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2017.8.30 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(57)文学碑めぐり「仙覚の二つの碑」を書きました

8月29日

早朝、北朝鮮のミサイル発射。北海道上空を通過して襟裳岬沖に落下。終日、文学碑巡りを執筆していました。

 

8月30日

昨日TLで拝見して気になって拝読。佐々木孝浩氏『日本古典書誌学論』から「『大島本源氏物語』の書誌学的研究」。私は鎌倉の源氏物語でも鎌倉の万葉集の仙覚でも通説に異論を唱えるようなことをしているから結構理解できてしばし黙考。特に「改訂にあたっての付記」は身を入れて読んでしまいました。

 

文学碑めぐり「仙覚の二つの碑」を書き終わって写真を選んで終了。昨夜完成させる予定だったのが佐々木孝浩氏「『大島本源氏物語』の書誌学的研究」を拝読して夜を明かしました。仙覚の二つの碑を語ることは仙覚の生涯を語ることだからなんか小説を書き終わったくらいなずっしり感。梗概以上です。

 

不思議なのですが、基子さんの時房から始まって時政に行き、名越邸を調べて、能本を調べて、出てきた古い写真から円顕を調べていたら、仙覚を誰が比企谷に呼び寄せたかの疑問まで噴出して、これは小説に生かせる! と思った時にたまたま学会があって、文学碑めぐりに全部投入してしまいました。

 

仙覚の偉大な功績を顕彰する二つの碑です。寛元四年(1246)に仙覚は鎌倉の現妙本寺境内にあった新釈迦堂で『万葉集』を、文永六年(1269)に埼玉県比企郡小川町で『万葉集註釈』をなしました。新釈迦堂は竹御所の菩提を弔うために四代将軍頼経が建てた寺院です。

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鎌倉の比企谷は比企能員の館があったのですが比企の乱で能員が滅ぼされ、その後竹御所(能員孫)の所領になったようです。竹御所が頼経と結婚し、難産で早世(1234)して新釈迦堂が建てられました。写真は妙本寺境内竹御所の墓。その後能本(能員末子)のものとなり、日蓮に帰依して妙本寺建立。

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2017.8.29 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(56)学会機関誌表紙の文学碑めぐりに「仙覚の二つの碑」を書いています

8月27日

学会で機関誌表紙の文学碑巡りに仙覚の万葉集研究碑を書く許可を頂いてきました。鎌倉と比企の二つの碑です。写真を探していたら比企「やすらぎの里」でした時の写真展の写真が出てきました。比企にはよく行きました。やすらぎの里は慈光寺の麓。一階が食事処で夏の暑い時の冷汁が美味しかったです。

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安らぎの里の外観です。こんなに素敵なところで写真展を開けたのも比企の方の熱心な応援の賜物。この時のタイトルは「写真でたどる東国の源氏物語と万葉集の歴史」でした。

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ときがわ町は今でこそ合併でひらがな名になっていますがかつては都幾川村。都幾川が流れていて涼やかです。山一つ越えると小川町です。(ほんとうに、こういうところに何度も何度も足しげく通ったなんて、数年しか経っていないのに元気だったなあと隔世の感 笑)

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8月28日

文学碑めぐり「万葉学者仙覚の二つの碑」の原稿。今までどおりに鎌倉は妙本寺の万葉集研究碑と、小川町の佐佐木信綱博士建立の仙覚律師顕彰碑の説明を書くつもりだったのですが、ここのところ新発見気分の妙本寺建立の能本と東秩父村浄蓮寺のことや円顕のことなど、入れてみたい気がしてきました。

 

これは昨年の研究発表後の展開なので、学会にはまだ発表していないし・・・

 

たぶん、こういうこと全部が明らかになった時に論文が書けるのだろうな・・・(小説の完成と、どっちが先になるでしょう)

 

(一部記事を訂正します。2017.8.30)「二つの碑」の写真を選びはじめて小川町を訪ねた時のを見ていたらこの写真が。新編武蔵風土記ではこの古墳の入口の壁に「建治四年」の文字があったそうです。それで宗尊親王の廟かといわれていた時代もあったらしいのですが、それはあり得ないとして今は謎になっています。小川町といえば仙覚、ですが。

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仙覚が文永本万葉集を献上したのが宗尊親王なので・・・

 

8月28日

昨夜はダイアナ妃の番組を2時間見てしまいました。一つには闘病中の文学の先輩が彼女を好きで、元気なうちに大切な本を貴女に受けとって欲しいと贈られてきた中にダイアナ妃の写真集があったから。でも私のTLには一言もこの番組への反響が流れなくて、そのことの意味が気になっています。

 

昨夜から文学碑めぐり「仙覚の二つの碑」を書いています。

 

文学碑めぐり「仙覚の二つの碑」を書いているのですが、しんと心が鎮まっていつもと違う。集中力が途切れない。なんだろう、この変化。と訝しいのですが、やっとこれを手に入れた? の気も。仙覚に戻ったからかも。最後、比企の乱の時赤子だった四人の精神が一つにまとまって『万葉集』にとの予定。

 

四人とは、一歳だった仙覚と竹御所。二歳だった円顕と能本。比企の乱を潜り抜けて生きた四人の魂の結晶です。

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2017.8.27 解釈学会全国大会に参加しました。会場は市川の和洋女子大学でした。

8月25日

まもなく下車駅ですが、昨日の今日なのによく出てこられたと思う。でも昨日より元気なのは昨日出て健康になったのかな。家にばかりいると筋肉が萎えてかえって疲れる体質になる気がします。避けられない用の2日続きは昨日のほうが負担感ありました。

 

渡ったのは、荒川? (違う気もするけど、そういう地域)

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たぶん手前が江戸川。左手奥にスカイツリー。

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川が見えるとなんで嬉しいんだろう!

 

昼休み。大きな景色を独り占めして珈琲。学会に来ています。夜の懇親会までしばしの寛ぎ。

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暮れなずむスカイツリーのある光景。懇親会会場から何枚かアップさせて頂きます。

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日が沈み始めて川に射して、川面に輝き。

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日が沈んでいきます。

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夕陽の余韻と夜景の始まり。

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夜景です。フロアの灯りを消す粋な計らい。

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夕陽の余韻が残っていました。

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総武線。せっかく座れたのだからお茶ノ水で乗り換えないでこのまま行きたいけど膨大な時間がかかるのでしょうか。

 

総武線。家人に御茶ノ水の件を相談するメールをしたら、乗り換えたほうがいいよ、との返事。でももう御茶ノ水過ぎてます。笑

 

帰宅しました。懇親会会場は18階。眼下には真間の手児奈の史跡があります。遠方からいらした方々は明日その史跡巡り。上総の地の学会だったから研究発表の中に万葉集と更級日記があり、国文学の学会だから不思議に思わなかったのですが、主催者様の配慮だったと懇親会の最後にわかってうかつでした。

 

今日はいきなりあまりのことにビックリしました。一昨年秋の鎌倉鉢の木の宴席で隣席になった方と意気投合し、『源氏物語と鎌倉』をお送りしたら、面白くて感動したから一冊買って中学の時に自分に古典の楽しさを教えて下さった恩師に送ったと。私はその時私に本のお礼をするのでなく一冊購入して広めて

 

下さるお礼の仕方のスマートさに感動したのでした。その話に続きが。今日学会である学者の方にお会いするなり、○○さんという教え子から貴方の本が送られてきたんですよ、○○さんご存じですか?と。まさに鉢の木の時の方です。そしてその学者の方こそ最初に私の本を研究書として推薦して下さった方。

 

こんなこともあるのですね。まさか、信じられない! 嘘みたい、とひとときその学者の方と盛り上がりました。○○さんにはお便りしてご報告です。

 

昨年仙覚は誰かの研究発表をして、今年はその時お世話になった先生方に小説の進行状況をお伝えさせて頂いたりして、たっぷりと有意義な時間を過ごしました。とにかく通説で止まっているのでなく世に訴えて仙覚という人の存在を知って頂く、反論はその後でいい、と心強いお言葉も頂きました。

 

8月26日

鎌倉禅研究会でストップした円顕の件。学会で万葉集研究者の方々と懇談させて頂いて復活。ある方に誰が仙覚を比企谷に呼び寄せたかわかった気がすると申し上げたら、どうやって?と真面目に質問され、系図と僧侶の次第等でとお応えして成程と納得して頂きました。とにかく論文と小説は違います。

 

昨日の平成29年度第49回解釈学会全国大会公開講演は小久保崇明先生「四鏡における人称代名詞(自称・対称)」でした。大鏡・今鏡・水鏡・増鏡を研究されてきた小久保先生のお話は最後には会場がし〜んとなって全員が聴き入ったようになりました。

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24()に行われた建長寺様での鎌倉禅研究会をFBページにアップしました。FBページはfacebookに登録していない方でもご覧になれます。「鎌倉禅研究会」で検索してお入り下さい。花園大学衣川賢次先生のご講演をまとめさせて頂きました。

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2017.8.26 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(55)円顕のこと。建長寺鎌倉禅研究会八月例会。

8月23日

1234竹御所崩御→将軍頼経比企谷に新釈迦堂建立→能本比企谷を伝領?→1236義時娘が證菩提寺に新阿弥陀堂を建立→円顕が新阿弥陀堂供僧に(この時京都東寺から下向?)→1242日蓮比叡山に→1246仙覚寛元本万葉集→1253鎌倉松葉谷辻説法開始→1260能本日蓮に帰依して妙本寺建立

 

ということは、仙覚がいつ新釈迦堂の住持になったかの決定打がなくなってしまいました。円顕が願い出ての線だったら、親行が万葉集に着手した頃と推測できるのですが。また考えます。

 

でも、どう考えても仙覚が新釈迦堂建立と同時に住持になったとは思えない。親行の万葉集拝命直前頃に佐渡で順徳院が崩御されているから、それで仙覚が比企に帰って来て、円顕が親行の万葉集拝命を耳にした時に仙覚を思い出し将軍頼経に願い出た線が自然な気がする。今のところだけれど。

 

證菩提寺は最初は頼朝建立の幕府の寺院だったのが、次第に北条氏の寺院になっていったようだけれども、円顕は北条氏といっても竹御所と同じ比企の乱の生き残りだから、将軍頼経とは心の交流があったと思う。円顕は竹御所とは1歳違いの叔父。

 

やはり、円顕は鎌倉に戻って来た時、真っ先に竹御所を弔うために将軍頼経のもとを訪れたと思う。そこから二人の心の交流が始まったとしておかしくない。と、眠れなくなってしまいました。そういえば、東寺は頼経の父がいる九条家と近かったなあ…、と突然。そんなことでも話が盛り上がったりして。

 

外が白んできて白い玉簾の花がほのかに浮かび上がっています。今日は出かけるから今マニキュアを塗り直しました。そして少し寝ようかこのまま起きていようか思案しています。道家を思いついたらまた思考が止まらなくなって。円顕が仙覚を順徳院に仲介できたのは道家と知り合っていたからかもと。

 

8月24日

先程夢の中で考えた円顕のことをツイートしたのですが、調べたら年代的に誤っていて削除しました。久しぶりの外出で車内ですが道中のお供は仙覚用ノート。もう気を紛らわせることなく専念することに。昨夜急に僕が書評を書いてあげられる内に仕上げて下さいよとのお言葉を思い出して焦ってきました。

 

鎌倉禅研究会@建長寺、打上も終わって帰りの車内です。今日の講師はお二人とも一山一寧。たっぷりと堪能させて頂きました。驚いたのは一山一寧禅師は第三次元寇の使者に白羽の矢をたてられての来朝。その為最初修禅寺に幽閉され、人格がわかってくると幕府が建長寺住持に迎えたという歴史でした。

 

今日の講師の花園大学衣川教授のお話は素敵でした。一山一寧師の墨跡についてでしたが、墨跡を読むのが語録よりいいのはいつどこでだれのためがわかることだそう。そして、禅僧の語録は多く出版されているけど日本語訳までなっているのはない。日本語に訳せてはじめて自分が理解できたということにと。

 

特別に頂いてきました。『一山一寧墨蹟集』。第一講の田中道源師が住職をされている帰一寺の開山が一山一寧国師。昨年が七百年遠諱記念で作られたそうです。表紙の墨跡は建長寺吉田老師様。帰一寺は幽閉先だった伊豆にあります。

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今日の建長寺様(1)久しぶりに晴れた夏の陽光の中で、今日の建長寺様は至るところで眩いばかりに輝いていました。目に映ったままの写真を何枚かご紹介させていただきます。最初は、唐門の前に蓮の花がまだ咲いていました。

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今日の建長寺様(2)なぜか不思議に空気の遠近感がありました。かなり通っていてこれははじめての経験です。

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今日の建長寺様(3)建長寺様といえば柏槙ですが、私はまだ一枚も、これぞ!、といった姿を撮れていません。今日は、少し、撮れたかな?

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今日の建長寺様(4)三門の向こうに国宝の鐘楼が見えています。夕陽を浴びた茅葺屋根の鐘楼はほんとうに気品あります。

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今日の建長寺様(5)三門の柱の向こうに見える風景。三門の中では土曜説法などが行われます。

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今日の建長寺様(ラスト)夏の花、サルスベリ。建長寺様でも咲いていました。

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鎌倉禅研究会にツイッターを読んで下さっている方がいて、「ここのところ迫真ね」と面白がってくださった後、「来るの嫌だったでしょ」と。そうなんです。絶対に禅研究会に行ったら円顕で盛り上がった気分が吹き飛んでしまう。それは覚悟で行きましたが、やはり吹き飛んでしまいました。泣

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2017.8.23深夜 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(54)訂正です。新阿弥陀堂と新釈迦堂を完全に混同させてしまっていました。

円顕は「新阿弥陀堂」の供僧であったのであって、新釈迦堂の供僧だったことはありません。いつのまにか新阿弥陀堂を新釈迦堂と混乱して考えてしまっていました。なので、円顕が比企谷に住んでいたことはなかったことにします。

ただ、この混乱で浮き上がってきたのは、円顕が新阿弥陀堂の供僧になったのが竹御所が亡くなった二年後ということ。なので、新釈迦堂が建立されたばかりの時期に円顕も鎌倉に戻って来ていたことになります。

新釈迦堂の住持と関係なくても、比企谷の能本とは無縁でなかったでしょう。

将軍頼経が万葉集の校訂を親行に命じた時に、円顕が願い出て仙覚にもさせたという経緯はあながち否定しなくてもいいかもしれません。

とりあえず、今は、混同してしまっていたことをお詫びして記します。以下が正しい流れです。

1234竹御所崩御→将軍頼経比企谷に新釈迦堂建立→能本比企谷を伝領?→1236義時娘が證菩提寺に新阿弥陀堂を建立→円顕が新阿弥陀堂供僧に(この時京都東寺から下向?)→1242日蓮比叡山に→1246仙覚寛元本万葉集→1253鎌倉松葉谷辻説法開始→1260能本日蓮に帰依して妙本寺建立

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2017.8.23 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(53)円顕が重要人物に浮上しました。玉簾が咲きました。

8月22日

TLで一山一寧禅師の草書が素晴らしいと教えて頂いて『鎌倉ー禅の源流』展図録を出して拝見しました。教えて頂いてよかった! 円顕が住したという證菩提寺。ネットに参考として『武家の古都・鎌倉』があったので見たら第一部第一章の最初の頁の阿弥陀三尊像がそうで驚きました。鎌倉、奥が深いです。

 

證菩提寺の阿弥陀三尊像はもしかしたら頼朝発願の造立かもせれないそう。後の鎌倉の仏像と違って優美な定朝様平安仏です。證菩提寺には本尊の阿弥陀如来像があり、こちらは北条氏になってからの造立で、伊豆の願成就院の運慶作阿弥陀如来に似ているとか。私は、円顕が拝した仏として関心。

 

昨夜ツイートの写真「新釈迦堂供僧次第」。円顕が新釈迦堂の供僧だった時代があったなんて!と、それがいつか、仙覚が新釈迦堂で万葉集の研究をした時代と重なるか、それを追っています。比企の乱の時に一歳だった竹御所の菩提を弔うための新釈迦堂に、一歳だった仙覚がいて、二歳だった円顕と能本も?

 

8月23日

目覚め時に急に閃きました。仙覚を新釈迦堂に呼び寄せたのは円顕ですね。円顕は仙覚が13歳の時から万葉集に憧れ八百万の神に祈っていたのを知っています。新釈迦堂の供僧になり頼経が親行に万葉集を命じた時、円顕は仙覚を呼び寄せ頼経に仙覚にもと頼んであげたのでしょう。時系列で考証してみます。

 

比企の乱の時に赤子だった四人。竹御所は将軍頼家と比企能員娘の子。能本の母は三浦氏(三浦氏の誰か系図にあたります)。仙覚の母は足立氏。円顕の母は北条氏として、今のところ義時娘ではないかと憶測しているのですが。二歳の時に特別扱いで殺されずに済みその後東寺に入り新釈迦堂と證菩提寺に。

 

これで整いました。やっと晴れて書ける気がします。仙覚は常陸の人といわれていますがそれは1つの解釈に過ぎません。大昔大家の方が認めたから誰も疑わずにきただけのこと。常陸の人では「比企氏ゆかり」の説明がつかないのに誰もそこの齟齬に触れずに。仙覚が比企氏ゆかりの比企の人なら整合性が。

 

なんか、円顕のことで道筋がついたら今度こそ論文に書ける気がしてきました。以前、ここで書くのは早い、待っていればまだ発見があるからと仰って下さる方がいて、待っていたら円仁の悉曇章の発見がありました。それを学会で発表して論文でなく小説にとりかかっているのですが改めて論文もいいかなと。

 

玉簾が咲きました。実家からもってきた父の思い出の花。母が大切に水やりして毎年綺麗に咲いていたのですが、今年は私が体調を崩してそこに七月の猛暑。プランターが悲惨に荒れて咲くのが危ぶまれました。でも咲いてくれて、嬉しい。

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2017.8.22 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(52)證菩提寺と円顕のこと。峰岸純夫先生の『享徳の乱』が10月に講談社メチエから

8月20日

享徳の乱は一度高幡不動で峰岸先生のご講演を拝聴したけど、その時はわかったつもりだったけど思い出そうとして何も思い出せない。講演はそういうもので、私の鎌倉の源氏物語も聴いて下さった方はにこにことわかりやすかったです!と帰られるけど覚えてはいられないと思う。でもそれでいいのだと思う。

 

8月21日

鎌倉禅研究会八月例会のお知らせをFBページにアップしました。

8月24日(木)13時~16時半 於建長寺応供堂。

「一山一寧禅師あれこれ」帰一寺住職 田中道源師

「一山一寧偈頌と書法芸術」花園大学教授 衣川賢次先生

 

峰岸純夫先生の享徳の乱にかけられる思い。「それを正すためにも、『享徳の乱』をメインタイトルとした書を世に問いたかったのである。本書は私の年来の宿願である」。いいですね! たぶんこれが最後の本と仰っていられますがきっと次もあるでしょう。

 

「新阿弥陀堂供僧次第」。比企の乱の時二歳だったのが円顕と能本。一歳だったのは竹御所と仙覚。竹御所の菩提を弔うために建てた比企谷の新釈迦堂の供僧に円顕が!後年新釈迦堂と並んで能本が日蓮宗寺院を建てます。井上氏のご考察では天台宗の僧侶が日蓮宗の境内を自由に通っていたと。円顕と仙覚……

 

この写真、円顕が写っているので撮って保存していたのですが、何の本だったか覚えてません。比企系図では円顕が伯耆法印で山之内の証菩提寺に住すとあるだけで、新釈迦堂の供僧のことは書いていない。でも比企の乱で生き残った四人の一人なのだから新釈迦堂に無縁だったはずないですよね。

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円顕は京都東寺で真言僧として暮らしていて、その時に小説に登場させるつもりでしたが、ずっと後半、鎌倉になっても存在してくるなんて、今頃になって小説が動いてきています。(ほんとうに、仙覚の生涯がわかったからといって小説が書けるわけではなかったですね。思い上がってました。反省)

 

証菩提寺は1213年和田合戦で北条氏の寺院となっているから、円顕がそこに住したということは、やはり2歳の時に一緒に流された母は北条氏のゆかり。証菩提寺は相当寺域の広い大きな寺院だったよう。

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2017.8.20 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(51)井上通泰『万葉集雑攷』から「鎌倉比企谷と仙覚律師万葉集研究の遺蹟」再読。能本と妙本寺新釈迦堂のことなど

8月18日から

井上通泰氏『万葉集雑攷』から「鎌倉比企谷と仙覚律師万葉集研究の遺蹟」は仙覚の研究をはじめてすぐ出会い、まだ妙本寺を訪ねたこともなかったから竹御所の菩提を弔うために建られた新釈迦堂の場所など参考になる個所を読み込んで行きました。まだ前の前の貫主様の時代で、『源氏物語と鎌倉を』を刊行し

 

持参してご挨拶に伺った時に早水日秀前貫主様が出て来られてお渡しさせて頂いて帰ったら翌日すぐにお電話を頂戴して面白くて一気に一晩で読んだと仰って頂き仙覚を応援して下さるように。その早水様も亡くなられていろんな意味で原点に立ち返ったような時に能本のことが浮かび上がって感慨深いです。

 

ブログを更新しました。仙覚の小説覚書が№50になりました。昨日呟いたツイッターの備忘録的使い方は、こうしてブログにまとめて載せるため。思考の経過をしっかりした文章でブログに纏める余裕がないからです。

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いまのところの能本: 比企の乱で生き残った1,2歳の子は、仙覚と竹御所と円顕。吾妻鏡にある和田義盛に預けられた2歳の男子が円顕と思われます。能本も妙本寺寺史から2歳だったとわかりますが吾妻鏡にも比企系図にもなく、突然日蓮に出逢って妙本寺を建立と登場。妙本寺にある墓に母が三浦氏と。

 

円顕は母が北条氏だから殺されないで義盛に預けられた。能本も母が三浦氏だからきっと三浦氏のどこかで匿われていたのでしょう。竹御所は政子に引き取られて幕府内で育てられたから比企谷を継いだ。それで亡くなるとそこに新釈迦堂が建てられた。その後能本が比企谷を継いで住んでいた。新釈迦堂の

住持として仙覚が呼ばれ、おそらく呼び寄せたのは能本。一歳違いどうしの叔父・甥で交流していて、宮騒動で将軍頼経が京都に送還された後仙覚は寛元本万葉集を仕上げて鎌倉を離れる。能本は日蓮と出会って帰依して妙本寺を建立し比企に隠棲。晩年仙覚も比企に隠棲して再び交流…という流れでしょうか。

 

誰が仙覚を新釈迦堂の住持として鎌倉に呼び寄せたかをずっと考えていました。仙覚が在京中に道家と交流して、道家が派遣して子息頼経に仕えさせたとか、いろいろ可能性を探っていたのですが、能本の線が一番信憑性ありそう。

 

これは!とピンときたのはお墓に母三浦氏とあると読んで。比企谷と三浦半島の中間に名越があります。日蓮が立正安国論を書いた松葉谷は名越。能本は比企谷と三浦半島を往復する途次に日蓮と出逢い帰依したのでしょう。先日時政の名越邸跡を訪ねた時はまだ日蓮を書くことになるとは思いもしませんでした。

 

三浦氏の系図を見ていたら「證菩提寺」のリンクがありました。比企の乱の年に二歳だった円顕。東寺の真言僧になり、その後鎌倉に来て證菩提寺にと。山之内のあったという證菩提寺って、ここ? と地図を見たらやはり山之内になる地域のようです。

 

證菩提寺は三浦義明の弟の岡崎義実の子「佐奈田与一」を祀った寺院とあります。円顕は、おそらく吾妻鏡にある「二歳で比企の乱に遭い、母とともに和田義盛に預けられて安房に流された男子」です。その後東寺に入って、後に鎌倉の證菩提寺に。和田義盛の関係で三浦氏ゆかりの寺院に入ったのでしょうか。

 

能本も母が三浦氏ならば、和田義盛に預けられた男子の可能性もある?と考えるのですが、残党男子を身内の武将に預けることはないですよね。このあたり戦乱の思考に疎いのでわかりません。円顕も「縁故があるから預けた」ということで、もしかして母は三浦氏? ノートにとって考えます。

 

8月19日

やっとエンニオ・モリコーネ、ラカリファが戻ってきました。鬱屈していたり体調を乱してたり迷走してたりでもう自律神経を整えるBGMにすがりっぱなしでした。能本の名越との関連で先が見えてやっと安堵。どちらが先かなんてとりかかった本、先生が先になってしまいましたが嬉しいです。

 

メモ: 1234竹御所崩御→1246仙覚寛元本(鎌倉)1253能本日蓮に帰依(鎌倉)、仙覚後嵯峨院に万葉集献上(京都)1260能本妙本寺建立、日蓮松葉谷法難→1265,66仙覚文永本(鎌倉)1296仙覚万葉集註釈(小川町)1288浄蓮寺建立日朗上人開山(比企)

 

メモ2: 円顕の7歳で出家して東寺に入寺は、時頼が5代執権になった時に4代執権経時子息の幼い頼助が仁和寺に入寺させられたのと同じ気がする。ということは、やはり円顕の母は北条氏で、能本とは格の違う扱い。

 

メモ3: 円顕。2歳で比企の乱。母が特別にゆかりの人だから(北条氏ということか?)殺されずに母と共に和田義盛に預けられ安房に流される→7歳で出家、東寺に→伯耆法印となって、鎌倉山之内の証菩提院に。証菩提院(證菩提寺)は三浦氏ゆかりの寺院。和田義盛に預けられた縁で?

 

メモ4: 日蓮が鎌倉に来て辻説法を始めたのは執権が時頼の時代で、能本はすぐに帰依しているからすでに比企谷に住んでいた。同じ年に仙覚は後嵯峨天院に万葉集を献上しているからすでに鎌倉を離れていた。能本が妙本寺を建立するのは7年後で執権長時の時代。能本と日蓮の時代は仙覚は完全に埒外。

 

メモ5: 能本が日蓮に比企谷を寄贈して妙本寺を建立し、自身はすぐに比企に帰ったとして、仙覚が小川町に行くのはその6年後で、しかも仙覚は12年後には亡くなるから、比企での二人の交流は12年間しかなく、能本はその先8年を仙覚なく過ごす。能本が亡くなって2年後に大河原光興が浄蓮寺建立。

 

井上通泰氏『万葉集雑攷』から能本についてまとめようとノートを開いたら724日に牧の方についてのまとめが。7月は時政にかかっていたのだなあと感慨。でも不思議と名越繋がりでリンクしてる。これになにか意味あるのだろうかと思う。こういうことってずっと後になってわかることがよくあるから。

 

三浦氏を調べていて「鎌倉の歴史 鎌倉時代の年表/北条時宗鎌倉ぶらぶら」というサイトに出会い、そこに能本と仙覚の事跡を書き込んだら一目瞭然。この年表、歴史的事件に関連する寺院の建立が時系列になっていてわかりやすいです。

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井上通泰氏『万葉集雑攷』は昭和7年の刊行。最初は図書館のコピーで拝読していましたが、日本の古本屋さんを知って最近購入。研究はもう終わっているけど記念にと。再び拝読することになるとは!

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二代将軍頼家娘で比企能員孫、四代将軍頼経正室の竹御所という女性。竹御所の名は居館の呼称からそう呼ばれるように。居館が比企谷に造られた年を年譜に書き入れたら政子が亡くなった翌年でした。以降竹御所は政子の名代として幕府に君臨していきます。政子似のしっかりした女性だったようです。

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2017.8.18 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(50)仙覚と比企能本のこと

8月15日

昨日内紛に巻き込まれたお電話の方から事情説明の資料とお便りを頂き拝見してから胃が重い。これからストレスに効くヨーグルトを買いに出るのだけれど、凄い雨。文学に挫折して苦しんでからもう30年経ているのにストレスに私、弱いです。理性では全くダメージを受けていないのに体は正直。

 

永福寺物語1(奥州平泉と頼朝)を手放して、そうしたら頼家と蹴鞠や光行さんと阿弥陀堂奉行のことなど続けて書きたくなったのだけれど、そこに突然浄蓮寺と比企能本の件が浮上して、やはりこれは仙覚の小説に戻りなさいという啓示かと。あと少しご報告など書いたら今度こそ専念したい。

 

なぜ岩殿観音の章が進まないのかわかりました。比企の乱に能本を入れなければならなかったんです。でないと最終章に突然登場することになる。能本についてはわかってなくて、吾妻鏡でも比企系図でも相当する男子は私が仙覚とする人物と一歳年上の叔父円顕だけ。能本は書かないと決めていたのですが。

 

8月16日

能本をすでに書いてあった章に入れると決めたところで進むと思った原稿。今朝は能本がどうして比企谷の能員館を継承できたかが気になって考えています。比企氏残党の男子は殺されるはずなのに生きていられたどころか継承までして両親の法号を寺院名にしたり。仙覚が生涯隠し通したのは嫡系だったから?

 

能本って、お能の本?と訊ねられて、そうっか、自分の備忘録のつもりでツイートをしてるから自分勝手だったと反省。ここのところ呟いている能本は比企能本で、ヨシモトと読みます。比企能員(ヨシカズ)の末子で、妙本寺の開基です。日蓮と出逢って能員館跡を寄贈して妙本寺に。

 

上下で完成。ウンベルト・エーコ『バウドリーノ』の表紙。文庫で新刊になったばかりです。少し家の用にかかるので原稿にかかりきれなさそうだからちょうどいいのでその間読んでみようと思って。

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8月18日

能本が気になって昨夜から吾妻鏡、比企系図、寺院史、仙覚史、日蓮紀行から事跡を年譜に入れて考えています。日蓮が比叡籠山中に鎌倉で会っていたことになっていたりの齟齬を排除していくと見えてくるものがあるはずなのですが、そうすると今のところ能本が日蓮に会うまでの事跡は皆無…

 

比企の乱で生き残った男子は二歳だった円顕と胎内だった能員孫。円顕は吾妻鏡で和田義盛に預けられ東寺に入った人。能員孫は私が仙覚とする人物。円顕の母はたぶん北条氏でそれもかなり時政に近い女性だから生き延びられた。能本も成長するまで隠れてはいても能員館を継承しているから母は北条氏。

 

吾妻鏡にある二歳の男子が母と共に流されたのが安房で、日蓮が安房の人だから、能本が吾妻鏡にある男子で安房で日蓮に帰依したのかと思って事跡を並べたのですが、日蓮が生まれたのは男子が20歳位の時ですでに安房を離れていました。能本が日蓮と出会ったのは60歳頃で日蓮は法難直前。

 

やっと玄覚の声が降りてきました。これを待っていました。昨日ウンベルト・エーコの力を借りようと思った矢先です。自力でできると原稿が目覚めたのでしょうか笑。第二章は比企谷・妙本寺。ここで仙覚が最初の万葉集をし、玄覚が書写をしました。能本が建立した寺院。そういうことを玄覚に語らせます。

 

結局ウンベルト・エーコの力を借りたことになりました。昨夜バウドリーノをチラ見して、エーコは薔薇の名前でも最初に種明かしめいた序から始めています。私はサスペンス仕立てに最後になって実は彼は万葉集の…としたかったのですが、万葉集のことは最初に明かしていた方が意味ある追い方ができそう。

 

8月19日未明

読み通すまではと眠いのを我慢して拝読していました。井上通泰『万葉集雑攷』から「鎌倉比企谷と仙覚律師万葉集研究の遺蹟」。以前は仙覚は誰かに関する部分だけに集中して拝読して他はあまり覚えてなくて。能本に特化して読んだら驚いた発見が。仙覚が新釈迦堂に呼ばれたのは能本に?ではないかとの

 

推測で読み始めたのですが、なんと井上氏は、仙覚が新釈迦堂で万葉集をしていた時に、能本の住居が同じ比企谷に隣どうしにあって、二人は1歳違いだから仲良くしていたと。なんと、晩年に小川町で浄蓮寺の関係で交際していた以上に、鎌倉ですでに交際していたのでした。これを見落としていたのです!

 

これ以上呟いたら目が冴えてしまうのでお終いにします。おやすみなさい。

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2017.8.15 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(49)東秩父村の浄蓮寺と比企能本のこと

8月14日

謎が解けました。思いがけず。以前、くつわ虫伝説に妙本寺を建立した能本が比企に戻って東秩父村の大河原光興と親交し、光興が日蓮宗に帰依して浄蓮寺の開基になったとあり、能本がいつ光興と?と不可解でした。接点は開山日朗上人にあったようです。たまたま直後に福島泰樹先生の『日蓮紀行』を拝読、

 

そこに日朗上人が妙本寺を造ったとあったので、?、妙本寺を造ったのは能本ではないの?と調べたら、能本が開基。日朗上人は開山でした。そして、たった今お便りすることがあってまた浄蓮寺の栞を出したら、開山が日朗上人と。栞にも妙本寺と縁が深いとはありましたが、こんなに繋がっていたのでした。

 

そういえば、開基は屋敷を寄贈して寺院にするわけだから、その後屋敷を離れるんですよね。能本は妙本寺を造ったとあっても、その後どうしたか、私にはつかめていません。もしかしたら比企に帰って浄蓮寺の光興と親交したのでしょうか。とすると、くつわ虫伝説にある記事はあながち誤りではなく、

 

連ツイ、済みません。仙覚の小説。晩年までまだ果てしないけど、小川町で仙覚が万葉集以外に何をしたか、誰と交流していたかなど、なにもわかっていませんでした。もしかしたら能本が登場して浄蓮寺についても書くことに? 一歳違いの叔父・甥どうしで天台宗と日蓮宗について語り合っていたりして。

 

2012年夏に中世史サマーセミナーで廻った比企の浄蓮寺がこんなところで生きてくるなんて。あの時どうしてこの埼玉の奥地みたいなところに日蓮上人のご真筆があるか不思議だったのですが、その謎が解けたばかりでなく仙覚とまで関わってくるなんて。写真は浄蓮寺の日蓮上人を祀る祖師堂です。

 

2012年夏に中世史サマーセミナーで廻った比企の浄蓮寺がこんなところで生きてくるなんて。あの時どうしてこの埼玉の奥地みたいなところに日蓮上人のご真筆があるか不思議だったのですが、その謎が解けたばかりでなく仙覚とまで関わってくるなんて。写真は浄蓮寺の日蓮上人を祀る祖師堂です。

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浄蓮寺様の写真を幾枚かアップさせて頂きます。

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長い揺れの地震でした・・・

 

14日18:11 千葉県北西部M4.5

 

小川町に隣接する東秩父村の浄蓮寺。比企能本との交流で日蓮宗になったとしたら、能本どころか、当時小川町にいた仙覚も訪ねたことがあっただろうと気がついて震撼。私は知らずして仙覚の足跡を踏んでいたのです。なんか、不思議に居心地よかったのですが。

 

流れとして。能本が日蓮上人に帰依して館を寄贈し妙本寺を建立→日蓮上人が弟子の日朗上人を妙本寺の開山にする→能本が比企に帰って大河原光興と親交→光興が感化されて日蓮宗になり浄蓮寺を建立→能本の尽力で日朗上人が浄蓮寺の開山になる→能本は晩年を比企で過ごした。仙覚と共に。

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2017.8.13 ツイッターから転載…「永福寺物語」という一文を書きました

8月12日

内紛に巻き込まれられたみたいで、私はそれで文学を挫折し長い間書けなくなって代わりに鎌倉の源氏物語と出逢い仙覚の小説にたどり着いた人間万事塞翁が馬の繰り返しで今の達観を得たから焦らないけど、こういう時って、何もかも全部が有難い未来への示唆なんですよね。というわけで今日から新境地。

 

夏の一隅。蝉しぐれの井の頭公園にて。

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「永福寺物語」という一文を書きました。書いてみなさいと仰っていただいたのにいろいろ手を回しすぎていて気が乗らずにいました。考えてみるとなにか鬱屈していたんですね。予兆だったのかも。心機一転したら書ける気になって終日とりかかって、ほぼ仕上げ。うまくいけば連載にして頂けるのだけれど。

 

8月13日

阿津賀志山の戦いは吾妻鏡を読む会の前回の発表担当頁がその決戦当日だったから知ったばかり。ただ漠然と奥州合戦と思っていても決戦は平泉ではなく福島県だったのです。頼朝は決戦後に平泉に入って華麗な仏教寺院都市を見て鎌倉に帰るや永福寺の建立に。永福寺物語は阿津賀志山の戦いから始めました。

 

永福寺が平泉の二階大堂を模して造られたと吾妻鏡に書かれていても、平泉で宇治平等院そっくりだったのは秀衡建立の無量光院。頼朝が模したのは二階建ての意味だったよう。三代の栄耀は、清衡が中尊寺。基衡が毛越寺。秀衡が無量光院。中尊寺と毛越寺の間に「金鶏山のみ名を残す」の金鶏山が。

 

連ツイ、済みません。昨夜調べていたら芭蕉の奥の細道が出て懐かしくなって金鶏山を文章に入れてしまいました 笑。中学の修学旅行が東北だったので三代の栄耀…はもう夢中になって暗記しました。鎌倉の側からばかり平泉を見ていたら芭蕉がすっかり忘れられてました。

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2017.8.12 ツイッターから転載…福島泰樹先生の『日蓮紀行』を拝読

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8月11日

 

昨日から時政で中断していた福島泰樹先生の『日蓮紀行』を拝読しています。くつわ虫伝説で東秩父村にある浄蓮寺が妙本寺を建立した比企能本と交流して日蓮宗になった経緯を知り日蓮に関心が湧いたところ。ちょうど昨日は吉祥寺曼荼羅で福島先生のコンサートの日。行かれないけどご本で思いを馳せて。

 

 

 

そして、この絶大なる法華経の功徳を謳った大論の結語はあまりにも美しい。「されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。此功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。」上来之を説く如くである。すべてのものはその本源に納まってゆくのである。(日蓮紀行より)

 

 

 

日蓮の言葉も福島先生のご文章も激しく美しく突き刺さってきます。日蓮は、仙覚が万葉集研究をした妙本寺の関連で福島先生とは鎌倉繋がり。以前鎌倉ケーブルテレビに出た時、私は鎌倉在住でないから見られなかったのにたまたま福島先生がその時期鎌倉に滞在してらしてご覧になってお電話を頂きました。

 

 

 

『日蓮紀行』に妙本寺を造った日朗上人とあり、妙本寺を造ったのは比企能本だから、では日朗は能本?と検索。日朗は開山で、能本は日学といって開基でした。日蓮と仙覚、時代も舞台もぴったし重なっているので読んでいてわかるといえばわかるのですが、逆に混乱も 笑。

 

 

 

能本は、竹御所が将軍頼経の正室になって比企氏残党の帰省を許した時に鎌倉に戻り、その後に日蓮と出合って帰依して妙本寺を創設。だから、能本が東秩父村の浄蓮寺が日蓮宗に改宗するような交流はその後。能本と浄蓮寺の僧との交流はいつ、どこで、だったのでしょうか。

 

 

 

『日蓮紀行』を拝読し終わって軽く睡眠をとって起きたら大変な電話。大変というのはあちら様がなのだけれどもお電話の向こうで必死に訴えていられるのを聴いて私はその方が私の冬みたいに自律神経で体調を崩されないかそのほうが心配。私はといえばそういうことを乗り越えての今があるから推測できて。

 

 

 

ここのところなんか潮目が変わる時にさしかかっている気がしていたのですが、ほんとうにそうなのかも。こういう時って何かに集中しようとしても無駄になりそうで頑張っても結局無駄になるという経験を積んでいるから無理する気が起こらないんです。それでいろいろ放棄してたらたらしてました。

 

 

 

これでほんとうに仙覚の小説に専念できるかな。そういう流れになってきているのかも。天が時間を与えてくれて。(ほんとうは密かにこういう流れを予期していたかのような)

 

 

 

あまりに大変なお電話で自分では気にしていないつもりなのに手首に激痛。年末にあまりの大変さに一夜にして手首が腫れ上がって肩から激痛で動けなくなった時に、これは自律神経の乱れだと判断して整えるBGMを聴いて治したのを思い出し、かけて寝て起きたら手首の激痛は治っています←今ここ

 

 

 

今日一日のツイートを見直して気づきました。日蓮を読んでいたら大変なお電話。そして激痛。以前鎌倉の活動である意味大変なこと続きだった時に、まるで日蓮の法難みたいと私が言ったら、鎌倉の方が、貴方はまだそんなに苦労してないとピシャっと言われたことを思い出しました。

◆写真は以前連載していたエッセイをまとめたものです。愛着のあるエッセイで、鎌倉の歴史研究の端緒となったものですが、未整理で正式出版にまで至っていません。ニフティのHPに載せていたのですが、そのHPも昨年秋に閉鎖されて以降、公開できなくなりました。鎌倉の源氏物語に至るより前の私の原点です。


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2017.8.10 ツイッターから転載…鎌倉文学館講座室をお借りしての連続講座のことなど、鎌倉での活動の来し方を振り返って感慨

8月9日

ポストに比企の方からお便り。冬に春になったら比企を案内しましょうと仰って下さったのに、私が仙覚の小説に没入し、あちらも仙覚の小説の完成までひたすら待って下さる覚悟を据えられてそのままご無沙汰。昨日ふっとその方のことを思い出したらポストに。以心伝心ですね。

 

中世宇都宮氏シンポ、行きたいけどたぶん無理。暑さと遠方過ぎるとで体力消耗するから。11月の講演が終わるまでとにかく体力温存。2月に笠間時朝シンポが開かれるそうだけど、これは絶対行く! それまでに仙覚の小説、真観にたどり着いていたいです。(たぶん無理 笑)

 

今日は暑いけど湿度が低いから昨日より楽。昨日は蒸して辛かった。加えて目眩気味でなんか地表が不安定でふらふらする感じ。立つとゆら〜っとして。おかしい。もしかしてどこかに地震が? と疑っていたら夜になって四川省の。東北の震災の時、立っていても東北に傾くと投稿されている方がいました。

 

窓を全開にして扇風機 の風にあたりながら今日の余韻を噛み締めています。鎌倉の源氏物語は源光行という、鎌倉の万葉集は仙覚という、今迄識者さんは知っていられても一般の人に降りてきていなかった二人の功績を一般の方に知って頂くことが目的。それに賛同して活動を支援して下さった方は、ご自分の

 

お父様の人生がそういう人生でいらしたのを娘として無念を晴らす活動をされています。私の活動を助けて下さりながら逆に私のパワポでの講演を見て身につけられて活動を広げられ、今は原稿25000字に挑戦中とか。メールを拝見していたらついにここまでという思いにふっと涙したくなりました。

 

光行さんのことも、仙覚さんのことも、なぜその方が身を削るようにしてまで私の活動を助けて下さるのか最初は理解できなかったのですが、同じ思いを知っていると、その先その先が読めて布石ができるんですね。例えば、建長寺様で講演させて頂いたとき、たくさんの方がいらして下さって、建長寺様側の方

 

が廊下にまで人が溢れてどうしようと心配になったと仰られたほどの成功でした。でもその方はその時これで終わってはいけない何か立ち上げなければと、鎌倉文学館の講座室を借りての連続講座の会を始めてくださいまいた。続けなければ意味がないのよと。みんなお父様のことの経験があってのことでした。

 

連ツイ済みません。鎌倉文学館の講座は正解で、私の活動も人脈もぐっと広まりました。あの時私のために尽くして下さった方が、今はご自分の活動に縁を得られて打ち込んでいられる。メールを頂いてふっと万感迫る思いがしたのでした。人は、こんなにも他人のために尽くせます。

 

鎌倉文学館講座室をお借りしての連続講座の時のチラシです。6回まで続きました。

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また連ツイ済みません。第五回のチラシを揚げたら第六回の時のことが甦りました。慈光寺経がテーマの回でした。妙本寺の早水貫主様は仙覚のことで応援して下さっていました。当日私が鎌倉に向かう湘南ラインの車中にお電話を下さって「慈光寺経だから聴きたかったのだけど今日は法要があって残念」と。

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その早水貫主様も亡くなられて。仙覚の小説は、ほんとうに早く仕上げなければ間に合わなくなりそうな私自身がその年齢に入ってきました。

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2017.8.9 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(48)くつわむし伝説のこと、浄蓮寺と日蓮など

8月7日

仙覚の小説をもとに戻して(名越章を消して)一から印刷し直して気持ちを込める作業に入ります。すっきりしました。

 

8月8日

おはようございます。仙覚の小説をもとに戻して二日目。時政を調べ終わって一時虚脱感に襲われすっかり何も書けなくなって鬱になったかと焦りました。二日間ぼうっとしてそうしたら時政の名越の章を止めようという思いが湧いて、そうしたらすっきり。昨夜はくつわ虫伝説を読み返して就寝しました。

 

名越。どう読むのでしょう。大学ではどう教えてられるのかな。地名では「なごえ」ですし、先日和賀江島を訪ねた時もタクシーの運転手さんがそう言ってらした。でも吾妻鏡の会で講師の先生に「なごし」と注意されて?となっていたところ、昨夜のくつわ虫伝説に「なごし」とルビが。歴史的にはなごし?

 

くつわ虫伝説は比企の乱の後比企に逃れた基子さんにあたる女性の伝承。伝説では比企能員の妻となっていますが年齢的に子息の時員の妻。伝説では生まれた子は能本と名乗り日蓮宗僧日学となって東国で生涯を終える。でも能本(日学)は能員を弔うために鎌倉は比企谷に妙本寺を創設します。

 

以前五木寛之さんの文章で読んだのですが、歴史は勝者のもので敗者の歴史は残っていない。ただ伝承として伝わる中に敗者の真実があると。くつわ虫伝説も比企の乱で逃れた女性がいてその人が男子を産み、比企系図にあるそれを私は仙覚として小説化していますが、能本の歴史がダブるのは無理ないと思う。

 

でも、くつわ虫伝説。微妙に真実なんですよね。男子を産み落とした後自分がいては北条氏に捕まるから赤子を託して自分は西国へ去る。京には東寺に円顕という能員の子が僧になっているからその伝を頼って←円顕のことは系図にあって事実です。伝説を書いた人はいろんな伝聞をもとに作成したのでしょう。

 

東秩父村の浄蓮寺です。地理的に仙覚がいた小川町の隣です。くつわ虫伝説に能本が日蓮宗に帰依した後故郷に帰り土地の豪族大河原光興と親交。光興が日蓮宗に帰依して建立したのが浄蓮寺とあり、以前訪ねた時の写真を見ていました。妙本寺を建立した能本の比企との関係はどうなっているのでしょう。謎

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仙覚は天台宗僧です。光興は最初天台宗だったのを能本の影響で日蓮宗に。系図で重複しているように能本と仙覚の事績が微妙に被さりますが、天台宗と日蓮宗とで決定的に別人なのは確か。なのに、仙覚の小川町近くにまで能本の事績があるなんて! 能本は能員のおそらく末子。仙覚は能員の孫になります。

 

佐佐木信綱博士『仙覚全集』の序にあるように日蓮と仙覚は活躍の時期が一緒です。浄蓮寺には日蓮上人の御真筆があります。でも仙覚の生涯に日蓮は入ってこない…、今のことろですが。

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8月9日未明

夜の涼しいうちにとまだ起きています。昨日未明TLでこの世ならぬ綺麗な月光の彩雲があり、夜に四川省でM7の地震。以前四川省で被害の大きかった地震があった時も話題になるほど大きな彩雲が出ました。昨夕は虹も。TLで見たある方の虹は株虹だったけどとても太かった。地震には前兆があると思う。

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2017.8.7 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(47)時政の名越章を止めて岩殿観音に戻ります

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2007年8月 富貴寺にて

8月5日

 

おはようございます。昨夜は久しぶりに夜の時間が空いて、こんな時こそ何かするチャンスと思いながら逆にこんな時こそぼうっと過ごしたくなって就寝も早々に。ずっと根を詰めてたから気分回復です。帰り、茨城県方向の低空が明るく雲が白かったので茨城に地震があるねと話していたらやはりありました。

 

 

 

畑の中の道を通ると遠くの低空が見えます。夜に発光していて雲が白いとだいたい翌日に地震。地震は、北海道○○沖とか、茨城県沖とか、千葉県北西部とか震源地が決まっているから、発光の方向と地震の発生は経験で見慣れています。M4くらいまでの予測なら安心して見ています。

 

 

 

8月6日

 

八月のカレンダーは秋の予告。秋口までいただいていた自由、すなわち仙覚に専念できる日がなくなります。なのに八月の後半から抜けられないイベントでまた外部に気が拡散必定。その後半までにどこまで執筆できるかといえば目下文体に迷って困惑中です。時政に集中しすぎたために文体が論文調になって。

 

 

 

玄覚の回想による導入の文体は完璧と自負できるのに、時政にそれが使えなくて……

 

 

 

やはり時政を入れるのに無理があるのかなあ

 

 

 

いっそ、時政の論文を書いてしまおうかと。そうすれば忘れられる・・・(今、ここ)

 

 

 

山本勉先生の「ツイッターとはこういうふうに使いたい」のコメント、私はツイッターのお陰で鎌倉の源氏物語の解明ができました。なぜ親行が77日にこだわるのか、国文科卒でないから謎でした。呟いたらどなたかが、長恨歌ですよと教えて下さって解明。そこから一挙に開けたのでした。

 

 

 

国文科に進学していると、楊貴妃と源氏物語の関係は周知の事実なんですね。でも私のように独りで源氏物語を読んでいる立場の人間には予想もつかない。そんなことを幾つもツイッターに呟いては助けて頂きました。ツイッターは私にとって大学の教養学部なんて密かに思っています。

 

 

 

8月7日

 

おはようございます。昨夜の一般教養学部的ツイート、起きたら消そうと思っていたのに反響を頂いててビックリ。写真が本職だったから人文の一般教養的な部分が欠けていて、ツイッターがなかったらここまで来られていませんでした。改めて、心から、感謝! です。

 

 

 

それと、あまりに素人的な不甲斐ないところから晒しているから、皆様が憐れんで()応援して下さって、ここにくるまで試練が幾つもありその都度めげて悲観的な呟きをするといつもどなたかが「何かあったのですか」と心配して下さる方が現れてそれだけで慰められて励みになりました。ほんとうに多謝!

 

 

 

改めて今日の呟き。仙覚の小説ですが、時政の名越の章を止めて岩殿観音の基子さんに戻ることにしました。起きたらそう心が決まっていて。基子さんと時房を書いていて光源氏のような貴公子然とした時房の父が田舎者のはずはないと思ったことから時政に発展したのでした。時政のことはいつか生かせます。

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2017.8.4 ツイッターから転載…永福寺と平泉のことなど

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8月3日

おはようございます。やはり平泉はいいですね。思いがけず平泉文化圏の論文を拝読することになって、それから離れられなくなり、就寝まで平泉の本。永福寺を通して中尊寺を見るこの視点は初めてだけど、今まで漠然と読んでいた「平泉」が初めて自分のものになりました。伊豆の海運まで出てきて。

 

永福寺の話を書きたいから切口を求めていたのですが、清衡の願文! これですね。冒頭は。なんとなく書きたいだったのが、いきなり構成が浮かび上がりました。願文はいいですね。以前タウンニュースのコラムに書いたけど、上東門院彰子の願文が松下禅尼を動かし、時頼に伝わって、建長寺の願文に。

 

吾妻鏡を読むと、秀衡が建てた無量光院が宇治平等院にそっくりで、頼朝は永福寺を建てるにあたって無量光院を訪ねた時の結構を頭に思い浮かべていたよう。単純に二階大堂を模したというわけではなかったのですね。二階大堂は山上。無量光院も永福寺も開けた平地です。二階大堂を模しては願文かも。

 

昨夜の読書で奥州まで物資を運ぶ海運図が出ていて途中に伊豆が。吾妻鏡で奥州合戦の後処理で牧の方の弟が平泉と懇意だったと捕まったのを、時政が妻の身内だからと引き取る条がありました。海運で繋がっていたんですね。韮山は平泉と似ているとは発掘調査の結果。時政は本当に田舎者ではなかったです。

 

仙覚の小説に書いている私の時政のイメージは、ミニ秀衡。前にも呟いたけど、滝山修さんが演じた秀衡みたいな時政像ができたら…。それにしても、仙覚の小説→比企の乱勃発の時政の名越邸→伊豆の韮山→運慶の願成就院→永福寺発掘調査現地説明会から、昨日の平泉論文の降臨。なにか導かれてます。

 

8月4日

おはようございます。八月に入ってカレンダーをめくったら九月が視野に入ってきて内心焦り気味な気分です 笑

 

タウンニュース鎌倉版コラムに添付する写真は小さいからスマホで撮った写真でも大丈夫でした。第20回に使わせて頂く浄智寺様の山門の写真。フィルムカメラで撮ったのはあってもどこにしまったか。そんなことを訴えつつ記者さんに送ったスマホ写真です。先月末に載せて頂いたのにもう次の校正が。

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2017.8.3 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(46)平泉文化圏のことと永福寺

8月1日

確認したわけではないけれど、タウンニュース鎌倉版のコラム。9月分の予定が8月号に載るそう。やはり7月に2回は、東博「運慶」展について書いたのを9月号に載せるためだったよう。せっかくなら、鎌倉の方が行かれた時に頼朝と等身大の瀧山寺聖観音像を見逃さないで欲しいですものね。

 

物凄い集中して、久しぶりに画像処理と保存をしました。PCが壊れてスキャンできなかったことと、原稿と講座でいっぱいいっぱいで、タウンニュース鎌倉版コラムの紙面保存ができていませんでした。昨年九月分からです。10か月もいっぱいいっぱいだったのですね。呆れた・・・

 

8月2日

昨夜ふっと突然仙覚の小説に戻りました。で、今は頼朝が勝長寿院の建立を思い立って伊豆に材木の検分に行くところ。昨日かねてご挨拶をと思っていた方にお便りをして今日はあちらがそれを見て下さる日なのだけれどもう放った矢はあとにして前だけを見て進みます。

 

鶴岡八幡宮の夜の舞殿。2005年に永福寺のシンポジウムがあって行った時に撮ったのですが、こうして見ると永福寺の復元CG伽藍に似ている気が。宇治平等院鳳凰堂をイメージして見るとCGは少しいかつい気がしてたのですが、「鎌倉」なのでしょうね。

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タイムラインに「CiNii 論文「平泉文化圈」の問題 : 藤原氏關係の諸堂宇に對する一考察(慶應義塾創立百年記念論文集)」が流れてきて・・・RT なんてタイムリーな!

 

RTさせて頂いた論文にあった白水阿弥陀堂の池。20127月に訪ねました。当時私は浄土式庭園探索に夢中になっていて、白水阿弥陀堂もこういう西日の浄土の光景を撮ることばかりに気がいってました。橋や伽藍の写真も少しあったはずですが、HDDに取り込んでなくて。

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訂正。行ったのは20045月でした。2012年は画像処理の日付? たしか東北の震災前だったはずと思って見直しました。福島県いわき市にあります。池の画像をもう一枚貼ります。阿弥陀堂内部は撮影禁止でしたが、いい空間でした。

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TLで紹介されていた浅子勝二郎氏「『平泉文化圏』の問題」拝読。平泉文化は割と読んできたつもりだったけど、阿弥陀堂にテーマを置いたこの論考は新鮮。頼通が平等院鳳凰堂を極楽に模して造ったのは自分が中に身を置いて極楽浄土を感じるためだったとか…。体験型の考え方、はじめての気がします。

 

今まで拝読したご論では、ただ末法の世の不安から逃れるためとか、浄土をこの世に具現するため、のような言い方で説明されていたような。

 

「平泉文化圏の問題」から、中尊寺金色堂の建立と目的について。「現在大長寿院の所管にかかる天治三年付清衡の中尊寺建立供養願文なるものがあり……、清衡が前九年、後三年両役における敵味方の戦没者の霊を慰め、地上に浄土を実現する理想を持っていたことが窺われる」

 

これは頼朝が永福寺建立にかけた思いと全く同じ。一字一句というくらい。しかも永福寺は中尊寺境内の山上にあった大長寿院を模したとされてます。頼朝がこの願文を目にした可能性はあったのでしょうか。(なんか、今まで外観ばかりを巡って読んでいて、いきなり中に入ったかのような肉薄感)

 

中尊寺金色堂に関しての阿弥陀堂のご論考でした。11世紀から12世紀にかけて、即ち藤原時代の中期から後期にかけて阿弥陀堂の建立が多かった。現存するのは奥州の中尊寺金色堂や白水阿弥陀堂、高藏寺阿弥陀堂のほか、本土では平等院鳳凰堂、法界寺阿弥陀堂、往生極楽院、浄瑠璃寺、富貴寺等の本堂。

 

たったこれだけしか現存していないんですね。そして私は宮城県の高蔵寺阿弥陀堂以外全部行ってる…、行きたくて恣意的に選んで行っていたつもりが、阿弥陀堂文化巡りだったんだぁ〜と、今更に腑にすとんと落ちました。あと行きたいのが円仁の比叡山常行堂。これは、もう、無理かな…、体力的に。

 

『吾妻鏡』文治5910日の頼朝が奥州で泰衡を討った後の条を読むと、中尊寺の経蔵別当大法師心蓮が訪ねてき「当寺は経蔵以下仏閣塔婆、清衡之を草創すと雖も…」と合戦後の安堵を願い出ています。頼朝は「清衡、基衡、秀衡三代の間、建立する所の寺塔の事」を仔細に尋ねることに→17日、心蓮が清衡已下三代造立する堂舎の事を報告すると、頼朝は「忽ち御信心を催さ」れたのでした。その報告の「中尊寺の事」に「次に二階大堂(大長寿院と号す)」とあります。頼朝はこの日に清衡の願文を読んで「ご信心」を催されたのでしょうか。→129日、永福寺の事始です。

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2017.8.1 タウンニュース鎌倉版コラム【鎌倉と源氏物語】第19回「後深草院宮廷と『源氏物語』」の紙面です

◆タウンニュース鎌倉版コラム【鎌倉と源氏物語】第19回「後深草院宮廷と『源氏物語』」

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