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2016.9.21 ツイッターから転載…心機一転、急展開で「仙覚」の小説を書くことにしました。

8月29日
おはようございます。台風が心配ですけど私は昨夜『仙覚』の最初の一行を記しました。研究発表前には思ってもいなかった展開。ただの歴史小説になるところを発表の下調べで新しい視野が見えてきて、こちらの方が私らしい!です。義務や使命で書くのでなく真に書きたくて書くという方向が定まりました。

私の円仁履歴…仙覚が後嵯峨院に万葉集を献上した時の「仙覚律師奏覧状」に記された「慈覚門人権律師仙覚」の署名→ダイヤモンド社『慈覚大師円仁と行くゆかりの古寺巡礼』→中公文庫『入唐求法巡礼行記』→『古代日本人と外国語』。そしてこれからまた中公文庫『入唐求法巡礼行記』に入ります。

ダイヤモンド社『慈覚大師円仁と行くゆかりの古寺巡礼』から円仁が唐から持ち帰った悉曇章。朱で万葉仮名の書き入れが。背後の黄色いマーカーを引いたコピーは『古代日本人と外国語』。「読誦音は、仏教の真理と一心同体である」が突き刺さりました。

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過日の発表要旨を何度も読み返して観音信仰の有難さを感じ取った次第です。とお葉書を頂きました。生まれたばかりの仙覚が岩殿観音に預け入れられ別当の養子となって育ったという発表要旨。天台宗寺院岩殿観音。私は学問として追究するあまり信仰ということを忘れていたなあと猛省。曹洞宗の方です。

8月30日
仙覚に直接関係ないのに円仁から離れられない。悉曇学。円仁のそれの唐での摂取の仕方など。円仁の悉曇章を仙覚が見たとして論をたてましたが、中世においてどれくらい円仁を読める人がいたか不安でした。が、日蓮が立正安国論で『入唐巡礼行記を見ますと…』と書いているそう。割と広まっていたよう。

ということは、仙覚も『入唐求法巡礼行記』を読んでいたとしていいのですね!

たぶん私だけでしょうけれど、印刷技術がなく図書館も書店もない鎌倉時代に仙覚や日蓮がふつうに円仁を読めていたのが不思議。足利学校や金沢文庫がそうだったように寺院が文化の中枢センターとなって各地から集まってそういう本を読めたのだろうとは思っても。仙覚の岩殿観音もそうだったのでしょう。

8月31日
台風の被害と泉田知事、今はそれが大変と思うけど私は私のなすべき事に向かって図書館へ。仙覚が円仁の入唐記を読んでいたとしたら、彼があの大変な人生において絶対にブレなかった意味がわかる。円仁でさえ唐であのような目に遭っているのだからという心柱があったのでしょう。入唐記、読み返します。

入唐求法巡礼行記。「本書は慈覚大師円仁が五台山から長安に至り唐武宗の廃仏に遇って帰国するまでの苦心十年の日記四巻」。中公文庫裏表紙より。

友に仙覚の小説にかかったとメール。続けてH先生も認めて下さる小説になると思うと。僕が翻訳した貴方の本がセーヌ河畔の書店に並ぶ日を夢見てとパリから書いて下さった先生はすでにこの世の方ではないけれど…。きっと天国で見守っていて下さる。何より高齢の友がまだ在世中に仕上げたい。

図書館の帰り。円仁の『在唐記』他、悉曇学関係をコピーしてきました。まさかこんな展開になるなんて。四月に研究発表に応募した時点ではまだ仙覚が岩殿観音の人の確証は私の中でなかったし、円仁の悉曇章も浮上してなかった。発表の後、学会の先生方との触れ合いで突然爆発。機が満ちてたのでしょう。

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