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2017.3.31 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(23)。秋の講演会の発打合せのことなど。

3月21日
おはようございます。昨日は終日足立遠元関係のご論を拝読していました。金沢氏のご考察も前にコピーして持っていたのですがやっと目を通した次第。ここまで遠元に深まると思ってなかったから資料の山から掘り出しました 笑。ネットからプリントしたのもあって拝読したら、それも金沢氏のでした 驚。

どうも遠元の研究は金沢氏お一人のよう。この方の考察がなかったら、私は一歩も進めなかったわけで感謝です。

ご論考を拝読していて、そうかなあ、本当かなあと感じることが時々ある。論考は一つ一つの事柄の考察だからその時は不整合に気づかないけど、小説の文章にした時に、感情という人間の問題や、時間や空間の制約で、これはあり得ないとなります。研究者さんからしたら小説でなんてと憤慨されそうだけど。

遠元を書き込んだら整いました。なんか足りない気がして堂々巡りしていました。まさか遠元にいくなんて。それから、遠元は前に書いたような教養人というのでなく立派な武士。吾妻鏡に畠山重忠が礼節をもって正しい判断をする人に描かれていますが、平治の乱で遠元がそう描かれています。

今週中にも遠元の館跡を訪ねたく思ったのですが、検索したら足立氏館跡は桶川市や大宮市など複数あって、そのどれも街なかで、そこに立って往古を偲ぶふうにはいかない場所なのであっさり諦めがつきました。

大分前から遠元の娘の一人が光能と結婚しているのが気になっていて、ネタを明かしてしまえば員茂が上洛して順徳院の北面の武士になった時に世話になるのがその人かと。基子さんの姉だから員茂には伯母。ある方にそれを話したら、小説だから大いに膨らませなさいと。いつの世も包み込むのは女性だよと。

そういえば、一昨日の金沢文庫の真鍋俊照先生のお話も、私には久々の密教でしたが、胎蔵・金剛界曼荼羅で圧倒的に胎蔵曼荼羅のほうが資料が多く残っていると。包み込むのは女性性ですね。

基子さんの姉のキャラは私の中ではもうできていて、名前は遠子さん。遠元の娘だから一字をとって。基子さんは元子さんにしたかったのを身近な知人にいるので基子さんに。親子ほども年の離れた姉妹です。しかも、たぶん、生涯会っていない。京で生まれて結婚までした人と、吾妻に生まれた人と。

3月22日
ロバート・キャンベルさんの書評を読んで騎士団長殺しを、松浦寿輝さんの対談で名誉と恍惚を拝読したくなったのですが、それは作者の手法が私が目指しているのと同じだから。一昔前のある意味象徴的に詩人といった感性だった人たちが到達した地平という気がする。なんとなくエーコ的。

今日の円覚寺様。ちょっと立ち寄って撮らせて頂きました。

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今日は秋に講演させて頂く会の幹事さんとの初打合せでした。鎌倉の詩吟の会で昨年までご自分たちで勉強していられたのを、今年は外部から講師をとなって呼んで頂きました。

帰り。体力温存に努めて交通機関利用。小町通りで用を済ませて鎌倉駅に戻るのは大変だから鶴岡八幡宮前から大船行きのバスに。建長寺様通過。円覚寺様も通過。大船は常楽寺様前を通るでしょうか。常楽寺様止住からから建長寺様開山へと上られた蘭渓道隆禅師の道を反対に辿っています。

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鎌倉の郵便局。バスの車窓から。

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大船常楽寺様参道前@バスの車窓から。

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意味の変容だな、と思った。今日話していた方と。医学系のお話が私の鎌倉の源氏物語と噛み合う。医学系の個々の事象、鎌倉の個々の事象を知識として知る必要はなく、本質を辿れば言っていることは同じ。森敦さんの意味の変容を思っていました。

3月23日
又吉さんの小説に対する姿勢、真摯でいいですね。そして村上龍さんの「作家自身にも把握できていない、無意識の領域からの、未分化の、奔流のような表現」も。まさに阿羅邪識。筆の先をたどると阿羅邪識のとうとうとした流れに行きつく、って理想です。そこが森敦さんの意味の変容。と理解しています。

真夜中のクリスマスローズ。だいぶ雄蕊が落ちたり、茎を切って短くしたりしましたが、まだ華やか。

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「写本が語る、」の原稿。2月いっぱいに仕上げて手放そうと思っていたのですが、まだ抱えていて、遠元の件が一件落着したので、ではと見直したら、4月からの金沢文庫の展示に気になることがあって、それでまだ抱えていたのだと思い出しました。原稿はできたからといってそれで安心ではないですね。

どういう結果になるかわからないけれど、本当にこの原稿、今だからこそここまで書けたの思い。最初にお話を頂いた3年前の時点で活字になっていたら『源氏物語と鎌倉』を踏襲しただけだったし、去年でもまだ仙覚は書けなかった。5月締切の直前の4月。それこそ今だからこそになるのでしょうか。

3月24日
昨夜は突然源氏物語を読みたくなって中野幸一先生の正訳源氏物語から柏木を。実は先日鎌倉に行った時に遠元は終わったし道家など読みたい本は書かれてないしで、道中のお供に四苦八苦。今の私が読みたい本は私の中にある仙覚なんですね。そうしたら突然源氏物語。すうっと入ってきました。

遠元の件が一件落着していよいよ基子さんが岩殿観音に入るのですが、それを別当を三人称の描写で書こうとして詰まっていました。源氏物語を読みたくなった背後にはその打開の意味もあって、やはり私が書くのは心理小説だなあと。心は奥深く果てしないから。

連投済みません。昨夜一件の決着のメールを書いて、そうしたら夢の中でもその方々のそれぞれに決着がついて、どうやら私は一つの立脚点に立ったみたい。社会的動きをしていると流されるしどれも大切である意味「切る」ことができないけど、切ることができた上でしか仙覚は書けないと決めました。

気になる雲。たぶん福島県沖方向からの発生。熊のジョンみたいな感じが伸びて細長くなっていました。

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同じ雲の伸びた先端。茨城・千葉県方向です。

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2017.3.27 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(22)足立遠元のこと。金沢文庫聖教一式国宝指定記念で元文庫長の真鍋俊照先生のご講演を拝聴しました。タウンニュース鎌倉版コラム第15回【二条の恋人 関東申次 西園寺実兼】掲載。

3月13日
腰越の講座の幹事さんがこれから作るレジュメの参考にと昨年なさった田渕句美子先生「鎌倉に住んだ阿仏尼とその子為相」のレジュメを送って下さったので拝読。為相は私が始めて書いた論文「武州金沢称名寺と冷泉為相」の人物だから懐かしく。為相と夢窓疏石の交流から為相の称名寺訪問を解きました。

いろいろと称名寺というか金沢文庫が私の原点になっています。昨日お世話になったお二方にご連絡をしたためていて「これからは実時の奥書問題と仙覚と実時の交流の証を探しに金沢文庫に通うことになります」と書きました。

3月14日
おはようございます。↓ 無理と無理でないことの境界、素敵な言葉を頂いてしまいました。ほんとうは昨日四回の梵字の教室の最後だったのですが、通えたのは最初の二回だけ。体調と所用で後半二回は欠席。仙覚もすなる悉曇というものを我もという気持ちだったのですが。でも身近な感覚にはなりました。

昨夜からネットが不調。鎌倉禅研究会FBに例会報告をしようとしていた矢先。そこに今朝タウンニュースさんから今週号に掲載できそうだから写真を送ってと。どうなるでしょう。はらはら。

昨年末に突然重要事項が三件重なり、年初から体調が最悪でした。その時にネットで自立交感神経と体調の関係を読んで穏やかに過ごせるように考え始め、ヒーリング音楽に。私はこれが効くらしく以前も瞑想用の曲で爆睡した経験が。今回も効きました。

鎌倉禅研究会FBに第128回例会の報告をアップしました。高橋秀栄先生「明恵上人」と舘隆志先生「鎌倉時代の禅」です。高橋先生は明恵は禅僧といっていいと。栄西も明恵を禅僧として崇めていたそうです。舘先生の「鎌倉時代の禅」は禅の歴史や臨済宗と曹洞宗の違いなど基本的なことが分かりやすく。

今日はもう一件、タウンニュース鎌倉版コラム第15回の校正をしました。「二条の恋人 関東申次西園寺実兼」です。鎌倉に特化したコラムなので『とはずがたり』も二条が下向してからと思っていました。が、実兼が関東申次と気づいて俄然面白い展開になりました。女性に人気の古典ですが男性にも十分。

やっとこれで仙覚の小説に戻れる、とはならなくて腰越の講座のレジュメ作りにかからなくては。回り道のようだけど何をしても忘れていたことや新発見の気づきになったりするので頑張ります。(ネットの不調は無線ランの機械が壊れてでした。なので今日は家人PCにて作業)

寝ころんだらカーテン越しに月が見えました。スマホで撮ってみました。今日のなんでも鑑定団でチラッと目に留めた日本画が素敵で誰の絵か検索したら松林桂月という画家さん。桜の枝越しの月。輪郭を描かない手法とか。TLで見た事あるような。

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3月15日
おはようございます。昨夜は仙覚の小説に戻って就寝。としたかったのですが、日中あまりアウトプットばかりだった反動で小説に籠れたのが嬉しく興奮してかえって眠れなくなってしまいました。やはり理で書く論考や仕事の文章と執筆は違いますね。今朝目覚めた瞬間、比企氏はという文章が浮かびました。

紫のクロッカス、大好きです。庭一面この花で埋め尽くして春を迎えられたらなあ! とは、夢ですが。笑

3月16日
今日は寒かったですね。と、冬でも使うことのなかったお気に入りの手袋をして、あと何回今年使うかしらと考えながら。

気がつくといろいろなことが片付いて、 5月の講座の準備を残すだけとなり、予定では先にそれを済ませるつもりでしたが、仙覚の小説にかかっているとゆたかで、あまりに昨今多忙だったから少し土壌の水遣りをしようと思います。

メモ: 腰越の講座。チラシ用写真送付完了。

3月17日
クリスマスローズがたくさん咲いています。

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タウンニュース鎌倉版コラム第15回【二条の恋人 関東申次 西園寺実兼が掲載されました。『とはずがたり』シリーズの第三回です。http://www.townnews.co.jp/0602/2017/03/17/374677.html

ここ数日世上のニュースから目を離せないでいたのですが、仙覚の原稿に入ったら同じものを見ても感情が流されなくなりました。仙覚もこうだったのでしょう、たぶん。自分に万葉集の校訂を命じた頼経がその直後に鎌倉幕府との対立に負けて京に帰ってしまう。仙覚は一人残って万葉集を完成させました。

仙覚の小説。能員の書込が足りない気がして比企氏の本を読み返したら、能員は頼朝が善光寺を復興した時の信濃国目代で復興担当。その経験が廃れていた岩殿観音の再建に繋がったのだと思った。それがまさか比企の乱後の孫の人生を救うことになったとは。ばらばらの史実。それを小説が紡ぎます。

3月18日
おはようございます。昨夜は金沢正大氏「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国国衙支配をめぐる公文所寄人足立遠元の史的意義」を拝読。他の寄人が全部京下りの文人なのに遠元一人御家人から選ばれたのは娘が京の権門光能と結婚しているからと。その結婚、ほんとかなあと思ってたのですが確かみたいです。

比企氏系図によると比企時員の妻は足立遠元娘。私の小説の設定では基子さん。光能が結婚した女性は基子さんの年の離れた姉になります。今は別人にされているようですが、神護寺の肖像画にあった光能像のあの方の妻が基子さんのお姉さんだなんて! と、想像が膨らんでいます。

今日のクリスマスローズです。

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腰越の講座の幹事さんが称名寺&金沢文庫に行って下さって感動のメール。私の鎌倉の源氏物語は金沢文庫が原点だから。鎌倉の方でもいらしたことのない方は多く幹事さんも初めてと。チラシ用の写真に称名寺を送ったのですが、加えて金沢文庫と実時銅像の3点構成にしたいと。素敵なアイデアに感謝。

広がり具合にご満悦。

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追記: 比企能員子息の時員と足立遠元娘の婚姻もありかなあと年齢を勘算したり人脈をみたりして「ありうる」となっていたのですが、金沢氏のご論文は足立氏論であって決して比企氏論でないにも関わらず、足立遠元も畠山重忠も、比企ファミリーに一括されてました。びっくり。悩む必要なかった、笑。

3月19日
今日は暖かいですね。革ジャンで出て来ましたが丈が短くても寒くないです。道中のお供は吾妻鏡。比企の乱の時に足立遠元がどう動いたかを見るために。金沢氏のご論考に娘が3人とあって見てたら、基子さんがいない! 比企系図にはいるのに。ここでも仙覚親子は存在を消されていたと愕然としました。

休日で混んでいるから諦めてたけど座れてしかもボックス席。出がけに歩いていて思いついたこと。腰越の講座、金沢文庫の紹介に少し時間を費やそうと。称名寺境内の様子や歴史、歴代当主など。これは一見余分だけど尾州家河内本源氏物語がなぜ金沢文庫に収められていたかの終盤への円環になると。

こんなにじっくり吾妻鏡の比企の乱の項読んだのは初めて。結局足立遠元は書かれていませんでした。一族と共に自害した最後の三人は能員の婿。その一人中山為重は比企の中山村の人。後に員茂の子の員長が中山村に移り住みますがそういう関係から。基子さんをどこに潜伏させて生き延びさせようか考慮中。

称名寺と金沢文庫を繋ぐ隧道。称名寺と金沢文庫は小さな尾根で隔てられています。これは金沢文庫創設当時の隧道で、今は通行止めですが、実時もこの隧道を行き来したのかと思うと感慨。奥に金沢文庫の壁が見えています。

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今日の称名寺。金沢文庫の聖教一式国宝指定記念の元文庫長真鍋俊照先生のご講演を拝聴しました。私はこの方の金沢文庫ご在任時代から通っていて多く教えを頂きました。懐かしかったけどあれから随分年月が経ちました。

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今日の称名寺、続き。実時の館(寝殿造り)があった平地から金堂と浄土式庭園を眺めた一枚。左手の緑の樹木の場所に三重塔があったという。三重塔が今も残っていたら、景観が随分違いますね。

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明日は春分の日。六浦の上行寺東遺跡の発掘された首のない阿弥陀様の真上から日が沈む日。この遺跡の保存運動で湧いていた時、春と秋のどちらかのお彼岸に、網野善彦先生や千々石到(漢字違ってたら済みません)先生方が集結されて浄土観を確認されたそう。私はまだ残念ながら確認してません。

帰途の吾妻鏡。比企の乱で自害した能員婿の3人のうちの1人糟屋有季の遺児が京に逃れて慈円に語った事実が愚管抄に載っていて、吾妻鏡の記載と違う。吾妻鏡は北条氏側が粉飾して書いているのだろうし、生の見聞の遺児からの聞書の方が事実なのだろうけど、小説ではどちらを使うべきなのでしょう。

遠元の娘の一人が時房と結婚しているんです。それで遠元は別格だったのかなあと想像していたのですが、それにしては能員子息と結婚した娘が存在を消されていたりして悩んでいます。第一、時房自身がどんな気持ちで動いたでしょうね。ここのところを苦慮しています。

夜に入って渋河刑部丞誅せらる、能員の舅たるに依りてなり← この徹底した関係一族誅殺ぶり。足立遠元は子息の舅。帰ったら索引でその後の遠元が幕府内で無事か確認します。

金澤正大氏「武蔵武士足立遠元」にありました。比企の乱後の遠元。吾妻鏡に遠元は梶原景時弾劾連署に名を連ねるが、以後吾妻鏡に所見しない。なので比企の乱で如何なる行動をとったかわからない。が、同年十月の実朝の甲着始の儀で遠元が甲冑を着せている。十一月の鎌倉中寺社奉行改定で永福寺阿弥陀堂

奉行人となる。その後安達氏に優位をとって代わられ、元久二年の二俣川合戦で畠山重忠が滅びて打撃を受ける。それは重忠が遠元の娘婿だから。しかしこの合戦でも遠元が如何なる行動をとったか所見がないから明らかでない。翌々年の承元元年の幕府の鶏闘会への出席を最後に吾妻鏡から姿を消す。

どうも遠元は比企の乱後も重忠滅亡後も無事のよう。影響を受けていない。比企の乱では娘の結婚相手が滅ぼされ、重忠滅亡の時は能員の時の舅渋河に当たるのに。乱や合戦を凌ぐほど宿老遠元の立場が揺るがなかったということでしょうか。←これなら比企の乱でも比企の足立氏館は襲撃されてないですね。

わかりました。たぶん、こう。最初娘の一人が時房の妻だから時房の温情でとも思ったのですが、娘の一人が後白河院の近臣藤原光能の妻で京の権門と密接な繋がりがあったから、が正しいでしょう。それで遠元は公文所開設の折に広元ら京下りの文人に混じって御家人から只一人抜擢されたくらいですから。

結論。遠元をただの御家人という田舎武士に見てしまってはいけない。北条氏の上に立つ京の人脈を持っている人物と見るべき。と、なりました。御家人の中で三浦氏や千葉氏など幕府内での上位の氏族より、位置は低くても風格なり知性なりに威厳のある人物と。←結構、好みの人物です。笑

まさか、こんな結論になるとは!

3月20日
おはようございます。なんだか小説が仙覚を書きたいのか遠元や基子さんを書きたいのかわからなくなってきました。仙覚がまだ生まれていないだけのことですが。以前から仙覚が比企氏の人と語ると比企氏は文化人だからねと納得されるのが不思議でした。足立氏の方がそれですね。その路線でいきます。

昨日は【国宝 金沢文庫展】のチラシを頂いてきました。4月28日から。

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それから根津美術館【香りたつ装飾美 高麗仏画】展のチラシも。これ、行きたいのだけど……。3月31日まで。

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2017.3.25 ツイッターから転載…タウンニュース鎌倉版コラム【鎌倉と源氏物語】第14回「後深草院二条は『源氏物語』の若紫」の紙面、鎌倉禅研究会のことなど

タウンニュース鎌倉版コラム【鎌倉と源氏物語】第14回「後深草院二条は『源氏物語』の若紫」の紙面です。2月17日号掲載でした。ネットでのご紹介を当日したまま、紙面のアップをしそこびれていました。

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3月7日
おはようございます。昨夜は吾妻鏡の比企の乱までの動向を読みながら就寝しましたが、なんとなく鎌倉幕府初期の鎌倉武士たちの混沌に辟易。梶原景時が打たれ、頼家は蹴鞠に狂い、やがて御家人たちに干されて比企の乱へ。崇高なのは政子ひとりで、やはり頼朝に長く連れ添っただけのことはあるなあと。

比企の乱になっていくのだから混沌としていて当然なのでしょうけれど、それにしてもこの時期の鎌倉の文化の無さ。光行もいたはずなのですが吾妻鏡には登場しないし、こういう御家人たちの殺伐さから身を引いて源氏物語に魂の救いを求めたのでしょうね。そこに基子さんとの交流がと、丁度いいかも。

鎌倉のある研究者の方からご論文をお送り頂き、添えられていたお手紙に「タウン誌、いつも拝見しています。わかりやすく、鎌倉市民の勉強になるのではと大歓迎です」と戴きました。ひとまずほっと。ありがたいです。(でも、かるた大会で一般の方から、読んでますよ、でも難しい、とも)

3月8日
おはようございます。昨夜はたっぷり仙覚の小説を見直して浸りました。吾妻鏡で能員の岩殿観音再建前後の事情を把握したから深まって。やはりいいですね。原稿が深まるのは。プロット的に急いで書いた前の続きが詰まっていたのもむべなるかなです。続き、書きたいのですが所用も山積。

青空にミモザ@三鷹市

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3月9日
駅に向かう途中の路地で、雀かと思ったらジョウビタキでした。

今日は暑いですね。夜になると寒いからダウンを着て出たのですが周りは薄着。でもこの季節、花粉的にもウールのコートは着る気になりません。流行ってるけど。

客観視するとは空間的なことだけでなく時間的にも距離をおくと当初は目の前だけのことしか見えなかったことの裏までが読めて全然違うものが見えてくる。当初隠されていることのなんと多いことか。仙覚の小説化でつくづくそう思います。

仙覚の小説。岩殿観音の章を深めています。以前、まだ小説化の決意もしていなかったころ、書くならプロローグとして雨の夜に草原を進む身重の女性から始めようと考えていました。シチュエーションは変わりましたが、雨、これは残しました。

若宮大路の桜はまだ蕾も。

今日は帰りでもダウンのコートは暑いです。鎌倉の帰りです。

鎌倉のホームで別れた方が、たぶん一人になられてスマホを見て、鎌倉禅研究会FBの記事に、いいね!、を下さいました。あちらもまだ車中長いからまだスマホをご覧でしょう。なんか不思議。

今日は蘭渓道隆語録の翻刻?を手掛けられた舘隆志先生のご講演。語録を全編通して読み通された方だからこそのお話が随所にあって、当時の生活がリアルに。禅僧の、しかも中国僧の語録はたぶん全く未踏査の世界。例えば茶について、緑とあって、おお当時のお茶は茶色でなく緑だったんだ〜となったと。

今日の建長寺様三門前。オカメザクラが綺麗でした。

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建長寺様三門前のオカメザクラ。両脇に一本ずつ。左近の桜・右近の橘みたいでした。

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3月10日
おはようございます。やっとTLを追い切れました。これから始動。今日は昨日のまとめのFBを。一月二月と大変な作業でしたがやっとちらほら見て下さる方からの反応が。一月の講師の方にも昨日お会いしてそれを感じました。何かをすることは蓄積がものをいうとは長い間活動して得た真理です。

昨日の鎌倉禅研究会の様子です。質疑応答で、明恵上人について講演された元金沢文庫長高橋秀栄先生と駒澤大学教授小川隆先生がお話されています。大学院さながらだねとは、真ん中で聞いていられた主宰の高井正俊元建長寺宗務総長様のご感想。

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秋の講演の幹事さんからお電話を頂き、昨日の鎌倉禅研究会のお話をして「鎌倉で蘭渓道隆が始められた禅が京都に行って東山文化を生み、茶道などが生まれた。鎌倉が原点なのに忘れられている」と言ったら、「紫式部の源氏物語と一緒じゃないですか」と。鎌倉の文化、なにか忘れられてること多いです。

秋の講演も鎌倉の団体さん。私の『源氏物語と鎌倉』でご自分たちの知らなかった鎌倉の源氏物語についてもっと知りたいというご要望でした。今日のお電話でご依頼のポイントがそこ!ということを確認しました。タウンニュースのコラムもあり、少しずつ市民の方が知りたいと目覚めて下さっています。

3月11日
あの日から6年。一生忘れることがないこの日。風化させてはいけない日。鎌倉では仏教の、神道の、キリスト教の、合同慰霊祭が毎年行われています。3.11があったあの年から。その時はまだ大きな余震が続く中、若宮大路等を宗教者の方々の行列が練り歩きました。思い出しても敬虔な思いになります。

3月12日
「写本が語る、」の完了直後にかるた大会、吾妻鏡、鎌倉禅研究会と続き、その間に資料やご論考や通知を頂いていたのですが手が回らず、気にしつつも放置状態だったからお二方からお電話を頂いたりの四苦八苦。ようやく昨夜余裕ができた気分でお便りを三通書いて就寝。これから二通。済みません。

といっても、鎌倉禅研究会第128回例会報告も今日中にはまとめたく。

先程鎌倉禅研究会FBの写真に、いいね!、の投稿が20件もあったので?と思ったら一人の方が過去に遡って見て下さっていました。FBは当初日程のお知らせが目的でした。でも始めてみると建長寺様に来られない地方の方がリアルタイムの建長寺様の動向に触れるという楽しみ方をされているようです。

講演のお話を下さった幹事の方から届いた資料にこの漢詩がありました。サヨナラダケガ人生ダ。どれほどこの訳詞に教えられたでしょう。いわば分岐点になった詩です。それが今ここに。また分岐点でしょうか。今日ははからずも満月。

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人の声というものは対していなくても届く。思いは時空を超えて届かせたい人のところに到達する。それをキャッチできるか否か。そんなところに人生の機微があるのかもしれません。少なくとも私には。

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2017.03.16 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(21)。比企能員の岩殿観音復興の時期についてなど仙覚の小説に戻って思考。鎌倉かるた会に行って、など。

3月3日

今日はお雛様の日ですね。我が家の段飾りのではないのですが、可愛い御所車の写真を。ビッグサイトの何かの用で行った時に、職人さんのお仕事として単品で展示されていて、あまりに可愛くて買ってしまいました。

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メモ: 岩殿観音の再建について。頼朝と政子の信心篤い→正治元年頼朝没→頼家の時代→頼朝が信仰したからと尼御台の命で正治二年岩殿観音復興再建…再建にあたったのは比企能員。これは、政子の命となってはいるが、能員が頼家に働きかけて政子を動かしたとみるべきなのでは?

 

そうか、もう少し、能員が頼家の乳母夫で頼家と親しみ、比企谷の能員邸で頻繁に蹴鞠をしていたこと、そこに時房もいたことなど、比企の乱以前を丁寧に書きこまなければならなかったんですね。蹴鞠仲間の時房は当然時員と親友のような関係だから、乱の後、身重の基子さんの鎌倉不在に気づいたはず。

 

とんでもないことを思いついてしまいました。基子さんが源氏物語を読んでいて、光行とそれで親しくなって、光行が基子さんに一目置く。時房も実は基子さんを好きで、乱の後比企を探すが暗に見逃す。これ、正治二年に能員が岩殿観音を復興させたという年号からの閃き。光行は登場予定なかったのです。

 

1200年岩殿観音復興→1202年光行建仁寺建立に携わって京都→光行、俊成に源氏物語の不審を尋ねる→1203年比企の乱…身重の身体で比企に逃げた基子さんを光行が心配するところから第2章を始めようと思います。基子さんの姉は光能と結婚していて、基子さんは姉から源氏物語を送られた設定。

 

光能は後白河院の近臣で福原京にいた時訪ねてきた文覚とのあいだを取り持っている。光行も福原京にいたから光能とは知り合いだったかも。そんなことも基子さんと意気投合するきっかけに。→まさか、仙覚の小説にこんなにぴったりで光行が入ってくるようになるとは!

 

宵闇の草原を馬に乗った時房が「ん、くつわ虫がいない?」と、この時期には当然鳴いているはずの虫の音がしないことに気づき、隣で案内の戸井田刑部がヒヤッとする。時房はすべてを察し、宵闇の中で目を光らす。阿弥陀堂の中には息をひそめる基子さん。が、時房は気づかないふりをして通り過ぎる。

 

と、夕方、こんなシチュエーションを思い浮かべていました。ほんとうは徹夜したいのだけれど、明日は終日鎌倉。この気分を一旦中断した後日曜日に続けられるでしょうか。出かけるとやはりインパクトある方々だから引きずられないようにしなくては。

 

3月4日

おはようございます。今日の道中のお供は文庫版吾妻鏡2。比企の乱までの比企能員邸の動向を探ります。700枚はいきますねと他の方にも見えた仙覚の小説。2冊は嫌だから1冊にと頑張って比企の乱の章の次を岩殿観音の章にしたらなんかプロットを書いてる気分になっていました。そこを修正します。

忘れないために。比企はもう根絶やしにしたからいいというのを、基子さんを好きな時房は、基子さんが逃げているやも知れぬ、いたら連れて来ると偽って自ら比企に。いなかったと報告して基子さんは助かる。時房を冷酷な男とするか否か迷っていました。竹御所の崩御では暗殺したと思われる人物なので。

 

疲れるから体力温存で座っていられる各駅停車。たらたらと動いて体力は原稿に。

 

吾妻鏡正治元年は正月の頼家の第二代将軍就任吉書始から始まる。それは20日ほど前に頼朝が急死したから。その吉書始に光行が重要御家人に混じって列席していて、三浦義澄の次。三善康信や八田知家や和田義盛や比企能員の前。この記事は鎌倉の源氏物語で何度も留意しましたが、頼朝逝去の直後とは。

 

それから間もなく政子は寿福寺を建てますが、能員の岩殿観音復興もその一旦なのでしょう。頼朝への追悼の意で。能員、この時点では三年後の比企の乱の予兆もありません。それはともかく、光行と能員、交流あったでしょうか。

 

鎌倉ペンクラブ主催の鎌倉大かるた会@建長寺に来ています。今第二回戦が終わりました。下のRT建長寺様応真閣が会場です。今夕、645分のNHKニュースで放映されるそうです。

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鎌倉かるた会@建長寺。第五回戦になってこんなに対戦チームが少なくなりました。一回戦はこの畳敷き一杯にチームが埋まって、それが二回。この後二回で優勝チームが決まります。

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鎌倉の帰り。ボックスシートを独り占め。夜行列車気分です。

3月5日

結局思うのですが、書けるようにしか書く他ないということ。自分が満足する文章にこだわるならプルーストの推敲みたいになっても仕方ない。というか、それが私の目指す文学で、万人に受けるように1冊用の文章を連ねるなら、それは私にはプロットなんです。と、たぶんこれが結論。

 

薔薇の名前も2冊だし、プラハの墓地は1冊だけれどふつうなら2冊分の内容と厚さ。ジョイスも長いし、源氏物語は54帖。たぶんこれが私の思う文学で時代を超えて長く残る。プロット的小説は当代ではもてはやされるかもしれないけど作者死して後も残るかは。

 

そういえば昨日の鎌倉かるた大会。ここ数年審判でお手伝いしているのですが、今年の小中学生の札の取り方が例年と明らかに違うので、「映画見たの?」と聴いたら、みんな「はい!」と笑顔で元気なお返事。ちはやふるポーズで札を跳ね飛ばしそうな勢いでした。可愛かった。

 

そういえば昨日の鎌倉かるた大会の今年の優勝者。男子がいない。高校生以上がいない。いつもなら彼らが大半を占めて、中学生以下の女の子は間に埋もれて小さくなっているのに、今年は優勝から3位ふた組まで全員あどけなさの残る女の子。あれ?と思ったけど、みんな「私ちはやちゃん」だったからかな。

百年の孤独も族長の秋も1冊だけれども長いです。(今日はマルケスの誕生日ということで)

 

3月6日

タイトルは?と聞かれて「仙覚 存在を消して生きた男」と答えたらその場が、オオッ!となった。でも話しているうちに万人にわかる小説にするなら「仙覚の想い」とかにした方がいいと。これははからずも万人向けの小説が文学でないことを露呈。目指せ!プラハの墓地(1冊で分厚い本)。となりますね。

 

と、やっと意志が明確になりました。

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2017.3.8 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(20)。「写本が語る、鎌倉の『源氏物語』と『万葉集』享受の歴史」がほぼ終わり、仙覚の小説に戻りました。

3月1日
「写本が語る、鎌倉の『源氏物語』と『万葉集』享受の歴史」。注を入れてほぼ終了。最初文字数いっぱいに書いてしまい、依頼書を見直したら図版を一枚は入れることと。それも文字数に含めるとのことで削って削って頑張りました。笑。使わせて頂きたい写真の使用申請をしなければならなくなりました。

日付が変って三月なんですね。新年が明けたと思ったらもう二ヶ月が過ぎて。あっという間の二ヶ月でした。いろいろあって濃密で苦しかったかといえば苦しかった。でもなんとか乗り越えて、原稿もできて。春になって、取材の遠出もしたいし比企へも行きたい。そう、比企の方にこの原稿のご報告をします。

今日のクリスマスローズです。

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3月2日
外は雨。でも3月に入ってどことなく暖かです。さすがに雪景色の壁紙は合わないからとりあえず探して変えました。ほんとうは真夏でも雪景色で通したくその時は思ったのですが。

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日蓮が鎌倉小町に辻説法を為した時、仙覚はその附近で万葉に親しんでをり、……、就中、仙覚をしてその万葉学を大成せしめる機縁となつたのは、水原抄の著者なる源光行の子の親行である。(佐佐木信綱博士『仙覚及び仙覚以前の万葉集の研究』より)

佐佐木信綱博士の仙覚にかける情熱の強さ、思いの深さがほんとうに好きです。大正末から昭和初期と思うですが、その頃すでに今ある仙覚についての研究がほぼし尽くされていることに驚きます。これはもう、これ以上後人がすることはなかったのも肯けるなあと。拝読し直していますが新鮮!

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玄覚。『仙覚抄』は仙覚が晩年近くなって比企の小川町で成した『万葉集註釈』の別名です。その仙覚自筆の本を玄覚が人に教えて書写させたという奥書が残っていて、従来、玄覚は仙覚の弟子とされてきました。でも私は仙覚の子と思っています。

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ご参考までに鎌倉比企谷の歴史を。建仁三年比企の乱(比企能員滅ぶ)→竹御所の菩提寺新釈迦堂建立(竹御所は比企能員の孫)→仙覚が住持としてそこに住む→仙覚が寛元本万葉集を完成……→玄覚が仙覚抄を書写。と、こうして並べると一目瞭然のものがあります。

山中智恵子さん『「明月記」をよむ 藤原定家の日常』。私の大切な一冊です。

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今朝のクリスマスローズ。別の蕾も開きそうです。

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クリスマスローズ。たくさん咲いて素敵。まだ蕾、あります。

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今日から仙覚の小説に戻ろうと決めたらもうわくわく感が。歴史と文学はほんとうに違う。鎌倉の源氏物語で慣れない歴史探索をしていたから文学的感性からすっかり遠ざかっていて、今その感性が枯れていないことを確認して、楽しい。歴史探索はあと金沢文庫関係。4月になったらお邪魔させて頂きます。

長かったです。鎌倉の源氏物語問題に携わって。当初専門の方からは物凄い反発で大変でしたが、市民の方が「私たちに源氏物語があったなんて!」と驚かれ、これは絶対普及させるとの固い信念の下で何回も講演をさせて下さって、いつのまにか一般認識になりました。なので任務終了気分の鎌倉撤退です。

1月17日に入力したのが最後の原稿。打ち出してみました。タイトルを仙覚とするのは地味すぎると仰って下さる方もいるのですが、たぶんこれでいくことになると思います。万人向きというよりも歴史と国文学の学生さんに読んで欲しい。

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鎌倉文学館に展示されていたのを古書で入手したのが今日届きました。キャプションにあったこのお歌、字数が足りなくて何度も見なおしたのですが。届いたご本で調べたら「むち」が抜けていました。改めて、「比企が谷いにしへ人の精進つよき心おもひてむちうつ我に」です。

谷戸は、奥が行きどまりの狭い空間だから、はけ口のない空気が溜まって知らず知らずしてひとつの生命体となり往時のままの時間を風化させずにとどめている。その谷戸のひとつひとつに固有の歴史が刻まれており、比企谷はそういう谷戸のひとつである。(『仙覚』より)

打ち出した原稿を読んでいて勝手に昂揚。笑。こういう文章、歴史では書けませんものね。陶酔とか自己満足とかいわれても仕方ありませんが、彫塑していく醍醐味が創作にはあります。

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3月3日
おはようございます。昨日任務終了気分の鎌倉撤退と呟いて、ああ、これが本心なんだなあと認識。そしてよくして頂いた鎌倉の方々を思った時に街と一緒にその方々が浮かんで、これは仙覚がそうだった感覚だと気づきました。仙覚に寄り添う気持ちです。

仙覚は宮騒動で仕えていた第4代将軍頼経を失い、鎌倉を離れます。そして第6代将軍宗尊親王に万葉集を献上して順調に滑りだしたと思ったら親王が更迭されて帰洛。再び仕えていた人を失い、鎌倉を離れて比企に。自分の居場所が鎌倉ではないことを痛感しながら鎌倉を去ったのではないでしょうか。

といっても鎌倉とのご縁はずっと続いていますし、明日は鎌倉。建長寺様の鎌倉禅研究会もあります。5月には腰越の生涯学習センターの講座。どれも大切にしていきます。ただ私の本分はあくまでも文学で、それだけが中心になったということです。ここまでにさせて頂いた鎌倉に心から感謝しています。

昨夜は岩殿観音について読みながら就寝。調べることができてきました。

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2017.3.6 ツイッターから転載…小説『仙覚』覚書(19)鎌倉文学館に佐佐木信綱博士の仙覚に関する展示を観に。

2月26日
メモ: 時員の妻は身重の身体で比企に逃げた時、時員の念持仏を持って逃げ、出産した子どもを岩殿観音に預けて去る時、それを別当に渡した。それは小さな薬師三尊像。

注の作成に資料の山を掘り返してたら、佐佐木信綱博士の仙覚全集など、最初期に夢中になって拝読した資料が出てきて、ああ、再読しなければとなっています。

こちらからの帰りです。鎌倉文学館。作家と歩く鎌倉展。佐佐木信綱博士の仙覚の歌が収められた歌集展示と教えて頂いて。

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今日の鎌倉文学館。晴れた空に映えていました。

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2月27日
おはようございます。鎌倉文学館アプローチにある招鶴門を抜けたところにある岸壁です。節理とか、断層のずれとか、地学が好きな私にはたまらない魅力。昨日は久しぶりに余裕あって行ったのでつくづくとまた見てきました。このアプローチ、切通し。

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昨日鎌倉文学館で観た佐佐木信綱博士の歌集。展示されている表紙しか拝見できなかったから都立図書館で検索しようとしたらネット検索不可。国会図書館にはあったけれど行くのが大変。というわけで古書で検索したらありました!決済して到着待ちです。

それにしてもつくづく私はマイナーなことばかりしてるなあと。でも、昨日の佐佐木信綱博士の仙覚への思いを見たら、研究ってそういうものなのだと思いました。今はたった独りでしかないけれど小説が完成したら皆様仙覚に関心を持って下さるかなあ。それを信じて。

比企が谷いにしへ人の精進につよきおもひてうつ我に。たぶん展示されていた歌集に入っているお歌でしょう。キャプションを写してきました。信綱博士は比企谷の近くに住んでらしたことがお有りのよう。日々仙覚を感じていられたのですね。仙覚の精進。素敵な言葉。

メモ:近藤芳樹の梅桜日記に芳樹が岡田為恭を訪うた記事の中に「古本の悉曇音義を反故の裏にかけるを見る。そのほうごの中に仙覚の新平家上巻をかるよしの消息あり」とある。これは万葉学の仙覚てあるか、さだかでない。(佐佐木信綱博士『仙覚全集』より)←仙覚と平家物語。気になっているのですが。

3月1日に発送しますという通知にどうしてそんなに先なの? とがっかりしたのと、2月末までに完成と決めていた原稿のその2月末が明日とわかったのが同時で、期待と慌てが同時。2月は明日までなんですね。笑

万葉集抄、仙覚奏状は、ともに著者が曩に世に紹介したものめあるが、こゝにその考證を掲げた。(佐佐木信綱博士『万葉集の研究 仙覚及び仙覚以前の万葉集の研究』)←注の作成に資料を整理したら忘れていたことがあったりして読み返そうと思います。

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それにしても山岸徳平先生の『とはずがたり』とか佐佐木信綱博士の『仙覚奏覧状』の発見。他の調査をしていてたまたま手にした本や巻物がそれだったという世紀の発見。でもまさにそのお二方ならにしての発見は、やはりその方々の長い研究生活の土台があったからで、他の人でなかったことが凄いと思う。

2月28日
今朝のクリスマスローズです。

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つくづく(最近このつくづくツイートが多い 笑)思うのですが「写本が語る、」を書く機会を与えて頂いてほんとうによかった。仙覚は誰かの問題、小説にするまで世に公開できないし、でも小説化には時間がかかる。けれどその前にきちんとした一般書で発売になっていれば小説を焦らなくて済みます。

佐佐木信綱博士『仙覚及び仙覚以前の万葉研究』序論より: 古典は一国文化の精髄であつて、古典の研究は、学問上また教養上に学者が永久の仕事である。万葉集は吾が国上代文化の思想的産物で、また世界文学最古の歌謡集の一つである。吾人がここに研究せむとするところは、平安時代の中葉、万葉が(続

はやくも難解の古典となり、学者の研究の対象となってから、鎌倉時代に、専門の万葉学者仙覚が出でて一時代をかくするに至るまでの万葉研究の発達である。 仙覚は、万葉研究の蒙昧の時代に出で、万葉学の端緒たる古点以来の諸学者が零碎な研究の後をうけて、万葉学に所謂新点の一期をかくし、かつその

註釈を試み、以後契仲が出づるに至るまでの学界を支配した。以上を、仙覚がわが万葉研究の全史上に於ける位置の外面的観察とする。

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