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2016.4.13 ツイッターから転載…タウンニュース鎌倉版コラム第五回【国母の先輩 上東門院と松下禅尼】が掲載されました。

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4月8日
タウンニュース鎌倉版コラム第五回【国母の先輩 上東門院と松下禅尼】が掲載されました。新婚時代を、夫時氏の六波羅探題就任で京都で過ごした松下禅尼が、『源氏物語』に触れて上東門院を敬愛したという素敵なお話です。是非お読み頂きたいです。

写真の「六波羅蜜寺の扁額」は2011年の撮影。この写真の掲載許可を六波羅蜜寺様にお願いしていました。この時はまだ歴史認識も浅く、六波羅探題に興味がなかったので、境内に六波羅探題の碑がある事をしらず、撮っていません。まさか、六波羅探題がこんなに関心事になるなんて・・・

松下禅尼と『源氏物語』のことは、「北条時頼と源氏物語」を書いている途中、高橋慎一朗先生の人物叢書『北条時頼』のこの記述に接して、そこから始まりました。「えっ、なぜ上東門院を?」となって図書館に走りました。無住『雑談集』を借りに。

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今日頂いてきた青い薔薇。これでまた一つ用が終わったから少し時間をとって今後なすべき事を考えようかと。今日の用が鎌倉とかけ離れた世界だったから気分を取り戻すのが大変。私はもうこれから書き上げるまでこうなのかも。

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現実との乖離、とか……

4月9日
今朝の青い薔薇。自然にはこんな薔薇は存在しないとわかっていても、青い薔薇が好きです!

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4月10日
青い空間があることの不思議。今朝の青い薔薇です。

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2016.4.11 ツイッターから転載…『歴史研究』第640号(2016年4月号)「女たちの鎌倉幕府」特集号に「松下禅尼と『源氏物語』」を寄稿しました。

3月29日
『歴史研究』第640号(2016年4月号)「女たちの鎌倉幕府」特集号に、「松下禅尼と『源氏物語』」を寄稿しました。昨日30冊を送って頂きましたので、これからいろいろな方にお送りさせて頂きます。松下禅尼の新しい顔は知られていなかっただけで事実なので皆様に知って頂きたいと思います。

3月30日
井の頭公園の桜。染井吉野はまだどこも蕾が多い状態で、ここが一番華やかでした。

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岸辺にいた鴨が水に飛び込んで水輪が広がり、花びらの波紋ができました。

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この写真を撮りたくて出かけました。朝日ににおう山桜花…

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3月31日
昨日ひとつ締切を片づけ今またひとつ資料を送って手が離れた。4月に慈光寺に桜を見に行くバスツアーがあり、それに添乗して「慈光寺経」について案内させて頂くその資料。いろいろあってひとつずつ片づけていたら気になりながら今日になってしまった。でもこれで来週の吾妻鏡の準備にかかれます。

4月1日
醍醐の桜?@三鷹市

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「松下禅尼と『源氏物語』」を寄稿した『歴史研究』女たちの鎌倉幕府特集号。著者分として頂いた30冊から20冊を多摩の講座の受講生さんに発送し終わりやっと用が済みました。とはいうものの吾妻鏡を読む会の準備の方が大変ははずなのに、好きなことだと楽しみだから待たれます。深まりたいなあと。

4月3日
吾妻鏡の発表担当準備で、頼朝が後白河院に送った書状中に「六条若宮は御所の近く」とあり私的に俄然着目。六条西洞院殿をTLで教えて頂いた「院政・源平京都めぐり地図」を出して確認。この御所は頼朝も再建に一役買っているし上洛した折にはここで謁見。今まで読んでいた記事がリアルになりました。

よくTLで長講堂の記事を載せて下さっていてもピンときていなかったのですが、この六条西洞院殿にあった持仏堂が秀吉の政策で現在地に移転したものということらしい・・・。と、このあたりまでやっと解釈しました。(六条若宮も秀吉の政策で現在地に移転させられてますものね。一緒?とか・・・)

六条若宮は建久二年に源光行が「若宮社歌合」を勧進した所。それを久保田淳先生は「頼朝と和歌」で、光行が六条若宮に信仰篤い頼朝に捧げるためとされた。おそらく前年暮れに頼朝が上洛した際光行が会って鎌倉下向が決まり、それで勧進したのでしょう。と、そんなことで六条若宮は私的に熱い所です。

と、なんか、『吾妻鏡』発表の条をずれて完璧に光行さんワールドに入ってしまっています。「若宮社歌合」の直後くらいに光行は鎌倉に下向しています。そして、鎌倉の源氏物語の舞台へと・・・(笑)

4月4日
欅が芽吹いてすずやか。吾妻鏡の担当も無事に終わりいよいよこれからほんとうにしなければならない仕事にかかるのだけど、何をほんとうにしなければならないのか、それを考えることから。源氏物語?万葉集?。論文?小説?。とりあえず実時の奥書?

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お配りしたレジュメ。頼朝の言葉に「六条若宮は御所の近隣」とあり、六条若宮といえば光行さんが勧進した「若宮社歌合」。その近隣の御所って?と調べたら、なんとこここそが後白河院の院政の拠点。上洛した頼朝が謁見したのもこの御所でした。

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赤い丸が当時の六条若宮社と六条殿。豊臣秀吉の都市改造でどちらも移転させられて、現在私たちが訪ねられるのは移転後の若宮と御所なのでした。それを緑の丸に。若宮社はもっと東です。私もそうだけど、お仲間の方も、じゃあ、私が行ったのは新しい方だわ、などと。

多摩の講座の方々をお相手に企画した鎌倉文学散歩。吾妻鏡の会の方もお誘いしたら参加して下さる方が何人か。この会はもう歴史の強者揃いの方々で、こんな初歩的な企画など目にくれないと思ってたら皆様にこにことご関心。文学でお声かけするとひ弱だなあと思う方が多いけど歴史の方はタフでいられる。

4月5日
珍しくなんにもしないなんにも見ないで寝て、だからこんな時間にさわやかに起きてツイッターを開いたら、美しい短編という言葉に出会い、モデラートカンタービレ、読もうかな、などと。デュラスに嵌ったのは小説のカルチャーの講師の方が仏文の教授だったから。美しい短編を読むのは今の私にいいかも。

4月6日
タウンニュース鎌倉版コラム第六回の掲載写真について記者さんにメールしたら夢に見て、その返信に困惑する夢。第五回の時も掲載許可を申し出た京都の寺院から何々なら許可するみたいな夢を見て目が覚めた。内容で夢を見ることはないのに写真だとこんなに。写真へのこだわりがこんなにとはと意外。

メールを開いたら記者さんから返信があって、迷いますね、もしお手間でなければ○○がベターかと思います、という事でその方向で手配する事に。どちらがいいですか?という二者択一をお願いしてました。

そして、第五回は今週金曜の8日の掲載予定だそう。今まで第三週目の金曜日だったから、今月もそうと思ってたのに、なんか校正が早く届いて、結構記者さんの熱意に煽られてます(笑)。幸せというのでしょうね、こういう作家冥利につきる状況。第五回が1つの山場と考えてられるようです。私もですが。

第四回の掲載誌面もまだブログにアップしてないのに……

タウンニュース鎌倉版コラム第四回【ファーストレディ松下禅尼】誌面をブログにupしました。 『徒然草』の障子を張るエピソードで質素堅実のイメージが定着した松下禅尼ですが、新婚時代は六波羅探題北方の妻として華麗な公家文化を体験しています。

4月7日
なんとなく三島由紀夫『豊饒の海』の聡子が浮かんで消えないのは鎌倉文学散歩のコースに鎌倉文学館を入れたからだけれど、最近聡子の最後の心境がわかる気がしているのはやはり経験をたくさん積んだからでしょう。それにしても人の人生の根底に巣食うようなこんな場面を生み出すなんてと今更に感嘆。

朝の聡子の件。いずれ松下禅尼か竹御所の小説を書こうと思っているのだけど、妖艶さでは竹御所に惹かれていました。けれど、松下禅尼なら聡子のようなエンディングがてきると、ちょっと心が動いてます。とりあえずだけど…

とりあえずだけれど、昨日の美しい短編でデュラスのアンデスマ氏の午後を思い出し、松下禅尼なら書けると思ったのでした。人生を重ねた主人公だといろいろアプローチできますね。でもとにかくいずれ。今年は論文。夏の大会に研究発表するなら今月が締切だしと悩んでいます。今年終わらせれば楽だけど。

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2016.4.7 タウンニュース鎌倉版コラム第四回【ファーストレディ松下禅尼】が掲載されました。

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3月25日
タウンニュース鎌倉版コラム第四回【ファーストレデイ松下禅尼】が掲載されました。『徒然草』の障子を張るエピソードで質素堅実なイメージが定着した松下禅尼ですが、新婚時代は夫時氏の六波羅探題北方の妻。京都の華麗な文化の体験者です。
http://www.townnews.co.jp/0602/2016/03/25/325977.html

仙川は菜の花でいっぱい@三鷹市

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コブシと思ったら桜でした。

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風が収まるのを待って。

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ムスカリ、大好きです。家にも植えてあるのですが、これは公園でオオイヌノフグリに混じって咲いています。

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3月26日
図書館のクロッカス、今日はシマシマ。『徒然草』関連の資料を返しに来ました。

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タウンニュース鎌倉版のコラム第五回用写真の掲載許可をある寺院に申請中で、そのためか仮寝した夢の中で「寺院についての説明がもっとあれば許可する」みたいなことを言われ、起きたら原稿の書き直しにかかってしまいました。原稿にインパクトがないと悩んでいた時だから啓示を頂いたような気分です。

3月28日
京都の某寺院様に問合せさせて頂いていた写真掲載許可の件、お電話を頂戴して許可を頂きました。ほっとしました。嬉しいです。タウンニュース鎌倉版コラムの4月号用です。その時にまたお知らせさせて頂きます。

ほんのり夕陽に染まっています。井の頭公園の桜。

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日暮れ時の木蓮。

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秋に金沢文庫で忍性展が開かれるらしいので、その頃多摩の講座の方々をお誘いして鎌倉文学散歩第三弾を計画しようかななどと思案しています。「今度、いつもお話されている金沢文庫にも連れていって下さい」と、最終回の帰り際に声をかけられていたので、6月にでもと思っていたのですが。

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2016.4.7 ツイッターから転載…多摩の講座【TAMA市民塾 鎌倉の万葉集と源氏物語】の最終回のこと。『徒然草』でした。

3月20日
タウンニュース鎌倉版のコラム第四回の初校が届いて校正にかかっているのですが、冒頭早々『徒然草』が出て苦笑。松下禅尼を書いた回なので障子を張るエピソードから始めたのでした。兼好を卜部兼好と書くべきか、兼好法師とするべきか、ただ兼好だけでいいのか思案。ただ吉田兼好でないことは確か。

庭に出たら咲いていました。ほとんど最後の一輪。盛りの時期を楽しむ余裕なかったなあと。

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3月21日
井の頭公園の桜。もう咲いていました。毎年最初の一輪を撮る木ですが、今年は池の工事中で近くへ寄れないでいるうちに。

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柳の芽吹き。すずやかです。

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タウンニュース鎌倉版コラムの第四回。校正を送るついでに兼好の最新事情をお伝えしたら記者さんが面白がられていつかコラムに載せられるといいですねと。鎌倉滅亡まで連載が続けばできるからそれを祈って(笑)。多摩の講座の仕度が終わってもいないのに仙覚の取材への期待がもう脳裡にちらほらです。

コラムを切り取って保存しているというお話を何件か聞いています。私もスクラップするのが好きだったし、昔の荷物を開ければまだそれはあると思うけど、ネット社会のこんな時代に「紙面を切り取って保存」はなんかアナログ感覚で私らしくていいなと素直に喜んでいます。

3月22日
今年はミニアイリスに合わせてチューリップもミニにしたら、ほんとうにミニ。可愛いのですが、あまりにミニ過ぎて家族に笑われてます。

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4月に予定している鎌倉古典文学散歩【十六夜日記・とはずがたり篇】。コースが決まりました。極楽寺駅~月影ヶ谷~極楽寺~成就院~甘縄神社(安達盛長邸跡)~鎌倉文学館。約二時間半。鎌倉文学館では特別展「萩原朔太郎展」の開催中。古典ではないけどここは三島由紀夫『春の雪』の舞台です。

私が企画する散歩は無理のないよう!が一番だから二時間前後と短いです。早めのお昼を食べて11時集合。1時半には解散。そうしたら、前回、皆様その後の計画をしっかりたててらして、解散後楽しそうに小町通りに散っていかれました。そうか、後が長いとそういうふうに利用できるんだ~と(笑)

3月23日
原稿を書かせて頂くことになりそのお電話。テーマはやはり私の場合は鎌倉の源氏物語でしょうと。その流れで実時の自筆問題になり面白いと。ただその方は自筆でしょうねと。私もそうだったのだけど見慣れてきたら別人に見えてきたからもっと精緻に調べますと申し上げたら、原稿の最後はそれですねと。

国文学者さんでも歴史学者さんでも曖昧な自筆問題。その方が古文書学の世界ですねと仰り成程と思いました。写真ではそっくりにしか見えないから本物に当たりなさいとアドバイスを受けたばかり。それをこの原稿に生かせるならちょうどいい機会かも。結論は出なくても今後の課題にと提起すればいいと。

多摩の講座の準備中。第二回鎌倉文学散歩【十六夜日記・とはずがたり篇】解説のためのスライドです。

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『徒然草』のスライド。お気に入りの一枚ができました。兼好が河内学派の源氏物語注釈を読んでいたことがわかる章。第239段です。

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 『徒然草』の松下禅尼の障子張りの段のスライド。第184段です。障子張りは日中の作業ですが、ここはイメージで好きな写真を使いました。

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多摩の講座のパワポ制作終了。早く終わってほっと。終わったことでこんなに気が楽になるなんて。今回は一から作らなければならなかったので間に合うか気持ちのどこかで緊張していたようです。『徒然草』の新説兼好論を経て私説として兼好が「尾州家河内本源氏物語」を読んでいたスライドを入れました。

窓を開けて満月を見る余裕もなかったけれど、兼好のスライドで婁宿ということを知ったし、朝、歴史学の原稿20枚のお仕事も頂いたし、私的には満月は気持ちのなかにしっかり収まりました。そういえば、多摩の講座も最終回だからパワポが終わったことも満願……

3月24日
今日の欅。一ヶ月たってるのだからさぞ新緑の芽吹きとまではいかなくても気配が、と思ったのに、曇天だったせいか真冬の光景に逆戻りでした。最終回なのに。

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講座終わって帰りです。最後なのだけど来月また鎌倉文学散歩をするから、じゃまた鎌倉で!と和気あいあいのお別れ。皆様鎌倉に馴染んで下さいました。といっても別に私は鎌倉の回し者ではないけれど。

最終回に思わぬアクシデント。順調に話を進めてたら突然パワポが終了。え?となって表示で全画面を見たらそれ以降が無い!予備に持って行ったUSBを出して取り込んでもやはりその画面で終了。仕方ないのでそれ以降はお話だけで進めましたが、今調べたらUSBのには最後までありました。謎・・・

実は途中で切れたパワポは兼好の小川剛生氏新説への開始場面。それまで『徒然草』の中の『源氏物語』風の段や鎌倉に関わる段をスライド化してたのを、そこから研究史になる処。作っている時は林瑞栄氏『兼好発掘』に触れられなかったのに、パワポ抜きでお話したら俄然調子に乗って林説への風当たりへの

裏話に熱が入ってしまって皆様興味津津に聞いて下さいました。パワポは視覚に訴えるからお伝えしやすいと思って使っていたのですが、結構無いほうが真摯にお伝えできるかも。熱の入り方が違うのを実感。途中でそれ以降の画面が消えてしまったのは林瑞栄説を話しなさいという天の計らいかもしれません。

追記:終わったあと、学会にも行かれてるくらいな熱心な受講生さんが「金沢文庫に行くとよく『徒然草』関連の展示があるのが不思議だった。今日のお話でわかりました」と。私も自分が最初に感じた「不思議」を解き明かしての今だから、皆様の「不思議」の在り処がよくわかってお話しています。

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2016.4.2 ツイッターより転載…多摩の講座の準備にかかりました。『徒然草』です。兼好についての新説を絡めて考察します。

3月18日
紫のクロッカス

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多摩の講座の準備に徒然草に入りました。今回調べるにあたり知りたかったのは小川剛生氏の新説出現で従来徹底的に退けられていた林瑞栄氏のご論への対応。林瑞栄氏は貞顕右筆の倉栖兼雄を兼好の兄とされたけど、吉田家系図の兼雄は京都の人だからあり得ないと反論されていた。小川氏説の吉田系図が偽造

となった今、林瑞栄説が俄然信憑性を帯びて浮かびあがってくる。文庫の徒然草展の古い図録には「自説を強引に展開」や「想像力豊かな物語として読むことができる」のような文言で括られている。学説がいろいろあってもこんなに敬意を書いたあからさまな揶揄はないだろうと以前から私は憤っていました。

昨夜は小川剛生氏角川ソフィア文庫『徒然草』の補注に目を通しました。小川氏は兼雄が兄説は林瑞栄氏の名前は出さずにさらっと否定されてます。でも林氏の主眼は兄問題でなく金沢文庫資料の「うらへかねやす」が兼好か否か。それについてどなたか新たに林瑞栄説を検証して下さらないでしょうか。

それにしても兼好の源氏物語への傾倒。これは思ったより深く冒頭の「硯にむかひて」にしてすでに源氏物語の手習巻が源泉という。先日兼好が青表紙本を書写したとツイートしましたがそれは『徒然草』完成後のことで、兼好は執筆を開始するより前にすでに源氏物語に馴染んでいたんですね。当然河内本も。

3月19日
林瑞栄氏『兼好発掘』。古書で購入しわくわくして拝読しました。当時云われていた兼好の出自ではご論に無理がありましたが(だから強引に自説を等といわれ…)、小川剛生氏の新説で可能になったのでは?

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淡いオレンジに染まった雲に半月を過ぎた月。

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春爛漫@吉祥寺アトレB1 見事でした。生花です。

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五味文彦氏『徒然草の歴史学』より: ここで参考になるのは、兼好を鎌倉に誘ったと見られる金沢氏の文庫に残された文書『金沢文庫文書』であり、林瑞栄氏はこの文書を駆使して『兼好発掘』を著され、重要な問題提起を行っている。結論的には、それに従えない部分は多いものの、その努力については傾聴

に値するものがあり、おおいに参考にさせていただいた。←このあと五味氏は『兼好発掘』の重要な部分を詳細に紹介されてます。小川剛生氏の新説で五味氏が「従えない部分は多いものの」とされたことも翻るかもしれないと、私は関心を持っています。

五味文彦氏『徒然草の歴史学』より: (林瑞栄氏の)分析によって、延慶元年十月以前に兼好が鎌倉に滞在していたことや、金沢貞顕との関係が深かったことも疑いなくなった。←初めて金沢文庫を訪ねた時に兼好自筆の文書が展示されているのを見て不思議だったのが、知るとこんなに関係深かったなんて!

五味文彦氏『徒然草の歴史学』より: こうして兼好は東国にやって来て滞在していたが、鎌倉とは少し距離をおいて金沢に住み、金沢氏が集めた多くの書籍を読んだものらしい。(中略)十三段は「ひとり、灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とする、こよなう慰むわざなり」として、『文選』

『白氏文集』『老子』などの様々な書物をあげているが、その書物の多くも金沢文庫に見える。そこですべてを読んだというわけではなかろうが、少なからぬ部分を吸収したことであろう。←私はこの時兼好が『尾州家河内本源氏物語』をも読んだであろうと考えています!この写本は鎌倉滅亡時に金沢文庫に

あり、鎌倉滅亡と共に持ち出されて足利将軍家の所有となったのですから。鎌倉滅亡時の金沢文庫当主が貞顕です。当然兼好滞在時に尾州家本はあったでしょう。多摩の講座「鎌倉の徒然草」ではこの尾州家本と兼好についてまでをまとめてお話する予定です。

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2016.4.1 ツイッターから転載…新指定の国宝に北条実時関連が二件も、称名寺聖教一式と奈良西大寺の叡尊座像。そして、鎌倉さくらの会に行って小林秀雄がとりわけ桜を愛した話など拝聴したことなど。

3月13日
タウンニュース鎌倉版連載コラム第四回の写真を送ったのですが、いつまで続くかわからない連載。今はいいけど写真が尽きてしまわないか心配になってきました(笑)。特に京都はもっと上手く立ちまわって撮っておけばよかったと後悔。第四回から舞台が京都に移ります。

クリスマスローズの花が満開。なのに庭に出て切ってきて飾る余裕がありません(泣)

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3月14日
実時の自筆問題。最初は一目で同じと思い、二つを並べて誰に見せても同じと言い、でもその道に通の方が違うと言うのよと告げると誰もが首を傾げ、でも最近別の通の方からも一目で違うとわかるよと。そして今日、久々にそれを出して眺めたら一瞬にして違うと感じた。私の中で何かが変わってきています。

心の目が開かれるってこういうことかなと少し思う…

叡尊『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記』。先年奈良西大寺に行った時に購入。表紙の坐像が今回国宝に。北条実時は戒律厳しい真言律宗の高僧叡尊を奈良から迎え、その鎌倉での滞在先が先日鎌倉文学散歩で訪ねた新清涼寺です。

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叡尊の鎌倉下向は随行してきた弟子の『関東往還記』(訳注 細川涼一)が詳細な記録になっていますが、こちらは叡尊ご自身による記録なので両方併せ読むと立体的に事情が浮かび上がります。今回の国宝指定ははからずも称名寺聖教と併せて二件とも実時に関わっているので不思議な感動を覚えています。

メモ: 『紫明抄』を著した素寂の兄、源親行は河内本源氏物語を校訂し、また源氏物語全帖にわたる注釈書『水原抄』も作成した…。「『紫明抄』の注釈の四分の三は『水原抄』を踏襲していると見ることができる」(寺本直彦)。→そして『異本紫明抄』との関係は…岩坪健氏「『紫明抄』の成立過程」より

素寂は、『水原抄』を作成した兄の源親行とその子孫に対抗して『紫明抄』を編纂したが、初撰本『紫明抄』に『異本紫明抄』を追加して成立した再撰本でさえ、まだ『水原抄』に匹敵するとは言えない。そこで今度も他書から補って三撰本を作ろうとし…、『水原抄』を取り入れたのではなかろうか。

岩坪健氏「河内本源氏物語の系統」より: 二条家の河内本重視説の根拠はすべて疑わしい…では当家がどの系統を重んじたかが窺われる例を。それは二条為世門の和歌四天王の一人に数えられた吉田兼好が、青表紙本を書写したという記事で、書陵部蔵源氏物語の桐壺巻奥書に見られる。

都立図書館でコピーしてきた一連のご考察ですが拝読し切れてないけど岩坪健氏を終えたところで一旦離れ、いよいよ徒然草にかかります。いよいよと、ほんとうにそんな心境。もしかしたら実時の奥書問題にまで関わってくるかもと、そんな期待。真剣に取り組みます。

先の岩坪健氏のご論考では吉田兼好とありますが、その後吉田説は否定されたんですよね。私の徒然草はそこから始まります。でも、どうなるか…。結論は見えてません。

タウンニュース鎌倉版第四回用の写真。三枚送ったのですが、どれに決まるか楽しみにしていました。自分では気に入ってるけど夕景だから脚下・・・とかいろいろ考えると迷って、そういう理由で却下した最初の一枚が適ったよう。面白いですね、理で却下しても感覚で選ばれる・・・

「上東門院の信仰の回、ドラマチックでひとつの山場ともいえると思うのでぜひ」。私がこの回は難しいから使わなくてもいいですよと申し出ていたことに対してのお返事。一般読者さんにわかる内容でと始めたコラム。私が危惧しても記者さんには山場と。判断は私にはできないから一切お任せです。

3月15日
ちょうど12時。今日はさわやかに青空が広がっています。

夜の北鎌倉駅ホーム。誰もいなくてちょっと恐い。そしてかなり寒いです。

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3月16日
遅れて、白いクリスマスローズも咲きはじめました。

月齢君・ぴったり
@sekki_getsurei3
ただいま《上弦》です《現在の月齢 6.63》(at 02:03)

↑昨夜は鎌倉で上弦の月を見たんだなあ・・・と。

昨日は鎌倉さくらの会の集いでした。拝聴したお話を少しツイート。鎌倉の桜「桐ヶ谷」を一本新たに鶴岡八幡宮に植えました。場所は牡丹園の入口のところだそう。他に鎌倉宮に「舞姫」を。こちらは一本とかでなさそうで、鎌倉宮が桜で包まれるかも。護良親王も喜ばれるでしょうか。

建長寺様では今山門の前に「おかめ桜」が満開。しばらくしたら染井吉野が咲き、絶好の鎌倉の絵になるスポットに。唐門の前にある枝垂桜は仙台紅八重枝垂桜で、植樹しても中々根付かず他へ移植しようと思い始めたら見事に開花したそう。半僧坊広場には何百本の桜を植えたので今年あたりからお花見も。

富岡幸一郎氏の講演を伺ったのですが、鎌倉文士の中でも小林秀雄はとりわけ桜を愛した人。特に還暦を過ぎてからは異常といえるほどの執着。全国の桜情報を集めて訪ね回ったそう。昭和37年に高遠の血染めの桜を。その後三春の滝桜を数回も、など。この後から本居宣長を始め、宣長も桜を愛した人と。

昨日は、敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花、の歌が何回も出てきました。先程華麗な桜情報を何件もツイートしましたが、鎌倉の桜といえば山桜、とはどなたと話しても一致するご意見です。

鎌倉湖畔の山桜が咲く風情は素敵です。2012年の撮影です。

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たそがれ時の水仙@玉川上水

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3月17日
鎌倉に行ったら何をおいても小林秀雄邸をというのが夢だったのに、人に訊ねるのが苦手な私は訊いてしまえば一瞬にして解決するのにまだ辿り着いてなかった処、富岡幸一郎氏のお話でそれは大佛次郎邸の隣でもう取り壊されたと。道理で探し当てられなかったと納得。何回もそこは歩いています。

小林秀雄邸は最初山の上にあったと聞いて、山ってどこだろうと思ってたら建長寺のそばだったとかで、北鎌倉は山なんですね。登るのが大変になって大佛次郎邸近くに降りて来られて晩年を過ごされたそう。桜を愛した小林秀雄は庭に枝垂桜を植えてらしたけど、取り壊した時にどこかに移植されたそうです。

10年日記2年目。忙しかったので付けてなくて振り返ってたら去年の2月28日にこんな記事…『比企の遺児ー仙覚と竹御所』思い浮かぶ。仙覚の心に通底する竹御所への思いと感謝。万葉集は彼女に捧げる至高の愛。それを一人称の回顧で書く。

RT 『万葉集の恋と語りの文芸史』。まさかのタイムリーに万葉集の恋の概念。東アジア文学圏では特殊と。これを仙覚の竹御所への思いに昇華させられないかしら…

10年日記、昨日までの分終了。これは文学に特化して書き残してるから、先程の記事のようなのを思い出すのにいいと改めて思う。先日鎌倉で編集者だった方とお話していて、その方は私の講演で竹御所にインパクトを受け小説にと勧めて下さっていて、また勧められたばかり。揺れ動いています。

気がついたらもう四月。いつも三月末は「三月尽」という言葉が浮かんでそれを記すのだけれど、今年はその余裕もなく過ごしてしまいました。「三月尽」は金沢文庫資料のなかの乗一という僧侶が書いた、たしか『図像抄』という書籍に載っていた乗一の奥書で知った言葉。乗一は図像抄を書写しながらある年の春を過ごすのですが、称名寺のどこか一室で(なんとなく廊下とか回廊とかのイメージだったけど)、早春から花の盛りの時期を眺めていて、三月が終わる時「三月尽」という言葉を季節の風景とともに感慨をもって記したのでした。

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