8月18日から
井上通泰氏『万葉集雑攷』から「鎌倉比企谷と仙覚律師万葉集研究の遺蹟」は仙覚の研究をはじめてすぐ出会い、まだ妙本寺を訪ねたこともなかったから竹御所の菩提を弔うために建られた新釈迦堂の場所など参考になる個所を読み込んで行きました。まだ前の前の貫主様の時代で、『源氏物語と鎌倉を』を刊行し
持参してご挨拶に伺った時に早水日秀前貫主様が出て来られてお渡しさせて頂いて帰ったら翌日すぐにお電話を頂戴して面白くて一気に一晩で読んだと仰って頂き仙覚を応援して下さるように。その早水様も亡くなられていろんな意味で原点に立ち返ったような時に能本のことが浮かび上がって感慨深いです。
ブログを更新しました。仙覚の小説覚書が№50になりました。昨日呟いたツイッターの備忘録的使い方は、こうしてブログにまとめて載せるため。思考の経過をしっかりした文章でブログに纏める余裕がないからです。

いまのところの能本: 比企の乱で生き残った1,2歳の子は、仙覚と竹御所と円顕。吾妻鏡にある和田義盛に預けられた2歳の男子が円顕と思われます。能本も妙本寺寺史から2歳だったとわかりますが吾妻鏡にも比企系図にもなく、突然日蓮に出逢って妙本寺を建立と登場。妙本寺にある墓に母が三浦氏と。
円顕は母が北条氏だから殺されないで義盛に預けられた。能本も母が三浦氏だからきっと三浦氏のどこかで匿われていたのでしょう。竹御所は政子に引き取られて幕府内で育てられたから比企谷を継いだ。それで亡くなるとそこに新釈迦堂が建てられた。その後能本が比企谷を継いで住んでいた。新釈迦堂の
住持として仙覚が呼ばれ、おそらく呼び寄せたのは能本。一歳違いどうしの叔父・甥で交流していて、宮騒動で将軍頼経が京都に送還された後仙覚は寛元本万葉集を仕上げて鎌倉を離れる。能本は日蓮と出会って帰依して妙本寺を建立し比企に隠棲。晩年仙覚も比企に隠棲して再び交流…という流れでしょうか。
誰が仙覚を新釈迦堂の住持として鎌倉に呼び寄せたかをずっと考えていました。仙覚が在京中に道家と交流して、道家が派遣して子息頼経に仕えさせたとか、いろいろ可能性を探っていたのですが、能本の線が一番信憑性ありそう。
これは!とピンときたのはお墓に母三浦氏とあると読んで。比企谷と三浦半島の中間に名越があります。日蓮が立正安国論を書いた松葉谷は名越。能本は比企谷と三浦半島を往復する途次に日蓮と出逢い帰依したのでしょう。先日時政の名越邸跡を訪ねた時はまだ日蓮を書くことになるとは思いもしませんでした。
三浦氏の系図を見ていたら「證菩提寺」のリンクがありました。比企の乱の年に二歳だった円顕。東寺の真言僧になり、その後鎌倉に来て證菩提寺にと。山之内のあったという證菩提寺って、ここ? と地図を見たらやはり山之内になる地域のようです。
證菩提寺は三浦義明の弟の岡崎義実の子「佐奈田与一」を祀った寺院とあります。円顕は、おそらく吾妻鏡にある「二歳で比企の乱に遭い、母とともに和田義盛に預けられて安房に流された男子」です。その後東寺に入って、後に鎌倉の證菩提寺に。和田義盛の関係で三浦氏ゆかりの寺院に入ったのでしょうか。
能本も母が三浦氏ならば、和田義盛に預けられた男子の可能性もある?と考えるのですが、残党男子を身内の武将に預けることはないですよね。このあたり戦乱の思考に疎いのでわかりません。円顕も「縁故があるから預けた」ということで、もしかして母は三浦氏? ノートにとって考えます。
8月19日
やっとエンニオ・モリコーネ、ラカリファが戻ってきました。鬱屈していたり体調を乱してたり迷走してたりでもう自律神経を整えるBGMにすがりっぱなしでした。能本の名越との関連で先が見えてやっと安堵。どちらが先かなんてとりかかった本、先生が先になってしまいましたが嬉しいです。
メモ: 1234竹御所崩御→1246仙覚寛元本(鎌倉)→1253能本日蓮に帰依(鎌倉)、仙覚後嵯峨院に万葉集献上(京都)→1260能本妙本寺建立、日蓮松葉谷法難→1265,66仙覚文永本(鎌倉)→1296仙覚万葉集註釈(小川町)→1288浄蓮寺建立日朗上人開山(比企)
メモ2: 円顕の7歳で出家して東寺に入寺は、時頼が5代執権になった時に4代執権経時子息の幼い頼助が仁和寺に入寺させられたのと同じ気がする。ということは、やはり円顕の母は北条氏で、能本とは格の違う扱い。
メモ3: 円顕。2歳で比企の乱。母が特別にゆかりの人だから(北条氏ということか?)殺されずに母と共に和田義盛に預けられ安房に流される→7歳で出家、東寺に→伯耆法印となって、鎌倉山之内の証菩提院に。証菩提院(證菩提寺)は三浦氏ゆかりの寺院。和田義盛に預けられた縁で?
メモ4: 日蓮が鎌倉に来て辻説法を始めたのは執権が時頼の時代で、能本はすぐに帰依しているからすでに比企谷に住んでいた。同じ年に仙覚は後嵯峨天院に万葉集を献上しているからすでに鎌倉を離れていた。能本が妙本寺を建立するのは7年後で執権長時の時代。能本と日蓮の時代は仙覚は完全に埒外。
メモ5: 能本が日蓮に比企谷を寄贈して妙本寺を建立し、自身はすぐに比企に帰ったとして、仙覚が小川町に行くのはその6年後で、しかも仙覚は12年後には亡くなるから、比企での二人の交流は12年間しかなく、能本はその先8年を仙覚なく過ごす。能本が亡くなって2年後に大河原光興が浄蓮寺建立。
井上通泰氏『万葉集雑攷』から能本についてまとめようとノートを開いたら7月24日に牧の方についてのまとめが。7月は時政にかかっていたのだなあと感慨。でも不思議と名越繋がりでリンクしてる。これになにか意味あるのだろうかと思う。こういうことってずっと後になってわかることがよくあるから。
三浦氏を調べていて「鎌倉の歴史 鎌倉時代の年表/北条時宗鎌倉ぶらぶら」というサイトに出会い、そこに能本と仙覚の事跡を書き込んだら一目瞭然。この年表、歴史的事件に関連する寺院の建立が時系列になっていてわかりやすいです。

井上通泰氏『万葉集雑攷』は昭和7年の刊行。最初は図書館のコピーで拝読していましたが、日本の古本屋さんを知って最近購入。研究はもう終わっているけど記念にと。再び拝読することになるとは!

二代将軍頼家娘で比企能員孫、四代将軍頼経正室の竹御所という女性。竹御所の名は居館の呼称からそう呼ばれるように。居館が比企谷に造られた年を年譜に書き入れたら政子が亡くなった翌年でした。以降竹御所は政子の名代として幕府に君臨していきます。政子似のしっかりした女性だったようです。