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2016.11.30 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(15)。金沢文庫忍性展のこと。真観の鹿島詣での謎。

11月24日
おはようございます。雪は小降りになって霙のようにも。盛んな時に公園に撮りに出たかったのですが止めました。もうそんなことをして風邪をひいている場合ではないですものね。50年ぶりの11月の雪の記念にベランダのローズマリーを。

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メモ: 光能が福原京にいる時に文覚が訪ねてご白河院に取り次いで貰って平家追討の院宣を貰う。(平家物語)。愚菅抄はこれを否定。盛衰記には外戚関係とある。←この時すでに足立遠元娘は嫁いでいて30歳位。三年後、光能没。比企の乱まで20年と少しで、足立遠元娘は50歳半ば。基子さんの姉。

もともと私の作品は思念の連なりといった感じでこれを小説と認めたくない反対派の方もいられるほどだったけど、絶対的に支持して下さる方もいてマイペースを貫いてきました。でもここにきて今までのは散文詩だった?と思うくらいに仙覚の小説は思念の連なりで済まない。研究に入ってしまいそうです。笑

宗尊親王の歌の師の真観こと葉室光俊。そして足立遠元娘が藤原光能に嫁いで光俊という男子を産んでいる。前から気になって何回も別人と確認しているのですが、やはりもしかして?とまた確認したらはっきり別人と書かれてました。仙覚が親しくなる光俊。仙覚の伯母の子にも光俊。偶然にしても近すぎる。

連ツイ済みません。仙覚が京都に潜伏した時に誰がその世話をしたかの可能性を探っています。系図では歳の近い叔父の円顕がとなっていますが、ただそれだけでない気がしてどこかに繋がりがないかなあと。

メモ: 真観の鹿島詣での論文をチェックすること。真観は関東に下って鹿島神社に参拝する。仙覚も常陸の人といわれてきた。さらにここにきて忍性がやはり関東に下るとすぐに鹿島社詣で。しかも真観と仙覚は親しく、忍性も笠間時朝を介して仙覚と繋がりそう。鹿島神社、謎です。

11月25日
メモ: 寛元4年1246仙覚寛元本万葉集。建長5年1253仙覚後嵯峨院に奏覧。建長8年1256真観鹿島社詣。文応元年1260真観鎌倉下向宗尊親王の歌の師範に。文永2年1265仙覚文永2年本万葉集宗尊親王に献上。←真観は鎌倉下向より前に鹿島社に詣でている!

称名寺。今日の最高の一枚。金沢文庫忍性展後期を観にきました。帰りに称名寺庭園に回ったら丁ちょうど夕陽が沈む時間に遭遇。こんな光景に出逢うなんて。

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忍性展は三回目です。前二回は内覧会と文学散歩でしたので大勢の中。今日はゆったり一人で浸りました。近年になく興味深い展示なのは忍性に限っての構成だからでしょう。事物が美術品的価値や学問でなく人の思いに関わるものだから意味が有機的。忍性というある意味マイナーな方のだからそれも新鮮で。

これも凄い一枚。称名寺仁王門が夕陽に輝いて、しかも奥の苑池が錦繍に輝いて。

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昨日の真観一連。兼岡理恵氏「真観と風土記」を持って出る→車内で読んで真観の鹿島社詣では鎌倉下向より前を確認。建長8年→何の目的で?笠間時朝関係?の疑問が再燃→時朝が宋版一切経を奉納したのは何年?→忍性展で確認。建長7年→真観はその翌年に詣でてると思う→金沢文庫図書室で志村士郎氏の

『東国文学圏の研究』をみつける→仙覚は鹿島社の社僧説の方だから鹿島社についての詳細がわかるかもと期待してコピーして帰途→車内で読んで真観の鹿島社詣では3ヶ月にも及んだと知る→京都のお公家さんがわざわざ常陸に、本当に何の為に?…と、昨夜はここまで。これから続きを拝読します。

11月26日
おはようございます。昨日の金沢文庫忍性展は堪能しました。益性法親王書状3点は通常の覗き見る陳列ケースでなく額に入って壁に飾られていて、亀山天皇皇子の書状だから?となんとなく嬉しく。京都の天皇の皇子の鎌倉のご滞在。それが称名寺と極楽寺にのみ関係している凄さ!それに震撼するのですが。

この忍性展。拝見してよかった。これまでの忍性観が一変しました。私は鎌倉寄りの情報ばかりで認識が偏っていました。何より凄いと思ったのは唐招提寺の「東征伝絵巻」。鑑真和上の生涯を描いたこの絵巻を忍性が制作して施入しているんです。忍性の文化力、経済力、人脈の一流性を初めて認識しました。

内覧会で唐招提寺のたしか長老様がいらしていて、?、となり、事情がわからないけれどこの方を拝謁できただけでも来た甲斐があったなどと思いつつ帰ったのですが、忍性の功績はそれ位偉大だったのでした。東征伝絵巻は立派で、前にも観たことがありますが、まさか忍性の制作だったなんて!

展覧会は行かないとわからないというのは惜しいですね。ただの忍性展というだけでは一般の方の気を惹かない。興律750年記念というも意味はあるけど、やはり一般の方には関係ない。なにか一般の方を惹きつけるポップな話題を見せて惹き寄せたら世間の一般認識が変わっていくのではないでしょうか。

↑ここ数年、源氏物語と万葉集の講演をしての結論です。どちらも重要度は一緒なのに、源氏物語というと華やかだから皆様ぐっとご関心。万葉集になると眠くなる方も。私はスライドを使っているのですが、テーマに関係ない綺麗な花の写真には凄い反響があるのに大切だけど地味な史跡写真は見逃されます。

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2016.11.24 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(14)。白薔薇。美の壷で見た有田の泉山磁石場のこと。福島県沖M7.4の地震。

11月19日
おはようございます。深夜目眩がして今日は外出を控えることに。原因はわかっていて昨日重い荷物を持ったから。無理が効かない年になっていよいよ籠もりなさいとの司令と受け止めているのですが、まだカメラを持って行きたい所があるのに…。仙覚の小説、なんとしても完成させなくてはと思います。

今日は一日横になって本を読んで過ごしましたが、こんな日何年ぶりかしら、十年以上なかったかも、というくらいに静かで落ち着いて充実した時間。今まで何をしていたのだろうと忙しく動き回っていた事を反省したくらい。もう出かけるのは最小限にして内に籠ろうと思った一日でした。

仮寝して起きたらどうやらもう大丈夫な感じで一安心。今日読んでいたのは玉城妙子さんという方の『円仁求法の旅』。円仁の『入唐求法巡礼行記』に書かれた足跡を実際にたどられたもの。円仁には阿南ヴァージニアさんという熱烈なファンのような研究者さんもいて、私も含めてなんか女性に人気な気がします。笑

11月20日
おはようございます。深夜寝ようとしたらたまたまついていた美の壺。木村多江さんが有田を案内されていて観てしまったのですが、有田の砕石場が映って初めて観ました。削られて現れている岩肌。石がそのまますり潰されて白い磁気になるのだからやはり綺麗。砕石場の光景には惹かれます。

白薔薇。窓からしか見られないのは惜しいから切り花にしたのですが、ピンク色の蕾、開くでしょうか。咲いているたった一輪でもいい香りがします。

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今日は一日写真の方の仕事をこなしてたらすっかり気持ちが涸れてしまいました。やっている時は楽しかったのに。というわけでこれから少し本を読んで寝ます。

11月21日
美の壷で見た有田の泉山磁石場が心から離れずあの石は何だろうと調べたら石英やセリサイト(絹雲母)を主成分とするとありました。私がこういう光景に惹かれるのはふつうなら見ることのできない山の内部を見ることができる不思議さからと思います。

http://www.tougeizanmai.com/tabitetyou/021/05izumiyama.htm

行きたいのにまだ叶っていない某所。せっかくなら一眼レフを持っていきたいけどちょっと重い荷物を持っただけで目眩では諦めるしかないかと思ってたけど、そうだキャリーカートを引いて行こう!と思いついて解決。天候と体調と日程の条件が満たされる日は来週以降になりそう。もう冬支度ですね。笑

単なる「不思議」でなくもっと適切な言葉があるはずと考えていて浮かびました。採石場のような景観に接して感じる思い。「畏敬」。こういう言葉って、現代で使ったり大事にしてたりする方いられるでしょうか。畏怖、そして、敬虔。人として基底にあるべきものと思いたい。

玉城妙子氏『円仁求法の旅』で五台山に登って「この岩は何かしら」と。甥が答えて「火成岩だと思う。火成岩はね、地下のマグマが地表面に出てきて固まった岩石」。それを聞いて玉城氏はもしそうだったら面白いと思われる。五台山は昔とても暑かったのを文殊菩薩が涼しくしたのは火成岩だったからかと。

11月22日
福島の地震発生(22日5:59頃 福島県沖M7.4 震度5弱)

怖いんですけど・・・ (強震モニタを見ながら)

これだったみたい。→ 22日 06時39分頃 福島県浜通り(N37.3/E140.9)にて 最大震度3(M5.5)の地震が発生。

先程の怖かった強震モニタ、P波S波の予想円の拡大がどんどん大きくなっていき、日本海を越えての大きさになっていくのを見ていました。P波S波の予想円自体、はじめて見ました。

先程ツイートした強震モニタのP波S波の広がりの円です。日本列島の揺れ状況の地図が重なって採れなかったのですが、震源地からみるみる広がっていくのを唖然として見てしまいました。最初は震源地福島の周りの小さな円だったなが日本海をも覆って。 21
白薔薇。ピンク色だった蕾が開きました。

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全くの個人的な展開なのだけれど思ってもみなかったことで、一週間かそれくらい体調を崩したりいろいろあって無為の日が続いて、今朝の地震の後なんか気力を取り戻したくなり思いついて検索。半日探してお電話してみたりして、ついにある講座を受講することに。春まで数回通ってみます。

体調を崩したのを引きずったのも、気力が失せていたのも、地震の前の不調だったのかも。大きかったから長引いて。

やっと思考が巡るようになって足立遠元を調べています。北条時政・畠山重能・比企能員・足立遠元が親の世代。その子息が、時房・重忠・時員。足立遠元娘は、時房と重忠と時員それぞれの妻。他に藤原光能の妻とあるけど、それだと遠元娘の一人は親の世代に嫁いだことになってしまう…

時房は、夫時員の比企能員邸での頼家の蹴鞠仲間で、しかも姉妹が時房の妻。比企の乱の時、基子さんが懐妊しているのを知らないはずないし、基子さんがもし実家に助けを求めたとしても姉妹の口から所在がばれてしまうだろうから、基子さんは実家にすがれなかっただろう。出産後、基子さんはどこに?

11月23日
井の頭公園もすっかり秋色。背後の高いメタセコイアはもう少しです。

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神田川源流付近がこんなに綺麗。

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白薔薇。ピンク色だった蕾。とっても大輪です。

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2016.11.22 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(13)。建長寺鎌倉禅研究会の写真など。

11月14日
投稿していた学会機関誌表紙の文学碑めぐり。採用されて校正が届きました。寺泊にある順徳帝行宮御遺蹟碑。佐渡に渡られるまでの晩秋から翌年の春まで数ヶ月を過ごされた行宮です。夏に研究発表した時に編集委員の方から何かない?と声をかけて頂いて奮起して応募。八雲御抄について少し書きました。

11月15日
おはようございます。タウンニュース鎌倉版の連載コラムはテーマが「鎌倉と源氏物語」なのですが、六浦を書いたらどんどん源氏物語から離れていって、でも尾州家河内本源氏物語の奥書に名を残す実時の六浦なのだからと強引にしばらく六浦を続けます。記者さんも鎌倉の人にも面白いと言って下さって。

とりあえずタウンニュース鎌倉版コラム第12回を書きました。月末までのんびりしててもいいのだけれど気持ちを引きずっていると仙覚に戻れなくて。(忍性展後期が終わるまで完全に戻るのは無理そうだけど・・・)

白薔薇。二階の窓から見下ろしたら数輪も咲いていました。下からは見えなくて。雨上がりだからみずみずしい。

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11月16日
タウンニュース鎌倉版コラム第12回【北条実時と風光明媚な六浦・金沢八景】を送信しました。実時の杭州趣味について書きました。実時は六浦湾を杭州に見たてたかったんですね。西湖から取り寄せた西湖梅という名木がかつて称名寺にあったそうです。これで明日から仙覚に専念できます。やっと・・・

11月17日
メモ: 最終章で玄覚が八雲御抄を書写しながらみかも関のところで円仁の生誕地の記述に仙覚との会話を思い出す。

メモ: 比企の能員邸の描写で浄土式庭園を、頼朝が奥州合戦平泉での浄土式庭園を永福寺に移したことから御家人の屋敷の構えに広まったことを入れる。

メモ2: 武士は殺戮の世界だから浄土への希求があったことを入れる。

メモ3:玄覚が書写するのは善峯寺の一室。プロローグが善峯寺で回顧録を書き出す決意で、最終章がまた善峯寺に戻るという構成です。善峯寺、春には行きたい。桜の舞う…

綺麗な夕焼けでした@建長寺

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鎌倉禅研究会の帰りです。栄西のお話、聞いたことがないような密教とも関連した人間栄西さんのお話。なんか今まで腑に落ちなかったことがすとんとした感じで楽しかったです。研究者さんって惚れ込むと熱いですね。

人はただ在るだけ、ただ修行しただけで偉くなるわけではないのですね。わかりきったことだけど改めて実感。栄西は中国で鍛えられた政治力と宗教力の両者でああなったと。政治力というと俗世の気がするけど宗教の世界も政治力がなかったら空海のようにはなれない。スケールの大きさって政治力かも。

11月18日
昨日の建長寺様方丈庭園では池に秋色の木立が映って綺麗でした。

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昨日の建長寺様の写真、その二。方丈の回廊に西陽が射して眩しく一瞬、悟りの道、って思ってしまいました。

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昨日の建長寺様の写真、その三。鎌倉禅研究会で栄西をお話される菅原昭英先生。ホワイトボードをご覧頂くとおわかりのように栄西がどれほど密教を大切に思っていたかのお話でした。でも菅原先生は曹洞宗の方。栄西は臨済宗。とらわれない処にも感銘。

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昨日の建長寺様の写真、その四。昨日は冬陽だったからか、まだお昼過ぎなのにもう西陽の風情。仏殿に射し込んで、仏殿が輝いていました。陽が高いと屋根が影を落とすのでこうは見えません。

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昨日の建長寺様の写真、その五。法堂です。やはり西陽のような冬の日射しに軒下の木材の組まで綺麗に見えて、私としては見たことのない明るく綺麗な法堂でした。

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■早朝5:59に福島県沖でM7.4の地震がありました。TVではまだ津波警報のニュースで緊迫したようすが続いています。千年に一度の大変な時代。東北の地震からもう数年経ったといっても、地球規模ではまだリアルタイムの危険な状況です。早くこの時代が終わりますように。

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2106.11.20 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(12)。文学散歩で金沢文庫忍性展をご案内しました。「今、よみがえる真慈悲寺 幻の大寺院を追い求めて」@日野市立新選組のふるさと歴史館に行きました。タウンニュース鎌倉版コラム第11回【当時は鎌倉文化圏 外港六浦】。

11月8日
仙覚の小説。終わったとしていた第一章の最後に六代御前を入れました。比企の乱の勃発でとっさに基子さんが鎌倉を出て比企に逃げるところで終わっていたのですが、とっさに基子さんの脳裏に六代御前の斬られのことが閃いて、我が子がその運命になる…と察知したという展開に。

11月10日
ボックスでなくでも長シートでもなく二人がけの前向き座席。長時間乗るのはやはり前向きが嬉しい。今日は多摩の講座の集大成。講座自体は3月に終わってるけど古典は土地を知ってこそ実感がある。講座終了後に二回鎌倉文学散歩をしました。今日で目標を果たすので最後にして、後は篭もります。

さすが地元の地図はわかりやすい。金沢文庫駅が右上。平潟湾との関係はこうなっています。

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今日の称名寺。秋色が綺麗でした。寒さもはどほどでかえって心地よかったです。

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今日は多摩の講座の方々を金沢文庫の忍性展にご案内しました。学芸員さんに丁寧な解説をして頂いて、私一人で勝手に観てまわるのと大違いの大変勉強させて頂く会になりました。参加して下さった熱心な方々に感謝!です。

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忍性展を出て称名寺庭園の散策。こちらのガイドはNPO法人横濱金澤ガイド協会の方が駆けつけて下さって、また私一人では聞いたこともなかったエピソードを伺えたりして楽しかったです。これは北条実時像の前。

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今日の収穫。称名寺に三重塔があったと絵図に残っていて、だいたいの位置はわかるのですが正確に知りたく思っていました。いい機会だから伺ったら、碑がありますよと。フェンスの向こうのこんな茂みにありました。落慶法要に忍性が導師を務めてます。

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今日の道中のお供は新典社さんの影印校注古典叢書万葉集。なんと西本願寺本の影印です。しばらく忍性や比企の乱に気を向けてたから、今夜から仙覚の小説に戻るために気分を取り戻すのにいいかな?と持って出ました。

夢中になって一人で称名寺の歴史を渉猟していた頃、二代長老釼阿がよく京都の東山太子堂でいろいろ何かをしていて東山太子堂ってどこだろうと調べてもわかりませんでした。忍性展でそれが京都での律宗拠点寺院で白毫寺というと。地図が展示されていて、今は知恩院境内になっている場所でした。解説して頂いてやっと理解できたのですが、その地図での知恩院の小さいこと! 江戸時代の徳川の政策で大きくなって白毫寺も境内になり、今は別の場所に移転とか。釼阿は室生寺山中に埋められた空海請来の仏舎利を…とかいう話もその頃読んでいて、称名寺の三重塔にその仏舎利が祀られたとか。

二つの話。釼阿の一連の活動として読んでいたから謎の東山太子堂が室生寺エピソードとごっちゃになって室生寺山中にあるようなイメージになっていました。まさか祇園社に隣接するあんな大きな市街地にあるとは!展覧会を解説して頂いてじっくり観るなど、引率した責任上拝聴した収穫でした。

11月11日
今日はここに来ました。「今、よみがえる真慈悲寺?幻の大寺院を追い求めて?」@日野市立新選組のふるさと歴史館。百草八幡神社の鋳造阿弥陀如来坐像が特別公開でご出陳されています。

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今ひとつ現地に行かないと原稿が進まない所があるのだけれどどうしても状況が整わなくてダメで、このままでは真冬になってしまうと思っていた所に、(真冬でもいいのだけれど)、どうやら来週行かれそう。現地踏査の力は毎回感じます。足下からなにか霊気が伝わってくるのでしょうね。土地の力。

11月12日
メモ: 忍性が極楽寺開山になったのは、宗尊親王更迭の翌年。即ち仙覚の鎌倉での活動が終った翌年。逆に真観が関東に下向し鹿島社に参詣した時は忍性もまだ三村山に。仙覚が鹿島社に行ったのはいつだろう。忍性と時朝。時朝と仙覚。三者、繋がるだろうか。真観も忍性も下向してまず鹿島社に参詣の謎。

タウンニュース鎌倉版コラム第11回【当時は鎌倉文化圏 外港六浦】です。紙面が届きました。ネットでは昨日公開になっていたのでしょう。先月分が月末掲載だったからまさかと思ってチェックしてなくて気づきませんでした。笑

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タウンニュース鎌倉版コラム第11回【当時は鎌倉文化圏 外港六浦】です。紙面紙面よりも写真が大きく載っているので「首から上のない阿弥陀如来座像」がよくわかります。

http://www.townnews.co.jp/0602/2016/11/11/357286.html

11月13日
おはようございます。まだ忍性展にこだわって昨日は終日図録を読んでいました。考えてみると忍性の時代は私が追っていた実時や時頼や仙覚といった人たちの時代。でもその人たちの史料だけでは見えてなかったものが忍性展にたくさんあって面白いです。

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2016.11.9 ホームページ【孔雀のいる庭】閉鎖のお知らせです。

ニフティのホームページが変わり、新しいホームページに移行手続きをしなければなりません。その期限が明日、11月10日。ホームページは2007年に開始して、『源氏物語と鎌倉』の刊行まで、その経緯を書き綴りました。なので刊行以来更新していません。目下のところ移行手続きをする余裕がなく放置したまま期限がきてしまいました。これを機会にホームページを閉鎖することに決めました。今後は執筆に専念しつつ、このブログで活動報告を致します。長く閲覧して頂きほんとうにありがとうございました。

http://www.odayuriko.com/

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2016.11.8 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(11)比企氏残党狩りが厳しかっただろうことに思いが至る→平家の六代御前が仙覚の人生に重なることなど

11月4日
仙覚の小説。しばらく中断してたので昨夜は今まで書いた分の読み直しに専念して気分を同化させて寝ました。その場で続きを書こうとしても「理」でしか書けないから。今朝やはり動き出して影の進行役である戸井田刑部が出現。セリフが浮かんできました。この人を見人として描きたいと思っています。

比企の乱の後処理で比企の能員館の人達がどうなったか、戦とかそういう世界を避けて本を読んできたからどう書いていいかわからない。ただ基子さんが助けを求めて来たので匿った事しか考えてませんでした。でもいざ書くとなるとやはりそれは流れで無視できず…、となって秀次切腹後を思い出してたらツイッターで秀次切腹後の一族処刑の絵巻が展示されてると。

北条氏の比企氏残党狩りは厳しかったはず。例え比企という離れた地であっても。そこに基子さんが助けを求めて行く。それを戸井田刑部が匿う。1日それをどう描くか考えてたら、今まで浮かんで来てなかった時房が出てきました。彼が基子さんを放っておくわけがない…、と。時房、考えなくては!

時房は頼家に接近して蹴鞠の仲間にもなっている。でも乱後はスパイだった説も。その後竹御所が産所に入って亡くなったのも時房邸。時房をいい人に書くのは難しい…

なんか、そんなことでほんとうに書けるの?、というようなツイート。笑

なんとか短いけれど顛末を文章にしました。これからプリントして、しばらくそれを眺めて推敲します。

ちょうど時房についてのご論考を送って頂いたばかり。秀次のことにしても、なにかタイムリーにヒントが降りてきてくれてます!

11月5日
おはようございます。昨夜戸井田刑部が慈光寺に行ったと書いて慈光寺の説明に畠山重忠の名を出したら、そうだ比企の乱にも畠山重忠を書いておかなくては!となりました。書き進むと逆に振り返って過去に書いた分が膨らみます。戸井田刑部が乱の勃発を知って基子さんを心配しています。

そうっかと、ここまで書いて気づく。岩殿観音の古い地図に比企能員邸跡があるのに疑問視されていて、やっと最近(といっても10年とか以上前)ここが能員邸跡説が出たくらい。でもまだ比企での比企能員邸がどこだったか特定されてません。でも、昨日から書いていて、歴史では岩殿観音に頼朝と政子が

帰依して能員に岩殿観音の再興を命じたとありますが、私は能員が邸を構えていて地元の観音の再興を頼朝に願い出たとしました。地図に邸跡があるのに疑問視されるまでになったのは、比企の乱で邸の人達が斬られて根絶やしにされ荒廃したからなんですね。秀次の切腹後の凄惨な一族処理を思いつくまで邸はまだあって、基子さんが能員邸があるのに戸井田刑部に助けを求めるのは不自然ではないかと悩んでいました。

歴史は残った史実の断章だから初めに頼朝ありきで考えるけど、小説は人の心と時間の流れだから自然と整合性を炙り出します。なぜこんなところにぽつんと頼朝政子の帰依があるのと不思議でした。

メモ:連ツイ済みません。時房は頼家の蹴鞠の仲間だったから、同じく蹴鞠仲間の能員子息時員の妻が身籠っていることを知っていた。だから基子さんが比企に逃れても徹底的に探し出されて殺される危険があった。←昨夜時房が思い浮かぶまで基子さんの危険がこれほどまでの認識がありませんでした。

道中のお伴は峰岸純夫先生監修『東国武士と中世寺院』。この本をまた取り出す日が来るとは思っていませんでした。たしか比企尼の長女丹後局を調べていて比企に目が行った頃購入。そういうのがみんな役立って今。今日が終わったら今度こそ仙覚に専念できる(はず)。しっかりと取り組みます。

目立たないけど紫の花の群落@鎌倉浄智寺様前

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こちらは石蕗。鎌倉長慶寺様前。今日は久々の鎌倉

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鎌倉の鉢の木さんで集まりがあって談笑しての帰りです。仙覚を書き始めたのを知ってられる方が700枚は行くでしょと。一冊で済ませたいと思っていても内容的に二冊にしなければならない分量の歴史。私よりその方の方が現実を把握されてるかも。

11月6日
昨夜仙覚の小説に関心を持って下さる方に竹御所は途中で亡くなるけど仙覚の心にずっと理想の女性としてあるとお話したら、源氏物語みたいですねと。彼は私を鎌倉に繋げて下さった方で源氏物語の王権論にも詳しくその面から私の活動をみてられる。その方の源氏物語みたいですね、に驚きました。

改めておはようございます。起きて昨夜の名残を反芻して源氏物語の話を思い出しました。彼が700枚と言った方ですが、完成したら膨大になると予測されている。仙覚が源氏物語になるなんて考えたこともなかったけど、仙覚も光源氏のように理想の女性を心に抱えて生きるのか〜と、彼の発想いいな!と。

11月7日
昨夜は峰岸純夫先生監修『東国武士と中世寺院』から落合義明氏「比企の観音霊場をめぐる武士たち」を再読。以前読んだ時には細部まで理解できてなかったこともすんなり。そしてその後比企の方々との交流で得た知識があるから別の角度からの理解もできて、深まってるなあと感慨。

岩殿観音に古い板碑が残されていてそれが善光寺式阿弥陀三尊の図像板碑。これを落合氏は比企能員が信濃守護で善光寺再興に勤めたことと関係していると見る。なるほどと思い、そうだとすると岩殿観音の参道を抜けた所にある阿弥陀堂跡も能員邸の一部だったとみていいのかもとなりました。

とにかく比企氏は比企の乱で壊滅的になったんですね。だから未だに能員邸がどこかわからない。比企氏の菩提寺、川島町金剛寺は中山村で、ここは能員の娘婿。この中山村でさえ比企の乱で荒廃したというのだから北条氏の比企氏狩りは徹底していて、能員ゆかりの岩殿観音一帯が安穏だったはずないです。

平家の落武者狩りは知っていましたが、比企氏が平家に匹敵するなんて思ってもいませんでした。夏に仙覚が平家の六代御前の立場だと気がついたというのに比企氏そのものとまでは。なんか今頃になって歴史の実態に踏み込んでいます。

岩殿観音参道を出た所の一帯にある阿弥陀堂跡から弁天池を眺む。足利の樺崎寺のように鎌倉の御家人は、館の前に池を造る浄土式庭園の形式をとっており、比企能員もそうだったかとされます。岩殿観音は奥の山の谷合に。

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愛書家日誌@aishokyo フィクションとは真実を語るための嘘だ。 アルベール・カミュ

↑おこがましいけど、真実を語る嘘、って仙覚の小説がこの境地です。

仙覚が比企氏ゆかりで、もしほんとうに能員の孫だったら、平家の六代御前と全く同じ嫡系。それはもう名前を隠して生きるしかないわけです。で、六代御前が仙覚の時代にどれ位重なるか調べたら、ウィキだけど、享年27歳で斬られたのが比企の乱の三年前。それは基子さんが危機感抱くの無理ないです。

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2016.11.6 ツイッターから転載…金沢文庫忍性展のこと、古典の日に思うことなど。

10月29日
ブログを更新しました。東博禅展、鎌倉禅研究会、金沢文庫忍性展と濃い内容の外出が続きすっかり仙覚の気分が薄らいでしまいました。それは覚悟していたのですが昨日の忍性展は一番重症で抜けられず、仕方なく溜まっていたブログの更新にとりかかったら仙覚に戻れました!ツイッター備忘録の効果です。

先日の鎌倉禅研究会をFBページにアップしました。高橋秀栄先生「兼好が敬慕した僧侶」、岩橋春樹先生「禅の美術ー鎌倉を中心に」。どちらも興味深いお話でした。岩橋先生、酒と煙草の人生の方で、もう先生ご自身が芸術!と思いつつ拝聴。小林秀雄の講演を思い出しました。写真をご覧になって下さい。

10月30日
十一月も末のある美しい朝のことだった。薔薇の名前の冒頭。長いプロローグを過ぎて物語がはじまる第一日の章のほんとうに最初の一行。何回これを読んだだろう。日常に振り回されて、外出に気をそがれて、仙覚の小説から気分が離れるとここにくる。そしてまた。そうっか、もう十一月なんですね。

巨大な周壁の内部に入ると、なだらかな台地に沿って僧院の建造物が立ち並び、あたりはどうやら山頂をーあるいは切り立つ峰をー削ってゆるやかな逆円錐状に窪ませた形になっていた。(薔薇の名前より)←まさかの類似。岩殿観音も尾根の端を削って平場を造り、窪ませた岩場のそこに建っています。

10月31日
おはようございます。金沢文庫の忍性展で連続6回の講座を企画されていて、時間的体力的に無理だから行かないと決めていたのに、内覧会で学芸員の方に笑顔で来て下さいと言われ、行きたくなってむずむずしてました。昨夜スケジュール表を作って入れてみたら、これじゃあ仙覚が書けない!と諦めました。

用があってジュンク堂吉祥寺店に行ったら『茨城県の歴史的環境と地域形成』(雄山閣)が目に入り目次を見たらありました。八田氏についてのご論考。高橋修氏「常陸守護八田氏再考」。地元の図書館にはないので都立へ行きます。ちょうど都立で調べることが溜まってるし。

11月1日
今日は源氏物語由来の古典の日ですが、思えば私の鎌倉の源氏物語活動は古典の日制定から始まりました。京都で盛り上がっているのに鎌倉で皆無。それで奮起して鎌倉の源氏物語をテーマに写真展を開き→それが機縁で『源氏物語と鎌倉』の出版。今は仙覚を書いていますがこれもこの流れの中で生じました。

夢は、鎌倉で、鎌倉の源氏物語のテーマでにシンポジウムを開くこと。「河内本源氏物語」が完成した7月7日を受けて、七夕は鎌倉の源氏物語の日、のコンセプトで開催したいと講演の中で訴えてきたのですがまだ叶っていません。仙覚の小説が手を離れたらまた活動します。

もう暗くなってしまいました。しばらく立て込んでいてできなかった用を今日は精力的にこなしています。中旬に行う金沢文庫忍性展の文学散歩ガイドをお願いしたり、参加者の方に配る地図を作ったり、タウンニュースコラム第11回を書いたり…。全部仙覚に向けて気持ちを無にするために。

11月2日
正倉院シリーズ第3集の切手シートを見ながら綺麗だなあと。宝相華文様が好きでたまらなかったころある方が薬師寺のお土産に貴方にはこれと宝相華文様の小皿のセットを下さったのを思い出しました。でも正倉院文様は正倉院だからいいのであって、これは文様として完成しているからなのだなあなどと。

金沢文庫忍性展展示品の展示期間を見てたら、国宝北条実時像が出展されるんですね。11月19日〜11月27日。前期終了で後期開始の週という絶妙なる日程。金沢文庫の学芸員さんのこの肖像画に対する思いのほどを感じてしまいました!折角ならこの週に行かれる事をお薦めします。

ちなみに、この週は逆に忍性像は一旦中止で出展されていません。忍性菩薩像は、11月13日までと12月6日から。こちらも滅多に出展されないから見逃すのは惜しいです。こちらは重文なんですね。

多摩の講座の方を忍性展にご案内する発送物を作っていました。多摩の方は忍性像はご覧になれるけど実時像は残念。展示って微妙に不公平にならないように考えられているのですね。笑。当たり前だけど。(そうでなかったら怒っちゃいます!)

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