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2017.7.31 ツイッターから転載…『鎌倉ペンクラブ』寄稿の自著を語る「『源氏物語と鎌倉』、その輪廻の旅」など

7月30日

おはようございます。昨日の納涼会で、ある方にご挨拶をして、タウンニュース鎌倉版コラムでその方の寺院の山門の写真を使わせて頂くことでお伺いをしたら、気持ちよく「いいですよ」と。高峰顕日様がいらした寺院ですが、高峰顕日様ゆかりの建物は関東大震災で何も残っていないそう。残念でした。

 

自著を語る「『源氏物語と鎌倉』、その輪廻の旅」を掲載して頂いた『鎌倉ペンクラブ』№17 2017.7です。昨日頂いてきました。

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ジレンマなのですが、初めて歴史研究家を名乗りました。国文科に進みたかったのを家の事情で写真の道に。でも独学してたら鎌倉の源氏物語に関わることになって、ある方に順調に国文学に進んでいたらこの発見はなかったねと。でも逆に順調に進んでなかったから肩書がなくここに至るまで大変でした。

 

昨年頃から、貴方はもう歴史研究家なのだからその自覚を持って動きなさいと叱咤して下さる方が現れるようになり、冬に仕上げた共著の原稿では出版社さんのほうで歴史研究家として下さって、それで自著を語るの原稿で初めて自分で名乗ってみました。自覚を持つということは責任を持つという事。

 

7月31日

そういえば来年秋に鎌倉の蹴鞠物語という一日講座を持たせていただくのですが、鎌倉に蹴鞠をされている方々がいられます。その方々とお会いしたくて納涼会で仲介の労をとっていただこうと思って行きました。快く「いいよ」と。皆様遠い多摩から鎌倉の「ために」頑張っていることに対してお優しいです。

 

蹴鞠を通してみる鎌倉の歴史は雅で文化の華でもあり、楽しいです。新古今歌人の飛鳥井雅経が源平の争乱後下向して頼朝に仕えたことに始まり、二代頼家の蹴鞠熱→後鳥羽院に召されて上洛して新古今集の選者に。子息の代で鎌倉での飛鳥井流と難波流の争いがあって……と。

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2017.7.30 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(45)伊豆の頼朝から旗揚げ後の頼朝へのスピード感。タウンニュース鎌倉版コラム第19回「後深草院宮廷と『源氏物語』。鎌倉ペンクラブ納涼会など」

7月26日

仙覚の小説。第二章岩殿観音と第三章名越を入れ替えることにしました。第二章名越です。もともと時政の名越邸で比企能員が殺されて起きた比企の乱。その名越邸を探ることから時政論に行ったのでした。第二章名越は能員誅殺で閉じて第三章の基子さんに。これでいくともしかして仙覚の誕生も間近?

 

牧の方は、池禅尼姪説だと時政と5歳違い。これでは後白河法皇と丹後局みたいで凄みが出てしまう。でも反池禅尼姪説だと19歳も違う年齢差。突然谷崎の蓼食う虫みたいになって文章が動き出しました笑。愚管抄でも「時政は若い妻をもらって」と、その後の牧氏の乱などの原因をそう読んでいます。

 

7月27日

タウンニュース鎌倉版コラム第17回「二条の縁戚 北山准后」に添えた系図はパワーポイントで作っています。私の話は人脈が複雑すぎて聴いて下さる方はもう支離滅裂になってしまう。それで随所に系図を入れるようにしたら好評です。コラムでははじめて。結構、これを作るのを楽しんでいます。

 

やっと一時中断からの復帰の苦しみを抜けました。(たぶん笑)。中断すると再び没入するまでのこの苦しみがイヤ。もの凄い体力を消耗します。軌道に乗りさえすれば後は楽しいのに。時政の若い妻牧の方の件。二時間ドラマを見ているようで可笑しい。われはもや安見児得たり、の世界です。

 

高遠先生、いろいろとほんとうにありがとうございました。昨夜は失われたの汽笛のあたりを再読したかったのですが果たせないまま休みました。でもプルーストの文体の文章の繰り出し方は自然に甦ります。仙覚の小説も長いので生きて完成させたいと思っています。

 

と、たった今、いいね、をして下さった通知を見て。どこにお住まいかわからなくても、ツイッターはPCの向こうにいられる人の気配を感じられる時がある不思議な装置と思います。

 

RTの伊豆半島の地図。ちょうど時政の韮山を書いているところでした。伊豆半島の付け根あたりの「伊豆の国」とあるところが韮山です。こうして見ると伊豆半島ってほんとうに「山」ばかり。天城山系というのでしょうか。時政が材木を切り出して狩野川で運んで鎌倉の材木座に。←今日はここを書きます。

 

7月28日

【タウンニュース鎌倉版】のコラム第19回「後深草院宮廷と『源氏物語』」です。

http://www.townnews.co.jp/0602/2017/07/28/392586.html

 

仙覚の小説「名越の章」が大変なことになって疲れ果てて中断。TLで気分転換させて頂きます笑。頼朝が鎌倉に幕府を開き、新しい都市の建造に必要な材を伊豆から時政が交易で、と運ぼうとしたプロット。でも伊豆の頼朝から鎌倉幕府開創の頼朝の間にはあの膨大な源平の争乱が。その中間に頼家の誕生が

 

あって能員が乳母夫に。さらに平家滅亡後に京都守護として上洛した時政が六代御前を探しだし、文覚がそれを助ける、といった仙覚の小説に欠かせない要素がテンテコ盛。一風変わった源平の争乱通史になってます。勝長寿院の建立に頼朝が伊豆へ材を見に行きますが、時政の鎌倉との交易はそれから?

 

名越の章は、三代実朝の誕生から始まる予定なのに前置きがこんなに。頼家の誕生を入れたのは実朝の誕生に向けてです。頼家は11歳になっています。頼家は比企谷の能員邸で生まれ、実朝は名越の時政邸で生まれました。その名越邸で能員が殺されて比企の乱に。ここまで持っていくのですが、息切れ中。

 

7月29日

一の谷の合戦と壇ノ浦の平家滅亡が1行。時政の京都守護と守護地頭が1行。こんなスピード感で書いています。仕方ないんです。これから宝治合戦から宗尊親王の更迭まで、全部仙覚の人生に関わってくる政治情勢だから。そこに万葉集と源氏物語の国文学の歴史。動き出して楽しくなってきました。

 

仙覚は比企の乱から承久の乱もみんな経ています。1203年から70数歳。途中、時頼と九条家との鎌倉対京都の思惑があり、晩年は比企の小川町で過ごしますが、70数年分の動乱の鎌倉通史を仙覚という人間に被せて書いている気分。生きている間に完成できるかしら…になって、なのでスピード。

 

宗教史も文学史も政治史もみんな身体のなかに入っているから考えている分には全部嵌って生きているけど、いざ書く段になると寄せ木細工のような完璧な入子状態にならない。吾妻鏡を読んだり調べたり、でやっと正確な繋がりに。そんなので昨日は半日費やして疲労困憊。でも文字にすると明解になります。

 

昨日の流れ…、頼朝の旗揚げ→鎌倉入りして政子を呼び寄せる→大倉御所新造→重衡の南都焼討→頼家誕生→平家都落ち→一の谷の合戦→壇ノ浦→時政京都守護、とここで文治元年。この年に頼朝が勝長寿院の建立を思い立ち、材木を見に伊豆へ行きます。時政の伊豆鎌倉の材木交易はここから始まるのかも。

 

二十代の時から一心同体同然の二人三脚で文学を語らい合ってきた先輩のご婦人が高齢になられて手術もされて今はメールもままならないのだけれど、仙覚の小説を心待ちにして下さっていて、今も何週間ぶりかに、ひと言「待ってます」のメール。捧げますの本にしたくない一心で頑張っています。

 

今日は夜の鎌倉。道中のお供は東関紀行。沼津あたりの光景が描写されています。狩野川河口は水深が深く波が穏やかなので湊に適していたそう。あと鎌倉のユイの浜でも船が数百とか浮かんで繁栄していることが。現代の光景とのギャップを埋めていきます。

 

車窓から見る空が荒れた灰色で怖いくらい。熱中症的猛暑でなかったのは幸いです。

 

多摩川を渡りました。

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帰りの車内。鎌倉でご一緒して別れた方々と乗って、北鎌倉で私以外の全員が降りて行かれました。遠いのは私だけ?でした。笑

 

鎌倉は雨でした。渋谷も雨。今日は鎌倉ペンクラブの納涼会でした。鎌倉と文学と、気心知れる方々と過ごして楽しかったです。体調、大丈夫かと不安でしたがなんとか持ちました。永福寺について書かないかというお話。貴方しかいないと。私もそう思うしやりたいけど、仙覚が…

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2017.7.27 タウンニュース鎌倉版コラム第17回「二条の縁戚 北山准后とは」・第18回「後嵯峨天皇と『源氏物語』と鎌倉」

◆タウンニュース鎌倉版コラム第17回「二条の縁戚 北山准后とは」です。

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◆タウンニュース鎌倉版コラム第18回「後嵯峨天皇と『源氏物語』と鎌倉」です。

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2017.7.26日 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(44)時政の若い妻牧の方のこと。真鍋俊照先生『密教アート入門』からコンピューターと曼荼羅の関係について、など

7月25日

ブログを更新したらカウンターの数字が、349996。あと四人で350000 思ったら、これって滅多にないキリ番に遭遇!となりました。今日中にいくでしょうね。

 

記念に撮りました。

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7月26日

一つ前のRT「デジタルネイチャーは仏教用語で解説できる」ですが、真鍋俊照先生がずっと前からコンピューターと曼荼羅の関係を仰ってられました。写真はちくま新書『密教アート入門』の「おわりに」です。もっと詳説された本があったと思いますが。

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もう一枚。次のページです。

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気がついたのですが、時政が15歳も年下の牧の方を迎えられたのは牧の方の父親が平頼盛に仕えていたからですね。時政が頼朝を預かっているのを知っているから。池禅尼姪説を否定された方はそれ程の娘を無位無官の時政に嫁させるはずがないと書かれていましたが、姪でなくても頼盛の縁はあったわけ。

 

歴史はそれ自体がドラマ。下手な脚色をする必要はない。というのは前回(講座等のイベントで中断する前)書いていた基子さんの章が目下浮いて感じられて困っているんです笑。私はどうも三人称の客観的叙述が苦手。内から繰り出す文章に戻さないとと書き直しを考えています。

 

基子さんを書いていた時、物凄い思い入れをして深まっていたから、イベントで余儀なく中断するのが嫌だった。案の定原稿に戻ったら気分が変わっていて書き換えようとまで思う。あのまま書き進めてできた作品と目下の気分で書く作品とでは全然違う。どちらがいいかということでなく流れに身を任せて。

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2017.7.25 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(43)時政と牧の方のこと

7月23日

やっと時政の章が動きだしたと思ったら筆の先から浮かび上がったのは牧の方。イヤだ、これでは女人〇〇とかになってしまう…、となりました 笑。書いていて筆が動くと人が動く。時政、実朝、と追ってもどうしても動かなかった「人」。それが牧の方で動くなんて。心を入れられるから。

 

鎌倉では政子の存在がとても大きい。鎌倉かるた大会でも読み札が「ま」になると会場が俄然盛り上がり、こども達のとる手に力が入るのが微笑ましいです。でも「政子」というトップの施政者が女人だったことの歴史への影響は計り知れないですね。もちろん政子は聡明だったにしても。

 

7月24日

おはようございます。牧の方がどんどん膨らんで目が覚めてしまいました。牧の方は池禅尼の姪。父宗親は頼盛に仕えていた下級貴族でした。ということは、当然牧の方は平家全盛時代の政治と文化を知っています。そういう女性と結婚した時政。時政の政治哲学を助長する牧の方の存在があると思います。

 

前に書いた時政が天城山系の材木を狩野川から沼津に運んで相模湾へという交易をしていた件、これってもしかして清盛の播磨での交易が大きくヒントになているのでは? などいろいろ浮かんで。

 

時政と牧の方のあいだに生まれた女子が宇都宮頼綱と結婚し、その娘が藤原定家息の為家と結婚。つまり、牧の方は為家の姑の母。牧の方と時政が実朝暗殺を企てたとする牧氏の変で頼綱も謀反を疑われ、それで出家し、京の小倉山荘に籠って定家と交流→小倉百人一首に。

 

たぶん、仙覚の小説にそこまでは書かないと思うけど・・・

 

書きながら、時政の伊豆韮山に行くべきか否か、猛暑のこともあり、ずっと様子をみているのですが、まだ「どうしても行かなくては!」の緊急の思いが湧いてきません。和賀江島の時は即日決行のような勢いだったから、たぶん韮山は行かない。

 

そういえばネットで牧の方が「池禅尼の姪」説に異議を唱えるご考察をみつけて拝読しました。「姪」説は定説のようになっているから疑わなかったのですが、少しおかしいと感じていたのを、この反論ではそれが氷解…。このご考察は2002年のもの。熟考して私なりの結論で小説を書きます。

 

タウンニュース鎌倉版コラム第18回が77日の掲載だったので、もう今月は終わりと思っていたら第19回の校正が来て今週掲載と。では8月はないのかな、あるとしたら10月分までプールしてあると思っていた予定が狂うのにな、といろいろ逡巡 笑。運慶展を書いたのを9月分に載せて下さる算段?

 

どなたかが発掘して下さった過去のツイートの写真です。2011年の震災直後は異様な空模様が頻繁に出没しました。この日は電磁波が充満しているようなぎらぎらした空。物凄い広域の天使の梯子でした。

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あの頃は毎日空ばかり追って撮っていました。異様だから撮りに出ずにいられませんでした。それを思うと今は落ち着いています。

 

「牧の方は池禅尼の姪」説へのネットでみつけた反論のご考察。私も検証しました。反論の方の類推される年齢は、いろいろ照らし合わせて齟齬がありません。姪説の方のだと、例えば45歳くらいで政範を出産となる。不自然です。池禅尼の姪説は魅力的だけど諦めます。

 

7月25日

牧の方の池禅尼姪説を捨ててすっきりした朝。仙覚の小説第三章は当初の予定どおり時政たち男の世界に戻ります。それにしても牧の方は面白いです。坪内逍遥は「牧の方」でマクベス夫人として書いたそうです。「姪」説か否かは典拠を愚管抄とするか吾妻鏡とするかの問題でした。愚管抄に姪説にいく鍵が。

 

愚管抄に父宗親とあり、姪説では宗親が池禅尼の弟と。吾妻鏡では宗親は牧の方の弟。昨日年齢考証した結果、姪説での時政との年齢差は5歳。吾妻鏡だと15歳以上。愚管抄に「時政は若い妻をもらって」とあり、当時の年齢差は5歳くらいじゃあ……と疑問でした。でも、15歳なら納得です。

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2017.7.22 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(42)吉本隆明・小林秀雄「実朝」を拝読して→仙覚の小説に戻ります

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7月21日

吉本隆明・小林秀雄両氏の実朝論を拝読していて唯一隔靴掻痒なのは光行がまだ研究されていない時代の作品だから。といっても光行の研究というのは今のところ私一人ですが(従来単なる地下の役人として無視されてました)、光行は自ら書写した万葉集を持って鎌倉に下向し、実朝に仕えました。

 

光行は鎌倉を去るにあたり『蒙求和歌』を作って実朝に献上したといいます……光行万葉集を持って鎌倉に下向→頼朝逝去時、実朝8歳、光行37歳→実朝12歳、四代将軍就任→実朝二十歳の頃、光行『蒙求和歌』献上して帰洛→実朝『金塊和歌集』をまとめる→実朝22歳、定家より万葉集を贈られる。

 

実朝、陳和卿による造船25歳→暗殺、28歳。この時光行は57歳。京でこの報を聞き思いは如何ばかりだったでしょう。陳和卿の造船の前年、仙覚は13歳で比企で万葉集をめざす決意をしています。

 

仙覚はずっと比企で過ごし、将軍頼経の時代になるまで鎌倉と無縁。でも実朝の造船の風聞は耳にしていたでしょう。人の噂として小説に書くことに。実朝は兄頼家が殺された比企の乱で将軍になった人。その比企の乱で生まれたのが仙覚…。(吉本隆明「実朝」では頼家の死に方が実朝の人生観にと)

 

昨年8月に仙覚の研究発表をし論文でなく小説でまとめる決意で始めた『仙覚』。国文学の流れだけでなら仙覚はとっくに生まれています。なのに時代背景をきちんとしたくて時政やら実朝やら迂回しているからまだ生まれてません。でも実朝の陳和卿話題などが実際は仙覚の時代だったんだ~と私自身感銘。

 

それにしても、比企の乱で将軍になった実朝と生まれた仙覚。二人の出発にあるのは二代将軍頼家の死。その実朝が殺されて頼経が将軍になり、その頼経に仙覚は万葉集の校訂を命じられ、貸し与えられた3冊のうちの1冊が定家から贈られた実朝の万葉集。この人間関係、どこまで輪廻なのでしょう。

 

壮大な宇宙のなかの人の世の輪廻には、なにか壮大な必然がある気がする。

 

たぶんそれを書くのが文学で、それを解くのも文学。それがあの小林秀雄の一節。

 

今日はもうずっと吉本隆明、小林秀雄両氏の実朝論から仙覚が離れません。

 

7月22日

やっと仙覚の小説第三章「名越・浜御所」が動き出しました。今朝冒頭の1行が浮かんで。こうならないとダメ。頑張って書いていた今までの分は削除。頑張って書いていても、これじゃあダメだなあという思いが底にあるから、時政とか名越邸とか和賀江島とか実朝とかグルグル渉猟してました。

 

鎌倉で私の「鎌倉の源氏物語」を支援して下さる方から京都思文閣の図録に正嘉二年の具注暦が載っていたからと、「忘れもしない正嘉二年」というメールで画像を送って下さいました。北条実時が完成したばかりの河内本源氏物語を親行から借りて書写した年です。正嘉二年に反応されるなんて!

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2017.7.21 ツイッターから転載…吉本隆明・小林秀雄両氏の「実朝」を拝読しました。

7月21日

昨日、タウンニュース鎌倉版コラム第22回「二階堂永福寺と『とはずがたり』の作者二条」を書きました。ちょうど二条が鎌倉に下向した最初のコラムを書く時に至っていて、どんな切口ではじめようかと考えていたところに永福寺の現地説明会。タイムリーだったので。二条も訪れています。

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昨日はTLで教えていただいたラジオの荒川洋治先生を拝聴。懐かしかった。私の現代詩の原点の方です。詩は言葉ではなく悟りとおなじ世界の開示なのですね。若かったから論理や理屈でわかるものとばかりに質問しまくってお困らせしていました。ある時ふっとそれがわかって詩を離れ、小説に移りました。

 

昨日はこの一節に唸りました。小林秀雄「実朝」から。併し、文学には文学の真相といふものが、自ら現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示する所謂真相なるものを貫き、もつと深いところに行かうとする傾向があるのはどうも致し方ない事なのである。

 

やはり、小林秀雄はいい! となった一文でした。吉本隆明の実朝の読みにとても親近感を覚え、歴史書の解説の比企の乱より深く味わえるものを覚えたのですが、こういうことだったのだと。吉本隆明で満足して小林秀雄の実朝はスルーしようと思ったのですが、全然迫力がありました!

 

実朝の陳和卿による造船の話。材木座のあの砂浜でそんな船を造っていたなんてと信じられなくて吾妻鏡の創作ではないかと疑っていました。でも吉本隆明の実朝を読んだら、進んでも殺される進まなくても自害させられるという究極の環境のなかで唯一望みを託したのが宋への渡航と。納得しました。

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吉本隆明の「実朝」、いいです! 吉本隆明に実朝論があるのを私は知らなくて、このTLで教えていただきました。いつか読むことになるとは思ってもいませんでしたが、あの時呟いてくださった方に感謝!です。

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2017.7.20 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(41)実朝について。大弍局や陳和卿の造船のことなど

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7月19日

昨夕の雷雨で行かれなかったので、今朝は図書館の開館と同時に入って石井進先生『鎌倉幕府』を借りてきました。どうやら比企の乱についてのご論説は石井先生に始まるよう。ずっといろいろ読んでいるのですが、やはり単純な時政首謀とは違う気がします。

 

中央公論社、石井進先生『日本の歴史7 鎌倉幕府』から比企の乱のあたりの解説を拝読。もっとページを費やして詳説されているのだと期待していたのですが。他に比企の乱を書いた本ってないのでしょうか。(というより、私のなかでもうできている一人の首謀者説で書いていっていい時がきてるのかも)

 

ついでに吉本隆明と小林秀雄の「実朝」を借りてきていて、これから拝読する(たぶんざっと。済みません)のですが、まさか仙覚を書くのに実朝が重要になってくるとは。小林秀雄の実朝は中学の時に読んだだけ。吉本隆明は、初吉本隆明体験、です。今まであえて避けてきたから。

 

『吾妻鏡』より。建保5310日。晩頭将軍家(実朝)桜花を覧んが為、永福寺に御出、御台所御同車、先づ御礼仏、次に花林の下を逍遙し給ふ……吉本隆明「源実朝」中に引用されていました。ちょうど永福寺跡の庭園整備を見てきたばかりなのでご紹介。

 

吉本隆明氏は『吾妻鏡』を素直に読んでられますね。思わず発表年を見てしまいました。

 

石井進先生『鎌倉幕府』に東大寺復興には陳和卿がとあり、続いて拝読中の吉本隆明氏『源実朝』に陳和卿に造船させて失敗と。たまたま今日一日のうちに。なんか意味あるのでしょうか、これから。和賀江島と名越邸と…、連環中です。

思いがけず、運慶作といわれる大弍局発願大威徳明王像納入品の年紀が建保41123日、実朝が陳和卿に造船を命じたのが翌日24日(『吾妻鏡』)。…ということを「返信」で教えていただいて・・・

年表に実朝の事跡を入れなければ! 仮寝して起きてまだぼうっとしていたのですが、一気に目覚めてしまいました。大弐局は高野山とも関係あったと記憶。

 

吉本隆明「実朝の不可解さ」より。義時の意を受けて広元があまりにも位階の昇進をのぞみすぎるとして、実朝に諌言したのは建保4920日。陳和卿に造船を命じたのは1124日。実朝は最高の重臣たちの諌言を押し切った時、すでに行くべきところがないと考え、渡宋を思い立ったことに…

 

峰岸純夫先生「鎌倉時代における安達氏と小笠原氏の連携」より:「奥州松島山円福寺舎利伝記」によると、渡宋船の建造に失敗して自らの夢を絶たれた将軍実朝が、葛山入道願成を南宋に派遣して得た仏舎利について、安達藤九郎盛長(景盛)を朝廷に派遣して了承を得て、鎌倉の勝長寿院宝塔、新造立の大慈寺五重塔に納め、持経箱と浄瓶は高野山金剛三昧院に納めたという。(中略)この景盛の最後の事業として、金剛三昧院多宝塔の建設があった。二通の文書「大井朝光書状案」「同寄進状案」はその経過を示している。(中略)「寄進状」のなかで、この御塔を高野山に建立する目的が「故右大臣殿(実朝)の奉為」とされ、建立者の名と趣旨が「御教養大弍尼、私の宿願」と記されている。大弍尼は、加賀美信濃守遠光鐘愛の息女で、文治四年に「若君(頼家)御介惜」ということで鎌倉に参上し、頼朝に謁して大弍局の名を与えられている。千幡が誕生すると、介惜役の女房となっている。

 

大弍局の兄弟の長清は小笠原を称し、その子時長娘が景盛男の義景の妻となった。ここに両家の強固な連携が形成され、そのもとで小笠原氏出身の大弍局の発願で金剛三昧院多宝塔の造立がなされたと考えられる。(多宝塔は実朝の没後30年の供養のためという大弍局の提起)

 

これでみると、大弍局は実朝の造船に至る問題ではらはらし、殺されたあとも悲しみながら30年以上生きたのですね。菩提を弔いながら。

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2017.7.19 ツイッターから転載…源頼朝が奥州平泉の伽藍に感銘を受けて鎌倉に造った宇治平等院鳳凰堂にそっくりの寺院「永福寺」。その発掘調査が完了して史跡公園になり、その現地説明会に行きました。

7月17日

道中、比企の乱についてのコピーを1束持ってきて読んでいたら、あっという間に横浜というアナウンス。慌てて立ったらコピーをばらまいてしまいました。今日は、いざ鎌倉、です。

 

鎌倉。永福寺跡の現地説明会開始です。

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鎌倉市永福寺跡現地説明会にて。宇治平等院鳳凰堂とそっくり同じく翼廊で繋がれた3つの伽藍。中央の二階堂を挟んで両側に阿弥陀堂と薬師堂があります。釣殿もありました。復元は基壇だけですが、池に水が張られると往時がよくわかります。

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池のこちら側から。基壇に集まって皆様解説を聞いていられるところです。

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池越しに見る3つの基壇。向かって左から阿弥陀堂、二階堂、薬師堂です。この基壇の上に宇治平等院鳳凰堂と同じ形式の伽藍が建っていました。鎌倉に、です!

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帰りの車内です。復元は往時の実際の伽藍がわからないから基壇だけというけれど、これだけ鎌倉の方にも知られていない宇治平等院鳳凰堂形式の寺院なら、一般の方のイメージのために伽藍の復元もしたらいいのにと、素人的には思います。学問的なことだけ言ってても、一般市民の方の還元にならないなら。

 

二階堂からこちら側にかかる橋があったそうですが、橋も往時の橋がわからないから復元はしないそう。金沢文庫の橋が私が見た最初の復元と、最近になっての復元で違うのがわかるから、正確な意味で躊躇するのでしょうけれど、称名寺庭園にあの復元の橋がなかったら、今ほど愛されてはいないのでは?

 

それから、武蔵国分寺。やはり伽藍の復元はされていないけど、白壁に朱塗りの柱の築地塀が小さく一部復元されていて、それだけでも往時のイメージが膨らみます。鎌倉は禅宗寺院が多いから、鎌倉の方自身が朱塗りの寺院に馴染みがない気がする。もったいないです。

 

永福寺は奥州合戦に行った頼朝が平泉の伽藍文化に感銘を受けて鎌倉に造った寺院。なので鎌倉市民の方にとって文化の基本です。なのに今日小耳に挟んだところでは自転車置場がない、バス路線も考えたけど無理…。鶴岡八幡宮の裏手で大塔宮の奥。こんな不便な場所、もっと交通の便を考えて下さい。

 

永福寺の位置。頂いてきた配布資料から。

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永福寺の発掘調査の成果。配布資料から。池は今日の水が張られていたものよりもっとずっと大きかったようです。

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7月18日

2004年9月の、私が最初に現場に行った時の永福寺跡です。11月頃はもう一面の金色に輝くススキ野原。そして昨日の2017年7月。発掘調査が終わって史跡として庭園整備された光景に立って嬉しかったです。

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先の投稿、2004年9月の写真と同じ方向を撮った昨日の写真です。こうして見ると、2004年の時の写真は阿弥陀堂方向を撮っていたのでした。

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2005年12月の永福寺シンポジウムでは会場に出土遺物が展示されていました。宝冠の一部かとあります。その前に別の時の報告会で小さな仏像の腕が発掘されたのを聞いていました。小さいけれど丸みを帯びた綺麗な彫刻でした。永福寺の仏像に運慶が携わっていたとしたら。夢が膨らみます。

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スマホ写真を投稿させていただいてましたが、やっとカメラで撮った写真をPCに取り込みました。3枚連投させていただきます。最初は遣り水の遺構です。

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基壇(おそらく二階堂です)とその周囲の雨溝の遺構。

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基壇を俯瞰してのアップです。手前から、阿弥陀堂、二階堂、薬師堂です。てづくり甲冑隊の方々がいられます!

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7月19日

おはようございます。写真は武蔵国分寺跡に建てられた築地塀の復元です。絵図や文献が残っていないから柱跡が発掘されて建物の規模はわかっても建物自体の復元は不可能。でもそれでは一般の人へのイメージは難しいからと、一部だけこうして。鎌倉の永福寺跡にもこういうの、あったらいいと思います。

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2017.7.18 ツイッターから転載…ブラタモリ秩父、武甲山のことなど

7月16日

昨日のブラタモリ秩父。武甲山、最高でした!

 

石灰岩は珊瑚、チャートは放散虫でできていて、武甲山は石灰岩と玄武岩が半々に隣り合わせる山で、それは二億年前の海底火山でできた島が、海底で積もった珊瑚とその島の自体の火山岩がプリンの土台とカラメルの関係で、プレートの移動で潜り込んで、地中の動きで盛り上がって現れたのが武甲山。

 

伊豆韮山の考古学的成果から。「北条氏を一地方武士としてのみ捉えるのはやはり相当な過小評価ということになるであろう」(藤原良章氏「伊豆韮山円成寺遺跡と中世東国史をめぐって」『東国武士と京都』より)

 

カサブランカが咲いているのですが、今年はゆっくり支柱を立ててあげることもできずにいて、ごめんなさい、なのに咲いてくれました。

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そもそも比企の乱の研究者さんて誰だろう、という原点中の原点に立ち返ってしまいました。私は、「比企の乱」という研究論文を拝読したことないなあ、という思い。

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2017.7.16 ツイッターから転載…鎌倉の永福寺跡現地説明会が17日に。秋の運慶展をタウンニュース鎌倉版コラムに書きました&時政について

7月14日

遺跡発掘現場の池に水が張られたとのRTの永福寺跡。左手に並ぶ三つの基壇が奥から薬師堂・二階堂・阿弥陀堂。翼廊で繋がれていて宇治平等院そっくりの寺院でした。池を挟んだ右手の山頂に経塚が発見され、女性らしい豪華な副葬品に、政子が頼朝を偲んで二階堂を見下ろす位置に造ったと聞いたことがありますが、今はどうなのでしょう。

 

永福寺発掘調査現地説明会で頂い資料から。CGによる復元図です。鎌倉にこの優美な永福寺が残っていたら、その後の歴史が武士文化一辺倒の流れでなくなっていたのにとつくづく思います。運慶がここの仏像を造っていたかもしれないとのこと。

 

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TLで、ニホンムラサキとセイヨウムラサキの写真が流れてきて、では私が見せていただいた「ムラサキ」の花はどっち?と写真を出して見たのですが。

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7月15日

おはようございます。今日は本が届く日。世界が変わるかも、みたいな私には楽しみなご本です。時政ですけど。

 

視野的にも、精神でも、広く深いことが好きだからTLも見て楽しいようにRTで埋めさせていただいて、見直して世界が広がるのですが、さて自分の呟きは?と戻ると、時政……。地味だなあ、人気ないなあ、と突然現実に帰ります 笑。でも目下私には時政を深めることが世界の広がりです。

 

ピンポーンと玄関のチャイムの音。時政の本の到着と思って出たら差出人が古本屋さんでなく出版社。???となりつつ受け取って開けたら仏像のご本が二冊。思わず絶句してしまいました。仏縁を大切に読ませていただきます。

 

タウンニュース鎌倉版コラム担当の記者さんからメール。10月掲載号に運慶展を書いたのがOKになりました。ちょうど永福寺が話題になっているところでタイムリーでとてもいいと。今朝日刊紙に一様に載ったそうですね。

 

記者さんから運慶と永福寺の関係をもう少し詳しくと要望をいただき、瀧山寺の聖観音菩薩立像を書き加えました。頼朝亡き後、従兄弟の僧が頼朝の等身大に造った仏像だそうです。たまたま願成就院を調べていて時政と運慶の関係に突き当たり、瀧山寺の像をツイッターで山本勉先生に教えて頂いたのでした。

 

鎌倉の方は秋の運慶展必見ですよ!と声を大にして言いたいです。頼朝と等身大の観音像に拝観できるなんて! この聖観音像の荘厳金具が永福寺から発掘された仏像の荘厳金具と似ているために、運慶が永福寺の仏像も造ったかもしれないと推測されるそうです。17日の永福寺現地説明会、混むでしょうね。

 

届いた本(野口実氏『東国武士と京都』)から「伊豆北条氏の系譜とその本拠」拝読。謎で仕方ないのは2012年大河清盛の時の遠藤憲一さん演じる時政がウィキを見ても「農業が趣味で」と書かれる程度の人物だけど、野口氏のご論は既に2006年に出ていて、時政は京都との凄い人脈を持っている。

 

伊豆の田舎者のイメージが時政の一般論で、大河はそれを踏襲しただけなのでしょうけれど、大河には時代考証というものがあったはず。もちろん大河はドラマだからいいのでしょうけれど。でも時政の真実が知られない限り、鎌倉の歴史は中途半端なまま、従来の説を踏襲したご論がまかりとおることに。

 

ほんとうに、従来語られてきた鎌倉の歴史は、なにか、ブラックホールのような決定的欠陥がある気がする。鎌倉の源氏物語にみる公家文化のこと。時政のこと。材木座のこと……。武士中心、頼朝中心の弊害。誰もそうは思わないのでしょうか。不思議です。

 

7月16日

おはようございます。寝ても覚めても時政みたいになっています 笑 。タウンニュース鎌倉版コラムの書き直したタイトルは「運慶との関わり 東国と源頼朝と北条時政と」。せっかく第1稿で、今度こそ時政に脚光を、と思ったのに結局また頼朝に主役の座を奪われました。

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2017.7.13 ツイッターから転載…11月の講演のこと。北条時政と運慶のことなど。

7月11日

ポスターを作って下さるそうで、そのための写真の使用許可申請をした件が一応落着。プログラムに載せる講演の主旨も推敲して送りました。心に引っかかっていたやらなければならないものの処理一段落。11月の講演準備、猛暑の中で幹事さんが頑張っていられますが、秋口まで私は仙覚の小説に籠ります。

 

講演や講座はほんとうに幹事さんの目のつけどころで全く別物に。今度の幹事さんは源氏物語の二大写本を作った定家と光行が平家の王朝文化の中に青春時代を過ごし、そのために二大写本には二人の平家の方たちへの鎮魂の思いが込められているということ。講演タイトルは「源氏物語の歴史と鎌倉の文化」。

 

7月12日

RTのホテルのアイガーが見える展望。行きたいです! ヒマラヤの時もそうだったけど、今はふつうに国内の写真でも現地そのものでなく遠望で全景が見える写真がいい。遠望を撮るのって、結構大変。例えば雲海に浮かぶ竹田城。現地に立っていたら撮れませんものね。

 

7月13日

おはようございます。時政から運慶へ。運慶から時政に戻って、今日猛暑のなか意を決して都立図書館に行こうと蔵書検索しているうちに、この一冊があれば済むという一冊にめぐり会い、検索してアマゾンで発注。出かけなくていいことに。日中出かけたら相当体力消耗するところだったからほっと。

 

突然思いついてタウンニュース鎌倉版コラムの第21回を書きました。「運慶と東国と北条時政」です。時政について考えていたら、そうだ、ちょうど会期中だし時政と運慶の関係を鎌倉の方にご紹介しようとなりました。コラムは私自身の発見の驚きからできています。今回の時政と運慶の関係も驚きでした。

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*東博の運慶展チラシから、北条時政が運慶に造立させた願成就院の毘沙門天立像です。ご講演で山本勉先生が五本の指に入る屈指の名作とおっしゃられてました。

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2017.7.11 ツイッターから転載…山本勉先生のご講演「運慶展を見るために」を清泉女子大学にて拝聴しました。アイガー北壁の夢が平岡先生の小説講座の思い出に?

7月7日

アイガー北壁を見上げてスマホで写真を撮って聳え立つ巌が雪で真っ白で周囲にも雪がちらついてそれを見上げて感動。綺麗でした。はっきりとアイガー北壁の語とともに映像が夢の記憶に残っています。以前よくヒマラヤの夢を見たけど見なくなって人生が低迷してた気分。なにか抜けたのかも。

 

7月8日

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旧島津侯爵家の洋館がある五反田の島津山で山本勉先生の運慶展をよく観る為にというご講演を拝聴してきました。展覧会前にこんなに準備して観るのは初めて。きっといつもより時間がかかって巡りそう。笑

 

 

今日は金沢文庫「運慶展」の図録と『願成就院』を持って行ってご講演のスライドと照らし合わせながら拝聴しました。図録の写真ではよくわからなかった部分も氷解。それにしても運慶の人気、凄いですね。満員でした。

 

 

興福寺、の一語が頭から離れなくて金沢文庫「運慶展」図録の瀬谷先生解説を読み返す。時政が興福寺と関係あったからというご講演の最後の方で語られた山本勉先生のお言葉。漠然と読んでいた瀬谷先生の解説を思い出してやはりそうなのかと。時政のこと、もう少し極めなければ。仮寝して起きました。

 

 

そして興福寺の一語からもう一つ。運慶という仏師が今のような偉大な存在になったのはひとえに重衡の南都焼討があったから、ということなんですね。とすると、重衡はいい事をしたということもできる。なんか、重衡は気の毒なだけだったけど、凄い功績もあったのだと深いところで感銘。

 

 

 

7月9日

 

葉書が二枚届いた記憶、私にもある気が。高遠先生、RTありがとうございました。懐かしいお名前に目が釘付けになりました。昨日ツイートのヒマラヤの夢。それを見ると決まってパリからお便りが届きました。そして昨日の今日。不思議です。

 

 

TLで検索ということに気づかされて私もしてみました。それで一連のRTを。私自身のための備忘録でもあります。『アカシア』のご解説は私にはバイブルみたいなもので、執筆に入る時いつも最初にそれから何度も読み返します。そうすると気分が盛り上がるだけでなく小説としての方向性が見えてきます。

 

 

私が平岡先生に学んだのは小説作法で、テキストは川端康成の『伊豆の踊子』とかで、そこで「美しき徒労」を学び、『檸檬』では……、だったけれど、本質はフランシス・ポンジュ『物の見方』だったのではないかという気がする。ある時突然ポンジュを紹介された時の衝撃は今も鮮明です。

 

 

思い出が連鎖。たしかポンジュから森敦『意味の変容』に。白い紙を持ってらして、円を刳り貫いて、境界がどちらに属すかなど受講生にわかりやすいよう砕いてお話されてました。早稲田から数人現役の学生さんが受講にいらしてて、早稲田ではこういうお話をされないからと。笑

 

7月10日

 

昨夜は手持ちの時政論を再読しつつ就寝したのですが、時政の興福寺との関係は父()時家が興福寺の悪僧(凄い言い方!)と縁戚関係を結んだことによる、という1行しかなく、その1行のことが書かれているご論文をこれから探すことに。歴史における時政は魅力が全くなく、運慶でぐっと魅力が。

 

 

RTの保立道久先生の衝撃の事実! 上行寺東遺跡保存運動が失敗に終わったその時の文化庁次官だったなんて。上行寺東遺跡は金沢八景駅から歩いて数分の京急線を見下ろす高台にあり、中世墳墓群として貴重な発見の遺跡でした。その為に日本を代表する中世史研究の先生方が新聞を賑わす大保存運動を繰り広げられたのですが、明るい未来を目指す横浜市の開発に中世墳墓群は合わないと却下されて失敗したと聞いています。遺跡は壊され、現在そこにライオンズマンションが建っています。遺跡はほんの形ばかりに一部分だけがレプリカとして残っているだけ。岩盤に彫られた阿弥陀様の坐像があります。

  

 

私が遺跡発掘調査の仕事に就いていた時、ちょうどその失敗から10年の記念シンポジウムが関東学院大で開かれて参加しました。集まった先生方は石井進・網野善彦・千々石到・峰岸純夫・五味文彦、そして保立道久先生…、物凄い面々の先生方で、一様に10年経っても激しい怒りを抱えてられました。

 

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◆2013年、杉並区の大宮八幡宮での七夕飾りです。

7月5日

 

タウンニュース鎌倉版コラム第18回を77日号(今週)に掲載して下さるとのお知らせ。テーマは「後嵯峨天皇と『源氏物語』と鎌倉」です。七夕は鎌倉の源氏物語の日! にかけて下さったのでしょうか。鎌倉との繋がりを書きました。

 

 

 

7月6日

 

昨夜ある方にお礼状を書いたのですが、速達で投函させていただこうと思いつつ就寝。でも起きたら今日投函してはかえってご迷惑と思い来週まで手元に置くことに。気持ちがまとまるまで手紙すらも書けない質で、ここのところどんどんその傾向が強くなって失礼を重ねてしまいます。申し訳ございません。

 

 

 

早く仙覚の小説に戻りたいと思うのだけれど、タウンニュース鎌倉版のコラムが明日掲載されたら記者さんの手元にプールしている原稿が尽きるから『とはずがたり』。11月の講演の準備にいろいろ幹事さんにお返事しなければならないことも溜まっていて。福島泰樹先生『日蓮紀行』で心を鎮めています。

 

 

 

ブログを更新して「仙覚の小説覚書」が№40になりました。ツイッターを日々の閃きや経過のメモ代わりに使っていて、1テーマまとまる毎にブログにアップしています。忘れないように、思い出して見るために。ブログ更新の作業自体が忘れていたことを思い出させてくれて、自分でいつもはっとなります。

 

 

 

時政や日蓮のマイブームが去って何をしても無聊な時間。仙覚の小説にもとりかかれないし。と、こういう時はもう観念するしかないとばかりにタウンニュース鎌倉版のコラム『とはずがたり』に戻りました。そうしたら気分がすっきり。考えていた冒頭の文章も破棄して新規で書き始めました。新しいPCで。

 

 

 

タウンニュース鎌倉版コラム第20回「鎌倉と繋がりが深い 後嵯峨天皇の四人の皇子」。だいたい書き終わりました。四人の皇子とは、『とはずがたり』二条を寵愛した後深草院の他に、第六代将軍宗尊親王、建長寺で修行し住持も勤めた高峰顕日(夢窓疎石の師)と、蒙古襲来の折の亀山天皇です。

 

 

 

7月7日

 

タウンニュース鎌倉版コラム【鎌倉と源氏物語】第18回「後嵯峨天皇と『源氏物語』と鎌倉」です。

 

http://www.townnews.co.jp/0602/2017/07/07/389732.html

 

 

 

『とはずがたり』二条は後嵯峨院の崩御に立ち会います。崩御間近い後嵯峨院は亀山離宮に移られ、そこに六波羅探題南方の時輔が見舞いに訪れます。数日後二条は六波羅に煙があがっているのを見、時輔が打たれたと聞きます。二月騒動です。二条は見舞いに来た時輔が院より先に行くなんてと記しました。

 

 

 

この原稿を送った直後にマレーシアの事件が起きました。偶然にしてもと、あまりのタイミングに絶句しました。続けて二月騒動の詳細を原稿にしようかと考えていたのですが筆が止まってしまって時間が経ちました。その間に【鎌倉と源氏物語】というコラムの原点に立ち返って書く流れができました。

 

 

 

それにしても二条の歴史的事件との遭遇度の高さは半端ないです。鎌倉に来たら第7代将軍惟康親王の更迭、第8代将軍久明親王の鎌倉下向。久明親王は自分を翻弄した後深草院皇子です。そして、二条が鎌倉で懇意にしていたのは平禅門の乱の平頼綱子息の資宗……。平禅門の乱を二条はどう聞いたでしょう。

 

 

 

ある機関に写真の使用許可申請の問い合わせをしました。うまく行くといいです。

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2017.7.6 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(40)福島泰樹先生に『日蓮紀行』をご恵送頂きました。日蓮は仙覚と同時代に生きた人です。

7月4日

いいですね! パリの書店で自著が置かれている。私の夢だから夢を忘れないよう頑張らなくては! 仙覚さんを世界の舞台へ。だって世界の『万葉集』だもの。

 

実朝の産所として政子が移るのが時政の名越邸の吾妻鏡初出。それが「濱御所」の別名。「濱」なので材木座海岸の近くに設定。そして、和賀江島築造への布石として相模湾での船の座礁を書きます。それを実朝誕生の日にぶつけたら以後の実朝の人生の象徴になると、今朝思いつきました。波乱の幕開け。

 

ご恵送頂きました。福島先生が日蓮を連載されていると知ったのは私が仙覚の取材で鎌倉は比企谷の妙本寺様を訪ねてから。当時の早水日秀貫主様にはとてもよくして頂きました。福島先生は日蓮の取材で早水様と。そんなことからご完結を待っていました。

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福島泰樹先生『日蓮紀行』、拝読させて頂いています。佐佐木信綱博士は仙覚全集序文に「大町で日蓮が説法している頃、近くの比企谷では仙覚が万葉集に勤しんでいた」と記されました。日蓮は承久の乱の翌年誕生。仙覚は比企の乱の年の誕生。仙覚を書いていると日蓮が常に傍にいられます。

 

紀行とは、時と場所を超えた出会いの謂なのであろう。私の旅は始まったばかりである……福島泰樹先生『日蓮紀行』。読み進んでいるのですが、行っては戻りで進みません。どこか感動感涙の思いが潜んでいるようで。どこか妙本寺早水日秀前貫主様と繋がるようで。日蓮という方に対する宗派の方の敬虔さ。

 

7月5日

ここでまた日蓮という方に対するイメージが一変したら。時政に対するイメージが一新したように。私の小説『仙覚』はいったいどうなるのでしょう。ただ仙覚の生涯を書くだけなら簡単だったはずなのに。時政も日蓮もあえて書かないつもりだったのに。

 

時代ってそういうものなんだなあと思う。国文学では仙覚。政治では時政。宗教で日蓮。仏師は運慶。と、それぞれの方だけでも研究したら奥が深いからその方だけに関わっていると他が見えない。なのに同時代だから、「隣にいる」。仙覚の小説は国文学だけでは済まなくなりました。

 

『日蓮紀行』の福島泰樹先生の法昌寺は法華宗。鎌倉の妙本寺は日蓮宗。でも『日蓮紀行』を拝読していたら日蓮はご自分で法華宗(最初の方のページですが)と言っていたようで?となって検索。日蓮宗は最初は法華宗で、日蓮亡き後弟子達がたてた宗派が日蓮宗となっていったという理解でいいでしょうか。

 

実家が池上本門寺の近くだったから親しみを持っていて仙覚の件で鎌倉の妙本寺様に関わらせて頂いた時、早水貫主様が池上本門寺からいらしたと伺い一層親近感を深めました。やっと昨夜検索で知ったのですが、池上本門寺は日蓮の終焉の地だったんですね。信者の池上氏が広大な敷地を寄進してできたそう。

 

日蓮も時政も、吾妻鏡で反鎌倉幕府の立場で書かれているから悪役扱い。印象悪いです。一般の方にはそれがインプットされて人気ないです。でも最近立場を替えて見ていると全然強引なイメージはなく却って晴朗。今時政や日蓮をツイートしても人気ないですが、吾妻鏡一辺倒の中世観を脱却させたいです。

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2017.7.5 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(39)運慶のこと。伊豆韮山の願成就院のこと、鎌倉の材木座海岸のことなど

7月1日

おはようございますという時間ではないけれどそんな気分。というのも昨夜コトンと熱中していた調べ物から気持ちが離れて目の前が白紙。することがなんにもなくなりました。ということは書き始める時がきたということ。名越邸を舞台に頼朝、実朝を書くのかな、といった気分です。仙覚誕生の背景として。

7月に入って新暦か旧暦かの七夕の記事が散見されます。源親行が河内本源氏物語を完成させたのは建長七年七月七日。それで私は七夕は鎌倉の源氏物語の日と決めているのですが、必ず新暦?旧暦?の問合せが。親行は長恨歌の七月七日長生殿を踏まえているのだから私は漢字感覚を大切にしたいと思います。

 

それにしても鎌倉の源氏物語記念日。2013年から提案をしているのだけれどまだ動かない。私が動けば手伝いますよと賛同して下さる方はいられますが鎌倉在住でない私には無理。まして仙覚の小説に生涯をかけると決めた今は。私がすでに大家であっての提案だったらきっともう叶っているのでしょうね。

 

7月2日

昨夜の驚き。震災の年の金沢文庫「運慶」展に瀧山寺帝釈天像が出ていられたとツイッターで山本勉先生に教えて頂き、書棚の奥から図録を出したら、なんと、山本勉先生ご監修の展覧会でした。展覧会直後に震災があったこともあり図録を開くのは始めて。知らないということは……を地でいった昨晩でした。

 

秋の東博の聖観音様は寺外初公開がウリだそう。冬は金沢文庫に梵天様。しっかり把握できました。

 

金沢文庫「運慶」展の終了が36日。直後の11日に東北の地震。私はその頃15日に鎌倉での講演が決まっていて計画停電の最中の開催が決行されるか否か、世の不安とは別に動静を固唾を呑んで見守っていました。結局講演は秋に延期しましたが、今は政局の動静を見守っている中でのまた運慶展です。

 

吾妻鏡発表担当ページに伊豆の願成就院北畔に頼朝の御宿舘を建てようと掘ったとあり、これって『願成就院』の歴史にあった頼朝の舘は頼朝亡き後時政が寺院にしたという、それかしら。と思う。今回の担当ページ、仙覚の小説のために個人的に調べている時政関連といろいろリンクしていて不思議です。

 

レジュメを作りました。永福寺事始の項なので2004年の発掘調査現地説明会の時に展示されていて撮った出土品の写真を載せました。金沢文庫「運慶」展のコラムに運慶作品の荘厳金具が永福寺出土のと似てあるとあり、私もそんな気がします。

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今日の夕刻の南西の空。

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7月3日

祭の終わりみたいに発表担当の準備が終わってつまらない気分の朝 笑。今日の道中のお供は金沢文庫「運慶」展の図録です。

 

鎌倉の材木座が時政が伊豆から材木を運んできて栄えたのが原点ではとの自説をお話したら面白がられました。小学生の時に材木座海岸で遊んだ方は実朝が船を造って漕ぎ出そうとしたからと説明されていたけど、時政からと考えると納得と。実朝や和賀江島に至る前にそうなる蓄積があったと考えています。

 

伊豆出身の方がいらして伊豆の材木は雨が降るから育っていいのだそう。狩野川から沼津に出て海路で鎌倉へというのはわかると。他の方は沼津といえば干物しか浮かばなかったけど、時政のそんな歴史があるならまた行ってみたくなったと。時政の魅力、振りまいてきました 笑。

 

この会は永原慶二先生の時代から続けている凄い方ばかりなのだけれど、時政と材木座の視点は始めてだったよう。なんかおかしいと思っていたけどやっと材木座が腑に落ちたという方もいて、鎌倉はほんとうに頼朝以降しかポピュラーでないんですね。

 

皆様には担当頁の吾妻鏡と関係ないけどたまたま時政の名越邸を調べていたらこの考えに至ったと説明。それは比企の乱の小説を書くのに比企能員が殺された時政の名越邸はどこだろうと調べていたからと言ったら、その小説いつ出るの?と。まだ主人公の仙覚が生まれてないのとお話して笑ってしまいました。

 

時政の名越邸は最近まで釈迦堂切通のあたりとされていました。でも最近出土遺物が時政が亡くなった後の時代のものだから時政邸ではなく大町?遺跡と名称も変わっています。で、本当のところの時政の名越邸は?と思って調べています。で、別名濱御所というからには海岸に近いだろうと推測。

 

久しぶりの危険を感じるような夕焼けでした。

 

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会の方が持ってらしてお借りしてきました。『伊豆韮山円成寺遺跡 御所之内遺跡第13次調査1995

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『伊豆韮山円成寺遺跡 御所之内遺跡第13次調査』から韮山の位置です。

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2017.7.5 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(38)時政の名越邸、伊豆韮山の願成就院のこと。運慶展、瀧山寺聖観音像のことなど

6月28日

 

『願成就院』興味津々に拝読させて頂いています。先立って建立された勝長寿院の仏師は成朝。運慶の東国での活躍は時政によるこの願成就院に最初だったよう。それがすぐ和田義盛に飛び火して芦名の浄楽寺諸像に。それから足利の樺崎寺の大日如来像へと続く。大船常楽寺の像とも比較して検討する必要等。

 

 

 

足利の樺崎寺。私が訪ねたのはちょうど運慶作の大日如来像がオークションに出て話題になった直後だったから、もう御堂自体はないものの地面に綱が張り巡らされていてここに御堂があったと。そこに立って「運慶の大日如来像が安置されていた場所」にいる不思議さを感じた日が懐かしく甦りました。

 

 

 

メモ: 頼朝鎌倉入り1180→頼朝、頼盛鎌倉下向を歓待1184→平家滅亡・時政京都守護1185→運慶、願成就院仏像造立開始1186→願成就院堂の完成供養1189→時政の名越邸、吾妻鏡初出1192→比企の乱1203……時政の名越邸は頼朝の鎌倉入りと同時期に造られたのか考えています。

 

 

 

【慈光寺経】から『法華経』薬王菩薩本事品第二十三…『吾妻鏡』を読む会の担当頁にあったので。

 

 

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6月29日

 

昨夜法華経薬王菩薩本事品現代語訳を読んでいたらえんえんと続く功徳の重なりにこのままいったら悟ってしまうかもという恐怖が 笑。ある高僧の方がひたすら法華経を書写していて忽然として悟ったエピソードを思い出しました。法華経は意味を考えたら悟れないけど無心にひたすら読むか書写するのかも。

 

 

 

悟る恐怖というのは目下ひたすら小説を書いていたいので悟るわけに行かないから。きっとその意味では一生私は悟りとは程遠いです。宗教は文学をする人と対極の世界と思っています。夢窓疎石には憧れるけどそれは心の依りどころ。

 

 

 

吾妻鏡には三有の語もありそれは欲界、色界、無色界の三界。欲から離れられない人間界から精神世界、そして禅定の輪廻の世界。たった大倉観音堂(杉本寺)の火災の記事にさりげなく法華経を使う当時の人達の仏教知識の深さに感嘆しました。さすが寺院建立ラッシュの鎌倉!仏陀はこの輪廻を離れた人と。

 

 

 

上横手雅敬氏『鎌倉時代』を拝読してたら、頼朝の従兄弟寛伝が岡崎市の瀧山寺に頼朝の菩提を弔う惣持禅院を建て、等身の聖観音像を安置、胎内に髭と歯を納めて本尊とし、梵天・帝釈を脇士とした。作者は運慶・堪慶父子。この三尊は瀧山寺に現存し重要文化財と。←頼朝の縁者による類例のない制作と。

 

 

 

「三尊の中尊聖観音菩薩像が秋の東京国立博物館の運慶展に、左脇侍梵天像が年明けの神奈川県立金沢文庫の運慶展に、出品予定」と、また山本勉先生からツイートで教えて頂いてしまいました。それで、「驚きました。運慶に関しては震災の年の金沢文庫展が最後で、以降関心から外れていました。瀧山寺の諸像は初耳です。ネットで検索したら素晴らしく綺麗なほとけさま方ですね。東博と金沢文庫展、楽しみに伺わせて頂きます。度重なるご教示、ほんとうにありがとうございました。」とお礼を。

 

さらに「彩色はすべて近代の補彩ですが、それ以外は保存良好です。なお震災の年の金沢文庫の運慶展には帝釈天像が出ていたはずです」だそうです。

 

 

 

もうこれからは仙覚の執筆や取材に向けて体力温存と決め、東博に行くのも全部諦めると思っていたのに、時政の願成就院から思いがけない展開で運慶展に行くしかなくなりました 笑。金沢文庫も行くと疲れるから国宝展でさえ諦めたのに年明けに運慶展! これも行くしかないですね。

 

 

 

やっと新しいPCを設置しました。五月に壊れて、ちょうど講座のためのパワーポイントの編集が終わった直後だったからそのままにして、原稿はタブレットや調べ物で終始していました。画像処理をする必要がないと不自由をあまり感じないんですね。これははじめての新しいPCでのつぶやきです。

 

 

 

先日和賀江島を訪ねた時に歩いた光明寺裏手の谷戸。ほんとうに光明寺からすぐのところなのに入ると急坂で山の中。そこに現代の瀟洒な住宅地が広がっていましたが、かつてはここも名越でした。遠くに海が見えました。(新しいPCでの試しの写真投稿です)

 

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日中に検索して見た瀧山寺の聖観音菩薩像が気になって起きてしまいました。運慶といえば大日如来像や阿弥陀様。なのにどうして聖観音像?の疑問はやはり親族の造立だから頼朝にとって特別だからなのでしょう。千手、如意輪、十一面とよくある観音像の中で聖観音像というのは珍しい気がするのですが。

 

 

 

たしか聖観音は未敷蓮華を持ってらしたはずと思って検索したら先のツイートに出会いRTさせて頂きました。東博のサイトの運慶展のブログには既に瀧山寺の聖観音像が載っていて、やはり綺麗。運慶像の魅力は姿の美しさとありますが、本当にそう。瀧山寺聖観音像の凛とした立姿の美しさ。惹かれます。

*慣れない新しいPCにフォントの大きさや行数の開け方など四苦八苦しています(笑)。やっと六月分のアップを終了しました。

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2017.7.4 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(37)時政の濱御所のこと。韮山の願成就院のことなど

6月22日

今日は伊豆韮山の時政建立願成就院の吾妻鏡発表担当用レジュメ作成。資料を図書館で探したけど伊豆の仏像の扱いはどれも小さく役に立たず困っていたら、願成就院に前に行った時に買った久野健氏の中央公論美術出版本を思い出して棚から。この本ではまだ重文だけれど運慶作とわかって国宝になりました。

 

2014年に水野敬三郎氏と共著で久野版と同じ体裁の『願成就院』(願成就院発行、制作中央公論美術出版)を出されたとのこと。山本勉先生からご教示頂いてしまって恐縮しつつまだどきどきしています。ひととおりレジュメ作成を終えてTLに戻って見たら、の事件でした。韮山行き、諦めようと思っていたのにまた再燃です、笑。願成就院の仏像が芦名の浄楽寺との関連で運慶作と認められたとの辺り、ドラマティックですね!

 

鎌倉に興味を持った最初の人物が和田義盛で、芦名の浄楽寺の運慶作の仏像はかなり深い思い入れがあります。非公開だから拝観できたのはずっと後になってで、密教図像学会の現地踏査バスツアーででした。この辺り、本当に最初期の思い出だから掘り起こすといろいろ懐かしいです。

 

またも山本勉先生から、今秋は浄楽寺諸像はそろって東京国立博物館運慶展に出品とこと。必見ですねと頂いてしまいました。恐れ入ります!

 

6月23日

発表用レジュメ作成。永福寺事始は現地説明会の時に頂いた資料があるからそれにして、時政と願成就院が終わってほっとしてページを見たら、平泉。なんと華やかなことばかり密集しているページなこと! 永福寺を建立するのに頼朝が模したのが平泉の大長寿院。中尊寺境内の丘陵上にあったんですね。

 

朝焼けが綺麗でした。

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やっと、何を書かされようとして時政を調べていたかわかってきた気が。時政の名越邸は比企の乱勃発の引金となった能員殺害の場所。比企の乱そのものを書かなくてはならなかったようです、仙覚の小説は。それを数行で飛ばしてたから、戻れ!の司令だったんですね。第三章は「名越・濱御所」です。

 

つまり、能員殺害の場所を探り当てて特定したというのが、ここのところの時政探索だったよう。そうすると、第三章は建仁二年とか三年になるから、光行さんが建仁寺建立に京に出向いて俊成に源氏物語の不審の条を訊ねたことも入れられる…となって思考がアタフタ。仙覚が生まれた時代の情勢です。

 

6月24日

おはようございます。というか眠れなくて朝になってしまいました。時政と光行さんが頭から離れなくて。光行さんが時政と交流あったか考えていたのですが、あった!とする事に。名越邸でみんなを合流させます。ある日の午後に。光行さん、頼朝に仕えていたのだから当然時政も知ってます。みんなとは、

 

まず時政。そして牧の方。光行さん。そこに時房と基子さん。足立遠元も? そして、頼盛! 牧の方の父は頼盛に仕えていたとの説があります。そして、光行さんは平家に仕えていて鎌倉に下った人。そこに頼盛が下向してきたら…。第三章の書き出しは頼朝が池の禅尼に救われる話からですね!

 

と、やっと長い長い迷走のトンネルを抜けました。書き始められそう。

 

6月25日

全譯吾妻鏡から、頼盛バージョンと名越邸バージョンを作りました。こうして年代と情況を絞っていきます。

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元暦元年519日。武衛(頼朝)、池亜相(頼盛)・右典厩等と相伴ひ、海濱を逍遥したまふ。由比の浦より御乗船、杜戸の岸に著かしめたまふ。御家人等、面々に舟船を飾り……。←鎌倉に下向している頼盛と一条能保を頼朝が船でもてなしている記事。画が浮かびますね!

 

吾妻鏡には時々こういう優雅で風流な記事があります。当時のようすをほうふつとして、好きです。杜戸海岸、行ってみたくなりました。

 

頼朝が歓待した頼盛の鎌倉下向は一の谷の合戦の年だったんですね。前後関係をまだ調べていないのでわかりませんが、光行さんが三善康信に同行されて鎌倉に下向し、頼朝に父の助命を懇願した年。時政の京都守護職での上洛は翌年だから、名越邸での合流は不可能。これから頼盛について読んでいきます。

 

6月26日

おはようございます。時政の名越邸について読んでいます。吾妻初出は「名越の御館 濱御所と号す」として建久三年。実朝誕生の折の政子の産所としてでした。次が建仁三年の比企の乱。比企能員が到着し「廊の沓脱に昇り、妻戸を通りて北面に」と。名越邸は寝殿造りと解釈していいのでしょうか。

 

今まで時政は伊豆の田舎者とか頼朝の舅とか容赦く人を殺す剛腕政治家の悪者イメージで固まっていたのですが、どうもそれは意図的に操作された先入観の気がします。まず御館のような「御」が使われていること。それから記述が敬語を使って書かれていること。時政は敬われていたんです。

 

私は比企氏ゆかりの仙覚を書いているから、最初から比企氏擁護の立場でした。でも時政を調べていくうちに気持ちが変わって、時政を崇高にさえ感じています。吾妻鏡は先妻の子の義時・政子の立場で書いているから、後妻牧の方側の時政を許せない確執があったのでしょう。比企氏対時政、どう書くかです。

 

以前から北条氏は、名執権泰時とか時頼など立派な後継者を輩出しているのに、初代の時政だけが評価が低いのが腑に落ちないでいました。血筋ということで。イメージ一新できた今ならわかります。そういう子孫の堂々とした初代執権時政として評価していいと思います。

 

心待ちにしていたご本が届きました。『願成就院』。

 

仙覚の小説第三章「名越・濱御所」。何を書くか大筋のところで見えているのだけれどまだ詰めなくてはならないことで図書館に。原稿は遅々として進まないけれど徐々に時政周辺の時代と空間が立体化してきて、中で人が蠢いています。まさかこんな展開になるとは。第一時政を書くなんて本当に想定外です!

 

『鎌倉廃寺事典』を借りてきました。時政関連で廃寺を調べようと思って。鎌倉の歴史の森に分け入った最初期は調べ方もわからなくて、この事典を見にわざわざ鎌倉の図書館に行ったのでした。その後地元の図書館にあると知って狂喜したものです。初心者は回り道が多いですね。でもそれもみんないい経験。

 

6月27日

おはようございます。吾妻鏡から抜粋した時政の名越邸を追ったら通史になってしまいました。時政が失脚して伊豆に戻った後、名越邸を継いだのが名越流北条氏でした。通史的に竹御所、時頼など、ざっと駆け抜けた気分です。それから森戸海岸をネットで見たら、頼朝はここに別荘を持っていたようです。

 

頼盛を歓待して杜戸海岸に案内した頼朝は由比の浜から船出。今鎌倉に行って由比ヶ浜に立ってもそういう大きな船は一艘も見当たらないから、どう吾妻鏡を読んでも、本当かなあ、の気分が湧きます。でも、由比ヶ浜では難破した船から流れ着いた青磁など陶磁器の破片が拾えるし、やはり事実なんですね。

 

本を汚すのは嫌だから読むだけにしていると結局身につかない。もうこれは他の何方の手にも渡る心配がないと決めた本には思いきりマーカーを引く。でも終生手元に置くと決めた本でもマーカーを引けない大切な本はコピーをとってコピーにマーカーを。『願成就院』、これからコピーをとります。

 

ひと言でいって北条氏は冷徹。筋が通っている。これは血も涙もない冷たさとは違う。政治家として正しいというのが原点。時政も時頼も。対して比企氏は甘い。なぜ名越流北条氏が政権をとれなかったかを遡ってみたら、朝時のは母は姫の前。比企氏でした。重時もそうだけどたぶん北条氏の血が濃い。

 

と、突然こんなことを思いつきました。メモ。(滅びるには滅びるなりのわけがあるのかもしれない)

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2017.7.4 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(36)時政の伊豆韮山から相模湾への材木の交易についてなど

6月17日

 

時政を調べるのに『図説 静岡県の歴史』を借りてきたら、伊豆はすっぽりフォッサ・マグナに入っているんですね! 地理と歴史と別々に追ってきたから重ね合わせて考えたことなく、驚き、というか、なんか感動。

 

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来月が吾妻鏡を読む会の発表担当で時政が願成就院を建てる条。なんてタイミングがいのだろうと奮起し、この際時政について考えていることをまとめて資料にしようと思っています。それにしても時政。こんなに有名なのに一般の歴史書の中での扱いがほんとうに小さいです。

 

信じられない!さっきから地元の図書館で借りた静岡県の歴史の本を何冊か見ているのですが、どれも韮山に言及したものがなく、どれも内容が通説でムカムカしていました。図説こそはと期待したのに時政はスルー。いきなり頼朝の旗揚げから。静岡県こそ政子を産んだ土地でしょ!とまたも内心ムカムカ。

 

私は考古学出身だから、伊豆の韮山といったら考古学ではスター的存在の遺跡。なのでさぞ県史でも当地が産んだ偉大なスター・時政的扱いで書かれているとばかり思っていました。時政、ほんとうにまともにどこにも書かれていません。()

 

今日は徒労。朝一番に奮起して地元の図書館で静岡県史など借りて来て読んでいたのだけれど、読みたかったことは一つも書かれてなくて苛々が募り、その内何をしているのか自分でもわからなくなってしまいましたが、私はただ韮山での時政の生活形態を知りたかったのです。狩野川でどう交易したかなど。

 

6月18日

紫の紫陽花と立葵@三鷹の森

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またウンベルト・エーコに救われました。『芸術の蒐集』。開いてすぐす〜っと身体の中を清浄な空気が。昨日のリベンジに別の図書館に行って鎌倉武士とか静岡県の地形図とか手当たり次第に見ていたら、運慶の仏像を見るために立った棚にこの書が。小説を書く気分を削がれてムシャクシャしてたのですが。

 

ウンベルト・エーコ編著の『芸術の蒐集』はほんとうに驚異的な蒐集。なのに最初に何気なく開いた見開きページの絵が素敵で、誰の何という作?と、前のページに行ったら、そこにプルーストのスワン家の方へが引用されていて偶然にしてもと。絵は「イタリアの主要なモニュメントの空想的風景」でした。

 

ユベール・ロベールはTLで教えて頂いて西洋美術館まで観に行ったのだけれど、私はほんとうにああいう絵が好きなんだなと思ったのは、「イタリアの主要なモニュメントの空想的風景」もそうだから。廃墟とか空想的風景とか、いいですね! 遺跡に携わっていたからでしょうか。風を感じて。

 

と、やっと時政不記載ショックから立ち直りました。空想的風景の中に時政を浮かび上がらせます。

 

6月20日

現代語訳吾妻鏡から、承元二年四月二日の記事。鶴岡の神宮寺を造営するための材木を伊豆の狩野山から運び出したとあります。巻末の注では狩野山は天城山塊としか書かれていませんか、伊豆の北条時政邸があったところです。

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文化遺産オンラインから北条氏邸跡の円成寺遺跡。時政はここに館を構え、近くの狩野川から材木を運んで相模湾で交易をしていたようです。湾が遠浅で事故が多いから和賀江島が築造されました。和賀江島以降が有名になって以前が忘れられていますね。

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承元は1208年。将軍が実朝。執権が時政の時代です。和賀江島築造は1232年。将軍が頼経、執権が泰時の時代。

 

比企の乱も仙覚も関係なく時政が面白くてすっかり虜になっています。()

 

写真の山は守山。この東側に国宝運慶作の仏像かある願成就院が建てられました。通説では頼朝の奥州戦勝祈願のためといわれますが、仏像は奥州合戦以前から造られ始めているので、北条氏の氏寺としての建立が正しいようです。通説はどうも頼朝主体過ぎてます。いろんな箇所でそう思います。

 

守山に登ると富士山が綺麗に見えます。時政はこうした自然の中で暮らしていました。頼朝が流された蛭が小島は少し離れた場所です。頼朝の舅にならなくても時政は伊豆で京都と繋がる文化的生活をしていたようです。文献ではわからなくても、考古の発掘で証明されました。

 

吾妻鏡を読む会発表担当用に時政について考えていることをまとめたのですが、時政の名越邸はどこかの論文みたいになってしまいました。発表担当のページからは程遠く。()

 

『名誉と恍惚』刊行記念対談、松浦寿輝×平野啓一郎を拝聴してきました。@神楽坂

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6月21日

国書刊行会『天と地の旅 日本の山河26 静岡』を見ています。時政が狩野山から切り出した材木を狩野川河口の沼津から相模湾へ運ぶルートの景観に息を呑みました。伊豆半島西側の海岸線です。船頭たちはこの景観を見て運んでいたのですね。時政も?

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夕焼け雲が綺麗でした。

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6月22日

昨日朝から時政の韮山に行きたくなって終日行くなら新幹線で三島下車だなあと考えていたら、夜に新幹線が止まった三島のニュース。もともと仙覚の小説に登場させるので調べた時政だから韮山に行く必要はないんです。なのにまだ韮山へ行きたいと未練たらたら。前に行った時より発掘が大分進んでいて。

 

ほんとうに小説と論文は違いますね。同じ仙覚の生涯なのに論文では時政は「時政によって比企の乱勃発」の一行。なのに小説にかかったら名越邸はどこかから始まり、ついに韮山まで。お陰で当時の相模湾での交易もみえてきたし、それがみんな小説に膨らみます。こうしてみると論文はプロット。

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2017.7.2 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(35)時政が俄然関心の主役に。名越邸はどこか。和賀江島を訪ねました。

6月12日

時政の名越邸がどこか調べているのですが、地図の見方が今一なので苦心惨憺しています。以前から釈迦堂口切通近くの北条館跡には疑問を感じていたのですが、最近の発掘調査で完全に否定されたよう。ならば本当はどこ?となって調べています。確実にこことまでは断定できなくても、せめてこの谷戸と。

 

万葉集の仙覚を調べ始めて右も左もわからない状態でネットで検索した覚束ない知識で比企に乗り込んで車で回った時と同じ状態。比企は結局違う場所がメインでしたが、その時の四苦八苦が比企の方との縁結びになって今に至っているから、時政邸の四苦八苦もきっと何かの実を結びます。

 

やっと完全に自由になって仙覚の小説に専念できる環境を手にしました。仙覚を調べ始めた時と同じ状態というのもなにか円環のよう。ここにしか私の場所はないと決めたのだから、もうほんとうに邁進したい。

 

そういえば時政の名越邸は比企の乱の発端に能員が呼ばれて誅殺されたところと思い出して吾妻鏡を読んだら「惣門を入り、廊の沓脱に昇り、妻戸を通りて北面に参らんと」とあり。この日時政は、御所→大江広元邸→荏柄社の前→名越邸と騎馬で移動。最後の名越邸で能員を呼び出して誅殺。→比企の乱に。

 

すでに書いている原稿では比企の乱は数行で済ませ、基子さんを比企に逃がしているのですが、こんなところでやはり数行では済まされなくなるのでしょうか。名越の章はなんか膨大に膨らみそうだけど、なんか重大なことを書きそうな予感。それがまだ何かわかってません。

 

6月13日

おはようございます。深夜の地震で起きてまたしばらく時政の名越邸が頭から離れなくなっていました。名越邸に入った後能員は捕らえられ「山の本の竹の中に引き伏せ」られます。昨夜四苦八苦してこの辺り?と目星をつけた谷戸。随分狭いなあと思ったのですが、それだとこの「山の本」が生きてきます。

 

資料は立場を替えて読むと違う側面が見える。比企の乱は時政が外戚の地位を脅かす能員を討ったというのが従来の見方。でも時政を悪者的先入観でなく見るとそれだけかなあ?となる。昨夜再読した乱当日の時政。吾妻鏡が時政を正当化して書いているならもっと単純なストーリーが書けたでしょ、と疑問。

 

(能員が時政を討つ決意をしたのを知らされ)、時政は立ち止まり、落涙してしばし逡巡。遂に意を決して轡を巡らし大江広元邸へ……、この叙述、ただの時政正当化の文章ではない気がします。

 

昨秋から取材に行こうと思っていて叶わないでいる場所。そろそろ来週以降にでもと心づもりしてたのに、基子さんが京都に向かうならますます早急に行く必要がなくなって、取材も何もただ時宜という自然の流れに委ねられているのだなあと実感。その時が来たら、不思議なくらいに自然に動けるでしょう。

 

以前TLで国際日本文化研究センターの荒木浩先生が鎌倉で講演されると呟かれていて、拝聴したかったのですが探し出せずに諦めました。届いていた鶴岡八幡宮の『鶴岳』を開いたらそのご講演が活字になっていました。為兼の文字が散見できたり、なんか、素敵です。後でゆっくり拝読させて頂きます。

 

TLを開くたびに気持ちがざわざわだけれど、ここは個人の呟きで。まず「自著を語る」の校正送付完了。ほっと。次に時政の名越館、頼朝が建久3年に訪問しているとのことで吾妻鏡を読んだら政子の産所となっていて、じきに実朝が誕生。名越館は別名濱御所と。ならば多分私が目星つけた辺りで正解かも。

 

6月15日

攻防の夜の鉄砲ゆり。未明まで起きてTLを見ていました。お陰で出足が遅れて今ごろ車内。時代に翻弄され底辺に押し付けられながら源氏物語と万葉集を守った光行さんと仙覚さんを執筆中だから現状が生々しいです。

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お陰でスマホの充電も忘れて残量33%。充電池は持って来たけど。

 

道中のお供は長村祥知氏「治承・寿永内乱期の在京武士」。冒頭から、今日に至る武士論研究の進展の中で、特筆すべきは、武士にとっての京の重要性が正当に評価されるに至ったこと、に興奮。まさに時政で今私が感じていること。(なんで今ごろ?と思わないでもないくらい当たり前な事に思えるのだけど)

 

鎌倉の青い海。遠くに霞んで見えているのが江ノ島。逗子マリーナから。

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今日の目的地、和賀江島。先の写真の右端にちらと先端が写っています。逗子マリーナから。

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足にマメができました。地図にもまともに載っていない谷戸をぐるぐるぐるぐる歩いて探し回って。地図の見方が下手だからいつもそうなのですが、結局そのぐるぐるが万遍なくその地を感じて帰ることになるので、ああ今日も、といった状況。たっぷり感じて来ました。時政の名越邸があったと思う谷戸。

 

時政の名越邸は、名越殿、名越山荘、濱御所、など名称がいろいろ。濱御所と山荘は相容れないはずですが、今日の谷戸だと両方成立。

 

6月16日

その土地を歩いたら一体私は何を書きたかったのかわかってきて朝からシチュエーションとセリフが湧いてきています。時房から始まった時政邸探訪。時政は足立遠元と京都仲間のはずだから、二人の会話で比企の乱を浮かび上がらせます。場所を名越邸にして。基子さんはそれを聞いて育った人。←の予定。

 

昨日の和賀江島。右端に切り立つ崖が新小坪トンネル。抜けたこちら側の逗子マリーナから撮りました。地図の見方に四苦八苦しながら昨日迷走した谷戸をたどり直しています。和賀江島ができてから六浦に外港の地位を奪われるまで100年栄えたそう。

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6月17日

おはようございます。そういえば足立遠元は比企の乱で処罰されたのかしらと呟いたら、TLで吾妻鏡では後に出てきますよと教えて頂いたのを思い出し、振り出しに戻った感。足立遠元のこと、また考える時がきたようです。仙覚の小説、全然進みません 笑。時系列で仙覚だけ書いていけば簡単なのだけど。

 

腰越の講座。アンケートのまとめを頂く。有効回答数25名、回収率92.6%で、大いに満足20名、満足4名、無回答1(コメントには満足とあり)。これは私の自慢として呟くのでなく、源氏物語と鎌倉のテーマが如何に受講者さんにとって新鮮で刺激的な歴史だったかというお知らせとしてです。

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2017.7.2 ツイッターから転載…【タウンニュース鎌倉版コラム】〈第17回〉二条の縁戚北山准后、鎌倉禅研究会六月例会のこと。「自著を語る」の原稿のことなど

6月8日

建長寺様の紫陽花。

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建長寺様の紫陽花をもう一枚。

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鎌倉の帰り。今日の鎌倉は着いた時は雨に濡れる紫陽花がいい風情。途中陽が射して強烈な影のコントラスト。閉門時間頃はちょっと降った後みたい。結局傘は使わず、しっとりした紫陽花を見られて、いい一日でした。

 

お酒が入ると眠ってしまうから体力が落ちたなあと思うこの頃。腰越の講座に向けて禁酒していたから快調だったけど今夜頂いてしまって、やはり寝てしまいました。今頃起きてFBやツイッターを。鎌倉は月1度の鎌倉禅研究会。FBページを担当させて頂いているので近々に編集します。

 

学僧とは僧でありながら学問をする人。仙覚が鎌倉時代の学僧で僧侶の身で万葉集を研究しました。鎌倉禅研究会に参加していると、こういう方は案外少なく、鎌倉では目下建長寺で修行された采澤良晃師と昨日ご講演の白川宗源師のお二人のみとのこと。お二人は副住職でいられながら現役の大学院生です。

 

お二人ともそれは美しいお坊様で、采澤良晃師はぶっちゃけ寺に出演されてたからご存知の方もいられると思います。臨済宗の僧侶として出演されてました(建長寺で修行されたのだもの、当然)。お二人に共通して感じるのは精神の美しさ、姿勢の正しさ。何から何まで存在がキリッとしていられます。

 

鎌倉禅研究会FBページに、采澤良晃師のご講演は427日に既に、白川宗源師の昨日の分はこれから、写真と共にまとめさせて頂いていますので、若く美しい二人の僧侶の存在を是非ご覧になって頂きたいと思います。白川師の昨日のご講演分、今日中に頑張ってアップします。

 

6月9日

さすが鎌倉。ポストに入っていた郵便物。切手の部分がツヤツヤしてて、ん?と思って見たら、鎌倉の文字。ふつうはただの紙に印刷したシールですよね。

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自著を語るの原稿、「『源氏物語と鎌倉』、その輪廻の旅」の校正が届きました。つくづくこの本は人のご縁の連なりでできていると感慨深いです。「この輪廻の旅はまだ終わりません。仙覚の小説が完成した暁に完となります」で結びました。

 

http://www.townnews.co.jp/0602/2017/06/09/384959.htmlhttp://www.townnews.co.jp/0602/2017/06/09/384959.html

【タウンニュース鎌倉版】鎌倉と源氏物語〈第17回〉二条の縁戚北山准后とは

昨日の鎌倉禅研究会の写真をチェックしていたら、建長寺様閉門後の写真が出てきました。鎌倉禅研究会終了後は観光客の方々もいられなくなった静かな境内を歩いて帰ります。

 

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6月11日

西大寺展最終日。たぶん行かない。近くまで行くけど。今年に入ってシャセリオー展を諦め、ミュシャ展も見送り。たぶんもうよほどのことでないと私は展覧会に行かない。時間は繰り出せばなんとかなるけど、体力が追いつかなくなって。でも全然無念でない。仙覚の小説があるから気持ちが豊か。

 

ずっと時房論を読んでいて、今は仙覚と関係のない時代の時房の子息についてまで読んでいて、時房の子息が佐介氏と大仏氏になり。全然関係ないと思いながら進みつつ、頭の中では時政が醸造し始めているから、「第三章名越」がだんだん書けそうになってきました。

 

昨夜年譜に書き込んだ時政と牧の方の年齢。二人の結婚は平治の乱の前年で21歳と15歳。頼朝政子の結婚の時、牧の方は34歳。比企の乱の年、時政66歳。時房は29歳。牧の方の陰謀で敗れて時政が失墜するのは68歳と62歳。仙覚が13歳で万葉集を志した年に時政は78歳で亡くなっています。

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2017.7.1 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(34)時政と牧の方のこと

6月4日

仙覚の小説。今日はここで一旦終了。順調に没入できるところまで来ました。やっと。()。やっと基子さんが岩殿観音に着いて戸井田刑部と挨拶を交わしたところ。刑部が匿う覚悟を決めたところを書きました。時房は次の段落から。それが大きいから今日は一旦終了して備えます。

 

第二章岩殿観音の最後を、戸井田刑部に匿われている基子さんのもとに時房が捜索に来て終わらせることにし、第三章は先に進む方向で考えていたのですが、回想の名越の章を入れて、過去の時房と基子さんの鎌倉生活を書きます。この時代、源光行が在鎌倉なので三人で源氏物語談義などさせようかと。

 

6月5日

おはようございます。今日の道中のお供は時房論です。

 

久々の吾妻鏡を読む会。奥州合戦を終えた頼朝が鎌倉に帰った段でした。途中、進発時に戦勝を祈願した慈光寺や宇都宮神社に御礼しに回ったり。鎌倉に着いたその夜、席を温める間もなく広元に報告の書状を書かせて、その相手が経房と能保。など、リアルで楽しかったです。この会、やはり古巣はいいです!

 

経房からの書状で、後白河院が頼朝の泰衡らの追討状況が気がかりなのを「羂索」という語を使っていて、検索の意味なのだろうけど何だろうと喧々諤々。羂にはワナの意があるからなど。私は勝手に後白河院のご様子に検索では失礼だから不空羂索観音の字を用いたのでは?などと思ってました。

 

心に仙覚の小説があるからとても穏やかです。頼朝の項も話題になった豊島氏の話もまるで関係なく、心のうちでは時政をどう書こうなど思考が巡っていて、時政をもっと調べたくてたまらなくなっています。今日の吾妻鏡に牧氏の一人が咎められたのを時政が縁者だから引き取った話。牧の方の縁者ですよね。

 

牧の方は京に人脈を持つ女性。そのご論をコピーしに早く行きたくてたまらないのですが。(そういう女性と結婚するには時政の側にもそれなりの文化を持っていないと。)

 

鎌倉時代のこと。なんかわかった気がします。意識の西高東低ですね。承久の乱はその最たるものですが、鎌倉時代全体を通してそうだったと思います。将軍頼経を擁しての道家がそうだとは思っていましたが、時政もだったとは。ただの権力抗争ではなく京都側による鎌倉蔑視が根底にあると思います。

 

時政は義時・政子によって敗退して伊豆に引き上げたと吾妻鏡にあります。以前から私はそれが気になっていて、随分潔いいなあと感じていたのでした。敗退してではなく、莫迦莫迦しいとなって、引き上げたのだと私は思います。こんな鎌倉、相手にしてても仕方がない、と。牧の方が妻だから。

 

所詮、吾妻鏡も、義時・政子も関東という田舎者なんですよね。時政にも承久の乱にも勝ったのは知性と武力と時の運。でも、意識はずっと京都側が高い。時政や後鳥羽院たちが鎌倉を認めていたのは頼朝の時だけ。それを吾妻鏡も従来の歴史家さんたちもそうは書かずに「鎌倉幕府」としているだけです。

 

なんだろう、京都という地。土地の力って、ありますね。神社仏閣の問題ではない気が。長く朝廷が置かれていたから? 鎌倉は必死に対抗したけど結局室町幕府も京都に。鎌倉には滅亡するだけの何かがあったのかも。土地の力の欠如。

 

土地の……、と書いて、ん?、どこかで聞いたような言葉と。土地の名。プルーストでした。プルーストによる「土地意識の開眼」は大きいです。

 

6月6日

おはようございます。時政の論文を拝読しつつ寝落ち。今起きました。そうしたら閃いたものが。なぜこんなに時政が気になって仕方なかったかです。最初、外戚の地位を脅かされるから比企能員を倒した、とそれが比企の乱でした。なのに時政を尊敬しはじめて、がむしゃらにそれだけで時政が比企氏を倒したのでは内心困っていました。でも魅力あって止められず、なんとかなるだろうと一章を設けることに。そうしたら見えてきたもの。時政の政治哲学が権力をただの権力としか見られない田舎者に世を任すのが許せなかったんですね。京を、貴族、真の実力者を知っている目にはそう映った。それを書きます。

 

なんか、どうしても時政を調べるのを止められず、不思議でした。こんな根幹問題が潜んでいたなんて。

 

メモ: 牧の方が池禅尼の姪だったなんて! これは時政にとって、義時・政子コンビを崇拝するか、牧の方をとるか、自明です。ある意味、京都対鎌倉は、形而上学的か否かですものね。実践派の鎌倉が勝つのも当然だし。

 

マグノリアが咲いていました@都立有栖川宮記念公園 先週蕾だったので咲いているかしらと楽しみにしていました。

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都立図書館で時政に関する論文をたくさん借りて来ました。驚いたことに時政について考察された初期の先生方は、私が素直に受け取った時政像と同じでした。途中で無為無冠の単なる頼朝の舅扱いに変わったのでした。やはり時政は他の御家人と一線を画して知的です。

 

6月7日

おはようございます。時政の後妻牧の方の出自を読んでいる途中で寝落ちした朝。こんなところで定家の明月記につながるんだぁ〜となってます。実朝を殺して娘婿を将軍につけようとした時政の事件は牧の方の意志。察知した義時政子により失敗。時政は出家し伊豆に帰って以後復活しません。その後の牧の方は何人もの娘を公家に嫁がせた京都で羽振りよく暮らしていて、時政の13回忌に派手な法要をします。それに定家の子の為家が夫婦で呼ばれていて、妊娠中の嫁を気遣って定家が憤慨する記事。為家の妻は宇都宮頼綱娘で、彼女が時政と牧の方の間にできた女子だったのでした。牧の方、生き生きいてます。

 

小さな水生植物園@井の頭公園 今年も咲きました。

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伊豆の願成就院には母と行った思い出。その時分では時政はまだ関心外だったので運慶作の仏像というだけの知識で祈って帰りました。三島大社と蛭が小島?を回って。近くの北条館跡など遺跡を今にして思えば回っておけばよかった。昨夜グーグルマップで確認してそう思いました。

 

6月8日

おはようございます。今日の道中のお供は時房論。時政を抜けました。原稿は時房が参道を登ってくるところで終わり、次の章へ。最初の一行を、時房は基子の姉を妻にしていた、にしようかとぐるぐる思考中。

 

牧の方を愚菅抄に「若い」とあるからずっと若いイメージでいました。でも娘が政子と同じくらいで、政子が頼朝と結婚する時自分の娘と結婚させたくて妨害したとあり、そうすると鎌倉で亀の前事件や平賀朝雅事件の時は相当な貫禄。歴史は年齢を考慮しないと事実が見えてきませんね。牧の方、京都っぽい。

 

牧の方を京都っぽいとしたのは、後白河院の丹後局のイメージ。頼盛に仕えた家の出の京都っぽい女性の牧の方。鎌倉でどんな衣装を着てたのでしょう。これは常々知りたく思っているところ。生粋の鎌倉女性政子と京下りの女性牧の方とでは日頃の衣類が違うはず。

 

牧の方を丹後局とすると時政は後白河院。田舎者なんかではありません()。単純な時系列小説だったのが次の章で膨らんでかなり面白くなりそう。

 

まもなく鎌倉なので時房論一旦置いて。執権政治が確立するまで鎌倉は若い執権と年配の熟達した補佐の構図。泰時に対する時房。時頼に対する重時。時宗に対する政村。決して泰時は確立した執権でなく、一時期時房が執権的時代があった。←吾妻鏡は義時政子をたてるため、それをあえて誤魔化している。

 

これ、前に人物叢書で重時を読んでいるから凄くわかる。吾妻鏡を読んでいると単一的で、そうかなあ、なんかおかしい、となることしきり。こういう背景を読むと目から鱗で納得。誤魔化しても自然に齟齬は匂い立ちます。

 

夜の鎌倉、小町通り。エチカさん、前。

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2017.7.1 ツイッターから転載…6月3日まで。仙覚の小説覚書(33)時房が気になりはじめました。

6月1日

昨日図書館で借りた人物叢書『文覚』にざっと目を通しました。六代御前を助けた人物として仙覚の小説に浮上。そうしたら基子さんの姉の結婚相手光能が文覚と後白河院の間を取り持ったとして結構重要な展開に。神護寺の頼朝像と対に光能像がある所以でした。この辺り仙覚の誕生以前なのですが面白くて。

 

渡邊晴美、岩田慎平両氏の時房論拝読。やはり時房は京の人脈が強い。岩田氏は、母親は不明だが京都の貴族社会に人脈を持つ人物であった可能性と。私もそう思って、ならば時政がいつ、どこで、その女性を妻にしたか、それで時政を調べているのですが……、文覚、時政、時房の一覧の年譜を作らなければ。

 

いずれにしても、時房。いいです! 武士というより公家の公達のイメージなのですが、武力にかけても優れていて、吾妻鏡が意図的に泰時を引き立てているけど、実際は時房の方が秀でていたとのこと。時政の子で、義時と政子の弟。泰時は義時の子。泰時の孫に時頼…時政の血、凄くないですか?

 

メモ: 時房。比企の乱、29歳。竹御所崩御、60歳。

 

29歳で純粋に光源氏のように美しく基子さんに接した時房も、60歳ともなれば……、ですよね。竹御所に対して。

 

先程間違って書いたので削除したのですが、基子さんに似ているのは玄覚です。仙覚は父時員似の設定。頼家の蹴鞠仲間だった時房は時員そっくりの仙覚を見て素性を察します。承久の乱の時、時房は46歳。仙覚は上洛していて、そこで会わせる予定。仙覚の風貌モデルはジョルジュ・ブラッサンスです。

 

仙覚の風貌を考えていた時にTLに流れてきたジョルジュ・ブラッサンスを聴きたくなって検索して、アルバムジャケットの写真を見た瞬間、これだ!と思って決めました。BGMはエンニオ・モリコーネ。モデルはジョルジュ・ブラッサンス。私の仙覚の小説は日本文学ではないですね。笑

 

講座が終わったら仙覚の小説に戻るという念願が少し満たされたので、これでやっとタウンニュースコラムのとはずがたりにかかれます。とはずがたりの中の源氏物語、or、後深草院宮廷と源氏物語。と、こんな感じのタイトルで書く予定。仙洞を宮廷といっていいのか悩み中。タブレット入力です。

 

メモ: 時政は従来いわれてきたような伊豆の田舎者なんかではない。吾妻鏡で貶められて印象づけられてきたのでは。読んだ限り私には伊豆の時政は平泉のミニ版。大河で時政を滝沢修がしたような秀衡格の俳優でしたことがあるだろうか。対頼朝として、そして義時や政子側からの吾妻鏡の操作がすごい。

 

6月3日

おはようございます。昨夜、仙覚の小説にたぶん完全に戻りました。いろんなことを片付け終わって。比企の乱で基子さんが鎌倉から逃げて岩殿観音にたどり着く直前まで書いていました。そうしたら時房という人物が思いがけず膨らんで、時政まで調べて、すっかり趣向が変わっての再開。どうなるでしょう。

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