6月4日
仙覚の小説。今日はここで一旦終了。順調に没入できるところまで来ました。やっと。(笑)。やっと基子さんが岩殿観音に着いて戸井田刑部と挨拶を交わしたところ。刑部が匿う覚悟を決めたところを書きました。時房は次の段落から。それが大きいから今日は一旦終了して備えます。
第二章岩殿観音の最後を、戸井田刑部に匿われている基子さんのもとに時房が捜索に来て終わらせることにし、第三章は先に進む方向で考えていたのですが、回想の名越の章を入れて、過去の時房と基子さんの鎌倉生活を書きます。この時代、源光行が在鎌倉なので三人で源氏物語談義などさせようかと。
6月5日
おはようございます。今日の道中のお供は時房論です。
久々の吾妻鏡を読む会。奥州合戦を終えた頼朝が鎌倉に帰った段でした。途中、進発時に戦勝を祈願した慈光寺や宇都宮神社に御礼しに回ったり。鎌倉に着いたその夜、席を温める間もなく広元に報告の書状を書かせて、その相手が経房と能保。など、リアルで楽しかったです。この会、やはり古巣はいいです!
経房からの書状で、後白河院が頼朝の泰衡らの追討状況が気がかりなのを「羂索」という語を使っていて、検索の意味なのだろうけど何だろうと喧々諤々。羂にはワナの意があるからなど。私は勝手に後白河院のご様子に検索では失礼だから不空羂索観音の字を用いたのでは?などと思ってました。
心に仙覚の小説があるからとても穏やかです。頼朝の項も話題になった豊島氏の話もまるで関係なく、心のうちでは時政をどう書こうなど思考が巡っていて、時政をもっと調べたくてたまらなくなっています。今日の吾妻鏡に牧氏の一人が咎められたのを時政が縁者だから引き取った話。牧の方の縁者ですよね。
牧の方は京に人脈を持つ女性。そのご論をコピーしに早く行きたくてたまらないのですが。(そういう女性と結婚するには時政の側にもそれなりの文化を持っていないと。)
鎌倉時代のこと。なんかわかった気がします。意識の西高東低ですね。承久の乱はその最たるものですが、鎌倉時代全体を通してそうだったと思います。将軍頼経を擁しての道家がそうだとは思っていましたが、時政もだったとは。ただの権力抗争ではなく京都側による鎌倉蔑視が根底にあると思います。
時政は義時・政子によって敗退して伊豆に引き上げたと吾妻鏡にあります。以前から私はそれが気になっていて、随分潔いいなあと感じていたのでした。敗退してではなく、莫迦莫迦しいとなって、引き上げたのだと私は思います。こんな鎌倉、相手にしてても仕方がない、と。牧の方が妻だから。
所詮、吾妻鏡も、義時・政子も関東という田舎者なんですよね。時政にも承久の乱にも勝ったのは知性と武力と時の運。でも、意識はずっと京都側が高い。時政や後鳥羽院たちが鎌倉を認めていたのは頼朝の時だけ。それを吾妻鏡も従来の歴史家さんたちもそうは書かずに「鎌倉幕府」としているだけです。
なんだろう、京都という地。土地の力って、ありますね。神社仏閣の問題ではない気が。長く朝廷が置かれていたから? 鎌倉は必死に対抗したけど結局室町幕府も京都に。鎌倉には滅亡するだけの何かがあったのかも。土地の力の欠如。
土地の……、と書いて、ん?、どこかで聞いたような言葉と。土地の名。プルーストでした。プルーストによる「土地意識の開眼」は大きいです。
6月6日
おはようございます。時政の論文を拝読しつつ寝落ち。今起きました。そうしたら閃いたものが。なぜこんなに時政が気になって仕方なかったかです。最初、外戚の地位を脅かされるから比企能員を倒した、とそれが比企の乱でした。なのに時政を尊敬しはじめて、がむしゃらにそれだけで時政が比企氏を倒したのでは内心困っていました。でも魅力あって止められず、なんとかなるだろうと一章を設けることに。そうしたら見えてきたもの。時政の政治哲学が権力をただの権力としか見られない田舎者に世を任すのが許せなかったんですね。京を、貴族、真の実力者を知っている目にはそう映った。それを書きます。
なんか、どうしても時政を調べるのを止められず、不思議でした。こんな根幹問題が潜んでいたなんて。
メモ: 牧の方が池禅尼の姪だったなんて! これは時政にとって、義時・政子コンビを崇拝するか、牧の方をとるか、自明です。ある意味、京都対鎌倉は、形而上学的か否かですものね。実践派の鎌倉が勝つのも当然だし。
マグノリアが咲いていました@都立有栖川宮記念公園 先週蕾だったので咲いているかしらと楽しみにしていました。

都立図書館で時政に関する論文をたくさん借りて来ました。驚いたことに時政について考察された初期の先生方は、私が素直に受け取った時政像と同じでした。途中で無為無冠の単なる頼朝の舅扱いに変わったのでした。やはり時政は他の御家人と一線を画して知的です。
6月7日
おはようございます。時政の後妻牧の方の出自を読んでいる途中で寝落ちした朝。こんなところで定家の明月記につながるんだぁ〜となってます。実朝を殺して娘婿を将軍につけようとした時政の事件は牧の方の意志。察知した義時政子により失敗。時政は出家し伊豆に帰って以後復活しません。その後の牧の方は何人もの娘を公家に嫁がせた京都で羽振りよく暮らしていて、時政の13回忌に派手な法要をします。それに定家の子の為家が夫婦で呼ばれていて、妊娠中の嫁を気遣って定家が憤慨する記事。為家の妻は宇都宮頼綱娘で、彼女が時政と牧の方の間にできた女子だったのでした。牧の方、生き生きいてます。
小さな水生植物園@井の頭公園 今年も咲きました。

伊豆の願成就院には母と行った思い出。その時分では時政はまだ関心外だったので運慶作の仏像というだけの知識で祈って帰りました。三島大社と蛭が小島?を回って。近くの北条館跡など遺跡を今にして思えば回っておけばよかった。昨夜グーグルマップで確認してそう思いました。
6月8日
おはようございます。今日の道中のお供は時房論。時政を抜けました。原稿は時房が参道を登ってくるところで終わり、次の章へ。最初の一行を、時房は基子の姉を妻にしていた、にしようかとぐるぐる思考中。
牧の方を愚菅抄に「若い」とあるからずっと若いイメージでいました。でも娘が政子と同じくらいで、政子が頼朝と結婚する時自分の娘と結婚させたくて妨害したとあり、そうすると鎌倉で亀の前事件や平賀朝雅事件の時は相当な貫禄。歴史は年齢を考慮しないと事実が見えてきませんね。牧の方、京都っぽい。
牧の方を京都っぽいとしたのは、後白河院の丹後局のイメージ。頼盛に仕えた家の出の京都っぽい女性の牧の方。鎌倉でどんな衣装を着てたのでしょう。これは常々知りたく思っているところ。生粋の鎌倉女性政子と京下りの女性牧の方とでは日頃の衣類が違うはず。
牧の方を丹後局とすると時政は後白河院。田舎者なんかではありません(笑)。単純な時系列小説だったのが次の章で膨らんでかなり面白くなりそう。
まもなく鎌倉なので時房論一旦置いて。執権政治が確立するまで鎌倉は若い執権と年配の熟達した補佐の構図。泰時に対する時房。時頼に対する重時。時宗に対する政村。決して泰時は確立した執権でなく、一時期時房が執権的時代があった。←吾妻鏡は義時政子をたてるため、それをあえて誤魔化している。
これ、前に人物叢書で重時を読んでいるから凄くわかる。吾妻鏡を読んでいると単一的で、そうかなあ、なんかおかしい、となることしきり。こういう背景を読むと目から鱗で納得。誤魔化しても自然に齟齬は匂い立ちます。
夜の鎌倉、小町通り。エチカさん、前。
