2016.9.28 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(3)構成を玄覚による回想録にする。玄覚が京都善峯寺の一室で過去を回想しながら父を語る…
9月18日
地質学の本を返却にきたら薔薇の名前があったで借りてきました。先日紹介して頂いた電子書籍をまだ見てないまま、済みません。前に辿った紙の本で、ああ、これだ、と確認しています。「山腹に沿って曲がりくねった険しい小径を攀じ登ってゆくと、あの僧院が姿を見せた」。やはり、いいですね。
9月20日
メモ:これは大切。仙覚は比企にいた時、万葉集を見ていなかった。彼が見ていたのは円仁の悉曇章の万葉仮名で、それが仙覚にはヤマトの言の葉の源と映り、それで書かれた万葉集といつ書物がこの世の中にはあると知って13歳で万葉集を志し、16歳で万葉集を訪ねて京に上った。
一つ謎が解けました。13歳の最初から仙覚が万葉集を志したというのはどうしても不可解で、この展開ならわかります。比企に万葉集があり、13歳の仙覚がそれでは足りず、もっとたくさんある写本を見たいと志して京に上ったなんておかしいとずっと思っていました。一冊あれば充分なはず。
9月21日
新しいBGMを探して来生たかおに。長雨。かつて繰り返し聴きました。音楽は精神の状態を左右するから音楽があると思考できない時もありますが、小説に入ると無いとダメ。それもクラシックではダメで思い切り感情を引きずられるのがいい。というわけで来生たかお。煽られて原稿に活かします。
これは惨めな日常身辺の些事を取り扱う物語てはなく、あくまでも数々の書物の物語であって、これを読めば私たちはあの一句を唱えたくもなるであろう…アラユルモノノウチニ安ラギヲ求メタガ、ドコニモ見出セナカッタ。タダ片隅デ書物ト共ニイルトキヲ除イテハ…恒例の吉祥寺散歩読書。薔薇の名前です。
9月22日
メモ: 光俊。順徳天皇に近侍し承久の乱で筑紫に配流。←不覚にも知らなかった。仙覚との接点はここ。
おはようございます。昨日一つ区切りをつけたら気分が変わり突然玄覚が浮上。善峯寺を検索して光俊に。薔薇の名前がアドソという侍者の目で見た語りで書かれているのにヒントを得て玄覚による手記を思いつきました。その設定をいつにするか。案外善峯寺あたりがいいかも、という思考の流れです。
そうすると、円仁の生誕地岩船→比企の岩殿→順徳天皇の京都→佐渡→比企に戻って→将軍頼経の鎌倉→後嵯峨院の京都→宗尊親王の鎌倉→比企小川町→岩殿→その後玄覚が善峯寺。となるから、「いつ」は仙覚について語り合える相手の誰かを探せばいい?誰でも読める簡単な本にしたいけど無理そう…
自分は京都は西山の善峰寺の一室でこれを書いている。父仙覚のことを書こうと思う…。未明にツイートしてでもあまりに早いのでまた寝ようと横たわったら吐いた息とともにこの一節が吐き出されて、玄覚があの世で喋り出したかとぞお~っとなりました。玄覚の風貌まで浮かんできました。玄覚、鍵かも。
今日の道中のお供は玄覚の資料。突然こうなりました。笑。薔薇の名前を持って来ようとしていたのをバッグから出し、積んだ資料の中から玄覚の分を探し出して。玄覚の登場は仙覚の晩年だから小説も後半になってのはず。なので一番底に入ってました。今日は雨風が酷いですね。
道中徒然ツイート。玄覚の語りにすると決めて思い出されたのが金沢文庫にある乗一という僧侶の図像集『覚禅抄』の奥書。春から夏にかけての書写だったから、一巻終わる毎に記された窓から見える季節の自然が素敵でした。そうっか、玄覚もそれをと思って、書出しの季節と終わりの季節を何にしようか考えています。
メモ: 玄覚は弘安年中に八雲御抄を書写。八雲御抄、私はこれが仙覚の順徳天皇との接点の証と思っているのだけど、それを玄覚が書写とは!
今日は金沢文庫。称名寺聖教国宝指定記念の連続講座四回目。文庫長をされた高橋秀栄先生「称名寺の学僧と聖教の書写活動」でした。なのでここに乗一も紹介されて先の訂正となりました。秀栄先生のお話は味わい深く、裏話も聞けていつも楽しい。
曼珠沙華の咲く称名寺境内は初めて。今まで何度となく通っているのにと驚きました。
9月23日
今日は玄覚の年譜を完成させて、回想録を書くなら「いつ」が適格かを探します。あることに一つ区切りをつけてスッキリしたのでようやく溜まっていたお便りのお礼状やお返事も書けるところに。学会の発表から1ヶ月になりますがやっと動き出せます。
連載の比企万葉幻想つれづれ。仙覚の謎を追ってえんえんと続くと思っていたのに研究発表したら突然全貌が見えて小説化にまで気持ちが進んでしまいましたので、六回になる今回を突然最終回に。今書き終わったところです。これから玄覚の年譜。
9月24日
メモ: 玄覚が善峯寺にいたのは弘安4年と5年。3年には飛鳥井雅有の『春のみやま路』に登場するからこの頃京都にいたらしい。弘安元年に父仙覚が亡くなって上洛したのだろう。50代半ば。弘安の役の年で、鎌倉では円覚寺が創建された年。比企谷で『万葉集註釈』を書写したのは仙覚の生前。