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2017.9.29 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(64)運慶と六波羅蜜寺

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9月28日

昨日ブログを更新するのに文字ばかりだから写真をと選んで興福寺五重塔を。2005年にある方が奈良で祝賀会をされてその帰り、駅に向かう途中で撮りました。その時謎だったのですが、いつ境内に入ったのだろう…と。運慶展でいろいろ勉強して興福寺には門がないとやっと知りました。不思議な寺院ですね。

仙覚の小説覚書は№63にになります。最近はもうずっと運慶のことばかり。仙覚はどこ行っちゃったの? ですが、頭の中では世界が繋がって広がっています。今までにないくらい。思うのですが、やはり文学は観念。彫刻は実質。世界観が違う。両方見ているからこその膨らみができてきています。

 

RTさせて頂いたリスボン様のプルースト、土地の名。高遠弘美先生訳で「何かのイメージを回想するとは、何らかの瞬間を愛惜することにほかならない。家々も、道路も、通りもみな、はかなく逃れ去ってゆく。そう、悲しいことに、歳月もまた」。今朝はこれを拝見してもう至福。早く文学に戻りたいです。

 

熊田由美子氏「晩年期の運慶―その造像状況をめぐる一考察」を拝読しました。①高山寺金堂本尊の交替と②神護寺・東寺復興中断についての歴史背景。前者は文覚と運慶、明恵と快慶の関係が軸にあり、そこに時代的造像意識の変化があると。後者は政変による文覚の配流と承久の乱。造像も人事ですね。

 

浅見龍介氏「《調査報告》六波羅蜜寺の仏像」のコピーしてきた部分を拝読しました。つまり六波羅蜜寺の地蔵菩薩坐像に関してです。この坐像が十輪院のか八条高倉の地蔵十輪院のか知りたいんです。コピーしてきて拝読したものをこれから年譜に落として考察します。やっと核心に入っていけるかな。

 

運慶建立の八条高倉地蔵十輪院。運慶願経写経地の唐橋末法住寺辺。十輪院があった六波羅蜜寺。

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9月29日

おはようございます。昨日でなにか一段落した感。まだ年譜に落とし切ってないけど運慶探索も終わりにきています。基子さんからはじまった光源氏的時房への疑問。それで時政を調べたら縁戚に興福寺の僧侶がいて、となっての運慶。その運慶が六波羅蜜寺のゆかりで…の流れ。原稿に戻りたくなっています。

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2017.9.28 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(63)運慶に関する論文拝読中です。

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9月27日

横内裕人氏「『類聚世要抄』に見える鎌倉期興福寺再建ー運慶・陳和卿の新史料ー」を拝読しました。昨日運慶展の後資料館でコピーしてきました。凄い面白かったです。南都焼討後の興福寺再建時の別当が信円という兼実の弟で、信円が兼実の指示のもとで奮闘される様子がこと細かに描かれ、その中で運慶が

 

西金堂釈迦如来像を造った仏師だということが明かされる。これは運慶は円成寺大日如来像の後願成就院まで活動が空白だったのを埋める貴重な発見。その釈迦如来像の仏頭が運慶展にいらしてますが、仏師が確定できていなかったのがこれで運慶作となったということでも貴重。でもなぜ仏頭だけ?の疑問

 

は、昨日の興福寺執事様のレクチャーにあった江戸時代の大火で西金堂が焼失したからなのでした。『世要抄』の記事は信円の日記によるものなのでリアルで詳細。興福寺再建にかける兼実の動向が、今まで国文学だけでみていた兼実と違って実質的で新鮮でした。歴史は多角的にみるものですね。

 

どの運慶本にも運慶の空白期を埋める貴重な発見と横内先生のご論文が紹介されていてもそれは結果で、ご論文の中身がどういうものか早く読みたくてたまりませんでした。案の定、結果だけではわからないリアルな当時の状況。小説のような面白さです。南都復興の当時の状況がリアルで一読お勧めです!

 

植村拓哉氏「運慶壮年期における造形表現と造像環境について―興福寺木造釈迦仏頭を中心に―」を拝読しました。運慶がなぜ西金堂大仏師に就任できたかという横内裕人先生の発見を受けてのご論考でした。独自で「運慶願経」を成し遂げた運慶の力が発端だろうと。願経についてのご論に初めて接しました。

 

願経は円成寺大日如来像の頃というと運慶がまだ若い活動初期。それなのにこのような書写が成されるなんてどういう背景があったのだろうと不思議でした。植村氏は西金堂造仏開始が願経程なくとするなら、「大願」がこの成功を望むことであったとも想定されると。そうなら自然に思えます。

 

メモ:副島弘道氏『運慶 その人と芸術』より。(このご著書は横内裕人氏の運慶西金堂造仏発見よりも前の出版なのでそこは加味して考えることに)。康慶の南円堂造仏に際し京都の最勝金剛院で興福寺にゆかりある六人の高僧による作り始めの儀式がおこなわれた。←最勝金剛院は兼実の寺院。

 

メモ2:運慶が願主の願経は安元年中(117577)から準備され、寿永二年(1183)に書写された。←横内氏『世要抄』より。西金堂は寿永元年(1182)に手斧始と上棟。文治二年(1186)大仏師運慶の釈迦如来像設置。(造仏開始は根立氏が元暦元年(1184)と推測。

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2017.9.27 ツイッターから転載…東博で開催の運慶展に行きました。なんと、初日に!

9月25日

根立研介氏「南都再興造仏における慶派仏師の『中国』美術の受容をめぐって」を拝読し終わりました。

 

美術関係の評論は高階秀爾氏や中山公男先生のご著書で拝読していたけれど、西洋美術評論はそれ自体が芸術のようで浸っていられました。でも今回ほとんど初めてといっていい日本美術の評論は文章として今まで自分が携わってきた文学の記述方法とどこか違って、そんなところにも立ち止まってしまいます。

 

9月26日

運慶展を拝してきました。あり得ないほどの豪華荘厳の極みの空間でした。たぶん空前絶後。なぜって仏さましかおられない空間。仏像彫刻ではなく仏さまの空間だったから。こんな展示、見たことない! の驚愕の世界でした。

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午前に拝観して、午後は資料館でコピー。リストにしたご論文をほぼコンプリート。満足して出たら表慶館の上に後光が。綺麗でした。

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彫刻は絵画や料紙作品と違ってそれ自体が立体的で存在することで空間を醸し出すけれど、今回の展示はそれに歴史的視点をきちんと押さえた上で観る人に往時の宗教的重さを感じさせてくれる、そんなある意味斬新な稀有な展示と思いました。

 

運慶展からずっと考えているのですが、現代の信仰と運慶たちの仏像空間を拝する信仰の違い。現代の寺院での遠くからとか扉越しにしか拝せない仏さまはただ拝むとか額づくとかの対面式。運慶展のように空間にほとけの慈悲が充満するような場での信仰では拝むという対面の要素がないのでは? 何か違う。

 

今日は最初に興福寺の執事の方の講座を受講しての観覧というツアーで参加しました。興福寺は二回大火にあっていて一回目が南都焼討。二回目は江戸時代。南都焼討の時は藤原氏の氏寺だったから完璧に復興。でも江戸時代はもう違っていたからなかなか復興できなかったと。運慶の時代は奇跡的なのでした。

 

運慶展で目的のほとけ様を逃さないために: 重源上人坐像は10/7から。浄楽寺阿弥陀如来・両脇侍は10/21から。瑞林寺地蔵菩薩坐像は10/31から。そして、長岳寺阿弥陀如来・観音菩薩は10/29まで、です。(興福寺の執事様のレジュメで教えて頂いて心に刻みました)

 

私は浄楽寺の阿弥陀三尊像を拝したいのでもう一度行く予定でいましたが、その後いろいろ運慶本を読んで、重源様も瑞林寺も長岳寺も・・・となっていたところ、こんなに出たり入ったりされるのがあるならしっかり日程を見なければと思った次第。

 

9月27日

昨日の運慶展の高揚冷めやらぬといった朝です。運慶展は来年完成する興福寺中金堂再興の記念特別展だそう。興福寺には遠い昔に行きましたが今は研究範囲外と思っていて奈良に行っても素通りでした。なのに運慶本に南都復興の時兼実が氏長者で運慶たちの工房を訪ねたとあり、俄然身近になりました。

 

その時はまだ運慶の父康慶の時代で、運慶は息子として兼実とも会っていると思うのですが、私は目下康慶に惹かれていて、運慶展では運慶の展示が始まる前に康慶の主だった造仏が網羅されていて眼福でした。法相六祖像をまさかこのタイミングで拝せるなんて!と感動でした。

 

昨年末原稿のことなどあまりに重大事がかさなり自分ではこなしているつもりが身体が悲鳴をあげて新春そうそう起き上がれなくなり、今年はもう年を越せないかもと覚悟したくらいでした。なんとか乗り越え、でも取材も展覧会ももう無理と諦めていたのが運慶展に行かれるくらいに回復。感謝の一念です。

 

26日2232分頃 新潟県中越地方(N37/E138.6)にて 最大震度1M2.2)の地震は

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の雲(新潟・富山の県境方向発生 24日夕刻発生)の結果と思います。


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2017.9.25 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(62)運慶と時政のこと

9月24日

康慶の時代を見ていたら仏所があった一乗院とあったので調べたら興福寺の塔頭の一つで現在の奈良地方裁判所の場所と。当時興福寺の氏長者は兼実で制作過程を見に訪れたと。当然若き運慶もそこにいたはずで運慶は兼実と会っているのですね。運慶が慈円と同年代人なら兼実とも時代が一緒。仙覚の小説には

 

慈円も兼実も登場させないと決めていたのにそれは文学史的側面しか知らなかったから新鮮味がなく面白くなかったからで、南都復興を絡めてのこういう時代なら入れるべきと気持ちが動いてきています。建久7年の兼実失脚時に仙覚はまだ生まれていませんが。ほんとうに、論文と小説では内容が違います。

 

時政と義時の系図を尊卑分脈からとってきました。時政からはじまった運慶への流れ。時政は頼朝の岳父としか表舞台に出ないから通史上では侮られ看過されているけど、系図で見て従来の時政観が間違っているとなった今、時政→運慶の流れも深められると思います。

 

まずは仕事完了のお知らせという嬉しいメールを頂きました。来月初旬を楽しみに。

 

時政の身内に興福寺僧信実がいて、信実は忠実と関係が深かった。その忠実は慶派の康助と密接で多く造仏。運慶は、康助ー康朝ー康慶ー運慶だから、時政の運慶とのつながりは興福寺僧信実由来かも。

 

興福寺僧信実は忠実・頼長父子と懇意で、保元の乱では敗れて南都に逃れてきた忠実を匿い、朝廷から挙兵の疑いをかけられたほど。その忠実が康助を支援していたのだから、信実と慶派の繫がりは深く、それが時政と運慶の関係にまで及んだとしてあり得る。

 

銚子方向が明るいです。

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放射状の夕焼けでした。新潟富山の県境くらいの方向でした。

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2017.9.23 ツイッターから転載…佐々木孝浩先生の『日本古典書誌学論』のお話を拝聴してきました

9月21日

別荘にいらしていて遅れたとのことで今日お返事を拝受。鎌倉の鉢の木で知り合って『源氏物語と鎌倉』をお送りしたら恩師の先生に送って下さって、その恩師の先生が学会で私の鎌倉の源氏物語を応援して下さっている方だった件。それをお知らせした私の手紙にその方も驚いて「何度も読み返しました」と。

 

お手紙に目下仙覚の小説にとりかかっているからいつかまたパリにいらした時にセーヌ河畔の書店で私の本を手にして下さいと書いたのですが、その方も『源氏物語と鎌倉』では光行さんと同じくらいに仙覚に興味を持たれたとのこと。ほんとうに早く完成してセーヌ河畔の書店に並んでほしいです!

 

9月22日

必ずしも予習のためではなかったのに六波羅蜜寺と運慶の関係を知りたくて拝読していたら運慶展への知識増大。気がついたらもう火曜日なんですね。開幕。行ったついでに資料館でコピーしてこようと昨日ご論文リストを作成しました。で、借りてきていた別冊太陽運慶特集号を拝読して総仕上げの気分です。

 

夢のツイートはあまりしないのだけれど。鎌倉の雪ノ下の地名は雪が降って大地が白くなると…みたいな説明に、運慶の彫刻でも体躯を彫った上に別材で衣を彫って被せているでしょ、あれと同じと言われて納得。凄い現実感あって起きてもしばらく信じていたのですが、今思い出したら全く関係ないですね。笑

改めて来年の金沢文庫の運慶展チラシを見たら、康慶作の瑞林寺地蔵菩薩坐像がお出ましになるんですね。凛とした作風の康慶に目覚めたばかりです。ほとんど憧れ。

 

TLでみつけて、間に合う!ってなって、急いで仕度して出ました。東大駒場キャンパスだったから。『日本古典書誌学論』の佐々木孝浩先生のお話。なぜ大島本に至ったかのご自身のご研究の流れ、面白いといったら恐縮ですが学問として楽しかったです。

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そういえば今日の佐々木孝浩先生のお話。書誌学の後継者はまだ一人も育ってないと仰られていたけど、もともと伝本の研究をされていて大島本の書写者がいわれているのと違うと気づかれて書誌学者になられた先生の実質的な書誌学と、いわゆる形として学ぶ学生の書誌学は根本的に違う印象をもちました。

 

佐々木孝浩先生が配布して下さった資料にご論文の一覧が。中に幾つか「尾州家本」に関するものがあり、運慶のコピーリストに加えてとってくるのにいいタイミング。尾州家本、佐々木孝浩先生の大島本ではないけれど、私には同じくらいの問題です。

 

うろ覚え書きで恐縮ですが。書誌学ではいろんな分野の研究が必要だけど、中で一番遅れているのが筆蹟鑑定の分野。筆蹟の判別は重要で、例えば歌道の家では書道の流派が家ごとではっきりしているから、書誌学者が筆蹟鑑定を身につけておくのは重要。見ただけで歌道の家がわかると。

 

仮寝して起きたところだからどんどん頭がシャープになっていくのだけれどツイートはこれが最後。書誌学ということ。大島本問題はまだ認められない状況だけれど、佐々木先生は、いいんです、書誌学は本物を相手にしていますからと強気。これ、鎌倉の源氏物語で闘ってきた私にはとてもわかります。

 

9月23日

「運慶とほぼ生没年を同じくする著名人がいる。慈円である」と、この認識はありませんでした。別冊太陽横内裕人氏「大仏師運慶の生きた時代」より。

 

運慶展ポスター@吉祥寺駅4番線ホーム このポスターに呼ばれたのかも。シャッターを押したら休日運転で目的の駅には停まらないから2番線をご利用下さいのアナウンス。階段を上がって下りてまた上がって、でした。

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2017.9.21 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(61)運慶と六波羅蜜寺の清盛像のことなど

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9月20日

根立研介氏『運慶』を拝読し終わりました。『興福寺ー美術史のあゆみー』を先に拝読しているからすんなり入っていくことができました。揚げられているご論文の幾つかのご著者は鎌倉禅研究会でお話を伺った方で、今頃になってこういうご実績の方だったのだ〜と畏怖。知らないということは怖ろしいです。

 

ただ私が知りたいのは六波羅蜜寺の運慶で、八条高倉の地蔵十輪院についての記載はあるものの、そこから話は高山寺に行ってしまい、六波羅蜜寺境内にあった十輪院への論究はなく、結局私はこの辺りを自分で埋めていくしかないようです。

 

ただいま《朔》です

 

前から疑問に思っていたのですが、六波羅蜜寺に清盛像のあること。平家の邸宅があった六波羅に建つ寺院だからあって当然のようですが。でも造立が鎌倉時代に入ってからだったなんて一層。当時はもう鎌倉幕府の時代。そこに清盛像があって祀られているなんて。でも、運慶を介したら謎が解けました。

 

鎮魂ですね。たぶんそれに結びつくのだと思う。

 

9月21日

おはようございます。眠いのを読み切るまで頑張って起きてを三日続けて疲弊しきってしまいましたが借りてきた運慶本とネットでダウンロードした六波羅蜜寺の地蔵菩薩像論文二つを読み終わりました。資料館にとりに行かなければならない論文が増えました。でも一応網羅できてあとは年譜に落とせばです。

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2017.9.20 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(60)運慶と六波羅蜜寺のこと

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9月18日

『新版古寺巡礼 京都5 六波羅蜜寺』より。空也の没後高弟中信が西光寺を六波羅蜜寺と改め伽藍を造営。六波羅蜜寺の額は三蹟の一人藤原佐理が書いたと『大鏡』にある。朝は法華講、夜は念仏三昧、奈良や比叡の高僧を招いて法座を開き、京都随一の賑わいの寺。一条天皇皇后定子の葬儀を執り行った。

 

平家が滅亡した後の六波羅の新たな主人は頼朝。頼朝は六波羅蜜寺の復興に尽くしたが三代実朝で滅び、次の主人は北条政子、泰時、時房となり、六波羅蜜寺の南北に六波羅探題が置かれた。←六波羅探題が置かれたのは承久の乱がきっかけで、運慶は乱の二年後に亡くなっているから六波羅探題を見ています。

 

『山州名蹟志』に本堂他十輪院がと読んで検索したらデータベースで見られるようになっていて、でもこの膨大なページのどこを探したらいいか見当がつかないと悩みつつ見たら、なんと開かれているページが六波羅蜜寺の項。山州名蹟志では六波羅蜜寺を検索してないけど。その前にウィキを見たりしたから?

 

山州名蹟志は江戸時代の編纂らしいから、その頃六波羅蜜寺に運慶ゆかりの十輪院があったことが記録にあって、運慶がただ単に六波羅蜜寺界隈にいたのとは次元が違う繋がり。こんなこと、六波羅蜜寺が平家一門の邸宅があった地とか、鎌倉幕府がそれを継いだとか調べていた中で全く出てこなかった。

 

今日は図書館でミネルヴァのとか瀬谷氏のとか興福寺北円堂のとか、いろいろな運慶本を借りてきて読んでいるのですが、ほんとうに全く知らない世界がほぼ熟知したつもりの地に重層してあっことを知って驚いています。

 

9月19日

おはようございます。昨夜拝読した山本勉先生『運慶にであう』は驚愕のご本でした。運慶の代表作が時代順に丁寧な解説付きのカラー写真で並べられていて、とてもシンプルなのに充実。原寸大の写真が何枚も。ムック本なので小さな仏像は全身像、大きな仏像は部分のアップ。写真がとても綺麗です。

 

久々に目が切れるのではないかと不安になるくらい終日活字を追っていました。没入仕切っています。

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2017.9.18 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(59)運慶と六波羅蜜寺、平清盛像のこと

9月17日

終活を目指して本の整理を始めているくらいだから『運慶大全』はとても購入できないけれど、せめてと思ってスパイラルホールで国宝創刊号を買ってきたのに、ネットで運慶展の内覧会に応募する要項が載っていると読んで探したら、どこを探してもまだ見当たらない。応募期間が過ぎてしまいそう。(ツイッターで、運慶と六波羅蜜寺の関係が『運慶大全』に書かれていると教えて頂いて)

 

まず時政ゆかりの興福寺の悪僧論文を探すこと。金沢文庫展図録に注がなかったので。運慶の作品年代と、時政の上洛とか、そういった事項の年譜を作ってみます。なんか不思議なのですが、六波羅蜜寺にあったという運慶坐像が忘れられなくて、お会いしたいなあと・・・。いつ頃の作品かもチェック。

 

六波羅蜜寺の空也上人像は、寺院創設期の上人だから古いものとばかり思っていたら運慶子息の造立。ということは運慶よりも新しい。ということは六波羅の地が平家の時代でなく、鎌倉幕府の時代になってからということで、運慶が関わったのも鎌倉の仕事をしたからという推測です。

 

ブログを更新しました。久々の仙覚の小説覚書。№58になりました。8月30日に№57を書いて半月ぶり。中野幸一先生のご講演や佐々木孝浩先生の大島本事件。鎌倉禅研究会に山本勉先生の運慶のご講演。といろいろあって仙覚から離れていたと思ったら、まさかの展開で運慶が覚書に入ってきました。

 

講演は行くと楽しいのに体力を使うから今年に入って体調を崩してから極力申し込むのを止めていて、そうしたら遠方で諦めた静岡市の仏像講座に行けばよかったと思う件ができたり、スパイラルホールで行かなければ気づくことのなかった承久の乱の件を知ったり。で、今、2件の講演会を申し込みました。

 

まだ年譜にしていませんが今のところ: 1212運慶北円堂弥勒無着像→1215時政没→運慶大威徳明王や実朝や政子の勝長寿院等の造仏→仙覚16歳で上洛→1219実朝没→1221承久の乱→1223運慶没→1224伊賀氏の変→1255政子没、六波羅蜜寺に十輪院再建

 

9月18日

おはようございます。岡本謙次郎『運慶論』を終わりにしようと思ってコピーを読み返したら「運慶にゆかりの六波羅蜜寺? 謎」の書込み。それは16日のことだから昨日はまだ翌日。なのにTLで呟いたら教えて下さって私の中ですっかり運慶と時政と仙覚の六波羅蜜寺を舞台にした話ができあ

 

がって、深夜には玄覚の声が降りてまできました。父は運慶という仏師を崇敬していたという文章で。(子息玄覚の回想録で書いています)。巨人には巨人どうしにしかわからない洞察力があります。仙覚が運慶を見たことがあるとしたら、ひと目でそれを見抜いたでしょう。会話はさせない予定です。

 

それにしても仙覚は無着像を見たのかなあ、見せたいなあという思いと闘っています。無着像を見るには興福寺に行かなければならない。でも仙覚には奈良へ行った形跡がありません。万葉集を研究していて奈良へ行って何も痕跡を残さないなんてありえませんよね。万葉集註釈を読み返してみます。

 

漠然と今まで六波羅蜜寺は空也上人から始まるから空也上人像はその当初に、清盛像は平家が六波羅にいた時代に造られたものと思っていました。が、空也上人像は運慶の四男の作ときいて、えっ! では清盛像は誰が? となっています。六波羅蜜寺を訪ねた時に驚愕したあの精緻な気品ある像の仏師は?

 

謎が解けました。なぜ時政が京都守護の時代に捕えた六代御前をすぐ殺さなかったか。いくら頼朝の許しを得て戻るからという文覚の嘆願があったにせよ、文覚は1日程遅れて戻ります。時政は斬ろうか待つか逡巡します。他の童子には冷酷だった時政が、本命の六代御前にはなぜ迷ったか。それが謎でした。

 

それが曖昧で原稿も書き進めないところがあったのです。時政が六波羅蜜寺の彫刻にかかわっているとしたら……。時政の心の動きが手にとるようにわかってきました。でも私の小説、ますます「これは荒唐無稽な作り話かもしれない。はたまた事実かもしれない。真実はその狭間にあります」を入れなくては。

 

機影が一機。空が綺麗です。図書館にきました。

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梅原猛監修『新版 私の古寺巡礼・京都上』に六波羅蜜寺を高城修三先生が書いてらして、平清盛像を「大きなものではないが、これは日本人が造った最高の彫刻に数えてしかるべきものであろう」と。私の感覚は間違ってなかったのだと思いつつ、なぜこの彫刻が作者不明の上に話題にも上らないか疑問。

 

私は彫刻はほとんど詳しくないけれど、六波羅蜜寺でひと目見た瞬間からあの精緻で優美でシャープな彫りの腕。仏師は誰だろうとずっと心に引っかかっていました。話題にならないから私の見方がおかしいのかと思っていたのですが。

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2017.9.17 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(58)運慶と六波羅蜜寺のこと

9月16日

おはようございます。岡本謙次郎『運慶論』から「運慶の位置」を熟読することにし、コピーして再読し始めたら早々に運慶と六波羅蜜寺の関係に立ち止まり、運慶建立という地蔵十輪院の位置を地図で確かめました。八条高倉といわれてもピンとこなくて。

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六波羅蜜寺は不思議な寺院ですね。有名な空也上人の彫刻しか知らなかったのに訪ねたら清盛の彫刻に打たれて、そうしたら運慶と湛慶の彫刻まであって、空也上人像は運慶の四男康勝の作で、さらに運慶作の地蔵菩薩坐像まである。六波羅蜜寺って何者? というか運慶って何者? といった驚きの気分です。

 

私は文章の人だから岡本謙次郎『運慶論』のような書物に出会うとそれを丸暗記したいとか書いてあることを忘れないでいたいとかでなく、とにかくそれを自分のものにして自分からそういう文章が繰り出せるようにしたいのだなあと、コピーしたページに黄色いマーカーを引きまくりながら思ったのでした。笑

 

9月17日

おはようございます。六波羅蜜寺にあったという運慶の坐像。岡本謙次郎氏は湛慶坐像の凛とした風貌に比べてさんざんですが、私はネットで一目見てから忘れられなくて運慶坐像のあの眼差しにずっと見つめられている気がして、もしかして仙覚の小説に入れられる? というふうに思考が動いてきています。

 

キーワードは承久の乱。スパイラルホールでのご講演でこの乱の時には光行も仙覚も、さらに運慶まで生きていたんだ〜となったのがきっかけ。乱の時、光行は後鳥羽院北面の武士、仙覚は順徳帝北面の武士と、ともに京都。運慶は無着像を造った北円堂の仕事から9年目。乱の2年後に亡くなっています。

 

舞台は六波羅蜜寺ですね。光行は平家の時代に六波羅で育って平家に仕えているから、唯一焼亡を免れた六波羅蜜寺は思い出の大切な地。運慶がいつどういうふうに六波羅蜜寺に関わったかをこれから調べますが、多分時政由来でしょう。京都は東寺の円顕に加えて小説の材料が揃ってきました。

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2017.9.16 ツイッターから転載…土星探査機カッシーニの終焉を見守っていました

9月15日

1997年に打ち上げられた土星探査機のカッシーニが、915日に土星の大気に突入して長年の役割を終えるというニュースに釘付けでした。

19:31 JST カッシーニが土星大気圏突入開始。

19:32 JST アンテナが地球から外れ、信号途絶。

https://saturn.jpl.nasa.gov/mission/grand-finale/cassini-end-of-mission-timeline/?linkId=42271830

 

カッシーニの最後の時間、南西の空を見ていたのですが当然見えるはずはなく、でも以前土星の輪まで見えた時があったから、もしかして、と思ったのでした。でも、もともと南西方向の低空は見えないし、雲もかかっていたし、それでもカッシーニさんとお別れしたかったのでした。

 

カッシーニに限らず、当然だけど、自分と関わらない、関わらないどころか見えない、もしくはまったく知りもしないことで、世界は満ちていて、たまたまカッシーニという最後の瞬間の時間と方向を教えられたからそれに心を合わせる。知る知らないに関わらず、そうして世界は成り立っているのだなあと。

 

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日夕方の銚子方向の黒い雲。別の場所から根本のほうまで見えていてとぐろを巻いた段々状になっていました。ふっとこの雲を思い出して銚子方向に地震はなかったのかしらと気象庁地震情報を見たらありました。「15日07時00分頃千葉県東方沖M3.2」。地図を見たら銚子の辺りです。

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2017.9.15 ツイッターから転載…タウンユース鎌倉版コラム第20回【鎌倉と繋がり深い 後嵯峨天皇の四人の皇子】、岡本謙次郎『運慶論』のこと

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タウンニュース鎌倉版コラム第20回「鎌倉と繋がり深い 後嵯峨天皇の四人の皇子」の紙面です。四人の皇子とは、建長寺住持も務められた高峰顕日、鎌倉第六代将軍宗尊親王、後深草天皇、亀山天皇です。

9月14日

おはようございます。昨日、岡本謙次郎『運慶論』が届いて拝読しています。なにか、こう、深くて、安易に感動させるような言葉が並んでいるわけでなくて、一言で言って、言葉がありません…といった状況。でも、これが『運慶論』冒頭にある無著像に対した時の岡本氏の感慨そのものという気がします。

 

岡本謙次郎『運慶論』は運慶という仏師を概説する書かと思ったら違って無著像に接した時の著者の言葉もなかった感動を深く探る内容。著者がなぜ言葉もないほど感動したかを運慶に寄せて考えてみてその結果ふたたび著者に戻ってきて著者自身を探ることになるという。私も無著像に対しては同じ感慨を。

 

と書いてもまだ冒頭なので読み通した時にどうなのかわかりません。なにしろ運慶論に行く前提に「琵琶法師」という平家物語論があって、これがまた凄い深く、面白い。こんな評論見たことない!といった感じ。美術の方の評論は文学者の評論と視点が違って、力強いです。観念でなく現実?

 

岡本謙次郎『運慶論』は、見開き頁全面に活字がぎっしり詰まっていて、一つの段落が長いから改行が少なく、改行なしに二頁にわたることも。文章自体が長いから読むことが大河の流れにたゆたうように運ばれます。なので一旦目を離すとどこを読んでいたか見失う……笑。久しぶりです、こういう本。

 

927分頃、埼玉県南部を震源とする地震がありました。地震の規模はM4.2程度

 

地震でした。震度3でも結構大きく感じたら埼玉南部。やはり地元近くだと揺れが違います。

 

銚子方向発生の黒い雲。

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やっと片付けものが終わって一人になって岡本謙次郎『運慶論』の平家物語論を拝読しているのですが、なんか、ポンジュの詩論を読んでいるみたいな気が……

「琵琶法師」より: そしてこゝにはじめて人間は、説明も証しもない、それらすべてを捨てさつた形式のうちに、美醜善悪好嫌、すべて人間的な価値標準と情念とを超えた最も厳しい姿で、再び事物に対立するものとしてあらはれてくる。←なんと、仙覚の小説はここを目指しています!

まさか、まさか、の展開なのですが、ずっと岡本謙次郎『運慶論』の序から平家物語論まで通読していて、乾いたという散文の行きつくところは仙覚の境地に似ているなあと感じていいました。運慶論に行くための前哨戦としての平家物語論。ある意味この文学論に巡り合ったことは幸運。

 

仙覚は絶対的境地の無から出発してるから……

 

こんな透徹した文学論。文学者の書いた評論にはない気がする……

9月15日

おはようございます。昨夜はついに運慶論に入ってそのまま一気に読み通す覚悟でデスクの前に座ったのですが、あまりに感じ入って興奮しそうなので本を閉じて休みました。無著像は寄木造なんですね。それは知っていたけれど、そのことと一本の材から一体を掘り出すこととの差にこんな意味があるなんて・・・



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2017.9.13 ツイッターから転載…円成寺大日如来像が収まっていたという鎌倉長寿寺観音堂のこと。見事な半円の虹が出ました。文学碑めぐり「仙覚律師二つの碑」の原稿を手放しました。

9月12日

先週鎌倉禅研究会で妙心寺教学部長野口善敬師が古先印元について講演され、その時「鎌倉の長寿寺開山」と伺いました。三日後の山本勉先生の運慶についてのご講演で「円成寺大日如来像が収まっていた多宝塔は今は長寿寺の観音堂」と。不思議な繋がり。

 

長寿寺は北鎌倉駅を降りて建長寺に向かう途中の道筋にあり、亀ケ谷坂の入口にあたりますが、私はまだ拝観したことがなく、鎌倉時代を追っている私には足利氏ゆかりの寺院はずっと無関係と思っていました。公開は季刊限定で。34週~71週と94週~121週の金曜日、土曜日、日曜日、祝日。

 

以前「寺院揺曳」という鎌倉の廃寺佐々目遺身院を巡ってのエッセイを書いたけど、朝、長寿寺の観音堂の写真を見たら目に焼き付いて離れず心の中で揺れている。まさに寺院揺曳なのだけれど、寺院への追憶って、いいですね!

 

夕刻、それはそれは綺麗な虹がでました。はじめて見るくらいに端から端まで見事につながった半円の虹。いつもは途切れたり株虹だったりするから嬉しかったです。

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同時刻の西側では大変な夕焼け。何かが噴出しているかのような勢いがありました。

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仙覚の小説をほんとうに早く仕上げなければ。先日のスパイラルホールはシナリオの勉強に十年も通った地。そこでご一緒した一世代上の素敵な女性が終生の友となったのですがすでにご高齢で闘病中。表参道に行ったことをお伝えしたらメールを下って待ってますと。彼女のために間に合わせられるだろうか。

 

9月13日

「仙覚律師二つの碑」の原稿を送信しました。二週間放置して昨夜見直し大分手を入れました。二週間前は日蓮と能本に熱中してそのまま書き込んだのでした。能本を削ったら途端に仙覚メインになりました。原稿は興奮したまま書いてはダメですね。二週間前に出さなくてよかった。写真は小川町の碑。

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だんだん山積していた用が片付き、仙覚の小説に専心できる環境が整ってきました。めぐり合わせは大事。

 

用が片付くと頭の中もすっきり。ぎゅうぎゅうに用が溜まっていると思考が止まって頑張ろうにも元気も出ません。昨年までこんなすっきりする日が来るなんて思いも寄りませんでした。感謝です。

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2017.9.12 ツイッターから転載…山本勉先生のご講演【運慶研究の一世紀と『運慶大全』】のこと、運慶の大日如来像があった足利義兼ゆかりの樺埼寺】

9月11日

昨日の山本勉先生のご講演【運慶研究の一世紀と『運慶大全』】から少し呟かせて頂きます。まず私が必ず拝観したいと思っている和田義盛造立の芦名浄楽寺阿弥陀如来坐像ですが、10月21日から。後になるほど混雑するから早めに行きたいのにこの阿弥陀様は見逃せない…と悩んでいます。

 

2.運慶研究の一世紀というのは大正10年に円成寺大日如来像が台座銘記から運慶作と確認されたことによる。ここから近代的運慶研究が始まる。その当時大日如来像が収められていた多宝塔は現存していてそれが鎌倉は長寿寺の観音堂だそうです。室町時代の作なので大日如来像当初のものではありません。

 

3.昭和9年に興福寺北円堂の弥勒菩薩台座銘記、像内納入品確認から、弥勒仏像・無著菩薩像・世親菩薩像が運慶作と確認されました。そして戦後、昭和23年に岡本謙次郎『運慶論』が刊行され、山本勉先生も読まれて大変感動されたそうです。それまで評論の形の運慶本はなかったとか。

 

4.昭和34年の久野健先生による浄楽寺阿弥陀三尊像が運慶作との発見から、東国の運慶の発見と研究が進み画期的な展開に。続いて、時政による願成就院の阿弥陀如来像、不動明王像二童子像、毘沙門天像。願成就院の阿弥陀様のお顔は後世の修復で運慶当時のではないそうです。(謎が解けました!)

 

5.昭和54年、愛知県瀧山寺聖観音菩薩・梵天・帝釈天の発見(頼朝のための従兄弟の僧による造立)。昭和61年栃木県光得寺大日如来像の発見(足利義兼のための造立。義兼の妻は政子の妹なので頼朝の義弟)。

 

6.21世紀初めの運慶の発見! 平成15年に個人の方から山本先生のところに調査以来のお便りが写真とともに送られてきて、それが現在の真如苑の大日如来像でした。平成19年興福寺の仏頭・仏手が運慶作と。平成20年真如苑大日如来像がオークションに出て真如苑が落札したのでした。

 

7.金沢文庫でよく展示されて馴染んでいた大威徳明王像が納入文書開封から運慶作と判明したのもこの時期で、平成19年です。

 

8.それからの科学調査の進展で研究がめざましいです。平成21年六波羅蜜寺地蔵菩薩X線透過写真報告で納入品確認。光得寺大日如来像X線コンピュータ断層撮影で納入品詳細確認。平成29年真如苑大日如来像X線コンピュータ断層撮影で納入品詳細確認。←『MUSEUM669号(20178月)

 

9.以上の画期的な発見・研究の進展から『運慶大全』の刊行へと至るのですが、大正10年の円成寺大日如来像確認からの一世紀にも満たない年月で運慶のイメージがこんなに変わるなんてと驚きました。それ以前と大違いで、まさに私が教科書で習って植え付けられていたイメージは「それ以前」のでした。

 

真如苑大日如来像が最初に納められていた足利市樺埼寺の下御堂跡の写真です。2009年に訪ねました。広域に写っている写真の奥は樺埼八幡宮本殿です。隣の社殿の下に足利義兼の墓がありました。あの時はまだ光得寺大日如来像のことは知らなかったのに今は……。人の知識の広がりってすごいですね。

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タウンニュース鎌倉版コラムの記者さんからメール。愛読して下さっている方からのお電話で、人名が難しくて読めないからルビを、という提案だったそうです。今後協力しながら進めましょうとのことですが、『源氏物語と鎌倉』でも、ほんとうは全編ルビを付すべきところ時間制限で強行突破した過去が。

 

[気象庁情報]12日 0235分頃 硫黄島近海(N24.1/E142.5)にて 最大震度1M5.9)の地震が発生。 

 

硫黄島近海でM5.9の地震がありました。8日に硫黄島方向からと思う雲を投稿しました。硫黄島関係の雲は火山性なので投網のようにみるみる広がる特徴がありわかりやすいです。M3規模くらいまでなら翌日発生しますが、M6に近かったから数日前後の地震発生になりました。

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今日の空も気になる空でした。

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タウンニュース鎌倉版コラムに添付する写真を選んだのですが、運慶展のお知らせの回なので一気に足利市に飛んで樺埼寺に。光得寺大日如来像は足利義兼の臨終に際しての造立。真如苑大日如来像はもとは義兼の樺埼寺にあった下御堂に。二枚目の樺埼八幡宮社殿の下に義兼の墓があります。

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2017.9.10 ツイッターから転載…山本勉先生のご講演【運慶研究の一世紀と『運慶大全』】於スパイラルホールを拝聴しました。

9月10日

道中のお供は迷って結局万葉集。でも車内でメールチエックしてたら通販のお知らせに外国文学研究本のお勧め。意味なく嬉しい。

 

開場13:00、開演13:30でした。よく確かめないで出てしまった・・・

 

目的地の駅に着いて、久々の街だから散策したいけど暑いから地下鉄構内で過ごしています。

 

会場は満席。係の方が補助椅子を並べ始めました。

 

この辺は10年以上通った道なのだけれどその何倍も年を経ているから建物が変わってわからない。この路地だったという角を曲がり、たぶんここという所に建つビルは新築の美容院。見上げると向田邦子さんが住んでらしたというマンションは既になく。表参道。山本勉先生のご講演を拝聴して出てきました。

 

ご講演会場だったスパイラルホール。この建物も当時は当然ありませんでした。

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運慶は仙覚の小説に入らないから(時代は共有してるけど)小説に籠ろうと決めた矢先に講演会のチケットを頂いて、拝聴すればやはり面白く、メールで案内が来ている別のご講演も申し込もうかなあ、などとまた気もそぞろ笑。すべて流されるまま、でいいのかなあ。

 

承久の乱は、源氏物語の光行も、万葉集の仙覚も、そこに運慶まで生きた時代。それを全部書き込んだら大変なことになる・・・。源氏物語は書かないと決めて取りかかった小説でも結局光行は登場させるしかない気がしてきていて、この分だとまさかそこに運慶まで? 考えるともう・・・

 

と、呟きながら我が家に向かう地元線です。鎌倉と違って青山は近い! です。笑

 

0051分頃、東京都多摩西部を震源とする地震がありました。震源の深さは約50km

 

今日の山本勉先生のご講演で紹介された岡本謙次郎『運慶論』。読みたいのに地元の図書館になく、都立図書館では持出し禁止だから、思いついて古書で検索したらありました。明日頼もうっと! 考えたら、運慶についての評論を一度も拝読してなかった。

 

夏目漱石が夢十夜に書いている運慶は二王像を造る仏師。それは漱石がその後の発見や研究による近代的運慶を知らないということ。という山本勉先生のお話で私ははたと納得。東大寺仁王門阿吽像のイメージが強いからその後の近代的運慶に関心が繋がらないでいました。その後こそが大事だったのです。

 

皆様熱烈な運慶ファンで講演にいらしてるのに、私は思いがけない角度から(時政→願成就院)運慶に入ることになって、やっと仁王像のイメージの運慶とは違う運慶の世界があるというところにたどり着きました。真如苑の大日如来とか金沢文庫の運慶展とか、今まで私は何を見ていたのだろう・・・

 

9月11日

おはようございます。昨日つくづく思ったのですが、私は徹底して「文章の人」なんですね。円成寺の大日如来像の素晴らしさに気づいていてもどこか周囲を巡っているだけで心に入ってこない。なのに昨日運慶論というご本があると伺った時、それだけでストンと身体の中で納得するものがありました。

 

素晴らしさを文章で教えて貰うとかそういうことでなく、文章にする、文章になる、という思考のなかに運慶が入る存在だったのだというその気づき。肉声で伺う、文章で読む、という人間的営為のなかでの運慶への思考。そんな入口に立って、贅沢な話!。

 

願成就院のことでご講演を教えて頂いて拝聴した清泉女子大でのお話は運慶作品全般について。昨日は運慶そのものでなく、運慶作品の発見とか認知を含めての研究史。江戸時代、明治、大正での運慶の認知のされ方。そして円成寺大日如来像認知からの近代的運慶研究史と。凄い恵まれたご教授を頂いてます。

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2017.9.10 ツイッターから転載…鎌倉禅研究会のこと。小笠原諸島西方沖M6.1、メキシコでM8.2の地震発生。

9月8日

おはようございます。最近は疲労を残さないために頑張って(家族優先を撤廃して笑)休むことにしているので今朝も快調です(以前はひどい疲労の蓄積でした)。家事をしながらFBTLを見たりしているともう昨日の禅研究会をアップされている方が。早いなあと溜息。私はこれからたらたらとです。

 

昨日の第一講は金沢文庫元文庫長高橋秀栄先生「道元の真筆について」。真筆とされていた山水経が異議を出されてその真贋を秀栄先生ご自身が検証された綿密な経緯のお話。物凄かったです! 第二講は妙心寺教学部長野口善敬師「古先印元禅師について」。午前中京都で任務を勤められてのご下向でした。

 

タウンニュース鎌倉版コラム第20回「鎌倉と繋がり深い 後嵯峨天皇の四人の皇子」です。

http://www.townnews.co.jp/0602/2017/09/08/397976.html

 

硫黄島の方向の雲の発生と思うのですが。

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みるみる広がって延びています。三鷹から190度の方向。

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日本時間1349分頃、メキシコを震源とするM8.0の地震が発生しました。

 

「8日02時27分頃小笠原諸島西方沖M6.1」があったんですね。昨夜鎌倉からの帰り、駅から帰る道は南に向かって歩くのですが、空が赤紫色がかったどす暗い感じの色で、低空から雲が湧いているような感じで、地震があるのかなあと思いました。夜空はスマホでは写らないので撮らなかったのですが。

 

凄いですね。百均のスマホ用マクロレンズ。夏萩がまだ咲き残っているのを見て、そうだ!と思いついて撮ってみました。

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写真を仕事にし、機材にお金をかけて、マクロレンズなど私にとっては本職外の趣味でしかなかったから何万も出して買う気もしなかった身には、許せない! といった気分です。笑

 

9月9日

7日の鎌倉禅研究会をFBページに公開しました。元金沢文庫長高橋秀栄先生「道元の自筆本」と花園大学教授・妙心寺教学部長野口善敬先生「古先印元」です。野口善敬先生のお話は禅宗の法系についてがメインで私には難しかったのですが勉強になりました。高橋秀栄先生のお話はまさに書誌学でした。

 

高橋秀栄先生のお話。道元の自筆か否かの問題で自筆とされていた山水経に異議が出され、そうすると『正法眼蔵』の編集問題自体が振り出しに戻るので大変なことになり、高橋先生が駒博にある真筆と一文字一文字照合されたと。気の遠くなる作業が書誌学なんですね。道元の奥書に見られる「書于」に

 

高橋先生は前から悩んでいらしたのですが、先月の鎌倉禅研究会が一山一寧で資料が臨済宗のものだったので、それをご覧になったら書于が沢山。中国人僧が使ってられるのを知り、道元が中国で書于を知って帰国後も使っていたのだと判断されたそうです。鎌倉禅研究会繋がりのいいお話でした。

 

書于というたった二文字で道元の人生におけるある動きとか姿勢が見える。凄いことですね! ちなみに書于は道元の自筆本か否かを判断する材料の一つだそうです。楽しいお話でワクワクしました。鎌倉禅研究会FBページで詳細をご覧になって下さい。

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2017.9.8 ツイッターから転載…BBC制作ダイアナ妃番組のこと。鎌倉禅研究会に参加して

9月6日

タウンニュース鎌倉版コラム第20回「鎌倉と繋がり深い 後嵯峨天皇の四人の皇子」の掲載が明後日の98日号と連絡を頂きました。

 

BSNHK「ダイアナ妃心の真実」。今までで一番深い、一番辛い番組でした。ダイアナ妃の慈善活動は王室から拒絶されたダイアナ妃だから、社会から拒絶された人の心に寄り添うことができた…、でも国民の支持を受けることを潰したかった皇太子側に対して妃は潰れるのでなく闘うことを選んだと。

 

ダイアナ妃が闘う強い女性であってよかった。王室は妃の強さをみくびっていたと。こういうことってありますね。潰れるかと思うと逆に真の強さを目覚めさせてしまうということ。←目下取り掛かっている仙覚の小説に登場する様々な立場の女性たちを考えています。同様に辛い運命に闘った彼女たち。

 

番組の作り方ってこういうものなのだなあと思いました。今までの民放のダイアナ妃追悼番組は妙に最後を純愛に持っていこうとしたり、今日のNHKのを観たら外側をなぞっているだけだったと思えてきて、ロマンスとか謎解きの妙な飾りは本質に突き刺さることを逃してしまう。

 

雲間から満月が見えたので撮りました。撮っているあいだも雲が流れて見えたり見えなかったりでした。

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毅然とした態度とスピーチが説得力を生む。ダイアナ妃のことですが、離婚前だったか後だったか自分の道を探すようになった時にスピーチを習い始めたと。スピーチの講師は妃の本質を見極めてそれが態度に出るように指導。指導されている間の妃はほんとうにふつうの女性でした。身についた時に毅然性が。

 

自分を潰そうとする人たちと闘う意思を決めた時に習うことにしたのがスピーチ。それが凄いですね。それも自分が国民の前に出ると国民が喜び大いなる救いになるのがわかっての、その力を生かすための努力。私たちがTVでふつうにダイアナ妃と思って見ている妃の態度は努力の賜物だったのでした。

 

私がダイアナ妃にこだわるのは、源氏物語に限らず、例えば後鳥羽院宮廷とかとはずがたりとかはたまた鎌倉将軍御所でとか、ダイアナ妃のような結婚後の苦しみを背負った人はたくさんいるのに、誰一人独りで立ち上がって慈善活動に精を出した人はいないから。その強さとか真意とか無関心でいられません。

9月7日

 

プライドですね。昨夜の紫式部と清少納言の番組で最後に一言時代考証の方が言われた。清少納言が枕草子に定子の惨めな現実を書かなかった理由。よく定子のためなど美談で言われるけど私は承服しかねてました。作者のプライド。それならわかる。BBCのダイアナ妃番組でも、王室は妃をみくびっていた。

 

 

王室は妃を潰せると思っていた。だが貴族で育った妃のプライドがそれを許さなかった。潰されるより闘うことを選んだ、と。品格あるプライドが屹立すると普遍をもたらすのかも。(まだダイアナ妃の番組に拘泥中です。)

 

 

 

このプライド、仙覚の小説に生かすなら、やはり竹御所でしょう。今まで内に秘めた意志の強い女性とばかり思っていたけど、二代将軍頼家の娘としての決然としたプライド。それはもう単なる復讐心を越えています。

お出かけ途中の車内です。枕草子が作者のプライドか定子への美談かということと、ダイアナ妃番組のBBCと日本の民放番組の制作態度の違いが同じに見えてきました。美談に流されたら本質を見失う気がする。

 

今日の道中のお供は小川靖彦先生の『万葉集と日本人』。私のバイブルのような一冊です。

 

もう暗記が物凄くダメになっているから、バイブルのようにしょっちゅう道中のお供で拝読しているのにいつも始めて読むみたいに目が点になることばかり。なのにそこにはしっかり黄色のマーカーが引かれていて、さらにその上から赤いボールペンの線まで引かれていたりして、そのことにさえ驚いて。笑

 

第三章(7)紫式部が読んでいた『万葉集』。この章も何回も拝読しているけど、今見たら写真のキャプションが「広瀬本万葉集」。慌ててその辺りを読み返しました。広瀬本ということの意味を昨年晩秋に知ったばかりです。

 

乗り換えて最後の線。先程の広瀬本のこと。広瀬本で平安時代にはまだ山上憶良の貧窮問答歌は訓点がつけられていなかったことがわかり、それで紫式部が万葉集を二十巻本の漢字本文で読んでいたことがわかるのだそうです。貧窮問答歌は末摘花などに生かされているそう。

 

湘南新宿ライン線から見た岩船地蔵堂。大姫の守り本尊が祀られています。この奥が浄光明寺様で亀谷切通。この一帯は鎌倉時代は京から下っていらしたお公家さん方が住んだ高級住宅地でした。北鎌倉発車後、トンネルを出るとすぐ見えます。

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ふう〜っと腰をおろしてソファに寛いでいます。怒涛の一日が終わっての打ち上げ後、駅の改札で皆様を見送って一人反芻の珈琲タイム。京都からいらした講師のお坊様も新幹線で今頃はどのあたりでしょう。はからずも鴻臚館展の話題がでて、行かれる人も。いいなあ! 運慶展の話題も。

 

乗り換えて、でもまだ地元線にはほど遠く。TLに直虎のお坊様集結写真があったけれど、今日私が過ごした空間もまさにそうでした。凛として清々しく爽快です。鎌倉のお坊様に京都のお坊様、そして博多の。話題は宋や明の禅宗について。国際的でもありました。

 

まだ乗り換えて最後の地元線の途中です。建長寺様での今日の一枚。蓮の花は最後の一輪。その花びらがひとひら。

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帰宅しました。ひとまず休んで疲れをとります。それにしても今日の鎌倉禅研究会。内容が濃くて素晴らしかったのはいいけれど、私にはfacebookページにまとめるという作業が……。先月の講師の先生からはご丁寧なメールを頂戴したけれど。なるべく日が空かないうちに頑張ります。

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2017.9.5 ツイッターから転載…中野幸一先生『正訳 源氏物語』のことなど

9月4日

よく気がついたと我ながら感心して乗っていたのに途中駅で二本も通過待ち。やはりいつものように何本も待って特急に乗るのだった。小田急線も京王線も慣れないと損することがしょっちゅう。今日は吾妻鏡を読む会の日です。

 

第133回 鎌倉禅研究会のお知らせ 9月7日(木)13時~16時半 於建長寺応供堂 ◆第一講 道元の自筆本をさぐる 元金沢文庫長 高橋秀栄先生 ◆第二講 古先印元禅師  花園大学教授 野口善敬先生

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何気なく気まぐれに見たたった今のhi-net地震マップ。発生した地震が愛知県から福島県沖に横斜めににほぼ一列。見慣れたマップでは東北沖の縦一列が多いので珍しい気がしました。逆にこのマップには東北沖の発生がないです。

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9月5日

2日の『正訳 源氏物語』を刊行された中野幸一先生のご講演でこれだけはツイッターに書かせて頂こうと思って帰った大切なこと二つ。それはこの現代語訳は文学者ではなく研究者によるということで、一つは、中野先生が多くの現代語訳に感じられていることとして、源氏物語は物語なのに物語としての語り

 

の口調が生かされずに「である」調が多いこと。それを中野先生は「です。ます。」で訳されたとのこと。もう一つは、作家の方がご自分の見解や説明を加えていることに対してで、それはたしかに読者には親切で読みやすくなっているだろうけれど、紫式部の本文そのものではなくなっていること。そのために

 

中野先生は本文に忠実に、余分なことを附け加えずに訳されたそうです。そしてよく(注)が長くなって、場合によっては頁が違ったりすることに対して、対訳として下段に付した本文とは行や長さが同じくなるよう、印刷でもテストを繰り返し繰り返して編集者さん共々頑張られたそうです。

 

あ、それからもう一つ古典の言葉の懐の大きさについて。例えば「おどろく」一つにしても、現代では「びっくりする」の意味ですが、古典では「気がつく」とかもっともっと多様です。かなし、あはれ、等々も。よく現代語訳では安易に漢字に置き換えてしまっていますが平仮名で通しましたとのことでした。

 

あれ程熱中した大島本の書誌学的問題。ご論考を拝読し終わって次がないのもあるけれど、中野幸一先生の源氏物語朗読会を経たら気分が戻らなくなって、代わりに浮上したのが仙覚。ここにやはり戻ってきました。やらなければならないことがまだまだたくさん。時宜は自ずと整います。

 

出すべきか出さざるべきか悩んで、そうだ!と思い出して占いを。左の手のひらに手紙を置き、右手の親指と人差し指で作った輪を家人に開いてもらう。あっけなく輪が開いたらそれは私にとって悪い手紙。固くて開かなかったら出すべき良い手紙。家人が驚くほど輪が開かなかったので投函してきました。

 

最近私のしていることが私自身を離れていろんな方がそれぞれに熱を入れて下さっていろんなことを企画して下さる。でも目下私は仙覚という万葉集の小説にかかっているから源氏物語の活動初期のようには心を合わせさせて頂けなくなっていて、難しいです。ここ数日それでお電話したり手紙を書いたり。

 

現代詩手帖を買ってきました。何年ぶりだろう。おそらく何○年ぶり。これから読みます。

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しかしどこかの地点は通ったなって、そういう詩集。……、ということに過ぎないのかもしれない……。ひとつの時間のなかを私も反芻しています。

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2017.9.3 ツイッターから転載…中野幸一先生『正訳 源氏物語』全十巻完結記念講演会に浜離宮朝日ホールに行きました。

9月2日

仙覚の二つの碑で書く境地をつかんだからこれを逃したくないと思ってカバー写真とプロフィールのアイコンを変えました。ほんとうに、もう、この境地、逃したくない!

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陽射しは暑いけれど風が冷たいから歩いていて心地いい。今日の道中のお供は『図説書誌学 古典籍を学ぶ』。吉祥寺ジュンク堂で一目見て購入してつらつら見ていたのですが、ここに佐々木孝浩先生が。あながち無縁ではなかったようです。

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佐々木孝浩先生を存じ上げなかったので検索したら斯道文庫教授と。早速本棚から出して持って出ました。

 

こちらに来ています。浜離宮朝日ホール。中野幸一先生『正訳源氏物語』全十巻完結記念講演会。第一部中野幸一先生のご講演とトークセッションが終わって、これから紺野美沙子さんの朗読です。中野幸一先生おめでとうございます!

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源氏物語の朗読会が終わって出た浜離宮朝日ホールから昼の月が見えています。中野幸一先生の訳された源氏物語、若紫から御法までの抜粋。たったの短い朗読なのですが、やはり源氏物語には物凄い深い人生があると痛感しています。凄いとしか。

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深い深い地底の大江戸線から乗り換えて乗り換えて最後の地元線に。現実に戻ってきました。笑 鎌倉の源氏物語をしていても私のは享受史だから紫の上はほんとうに久しぶり。やはり彼女の人生は重く、全編を訳された中野幸一先生だからこその抜粋の朗読。命が吹き込まれていました。

 

尾州家河内本に出会って以来、順調に国文科に進んでいたら私は書誌学が好きになっていたのかもと思ったりするのですが、今はもう集中力と体力の問題で無理。先生方が研究された結果を私なりに生かさせて頂くしかありませんが、尾州家本問題、しっかりとりかからなければならない時期が近い気がします。

 

9月3日

おはようございます。昨日の余韻が残っているので反芻しながら朝の家事を済ませました。それにしても女優さんって凄いですね。昨日の紺野美沙子さん。源氏物語の朗読というから彼女が崇められて雅に朗読されるのかと思ったら舞台進行。完全に先生方を取り仕切られて、先生方も嬉しそうで素敵でした。

 

面白かったのは学者さんと女優さんの感性の違いが浮き彫りになったこと。トークセッションで現役のある学者さんが源氏物語を説明された時にその中の一語に紺野美沙子さんが「床離れ…」と突然反応されたんです。学者さんは一瞬言葉を詰まらせてしまわれました。その語の重さ。女優さんならではですね。

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2017.9.1 ツイッターから転載…ダイアナ妃没後20年のこと。佐々木孝浩氏『日本古典書誌学論』のこと

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8月31日

ダイアナ妃没後20年。先日のTV特集ではやはり地雷原を歩く妃の姿が崇高でした。堂々と歩いてられてもやはり直前には王子たちに不安でいっぱいの電話をかけてらした。エイズ患者さんに素手で握手されて、即日エイズ患者さんたちへの社会の風当たりが変わったと医師が言ってらした。妃がご自分の特殊

 

 

能力に気づいたのはある病院で事故にあった意識不明の少年の手を握ったらその少年が目を開けたと。そんな特殊能力がなくても妃は存在しているだけで人を幸せにすることができる女性だったし立場でいられた。マザーテレサとの交流もお似合いで。そういう人がたった皇太子との愛情の齟齬でと思うと…。

 

 

おはようございます。私がダイアナ妃に心惹かれるのはもちろん美しいからもあるけれど、やはり人生というものの深みを突き付けられざるを得ないから。私はこれから仙覚の小説で竹御所を書くのだけれど、竹御所こそダイアナ妃に重なるところがあって思いは尽きないです。竹御所は夫婦仲はよかったけど。

 

 

9月1日

もうずっと佐々木孝浩氏『日本古典書誌学論』を拝読させて頂いていていわゆる「嵌って」います。やはり書誌学はサスペンス。私の鎌倉の源氏物語問題の原点の尾州家河内本源氏物語にある実時奥書の自筆問題と同じ展開が大島本にまであったなんて。尾州家本問題で経験しているから自分のことのようです。

 

 

佐々木孝浩氏による大島本の価値再考問題。2007年からだとすると、私が鎌倉の源氏物語に関わり始めたのが1999年からだから中古文学会に行かなくなって目が届かなかったのも仕方ないです。ツイッターだけを情報源として没頭していたのですが、結局この問題は流れてこなかった。今頃知って追燃。

 

 

実時の奥書問題は仙覚の小説にとりかかったから先送りにしていたのですが、大島本問題で先鞭をつけて頂いた感じでなにか動きがあるのかも。金沢文庫のマイクロフィルムで確かめなさいと仰って頂いたのが仙覚は誰かの問題にとりかかる直前。二つの碑である意味仙覚問題は先が見えた気がする。

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