3月13日
タウンニュース鎌倉版連載コラム第四回の写真を送ったのですが、いつまで続くかわからない連載。今はいいけど写真が尽きてしまわないか心配になってきました(笑)。特に京都はもっと上手く立ちまわって撮っておけばよかったと後悔。第四回から舞台が京都に移ります。
クリスマスローズの花が満開。なのに庭に出て切ってきて飾る余裕がありません(泣)

3月14日
実時の自筆問題。最初は一目で同じと思い、二つを並べて誰に見せても同じと言い、でもその道に通の方が違うと言うのよと告げると誰もが首を傾げ、でも最近別の通の方からも一目で違うとわかるよと。そして今日、久々にそれを出して眺めたら一瞬にして違うと感じた。私の中で何かが変わってきています。
心の目が開かれるってこういうことかなと少し思う…
叡尊『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記』。先年奈良西大寺に行った時に購入。表紙の坐像が今回国宝に。北条実時は戒律厳しい真言律宗の高僧叡尊を奈良から迎え、その鎌倉での滞在先が先日鎌倉文学散歩で訪ねた新清涼寺です。

叡尊の鎌倉下向は随行してきた弟子の『関東往還記』(訳注 細川涼一)が詳細な記録になっていますが、こちらは叡尊ご自身による記録なので両方併せ読むと立体的に事情が浮かび上がります。今回の国宝指定ははからずも称名寺聖教と併せて二件とも実時に関わっているので不思議な感動を覚えています。
メモ: 『紫明抄』を著した素寂の兄、源親行は河内本源氏物語を校訂し、また源氏物語全帖にわたる注釈書『水原抄』も作成した…。「『紫明抄』の注釈の四分の三は『水原抄』を踏襲していると見ることができる」(寺本直彦)。→そして『異本紫明抄』との関係は…岩坪健氏「『紫明抄』の成立過程」より
素寂は、『水原抄』を作成した兄の源親行とその子孫に対抗して『紫明抄』を編纂したが、初撰本『紫明抄』に『異本紫明抄』を追加して成立した再撰本でさえ、まだ『水原抄』に匹敵するとは言えない。そこで今度も他書から補って三撰本を作ろうとし…、『水原抄』を取り入れたのではなかろうか。
岩坪健氏「河内本源氏物語の系統」より: 二条家の河内本重視説の根拠はすべて疑わしい…では当家がどの系統を重んじたかが窺われる例を。それは二条為世門の和歌四天王の一人に数えられた吉田兼好が、青表紙本を書写したという記事で、書陵部蔵源氏物語の桐壺巻奥書に見られる。
都立図書館でコピーしてきた一連のご考察ですが拝読し切れてないけど岩坪健氏を終えたところで一旦離れ、いよいよ徒然草にかかります。いよいよと、ほんとうにそんな心境。もしかしたら実時の奥書問題にまで関わってくるかもと、そんな期待。真剣に取り組みます。
先の岩坪健氏のご論考では吉田兼好とありますが、その後吉田説は否定されたんですよね。私の徒然草はそこから始まります。でも、どうなるか…。結論は見えてません。
タウンニュース鎌倉版第四回用の写真。三枚送ったのですが、どれに決まるか楽しみにしていました。自分では気に入ってるけど夕景だから脚下・・・とかいろいろ考えると迷って、そういう理由で却下した最初の一枚が適ったよう。面白いですね、理で却下しても感覚で選ばれる・・・
「上東門院の信仰の回、ドラマチックでひとつの山場ともいえると思うのでぜひ」。私がこの回は難しいから使わなくてもいいですよと申し出ていたことに対してのお返事。一般読者さんにわかる内容でと始めたコラム。私が危惧しても記者さんには山場と。判断は私にはできないから一切お任せです。
3月15日
ちょうど12時。今日はさわやかに青空が広がっています。
夜の北鎌倉駅ホーム。誰もいなくてちょっと恐い。そしてかなり寒いです。

3月16日
遅れて、白いクリスマスローズも咲きはじめました。
月齢君・ぴったり
@sekki_getsurei3
ただいま《上弦》です《現在の月齢 6.63》(at 02:03)
↑昨夜は鎌倉で上弦の月を見たんだなあ・・・と。
昨日は鎌倉さくらの会の集いでした。拝聴したお話を少しツイート。鎌倉の桜「桐ヶ谷」を一本新たに鶴岡八幡宮に植えました。場所は牡丹園の入口のところだそう。他に鎌倉宮に「舞姫」を。こちらは一本とかでなさそうで、鎌倉宮が桜で包まれるかも。護良親王も喜ばれるでしょうか。
建長寺様では今山門の前に「おかめ桜」が満開。しばらくしたら染井吉野が咲き、絶好の鎌倉の絵になるスポットに。唐門の前にある枝垂桜は仙台紅八重枝垂桜で、植樹しても中々根付かず他へ移植しようと思い始めたら見事に開花したそう。半僧坊広場には何百本の桜を植えたので今年あたりからお花見も。
富岡幸一郎氏の講演を伺ったのですが、鎌倉文士の中でも小林秀雄はとりわけ桜を愛した人。特に還暦を過ぎてからは異常といえるほどの執着。全国の桜情報を集めて訪ね回ったそう。昭和37年に高遠の血染めの桜を。その後三春の滝桜を数回も、など。この後から本居宣長を始め、宣長も桜を愛した人と。
昨日は、敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花、の歌が何回も出てきました。先程華麗な桜情報を何件もツイートしましたが、鎌倉の桜といえば山桜、とはどなたと話しても一致するご意見です。
鎌倉湖畔の山桜が咲く風情は素敵です。2012年の撮影です。

たそがれ時の水仙@玉川上水

3月17日
鎌倉に行ったら何をおいても小林秀雄邸をというのが夢だったのに、人に訊ねるのが苦手な私は訊いてしまえば一瞬にして解決するのにまだ辿り着いてなかった処、富岡幸一郎氏のお話でそれは大佛次郎邸の隣でもう取り壊されたと。道理で探し当てられなかったと納得。何回もそこは歩いています。
小林秀雄邸は最初山の上にあったと聞いて、山ってどこだろうと思ってたら建長寺のそばだったとかで、北鎌倉は山なんですね。登るのが大変になって大佛次郎邸近くに降りて来られて晩年を過ごされたそう。桜を愛した小林秀雄は庭に枝垂桜を植えてらしたけど、取り壊した時にどこかに移植されたそうです。
10年日記2年目。忙しかったので付けてなくて振り返ってたら去年の2月28日にこんな記事…『比企の遺児ー仙覚と竹御所』思い浮かぶ。仙覚の心に通底する竹御所への思いと感謝。万葉集は彼女に捧げる至高の愛。それを一人称の回顧で書く。
RT 『万葉集の恋と語りの文芸史』。まさかのタイムリーに万葉集の恋の概念。東アジア文学圏では特殊と。これを仙覚の竹御所への思いに昇華させられないかしら…
10年日記、昨日までの分終了。これは文学に特化して書き残してるから、先程の記事のようなのを思い出すのにいいと改めて思う。先日鎌倉で編集者だった方とお話していて、その方は私の講演で竹御所にインパクトを受け小説にと勧めて下さっていて、また勧められたばかり。揺れ動いています。
気がついたらもう四月。いつも三月末は「三月尽」という言葉が浮かんでそれを記すのだけれど、今年はその余裕もなく過ごしてしまいました。「三月尽」は金沢文庫資料のなかの乗一という僧侶が書いた、たしか『図像抄』という書籍に載っていた乗一の奥書で知った言葉。乗一は図像抄を書写しながらある年の春を過ごすのですが、称名寺のどこか一室で(なんとなく廊下とか回廊とかのイメージだったけど)、早春から花の盛りの時期を眺めていて、三月が終わる時「三月尽」という言葉を季節の風景とともに感慨をもって記したのでした。