« September 2016 | Main | November 2016 »

2016.10.29 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(10)岩殿観音のこと。東京国立博物館【禅 心をかたちに】展。鎌倉禅研究会。金沢文庫【忍性菩薩 関東興律750年】展内覧会に行きました。タウンニュース鎌倉版コラム第10回【極楽寺開山忍性と北条実時】が掲載されました。

10月24日
おはようございます。取材にでかけたくてたまらないのですが無理な状況が続いていてこれでは原稿のその場面に間に合わない…と昨夜乗換案内で計画をたて今朝起きられたら…と寝たのですが起きられませんでした。起きられたら時宜と賭けたんです。今日はおとなしく執筆に籠ります。比企丘陵もいいです!

わざと目覚ましをかけませんでした。笑

岩殿観音堂に迫る凝灰岩の崖です。創建時、岩殿丘陵の末端を切り崩して平地を造り、そこに観音堂を建てたのだそうです。仙覚を調べていてこの光景を写真で見て惹かれ、訪ねました。仙覚の研究のためというよりこの崖自体に異様なものを覚えて。

4

ほんとうは岩殿観音も今一度ロケハンしたく考えているのですが諦めました。多摩の講座の方を案内しての文学散歩もしたかったのですが、ここはバスの便が悪く、年配の方が多いと臨機応変がきかないからこれも止めに。鎌倉と違って都会の要素がないと文学散歩はきついですね。

岩殿観音です。現在のこのお堂は明治の再建だそう。背後に朝アップした写真の崖が三方を囲んでいます。東松山市にあります。東武東上線だと高坂駅でおりてバス。大東文化大学に隣接しています。

5

岩殿観音境内から見下ろした参道。岩殿観音が尾根と尾根のあいだの谷間にできていて、最奥だから一番高い場所にあることがわかります。小説仙覚では第二章をこの描写から始めました。基子さんもここを通ったんですね。夫時員と。義父の比企能員も。

6

10月25日
おはようございます。昨日諦めた遠出。帰宅した娘がTLを読んで、ママどこに行こうとしてるの?と。予定を誰にも話してなかったから昨朝間に合って起きて飛び出ていたら家族の顰蹙が凄かったでしょうね。笑。そろそろ仙覚の円仁との天台宗が近づいているので比叡山の本を出して眺めています。横川。

東京国立博物館の【禅 心をかたちに】展、行ってきました。私の目的はただひとつ。建長寺様開山蘭渓道隆座像。分厚い朱の漆塗の江戸時代の修復をとったあとの清々しいお像。建長寺様では道場の中におられるので初めて拝観させて頂き感無量でした。

7

10月26日
おはようございます。私は写真や考古学をしてたからずっと靴が悩み。スニーカーで観劇やパーティーに行けないしヒールで発掘はできない。午前と午後にハシゴする時いつも悩みました。昨日東博に行って館内を歩いていて突然いっそもう低い靴に統一しようかと。低い靴で合うコーディネートを考慮中です。

昨日東博の本館で伝藤原光能像の展示をしていると知り余程帰りに寄りたく思ったのですが足が痛くて(笑)諦めました。最近は別の人の肖像画のようですがもうイメージが光能で定着してますものね。基子さんの姉妹のひとりが光能に嫁いでいて仙覚の京での活動にかかわりあったのかなあ等と考えています。

10月27日
鎌倉鶴岡八幡宮裏の後光。

8

北鎌倉駅ホーム背後の洞門トンネルは今破壊が中止になっていますが、こんな真新しい立札が立っていました。一遍聖絵で有名な巨袋坂の場面はこの岩盤の先端の上の路上ですだそう。この説明は私は初めて知りました。

9

鎌倉禅研究会で源氏物語を頂きました。五島美術館の図録です。1980年刊行。これは持ってなかったから貴重なプレゼント。鎌倉に行くと、お会いする方からよく、ああ、源氏物語の…と。そしてこんなふうに頂きます。最近は、コラム読んでます、も。

10

今日の鎌倉禅研究会は帰宅してから写真と一緒にアップさせて頂きます。東博で禅展をしていますが名古屋でもされていて、今日はそれを監修された総持寺宝蔵館館長岩橋春樹先生のお話でした。東博は臨済宗。名古屋は曹洞宗。みたいになるらしいです。

道中のお供は薔薇の名前。導入部数ページをコピーして持って出ました。最近は仙覚に没頭しているから資料より小説のほうが感性にしっくり。といっても薔薇の名前とシルトの岸辺だけですが。最近はこの二篇の導入部ばかり繰り返し見ています。なんだろう、やはり小説の文体は生きてるから?

10月28日
おはようございます。RTのパウル・ツェラン。もしかしたら一番好きなというか影響を受けている詩人かもしれない。現代詩を離れた頃に『雪の区域(パート)』が出てタイトルに惹かれて買っただけから、経歴を深く知りませんでした。朝から哀しみに入ってます。誰でもないものの薔薇。このフレーズ。

「ツェランの詩才と運命を見抜いていた夫人は、結婚の直後から自分の絵をあえてツェランの詩に従属させる道をとった」…、セーヌ川に投身自殺したパウル・ツェラン。同じく銅版画家という芸術家でツェランを見守り続けた夫人の胸中は如何ばかりだったでしょうと気になっていました。

覚悟ですね。芸術家の覚悟。最近覚悟という視点で世の中を見るようになった気がします。

連ツイ済みません。覚悟の件、仙覚を書いていてそうなりました。北条氏に滅ぼされて存在を消して生きるしかなくなった男の哀しみが基底だと思って書き始めたのですが、円仁を慕い、円仁の悉曇章に触発されて大和の言の葉の根源を確かめるべく万葉集に生涯をかけた男の精神の底にあるのは覚悟だと。

タウンニュース鎌倉版コラム第10回【極楽寺開山忍性と北条実時】が今日の号に掲載されています(いるはず?まだ入手できてなくて…)。ネットでは公開されていました。金沢文庫忍性展は今日開幕です。http://www.townnews.co.jp/0602/2016/10/28/355153.html

タウンニュース鎌倉版コラム第10回【極楽寺開山忍性と北条実時】、届きました。

11

金沢文庫忍性展の内覧会でした。4時からなのでその前にタウンニュースの記者さんに来て頂いて今後の打ち合わせ。10回になったので今後の方針の確認でした。私が最近学会発表や仙覚でいっぱいいっぱいなのを見てられるから「負担じゃないですか」と。大丈夫という事で今日の忍性の路線で続けます。

第9回までの松下禅尼のコラムでは時頼も北条実時もまだ若かったのですが、忍性と交流する称名寺創建の頃は時頼が執権の時代。時代が飛ぶけどいいでしょうと。なにより金沢文庫で忍性熱が燃えてますものね。展示では今日のコラムの龍源寺縁起はなかったけど、図録にあるのでしょうか。帰って確認。

メモ: 鎌倉禅研究会で蘭渓道隆様頂相を岩橋先生が宋画に見えるけど宋画にならった日本人画家によるのではと疑問符で仰られてた。私の印象では宋の画家。それは線の感じで。今日の忍性展で宋画にならった日本人画家の絵があっけどこれは完璧に日本人画家。宋画の線はいくら真似してもできないと思う。

帰りの車内です。蘭渓道隆様頂相の続き。講師の方は宋画の線をネチッコイと表現されるけど、私は宋画ほど清々しい線描はないと思っていて、表現が違うだけなのか、本当に違うのか、まるで逆なのが不思議でした。陶磁器も宋画の線と中国製磁器、日本人画家の線と日本製陶器にはっきり分類できるのでは?

金沢文庫入口前。先に記者さんと打合せをしてそれから外に出て撮ったのでもうすっかり暗くなっていました。一段高くなっている灯りの点いた隧道の向こうに称名寺の庭園が広がります。掲示板に清涼寺式釈迦如来像の忍性展ポスター。

12

メモ: 忍性展で気になった小田知重を検索したら八田知家の子。忍性が三村山極楽寺に入ったのは小田知重によると解説にあった。この小田知重が笠間時朝と懇意で忍性が鹿島神宮に参籠したのもこの関係からと。時朝は仙覚とも親交あるから忍性と仙覚が案外繋がる? 小田氏、深めなくては。

10月29日
おはようございます。金沢文庫の忍性展。図録を見てもタウンニュースコラムに書いた龍源寺縁起は飛ばされていました。私が歴史から離れている間に否定されたのかと心配になりましたがミネルヴァの本にも書かれていたのを思い出し安堵。内覧会には著者の松尾剛次先生も山形からいらしてました。

昨夜の内覧会は唐招提寺の長老様をはじめ、西大寺、極楽寺、称名寺の僧侶の方が結集されていたのが忍性という僧侶の内覧会らしくて素敵でした。奈良博の展示と違いを出すために金沢文庫らしい展示をと考えて、忍性の関東での活動50年に絞ったそうです。金沢文庫らしいという取り組み、いいですね!

昨日の忍性展で思ったのは、今まで私は称名寺の側から極楽寺を見ていたからある意味称名寺に対して贔屓目。ご論考でも称名寺のほうが先で忍性はその後みたいなのがあって私はその観点を鵜呑みにしてました。でも同じ清涼寺式釈迦如来像や十大弟子像には格段の差があり、指図でも寺院の規模が違う。それ

を見せつけられて考えたのですが、称名寺創建の実時は幕府の重鎮といっても家来。極楽寺は執権家筋の建立。格が違って当然なのでした。歴史は贔屓目という私的感情でみたらダメですね。亀山天皇皇子の益性法親王の書状は後期の展示ですが、法親王は称名寺の釼阿と極楽寺の順忍を弟子にします。それも、

どなたかのご論考で、法親王は釼阿よりも順忍のほうに重きをおいていたとあって、称名寺側の私は意気消沈したわけですが、昨日の展示でみた寺院の規模の格段の差をみたら、それは当然で、なにも二人の弟子の器の差や私的感情の好みではなかったのだと、なんか変なところでほっとしたのでした。笑

極楽寺伝法灌頂指図では「桁行七間の仏堂に中門廊が付けられた正式な密教建築」「京都の密教寺院と同様の伽藍が極楽寺に建立されていたことが分かる」とあります。『とはずがたり』二条が極楽寺を見て京都に引けをとらないと感嘆してますが、それが裏付けられました。

|

2016.10.24 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(9)第一章比企の乱までを終わり第二章に。比企の岩殿観音に舞台が移ります。

10月21日
おはようございます。お世話になっている三鷹緑化センターです。採りたての葉物が安価で入手できるのがなんか申し訳ないです。都心育ちの身には。落ち葉がすっかり秋の色になりました。

1

花水木の赤い実。東八道路沿いです。

2

私はこういう武蔵野の名残りの雑木林の光景が好きなんですがこれはもうほんの一部しか残ってなくて、これも井の頭公園の外れの玉川上水沿い。行政次第でいつ失われるか、昨今のオリンピックの為に簡単に街路樹を伐る政策をするお役所仕事が恐いです。

3

■■気象庁情報■■21日 14時07分頃 鳥取県中部(N35.4/E133.9)にて 最大震度6弱(M6.6)の地震が発生。 震源の深さは10km。

10月22日
おはようございます。鳥取の地震が続いていますね。早く収まりますように。仙覚の小説、比企の乱で身重の基子さんが鎌倉を脱出して比企へ向かうところで第一章を終りとし、第二章に入るのにどういう切口にするかを考えて昨日一日を過ごしました。どうやら「岩殿観音は」で始めるような気分の流れです。

若狭局はこの年頼家とのあいだに女の子を産んでおり…、若狭局が亡くなった今、女の子は祖母の政子が育てることになり、御所に引き取られた。後に成長して竹御所となる女児である。(第一章より)←後に仙覚の万葉集に貢献することになる仙覚の理想の女性として描きます。一度も会ったことのない二人。

先は遠いです・・・

鎌倉を脱出した基子さんが向かったのは比企の岩殿観音。地元では身重の夫人を隠して潜んでいるのがばれないよう、人の気配に敏感なくつわ虫を根絶やしにした伝承があります。村人がそうまでして基子さんを匿った。それを見越して基子さんが頼ったからには基子さんは前にここに来ていますね。多分夫と。

というわけで、新婚時代に夫時員に連れられて基子さんが岩殿観音を訪ね、村人に温かく迎えられる明るいエピソードを入れることにしました。岩殿観音別当が基子さんを匿い生まれた仙覚を預かり育てるのですが、この別当の風貌にまさかと思うくらいにぴったりな方と最近知り合って不思議です。

動き出したら突然止まらなくなります。基子さんの岩殿観音訪問。義父能員が岩殿観音再興に寄与してその何かの落慶法要があり、そこに夫時員と共に参加という設定が浮かんできました。この時のご本尊は政子の念持仏だったと。そういう本堂の描写を。岩殿観音は戦火で焼失しているから今はありません。

思い出しました。天台宗寺院岩殿観音。法要を書くなら僧侶が読む経典を把握しなければと。仙覚を書くにあたって天台宗の教義までは考えたけれど法要までは。法華経? でも、法華経ならどの品?などと思案中。私は結構いろいろな宗派の法要を観ているのですが天台宗だけはご縁がありませんでした。

あれ、使おう!と思いつく。湧現。ゆうげんと読みます。基子さんを夜の暗い観音堂堂内に入れて蝋燭の灯りで揺らめいて浮かび上がる金色のほとけさま。真言宗なら金泥の曼荼羅なのだけど、天台宗に曼荼羅はないでしょうから。湧現、好きな言葉です。そこで交わした別当との言葉が基子さんを導いた…と。

学会で研究発表をしたと申し上げたらある方が発表要旨を下さいと仰られたのでお送りしたら観音信仰の霊験に感動したとのお返事。その時仙覚は観音様に助けられた事を初めて認識。研究で岩殿観音岩殿観音とばかり言っても信仰の領域で考えたことがなかったので猛省。基子さんは観音様に助けられました。

閃きは一旦沈殿させてからでないと書いても上っ面になってしまうのであの後仮寝して起きてずっと基子さんを導いた別当の言葉って何だろうと考えていて、ふっと湧いたのがこれ。「観音様が守ってくれます」。私を頼りなさいみたいな直接的な言葉を想定してたので意外でしたが、正しいと思う。

これから執筆にかかると体力がもたないから薔薇の名前を読んでひとまず寝ようと冒頭を開いたら、そうっか、この岩山の導入部が最初に私にあったんだ〜! となりました。観音信仰に引きずられて危く古風な話にまとめてしまうところでした。導入部を考えます。薔薇の名前、なんとなく手にとったのに。

10月23日
タウンニュース鎌倉版コラムの第10回に金沢文庫の忍性展にかけて忍性を書いたら、昨日校正が届いてどうやら来週金曜日の号に載るらしい。まさに忍性展開幕の当日。ぶつけたのでしょうか・・・。ちょっとびびりました。笑

仙覚の小説第二章。昨朝はまだ「岩殿観音は」ではじめようくらいにしか思考がはたらかなかったのですが、深夜薔薇の名前を読んだら突然開けて「比企丘陵の南端に延びる尾根と尾根のあいだの谷間にその寺院はあった…」となりました。やっと書き出せます。薔薇の名前の触発力、凄いです。

|

2016.10.20 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(8)比企の乱まで書きました。仙覚の母の名を基子に。

10月16日
メモ:シルトの岸辺解説より。グラックの作品は、特定の人間像や、それらの人物によってつくり出される社会的状況などへの関心から生み出されたものではない。十九世紀的な意味での個人の存立や自我の形成を追求する小説でもない。物語の主人公は、人間の手では制御することのできない「宿命」である。

その宿命は、荒涼たる自然が、人間の上に落とす影として立ち現れる。←グラックのこういうところに影響されたのか元来私のなかにあったのか、とにかく今はグラック。そして仙覚。すっぽり嵌ってしまいました。比企の乱は順調に書き進めそうです。最初の一行は、比企谷の歴史は平治の乱にはじまる…

10月17日
それにしても『八雲御抄』。あのような端正な歌学書はご在位中に書かれたものとばかり思っていました。けれど、ご在位中に始めてはいられても承久の乱の時にはまだ未完成。佐渡に配流された後もえんえんと二十年間、崩御の間際まで書き続けられたとは。順徳帝のご精神の孤高さに打たれています。

10月18日
おはようございます。まだ比企の乱を終わってないのに昨日から岩殿観音が頭にちらちら。これは比企の乱がじきに書き終わるという予兆。私にとって書くことは深いところから言葉を繰り出すことだからこうして次のシーンが順番待ちのように湧いてくる。岩殿観音辺りの光景が結構リアルに浮かんでます。

比企の乱は、私のは小説であって歴史書ではないから、乱自体はほんのさわりの原因と結果だけ。『吾妻鏡』にある詳細な事件の経緯は省きます。それより後のことが大切で、それが仙覚が存在を消して生きなければならなかったことの理由。綿密に書きたい。

先程比企の乱はほんのさわりで通過とツイートしたら、突然動き出しました。その前の部分が。比企の乱は誰でも知っている経過だから書くのがつまらなくて原因と結果でよしとして次に進む予定だったのが、どうやらあまりのつまらなさに詰まっていたよう。吐き出したら蓋がとれて前の部分が出てきました。

つまり仙覚の母と若狭局のこと。比企の乱はこの二人の女性にとっての悲劇で、この比企の乱の年に同時に赤子を産んでいて、その赤子がそれぞれ仙覚となり竹御所となり、小説『仙覚』の核になります。竹御所はゆくゆく四代将軍頼経の正室になって各地に潜伏する比企氏ゆかりの帰省を許すなど。

そして、さらに大事なのは、竹御所の崩御で将軍頼経が菩提を弔うための新釈迦堂を建て、そこに住持として仙覚が呼ばれ、そこで万葉集の校訂をして仙覚は万葉学者になった…、うん、やっと動き出しました。やはり詰まってたみたいです。

仙覚の母の名前は何に? 以前ある作品で主人公の名前を典子にしたら現代の当主の方が同じと知ってびっくりしました。ある方にそれを言ったら面白い、と。別の作品で泰子を使ったらある方が、それ、僕が寒河尼に使ってます、と。名前って、やはりその家らしさが出ますよね。

基子にすることに決めました。ほんとうは元子にしたかったのだけどその名前の友人がいて。それで同じ読みで考えたら浮かんだのですが、結構いいかも。仙覚を産む基本中の基本の女性ですものね。

虹色の綺麗な幻日が出ていました@吉祥寺

1

「心の闇だね」よく彼はそう言った。→また玄覚の声がしました。比企の乱。時政と政子が起したんですよね。政子は実の子の頼家を殺してまで弟の実朝を第三代将軍に就けるんです。何なのだろうと考えていたら玄覚の声がしました。心の闇だねは仙覚の言葉です。仙覚は見るものを見た人だったのでしょう。

10月19日
おはようございます。昨朝は悠長にもう比企の乱は終わって岩殿観音などと呟きましたが、突然基子さんが登場して、そうしたら政子と若狭局の確執を書かなければ比企の乱の内実はわからないとなり心の闇だねの言葉まで浮かんで。基子さんが岩殿観音に行くのは当分先になりました。やっと動き出しました。

動き出したと思ってもまだその先があって、これでほんとうに動き出したと思うのだけれど、しばらく経つとまたその先が生じて、小説の世界は深いです。

仙覚は北条氏によって滅ぼされた一族の人間であり、順徳院、頼経、後嵯峨院、宗尊親王と、関わった権力者はみな朝廷の方。鎌倉にいても普通の鎌倉人とは視点が違っているはず。しかも北条氏に素性を知られたら殺されるわけだし。けれど最後に幕府の重鎮実時と懇意になる。万葉集を軸に。そこが凄い。

比企の乱の時、若狭局がどうなったかまだ決まってません。妙本寺の蛇苦止堂にある池か井戸に身を投げたといわれますが、比企には若狭局が頼家の位牌を持って逃げ延びた伝承や草庵跡があります。蛇苦止堂はおどろおどろしい名前ですが、蛇のような若狭局の苦しみを止めるといういい意味なんですよね。

10月20日
おはようございます。若狭局の処理。昨夜現代語訳吾妻鏡をみたら解説に、若狭局は比企の乱で比企谷に立て籠もった一族と一緒に焼死したとありました。吾妻鏡の本文にその記述がないから最初は違和感があったのですが、先程、そこに一幡もいた、と書いた続きに自然に、若狭局もいた、と書いていました。

若狭局が一族と一緒に焼死したとすると以前から感じていた違和感がなくなることもこの説にした要因です。翌日焼けた死骸の中から乳母が一幡の遺骨を探し最後に着ていた菊の文様の小袖からー幡と特定。それが妙本寺境内の一幡の袖塚の由来です。この乳母がであって若狭局がでないのが私には疑問でした。

ふつうなら我が子の悲劇に狂乱して遺骨を探し回る若狭局が描かれて当然の場面に登場しない。これがずっと気になっていました。

「業は止められないのだよ」そう言う父の顔には笑みさえあった。幾多の業に翻弄されて生きた彼にはもうひとつひとつの業ひとりひとりの業はどれほどのものでもなくなっていた……休憩しようと横になったら浮かんできた一文。慌てて起きて挿入しました。なんかとても大それたことを書いてます。笑

思いがけず比企の乱が済んで基子さんを書く段階に。もしかしたら今日中に基子さん、岩殿観音に行くかも。(となると、取材に行きたいのにお天気や健康や日程の都合が合わなくてのびのびになっている所、早く行かないと間に合わない…泣)

|

2016.10.17 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(7)ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』。順徳院『八雲御抄』。ようやく鎌倉の地質が理解できました。

10月8日
鈴木良昭先生「異説・明王院五大堂考ー創建とその所在位置をめぐってー」(『鎌倉』121号)、面白かったです。第四代将軍頼経の御願寺で、鎌倉で唯一残る将軍の御願寺。現在十二所にありますが鈴木先生は史料を駆使して創建時は二階堂にあったと。私も訪ねた時に違和感を覚えましたので納得でした。

10月9日
頼経の御願寺明王院は、正室竹御所が自身の父頼家追悼のための寺院建立と一緒に幕府に願い出たもの。北条氏にとって自分達が滅ぼした頼家のための寺院など認める訳にいかないだろうから、明王院がいわば隠蓑となって願い出たというのが私の説。案の定幕府は乗り気でなく場所定めに二転三転します。

そういう背景で現在の明王院を訪ねるとどうも将軍の御願寺の威厳がないというか敷地の規模に無理が。鈴木先生のご説では小さな谷戸全域にわたっての創建時の風情が想像できてしっくり。昨日からこの明王院の風情が私の中で広がってゆたかです。

夕焼けの中の半月が綺麗なので撮ったのですが、ズームしたら周りにあった雲がファインダーに入らなくて残念に。でも朧な半月もまた風情。今日は上弦の月なんですね。

20

もう一枚。半月と夕焼け雲の全体像です。みつけた時には雲が黄金色に輝いていてもっと綺麗でした。

21

10月10日
おはようございます。久しぶりに緑化センターに。猛夏のあいだ中ご無沙汰でした。仙覚にかかったら水やりの気がまわらなくなるから絶対買わない覚悟で行ったのに買ってしまいました。笑。パープルセージの鉢植え。緑化センターの誘惑には勝てません。

今日は順徳天皇。なぜか昨夕からひっかかって離れない。なので検索をかけたりしています。今またひっかかったのは範季の孫だとは! 能円の関係で調べたことあるけど孫だったなんて。範季は範頼を育ててるから比企氏に近い。仙覚の比企氏が順徳天皇にどう…

範季は、姪の範子を能円に嫁がせ、その子在子が後鳥羽院とのあいだに土御門天皇を。娘の重子が後鳥羽院とのあいだに順徳天皇を産んだ…。←在子の流れしか見ていませんでした。ゆくゆく後嵯峨天皇になっていく流れ。

『八雲御抄』を借りてきました。なぜか順徳天皇から離れられません。

メモ:範季は範頼の養父だから子息の範資と範頼は親しい。当然姉弟か兄妹かの関係の重子と範頼も親しかったはず。重子が後鳥羽院の寵姫になって順徳天皇を産み、重子の口から範頼の妻の比企尼の孫娘の話を聞いていたとして、順徳天皇には比企氏が他人事でなかった。比企の乱の時、順徳天皇は7歳。

順徳天皇は仙覚が「比企氏ゆかり」だということを知っていたのだろうか、を思考中です。知っていてこそのその後がある設定のほうが自然。だとすると、仙覚はやはり、京に上るときに出生を知らされた設定にするのが最善。

仙覚が上洛したのは16歳。順徳天皇とは6歳違いだから天皇は22歳。承久の乱の時は、仙覚19歳。順徳天皇25歳。→佐渡に。

10月11日
おはようございます。昨夜八雲御抄を読みながらうとうとして文章の中に仙覚の2文字を見つけ、やはりあった、でもまさか、本当? と確かめ、あることを確認して、ツイッターに呟こうとしたけど明日にしようと延ばしたような夢うつつの就寝。起きてすぐ確かめたらやはりあるはずがなくがっかり。

昨日図書館でこれが文庫になっていたんだ!と借りた本。ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』。仙覚の構想を練るのに薔薇の名前と同じく読まなければと気にしていたのです。夜、解説を読んだらグラックも地学の先生でした。成る程となんか感動。小説に入ったら引きずられすぎて慌てて閉じました。

仙覚の小説。比企の乱を書くところで詰まっていましたが、鎌倉も凝灰岩の岩場の地。そこから始めなければいけなかったのだとグラックの解説から思い起こされてようやく動き出せそう。比企の乱を書くだけならただの歴史小説。ありきたりは嫌いです。

メモ(安藤元雄氏シルトの岸辺解説より):グラックの作品はしばしば詩的小説と評される。しかしそれは、彼の文体がことさらに散文詩的な彫琢をほどこされているためばかりでもないし、いわんやそこに詩的な情景がちりばめられているためでもない。むしろそれは、こうした角度から筆を執る彼にとって、

必然的な技法として、言葉の喚起機能を極度に活用し、いわば文体そのものによって予感と期待とを表現しなければならなかったところから来ているのだ。

シルトの岸辺、やはり無視できなくて読み始めたのですが、まるで文体が媚薬。

10月12日
おはようございます。順徳帝が一段落したら仙覚を一旦離れてグラックの『シルトの岸辺』に専念することに。薔薇の名前は構造の問題だったからさわりだけで通過できたけど、シルトは文体という生き物だから思い切り入って影響を受けてみようと思う。まさか前回読んでからまた読み返す時がくるなんて。

グラックはこの作品の後さらに大作を構想しながらできなかったそう。やがて次第にフィクションから遠ざかって随想や地誌を書くだけになったとか。それはシルトがどれほどの労苦を必要としたかということで、難渋に難渋を重ねてほとんど知力と体力の限界で書かれたと。仙覚にもそれ位の覚悟が必要?

秋草の風情は若沖で知ったのだけれど…@羽村。今日は撮影にきました。急に寒くなったのと撮影が絡んでいっそカメラマンファッションに戻そうかしらなどと。

22

道中のお供はシルトの岸辺。あ、この一節、臨書しよう。あ、この一節も、とほとんど興奮状態なので頭を冷やすためにツイッターに。薔薇の名前の時も臨書してたらアドソの手記が玄覚の手記になりました。(と打ってたら自動変換が、薔薇の岸辺、ですって。笑)

道中の徒然ツイートです。シルトの岸辺に戻ったのだけれど、荒涼とした情景描写を読んでいたら、羽田で撮っていた時によく整備工場の裏や多摩川べりの倉庫など撮りに行かされて、その荒涼とした光景に惹かれて仕事の合間に撮っていたけど、あれらの写真、今出してもいいだろうな。当然モノクロ。

10月13日
八雲御抄。順徳天皇は25歳で承久の乱で敗れて佐渡に流されるけど、八雲御抄は未完成ながら出来ていて皇子の仲恭天皇に形見に贈られた。佐渡に渡られてからも執筆は続けられ、ほぼ完成した本を定家に送られたが、まもなく崩御されたために定家のもとに御宸筆の八雲御抄が残った。それを玄覚が書写。

何枚か撮っていたら突然雲間から陽が射して白壁が輝きそこに葉むらの影が落ちてファインダーの中の景色が一変した。あ、と思ってシャッターを切ったけどすぐ陽は翳ってしまった。あの輝きをもう一度とまた陽が出るのを待つこと数分…、というような「撮る」という行為の快感。久しぶりに堪能しました。

おはようございます。昨日のシルトの岸辺。立ったままテーブルに身をかがめ、という段落の書き出しに、これだ!、となりました。グラックの文章は決して詩的な言葉や表現が使われているわけではないのにずっと散文詩の波長で運ばれているかのよう。詩的=感性でないところが好みです。いわば硬質。

古書店で『地学概論』を買いました。立派な学術書なのに、100円 @吉祥寺

研究と執筆を置いて読書に専念とした一日のなんと無聊なこと。あまりの退屈さにさきほどから仙覚の原稿に戻ってやっと人心地ついてます。それで鎌倉の地質を調べていたら、なんと、谷戸=谷ではなかったんですね。谷戸は丘陵の合間を人工的に平場に造ったものと。驚きました。とういか、うかつでした。

鎌倉の地質は凝灰岩、という脈略で論を運ぼうとしても膨らまない。そのうちに谷戸という言葉が浮かんで、あれ?、比企谷は谷だっけ、谷戸だっけ、と調べたのがきっかけでした。「谷戸」がどこか普遍的でないのはそういうことだったんですね。鎌倉の地質は凝灰岩でなく谷戸でいくことにしました。

鎌倉の歴史は一つの谷戸に一つの歴史、という構図。比企谷という谷戸に比企の乱。先日の鈴木良昭先生の創建時の明王院があった杉ケ谷には将軍頼経御願寺の歴史、といった具合に。

10月14日
谷戸は尾根と尾根にはさまれた奥が行きどまりの細長い狭い空間だから、歴史の空気が往時のままに残ってぎゅっと凝縮されている…、昨夜からずっと谷戸、谷戸、谷戸と思い続けてやっと突然今鎌倉の最初の文章が浮かびました。おはようございます。やっと今日から本格的に比企の乱にかかれます。

昨夜就寝前に記した鎌倉の最初の一行。鎌倉には多くのの谷戸がありその一つ一つに歴史がある、この時はこれでいいと思ったけど今朝湧いた文章は次元が違う。こういうのを待って書き継いでいくとしたら、まだ生まれていない仙覚の70数年の生涯を描くのにどれほど時間がかかる? 果てしないです。

10月15日
ようやく鎌倉の地質が理解できました。簡単なことなのにどこにもこういう形で書いてなくて地学の本を数冊渉猟しました。1番下には栃木の足尾山地が延びてきていてそれは硬い岩盤。その上に凝灰岩の地盤が乗る。これは深海に堆積されたものが地殻変動で隆起して地表に出たもの。堆積岩なので脆いです。

鎌倉は三方を山で囲まれてというけれど、実際はそれは山ではなくて丘陵。多摩丘陵らしいです。その末端だから尾根が何本もあちこちに延びてそれで谷戸ができる。と、こんなふう。間違っていたらご指摘頂けると嬉しいです。感動したのは足尾山地が鎌倉の下にあったこと。円仁の生誕地がその麓。

深いところの地殻が電磁波かなにかを出していてそれがそこに生きる人の生涯に影響しているのではないかと私は感じているのですが、円仁の生誕地の岩盤が延びて鎌倉の下にあって、そしてその鎌倉で円仁の悉曇学に影響された仙覚がそれを解くために万葉集の研究をした…、不思議な巡り合わせ過ぎ!

八雲御抄巻第五「名所部」より:みかほの関(山也。みがほし山は、古名所。但、在常陸国歟。是者慈覚大師誕生所也。未詠歌か。)←円仁の生誕地がみかほの関(三鴫の関)とした最古の文献だそうです。順徳天皇はどこからこの情報を得たのでしょう←私は仙覚からとして小説を進めたい。

これは壮大なるフィクションかもしれない。もしかしたら真実かもしれない。ただ鎌倉時代に存在を消して生きた比企氏ゆかりの一人の男がいて、仙覚という学僧が万葉集研究に生涯を傾けたのは事実である。←というフレーズをどこかに入れようと思っています。はじめにとか、あとがきとか、扉の裏とかに。

|

2016.10.15 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(6)仙覚の風貌はジョルジュ・ブラッサンに? タウンニュース鎌倉版コラム第10回に忍性を書きました。

10月1日
おはようございます。ほとんど今、朔の瞬間。そして今日から10月。窓から雨に濡れながらも健気にすっくと咲く玉簾の白い花が見えています。今年は手入れが行き届かなかったから例年より花が少なめ。仙覚の原稿の最初の一行を打って出かけようと思います。

仙覚の最初の一行を記しました。といっても思いついた時に手帳にメモってあるからそれを打っただけですが。昨日メールで「存在感と安心感は関係ありますか」と頂き、まさにそれ!と得心。ふしぎなくらいに感性のいい方です。「存在を消して生きた男の苦しみ」を書こうとしていますと返信しました。

今日はホームを間違わずに入りました。出がけのポストに学会で発表した後ご感想をお寄せ頂いた方からのまたのお返事。仙覚の小説にかかるとお伝えした事にです。封だけ切って持って出ました。座れたので拝読。仙覚の功績を是非広めて下さいと。学会の重鎮の方のこのお励ましは嬉しいです。

称名寺では彼岸花とともに秋の色。金沢文庫国宝指定記念連続講座全五回今日で終了。三回しか参加できませんでしたが、疲れました。笑。次の忍性展でも連続講座や特別講演が企画されてますが、もう無理と最初から諦め。松尾剛次先生まで来られるのに。

1

金沢文庫企画展「国宝でよみとく神仏のすがた」。ようやく拝観。神仏の展示に混じって国宝の聖教類が展示されていて、今までローカル色たっぷりで安心して観てまわれた展示室がなんか後光がさしているみたいに輝いて感じられました。

金沢文庫の今日の講座は上野勝久先生の指図。指図から歴史が読めるのは私自身体験済みですが、高野山の指図の「石町」とつくタイトルの指図から、町石が鎌倉幕府の御家人によって建てられた事がわかったお話は感動ものでした。指図で解明するまでそれは知られてなかった歴史だなんて。

金沢文庫「国宝でよみとく神仏のすがた」展チラシ裏面中央の聖観音菩薩像ですが、キャプションに「平安時代後期には、比叡山横川中堂の本尊の聖観音が特に崇敬されていて、本像もその一例」とありました。検索したら本尊は円仁作ともいわれてるとか。

2

仙覚のためのノートを見たら、8月1日にはまだ仙覚の小説は「比企の遺児 仙覚と竹御所」で、9月1日に円仁の悉曇章を調べていて、2日に円仁の生誕地を調べたりしていて、玄覚を語り手にしようと思いついたのはやっと20日。25日には玄覚の手記にしようと。9月後半になって加速しました。

10月2日
初印字。仙覚の小説。あえて段落をつけずに1ページくらい書いてプリントしたらフランドルへの道みたいで快感。いっそこの手法でとなのを我慢してふつうに改行することにしたと娘に言ったら、正解!と言われました。改行なしの小説なんて見ただけでみんな、あ、無理、となるよと。言うことを聞きます。

10月3日
ルイ・アラゴンを読んだことがなかったのですが、今日RTさせて頂いた愛書家日記さんの二つのツイートがあまりに素敵だったので検索したらびっくり! 仙覚さんに通底するものがありすぎて。ちょうど今これを書いていました。

http://www.geocities.jp/oshimahakkou/nenpu/kishorapa.html

今日からジョルジュ・ブラッサンのルイ・アラゴン「幸せな愛はどこにもない」。アラゴンのフレーズ、どれもこれも仙覚に使える。

10月4日
繰り返しジョルジュ・ブラッサンを聴いてたら仙覚の小説がなんか映画タルコフスキーみたいな映像で見えてきた。うん、いい兆候。決して従来型の歴史小説にはしないぞと。パリのセーヌ河畔の書店の店先に並ぶために。と、豪語。笑

私にとってまだ仙覚は13歳の少年だけど、ジョルジュ・ブラッサンのアルバムジャケットを見ているとこういう年齢の仙覚にもなっていくし、最後はそれこそほんとうに仙人のようかもと思う。まだ仙覚の風貌が決まりません。顎が尖っているか否かなど。いっそブラッサンにしてしまおうかなどと。

10月5日
おはようございます。↓RT。朝からアンセル・アダムス。突然胸に月夜の光景が広がりました。いいですね。やはりアンセル・アダムス。仙覚の小説に使おう !

メモ: 今朝浮かんだタイトル『やまとのことの葉ー仙覚』。最初『ことばのみなもとー仙覚』が浮かんでそれから。え?っ、玄覚の手記じゃなかったの?と怒られそうですが、ピリオドを打つまで迷走します。ご容赦頂いてお付き合い頂けたら嬉しいです。

ミネルヴァ書房の松尾剛次先生『忍性 慈悲ニ過ギタ』を借りに図書館に行ったついでに写真集『アンセル・アダムスの作例集』を借りてきました。

10月6日
おはようございます。ミョウガ、刻んでおかかを乗せてお醤油をかけて頂くのが好きなのですがたった3個で・・・円。もったいないから鉢植えしました。でも葉だけ伸びていっこうにできない。諦めていたらTLで3年たてばどっさりと読んでじゃあ待ちましょうと思ったばかりの今朝、2個生えてました。

タウンニュース鎌倉版コラム。忍性を書くことに決めて以前のシンポジウムのレジュメを探したけど、鎌倉の源氏物語研究にかかる前の資料はもう発掘不可能。仕方なく昨日ミネルヴァの評伝を借りてきました。これは私が書こうとしている事が既に書かれているかのチェックにも。新鮮な記事を書きたいから。

東北ー南東小笠原諸島ラインのシマシマの雲が出ていました。

3

最初はこんなでした。北東側からの発生。みるみる伸びて小笠原諸島に繋がりました。

4

10月7日
おはようございます。書こうとしている忍性。もう10年以上も前、金沢文庫の展示や図書室に通いつめていた頃、折にふれて入手した情報は時代がごちゃごちゃ。ミネルヴァの評伝巻末の年譜で整理したら書きたかった称名寺三重塔供養の導師を勤めたのは後年。とても一回のコラムに収めきれないと逡巡中。

善峯寺、早急に行きたいのですが無理。玄覚がここの一室で回想録を書き出した設定。もう書いてしまったから焦って行かなくてもよくはなりました。最後のまとめに玄覚が筆を終えて我に返って現実に立ち返る時、行った経験を生かして描写する? と、今はそう考えています。桜のころ行きたい。

ジョルジュ・ブラッサン。アルバムジャケットの一枚の写真を見るほどに、う?ん、仙覚だ?と。イメージほぼ確定ですが先程ふとドクトル・ジバゴのオマー・シャリフに似ている気が。そうっか、仙覚の人生はまさにジバゴだものなとつくづく。昔からこういう時勢に翻弄される人間に興味があったようです。

タウンニュース鎌倉版コラム「極楽寺開山忍性と北条実時」、送信しました。これで一つ片付いて頭が少し軽くなりました。あと少し頑張ってもっと空っぽにして早く仙覚に専念したい。

タウンユース鎌倉版コラムの第10回。無事に通りました。第9回まで松下禅尼と源氏物語だったのが、今回から忍性。時代が飛びます。幼年だった時頼がもう執権になっています。笑。忍性はこの時代の人なんですね。宗尊親王が下向された年に関東に下り、最初は常陸三村山。ここに10年いて鎌倉に。

10月8日
おはようございます。昨日書いた忍性は急に「菩薩」と呼ばれる展示になって、それまで石工集団を率いて関税をとるどちらかといえば悪辣な政治家と学んでいた私はびっくり。悲田院を作っているから薄々察してはいましたが。菩薩は、ミネルヴァの松尾剛次先生の新たな牽引とあとがきを読んで知りました。

羽村の夕景。なんでしょう、このヒョロヒョロ。

5

どうやらこれは富士山の雲のよう。グーグルマップで方向を辿って行ったらぴったし富士山になりました。この日、富士山では巨大な暈雲とレンズ雲の出現で話題になりました。

|

2016.10.9 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(5)地質構造学。鎌倉禅研究会のようす、など。

9月27日
メモ: 最澄は天台智ギの教えを追って天台山に行き、最澄の弟子の円仁も天台山を目指したがどうしても許可が下りず五台山へ。円仁というとすぐ五台山が思い浮かぶ背景には円仁のこんな諦めが。←

メモ:構造地質学の成り立ちは、地質学の最大の謎の一つである「山はどうしてできたのか」、すなわち造山運動を解明することと深くかかわってきた。最初に気がついたのは近代地質学の創始者の一人、ジェームス・ハットン。18世紀の後半にハットンは露頭の観察からマグマの貫入現象に気づき…、

ハットン以前は水成論。ハットンの最初は火成論。それからさらに傾斜不整合に気づき「ハットンの不整合」。下位の地層が受けた変動は、後にカレドニア造山運動と名付けられた。ハットンは、緩慢な運動でも非常に長い時間をかければ山ができたり不整合が形成されることに気がつき造山運動の基礎を築く。

メモ: ハットンやナウマンのように、露頭や地形などの注意深い観察に基づいた解釈が、近代地質学とその一分野てある構造地質学の発展にとって重要な概念を提供してきた。構造地質学で主として扱う地質構造とは、地球内部の物理的要因によって形成されたものである。したがって、地質構造の素材と

しての地層や岩石が形成された当時の構造は、堆積学や岩石学の分野が受け持つ。構造地質学は、それらの地層や岩石が形成された後に、どのような過程で現在に至ったかに重点。(狩野謙一・村田明広『構造地質学』より)

9月28日
おはようございます。鎌倉禅研究会の9月の例会を明日に控えて久々にFBの更新をしたら皆様応えて下さってたった夏を越えただけなのになにかとても懐かしい気がしてしみじみ。連日の外出はきついから昨日から一生懸命休んで体力の補強をしています。その分仙覚のための読書が可能に。

明日は建長寺という気分でふっと仙覚は時頼と会ったことがあるか考えてしまいました。仙覚が宗尊親王に万葉集を献呈した時にはもう時頼は亡くなっています。頼経に命じられて万葉集を校訂した時の将軍は頼経子息の頼嗣。時頼の妹檜皮姫が正室だから御所に面会に来たでしょう。仙覚と会った可能性も?

と、そんな時代を書くのはずっと先。でもこのあたりになると陰謀渦巻く執権家対将軍家の政治史がかかわってくるから書きごたえあるでしょうね。

9月29日
おはようございます。鎌倉禅研究会FBに頂いた、いいね!、が今朝見たら99件になっていました。今日中に100件になるでしょう。ユーザーネームの登録はもう諦めたからいいのだけれど、なんかちょっと緊張。人間ってこんな些細なことでも精神状態に作用してくるんですね。不動って、大変!

うーん、もう、と思わず。最近鎌倉と金沢文庫に交互に行ってるからうっかり違うホームに入ってしまいました。仕方ないからこのままこの路線で。道中のお供は玄覚や真観と風土記。仙覚も風土記を多用していますが、万葉集研究に風土記が必須だったよう。歌枕のため? 鎌倉に向かっています。

9月30日
おはようございます。昨夜は疲れて帰宅後ひたすら就寝。今起きました。TLを遡って十勝地方で発震があったと知り、一昨夜北海道方面の夜空を覆う雲が真っ白でM4位があるなあと思ったのを思い出しました。震災前はそれを撮ると緑色の星雲みたいに写って不思議だったのですが、今はただの夜空です。

youtubeが始まる前のCMで神韻を観るのが好き。特に昨日鎌倉禅研究会の後、蘭渓道隆語録の現代語訳をされている彭丹先生とご一緒して帰ったから気分が密接。彭丹先生は中国の方なのにお着物。着物が好きで日本に来られたそう。蘭渓道隆の生誕地ご出身というとんでもない巡り合わせの方です。

昨日の帰りに彭丹先生と「お上りさん」した東京駅の夜景をアップします。綺麗でした。

30

昨日の鎌倉禅研究会の様子です。彭丹先生の1講が終わって2講に移る間の光景。昨日は建長寺様は四ツ頭茶会の準備とかで大勢和尚様が集まってらしていて会場がいつもの応供堂でなく写真の得月楼に。初めてです。昨日の様子は後でFBにまとめます。

31

昨日の鎌倉禅研究会のようす。第1講「蘭渓道隆和尚語録の現代語訳」が始まる前の楽しそうな主宰建長寺元宗務総長高井正俊様と彭丹先生。これからFBの編集。先にこちらでご紹介。

32

昨日の鎌倉禅研究会をFBにアップしました。登録していない方は「鎌倉禅研究会」で検索してご覧下さい。写真は浅見龍介先生が蘭渓道隆様のお像の解説をされているところ。開山様の眼光の鋭さを表現するのに截金で細い金線が施されているそうです。

33

|

2016.10.2 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(4)慶應義塾大学【井筒俊彦全集完結記念シンポジウム】のこと。羽村宗禅寺様の彼岸花。仙覚の小説、タイトルを『仙覚 ある学僧の手記』にする。

9月24日
井筒俊彦世界を堪能しました。慶應の全集完結記念シンポジウム。安藤礼二先生が紹介された『言語と呪術』は英語で書かれているから知らない人も多いでしょうと。私も知りませんでした。井筒俊彦は西脇順三郎と折口信夫を尊敬していて二人共学者であると同時に詩人や歌人で共通して古代というタームと。

安藤礼二先生。人間は決してたった一人でその人になるのではない。先輩との出逢いによって、その先輩の持つ力を学んだり得る事でなる。井筒俊彦は二人の人との出逢いにより井筒俊彦になった。それが西脇順三郎と折口信夫。(言い方は違いますがこのような意味でした)

『言語と呪術』の件。安藤礼二先生曰く。現代は言葉が現実を固定してしまうから他と繋がらない。古代は呪術の力で意外なもの同士が繋がれる。それが詩に。それが西脇順三郎と折口信夫が標榜する古代という力。(またまた言い方は違いますが、そんな意味の事を仰られました)

意味の固定…。ほんとうに現代はそうですね。

9月25日
おはようございます。昨日の慶應シンポで驚いたこと。井筒俊彦はイラン革命で勤務していたテヘランを去り帰国と。イラン革命がなかったら日本語で書かれた『意識と本質』『意味の深みへ』は生まれなかった。きっと生涯帰国されずにいただろうとのこと。私には『意味の深みへ』があって今があります。

昨日の気分に引きずられて円仁を返すついでに井筒俊彦の禅の本を借りに行こうとしたらソファに読みかけの資料が伏せられていて、何だったかしらと見たら玄覚。そうだ私はもう迂回してはいけないのだと我に返り、原点に戻って地質構造学を借りてきました。案外これは地学における井筒俊彦かも。笑

しばらく書きたい衝動から離れることばかりしてましたので、あえて薔薇の名前に浸ってみました。表紙の見返しにあったウンベルト・エーコのプロフィールを見たら記号論の学者で大学の教授もされてたと。言語論の井筒俊彦。悉曇学の仙覚。と、みんな〈言の葉〉グループ。まさに意味の深みへです!

寝ようとして急に「私は玄覚です」の一行が。最後の一行に使いたいと思います。私ですか、私は橋です。のあの親切かつ衝撃的ラストになればいい。

9月26日
おはようございます。昨夜の薔薇の名前で比企の乱の入れ方が解決ついたかも。回想にしようか説明にしようか、いつどこにどう入れようか悩んでいました。あとタイトルですが単的に『仙覚』と決めていたのですが『仙覚 ある学僧の手記』に。ある学僧は玄覚。それで最後の一行が昨夜の呟きに。

と、手の内をみんな書いてしまっていますが、執筆に入っても一年かそれ以上かかります。なので読んで頂くころには皆様お忘れになってられるでしょうし、覚えていて頂いて、ああ、あの時のがこれか?と楽しんで頂けたら、それは冥利につきます。

今でこそ比企はという最初の一行が浮かんで書き出したくなってたまらないのだけど今日はお出かけ。以前最初の一行ができたと呟いてそれは大切に保存してあるのだけれど必然的に繰り上げて、よく本の扉の裏に金言めいた文句が書かれているあれに。あれ、なんていうのでしょう。決まった名称あるのかな?

白い彼岸花と石仏@羽村

22_2

赤い彼岸花と石仏@羽村

23_2

今日の道中のお供は摩訶止観の解説。薔薇の名前を持って出たら書きたくなっても書けないから。摩訶止観は本文に入るまでは叶わなかったけど、やはり認識しておきたい。そして、この解説を書かれた村中祐生先生、思いがけず文学的でいいです。私にはラッキーなめぐり逢い。

9月27日
昨日の会合は楽しかったのですが、そうなると仙覚の原稿に戻るのが大変だから一生懸命逃げたのに逃げきれず結局。案の定帰宅してこんな時間になっても疲労もあって没頭する気にならない。仕方なく借りてあった地質構造学の本を見てナウマンが見たフォッサマグナという写真に狂気。断層の写真にも。

近づいて参りました。鎌倉禅研究会、秋以降のスケジュール最初回。9月29日(木)13時?16時半。1講: 彭丹先生「建長寺開山蘭渓和尚語録の現代語訳」 2講: 東京国立博物館浅見龍介先生「『禅ー心をかたちにー』展覧会の前に 」。

会場は写真の奥の建物「得月楼」の中の「応供堂」。写真手前から、仏殿→法堂→大庫裡→得月楼です。方丈「龍王殿」に入る時と同じ玄関です。

24

摩訶止観の解説読了。前に引用の一節に再び。己をみつめていく生き方が、そのままにおいて、永遠なるものとかかわるものであることを、教観の思想は教えている。これはそのまま仙覚の心の底にあったものとしてわかるけど、仙覚が天台智ギまで思いを走らすことがあったか疑問が残りました。

天台大師智ギに感銘を受けています。こんな感覚、はじめて。という感じ。何だろう、この感覚。凄い人ですね。

仙覚は円仁の悉曇章に震撼して円仁を追慕したが、円仁が追慕した天台智ギには思いが至ってない、というところが私の今の見解。人間には宗教的人間と文学的人間があって、仙覚は後者と思う。摩訶止観を仙覚も見たかもしれないけど悉曇章のような出逢いにはならなかった…のでは?

メモ: 中国に仏教が伝来した時、それは必ず禅観の実習を伴っていたが、老荘思想などで仏教の思想を理解しようとするなどの時代の趨勢から瞑想の方法は不確かにしか伝えられなかった。←目から鱗。天台智ギの研鑽はそれに対するもの。それは「理論や思想という観念の所産でなく、自己の精神の深みに

おいて体験されたかけがえのない事実に基づいている」 ←なんか、不思議。仏教を密教から入って空海と最澄の違いみたいなところから天台宗の印象をもってしまったそもそもを覆されました。大きな過ちを犯してたようです。(これは仙覚の執筆と関係のない私個人の感想。こんなところで正されるなんて)

|

« September 2016 | Main | November 2016 »