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2016.6.29 ツイッターから転載…鎌倉禅研究会7月の特別例会で鈴木大拙没後50年忌。講演と墓参・7月4日1時~、於円覚寺です。

6月26日
鈴木大拙のご命日は7月12日。建長寺鎌倉禅研究会では7月4日に特別例会として円覚寺にて松ケ岡文庫長石井修道先生の講演「鈴木大拙先生の生涯と功績」があります。その前に円覚寺管長横田南嶺老師のご挨拶も。(1時~。予約不要。入山料は各自で)。講演後に墓参とのことです。

今まで鈴木大拙を意識的に避けてきました。でもちょうどいい機会なのでこの際襟を正して拝聴しようと思います。ということで刊行したばかりの岩波文庫・鈴木大拙著『禅堂生活』を購入。解説を円覚寺管長横田南嶺老師が書かれています。漱石の帰源院以来、ここのところなんとなく円覚寺にご縁が…。

鈴木大拙も漱石と同じ円覚寺の塔頭帰源院に参禅しているのですね。漱石の『門』に登場するようです。没後50年で岩波文庫に『禅堂生活』『大乗仏教概論』『浄土系思想論』の三点が岩波文庫に入ることになったそうです。

『門』を読むべきか否か迷っています。全集を出して目を通したけれど読み通す気がせずに百合の一節を発見し満足して閉じました。それを知人に言ったら、まあ、読みたいわと。百合の一節だけコピーして送ろうと思っていたら昨日岩波文庫に復刊されていてそれを送ろうと購入。百合の一節はいいです!

門は漱石が円覚寺塔頭の帰源院に参禅した経験が書かれていて、その帰源院では漱石の会というのがあって100人位は会員がいられるそう。建長寺の集まりで知り合った方からたまたま聞いた話です。石原千秋先生の文芸時評を拝読したら現代は心自体が簡易になっているとか。私は心は複雑と思う。

チケットを頂いたから気のりしないまま行った神奈川近代文学館の漱石展。特にどう感銘を受けた訳でもなくただ『門』の舞台が円覚寺だと知って帰りました。それが今頃になってじわじわと攻めてきている感。必死に防衛にはたらいています。笑

6月27日
もう終わったかと思いつつ見たら一輪。咲き残ってました。泰山木。広尾の図書館に行って仙覚さん関連のコピーをしてきました。多分これで揃ったから後は論をまとめます。

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都立有栖川宮記念公園の池。いつもと違った構図で。

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6月28日
おはようございます。仙覚の事跡でどうしても私が仙覚とする人物とするにはおかしい事が一件あり、先行研究の方が根拠とされる論文を昨日図書館でコピーしてきました。一読して私にはかえって私が思う人物ではない根拠のように思えました。もっとはっきり断定された論文と思っていたので意外でした。

一本の支柱を戴きましたという言葉がふっと浮かんで、そうなんだあ、と納得しました。言葉が浮かんでようやく事態が自分のものになってきます。

いろいろ片付けものをし、気がかりだったことを整理して、ブログも更新し終えて、一本の支柱の件に向かいながら研究発表の配布資料の作成にかかります。

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2016.6.28 ツイッターから転載…かまくら学府「中世の外貿港六浦について」を拝聴した後、再び無量寺谷を訪ねました。

6月21日
鎌倉は薄日がさしてきています。

建長寺の鐘楼。称名寺の阿弥陀堂に引き続き茅葺屋根に惹かれました。西陽で鐘楼がいつもよりくっきり。仏教寺院には西陽がよく合います。

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鎌倉、佐助。このトンネルの向こうが鎌倉駅西口。今日は予定外に明るいうちにフリーになったのではたと思いついて安達氏の菩提寺だった無量寺跡を探し歩いてこの界隈を彷徨いました。(考古の史跡は資料が手にないと道端の人に訊いても無理なので)

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でも彷徨ったお陰で安達氏の菩提寺無量寺が佐助に近いことを認識。ぐるぐる周ってたら佐助に出てしまったのでした。これは収穫。そもそも最初から無量寺を探そうと思ったのではなくなんとなく道を曲がって歩いてたら、ん?、この辺りって無量寺のとこ?となったのです。呼ばれた気がしました。

今日は建長寺様で鎌倉禅研究会。30年、建長寺で発掘調査をされていた方のご報告。興味深く拝聴しました。激しい雨予報の一日だったのに鎌倉に着いたら薄日が差していて、それからみるみる晴れて、休憩時間には廊下にこんな日差しが。綺麗でした。

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6月22日
昨日探しあてられなかった安達氏の菩提寺「無量寺」についてのブログです。地図を見るとそのとおりに歩いていたのですが、ちょっとしたところでずれていたらしいです。また今度挑戦します。
https://kamakura8.blogspot.jp/2014/08/blog-post_74.html

なんと! 昨日の建長寺禅研究会で建長寺の発掘について講演された宮田真先生は、私が現地説明会に行った時に説明をされていた無量寺発掘調査団のまさにその方でした。http://sawarabi.a.la9.jp/kamakuragennsetu/kamakuragennsetu.htm

6月23日
スパティフィラムに蕾が。花言葉は「上品な淑女」「清らかな心」だそうです。

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タウンニュース鎌倉版コラムの第八回校正を送っていよいよプールしていた原稿が尽きました。研究発表に障りのないよう考えて書いたつもりだったのが計算間違い……、というか間に一回はさんだので延びて結果としてこんな。八月までにまた二回分位書かなくては。

6月24日
置きっぱなしの擬宝珠の鉢に花が咲いていました。たしか、去年は咲かなかったような。ひっそりと。娘が妖精がきたみたいと。

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一度やめたFacebookをあることがあって考えているうちに、この際ついでに私も再開しようかという気持ちになり、手続きを確認するためにまた新しくガイド本を買ってきました。タウンニュース鎌倉版の連載コラムが溜まってきたので載せていくページを作ろうかなと。

そのタウンニュース鎌倉版のコラム。第八回では松下禅尼の一家が夫時氏の六波羅探題赴任を終えて鎌倉に戻り、それと同時に時氏が亡くなるところまで進みました。時頼は4歳。ここから時頼の時代へ書き進むか、松下禅尼の家系を遡って頼朝の時代、即ち祖母丹後局を書くか、目下思案中です。

メモ:やっと繫った。小川靖彦氏仙覚書状についてを再再再…読。寛元四年に将軍頼経の命で万葉集を校訂した仙覚。宮騒動で頼経が京へ送還された後仙覚は京へ上り後嵯峨院に万葉集を献上。その後文永二年鎌倉で宗尊親王に万葉集を献上。→と、二人の将軍に関わる仙覚の動向が今迄読めなかったけど、間に実時がいたのだと。今迄実時に関しては文永三年の宗尊親王の更迭の時に西本願寺本万葉集の関係で仙覚と合ったとしか考えてませんでした。でも寛元四年の時点からもう仙覚を知っていたとしたら、後嵯峨院献上後に鎌倉に帰った仙覚を宗尊親王に仲介したのは実時ですね!今迄いったい誰が?が気にかかっていました。これでやっと繋がりました。佐佐木信綱博士によると後嵯峨院に献上した時の仙覚律師奏覧状が金沢文庫にあったそうですが、実時は仙覚からそれを書写させて貰ったのでしょう。謎が解けました。

6月25日
メモ:『鎌倉の万葉学者 仙覚の生涯』。今度書く本はこれ?という気がしてきました。そうしたら研究から離れられるし創作に入れる。深夜の実時との展開を受けての感慨。離れた時間と空間のほんのたまにしかない仙覚の事跡。でも間に別の人の事跡を挟むと見えてくる。実時とこんなに懇意だったなんて。

今日は鎌倉で鎌倉時代の貿易港六浦のお話を拝聴しました。そこには出てきませんでしたが、小川靖彦先生の「仙覚書状」には実時が仙覚に物質的にも援助していた可能性もと。仙覚は古点、古点次点を改めた点、新点を、黒、紺青、朱と墨を使い分けています。その墨は実時が入宋貿易で得たものでは?と。

会場だった鎌倉中央図書館の前は御成小学校。校庭は安達泰盛邸跡とされる今小路西遺跡だった所です。遺跡で出土した柱跡をそのまま残して校舎を建てているそうです。この景色を泰盛や金沢文庫二代当主の顕時らが見ていたんだなあと、ここに来る度に眺めます。顕時は泰盛の娘婿です。

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今日は辿りつきました。鎌倉は扇ケ谷の支谷、無量寺ケ谷。やはり先日の道で合っていたのですが途中で諦めて引き返したのが間違い。ネットで検索してトンネルをくぐるとあったので行かれました。閑静ないい谷戸でした。安達氏の菩提寺があった一帯。

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まもなく我家。最後に一枚鎌倉らしい写真を。

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2016.6.28 ツイッターより転載…金沢文庫の聖教一式が国宝指定を受けての講座、永村眞文庫長「実時と審海を読む」を拝聴しました。

6月16日
おはようございます。一昨日タウンニュースの記者さんからコラムを読んで下さっている方から講演依頼があったと。昨日その方から連絡を頂いて来年早々に講座で二回と決めました。今迄何回か鎌倉ではしてるけどそこは初めて。歴史と文学が好きな方が多いので鎌倉と源氏物語はきっと喜ばれますとのこと。

研究発表の件。多分謎はほぼ解けたので、今日から資料の作成にかかります。東山道あたりのことから最初に地図をと思っていたのですが、昨日の閃きで一挙に資料の形態も変わりました。切口をみつけるまでが大変。文章と同じですね。

木漏れ陽のこの玉川上水が好きです。玉川上水は先日行った宗禅寺様の羽村が源流。あそこから歩いてずっと来ると我が家に辿り着くなんて! と、これを打ってたらさくさくと落ち葉を踏み分ける音。見たらムクドリでした。

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仙覚文永三年本万葉集奥書に「然又、法成寺入道殿下、為令献上東門院、仰藤原家経朝臣、被書写万葉集之時、仮名歌別令書之畢。」とあり、上東門院の文字に目が釘付け。道長が万葉集を上東門院に献上したことより、仙覚の文中に上東門院の名が語られていることの方が私には驚き。笑

6月19日
おはようございます。実際の配布資料の作成に入ったら心がしんとして落ち着いています。どこか渓谷の底に一人いるかの心境で楽しくて時間がたつのを忘れます。全貌が見えてきたからあとはまとめるだけ……、と思ったら発表の時間は20分。長編小説のようなプロットなんて必要なかったんです。笑

ボックス席の一番前の席に座ってしまいました。何年ぶりだろうと思うところに向かっています。

モノレールに乗っているかのようで本を読む気になりません!笑

街が近づいてきました。この風景、どことなく懐かしさが香ります。結局最後まで車窓に釘付けでした。

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6月20日
おはようございます。昨日は久しぶりの称名寺。金沢文庫の徒然草展以来です。文庫長の永村眞先生の「実時と審海を読む」を拝聴しました。忍性により下野薬師寺から呼ばれて称名寺初代長老になった審海。実時→忍性→審海の順の上下関係に目が点!笑

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実時は檀越だから一番偉くて当然ですが、忍性は悲田院などの活動する人として偉い人のイメージがなく、審海は最初から初代長老のあの立派な肖像画に接しているから偉くて、と私の中では全く違う上下関係ができていました。実時の風格、忍性の凄さ、を実感した昨日でした。

昨日の称名寺 1。称名寺の鐘は広重の金沢八景のひとつ。称名の晩鐘、です。

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昨日の称名寺 2。阿弥陀堂。茅葺屋根が見事でした。

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昨日の称名寺 3。謡曲六浦の青葉の楓。もう何年も何回もこの案内板を撮っていますが、楓の木がこんなに大きくなっているのに気づかず、さらに青々と葉が茂っているのを初めて見て驚きました。

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広重の金沢八景から「称名晩鐘」。金沢文庫は称名寺と尾根を隔てて隣接しています。尾根に隧道が造られていて行き来できるようになっています。その隧道の壁面両脇にこの金沢八景の陶板が飾られています。

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称名寺と金沢文庫を結ぶ隧道。中の壁面両脇に陶板の広重「金沢八景」が飾られています。(面白みのない写真だったのでフォトエディターで加工しました。)出口の向こうに金沢文庫の建物が見えています。

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もうノウゼンカズラの季節なんですね。同人誌に掌編を載せていたころ、点景にノウゼンカズラを書いたら、貴方の小説家には色があると仰って頂いたことがあって、この時期になると思い出します。

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2016.6.26 ツイッターから転載…羽村の宗禅寺様創建400記念フラメンコのコンサート!と、小川町の穴八幡古墳の謎、そして「仙覚奏覧状」の写しが金沢文庫にあった!など

6月11日
どういう訳かここのところ毎回直通に乗れて遅刻しそうな気持ちが救われる。今日の道中のお供は「歩いて廻る 比企の中世再発見」。薄さと軽さで選びました。笑。もちろん、それと気分と。

行きに直通に乗れてラッキーと思ったのだけれど、到着した駅でタクシーのドアを開けて待っていて下さる方が。一緒に降りたらしい。遠目でなんとなくそうだとわかったからと。お陰でギリギリ間に合って無事に一日が終わりました。宗禅寺様創建400年記念イベントのフラメンコ。眼と耳と眼福でした。

バラの咲く庭以来時間ができたらシャンソンのライブに通いたいと思ってたのにはからずもフラメンコに接して、それでもフラメンコは遠い世界と思っていたら音の最初、足の踏み出しの最初からぐっとくるものがあって、さらに打ち上げでその方々と談笑までして身近になって。この先どうなるのでしょう。笑

東京でフラメンコといえば新宿伊勢丹地下のエル・フラメンコ。学生時代から知ってた場所だからいつか行きたいと思っていたのを実現させるいい機会と思ったら、8月で閉まるそう。そういう時の巡り合わせも不思議です。

15年間、鎌倉の源氏物語に打ち込んでストイックに暮らしてたから、余裕のできた今、どっと感受性が開いてる気がする…

6月12日
凛と屹立した歌と踊りの昨夜のフラメンコ。それは私が自身の内部として求めていたもの。で、それを目のあたりにして思ったのは不思議と私にもその手応えができてきていると。不可能だったことが実現に近づいていると。円仁の秘密を掴んでから揺らぎがなくなりました。独壇場という事を掴んだ気がする。

小川町の穴八幡古墳です。石室の入口に建治四年二月二日と刻まれていたために、鎌倉将軍宗尊親王か守邦親王の廟といわれていたと『新編武蔵風土記稿』に。でもお二方共に年代が合わなくて謎でした。

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穴八幡古墳に隣接する大塚八幡神社です。宗尊親王の孫で鎌倉の最後の将軍、守邦親王ゆかりの創建とされています。仙覚律師顕彰碑はこのすぐ近くです。小川町のこの仙覚と宗尊親王にまつわる史跡は何なのでしょう。

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昨日の宗禅寺様。敦煌莫高窟壁画模写の掛軸の前に紫陽花が活けられていました。

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6月13日
昨夜急に敦煌を読みたくなって、本棚の小林秀雄編集の全集から井上靖を。物凄いスピードで目を通したのだけれど、なんか、趙行徳が仙覚さんそっくりだった。戦乱のなか西夏文字に興奮し仏典を守るところ。比企の乱、承久の乱、宮騒動、宗尊親王更迭をくぐり抜け、万葉集の解読に生涯をかけた。

学会発表の応募要旨。今見たら重要なポイントとなる寺院が真言宗になっていた。それは江戸時代に天台宗から変わったことを知らなかったから。配布資料作りに入って格段にいろいろなことがわかってきた。もう新しい資料は出ないと踏んで応募したのに。天台宗寺院なら符合もする。校正が届いたら訂正!

月曜日の夕刻。いろんなことが片づきゆとりの珈琲。todoリストを作らなければならないかと危機を覚えたほどいろんなことが重なり、うっかり学会の参加申込も忘れる処でした。発表者が忘れたらどうなるのだろうと可笑しみながら投函して一件落着。これから図書館でコピーしてきた資料に入ります。

水色と茜色の綺麗な空。灰色の雲が引いたあとの水色の空は本当に綺麗。

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6月14日
佐佐木信綱「仙覚奏覧状攷」: かの称名寺の建立、金沢文庫の建設の時代は、仙覚の晩年のことであるから、称名寺一世の審海、二世の明忍等は、金沢に近い鎌倉にをつた仙覚、もしくは万葉集註釈を伝へた玄覚等と、何等かの関係がありはしないかと、二回まで称名寺を訪うて捜索したが、未だ何等の

手がかりを得なかつたことであつた。←金沢文庫な古文書を所蔵する家から、明忍宛消息の裏面に仙覚の奏覧状が書かれているのが発見されたことで。←仙覚は晩年、金沢文庫創設者の実時と交流があったから、奏覧状も実時が書写して持っていた?←佐佐木博士はまだ仙覚と実時の交流を知らない時代。

6月15日
万葉集関係の資料を整理したら、小川町と慈光寺、比企能員と岩殿観音、丹後局と範頼、頼経と竹御所、などに分類できて、そのどれもに仙覚が絡んでいる。これは仙覚の人生がその時その時でいるんな人に接しているから。生誕地、仕えた人、晩年など。私のなかではもう仙覚は研究より小説になってます。

メモ:不破の関から東山道美濃路をたどって東の国に下ると、やがて行く手には信濃国境の連山が大きく迫ってくる。なかでもひときわ目立つのが、中央アルプス木曽山脈の南端…中略。弘仁八年の春、伝教大師最澄は、弟子の円仁らをともなって関東の教化のためこの信濃坂を越えていった。『叡山大師伝』。

円仁も東山道を通ったのですね!(と、配布資料作りの当初に戻って東山道関係を戸田芳実氏『歴史と古道』より)。「鎌倉幕府の成立後に、東山道が東国御家人の人馬往来を容易ならしめるためにかなり改修されたのではないかという想定が、そこから出てくる」。(鎌倉時代も東山道は使われていた…)

おはようございます。突然閃いたことがあって飛び起きました。東山道。ずっとそれを考えていたのは対極に東海道があるから。それは仙覚が東海道の道の果ての生まれとされてきたから。なのでどうしても東海道というしがらみから抜けられませんでした。が、それを外したら……。外せたのです。今。

気がついてみれば簡単なこと。こんなに一目瞭然の単純なことが見えなかったというのも、如何に東海道という前提の壁が厚かったかということですね。

6月16日
紫陽花と百合@三鷹の森

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2016.6.23 ツイッターから転載…研究発表する大会のプログラムが届いて配布資料作りにかかりました。そうしたら、仙覚や小川町のことで新発見、新展開・・・

6月4日
大会プログラムの載った号が届きました。昨日、発表は月末だけど配布資料送付は月初だったことを思い出し、図書館に行ったついでに東山道の載った地図を探したのだけれど思うようなのがなく焦り気味に。私の中にあるピンポイントの地図は道路史でなく中世・古代の寺院史のよう。自宅にあるか探します。

おはようございます。昨日から大会準備の配布資料作りに入りました。これは一昨日真面目に北条氏を調べるなどしてすっかり竹御所小説化の熱が冷めてしまったことから。結局私は真面目な時系列小説には向かないという事と解釈。だんだんそんな事がわかってきました。不分明でした。今まで。

6月5日
朝から過去に見て目に焼きついている地図を探しているのですが見つからない 泣。図録だったか報告書だったか。一般書ではないことは確か。このままみつからなかったら作るしかないな、と。

東山道の理想的な地図がみつかりました。『埼玉県の歴史』(山川出版社)より。多分本格的に配布資料作りに突入。時間的に余裕あり過ぎだけど、間に合わないと焦るはめになるよりはいいかと。

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6月6日
今日は鑑真和上開山忌だそうですね。唐招提寺、行きたいけど行けないから東国で偲ばせて頂きます。ちょうど慈光寺の歴史を追っていたらこんな記述がありました。戒壇院といえば鑑真和上ですが、その三戒壇院は東大寺、太宰府観音寺、そして下野薬師寺。辺境に見える東国ですが探ると意外な歴史が…。

下野薬師寺を最初に知ったのは金沢文庫がある称名寺の初代長老審海がいらした所として。実時の依頼で忍性が呼んだとか。その頃はまだこの東国の奥地(失礼!)から首都的機能の鎌倉にというのは如何にも逆な気がして謎でした。が、寺院に限っていえば寺院文化はこちらがメイン。それが東山道のため。

そういえば、慈光寺の建立はまだ不明だけれど、鑑真和上の高弟道忠による建立とも。道忠が建立ということは以前から読んでいたけど、昨日今日といろいろ再読してたら、こんなところに鑑真が!となったところに今日が唐招提寺の開山忌だなんて。

メモ: 慈覚大師円仁は下野の生まれで、師の広智は慈光寺を開いたとされる道忠の弟子。即ち、道忠ー広智ー円仁ーー仙覚。。。慈覚門人仙覚と記す仙覚はどこで天台宗と巡り合ったのだろう。円仁の東国での活動は広域。

慈覚門人仙覚というい言い方に今迄天台宗の僧ということしか思わなかったのですが、あえて慈覚門人というからには円仁への個人的思慕が入っているのかしらと、昨日思った次第です。

6月8日
菖蒲@井の頭公園の小さな水生植物園

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いったい私はどこへ向かおうとしているのかと迷いつつ東松山市史を楽しく拝読中。配布資料作成目的で図書館に行ったらなぜか埼玉県の東松山市史、坂戸市史があって(他はそんなに揃ってないのに)、まさか~となりながら借りてきて読んでいます。配布資料のためならもう充分なのに。竹御所の小説の為?

慈覚大師門人仙覚の謎が解けた? まさか…、と思うけれど、こんな繋がりが…、ということがみつかりました。彷徨ってみるものですね。本の中。

急にぐるぐるぐるぐる今までの謎が解けたように展開して頭の中を走りだしています。暴走でありませんように・・・

これだと、なぜ、仙覚が少年期の若さで万葉集を志したかまでの謎が解ける…、まさか、まさか、だけれど、とにかく明日は図書館へ。たぶん、大丈夫。

6月9日
雨もようの都立有栖川宮記念公園。紫陽花が咲いているのが見えて、いつもと違う角度から。なんか、京都の積翠園を思い出しました。回遊式になっていて。それとも雨のしっとりした風情で?

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地面に泰山木の花びらが落ちていて、ひょっとして?と見上げたら一輪。蕾は幾つもあるので、これから。都立有栖川宮記念公園入口にて。

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窓から見える空は厚い灰色の雲。聳えている六本木ヒルズのあの最上階付近にポンペイの壁画が来ています。私は仙覚さんと円仁を結びつける資料をたっぷりコピーしてこれから帰途に。

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コピーしてきたこの資料。今までのご論考で使われているのを見ていない。皆様下敷きとして読んでらっしゃるのかな。でも多分、私がこれからするような論証には使っていられません。

そういえば春先だったか論文に書くのはまだ早い、待っていればあと一つ何か出てくると諫めて下さった方はつくづく慧眼でいらしたと今更に思う。その後もう出尽くしたと思い五月末締切に間に合わそうと書きだしたのを腰痛で断念。そこにこの資料。間に合ってたらこれは入れられませんでした。驚!

なんか見つけてしまったのだけど、これがどういう意味なのかわからない。小川町にある古墳時代の古墳に建治四年の記述があって、今迄どうしても建治四年の事件や事跡を見つけられなかった。が、入手したばかりの比企系図に、比企能員孫の員茂の没年がそれ。なのに日付は員茂のでなく子の員長のもの。

小川町の穴八幡古墳は7世紀後半のものらしいけど、石室の入口に建治四年二月二日と彫られていたことから、鎌倉将軍の廟かといわれ、被葬者は宗尊親王か守邦親王と。が、両者とも年代が合わない。でもどうして比企の小川町に宗尊親王の名が挙がるのかを考えるとやはり仙覚の存在があったからとしか。

6月10日
おはようございます。昨夜の小川町の穴八幡古墳は仙覚律師顕彰碑の近くにあります。隣接する大塚八幡神社は、鎌倉最後の将軍守邦親王が鎌倉滅亡時に慈光寺山麓の古寺に亡命していた時に勧請したのが創建です。守邦親王は宗尊親王の孫。比企の奥の小川町にこんな歴史、仙覚とどう関係するか。謎です。

鎌倉滅亡時に将軍を匿うほど小川町の住民が鎌倉幕府に近侍していた? これは伝承かもしれなくて、『鎌倉将軍・執権・連署列伝』で確かめたいのですが、どこに置いたか、本がみつからない・・・

本が見つからないのでwikiで調べたら『鎌倉将軍・執権・連署』には守邦親王の最後は不明とのこと。小川町のこの伝承が記されているかわかりません。が、伝承にしてはなんかリアルなんですよね。行った感じで。

守邦親王が馬術を練習したという故事に倣って、かつて神社の境内で流鏑馬や馬くらべが行われていたとか…

折角昨日仙覚の謎を解く資料をコピーしてきたのに深夜思いがけず建治四年の秘密に巡り合ってしまったから資料をさておいて頭の中は小川町の古墳でぐるぐる。笑。目下の妄想は寿命を悟った員茂が埋葬地岩殿に帰るに際し、建治四年に先に逝った子息の命日二月二日を刻んだというもの?員茂の命日は七月。

というのも、員茂には前例があって、岩殿から京に上るに際し、祖父能員への手向けとして、岩殿観音の参道付近に能員の塚を造っています。大東文化大学の敷地内になる場所でした。今は移転して外に出てます。

今気がついたのですが、仙覚の「覚」は慈覚大師円仁の「覚」ですね。これ、今までどなたか指摘された研究者さんているのでしょうか。仙覚は後嵯峨院に万葉集を献上した時の奏覧状に慈覚門人仙覚と書いています。その署名の意味を解いたら「覚」が自然にわかりました。

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2016.6.13 タウンニュース鎌倉版連載のコラム【鎌倉と源氏物語】第七回「一歳年上の同世代 無住と第5代執権・時頼」

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タウンニュース鎌倉版連載のコラム【鎌倉と源氏物語】第七回「一歳年上の同世代 無住と第5代執権・時頼」です。

無住は時頼と同世代だったから時頼の治世、人生に関心が高かったのでしょう。その分、無住が書き残した時頼周辺のエピソードはリアルタイムの事実として信憑性あります。

http://www.townnews.co.jp/0602/2016/05/27/335424.html

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2016.6.13 ツイッターから転載…シャンソンのバラの咲く庭を聴き、切なさを言語化できたらと思ったことから、竹御所を仏語訳に適う小説にしようなどと思い、フランドルへの道を読む・・・

5月28日
鎌倉の帰りの車内。夕陽がホームに射して綺麗です。

鎌倉に行ったらいつも私のなかで生きている松下禅尼や丹後局や竹御所の影も形もなくて、ご挨拶する方々の話題にものぼらなくて、家にいるほうがよっぽど鎌倉にいる気分。変なの……

そういえば、竹御所。竹御所の菩提を弔うために建てられた比企谷新釈迦堂がどこか。ずっと妙本寺様のある谷戸とされてきていたのになんか近年違うとの噂。どうなのだろうと気にしてたのですが、先週ある方からご論考を送って頂き、そこにはっきり妙本寺様のある谷戸で確定と書かれていました。ほっと。

5月29日
おはようございます。疲れが溜まっていたから前後不覚に寝てすっきり目覚めました。今日はまず最初に買って洗っておいた和歌山の梅の処理をしなくては。氷砂糖と塩とでそれぞれのエキスをとります。氷砂糖でとったエキスはドレッシングに入れると美味。塩の梅エキスは胃の不調に物凄いよく効きます。

あちこちに薔薇が咲いてツイートに薔薇が散見してるからうっかりBGMにバラの咲く庭なんぞをかけてしまったらプレベールのあのあたりを読んだ楽しみが甦ってもうこのまま文学に浸りたい気分。戻るしかない多摩と鎌倉だけど。シャンソンは毒。

引き続きバラの咲く庭を聴きながら。切なさを文章にできたらとふと思う。竹御所ならその文体が似合う。そうか、竹御所なら仏語訳に値する小説に書ける。目指そう、セーヌ河畔の書店のウインドウ。などと大それた思いに飛躍。笑

母の作り置きの梅エキス。平成20年6月23日作る、のラベル。梅1キロ、塩200gで作る、とあります。毎年母が作っていたのを見ていたので見様見真似でこれから作ります。(これは胃の不調時にほんの軽い杯程度飲むだけで本当に効きます。)

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作るには、梅を洗ってよく乾かして、竹串でプツプツ穴をあけてから、梅酒ビンに梅と塩を交互に重ねます。毎日時々瓶を振って常温で置いておくとじわじわとエキスが出てきます。

@tukubasioda これ、テキーラのボトルなんですか! 作り置きのビンは母が丁度いいと思ったものをとっておいて使ってました。ブランデーのとかいろいろ。こういうお酒のビンは父が亡くなってからは家にあるはずないから、父がいた時代からのだと思います。

氷砂糖の方の漬け込み終わり。これは梅酒と同じ方法で、ただホワイトリカーを酢にするだけ。いわゆる梅酢。我が家ではこれを使ってドレッシングを作ります。

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5月30日
1キロの青い梅の実に竹串でプツプツと穴をあけながらバラの咲く庭をひたすら聴きつつどうしてこの曲がこうも胸を抉るのか思いを巡らしていたらフランドルへの道に到達しました。そうか、仏語訳に値する竹御所の小説にはこれだ! とばかりに本棚から出して解説を読んだら余計に懐古に浸ることに。

梅の実にプツプツとひたすら穴をあける作業って、結構狂気に近い……笑。でも、そのお陰で竹御所を失い、自身も将軍職をはぎとられ、京都に送り返される頼経の無念と哀しみの心に近づけたかも。

ほんとなら腰痛さえ起こさなければ今日明日あたりに論文が書けていて投函となったところ。あそこで諦めたから今の余裕と思うと結構これも時宜なのだろうなと。8月の大会まで3ヶ月、間があります。どう過ごすか。ずっと論文を引きずった気分でいこうと思っていたから方向転換です。

憧れの六本木ヒルズからの夜景。晴れてなくて残念だったけど、夜景は格別。ポンペイ展に来ました。

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5月31日
おはようございます。八月の大会までテーマに集中しようと五月締切の論文にかかったのに腰痛であえなく挫折。それでまた何をすべきか路頭に迷っています。そんな時にバラの咲く庭で仏文学に回帰。そして昨夜のポンペイ展。鎌倉の源氏物語以降日本の歴史に埋もれていたトーンが少し変わってきました。

昨日のポンペイ展。会場に入るなり壁画の前に立ち尽くしました。これは通常の展覧会ではないと直観。歴史的価値の高名な絵画の前でも敬虔さに震えますがポンペイ展の壁画はヴェスビオス火山の火砕流に遭って埋もれて発掘されてイタリアから日本に来て今自分の目の前にある…、何といっていいのか。

今朝気づく。今とても敬虔なことに立ち会っていると。鎌倉で随分いろんな経験をした。多分これは空蝉や夕顔しか書けなかった紫式部が道長に抱えられて藤壷が書けるようになったことに近い。でもこれはなかった。竹御所を失った頼経の悲憤に寄り添う経験。不思議と最後にこれが来た!という思いなのは?

6月1日
思いというのは思念の中にあるものだからそれを言語化できる人の思いは深い。だから私は作品を残さない人より残した人の人生に気持ちが寄り添う。慈円が歌集を残してなかったら…。最近ある方の文章を読んでいて読まないでいた今迄よりその方への思いが深まる。文章って、そういうもの。文学も。

西の方からおかしな雲が発生して来ています。

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これは南の空。西の発生の雲が届いてこんな空になっているのか、南でも発生しているのかわかりません。南は伊豆諸島方向。西は福岡県沖方向です。

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西も南も発生していたおかしな雲はすっかり消えて、南東に見事な積乱雲が夕陽に輝きました。先程のツイートの訂正です。

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夜、火星が見えてます。

火星。ベランダから手持で撮りました。火星が最大に地球に近づいて、肉眼でこんなにはっきり見えるのなら、三脚を持って公園に行けば森の中のいい写真が撮れるのにと思いながら、気力がありません(泣)

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今日は高橋慎一朗先生「竹御所と比企谷新釈迦堂」を拝読してたら竹御所の菩提を弔う為に頼経が建てた新釈迦堂が将軍家の御願寺としての扱いだったとありイメージが膨らむ。その後またフランドルへの道に思考が戻り、竹御所の小説にそれを当て嵌めるとしたら「ある夜の数時間」をいつ・誰のにするかと。

例えばの一案。仙覚の・将軍職をはずされた頼経が京に送り返された夜の数時間、とか。もしくは、仙覚の・万葉集の訓点の点けられていなかった最後の152首を完成させた夜の数時間、とか。とするとそれは寛元四年……。8月までの2か月挑戦してみる?

6月2日
昨夜小説の教室で共に学んだ方に竹御所のフランドルへの道的小説化を話す。原点を共有してるからすぐ分かって、三枚つづきの絵じゃないのねと笑われた。三枚つづきを二人してどんなに四苦八苦して読み通したか。何度も何度も戻っては進みの苦難の連続。フランドルはそれに比べたらまだ普通の小説です。

「年代記的順序にしたがって巧みに展開された筋、終始一貫統一がとれ輪郭のはっきりした作中人物、人間の心理も因果関係も社会のメカニスムもすべて見通す力をもった神の視点からなされる分析や描写、そういった約束ごとから成り立ついわゆる《伝統小説》」フランドル解説より。

解説を引用させて頂きました。いわゆる伝統小説でないフランドルから小説作法を出発しましたので、鎌倉の歴史に入って一生懸命ふつうに時系列的に書こうと頑張っていたのですがなんか窮屈で、フランドルが閃いたら自由になりました。笑

6月2日
おはようございます。いつのまにか朝型が定着。昨日は机周りの資料を整理。源氏物語にするか万葉集に行くかどっちつかずだったので資料が混在。竹御所と決まったから万葉集を 残して源氏物語関連のものを遠くに。これなら気分的にも夏の大会 に向けて違和感ないし。今日は必要な論文を探しにの予定。

6月3日
紫陽花と立葵@井の頭公園

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タウンニュース鎌倉版連載のコラム。第七回が今日刊行になったのだけれど、紙面は届いているけどネットの確認ができない。もう少ししたら記者さんに連絡しようか考えていたらメールを頂いて、その件ではなくもう第八回の校正。記者さんの熱意に煽られるなんて有り難いですね!

今日届いたタウンニュース鎌倉版連載のコラム第七回です。無住と時頼の関係を書きました。後ほどきちんとブログにアップします。

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2016.6.4日 ツイッターから転載…5月26日に多摩の講座の皆様を羽村の宗禅寺様にご案内したこと。宗禅寺様は建長寺の宗務総長を昨年12月に退任されたばかりの高井前宗務総長のご自坊です。

5月24日
今日から多分第二ステージ。昨年夏から音をたてて環境が変わった。引退されたり、退任されたり、故人になられたり。何方が抜けてもここまでやって来られなかった。私は既に多摩に拠点を移していて遠く鎌倉の変貌を見ているしかありませんでした。そんな集大成のこれからがはじまる気がします。

車輌点検で到着が遅れてお陰で乗れなかったはずの直通に乗れて遅刻するところだったのに無事に。こんなこともあるのですね。

蝋梅の実。はじめて見ました@多摩

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↑という訳で、多摩の羽村の宗禅寺様へ。宗禅寺様は建長寺の宗務総長を昨年12月に退任されたばかりの高井前宗務総長様のご自坊です。多摩にとっては「本物の鎌倉」を身につけていられる方のご帰還。「本物の鎌倉」に触れる又とない機会です。とばかりに、おそるおそる申し出て、多摩の講座の方々に鎌倉のお話をして頂けないかお願いしました。「いいよ~」との快諾を頂き、26日に皆様をお連れします。ただ、ほんの数人程度の気軽さで募ったら、なんと29名も参加下さることになり、それで少し緊張して往路の下見を兼ねて宗禅寺様に打合せに伺ったのでした。

5月26日
今日は大切な日。いざ鎌倉、ならぬ、いざ出陣の心境で出てきました。

写真は一枚あればいい。との思いでスマホの電池の確認。いい写真を撮りたいからカメラをバッグに入れましたが、それも止めました。すべては今日一日のことに専念。

帰ったらまとめます。今日一日のこと。写真は閉会後の灯りも消した講義の部屋。

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気を使ったから帰ったら疲れて今まで寝てしまいました。今日は3月に終了した多摩の講座の方を、昨年12月に建長寺の宗務総長を退任され羽村のご自坊宗禅寺様に戻られた高井前宗務総長のもとにお連れしました。写真は掛軸。敦煌莫高窟の模写だそう。

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鎌倉五山第一位建長寺の宗務総長をされていた方が多摩の羽村に戻られるなんて、多摩にとってはなんと幸運! 本物の鎌倉のお話をじかに聴けるなんて! とばかりに思いついて訪問を打診したらすぐにOKのお返事を頂いて実現しました。集まった方は29名。皆様目を輝かして聴き入ってられました。

5月27日
昨日の高井正俊前宗務総長は在任中に建長寺法堂天井画「雲龍図」の制作に立ち会われた方です。古来禅寺法堂の天井には龍図が描かれているのに建長寺にはまだありませんでした。鎌倉在住の小泉淳作氏に依頼して平成12年に完成。それが建仁寺法堂「双龍図」へと繋がり、こちらは平成14年の完成。更に小泉淳作氏は東大寺の襖絵を描かれることとなり、こちらは平成19年の完成。つまり鎌倉は文化の原点になっているのです。また在任中に東博「禅の源流展」にも奔走され、その成功で以降の妙心寺展など寺院毎の展覧会が開かれるようになったそうです。そういうご経験に根差した裏話は面白く貴重でした。

建長寺法堂天井画「雲龍図」http://www.kenchoji.com/750/unryu.html
建仁寺法堂天井画「双龍図」http://www.rinnou.net/exhibition/ex_06.html#12建仁寺
東大寺襖絵http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0123/

3月で終了しているけど、多摩の講座の方々への最後の仕事は金沢文庫にお連れすること。前にもお願いされたけど昨日の方々からも是非にと。私の案内する文学散歩は普通の観光と違うからその案内で行きたいのだと。体力の調整に不安があるからスルーしようと思ってましたがもうするしかないですね。

二回の鎌倉文学散歩のあと、何人かの方がまた鎌倉に行ったり、私が案内したのと同じコースを今度はご自分がお友だちを案内されたり、多摩の講座の方々の間で鎌倉がしっかり根付いてきているのを感じます。昨日の前宗務総長様のお話にもありましたが、ある意味鎌倉は日本の文化の原点なんですよね。

5月28日
今日は鎌倉。先日の建長寺前宗務総長高井様の羽村のご自坊、宗禅寺様での様子をまとめたいのですがまだできてません(泣)。写真はその夜にツイートした敦煌莫高窟壁画の模写の掛軸の全体像。文殊菩薩様と普賢菩薩様です。中国の画家さんのようです。

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◆宗禅寺様の写真を追加

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三門です。

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新奥多摩街道沿いにあります。

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臨済宗建長寺派医王山宗禅寺の碑。

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反対側の案内板。

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本堂。

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庫裡。

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薬師堂。

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宗禅寺様には江戸時代の版木が残っているそうです。

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羽村の堰が近くにあります。帰りにご案内して頂いて。

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多摩の講座の皆様に最初にお寺に来たことの意義をお話されています。高井前宗務総長様はこのことをとても大切にされて、必ずなさるそうです。

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講座のようす。

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講座に用意して下さったお部屋では入りきれなくて隣室にも。この隣室で終了後にビールと用意して下さったお惣菜と檀家総代の方が差し入れして下さった山椒たっぷりのタケノコの煮物とで打ち上げをして盛り上りました!心から楽しく、感謝!の一日でした。

秋からは宗禅寺文化講座を始められる計画をされています。これは建長寺で毎月一回の禅研究会をされていたことの羽村版。鎌倉の人脈を生かされてどんな文化講座になっていくのか楽しみです。

考えてみれば、中世において寺院は文化の中枢センターだったのですよね。金沢文庫の称名寺、足利学校の鑁阿寺……。多摩の羽村からまた何が発展するのでしょう。

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