尊感身学正記』。西大寺のみにて取り扱いとあり、これが入手できるなんてと信じられない気持ちでした。旅行前に行かれなかった図書館に行ったり終日忙しくしてやっと落ち着いた時間がもててこれから叡尊。

Oi

西大寺に行ってよかったのは叡尊の偉大さがやっとわかったこと。『関東往還記』で叡尊を迎えた鎌倉が熱狂しこぞって受戒しに訪れる記述があってもどうして?と不思議でした。西大寺が東大寺と並ぶ大寺院だったなら、東大寺の管長様が鎌倉に下向され半年も逗留されて布教されたのと同じと考えれば納得。

満月が綺麗でした。

9月29日
金子啓明氏『西大寺』読了。まだ西大寺にこだわっています。叡尊の偉大さがわかって『関東往還記』に感じていた疑問がやっと解決。叡尊は鎌倉滞在中、海蔵寺の隣の谷戸の新清涼寺に宿泊します。でもそれは実時が称名寺を提供すると申し出たのを辞退してそんな狭い寺院に。称名寺に滞在されてたら、私の

ような門外漢にも立派さが伝わって印象がもっと違ったと思う。『関東往還記』のこの記述は称名寺の名の初出で有名。実時がこの頃には既に建てていて不断念仏宗の寺院だった。叡尊を迎えるにあたり、叡尊に相応しい結構の寺院をと時頼と相談して称名寺ならとなったよう。けれど叡尊は不断念仏宗の僧侶を

追い出してまで自分が住するのは本意でないと固辞し、それで海蔵寺の隣の谷戸の新清涼寺なら狭いけど無縁寺だからと決まった。なるほどそういう経緯だったのかと納得。それにしても、称名寺での叡尊なら西大寺の長老としてのイメージだったのになあとイメージすることで本質を感じる私には残念な気が。

西大寺で購入してきた『叡尊感身学正記』の弘長二年条を読むと、実時の使いがきて「時頼の興法のため、また受戒のために関東下向を乞い願う」とある。『関東往還記』周辺を読んだだけでは、鎌倉の仏教が乱れているからとしか理解できなかった。でも、叡尊は招聘された理由をはっきり「時頼のため」と。

この時期建長寺には蘭渓道隆がいて兀庵普寧がいる。共に建長寺を建立した蘭渓道隆は離し難くでも悟りを得るには兀庵普寧と時頼は悩んでいたはず。往還記で時頼は一回叡尊と密室のような深い時間を持ちます。何が語られたかは不明。けれど時頼が招聘した理由は一にこの密談にあったかと。時頼は相談した

のでしょう。そして蘭渓道隆が一時建長寺を離れて建仁寺住持となり、兀庵普寧が建長寺住持二世になって、叡尊が帰洛した二ヶ月後に時頼が開悟の時を迎えた……、とそんな流れの気がします。

こうしてみると禅の悟りというのはとても肉感的。建長寺建立のような社会的事業には蘭渓道隆が向いていて、でも悟りには結びつかない。蘭渓道隆のもとで修行が進んで時頼はもっと悟りたいと喝業していた。それが兀庵普寧により満たされる。この時これは叡尊でも駄目なわけで只兀庵普寧によるのみと。

泉涌寺様塔頭来迎院。来日された嵐渓道隆が博多に上陸されたあと、月翁智鏡に招かれて京都で住された時、ここで過ごされました。ここから鎌倉へ来られたのでした。

6293

奈良。西大寺様の白萩。

6295

秋色近い井の頭公園の池。

Cqdx_g_u8aadfaa

井の頭公園、もう一枚。時々ロシアの森のような光景が。

Cqdyxuguaai7qa4

@hakaiso27 ありがとうございました! 腑に落ちなかったものが氷解しました。頓悟禅。これを理解しないで時頼を語ってはいけませんね。歴史家さんたちの時頼が「禅に何を求めたか」を理論で検証されているのを見ててそう感じていました。納得です。

@hakaiso27 頓悟禅、教えて頂いてありがとうございました。時頼の開悟をより深く理解して原稿を進められます。とても重要な問題でした。

9月30日
昨日、鎌倉のある方からお電話で昨年九月に鎌倉文学館講座室をお借りして始めた【鎌倉の歴史を楽しむ会】の第一回「佐々目遺身院」のレジュメがあったら頂けないかと。すぐに送らせて頂きました。一年が経つんですね。

比企の方からは、私が仙覚さんの研究発表をする予定とご報告したらすぐに小川町関連の資料を送って頂きました。中に欲しかったのに在庫切れでカラーコピーでしか持っていなかった小川町発行の仙覚さんの冊子も。嬉しかったです!鎌倉も比企も語られている歴史はまだ一面。国文学と同期させると楽しい。

平成24年に小川町発行の【『万葉集』と仙覚律師と小川町】。仙覚さんの歴史と学術的業績が網羅された素晴らしい冊子です。全ページ、カラーで。

Cqic_7u8ae2awb

昨日「佐々目遺身院」の資料を送らせて頂いた方から拝受のお電話。鎌倉文学館の隣の谷戸の笹目谷にあった廃寺についてのエッセイです。その方のお話で笹目には星野天知さんの邸があって、そのご子息のお嫁さんが星野立子さんで、虚子のお嬢さんとか。笹目はそういう方々が住む優雅な谷戸だったそう。

昨年訪ねた時の笹目谷。土地勘なく歩いているからどこに佐々目遺身院があったか星野天知さんのお邸がどこか見当つきませんが、風流な谷戸の感じはしました。佐々目遺身院は亀山天皇皇子の益性法親王が住まわれていた寺院です。

P8290140

|

2015.10.2 ツイッターから転載…『北条時頼と源氏物語』で書いていることなど。最終章にかかりました。

9月21日
たまたま鎌倉の源氏物語関連で必要から源氏の系図をたどったくらいで関心あったわけでないのに昨日から義家が頭から離れない。極めつけが石清水八幡宮で元服したということ。これって、鎌倉武士の祖は京都の雅を知っていたことじゃないの!と。鎌倉鎌倉といって武士武士とばかりこだわっていた歴史感が

がらがらと崩れていく。これは仙覚の母は誰かを追って義朝を調べた時に感じたことで、頼朝が14歳まで京都にいて伊豆に流された原点は義朝が京都にいたから。私が知らないだけで誰でも知っていたというなら、どうして鎌倉の歴史家さんたちがそれを軽視して鎌倉幕府だけに特化する歴史ばかりを語って

来られたのだろう。少なくとも私は史学出身でないから歴史はそうして語られた一般書を渉猟するなかで知った。でもたぶんふつうの人よりは多く読んだ。それでいて巨大なバックボーンである京都との関連はまったく感じられないできた。私がこだわるのは鎌倉武士が京都にこれだけいたのなら、武士だからと

いって『源氏物語』をまったく知らなかったわけはないということ。従来の学者さんたちが鎌倉に『尾州家河内本源氏物語』のような『源氏物語』があるのに無視されていたこと、『源氏物語』は公家のものと排除されてきたこと、それを私が鎌倉でも!と言っても相手にされなかったことに、かなり義憤。

歴史はもっと文化の視野を入れて大きく捉えなければならないと思う。少なくとも現在、『源氏物語』の観点で、私のなかでの鎌倉武士のイメージが大きく変わっています。

補記:今は少し変化してきているけど、鎌倉で源氏物語の講演をはじめた時は物凄い風あたりが強かった。それを押して応援して下さった方の最初の発声は、『源氏物語と鎌倉』に対して、「衝撃的なタイトルだね」でした。それくらい2,3年前まではまだ鎌倉の源氏物語への認知度はありませんでした。

時頼と源氏物語の原稿の最終章。ある意味もがき苦しんでやっと構想が。鎌倉の源氏物語の象徴『尾州家河内本源氏物語』は時頼の生前にはできていない。時宗の時代になって。それは自然な流れでそうなったと思っていたけど、時頼の時代にもう種は蒔かれていた。そのことを書けばいいのだとやっと気づく。

だから章のタイトルは「『尾州家河内本源氏物語』へ」。時頼の出家や開悟を書かなければと気負っていたものからはずれて見えてきたもの。成長した宗尊親王は実時や小侍所の副別当的時宗と対立。その結果が時頼の死後の将軍の更迭となり、結果として『尾州家河内本源氏物語』が鎌倉に残ったのでした。

『吾妻鏡』や『関東往還記』を読むと時頼は終始毅然としている。それは最高権力者として当然のようにも見えるけど、開悟した者の姿と思う。だから宗尊親王も叡尊も時頼には礼を尽くして接している。執権だからというよりそこには真の敬いを感じる。最後にきて行間に見える時頼の清々しさが心地よい。

連ツイ、すみません。カタストロフィー、そんな言葉がちらちらしています。あるいは大団円……

鎌倉には『尾州家河内本源氏物語』という素晴らしい知の遺産があります…、という書き出しではじめました。

9月22日
やっと爆発(笑)。あれを書かなければ、それはこんなふうに書こうなど理で彷徨っているあいだうじうじしていましたが、やっと書く情念の噴出に成功。予定していた構想を大幅に逸脱して最終章をまとめられそうです。それにしても私はよほどの天邪鬼。予定調和の世界ではちっとも食指が動きません。

「河内本源氏物語」が完成した時、時頼は実時から報告を受けただろうし、父時氏が六波羅探題在任中に定家の「青表紙本源氏物語」の完成に遭遇し、親しく交際していたから、母松下禅尼に伝えた。松下禅尼は喜び、親行のために祝宴を設け、質素を標榜する禅尼もこの時ばかりは雅だった京の思い出とともに

源氏物語話題に加わった、などと想像が膨らんで楽しい。この祝宴に並ぶのは時頼、実時、親行らと清原教隆。そこに松下禅尼。鎌倉で唯一「青表紙本源氏物語」を実際に見て知っている女性松下禅尼。彼女の上東門院信奉が仏教者時頼を育てたといって言い過ぎではありません。そこに源氏物語が色を添えて。

9月23日
兀庵普寧のところを無事に通過して今度こそ終わりが見えてきたような……

綺麗な青空。籠っていたから空を見るのは久しぶり。

Qe

|

2015.10.2 ツイッターから転載…百草園で行われた真慈悲寺講演会のこと。義家な一日でした!

9月20日
三鷹から百草園、9時半始まりはキツイです!遅刻…。今日は百草八幡宮で安達氏ゆかりの阿弥陀様の年一回の秘仏公開。

日本の睡蓮の庭@百草園

Y

日本の睡蓮の庭 二枚目@百草園

D

歴史って面白いですね。今日の講演は百草八幡宮にある絵馬についてでした。その経緯が不思議。2年前のこの日が雨で八幡宮で休んでいた時に絵馬があるのを見つけたそう。赤外線撮影で武内宿禰の絵とわかり、なぜ多摩の八幡宮に武内宿禰の絵が?となったそう。それでたまたま隣の府中市郷土博物館館長の

小野一之先生が武内宿禰を研究されてたのを思い出し講演を依頼されたそう。小野先生のお話では八幡宮の祭神は八体でそこに武内宿禰が含まれていて、日本書紀に武内宿禰が東国視察に訪れた記述があるからだろうと。雨で見つけた絵馬から武内宿禰。そして偶然こんな身近に武内宿禰を研究されてた方が!

たまたまの雨宿りで見つけた絵馬。

Cpuuzucuyau_lzg

赤外線撮影で浮かび上がった絵です。

Cpuuqdbuyaaeoft

京王線車窓から撮った百草の山。百草園はこの山頂にあります。中世、真慈悲寺があった場所です。発掘調査によってだんだん解明されて「幻の真慈悲寺」ではなくなってきました。山岳寺院だから登るのが大変。

Ry

八幡宮御祭神に義家公が。前九年の役の折立ち寄ったとか。義家が手を洗ったとされる井戸が百草園の中に。

Cpuwozsu8aarbsn

山岳寺院だから見晴台からの眺望はこんなです。新宿方面が一望できます。スカイツリーまで!

F

赤外線撮影で浮かび上がった絵の拡大。武内宿禰の形相がはっきり。波に石のようなものを投げ込んでいる構図とか。

C

パネル展。多摩川中流域の荘園と公領のパネル。

V

パネル展。鎌倉と真慈悲寺の位置を表す地図。

Z_2

八幡神のこと。八世紀初頭に軍神として宇佐八幡宮に登場。天平勝宝元年(749)東大寺大仏建立に伴い宇佐八幡宮を勧請、神仏習合の鎮護国家の神に。貞観2年(860)石清水八幡宮創建。康平6年(1063)源頼義が鎌倉に石清水八幡宮を勧請(鶴岡八幡宮の前身)。義家が石清水八幡宮で元服。

今日のイベントで一番驚いたことかもしれない(笑)。時間がたってだんだん諸々のことが沈んで上澄のように残った昨日の印象がコレ!八幡太郎義家の名は今まで違和感なく聞いてたけど、石清水八幡宮で元服したからだと。百草園に義家手洗いの井戸があると聞き撮りに行ったけどなんか今日は義家の日!

|

2015.10.2 ツイッターから転載…『北条時頼と源氏物語』のことなど

9月14日
おはようございます。昨夜は新月。あることがあって心機一転、覚悟して改めて『北条時頼と源氏物語』の原稿の書き直し作業にとりかかっています。見直しているとまた時頼の少年時代、青春期と、成長につき合います。昨夜は親鸞と出逢いました。今日はこれから道元。時頼はほんとうに宗教の人です。

今日の彼岸花。陽を浴びて輝いています。すべての平和が訪れますように!。

Co1si8tvaaasgwg

終日時頼と源氏物語の原稿の書き改めに没頭していました。もっと大変と思ってましたが、大変だったのは最初の二,三章まで。まだ全貌が見えてなかったから重複が多くその整理。先程第一稿の最後の章「宗尊親王」まできてたぶんこれもそのままでいいから、明日からいよいよ最終章の書き下ろしに。

9月15日
時頼と源氏物語の原稿、最終章のタイトルを思案中。当初は「時頼と源氏物語」で終わると思ってたのが、書き進んでくるうちにこれはただの源氏物語の話ではないと思えてきて、いっそ「時頼の時代」にしようかと。考えてみれば政治と禅宗ばかりの時頼で、今まで文化面で語られたのをみてないなあと。

副題も二転三転して、つい先日は「陰の司令官時頼」に燃えたのですが、今は「人と精神の円環」と。終わりにきて総括する気持ちが湧いてきています。源氏物語と重ね合わせてみた時頼の一生は、青表紙本源氏物語が完成した時に六波羅で生まれ、晩年に河内本源氏物語の完成を鎌倉でみるというものでした。

年譜を見たら、建長6年の源親行による宗尊親王への『源氏物語』の進講の翌年に時頼が出家。文応元年(1260)に兀庵普寧が来日とあり、そうだ!時頼と兀庵普寧を書かなければならなかったのだと覚醒。源氏物語だけなら終わりに見えていた原稿が突然新たな展開に。初心に帰って『吾妻鏡』を手に。

時頼は蘭渓道隆に師事しながらさらに兀庵普寧を招聘。兀庵普寧のもとで悟りを開きます。時頼没後、鎌倉にもう時頼のような人物はいないからと兀庵普寧は時宗らの引き留めにも応じないで帰国してしまうのでした。

現代語訳『吾妻鏡14得宗時頼』より:「正嘉元年4月15日、相州禅室(時頼)がこのところの宿願を果たすため、新たに書写した紺紙金字の大般若経一部を(伊勢の)皇大神宮に送られたという。願文の清書は、時頼が病気を押して書き終えられた」というその願文の中に「あの杭州刺史(白居易)は長年の

病により、ただひたすら善行を無量寿仏の極楽に誓った」とあります。建長寺にはたしか時頼筆かもしれない白楽天の断簡があったような…。時頼が白氏文集を読んでいた確証はないといわれてますが、この願文を見れば読んでたことは確実ですよね。それに金沢文庫には実時の白氏文集があるし…

時頼が出家した翌年が正嘉元年。正嘉二年は尾州家河内本源氏物語の実時の奥書で馴染んでいたけれど、こういう鎌倉の政治史の中だったなんて。

9月16日
聖と俗。そんな思いをもってしまった。宗尊親王の歌の師となる真観が下向。その同じ年に兀庵普寧が来日しているのだけれど、真観の記事は吾妻鏡にあって兀庵普寧はない。現代語訳吾妻鏡15を読了。真観を得て宗尊親王の文学サロンが活性化するのと並行して、時頼には書かれていない真の生活があった。

少年だった宗尊親王も成長して「虎」となり幕府に威圧的な態度をとる。それに右往左往させられ苛立つのが小侍所別当の実時。時頼が報告を受けながら泰然自若に見えるのは背後の宗教生活があるからだろう。吾妻鏡を読んでいるだけではとてもつまらないこの時期。兀庵普寧との対象で書けばいいのかも。

二人で歩調を合わせて建長寺を造り日本の禅を始めた時頼と蘭渓道隆。でも時頼は蘭渓道隆の下では悟りを得られなかった。内心焦れている時頼は兀庵普寧の来日を聞き鎌倉に招聘。わずか二年の師事で開悟。ここのところ厳しいなあと思う。恩ある蘭渓道隆に対して時頼も困ったと思う。ここ、難しい。

ただ、精神のリレーは言葉ではないからどうしようもないんだなあと思う。蘭渓道隆とは論理で分かち合ってきたのだろうけれど、兀庵普寧とは肌で感じあえたのではないだろうか。理屈抜きの人と人の邂逅。そういうことってある。

9月18日
今日は兀庵普寧の資料をコピーしに駒沢大学図書館に。仏教関連の本は圧倒的に都立図書館より駒澤のほうが使いやすい。ここは三年間大学院の聴講に通ったキャンパス。思い出すとあの頃はまだ「鎌倉の源氏物語」にこんなに関わるはめになるとは思わずただ光行さんを追って『原中最秘抄』をしてました。

9月19日
窓外の空が秋の雲です@中央線

Q

忙しくしている間に国分寺写真展を見損なっていたことを今頃気づく。10月からの展覧会もたぶん幾つか諦め。惜しいというより目下取りかかっていることが大切と未練なしなのが諦観というのかな。通過した国分寺駅にそんなことを思う。国分寺。遺跡一帯上空に広がる青空がとても綺麗。

国分寺。聖武天皇は国の平和を祈って全国に建立されたのだけど。

中学時代の恩師山田土筆先生とお作品。創土会。立川のたましんギャラリーにて22日まで。毎年されてたけど今年限りと。90歳でいられます。数学の先生でしたが私はその授業で亀井勝一郎を知り小林秀雄に夢中になった。私の文学の原点の方です。

I

中央に小さな虹が見えてます。その後都心で環天頂アークが観察されたよう。水平虹ができそうな空だったので、この虹を撮った後ぐるっと全天を見回したのですが、この時間はまだこれだけでした@立川駅

R

生涯忘れないと思うのですが、東北の震災の少し前、今日のように筋雲や白い雲が満載の空に強烈な色の虹が流れるのが見えました。呆気にとられて見ていたのですがその日は写りの悪い携帯しか持ってなく、撮った写真も不鮮明で消してしまいました。その後東北の震災が起き、はたと思い当たったのでした。

虹を見た場所がはっきりしているので、後になってその場所に行き、強烈な色の虹ができたり消えたりする高層の白い筋雲が流れてくる方向を測ったら北東でした。あんな色の虹は二度と見ないと思いますし、見ないでいたいと思います。(でもなぜああいう時に携帯しか持ってなかったのでしょう・・・)

|

2015.9.30 ツイッターから転載…九月の建長寺様禅研究会で久しぶりに鎌倉へ。【9月12日5:49頃/東京湾M5.2/震度5弱】のことなど。

9月10日
久しぶりに鎌倉に向かっています。出る時地元多摩の雨はあがっていました。横浜付近の走行中の車窓でも灰色の空だけれど降ってません。ただダイヤは高崎線直通はなく、途中停車駅が臨時に増えたり。私も何が起こるかわからないからいつもより以上に非常時を心がけて出てきました。

建長寺様方丈庭園の雨。

Photo

さすが鎌倉。秋明菊が咲く路地。

Cohydtqu8aelhdl

今日の建長寺様法堂。時頼公は国の平和を祈って建長寺を建てられたのに昨日今日の自然の猛威には心が痛みます。

Cohyzqbuaaebm4l

9月11日
昨日はネットが切れまくりでした。先週東京でM5規模の地震があるとの予測をTLで読んで鎌倉に行った一昨日も内心警戒していましたが今朝でした。東北の災害に9.11、そこに地震。暗澹としますがTLには美しい記事が並びこういう時にも美しさをこころがけている人がいると救われる。そんな朝。【9月12日5:49頃/東京湾M5.2/震度5弱】が発生しました。

ネットが切れまくる日はだいたい翌日に地震があります。昨日の頻度は半端なかったので規模が大きいのではと思っていたら案の定。警戒心をもっていると大きいけど大丈夫などの判断もつくようになります。こころがけって大切ですね。今日は外出。はじめての方が多い会なのでネットで予備知識を。

NHK@首都圏【ニュース】震度5弱を観測した調布市の深大寺では、高さ数メートルある山門の柱が地震の影響で数センチ程度ずれたということです。

9月12日
鬼怒川の氾濫が大変ですが、結城市の御手杵の槍を所蔵する博物館は無事だそうです。 #刀剣乱舞 #とうらぶ

はじめて「#刀剣乱舞 #とうらぶ」を使ってみました。今日比企の御手杵の槍を復元される方とお会いして、そこに結城市の御手杵の槍の復元を手掛けられた方がいらしていて、比企のもまた手がけていられるそう。そこで伺った「博物館は大丈夫だった」というニュースでした。比企の復元は順調です。

9月13日
【日本結び文化展in横浜】。鎌倉の花むすびをされている方からのご案内。花むすびは一本の紐で結びあげて作ります。大きな壁掛にもなる装飾的なものから、茶壺にかけて他人が開けたら二度と組めないから毒を入れられないように結ぶとか。

A

鎌倉の生涯学習センターホールで講演させて頂いた時、花むすびの倉田生子先生に舞台を飾って頂きました。

2052

鎌倉には素晴らしい方がたくさんいらして、講演を企画する方は舞台の雰囲気にもこうして気を使って下さいますし、それに応えられる先生が住んでらして、何かをするにもすぐトントン拍子にこんなふうになっていきます。文化の根付いた地というのはこういうことだなあといつも感嘆。

彼岸花が咲いていました。こういう群れが幾つも@三鷹市玉川上水

N

|

« September 2015 | Main | November 2015 »