2016.10.29 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(10)岩殿観音のこと。東京国立博物館【禅 心をかたちに】展。鎌倉禅研究会。金沢文庫【忍性菩薩 関東興律750年】展内覧会に行きました。タウンニュース鎌倉版コラム第10回【極楽寺開山忍性と北条実時】が掲載されました。
10月24日
おはようございます。取材にでかけたくてたまらないのですが無理な状況が続いていてこれでは原稿のその場面に間に合わない…と昨夜乗換案内で計画をたて今朝起きられたら…と寝たのですが起きられませんでした。起きられたら時宜と賭けたんです。今日はおとなしく執筆に籠ります。比企丘陵もいいです!
わざと目覚ましをかけませんでした。笑
岩殿観音堂に迫る凝灰岩の崖です。創建時、岩殿丘陵の末端を切り崩して平地を造り、そこに観音堂を建てたのだそうです。仙覚を調べていてこの光景を写真で見て惹かれ、訪ねました。仙覚の研究のためというよりこの崖自体に異様なものを覚えて。
ほんとうは岩殿観音も今一度ロケハンしたく考えているのですが諦めました。多摩の講座の方を案内しての文学散歩もしたかったのですが、ここはバスの便が悪く、年配の方が多いと臨機応変がきかないからこれも止めに。鎌倉と違って都会の要素がないと文学散歩はきついですね。
岩殿観音です。現在のこのお堂は明治の再建だそう。背後に朝アップした写真の崖が三方を囲んでいます。東松山市にあります。東武東上線だと高坂駅でおりてバス。大東文化大学に隣接しています。
岩殿観音境内から見下ろした参道。岩殿観音が尾根と尾根のあいだの谷間にできていて、最奥だから一番高い場所にあることがわかります。小説仙覚では第二章をこの描写から始めました。基子さんもここを通ったんですね。夫時員と。義父の比企能員も。
10月25日
おはようございます。昨日諦めた遠出。帰宅した娘がTLを読んで、ママどこに行こうとしてるの?と。予定を誰にも話してなかったから昨朝間に合って起きて飛び出ていたら家族の顰蹙が凄かったでしょうね。笑。そろそろ仙覚の円仁との天台宗が近づいているので比叡山の本を出して眺めています。横川。
東京国立博物館の【禅 心をかたちに】展、行ってきました。私の目的はただひとつ。建長寺様開山蘭渓道隆座像。分厚い朱の漆塗の江戸時代の修復をとったあとの清々しいお像。建長寺様では道場の中におられるので初めて拝観させて頂き感無量でした。
10月26日
おはようございます。私は写真や考古学をしてたからずっと靴が悩み。スニーカーで観劇やパーティーに行けないしヒールで発掘はできない。午前と午後にハシゴする時いつも悩みました。昨日東博に行って館内を歩いていて突然いっそもう低い靴に統一しようかと。低い靴で合うコーディネートを考慮中です。
昨日東博の本館で伝藤原光能像の展示をしていると知り余程帰りに寄りたく思ったのですが足が痛くて(笑)諦めました。最近は別の人の肖像画のようですがもうイメージが光能で定着してますものね。基子さんの姉妹のひとりが光能に嫁いでいて仙覚の京での活動にかかわりあったのかなあ等と考えています。
10月27日
鎌倉鶴岡八幡宮裏の後光。
北鎌倉駅ホーム背後の洞門トンネルは今破壊が中止になっていますが、こんな真新しい立札が立っていました。一遍聖絵で有名な巨袋坂の場面はこの岩盤の先端の上の路上ですだそう。この説明は私は初めて知りました。
鎌倉禅研究会で源氏物語を頂きました。五島美術館の図録です。1980年刊行。これは持ってなかったから貴重なプレゼント。鎌倉に行くと、お会いする方からよく、ああ、源氏物語の…と。そしてこんなふうに頂きます。最近は、コラム読んでます、も。
今日の鎌倉禅研究会は帰宅してから写真と一緒にアップさせて頂きます。東博で禅展をしていますが名古屋でもされていて、今日はそれを監修された総持寺宝蔵館館長岩橋春樹先生のお話でした。東博は臨済宗。名古屋は曹洞宗。みたいになるらしいです。
道中のお供は薔薇の名前。導入部数ページをコピーして持って出ました。最近は仙覚に没頭しているから資料より小説のほうが感性にしっくり。といっても薔薇の名前とシルトの岸辺だけですが。最近はこの二篇の導入部ばかり繰り返し見ています。なんだろう、やはり小説の文体は生きてるから?
10月28日
おはようございます。RTのパウル・ツェラン。もしかしたら一番好きなというか影響を受けている詩人かもしれない。現代詩を離れた頃に『雪の区域(パート)』が出てタイトルに惹かれて買っただけから、経歴を深く知りませんでした。朝から哀しみに入ってます。誰でもないものの薔薇。このフレーズ。
「ツェランの詩才と運命を見抜いていた夫人は、結婚の直後から自分の絵をあえてツェランの詩に従属させる道をとった」…、セーヌ川に投身自殺したパウル・ツェラン。同じく銅版画家という芸術家でツェランを見守り続けた夫人の胸中は如何ばかりだったでしょうと気になっていました。
覚悟ですね。芸術家の覚悟。最近覚悟という視点で世の中を見るようになった気がします。
連ツイ済みません。覚悟の件、仙覚を書いていてそうなりました。北条氏に滅ぼされて存在を消して生きるしかなくなった男の哀しみが基底だと思って書き始めたのですが、円仁を慕い、円仁の悉曇章に触発されて大和の言の葉の根源を確かめるべく万葉集に生涯をかけた男の精神の底にあるのは覚悟だと。
タウンニュース鎌倉版コラム第10回【極楽寺開山忍性と北条実時】が今日の号に掲載されています(いるはず?まだ入手できてなくて…)。ネットでは公開されていました。金沢文庫忍性展は今日開幕です。http://www.townnews.co.jp/0602/2016/10/28/355153.html
タウンニュース鎌倉版コラム第10回【極楽寺開山忍性と北条実時】、届きました。
金沢文庫忍性展の内覧会でした。4時からなのでその前にタウンニュースの記者さんに来て頂いて今後の打ち合わせ。10回になったので今後の方針の確認でした。私が最近学会発表や仙覚でいっぱいいっぱいなのを見てられるから「負担じゃないですか」と。大丈夫という事で今日の忍性の路線で続けます。
第9回までの松下禅尼のコラムでは時頼も北条実時もまだ若かったのですが、忍性と交流する称名寺創建の頃は時頼が執権の時代。時代が飛ぶけどいいでしょうと。なにより金沢文庫で忍性熱が燃えてますものね。展示では今日のコラムの龍源寺縁起はなかったけど、図録にあるのでしょうか。帰って確認。
メモ: 鎌倉禅研究会で蘭渓道隆様頂相を岩橋先生が宋画に見えるけど宋画にならった日本人画家によるのではと疑問符で仰られてた。私の印象では宋の画家。それは線の感じで。今日の忍性展で宋画にならった日本人画家の絵があっけどこれは完璧に日本人画家。宋画の線はいくら真似してもできないと思う。
帰りの車内です。蘭渓道隆様頂相の続き。講師の方は宋画の線をネチッコイと表現されるけど、私は宋画ほど清々しい線描はないと思っていて、表現が違うだけなのか、本当に違うのか、まるで逆なのが不思議でした。陶磁器も宋画の線と中国製磁器、日本人画家の線と日本製陶器にはっきり分類できるのでは?
金沢文庫入口前。先に記者さんと打合せをしてそれから外に出て撮ったのでもうすっかり暗くなっていました。一段高くなっている灯りの点いた隧道の向こうに称名寺の庭園が広がります。掲示板に清涼寺式釈迦如来像の忍性展ポスター。
メモ: 忍性展で気になった小田知重を検索したら八田知家の子。忍性が三村山極楽寺に入ったのは小田知重によると解説にあった。この小田知重が笠間時朝と懇意で忍性が鹿島神宮に参籠したのもこの関係からと。時朝は仙覚とも親交あるから忍性と仙覚が案外繋がる? 小田氏、深めなくては。
10月29日
おはようございます。金沢文庫の忍性展。図録を見てもタウンニュースコラムに書いた龍源寺縁起は飛ばされていました。私が歴史から離れている間に否定されたのかと心配になりましたがミネルヴァの本にも書かれていたのを思い出し安堵。内覧会には著者の松尾剛次先生も山形からいらしてました。
昨夜の内覧会は唐招提寺の長老様をはじめ、西大寺、極楽寺、称名寺の僧侶の方が結集されていたのが忍性という僧侶の内覧会らしくて素敵でした。奈良博の展示と違いを出すために金沢文庫らしい展示をと考えて、忍性の関東での活動50年に絞ったそうです。金沢文庫らしいという取り組み、いいですね!
昨日の忍性展で思ったのは、今まで私は称名寺の側から極楽寺を見ていたからある意味称名寺に対して贔屓目。ご論考でも称名寺のほうが先で忍性はその後みたいなのがあって私はその観点を鵜呑みにしてました。でも同じ清涼寺式釈迦如来像や十大弟子像には格段の差があり、指図でも寺院の規模が違う。それ
を見せつけられて考えたのですが、称名寺創建の実時は幕府の重鎮といっても家来。極楽寺は執権家筋の建立。格が違って当然なのでした。歴史は贔屓目という私的感情でみたらダメですね。亀山天皇皇子の益性法親王の書状は後期の展示ですが、法親王は称名寺の釼阿と極楽寺の順忍を弟子にします。それも、
どなたかのご論考で、法親王は釼阿よりも順忍のほうに重きをおいていたとあって、称名寺側の私は意気消沈したわけですが、昨日の展示でみた寺院の規模の格段の差をみたら、それは当然で、なにも二人の弟子の器の差や私的感情の好みではなかったのだと、なんか変なところでほっとしたのでした。笑
極楽寺伝法灌頂指図では「桁行七間の仏堂に中門廊が付けられた正式な密教建築」「京都の密教寺院と同様の伽藍が極楽寺に建立されていたことが分かる」とあります。『とはずがたり』二条が極楽寺を見て京都に引けをとらないと感嘆してますが、それが裏付けられました。