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2016.10.20 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(8)比企の乱まで書きました。仙覚の母の名を基子に。

10月16日
メモ:シルトの岸辺解説より。グラックの作品は、特定の人間像や、それらの人物によってつくり出される社会的状況などへの関心から生み出されたものではない。十九世紀的な意味での個人の存立や自我の形成を追求する小説でもない。物語の主人公は、人間の手では制御することのできない「宿命」である。

その宿命は、荒涼たる自然が、人間の上に落とす影として立ち現れる。←グラックのこういうところに影響されたのか元来私のなかにあったのか、とにかく今はグラック。そして仙覚。すっぽり嵌ってしまいました。比企の乱は順調に書き進めそうです。最初の一行は、比企谷の歴史は平治の乱にはじまる…

10月17日
それにしても『八雲御抄』。あのような端正な歌学書はご在位中に書かれたものとばかり思っていました。けれど、ご在位中に始めてはいられても承久の乱の時にはまだ未完成。佐渡に配流された後もえんえんと二十年間、崩御の間際まで書き続けられたとは。順徳帝のご精神の孤高さに打たれています。

10月18日
おはようございます。まだ比企の乱を終わってないのに昨日から岩殿観音が頭にちらちら。これは比企の乱がじきに書き終わるという予兆。私にとって書くことは深いところから言葉を繰り出すことだからこうして次のシーンが順番待ちのように湧いてくる。岩殿観音辺りの光景が結構リアルに浮かんでます。

比企の乱は、私のは小説であって歴史書ではないから、乱自体はほんのさわりの原因と結果だけ。『吾妻鏡』にある詳細な事件の経緯は省きます。それより後のことが大切で、それが仙覚が存在を消して生きなければならなかったことの理由。綿密に書きたい。

先程比企の乱はほんのさわりで通過とツイートしたら、突然動き出しました。その前の部分が。比企の乱は誰でも知っている経過だから書くのがつまらなくて原因と結果でよしとして次に進む予定だったのが、どうやらあまりのつまらなさに詰まっていたよう。吐き出したら蓋がとれて前の部分が出てきました。

つまり仙覚の母と若狭局のこと。比企の乱はこの二人の女性にとっての悲劇で、この比企の乱の年に同時に赤子を産んでいて、その赤子がそれぞれ仙覚となり竹御所となり、小説『仙覚』の核になります。竹御所はゆくゆく四代将軍頼経の正室になって各地に潜伏する比企氏ゆかりの帰省を許すなど。

そして、さらに大事なのは、竹御所の崩御で将軍頼経が菩提を弔うための新釈迦堂を建て、そこに住持として仙覚が呼ばれ、そこで万葉集の校訂をして仙覚は万葉学者になった…、うん、やっと動き出しました。やはり詰まってたみたいです。

仙覚の母の名前は何に? 以前ある作品で主人公の名前を典子にしたら現代の当主の方が同じと知ってびっくりしました。ある方にそれを言ったら面白い、と。別の作品で泰子を使ったらある方が、それ、僕が寒河尼に使ってます、と。名前って、やはりその家らしさが出ますよね。

基子にすることに決めました。ほんとうは元子にしたかったのだけどその名前の友人がいて。それで同じ読みで考えたら浮かんだのですが、結構いいかも。仙覚を産む基本中の基本の女性ですものね。

虹色の綺麗な幻日が出ていました@吉祥寺

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「心の闇だね」よく彼はそう言った。→また玄覚の声がしました。比企の乱。時政と政子が起したんですよね。政子は実の子の頼家を殺してまで弟の実朝を第三代将軍に就けるんです。何なのだろうと考えていたら玄覚の声がしました。心の闇だねは仙覚の言葉です。仙覚は見るものを見た人だったのでしょう。

10月19日
おはようございます。昨朝は悠長にもう比企の乱は終わって岩殿観音などと呟きましたが、突然基子さんが登場して、そうしたら政子と若狭局の確執を書かなければ比企の乱の内実はわからないとなり心の闇だねの言葉まで浮かんで。基子さんが岩殿観音に行くのは当分先になりました。やっと動き出しました。

動き出したと思ってもまだその先があって、これでほんとうに動き出したと思うのだけれど、しばらく経つとまたその先が生じて、小説の世界は深いです。

仙覚は北条氏によって滅ぼされた一族の人間であり、順徳院、頼経、後嵯峨院、宗尊親王と、関わった権力者はみな朝廷の方。鎌倉にいても普通の鎌倉人とは視点が違っているはず。しかも北条氏に素性を知られたら殺されるわけだし。けれど最後に幕府の重鎮実時と懇意になる。万葉集を軸に。そこが凄い。

比企の乱の時、若狭局がどうなったかまだ決まってません。妙本寺の蛇苦止堂にある池か井戸に身を投げたといわれますが、比企には若狭局が頼家の位牌を持って逃げ延びた伝承や草庵跡があります。蛇苦止堂はおどろおどろしい名前ですが、蛇のような若狭局の苦しみを止めるといういい意味なんですよね。

10月20日
おはようございます。若狭局の処理。昨夜現代語訳吾妻鏡をみたら解説に、若狭局は比企の乱で比企谷に立て籠もった一族と一緒に焼死したとありました。吾妻鏡の本文にその記述がないから最初は違和感があったのですが、先程、そこに一幡もいた、と書いた続きに自然に、若狭局もいた、と書いていました。

若狭局が一族と一緒に焼死したとすると以前から感じていた違和感がなくなることもこの説にした要因です。翌日焼けた死骸の中から乳母が一幡の遺骨を探し最後に着ていた菊の文様の小袖からー幡と特定。それが妙本寺境内の一幡の袖塚の由来です。この乳母がであって若狭局がでないのが私には疑問でした。

ふつうなら我が子の悲劇に狂乱して遺骨を探し回る若狭局が描かれて当然の場面に登場しない。これがずっと気になっていました。

「業は止められないのだよ」そう言う父の顔には笑みさえあった。幾多の業に翻弄されて生きた彼にはもうひとつひとつの業ひとりひとりの業はどれほどのものでもなくなっていた……休憩しようと横になったら浮かんできた一文。慌てて起きて挿入しました。なんかとても大それたことを書いてます。笑

思いがけず比企の乱が済んで基子さんを書く段階に。もしかしたら今日中に基子さん、岩殿観音に行くかも。(となると、取材に行きたいのにお天気や健康や日程の都合が合わなくてのびのびになっている所、早く行かないと間に合わない…泣)

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