« January 2016 | Main | March 2016 »

2016.2.22 ツイッターから転載…『薔薇の名前』を思い出して。そうしたら翌日ウンベルト・エーコ氏の訃報。それは私にとって小説か学術かを考えての狭間でした。 & ボッチチェリ展のこと

3

2月17日
鎌倉文学散歩で企画している扇ケ谷奥の浄光明寺周辺の一帯は、横須賀線で北鎌倉駅直後のトンネルを出るとすぐに見えます。ちょうど岩船地蔵堂が目印になってくれました。

11

この尾根の向う側が建長寺などのある山ノ内。尾根を背景にしてひっそり静まる美しい一帯です。この尾根を鎌倉の方が京都の東山みたいですものね、と。お公家さんたちも和んだでしょうと。

16

2月18日
『薔薇の名前』が心に浮かんだらとてつもなくそういう小説を書きたくなった。あの導入部は最大の憧れ。いつか書く、そんな小説。と心に思ってる。まだ学術でいくか文学でいくか迷走中だけど…。(というのも、夜、ある方から学術の分野でのお電話を頂戴して嬉しかったのだけれど…)

お電話で頂いた学術のお話の件は、実時の奥書についてでした。貴方があそこまでやるなら、もっとこんなふうにも、とのアドバイス。うーん、それをするとまた10年(まではかからないまでも、学生でない私には時間の捻出が大変)。いっそ小説にしてしまおうかとの意で薔薇の名前が浮かんだのでした。

尾州家本は時頼の没後だけど尾州家本を書かなくては鎌倉の源氏物語にならない。でもそれを書くには実時の奧書が自筆か否かを決めなければならない。私の手に負える問題ではないから信頼できる方に判断を委ねたらきっぱり自筆という方と一目で違うという方と。今日のお電話の方もきっぱり違うと。それを

今日のお電話の方は、貴方が自分で確信を持つまでにならなければいけない。そのためには、というアドバイス。奧書の件に決着がつかないから原稿が留まっていた。ここは覚悟して今日のお電話の方のアドバイスに従い自分で判断できるまでにならなければいけないのかもしれない。覚悟して…

お電話を切った直後は、そんな〜と反抗気味だったのですが、滞っている原稿の原因を考えたらまさにここ。阿吽の呼吸で頂いたアドバイスです。素直に受け入れる気持ちにだんだんなってきています。井筒俊彦氏神秘哲学の、あるところまで昇ると向こうから手が差しのべられるとはもしかしてこれかもと。

2月19日
今日は外出。車窓から暖かな陽射しが延びています。昨夜からずっと頂いたお電話を反芻。頭から離れません。貴方のしている事は歴史研究なのだから小説を書いていた事は忘れて自覚するべきと。そこまで来てるのだからと。その直後に私は『薔薇の名前』を思ったりして学術と小説のあいだをぐるぐる…

堪能しました@ボッティチェリ展・都美 昨年くらいからボッティチェリ関連の展覧会が続いて三回目。ボッティチェリにぐっと親近してしまいました。

12

ボッティチェリ展会場出口ではボッティチェリと並んで記念撮影ができます。

13

夜の遊園地@上野 なにかかきたてられるものがありますね。

14

遠くにライトアップされたスカイツリーが見えました。

15

2月20日
おはようございます。ボッティチェリ展会場を4時間近く鑑賞して回ってたので気分の高揚とは別に疲労が心配で早々に休んだらこんな時間に起きてしまいました。そしてすぐ考えたのがボッティチェリの【誹謗】。私はこの作品に知識がなくツイッターで【誹謗】が来る!と騒ぎになって知ったのでした。それ

で寓意の細かいところまで理解していたから絵の前に立った時に違和感なく寓話の世界に入り込めました。私も一応過去に小説の世界でこういう事件を経験しているから他人事でなく見入ってしまったのかもしれないと、起きてすぐ浮かんだのが誹謗だったことに感慨。それにしても誹謗が美しい女神だなんて!

でも、経験は人を強くしますね。一応経験した過去の誹謗のような事件がなかったら私はずっと「絵に描いたような幸せの構図の奥さん」でいたでしょう。どん底を知っているから今書いていられる。そう思います。

まだ誹謗が頭から離れません(しつこい! 笑) 。【誹謗】は無実の人をいじめる誹謗を中心とした女神達が【春プリマベーラ】さながらに描かれる左端に【ヴィーナスの誕生】のヴィーナスそっくりの真実の女神が立っています。面白いと思ったのは【ヴィーナスの誕生】のヴィーナスが両手で裸身を

隠すようにしているのに対し、【誹謗】の真実の女神は片手を高々と挙げている。さながら勝利の宣言のように。作品全体では無実の人は決して救われてないのに、それどころかこれから苦難の道が始まるのはありありなのに、作品全体が真実の勝利を予言している。それで作品が屹立していました。

◆『薔薇の名前』に触発されて小説を書きたくなってたまらなくなったのが18日夜でした。そうしたらその翌日、19日にウンベルト・エーコ氏死去の報が世界を駆け巡りました。以来、ずっとウンベルト・エーコ氏のことが頭から離れずにいます。『薔薇の名前』に傾倒していながら、作者のウンベルト・エーコ氏については何も知識がありませんでした。それどころか映画「薔薇の名前」の印象が強烈だから作者のイメージがショーン・コネリーになってしまっていました。訃報ではじめて小説家であると同時に哲学者でもいられたことを知りました。私が惹かれたのはたぶんそこです。単なる小説家でない歴史の深みを感じていたのです。18日夜にある方からお電話を頂き、私がさしかかっている「北条時頼と源氏物語」の最終章で問題になってくる北条実時の「尾州家河内本源氏物語」奥書の自筆か否かの問題に言及されました。「貴方がしていることは歴史研究なのだから、小説を書いていたことは忘れて歴史研究家として自覚しなさい」という、ある意味不甲斐ない現在の私へのご叱責でした。それで学術をとるか小説をとるかの問題が発生して『薔薇の名前』が思い浮かんだのでした。常々、こういう小説を書きたいなあ・・・と思っていたのが『薔薇の名前』です。もちろんウンベルト・エーコ氏ほどの作品は書けませんが、少なくともその系統に属する作品になるだろうとの目標になっていました。その原点が「小説家であると同時に哲学者でもあった」からなのですね。ある方から有難いご忠告のお電話を頂き、学術か小説かの二者択一を迫られた時に『薔薇の名前』が脳裏に浮かんだのは必然でした。なのに、まさか、その翌日氏の訃報を聞くなんて。思いがけない運命の巡り合わせに感じ入っています。

|

2016.2.17 ツイッターから転載…源通親の『高倉院厳島御幸記』を読んで原稿を書いたことと、鎌倉文学散歩「中世の鎌倉を歩く」を企画しています。

2月12日
おはようございます。珍しく昨夜は早寝したので重力波のニュースを今頃になってTLで知りました。昨日は鎌倉文学散歩のコースを無理なく縮小した案をガイド協会の方から頂いて納得。浄光明寺ではちょうど裏山に入れる日なので登って冷泉為相卿墓の宝篋印塔を拝観できますと。ラッキー!です。

これからチラシを作ります。【~鎌倉文学散歩「中世の鎌倉を歩く」~】。ガイド協会の方と相談してコースが決まりました。鎌倉駅集合→阿仏尼供養塔→浄光明寺・冷泉為相卿墓参拝→新清涼寺(廃寺)跡→海蔵寺→鎌倉駅解散。約2時間の平坦な歩きのコースです。(阿仏尼→冷泉為相→叡尊→宗尊親王)。

2月13日
風が強くなってきました@井の頭公園

1

2月14日
昨夜は岩波の新日本古典文学大系『高倉院厳島御幸記』を読んで就寝。治承四年二月の高倉院の安徳天皇への譲位の日の描写に始まります。「内裏のことどもはてて、夜も明方になりしほどに、人々返まいりて、何となく火の影もかすかに、人めまれなるさまになりて、涙とどまらぬ心地するに」…

三月四日「夜に入て、土御門高倉邦綱の大納言の家に御幸あり。…中宮行啓あり。」←中宮徳子はここだけ。十七日「今日は八条殿へ御門出とてあるべしとて、八条大宮のニ位殿もとへ御幸あり…夢か夢にあらざるかとのみ、公私思ひあひたるなごりもいかにと、あらぬ別のなど」←時子との会話で心細さ。

十九日暁に出発。「かくて、御船出して、東風かぜをおいて、下らせ給。」「福原より、けふよき日とて、船に召しそむべし、とて、唐の船まいらせたり。まことにおどろおどろしく、絵に描きたるに違はず。唐人ぞ付きてまいりたる。」←清盛からの唐船です。大河清盛を彷彿。「生田の森などうち過ぎて、

申の下りに、福原に着かせ給。入道(清盛)大きおほいまうち君心を尽くして、御まうけども、心言葉に及ばず。天の下を心に任せたるよそほいの程、営まれたる有様、思ひやるべし。木立庭の有様、絵に描きとめたし。音に聞きしにもやや過ぎて、めづらかに見ゆ。」←福原京の清盛の豪奢な生活です。

須磨・明石・室の泊など経て二十六日に宮島に到着。詳細な景色・儀式の描写が続く後、「二十七日、空の気色うららかに晴れわたりて、残りの鶯思はぬ深山の木陰にかたらふ声す。夜をこめて潮満つとて、御所の前までさし入りたる、まことにこの世の有様とも見えず」と、厳島らしい驚きが素直!

帰路。四月に再び福原京到着。「荒田といふ頼盛の家にて、笠懸流鏑馬などつかふまつらせて御覧ぜさす。日暮れて返らせ給。八日、家の賞行はる。加階どもたまはせけり。左少将資盛、丹波の守清邦ぞ、加階しける」←資盛様登場!

「宮こ近くなるままに、八幡山の見えしも、たのもしくうれしくぞおぼゆる。比叡の山見ゆるなど申しかば、女房たちもたち騒ぎ見あひたまふ。申の時に御車めして、八条殿へ入らせ給。ニ位殿のもとへ返らせ給」←京が近づいての喜び。比叡が見えた時の感動はさぞだったでしょう。

最後は「かくて、御痩せもただならずなど聞ゑて、医(くすし)ども申すすめて」とあり、翌年一月の高倉院崩御を予感させて終わります。この御幸記はほんとうに通親本人の心の吐露であり、福原京などを生で見ての感慨であり、登場する清盛たちへの描写も実際のことであり、そういう意味で凄い!です。

垂直な木と水平な雲の調和な光景@井の頭公園

2

予定している鎌倉文学散歩のコース。鎌倉駅西口から浄光明寺に行き、それから海蔵寺まで周ります。この地域がお公家さんたちの居住区だったと思うのと鎌倉の方にお話したら、そうね、ちょうど尾根を背景にしてて京都の東山みたいですものねと。

3

2月15日
『高倉院厳島御幸記』は『源氏物語』の影響を強く受けているとは前から知っていました。ただそれは通親が源氏物語を好きだったから位に軽く考えていました。が、通親は具平親王の子孫で、土御門殿自体がもとは具平親王の邸宅。具平親王といえば紫式部です。 通親の源氏物語通は推して知るべしでした。

この系譜と成り行き、今まで誰か書いているのでしょうか。通親の曾孫がとはずがたり二条として、そうしたら二条も具平親王の血筋で、生まれながらにして源氏物語に関係のある血筋ということに。探っていったらだんだん錯綜してきました。どこか間違っていたらごめんなさい。

でも、とにかく通親の文学性はないがしろにしていい問題ではないようです。『高倉院昇霞記』の溢れるほどの華麗な文学性と、この作品はまさに『源氏物語』の幻巻だけど、こんなに似た文学が他人によって成るものかしらという不思議な気がしたことも氷解しました。

でも、『高倉院厳島御幸記』が金沢文庫に伝わっていて、金沢文庫本と呼ばれる国宝になってるなんて。誰の当主の時に収められたのでしょう。鎌倉時代中期の書写というけれど。

と、また金沢文庫? 尾州家河内本源氏物語を見つけた時のような展開にならないといいのだけれど。

2月16日
具平親王の子孫・源通親、が頭から離れなくて、写本の伝来を見ようと『源氏物語大成』を開いています。有名な従一位麗子本の麗子は具平親王の孫。通親はその兄顕房の子孫ですが、俊房の母は道長の娘。こういう家に源氏物語の写本が伝わっていないはずがなく、通親はこういう環境に育ったのでした。

何だかわからないけれど通親の具平親王に関わる写本の伝来が気になって目一杯時間を注ぎ込んでいる。ほんとうはこんなこと止めてとはずがたりなり十六夜日記に終始し原稿やパワポを作ればいいのだけれど、遠回りなこれにばかり執心。こんなことが十年続いた蓄積で今があるのだから、止められない。

『尊卑分脈』をコピーしてきました。具平親王から通親、そしてとはずがたり二条まで、ほんとうに繋がっているんですね。一目瞭然で感動。通親には、若い高倉天皇が、愛読する『源氏物語』の光源氏に重なって見えたのでしょう。光源氏の哀しみをみていたから、高倉天皇をも包み込んで守りたかった。

不思議なことに気がついた。通親は兼実を失脚に追い込んだ人物。それは兼実娘の後鳥羽院中宮任子が女子を産み、通親養女の在子が男子を産んだから。その男子が土御門天皇となり、その子が後嵯峨天皇。つまり通親の系統は『源氏物語』になり、兼実の九条家からは将軍頼経が出て仙覚の『万葉集』に。

つまり、失脚した側の九条家は『万葉集』となり、栄えた側の通親の家系は『源氏物語』を謳歌。なんか、これ、『源氏物語』と『万葉集』の位置にそれとなく符合しているような。鎌倉の源氏物語、鎌倉の万葉集、といっても、『源氏物語』と『万葉集』には厳然として反響に違いがあります。

メモ: 通親の先祖顕房は具平親王の孫で、賢子の父。賢子は白河天皇寵愛の中宮で堀河天皇の母。28歳で崩御されたが、白河天皇の嘆きはひとかたならなかったという。待賢門院璋子とは別の、私の好きな白河天皇の逸話の主が通親の先祖だったなんて。

こんな時間にツイートしてるなんて・・・。じつは昨夜呟いた、通親の家系→『源氏物語』、九条家→『万葉集』、を原稿にまとめたくなり、そうしたらちょうどメールで締切を頂いたので、「比企万葉幻想つれづれ」に書いてしまおう、となったのでした。『尊卑分脈』と『大成』と取り組んでたら面白くて!

コラムよりは長いけれどちいさな連載「比企万葉幻想つれづれ」第三回、一稿を書き終えました。発表する場のあるしあわせですね。そういえば昨日、ある方から「支えて下さる方々がいるしあわせ、それが大事です」と頂きました。それでこんな言葉が・・・。これから就寝。おやすみなさい。

窓の外はまだ暗い。でも、ほんの少し夜明けの気配。カラスが一羽、鳴いて通りました。

2月17日
原稿は早々に送信して手離しました。万葉集がテーマの原稿だから、最後の締めは「源氏物語には勝者の権力者の匂いが、万葉集には敗者の匂いがすると思うのは私だけでしょうか。」です。源氏物語には王権論があるようですが、私はまだそれを理解していません。なんか苦手で。

でも、久々に白河天皇のあたりを巡った考察。大河清盛をほうふつとしながら、楽しかった。通親、もっと深めます。なぜなら、河内本源氏物語の光行がお世話になった人だから。

|

2016.2.11 ツイッターから転載…『とはずがたり』二条は源通親の曾孫だったんですね!→通親の『厳島御幸道記』『高倉院昇霞記』を読むなど。それと、鎌倉古典文学散歩を企画中です。

2月8日
おはようございます。とはずがたりを読んで夜を明かしてしまいました。といっても、先に仮寝しています。呟くつもりはなかったのですが、メモとして残しておきたく。それは後深草院二条が正嘉二年の生まれだということ。鎌倉で北条実時が尾州家河内本源氏物語の奧書に名を残した年に京都で二条が誕生。

両統迭立って、今の人にわかる話かしら。と、今の情勢を知らないから思う。私の古典への入口は岩佐美代子先生の京極派歌壇だったからいきなり両統迭立を知ることになった。その遠因が鎌倉幕府にあって、第三代執権泰時が後嵯峨天皇を即位させたから。鎌倉のコラムでこれからここを書くのだけれど…。

『とはずがたり』はその両統迭立の問題の渦中の人の話。後嵯峨天皇皇子の後深草・亀山両天皇に愛された女性二条の日記です。鎌倉の将軍宗尊親王は両天皇の兄君。そして、いつも読んで忘れるのですが、二条は通親の曾孫で、通光の孫なんですね。これじゃあ自尊心が高くて当然と毎回納得。

でも、考えてみれば、通親の曾孫という、通親の血をひく女性の内心の吐露が現代に伝わっているということのほうが驚き。通親の『高倉院厳島御幸記』 は『源氏物語』を意識して書かれているというし、その曾祖父の『源氏物語』が二条には現実となって…

ニフティから「@homepage」サービス終了のお知らせが来ているのですが、新しいサービスに移行するかしないか逡巡。もう初期のHPの役割は使命を果たしてるし、放置しようかな?などと。カウンターを設置していないのでどれくらいの方に見て頂いているのかわからないし。

2月9日
多摩の講座で企画する鎌倉文学散歩の許可がでました。講座の中では今更無理だけど、個人的にならOKと。外に出るのは皆様喜びますよと言って頂きホッと。これから鎌倉ガイド協会の方に相談して詳細を詰めます。順調にいったら金沢文庫のほうのガイド協会のも企画しようかな。と、もう妄想(笑)

年二回発行の機関誌『鎌倉ペンクラブ』が届き、年末に寄せた消息短信に「玄覚の論文にかかる予定」と。まさかそれが覆ることがあるとは思いもせず寄稿したのに今はそれが崩れそう。連載の鎌倉と源氏物語のコラムに調子が乗ってきて万葉集に気持ちがいかなくなっています。たぶん玄覚は来年に先送り。

コラムは単発だと軽いけど数回まとめて書くと結構単行本の第一章的。思考が深まってだんだん大きな視野でのテーマが見えてきます。それが昨日呟いた両統迭立。長く連載させて頂けるのでいつかそこまでいかれるといい。

『源氏物語と鎌倉』のアマゾンのランキングが跳ね上がっていました。いつそうなったのかわからず気をつけていればよかったと後悔。少し前に見たらもっとよかったのかもしれませんものね。でも購入して下さった方、ありがとうございます。刊行して丸四年。もうそろそろ停滞?と諦めかけていました。

メモ: 寛元四年(1246) 一月、後深草天皇が4歳で即位。その十二月、鎌倉で仙覚が万葉集を校訂。後深草天皇が11歳の時、仙覚が後嵯峨院に万葉集を奏覧、17歳で弟の亀山天皇に譲位。なので、4歳だった二条を手許に引き取って育て始めた19歳の時にはすでに降居の御門だった。

2月10日
タウンニュース鎌倉版のコラム「鎌倉と源氏物語」第三回。2稿の校正を終えて送信。といっても、治すところなかったのでそのまま。まだ第三回なのに私の中では佳境に入ってきている感じがするのは、題材が六波羅探題という京都だから。やはり京都を書くと華麗ですね。うきうきします。

企画中の鎌倉文学散歩。ガイド協会の方から試案に対してのお返事。「中身の濃い面白いコースですね」と。そして「ガイドは私(講演を依頼して下さった幹事さん)でもいいし、鎌倉文学館の講座に出席していた会員がたくさんいますからご安心下さい」と。試案が盛りだくさんすぎたのでこれから削ります。

ちなみに打診していた試案は、鎌倉駅西口→二条教定邸のあった泉谷→冷泉為相卿旧蹟の浄光明寺→為相邸があった藤谷→亀谷切通入口を見るだけ→海蔵寺→新清涼寺谷→北鎌倉に抜けて浄智寺→北鎌倉駅、です。これで4~5時間だそう。それで、新清涼寺谷→北鎌倉駅コースを別の日にしようかと。

2月11日
古書で『源通親日記』(『厳島御幸道記』『高倉院昇霞記』勉誠社文庫)を入手したので昨夜はそれを読みながら就寝。といってもこれは影印本なので水川喜夫氏の解説を。氏は飛鳥井雅有の日記も手掛けられていて懐かしく。通親はとはずがたり二条の曽祖父と再認識して関心。二条の文学性の原点かな?と。

通親の文章は麗しい。それは美文志向というのもあるけれど、通親の本性自体が綺麗なのかもしれない。今まで兼実を失脚に追いやった政治家として九条家の側からだけみてたのが、通親の側からみると一変。高倉院に対する忠誠心、それを文章に表す文学性。二条に通じるものがあります。

高倉天皇との出逢いは践祚直後。天皇8歳。通親20歳。通親は10代の天皇が必要な政治的才能をもっていたが、それだけでなく「通親には、この若き天皇の情感に応える何かがあったらしい」。「通親にとっても、程よい年齢の隔たりは、肉親的情愛・保護者的心情を育てるのに充分であった」。

「この肉親的情愛とも読める誠実さが、やがて後鳥羽天皇の信頼を集めるところとなる。それを裏返せば、弱冠21歳の高倉院の崩御は、他人には測れぬ深い悲しみとなった」。「その愛惜追悼の書が『高倉院昇霞記』なのである」。

私たちは歴史学者さんや小説家の方々によって伝えられる歴史人物観の中で生きている。往々にしてそれは一方的で、政治的対立の中で悪役に回された人や敗者の側の人はゆがめられたりみすぼらしく貶められていたりする。でも、その人本人が書いた「文学」は裏切らない。と、そんなことを思いました。

|

2016.2.7 ツイッターから転載…『源氏物語大成』『尾州家河内本源氏物語開題』を古書で入手して再読、コラムや松下禅尼の原稿のことなど。

1月30日
「松下禅尼と『源氏物語』」という小文を書きました。一晩おいて明日送る予定です。

真夜中の源氏物語大成。面白いのは一言に注釈書といっても作者によって色合いが違う。源氏釈の伊行を定家は主知的として批判的な眼差し。その定家はといえばやはり歌人としての感性が向かうところの注釈だから芸術的といえるだろう。と、青表紙本まで読み進んで、今夜から河内本です。

光行の研究態度を読み進めていて、なんか仙覚みたいと感じ、いや、これは仙覚と同じだと思った処にこの一行。「先ず光行は万葉集の研究に着手した」。そして「この光行本は親行に伝えられ、親行本は仙覚校本の根源をなした」「特に光行の所持本が仙覚本の基礎をなしたことは注意されなければならない」

さらに、「この事実からみても光行が万葉集特にその本文研究に著眼してゐた事情を知ることができ、将軍実朝が光行によつて万葉の歌風に導かれたのではないかとの推定を可能ならしめるのである」。←光行における万葉集研究の重要性は池田利夫氏作成の光行の年譜によって知っていて気になっていました。

光行の事跡と年代を追っていて、私は光行は実朝の家庭教師的存在だっただろうと推定し、実朝の歌の万葉調は光行によるものではないかと、講演でお話してきました。なんとなく自説で気後れしながら。でも、池田亀鑑先生がすでにこう書いていられるのなら、これからは堂々とお話します。

メモ: 光行の文章は国文学の伝統に立ち、古典の用例・故実に基づき、これに加ふるに漢文学からの豊富な語彙・事実・文体を以てし、所謂和漢混淆の流麗な新文体を創造した。戦記文学や紀行文学に見られる文章の彫啄等は、中世文学の一特色をなしてゐるが、これらの文学を発展せしめた功績の重要な部分は、光行やその友人たる長明等に帰せらるべきものである。海道記・東関紀行・平家物語等の作者もしくは関係者として、光行が擬せられてゐるのは謂れないこよではない。

1月31日
相模湾の方から分厚い雲が広がって来ています。

30

「松下禅尼と『源氏物語』」の原稿、送付。朝になって松下禅尼の祖母丹後局について少し書き足しました。

また古書でとんでもない本をみつけてしまいました。源氏物語大成とか仙覚研究とか今までこの購入方法を知っていたら遠くまで図書館に通わなくて済んだのに・・・。とりあえず注文確定のメールが来たので、あとは書店の在庫調べ待ち。私にはどれも凄い価値の本ですが、どれも三千円はしてません。

2月1日
風邪をひいて欠席の電話を入れました。少し寒いと感じると必ずひくから注意してたのだけど、考えてみると講座や講演のあとに必ず体調を崩すからほっとした気の緩みにつけこまれるのかも。注意してもムダという気もします。さらに考えると籠って書こうという意志が尊重されたとも。籠って集中します。

終日頑張って寝て、というか起きられなくて、やっと寒気がとれました。もう大丈夫。(なのにまたもう深夜・・・。これから大成を読もうかななどと。)

あれから大成を読んで就寝しましたが、河内本の章はコピーで持っているのでおさらい。でも発見がありました。「俊成・定家等は古典作品に対して知的尺度を以て測定する態度をかたく戒めたが、しかし奧入の発展を考察する場合、何人も定家が親行の学究的態度に刺激されてゐることを認めざるを得ないであらう」…。私は青表紙本が完成したのは伊賀氏の変で上洛していた親行に刺激を受けてだろうと推測しています。親行が上洛したのが夏。定家が家中の女子を集めて書写を思い立ったのが冬ですから。個人の感想でしかなかったのですがあながち荒唐無稽の推論ではないと我が意を得ました。

古書で入手しました。『尾州家河内本源氏物語開題』。私が鎌倉の源氏物語問題に携わる事になった最初の最初の本。広尾の図書館の書庫から出して貰って恐る恐る開いた…。その本が我家に。でもこれは非売品で岩波での刊行はこれからとか。

31

池田亀鑑先生の『源氏物語大成』とか、この山岸徳平先生の『尾州家河内本源氏物語開題』とか、凄すぎます。一旦一巡りして終ったと思っていた鎌倉の源氏物語。そういう時に次々と入手できて。心して読み返そうと思います。

『尾州家河内本源氏物語開題』目次。光行・親行親子の業績は池田利夫先生に詳細な年譜のご研究がありますが、奥書を書いた北条実時についてはこの山岸先生のご著書でほぼ網羅されています。

32

2月4日
タウンニュース鎌倉版のコラム「鎌倉と源氏物語」。第五回を書きました。といっても二月に載るのは第三回。だからこの若く美しい松下禅尼が源氏物語を読んでいたという第五回はまだまだ先。早く徒然草絵草紙で松下禅尼が障子張りをするお婆さんのイメージを払拭したいから載るのが楽しみ。

タウンニュース鎌倉版のコラム「鎌倉と源氏物語」。第六回を書きました。ひとつ書くと連鎖的に次から次へ。コラムは要領をつかんだら早いですね。次のテーマが明確に一つしかない時や、選択肢が複数あって考える時も。選び方次第で連載の流れ自体が変わってしまうから面白くもありでも慎重に。

2月5日
【気象庁情報】5日7時41分頃 神奈川県東部にて 最大震度4(M4.6)の地震が発生。 震源の深さは30km
神奈川県東部はほぼ隣接。地鳴りがしたと思ったら揺れたのですが突き上げるでもなく、横揺れでもなく、一瞬の不思議な揺れでした。三鷹市は震度3とでていますが、横揺れでないのでそんなに揺れた気もしません。地鳴りが走っていくのをはじめて耳にしました。

風邪はたいしたことないと思ってもやはり症状を一巡しないと終わらないらしく発熱もしたし今は咳。日曜日に行く予定の講演会を諦めるしかないかと思案中。寒いと思うと必ず風邪をひくのを不思議に思っていたのですが、寒いと身体の免疫力が落ちるからなのだそうですね。納得してから注意してたのに。

2月6日
昨夕、六本木ヒルズ展望台様が「今日は薄雲で柔らかな日暮れでした」と美しい夕景の写真を揚げてられましたが、私も吉祥寺でその空を見て「なんだか怪しいなあ。地震があるのかしら」と危惧していました。こういう空の時よく海外で大きな地震が起きます。今回は桜島の噴火でした。(昨夜、桜島噴火)。何か因果があるのでしょう。

『尾州家河内本源氏物語開題』読了。これで古書で得た『大成』『開題』から離れ、現実に戻ります。その前に記録として『開題』から尾州家河内本源氏物語の変遷をまとめておきます。ほぼ十年ぶりの再読は楽しかった。当初の四苦八苦ぶりと打って変わってのスラスラは十年の間に身についた蓄積でしょう。

メモ: 尾州家本は実時以来その家の文庫に秘蔵されていたに違いない→足利義満によって京都に持ち出されたのでは無からうか→義満は源氏物語研究家として特に著名な人をその環境の中に有していた→それは河海抄の作者四辻善成。義満の祖母が善成の姉。母は善成の姪→尾州家本は義満から子息義教に→義教から義尚に→途中経過は推測すら不可だが、結局は関白豊臣秀次に→これが豊臣家に伝来して、大阪の役後、徳川家康の手に→家康が関東下向の時、一時尾州家に預け置いたものが、其の儘、尾州家の什物となった。

台湾地震 台湾南部の台南近郊でM6.4の大地震
地震が起きてしまいました。昨日の夕刻のような空の時、ほんとうに「決まって」といっていいほど海外で大きな地震が起きます。昨日は桜島の噴火があったのでそれかと思って安心したのですが…。自然は空も大地も連動して形象が現れます。空を観ているとそれを感じます。

|

2016.2.5 ツイッターから転載…タウンニュース鎌倉版のコラム【鎌倉と源氏物語】第二回「真面目な少年 北条実時」のこと、多摩の講座を終えてなど

Photo

1月23日
タウンニュース鎌倉版のコラム【鎌倉と源氏物語】第二回「真面目な少年 北条実時」です。「尾州家河内本源氏物語」奥書に名を残す実時が小侍所別当になったのは11歳。契機は父実泰の自害未遂でした。『明月記』にそう記されている謎を書きました。
http://www.townnews.co.jp/0602/2016/01/22/316777.html

小侍所別当は幕府を代表して将軍に仕える重職。それを11歳の少年に無理との御家人たちの反対を押し切って第三代執権泰時が就任させたのは、実時が真面目で勤勉な少年だったから。父実泰の自害未遂は吾妻鏡ではただの病気。それを定家が『明月記』に詳述した謎は『源氏物語』を介すと理解できます。

『源氏物語』は文学としての価値はもちろんですが、『源氏物語』を通すと今まで政治史等の表舞台では語られてこなかったゆたかな人脈が浮かび上がります。『源氏物語』繋がりで、当時のそういう方々の交流を浮かび上がらせていきたく思っています。私的に、ワクワクする世界が見えています。

1月24日
今日は満月と気がついたら満願の語が浮かびました。そういうちょっとしたことがありました。鎌倉の源氏物語のことで。これから鎌倉の源氏物語は私個人の場を離れて大きく展開していくのでしょう。嬉しくもあり寂しくもあり? でも満願。それを望んで頑張ってきたのだから。

1月27日
多摩の講座も半分を折り返してあと三回。三月に鎌倉文学散歩を企画しようと思っていて明日皆様にはかる予定。本当は将軍御所や幕府の位置を明確に歩くツアーにしたいけど、それだとただの若宮大路周辺。観光の醍醐味を入れるなら十六夜日記の極楽寺周辺。月影ガ谷の正確な場所を私も知りたいし。

鎌倉文学散歩の企画。扇ガ谷の浄光明寺周辺を歩くのがいいかな。宗尊親王が方違えに赴いた二条教定邸の亀ガ谷・冷泉為相邸跡の浄光明寺・宗尊親王ゆかりの海蔵寺・宗尊親王家臣の後家の新清涼寺…。私はこの一帯を公家の方々の居留区だったのではと疑ってます。新清涼寺から山之内にも抜けられるし。

1月28日
今日は多摩の講座「鎌倉の古典」。前半三回で源氏物語と万葉集を終え、これから十六夜・とはずがたり・徒然草。久しぶりに源氏物語と万葉集を離れたから新鮮。今日が終わったらしばらく籠ります。思いがけず連載のコラムに思考が深まり10回分くらい籠って一気に書いてしまいたくなっています。

車窓のつれづれ。つい先日の厳しい寒さと打って変わっていい日和です。機械を一式持って移動する私には大助かり。今日は鎌倉文学散歩のコースの説明に二条教定をするから、子息の飛鳥井雅有の嵯峨のかよひから始めます。ほんとうに私の講義は恣意的。自由をやらせて頂いてるから楽しいです。

欅並木の青空。すっかり葉が落ちて、冬!

20

講座が終わって。まだ明るい。この前の時(12月)は暗かった。日がのびたんですね。

21

暮れゆく大地@武蔵野。

23

真夜中にたどる『源氏物語大成』。講座で一旦中断になった集中をとりもどすべくの作業。社会とか現実といったものに触れるとやはり深まっていた思念が拡散する。深夜ひとりになってこういう書籍に向かうことで気分を取り戻すことを毎回してきた。源氏物語大成研究篇。堪能してます。

『源氏物語大成』は今までコピーでだったし、書籍では図書館から借りてきたものだったから恐々。でも古書で入手した自分の本だから思い切り黄色のマーカーで線を入れてます。そうしたらどのページもどのページも黄色一色。それくらい全文覚えておきたいようなことばかり。まだ世尊寺家のあたりなのに。

世尊寺家伊行の源氏釈が源氏物語の最古の注釈書だそうですが、大成によると「伊行は、今から八百年のむかしにおいて物語研究の端を開き、伊勢物語及び源氏物語の研究に着手した」。建礼門院右京大夫は伊行の娘だから、「右京大夫が幼い時からこの物語に親しんでゐたことは想像に難くない」。

俊成卿の本は行成の本を書写したもので、それを光行が借りて校合に使い、そこで生じた不審を親行に質問に行かせたエピソードが原中最秘抄にあるけど、大成によると、光行と親行自身、行成本を見ているらしい。まだ世尊寺家のあたりなのにこうして光行親行が出てくるから読み飛ばせないでいます。

講座の受講生さんたちの中には史学出身の方、国文学出身の方や、郷土史家の方がいらして、そういう方々に写大出身の私がお話するのもなんだかなあと危うさを覚えるのですが、違いは私は表現していることだといつも思う。表現は知識と知識を繋げるし、梗概をまとめるあいだに全貌が見えてきます。

1月29日
降雪予報の冬枯れの公園@武蔵野。私も雪に備えて緑化センターまで野菜の買い出しに行ってきた帰りです。(フォトエディターで画像を少しいじりました)

25

安堵と共に感涙。連載のタウンニュースコラムのこと。金沢文庫創設者の実時を書いたので、金沢文庫関係者の方にどう思われるかしらと心配していました。今そのお一人から分厚いご封書。どきどきしながら開けたら連載を「史実に即した味わい深い読み物として気に入っている。併せてお願い。どうぞ実時で一冊まとめて下さい」と。

|

2016.2.4 ツイッターから転載…与謝野晶子も訪ねたという金澤園という料亭での講演を聴きました。

1月21日
こんな早い出発はラッシュを避けて。早めに着いたらカメラ散策をしようかと。久々の遠出です。(カメラはスマホだけど…)

5

朝陽を浴びてかがやく白い雲のなかで、離陸した飛行機と着陸態勢に入ろうとする飛行機がすれ違って見えました。

地図を見たら、金沢文庫駅から金沢文庫に向かうバスの通りを、金沢文庫で降りないでそのまま行くと、金沢八景駅。そういう関係だったのかと納得。今更だけど。ちなみに、金沢八景駅の先は平潟湾。海です!

懐かしいから降りてのんびりうろうろしてて、はっと気づいてバス停に行ったら、案の定発車したばかりのバスが角を曲がって見えなくなりました。二十分以上待ちでまた改札に戻って休憩。

寺前の八幡神社。バスの車窓から。

Photo

称名寺入口の赤門。バスの車窓から。

7

タウンニュース鎌倉版のコラム。第二回が掲載されたようです。テーマは「真面目な少年 北条実時」。その実時創建の称名寺の近くに来ています。偶然に。

今日は称名寺から少し先の金澤園という料亭でご講演があり拝聴してきました。料亭の100周年記念で、林原泉先生「与謝野晶子と金澤園」。与謝野晶子は何回かここを訪れて会食をされているそう。称名寺にも行って随筆を書いてられるんですね。

8

金澤園二階。お座敷の脇の広い廊下にも畳が敷かれていました。今は埋め立てられてとてもそんな風情はありませんが、当時眼下がすぐ平潟湾で、会食をしながら海が見えるこの料亭を与謝野晶子がとても好んだそうです。

9

畳敷きの廊下。陽射しの影が素敵でした。金澤園の建物は重要文化財に指定されていて、普段は非公開です。カフェもランチもあるのですが、全部予約制。いつか予約して風流を好む方と宴を張りたいものです。

10

眼下にあったという海。今は見遥かしてもこのとおり、全然見えません。見えると思って期待して二階にあがったのに……

11

◆今日はもう立春。窓から暖かな陽が射しこんでいます。なかなかブログに手が回らなくてまだ一月の分。でも、記録に残しておきたいから頑張ってツイッターの転載ですがまとめています。この与謝野晶子が称名寺を吟行に訪れた話を友人にしたら、「与謝野晶子は尾州家河内本源氏物語に気づかなかったということね」と。そうか、当時文庫では展示をしてなかったから気づくはずもないでしょうけれど、近くまで行ってらしたんですね。そして、その時与謝野晶子が「尾州家河内本源氏物語」を発見していたら、鎌倉の源氏物語の歴史は大いに変わっていたでしょう。私が今こうしていることもしないで済んで。不思議な円環です。

|

2016.2.1 ツイッターから転載…古書で『源氏物語大成』を入手して!

1月20日
昨日、古書で『源氏物語大成』が届いて、こういう本が自分のものになるなんてと、しみじみ頁を繰って堪能しました。十年前にこういう入手の仕方を知っていたら図書館にコピーしに通わなくて済んだのに。コピーには当時の四苦八苦ぶりのマーカーの線がびっしり。本で読み返してみます。

鎌倉の源氏物語と、鎌倉の万葉集。古書で得た本たち。こういうご本が我が家にあることの奇跡。大切にします。

1

そういえば、大切な古書で思い出しました。夢窓疎石を書いていた時に得たご本。高幡不動尊の参道にある古書店で偶然みつけて。

2

『源氏物語大成』図録篇。凄いです!この厚さの全ページがこのよう。源氏物語を読むにあたって必要なイメージ資料が網羅されています。源氏物語絵巻はもとより枕草子絵巻、年中行事、春日権現、信貴山、伴大納言。山水屏風、普賢菩薩像…。

3

今まで必要に応じて図書館でコピーしてたから図録篇の存在に気がつきませんでした。古書にあったので一緒に購入。頁を開いて圧倒されました。ちなみに研究篇はほぼ写本の歴史。私がコピーでもって活用させて頂いたのがこの巻です。資料篇には奥入や弘安源氏論議、原中最秘抄などが収められています。

◆もう二月なんですね。あっという間の一月でした。いろんなことがあって自分で自分が何をしていたかわからないくらい。昨日、そういえば箇条書きの記録代わりにつけている十年日記をつけてなかったと思い出し、開いたら、十二月の途中からもうつけ忘れてました。一月はまるまる。それを書き込んでいたら、こんなにこんなことをしてたんだ~、となりました。私的にいろいろあっても重要なのはまず原稿。小さな文章ですが、一月に入って、「タウンニュース鎌倉版コラム」を第二回から第四回までと、「比企万葉幻想つれづれ」と、「松下禅尼と『源氏物語』」を書いて送り、そのあいだにタウンニュース第二回が1月22日号に載りました。

|

« January 2016 | Main | March 2016 »