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2017.10.31 ツイッターから転載…「北条実時と『源氏物語』」を最後の仕事にしなくては!と気づきました。

10月30日

おはようございます。土曜日に出かけたので思考が中断。戻すには時間がかかるから11月の講演準備に専念することに。配布資料も送ってあとはパワポ。今まで作った中から一番ふさわしいのを土台に作りなおします。で、今は導入部だからそのまま使って、ただ文字だけは年配の方が多い会のために大きく。Dnwjpzvumaaegpn

 

文字はいつもは別の書体を使ったりするのですが、今回は詩吟の会だから正統派の行書で。色分けは一瞬で見てわかりやすいようにあえてしているのですが、洗練された西洋美術派の娘にいわせると絶句のよう。あえて、襲の色目よ!と強行突破しています。笑(と、言い訳)

 

運慶展。明日から瑞林寺地蔵菩薩像のご出陳。ん? となったのはたしか何かと何かを拝観するためには何かを諦めなければならないから瑞林寺様を諦めて金沢文庫展まで見送ったはず。ということは何かを見逃したことに?

 

「尾州家河内本源氏物語」奥書に名を残す北条実時を説明するスライドです。この銅像、府中の受講生さんたちを金沢文庫にご案内した時に「新しい」と話題に。そうしたらガイドさんが「この地区を勝手に宅地開拓して住民運動が起き阻止した時、不動産会社がお詫びに建てた」と。既に裏山は半分宅地です。

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来年の講演「鎌倉初期 北条時政の世界」のサブタイトル。「ー知られざる北条政子の父時政の生涯ー」で返信。先ほどお電話を頂戴して。時政の没後後妻牧の方は京で贅沢に暮らします。為家は時政と牧の方の孫娘と結婚しているから牧の方に振り回されて定家が苦々しく思うところまでお話しようと。

 

10月31日

おはようございます。昨日ある方に押して頂いて私の最後の仕事はやはり源氏物語だなあと自覚。「北条実時と『異本紫明抄』」と「北条実時と『西本願寺本万葉集』」を書いたから「北条実時と『源氏物語』」を書かなくては。仙覚の小説に拘って自分で悲壮な境地に埋没していたけど浮き上がりました。

 

(内心の勝手な野望。私には虎視眈々と狙う地平があります。まだ書かせて貰えないの? と先日もある方に問われ、僕がその任だったらとっくに書かせてるのにとも。「北条実時と『源氏物語』」でそれを果たします! たぶん天はそれを待っていてそのために中途では書かせてくれないのでしょう)

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2017.10.30 ツイッターから転載…峰岸純夫先生『享徳の乱』から長楽寺のこと、講演の依頼を頂きました、など

10月29日

おはようございます。昨夜も引き続き峰岸純夫先生『享徳の乱』を。峰岸先生はこんな膨大な世界をずっと抱えてらしたのだという思いにじわじわ。「人が抱いている思いの世界の甚大さ」に感動しています。

 

と、呟いていたらお電話があって来年の講演依頼のお話。某企業さまで以前二回講演させて頂いていて、一回目は鎌倉の源氏物語。二回目は面白かったからもう一度と仰って頂いて比企氏。二回目は比企氏なら私もと副社長様まで飛び入りで聴いて下さって。今度の三回目は「鎌倉初期 北条時政の世界」でと提案。

 

テーマのご希望はありますか? と伺ったら無いと仰るので時政を提案したら「いいですよ」と。とっさに「鎌倉初期 北条時政の世界」でどうでしょうと申し上げたら「面白そうですね!」というご反応。「写真を楽しみにしています」と仰って頂いていよいよ伊豆の韮山に行く日がきました。

 

長楽寺の件で。タウンニュース鎌倉版コラムで「無住と時頼」を書いた時たしか無住が長楽寺を開きとあったと気になって調べたら「上野国長楽寺を開き」とウィキに。でも昨日朱塗りの勅使門をアップした群馬県太田市の長楽寺は新田氏の。無住の長楽寺ってどこ?となっています。写真は太田市長楽寺にて。

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群馬県太田市長楽寺のウィキより:戦国時代の永禄8年(1565年)住持賢甫義哲が日記『長楽寺永禄日記』を記した。長楽寺で行われた仏事や義哲の日常生活、寺領や近在の百姓の動向などが記され、戦国期東国の地域社会を知る史料。翻刻には峰岸純夫校訂『史料纂書135 長楽寺永禄日記』

 

翻刻には峰岸純夫校訂『史料纂書135 長楽寺永禄日記』…長楽寺に峰岸純夫先生が関わっていられるのは知っていましたが、改めて『享徳の乱』とこの長楽寺の件を拝見すると、講談社メチエのあの一般書の体裁でわかりやすく書かれた文章の背後にこんなに多くの労作がとずんと響きました。

 

昨日はある研究者の方々の集まりだったのですが(その分野では相当な立場の方々でした)自己紹介で「鎌倉で鎌倉武士たちが源氏物語を愛好していたことを研究しています」と言ったら一瞬室内がどよめきました。今頂いたメールでもやはり「え、そんなことがあったの」と誘って下さった方に呟かれたとか。

 

1014日、立憲民主党の最初の東京大作戦で、枝野さんと菅さんが演説されている街宣車の背後で骨組みが造られつつあったクリスマスツリーがいつのまにか完成していました。

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2017.10.28 ツイッターから転載…峰岸純夫先生『享徳の乱』を拝読して『太平記の里 新田・足利を歩く』の撮影で同道させて頂いたことを思い出しなど。

10月27日

突然11月の講演のパワポ作成にとりかかりました。火曜日に打ち合わせに行って気分が残っているあいだにと。

 

10月27日

おはようございます。昨夜は峰岸純夫先生『享徳の乱』を拝読しつつ就寝しました。『太平記の里 新田・足利を歩く』撮影時にはばらばらな点でしかなかった各所が線で繋がり生きた記憶になったのにビックリ。新田とか世良田とか長楽寺とかの地名が今頃になって新鮮です。文章は人の息吹なんですね。

 

『太平記の里 新田・足利を歩く』に同道させて頂いて、北関東にこうした朱塗りの寺院建築がたくさんあることに驚きました。これは長楽寺にて。東海道ができてから文化は太平洋側に偏った視点でしか見られませんが、時代の趨勢で文化の起点が変わるということが大変なカルチャーショックでした。

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群馬県太田市世良田の長楽寺の秋。訪ねたのは200911月でした。銀杏の輝きが見事でした。

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思い出しました。仙覚の「あづまの道の果て」が決して東海道だけではないと直感したのはこの時の経験があったからでした。北関東には東山道があり、下野薬師寺や関東最大の天台宗別院慈光寺があります。いつのまにか鎌倉視点で固まりそれでしか文化が見えなくなっているのは危ういです。

 

もうじき直通は地下に入る。間に合うと思うけど、なんとかならないかなあのいつものこのギリギリ。

 

そういえば今朝山の夢を見た。ヒマラヤの夢を見なくなって低迷していたけどついこの前復活。荘厳で美しかった。今朝の山は日本の山。ヒマラヤの時は覆い被さってくるように包み込まれるのに日本の時はどう写真を撮ろうかいつも追いかけている。でも山自体は聳えて見えていて覚めても気分いいです。

 

早稲田文学が出発点だから早稲田の方の短歌結社にお世話になり、それは小説に挫折した私に傷を癒やせと誘って頂いてのことだったけど、そこで書いているうちに鎌倉の源氏物語に遭遇し、紹介して頂いた鎌倉の方がやはり早稲田。今日は久しぶりにその方々にお会いしてなんか早稲田の集まりにいました。

 

ずっと見守ってくれている方々がいられることの幸せ。

 

カンディンスキー、ルオーと色彩の冒険者たち展のポスター

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2017.10.27 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(75)蓮華王院と建春門院滋子と運慶のこと。『たまきはる』のこと。タウンニュース鎌倉版コラムの紙面。

10月24日

おはようございます。昨夜は運慶に終始。根立研介氏『日本中世の仏師と社会ー運慶と慶派 七条仏師を中心にー』を拝読中です。円成寺大日如来像をめぐってのところで中断していてずっと写真が載ったその頁が机上に見えていたのですが、昨夜の山本勉先生のネットインタビューを拝見して得心できました。

 

文章と感覚でしか物体に接してこなかった私はだめですね。彫刻に接しても綺麗とか好き嫌いでしか判断できなくて。山本勉先生のネットインタビューで康慶と運慶の彫刻の中にきちんとした人体があるか否かのお話は目から鱗でした。物理的にきちんとデッサンできている方々の目って何か違うのでしょうね。

 

鎌倉生涯学習センターでの11月の講演の打合せに行ってきました。これからいよいよ本番。パワポの作成にかかったり、煮詰まってきているからようやく仙覚の小説に専念できたりするでしょう。選挙も終わって私的に清々しい思いで心機一転頑張ります。

 

地球照。昨日夕刻の写真です。普通の生活をしていて見える景色はこの範囲。以前からこの水色の低空の上が薄いピンクでその上が普通の空って何だろうと不思議でした。ツイッターで見た山頂から撮った180度視界の地球照で謎解消。その一部でした。

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往復の車内読書で蓮華王院を。後白河院創建時、蓮華王院が本堂で五重塔や阿弥陀堂がある壮大な寺院だったそう。積翠園はその一画だったのが武田病院に売り渡されたのだとかでビックリ。木曽義仲が火を放って蓮華王院だけが焼失を逃れたなど、とんでもないことと憤慨。この蓮華王院の造物に康慶が。

 

康慶は蓮華王院五重塔の造仏をしていた時に瑞林寺地蔵菩薩像も。時代は鹿ケ谷の年。この時運慶は27歳位で、この時時政が大番役で在京。その前年建春門院滋子が崩御して、運慶の円成寺大日如来像ができて。南都焼討や木曾義仲法住寺合戦はまだ先。法住寺合戦で康慶造仏の五重塔が焼失なんて!

 

これから、たまきはるを読んで寝ます。

 

(それにしても、平家物語や何かで法住寺合戦を読んでいても、法住寺だとばかり思っているから蓮華王院と結びつかなかったし、運慶の父が蓮華王院の造仏をしていたなど知らなかったので、こういう繋がりにビックリ。知らないとイメージが浮かばなくて勿体無いということが凄くよくわかりました。)

 

借りてた『たまきはる』は岩波書店の緑の本。ざっと見たら末尾に貞顕の識語。あら、と思って解説を見てもそれに関する説明はなし。貞顕がたまきはるを書写しているのは知っていたけど、解説にある「孤本に等しい金沢文庫旧蔵本」は貞顕本のこと? 何故貞顕はたまきはるを書写したかは年来の謎。

 

10月25日

昨夜のたまきはる読書で冒頭早々に目がとまったこと。「さまざま移り変はる世のありさま、人の心も、ただ我世ばかりに、昔今けぢめしるかに変はり果てにけるかなと思ふに」←注「違いがはっきりと。平家全盛期と鎌倉幕府成立後の近時とを対比」…まさに運慶の円成寺大日如来像と願成就院像の違いかと。

 

モンブランのボールペンの替え芯を買いに雨の中吉祥寺ロフトへ。私は原稿用紙に万年筆で書くことのスタート派だから筆記具にこだわりがあります。体調を崩して重たいものを持てなかった期間が長く筆記具もシステム手帳も脇に押しやっていましたが、そろそろ復活してもいいかと取り出して替え芯を。

 

立憲民主党のTwitter相乗効果が取り上げられて、いいですね! これぞ、風! という気がして見ていました。

 

インスタ映えする写真ですが」凄くわかる。私はパワポで自分の写真を背景に使うようになってから意識して「映え」を考えるようになり、ただ堂々と大きくピントも正しく的確な露光の、いわゆる王道写真が「古い」という感覚に気づいていました。立憲に投稿される写真はそれから外れていて新鮮でした。

 

10月26日

タウンニュース鎌倉版コラム【鎌倉と源氏物語】特別編「運慶との関わり 東国と源頼朝と北条時政」の紙面です。

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おはようございます。私が東国の運慶に関心をもったのは遺跡発掘調査勤務時に浄楽寺像の発見の経緯を読んで俄然その謎解きのような面白さに嵌ったことからでした。その後真如苑大日如来像の出現…。樺埼八幡宮社殿は峰岸純夫先生『太平記の里 新田・足利を歩く』に同道させて頂いて撮った写真です。

 

それにしても歴史に携わっていると当初はまさか関係あるなど夢にも思わないことが繋がるから不思議です。永福寺も遺跡発掘調査勤務時に発掘調査の真っ最中でよく現地説明会に行きました。今回運慶が永福寺の仏像も造ったかもという話を知り、知識が生きた人の血の流れのような感銘を覚えています。

 

200911月に樺埼寺跡発掘調査現場を訪ねた時はちょうど真如苑大日如来像が話題になっている時で、事務所の窓口にこういう写真が飾られていました。まさかこの大日如来像を調査されたのが山本勉先生だったとは。当時調査経過のご論文を拝読していてもそこまで記憶していませんでした。

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タウンニュース鎌倉版コラム。運慶編が掲載されてほっと一息ついたと思ったらもう次の校正が届きました。掲載はまだだからゆっくりでいいですよとはあっても。半年分書き溜めての今だから何を書いたか忘れ気味。読んだら「二条と永福寺」でした。運慶編の最後が運慶と永福寺で終わったから自然な流れ。

 

記者さんのところに【鎌倉と源氏物語】を最初から読みたいという女性のお電話があり通しで全部送って下さったそう。切り抜いて溜めていますというお声はよく頂戴します。今日久しぶりに源氏物語の先生から私信を頂いたら「ただの歴史ばなしでないところがいい」と。とはずがたり、これからが本番です。

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2017.10.25 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(74)運慶の円成寺大日如来と平家全盛期・建春門院滋子のことなど。選挙運動最終日から選挙当日へ

10月19日

立憲民主党のことで政治以上に強く感じること。それは人間にはブレない人がいるということ。民進党の希望の党合流に始まる枝野さんの決起、共産党の覚悟と前向き姿勢。真摯なその情熱が日本全国の鬱屈した思いを救い、目覚めさせ、結集させた。真摯ということがこんなにも信じられる現実が嬉しい。

 

でも怒りのエネルギーって凄いですね。私も門外漢の分際で(ここ重要)鎌倉の源氏物語で鎌倉に一人乗り込んでいったからどれほど怒りを超越してきたか。その度に一つアウフヘーベン!して生き延びて今があります。そうでなかったら理論的にも精神的にもこんなに堅固になっていなかったと思います。

 

三宅久雄氏「六波羅蜜寺地蔵菩薩像と運慶建立の地蔵十輪院」再読中です。ふと思ったのだけれど、運慶は平家に対してどういう立場にいて、どういう感情をもっていたのだろうと。一応作った私の運慶年譜では、14歳の時の父康慶の蓮華王院から26歳の円成寺大日如来像まで空白。その期間が平家全盛期。

 

円成寺大日如来像と運慶願経発心が建春門院崩御の年で26歳。康慶瑞林寺地蔵菩薩像が鹿ケ谷の年で運慶は27歳。頼朝挙兵南都焼討が30歳。翌年興福寺復興開始。願成就院と興福寺西金堂は36歳。六波羅蜜寺地蔵菩薩像はこの頃の制作になるようだけれど。運慶の造仏は平家に関係ない?

 

全くの私見だけれど、運慶は最も感受性豊かな十代後半から二十代全般を通して、贅を極め芸術性を高め見目麗しい平家の公達と女性陣を見ているわけですよね。平家が南都焼討をしたから賛美は言えないけど、仏師としてその美は心に刻まれているはず。円成寺大日如来像の気品にそれを感じるのですが。

 

10月20日

おはようございます。建春門院をウィキで読んだのですが、素晴らしい美貌と精神の持主。なんとなく知ってはいても清盛の時子とか頼朝の政子のように一般通念上の主役でないと脇に押しやられたまま大河の成海璃子さんのイメージで定着。まるで違うことに唖然。いよいよたまきはるを読まなければ。

 

運慶展。資料館に寄りたいので早く行きたいのですが、浄楽寺の阿弥陀三尊像のお出ましが21日からなのでまだ行かれないもどかしさの中にいます。

 

タウンニュース鎌倉版コラム第21回【運慶との関わり 東国と源頼朝と北条時政と】が掲載されました。

http://www.townnews.co.jp/0602/2017/10/20/403625.html

 

なんとか雨があがっているから図書館で保元物語とたまきはると蓮華王院の本を借りてきました。まさかこんなところまで遡ることになるなんて。まさに慈円のいう保元の乱から武者の世。

 

選挙が最終日に近づいて気もそぞろだけど来週から11月の講演に意識を向けようと考えていた矢先連絡を頂いて来週打合わせ。その日に向けて配布資料を作ってしまおうと決意。今までので十分なのだけれど今回はほんとうに鎌倉の源氏物語初心者さんの集まりだからエクセルで登場人物表を作ろうと閃く。

 

思いつくままに、登場人物:紫式部→後三条天皇→白河天皇→平清盛→源光行・藤原定家・運慶→足立遠元→藤原光能→文覚→北条時政・源頼朝→頼家→比企能員→仙覚・竹御所・円顕→実朝→順徳天皇→九条道家→九条頼経→後嵯峨天皇→北条実時→源親行→北条時頼→宗尊親王(まだいると思うけど)

 

今回、時政と運慶を入れます。タイミングよく間に合いました。本邦初公開(笑)の内容になります。依頼を頂いた時には考えてもいなかった展開。演題は「鎌倉の源氏物語と歴史と文化」です。

 

(ブログを紹介して頂いて)ご紹介ありがとうございます。はじめてこんなに政局に熱くなりました。仙覚の小説を書いているからです。政局次第で人は仙覚のように存在を消されて生きていくことにもなります。今回の選挙で小説の原点を頂きました。結構、私、この選挙で変わりました!笑 仙覚の小説のためによかったです。

 

10月21日(選挙活動最終日)

おはようございます。立憲民主党のTwitterのフォロワーさんが千の位から万の位へみるみる膨れ上がって、これは!と、時代の新しい風に心震わせた時からまだ一か月もたっていない今日の選挙最終日。人の心の真摯さ美しさに涙ぐみたくなる感動の連日。今日一日、怒涛のRTをさせて頂きます。

 

今日から運慶展にお出ましの浄楽寺阿弥陀三尊像。私は以前密教図像学会の2日目の三浦半島仏像巡りバスツアーで拝観していて、その時は高野山真言宗管長でいらした松長有慶様もご一緒で、読経とともにうやうやしく扉が開けられて拝ませて頂いたその時のことが今もふと蘇るから、運慶展が本当に楽しみ。

 

ふうっと、ようやく10月12日の鎌倉禅研究会例会報告をFBにアップしました。気になっていつつも一週間放置してしまいました。直後から体調がおもわしくなく集中作業が無理になっていました。浄光明寺ご住職大三輪龍哉様の貴重なご講演です。鎌倉禅研究会で検索してお入り下さい。

 

北斎とジャポニスム展@国立西洋美術館 可愛らしいポスター!

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怒涛のRTの日々が終わって明日からは確かに新しい時代がくる。それを信じて、諸々のことに感謝して、おやすみなさい。写真は吉祥寺コピスガーデンにて。

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10月22日(選挙投票日当日 台風21号上陸)

おはようございます。「お、来たか」の言葉が閃いて起きた朝。昨夜保元物語を読んで寝ようと読み始めたのにいくら進んでも将門、将門…。?となって確かめたら将門記。『保元物語・平治物語』という一冊を借りてきたから平治物語でない部分は保元物語と信じてました 笑。でも読んだ効果あったみたい。

 

私はやはり石の文化の廃墟が好きなんだと一枚の写真に出会って思う。写真を撮りながら満足したことがなく、鎌倉の歴史を探りながら満足した写真が撮れたこともなく、では自然や風景写真が好き?と思っても違う。でもこの一枚。シンメトリックな廃墟の中庭に赤いゼラニウムの花。なんだろうこの充足感。

 

と、こういう憧憬をしのばせながら保元物語を読んでいます。

 

立憲・枝野幸男代表が当選 埼玉5区

 

10月23日

おはようございます。選挙の結果。ブレない人たちの野党が突然世の中に出現したことに驚きと安堵。十月に入る前には想像できなかったことですし、その十月がまだ二十日ちょっと過ぎ。ブレないということの精神の高潔さにほんとうに清々しい思いを抱いています。

 

高潔な精神というのは文学でも宗教でも読んだり描いたりは簡単です。でも現実の世界でそれを見たり感じたりすることができるかといえばほぼ皆無でしょう。なのに今度の選挙では堂々と政治という最も世俗的な大舞台でそれが見られてしかも天が推進してくれた。今度の選挙はそういうものと捉えています。

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2017.10.22 ツイッターから転載…タウンニュース鎌倉版コラム第21回「運慶との関わり 東国と源頼朝と北条時政と」を校正したり、の日々の徒然」

10月17日

タウンニュース鎌倉版連載コラム第21回【鎌倉と源氏物語〈特別編〉運慶との関わり 東国と源頼朝と北条時政と】を校正中です。

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北条時政が頼朝の岳父としてでなく、岳父になる前から独立して偉大だったことを鎌倉の方に認識して頂きたくてあえてタイトルに「北条時政」を入れました。笑

 

美術史的観点の文章は初めてです。業界での緻密な約束事とかあるのでしょうけれど、気がつかないで書いてしまっていることがあるのではとハラハラしています。不注意があったらすみません。(急に今週号の掲載となって)

 

RT 日刊ゲンダイ≪今からでも遅くはない。希望の党は、立憲民主と競合する選挙区の候補者を取り下げたらどうか。 「どんな手段を使っても安倍政権を倒す」とタンカを切った民進・前原代表の覚悟を見せて欲しいものだ。 

 

体調復活を過信して11月の講演を控えているのに油断したらここ二日間危うい。今日も先ほど少し寝ました。もっと若い時だったら、体力に自信あったら、ボランティアに駆けつけるのにと無念をかみしめています。せめて状況をRTで広めさせて頂こうと思いますが、東北の熱さが伝わってきて嬉しい。

 

私は滅多にTLに現れた現象に反論しないのですが今回だけは。石原慎太郎さんが枝野さんを評価したことに浪花節的なところが琴線に触れたと解釈されているのを見受けましたが表面的にはそうですが根幹は違います。私は鎌倉の源氏物語問題で数年ある意味凝り固まった体制と闘ってきました。でも今なお潰

 

れずに続けていられるのは鎌倉には武士文化しかない源氏物語のような雅な文化は無縁として文化的に鬱屈させられていた市民の方たちが驚きとともに喜びをもって草の根運動で広げて下さったからです。立憲民主党の進撃の背後には虐げられてきた国民の怒りがあります。それを忘れてはならないと思います。

 

10月18日

今日は晴れたので地元の図書館に。ボランティアの方たちによる植込みの草花も陽を浴びて晴れやかでしたが、ローズマリーは日陰。でも好きだから撮りました。

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晴れた陽射しの側だとこんなに違います。でも秋の植栽はなんとなく穏やかですね。誇らしげに咲いている花がなくて。

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もう一枚。紫のサルビア。この花を庭いっぱいに咲かせたいのだけど。

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街路樹のハナミズキの赤い実です。

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10月19日

おはようございます。立憲民主党を見ているとどれだけ国民全体が今の政権に対して怒っていたかがよくわかる。私もそうだったし、でも吐け口も改善策も見出せずただ諦観して鬱屈していました。枝野さんの決起、昔の百姓一揆と直感したのですが、自由民権運動でも新思潮でも、とにかく何か変ってほしい。

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2017.10.19 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(73)伊豆の慶派、運慶と時政のことなど

10月16日

おはようございます。一週間怒涛のRTをさせて頂こうと覚悟しました。森友加計学園問題が起きた時、民主主義の今の世にそんな時代劇の悪代官のようなことが起きてるなんてと耳を疑いました。でもその政権を作ったのは選挙で選んだ国民なんです。諦めていた時に今度の選挙。この権利を生かさなければ!

 

もともと私は文学に籠って深く極めたいほうだから、選挙に関しては呟かないをずっと通してきました。でも今度の政局は絶対変えなければならないと私にしては不思議なくらいに理念が通っています。それくらい逼塞させられていたんですね。初めて権利を生かすチャンスを下さったのが立憲民主党です。

 

(選挙にたいして呟いて炎上したら政局に翻弄され押しつぶされて生きた人生の中でも万葉集だけは捨てなかった仙覚のように、私も押しつぶされたのを幸いに、籠って仙覚の小説を仕上げよう!)と思っています。笑

 

吉祥寺に戻ってコピスガーデン。ほんのひとときだけど最高の息つぎ。リフレッシュしました。

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吉祥寺のコピスガーデンはもと伊勢丹だったビルがコピスになって、その3階にあります。忘れていたのですがここ当分通いそう。それにしてもこの1週間の天気予報は雨。ずっとこんな写真になるのかなあ。

 

明治の廃仏棄釈とは違うけれど、伊豆の慶派の仏像がここのところの関心事で、桑原薬師堂の存在、いつからだったのかなど、年譜に照合したいのだけれど、2日続きの外出の結果、結局まだ体力を過信してはいけないと悟って今日は半日休んでいました。なのでこれから年譜。浸れる楽しみです。

 

図書館に行かれなくて資料が入手できないからネットだけの情報だけれど、伊豆の修善寺に実慶作の大日如来像があり、二人の女性の黒髪が納入されていたと。一人は政子の、もう一人は公暁の母という女性のと推測されているそう。頼家が亡くなって6年後(7回忌)の、実朝が暗殺されるより9年前の造仏。

 

RTさせて頂いた田村隆氏『省筆論』。興味深いです。運慶のこととか政局とか、諸々落ち着いたら是非拝読させて頂きます。

 

10月17日

おはようございます。昨夜眠たいのをぎりぎりまで我慢して運慶と時政の年譜を突き合わせて見ていました。細かいところの資料を見たいのは山々ですが図書館に行かれないから諦めてもう原稿に戻ろうかとふと思ったところです。信実が法橋になった時、時政は21歳です。瑞林寺像は40歳。これで十分。

 

国宝と造りほぼ同じ 伊豆・修禅寺の大日如来坐像

http://izu-np.co.jp/nakaizu/news/20171004iz3000000019000c.html

←来年の金沢文庫展にお出ましになられるそうです。

 

来年の金沢文庫展は私的になんとタイムリーなと感嘆。康慶作の瑞林寺地蔵菩薩像。実慶作の修善寺大日如来像。瑞林寺の地蔵菩薩像は展示期間が合わずに東博を諦めていました。1月までまだまだいろいろ広がりそう。

 

と、いろいろ首を突っ込んでいるから、それは小説の取材で必要でしているのだけれど、入っていった分野には外部者には取り付けない堅固な壁があって、結構不審がられたり上から目線をひしひしと感じたり。受け入れて下さる真摯な方と巡り会うと心癒されますが傷つくこと多い。でも乗り越えてきました。

 

と、なんか総括的な感慨をふと。いつも思うのだけど、私がいる場所って私が今書いている小説にしかないなあと。堅固な壁ができているほどの場所にいられたら傷つくこともないのにと羨んでも、原稿は結局自分一人の世界ですものね。

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2017.10月17日 立憲民主党の東京大作戦と銘打った「吉祥寺・新宿・池袋」に代表枝野幸男さんが来られるというので、吉祥寺の会に行きました。

10月14日

東京大作戦の新宿。さすが吉祥寺と違いますね(←吉祥寺から新宿に移られての街宣写真をツイッターで見て、そのあまりの人出の多さに目を丸くして!)。吉祥寺駅北口ロータリーは狭いから、そして上から見下ろせる陸橋もないから、どんなにたくさん集まっても最大限に集まってもああはなりません・・・。吉祥寺、3.11の時の菅さんと枝野さん。お二人にも感慨深い思いがおありのようでした。

 

遅ればせながら吉祥寺での写真を。帰宅してPCに取り込んでの作業なのでリアルタイムでなくて済みません。とりあえず最初に一枚。枝野さんと菅さんのツーショットです。3.11の時を思い出しました。お二人もお互いにこの今を感無量に挨拶されていました。

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京大作戦1014@吉祥寺【4-1】演説が始まる前の菅さんと枝野さん。菅さんは地元で枝野代表が応援に駆け付けられました。一枚目は枝野さんを待つ菅さん。二枚目が到着して街宣カーに乗られたばかりの枝野さんです。3.11で労苦を共にされたお二人の今です。

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東京大作戦1014【4-2】菅直人さんの演説の時の見守るような板野さんの眼差しや笑顔が印象的でした。

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東京大作戦1014【4-3】板野代表の演説は聴衆の心に響かれていました。でも、それとは別に菅さんとお二人が嬉しそうで、撮っているあいだは気づかなかったのですが、PCに取り込んで見たらこんなにもお二人で親密に溶け合ってらして素敵です!

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東京大作戦1014@吉祥寺【4-4】。最後に全景を。ロータリーは狭いのでいっぱいいっぱいに詰めかけても限界が。でもネットニュースを見たら1000人も集まったのだそうです。反対側の舗道とか通路もいっぱいでしたから。 二枚とも中央線のホームから。

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10月15日

枝野さんの落選の危機をTLで目にしてから胸が締め付けられている。TVで「僕だって不安なんです」と一瞬仰られたのが心に残っていてそれから気になっていたのだけどまさかこういうことだったとは。枝野さんが全国を回らなければあの党は成り立たないあいだ、地元を応援する策はないのだろうか。

 

どなたかの呟きで自由民権運動ってこんな感じだったのかというのを見たけど、私は自由民権運動それ自体に詳しいわけではないから危ういけど、枝野さんが立憲民主党を立ち上げられ、ツイッターのフォロワー数が秒単位に千の位から万の単位に伸びていくのを目にした時に、私もそれを感じたのでした。

 

まさか自分の生きている時代にそういう新思潮の波に遭遇するなんて、こんな奇跡に巡り会えるなんてという感嘆。私は文学史の人だから新思潮という言葉が好きだしその意味を大切にしたい。でも、枝野さんが落選されたら、と思うととんでもないです!

 

立憲民主党が立ち上げられ全国に活動が広まってもう安心と思った時に自民党が圧勝の報。そろそろRTの嵐を収めようかと思った矢先に枝野さんの落選の危機の報。立ち上げから僅かの日数で人手不足も甚大で何もかもはじめてづくしで歴史に残る党を作っていかれるのだからせめてRT続けさせて頂きます。

 

ほんとうに今度の選挙こそ一般市民が現状を変えることのできるたった一つの方法なのに。枝野さんの街頭演説にたくさんの人が集まっている光景が昨年までの国会議事堂前のデモと同じように見える人にはこの違いがわからないのかしら。

 

吉祥寺のコピスガーデン。先日撮った一枚です。ジュンク堂があるビルで今日も行くのですがまた雨。また撮ってきます。なんか、こういう写真寛ぎますね。造られた自然でも。

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10月16日

真夜中のまた怒涛のRTをしてしまいました。私は立憲民主党が立ち上がるまで戦争になったら三島由紀夫や川端康成のように古典に浸って過ごそうと、その方が文学者として真実と思っていました。枝野さんが決意表明をされた時に私の中で執筆中の一生を政変によって左右された仙覚の精神が甦ったのです。

 

個人の力は限りなく小さいです。翻弄されたら虐げられたらその中で苦悩や悲憤を自分なりに克服して生きていかなければなりません。仙覚は諦観しその苦しみの中で万葉集という偉大な業績を残しました。でも思いがけずに解散→選挙となって、個人が権利を発揮できる場を頂きました。生かさなければ!

 

連ツイ済みません。今、この状況に遭遇する前に仙覚を徹底的に見て書いて人生を追体験していてよかった。そうでなかったら多分枝野さんが立憲民主党を立ち上げられてもまだ三島由紀夫や川端康成になろうと思っていたと思います。

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2017.10.17 ツイッターから転載…円覚寺様の写真。日本の宝、『源氏物語』をもっと大切にしてほしいです!

0月13日

なかなか季節を感じて写真を撮ることが余裕がなくてできなくて。使う写真を取り出す時に過去の同じ季節の花の写真を見て慰められています。これは薄いピンクの秋明菊。

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今日は寒い雨模様ですが、昨日は晴れて暑いくらいでした。なので円覚寺様境内も晴れやかに巡らせていただきました。こちらは山門です。

 

円覚寺様山門上部の扁額です。

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一礼してくぐり抜けようとしたら綺麗な彫刻が目に入りました。

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山門の奥に広がる白砂の向こうに円覚寺様仏殿。ご本尊は宝冠釈迦如来様でいられます。

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円覚寺様の柏槇です。

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世の中には源氏物語を嫌いな人が、もしかしたら好きな人よりもたくさんいると、鎌倉の源氏物語に関わって認識しました。その一端に光源氏を倫理的に許せない、生理的に嫌いというのがあって、そういう方々は源氏物語を読まれてなくてただ風評で源氏物語をスキャンダルの文学と捉えてられます。

 

源氏物語を真摯にお読みになればそこには紫式部の女としての苦悩とか宗教観の深みが書かれていて、決してスキャンダルな文学でないことがわかりますが、如何せん源氏物語は長い。そこで手っ取り早く知ろうと思うとある意味売らんかな的に煽るようなダイジェストに頼り、結局許せないとなります。

 

こういうことを呟いたのは、昨夜の打上げでまた同じ反論にあったから。どうしてあんな源氏物語を鎌倉武士が読んだか理解できないと。でも鎌倉時代には源氏物語はスキャンダル文学ではなく真面目に勉強する武士達の「京都学」のテキストでした。それを言ったら反論できなくなって黙られました。

 

私は思うのですが、源氏物語に対するイメージをこれ以上壊さないで、世界に誇れる大切な日本の古典ということを真摯に伝える時代になってほしいなあと。

 

緑の休息に飢えている感じがしていたところにTLにコピスガーデンの写真が流れてきて、見たらそれは北海道かどこかのだったけど、そうだ! コピスガーデンなら吉祥寺にもあると思い出し、今日は雨が降っているけど行ってみました。

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2017.10.14 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(72)伊豆に慶派の仏像がたくさん! 鎌倉禅研究会でした。

10月12日

昨日と今日の2日続きの外出は無理と思い昨夜のトークショーの申し込みを躊躇したのだけれど、金沢文庫の学芸員さんと山本勉先生の対談は聞き逃せないからなんとかなるとばかりに行って、でも今朝は無事に出て来られました。体力、随分回復しています。秋はこれから充実期。いろいろ楽しみです。

 

先月の鎌倉禅研究会で山本勉先生のスパイラルホールでのご講演の入場券を頂き、そこで紹介されたご本を拝読して運慶が六波羅蜜寺と関係あると知り俄然興味が行って1か月運慶旋風が私の中で吹き荒れました。そして原稿に戻ってまた時政。学会的にも文学的にも今まで見えたなかった世界を探っています。

 

今日は峰岸純夫先生の『享徳の乱』が届くのだけれど、帰ってからの楽しみ。

 

メモ: 光明峯寺入道は道家で、康慶・運慶の仏像を? 小林剛氏『仏師運慶の研究』。

 

ホームは屋根があるのに車両が濡れているのだけれど、地元は雨? 鎌倉の帰り。鎌倉では雨の気配はなかったけど。

 

今日の鎌倉禅研究会の会場は円覚寺様でした。こちらは唐門。方丈前の唐門は勅使門と先日建長寺様で知ったばかりです。

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構成@円覚寺様 例会が終わり外に出たら目に入った光景です。檜皮葺屋根はたぶん唐門。(円覚寺様にまだそう慣れていないので)

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帰宅して寝て今起きて届いていた峰岸純夫先生の『享徳の乱』を開いて、字面が綺麗だなあ、読みやすそう! となっています。「本書は、中世日本における『享徳の乱』の重要性について知ってもらい、理解を深めていただくために書かれたものなのである」。いいですね!

 

10月13日

おはようございます。昨夜の打上げの充実したひと時に引きずられてだけいるわけにもいかないので運慶に戻ったら一瞬にして気分が一新しました。これは伊豆のかんなみ仏の里美術館HPにあった伊豆周辺地域の慶派の仏像地図です。

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たしかTLでみかけた仏師実慶。その名前が伊豆の慶派の仏像を検索していたら出てきて、やはり運慶願経に名を連ねる人と確認。それにしても伊豆の慶派の仏像の多いこと。あと瑞林寺地蔵菩薩像のことなど、運慶展に行ったらまた資料館籠りです。浄楽寺の阿弥陀様方のお出ましを待っています。

 

昨夜運慶と六波羅蜜寺のことを話したら面白がられて「それどこに書くの?」。論文ではなく小説でと申しあげると「いつ発表するの?」。まだまだ調べれば出てきそうな伊豆の慶派。早く書いて発表したいのはやまやまですが、こういうことに関心をもって下さる方のいることの幸せ。長い蓄積の結果です。

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2017.10.13 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(71)高橋慎一朗先生『中世の都市と武士』から六波羅と時政の関係を拝読して目から鱗→伊豆の慶派の仏像がたくさん。鎌倉禅研究会に。

10月10日

おはようございます。鎌倉の第四代将軍頼経が仙覚に万葉集を命じたのですが、その頼経は九条兼実の曽孫。なぜ頼経が万葉集をということはこの小説の根幹なのですが、運慶が出てきたことで兼実を書く機会ができました。興福寺復興の氏長者兼実です。新古今の良経、東福寺の道家→頼経と続きます。

 

と昨夜気づいた時、え~っ、この小説は新古今の山を乗り越えなければならないんだと愕然と。でもすぐにそうしたら慈光寺経を書けると気が付いて、それなら頑張ろうと思ったのでした。慈光寺経の奉納に仙覚がかかわっているか取り沙汰されていますが、円顕がでて残念なことに私的には否になりました。

 

他愛ないことですが個人的に驚き。昨日コピーしてきた運慶関連のご論考を拝読していて。割と古いご論考ばかりだから文字使いがなんとなく違って目にしました。「為人」って「人となり」と読むんですね。初めて知った気が。今まで気がつかなかっただけ?

 

六波羅について高橋慎一朗先生『中世の都市と武士』を拝読しています。思ったとおりの感。京都守護として入洛した時政は源氏一族でないから、当時の源氏一族の本拠地の六条堀川には入れず、平家没官領として幕府の所有するところとなっていた六波羅に居を構えた。これが時政の公的機関として機能する。

 

文治二年、没官京地の配分で時政は「綾小路北、河原東」を与えられた。これは六波羅に近い鴨川東岸の地だから、北条氏が六波羅を京都における拠点とみなして六波羅近隣の地を望んだとも考えられる。この時重源が八条高倉を与えられ、それがおそらく運慶に譲られて地蔵十輪院になった。

 

平家滅亡後の六波羅は、「北条氏の六波羅」という要素を当初から含んでいたことになる。六波羅は、武家地としての性格を持ち始めていたが、「武家地」六波羅の成立には六波羅探題府の設置を待たねばならなかったのである。

 

夕暮れ@吉祥寺。選挙、公示の日の。

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時政が大番役で在京の時に瑞林寺。京都守護の頃六波羅蜜寺。と地蔵菩薩像の一致に?となって調べたら慶派の北条氏との繋がりは時政以前に遡る。静岡に慶派の仏像がたくさん。で、系図を見たら康慶よりもまだ何代も前から興福寺との繋がり。運慶と時政の縁はこの流れの中だったんですね。

 

私は運慶初心者だから六波羅蜜寺と運慶の関係を時政が京都守護で上洛した時に運慶を見初め、願成就院制作を頼んだとばかり思っていました。時政の叔父?に興福寺の上座を勤めた信実がいて、彼と時政の父との関係で北条氏と静岡の慶派の造仏がなされたと考えていいのでしょうか。時政、奥が深いです。

 

10月11日

今日はQRコードのスマホチケット成功 笑。昔人間だからこういうの苦手。

 

帰りの車内です。面白かったです。山本勉先生と瀬谷貴之先生のトークショー@ラカグ「運慶メッタ掘り」。一つ、凄い収穫がありました。活かさせていただきます。

 

今日のトークショー会場、ラカグ。ラカグは、ラ・神楽坂の略だそうです。もとは倉庫だったとか。

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2017.10.10 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(70)運慶関連で重源を読んでひとまず運慶は終わりに。原稿に戻ります。

10月6日

赤いグラジオラス?がすっくと一本@井の頭公園西園

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重源は大仏建立の勧進のために全国に別所(出先機関)を設け、そこに必ず浄土堂を建てた。今も完全に残っているのが播磨の浄土寺。重源ゆかりのものがいくつか残っているのが伊賀の別所。平家が滅んだ時その没官地が陳和卿に与えられ東大寺に寄進。そこに重源が寺院を建てた。(筒井寛秀師『東大寺』)

 

重源や陳和卿について読んでいます。重源には『南無阿弥陀仏作善集』が残されており東大寺復興造営の詳細な記録だそう。筒井寛秀様はここに書かれている地を若い時に小林剛先生方について全部訪ねられたそうです。運慶の人生を考えると重源と陳和卿が無視できなくなりました。

 

単純に東大寺大仏殿を見てあまりの大きさに圧倒されたり、重源が勧進したと読んでも、実際を知らないと本当の「大変」さがわからないってことですね。材木の調達や運搬がどんなに大変かつぶさに拝読して圧倒されています。運慶はこの人たちとともにいた。そういうことなんです。

 

今日の空なんですけど、全方位でこういう状況でした。先ほど福島で地震がありましたがまだ地殻は落ち着いていないようです。

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この空、もしかしたら福島の地震M6の直前の空だったのかもしれませんね。

 

びっくりしました。仙覚の年譜を見ていて。九条道家は実朝誕生の翌年生まれなんですね。鎌倉で若くして亡くなった実朝と、京都でその後くらいから権力者になっていく道家が同じ世代だなど考えたこともありませんでした。年譜を作成するとこういう発見がよくあります。

 

10月7日

昨夜は『別冊太陽』の東大寺特集号を拝読して就寝。重源のことも詳しく。以前国分僧尼寺の会に参加していたから懐かしいお名前も。ここにも横内先生が書いてらして中に大須観音のことも。こちらも懐かしく思い出しました。せっかくお会いしていたのに知らないとはいえ惜しいことをしました。

 

昨日ご恵送頂きました。『鎌倉』123号。鈴木良昭先生の「鎌倉大仏存疑 下」を楽しみに拝読させて頂きます。こちら、「上」が面白かったので続きを待っていました。鈴木先生の『とはずがたりと鎌倉』はとはずがたりに関心ある方には絶対お薦め。鎌倉在住でいられるから化粧坂の辺り詳しいです。

 

10月8日

鈴木良昭先生の「鎌倉大仏存疑 下」を拝読させて頂きました。とにかく鎌倉の大仏はあれ程巨大なのに謎が多くて不思議。でも私にはちょうど運慶の事跡を仙覚の年譜に落とし終わってさらに重源も読み終わったところでの鎌倉。啓示のように鎌倉に戻らせて頂きました。今日あたりから原稿に戻ろうと。

 

たまたま重源を読み終わった直後に鎌倉大仏のご論考を拝読して、鎌倉では重源にあたる人物が浄光で、それは鎌倉禅研究会の高橋秀栄先生のご発表で知っていたけれど、重源のような活動が鎌倉大仏ではわからないもどかしさを感じました。京と違って公家の方のような脇からの日記がないのが致命的ですね。

 

鎌倉大仏は仙覚の小説に関係ないつもりで鈴木先生のご論考を拝読して終わりにしたいのですが、ご論考では頼経の初上洛がとりあげられていて、六波羅に建てた上洛時の新御所で頼経主催で(実は裏で父道家先導)仁王会が開かれていてそれが大仏に関係あるだろうと。頼経は仙覚に万葉集を命じた人です。

 

調べ物が一段落したからなんとなく思考が原稿に入っていて、はじめにの玄覚の部分はそのままだけど、第一章を北条時政と伊豆にしょうかと。結局時政を書かなければ比企の乱ははじまらないのかも。もう原稿を開いて再開していいところにきているのだけれどまだ引っ張って見ないでいます。

 

気分転換に吉祥寺にでて寛ぎながらざっと書いてあった分の原稿に目を通したのですが、やはり再構成し直さなければならないかも。でもそれをしたら今度こそ流れに乗って書ける気がする。

 

10月9日

おはようございます。昨夜から今まで書いた原稿を見返しています。はじめにの部分の第一章玄覚の回想はそのまま。第二章として進めていた岩殿観音は先送りに。反古にした名越・浜御所をこれから生かして「北条時政と名越・浜御所」として復活。ここに仙覚が生まれる以前の歴史を書き込んでいきます。

 

第134回 鎌倉禅研究会のお知らせです。今回の会場はいつもの建長寺様ではなく円覚寺様です。 10月12日(木)13時~16時半 於円覚寺。第一講「建長寺開山蘭渓和尚語録の現代語訳」法政大学講師・建長寺研究員彭丹先生。第二講「律と禅と浄光明寺」浄光明寺住職 大三輪龍哉師

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仙覚の人生をみてなかったら今の政局にこんなに敏感にならなかったと思う。仙覚は比企の乱で存在を消して生きる人生を強いられ、やっと頼経に万葉集を命じられてかかったら宮騒動で頼経が帰洛。次の宗尊親王も更迭されて帰京。比企に帰って晩年を過ごします。ある意味政局こそが人生を左右します。

 

図書館でたっぷりコピーしてきました。運慶関連で。運慶の屋敷跡が新編鎌倉志に乗っていると読んで。運慶が東国に下って仏像を彫ったか、西で造って送ったか、決着がついていなさそうなので私なりに考えなくてはならなくて。

 

新編鎌倉志より。「仏師運慶邸跡は、正宗屋敷の西なり。仏師運慶が宅地と云伝ふ」←鍛冶正宗屋敷跡は「勝橋(寿福寺前の石橋)の南の町、西頬也。此所に刃の稲荷と云小祠あり」←ここって、鎌倉駅西口すぐのホテルかまくら辺りにある写真のところでしょうか。小さな稲荷もありますし。

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運慶が東国に居住して仏像を造ったかもしれない空白の時期は二回。一回目は願成就院・浄楽寺・樺埼寺の造仏と続き永福寺も手掛けたかもしれない壮年期。二回目は晩年で実朝・義時・政子の造仏。もし鎌倉滞在が事実なら新編鎌倉志の場所は二回目の晩年期のでしょう。一回目だったら名越だったと思う。

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2017.10.7 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(69)慈覚大師円仁の生誕地「岩舟」に行きました。【その2-円仁が修行した大慈寺】

慈覚大師円仁が9才から15才までの6年間にわたって修行された大慈寺が今回の岩舟訪問の最大の目的でした。往時の伽藍は天正年間の戦火で焼失したそうで、円仁のいらした当時の面影は残っていませんが、ここはたしかに円仁のいらした場所と思いつつ巡らせて頂きました。時間がなく、伝教大師最澄が建てられた相輪塔のところまで回れなかったのが心残りです。

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今はまったくその気配のない円仁がいた当時の最盛期の伽藍風景。五重塔の模型が往時をしのばせてくれました。

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『入唐求法巡礼行記』を世界三大紀行と評価され、みずからも英訳して世界に紹介されたライシャワー大使もこの大慈寺を訪れました。その記念碑です。

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伝教大師最澄の建てた相輪塔はこの上にあるようでした。

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もっとゆっくり、できたら慈覚大師堂の中に入れていただけるご縁をもってまた訪ねさせて頂きたく思います。

でも、凄いことですよね。あの慈覚大師円仁がいらしたまさにその境内を訪ねさせていただいたなんて! ありがとうございました。

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2017.10.5 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(68)玄覚と善峯寺、宇都宮氏のこと。無著像から『摂大乗論』へ

10月4日

RTのアストラーベ。薔薇の名前はほんとうに視覚的に素敵。仙覚の小説でアストラーベになるものはないかなあと思ってしまいました。考えます。

 

仙覚の小説は仙覚は誰かを学会で発表してでもそれは論文にしても一般に知れ渡らないからと小説化を目指したもの。論文ならとっくに書けていますが小説は肉付け部分が大事だからこれは~と立ち止まるとそこに時間を費やして進まない。やっと肉付け部分ができたと思ったら今度は視覚的な配慮かあ~。

 

メモ: 玄覚と善峯寺。宇都宮氏の氏寺だったら、時朝と仙覚の交流が子息どうしの交流に残っていて、宇都宮氏を介しての玄覚の善峯寺もある?

 

中秋の名月。私も撮ってみました。月は雲があると風情がでますが今夜は少し多め。周りに紅彩ができたり消えたりでした。

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玄覚と善峯寺の件。玄覚が親しかったのは二条家の定為で為氏の子。為氏は笠間時朝の甥だから、定為は時朝には甥の子。やはり玄覚の善峯寺との関係は善峯寺を氏寺とする宇都宮氏との縁でとみていいようです。

 

10月5日

おはようございます。突然思考が時朝モードに笑。以前異本紫明抄の編纂者問題で時朝を追っていた時は鎌倉に立脚した視点だったから在京していて空白ばかりの時朝をある意味低く見ていました(失礼しました)。でも善峯寺が氏寺と知って京での人脈を考えたら活動の華麗さも見えてきて思考が一新です。

 

私の宇都宮氏の原点は『沙弥蓮愉集』(七代景綱)。『前長門守時朝入京田舎打聞集全釈』(時朝)の二冊。たまたま地元の図書館にあって。なにもわからない時期でも面白く夢中になって読んでいたのですが、その知識があって鎌倉と京との交流を見ているから楽しい。そこに善峯寺の視点が投入されました。

 

私がまったく宇都宮氏を知らなかった時のような状態の方に豆知識: 五代頼綱が時政の娘を妻にしていたので牧氏の変で謀反の疑いをかけられて出家し蓮生に。京に移って嵯峨に住み定家と交流し百人一首に。為家に娘を嫁がせて為氏が生まれます。法然弟子の証空に師事して三鈷寺に。その近隣に善峯寺が。

 

栃木県博の宇都宮氏展では法然上人絵伝から法然の葬列の場面が展示されていて、蓮生と弟の信生法師(時朝の父)が先頭で率いていてびっくりしました。こんなにもこの人たちが京で力を持っていたのだ!と。百人一首でその財力がわかっていたはずなのに。案外宇都宮氏は奥州平泉に匹敵するのかも。

 

宇都宮氏展では『沙弥蓮愉集』や『前長門守時朝入京田舎打聞集』、『新式和歌集』が並んでいてまさか実物を拝見できるなんてとビックリ。(TLに流れてくるのは明月記…だったから)。それらが冷泉家所蔵なので冷泉家と二条家と玄覚はどちらと親交あったのだろうと悩んでいたのですが無駄でした。

 

ふと運慶は無着の摂大乗論を読んだはずと思い本棚を探してでてきた本。摂大乗論は難しいから唯識三十頌から始めるといいと仰って頂いたとおりに摂大乗論はありませんでした。でもなぜか唯識に拘って読んでいたころのこれらのご本、懐かしいです。

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『仏教の思想4 認識と超越〈唯識〉』の扉は無着像。この仏像との最初の出会いがここでした。まだ運慶と結びついてません。本にはもう汚いほどに黒インクの線引きと書込み。ヒーマラーヤは雪の蔵の意のところにも。私のヒマラヤへの憧れの原点です。

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もう少しで膨大に集めた運慶資料の復習終わり。最初は六波羅蜜寺地蔵菩薩が目的だったのにいつのまにか運慶その人を。一応仙覚の年譜に落とし終わってその確認の作業が復習になっています。少し認識と超越で頭を冷やしてから仙覚の小説に戻ります。仙覚を取り巻く世界が比企の乱だけでなくなりました。

 

こういう雲が出ています。

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月に虹色の暈ができて綺麗です。

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2017.10.3 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(67)栃木県立博物館「宇都宮氏展」で時朝造立の仏像を見て。円仁『入唐求法巡礼行記』のことなど

10月2日

笠間時朝は仙覚とかかわり深い人なので栃木県博の宇都宮氏展は必ず見なければならない展覧会。そこに山本勉先生のご講演をみつけ申し込ませて頂いたのですが、体調も含め出かけるのが難しい状況の昨今、こんな機会は二度とない気づいて円仁生誕地と下野薬師寺を回り、結局ご講演は諦めました。なのに、

 

宇都宮氏展の会場を巡ったら時朝建立の阿弥陀三尊像など立派な仏像の数々。山本先生の昨夜の「宇都宮氏の仏像」というタイトルを思い出し、今講堂では先生がこのお話をされている最中と思ったのでした。慶派らしい仏師の彫りは運慶展で見たばかりです。それにしても仏像を見ても時朝只人ではないです。

 

笠間時朝は宋版一切経を奉納してまでいる人物です。鎌倉の御家人というより在京が長いから京の知識人との交流も多く、そういう状況のなかで真観や仙覚と知り合ったと踏んでいます。真観は関東に下っても鎌倉を通り越してまっすぐ時朝のもとに。歓待されて結構長く滞在しています。あの葉室光俊がです!

 

昨夜は疲れて見る余裕なかった宇都宮氏展の図録。今日の会の方に見て頂きたくて持って出て私もこれから拝見。それにしても遠いのが惜しいくらいに凄まじかった充実の展覧会でした。明月記あり、親鸞真筆の国宝まであったりで。

 

秋明菊。昨日の栃木県立博物館でたくさん咲いていました。まもなく目的地に到着です。

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今日の会は永原慶二先生からはじまりそうそうたる先生方の薫陶を受けていられる方々の集まりなのだけれど、宇都宮氏展の図録を回したら宇都宮氏に関心がないかご存知ない。百人一首との関係に驚かれたり、時朝って誰?となったり。政治の中心にいないとこうも歴史学では無視されるんですね。驚き。

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びっくりしていると、貴方は文化から入ってるからよ、私たちは文化は除外するからと。鎌倉の源氏物語問題でうすうすその結論に達していましたが、まさかこうもあからさまにそうだったとは。習ってきた歴史、流布している歴史は文化を除外した表舞台面だけの世界でした。見えてない世界はまだまだ。

 

シャンシャンちゃん。駅の掲示板で。

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両毛線で小山から高崎に向かう手前に岩舟があります。車窓に3.11で崩れて肌が露出した岩船山が見えて、あれだ! と興奮した一枚です。昨日は宇都宮に向かう途中古河を通り享徳の乱を思ったのですが、やはり古河公方の古河でした。

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PTの一遍聖絵の小野寺。昨日訪ねた慈覚大師円仁が修行された大慈寺の近くです。道筋なので寄る予定でしたが時間の関係で諦めて博物館に行ったら展示されていて感動。今日までだったなんてと改めて感動。

 

時朝のことなのだけれど、山本先生がコメントを下さったようには宇都宮氏展会場で時朝造立の仏像の前で捉えられてなかったのですが、とにかく「時朝ってこれほどの仏像を幾体も造る人だったんだ~」と時朝への敬意が広がりました。それも仏師が慶派で、時朝は一流を知っていたのだなあという感慨です。

 

今日、貴方の原稿はどれくらい進んだ? と尋ねられて「まだ全然です。先生のご本より先にかかっていたのに…」と答えました。先生のご本はもう今月刊行。先月「表紙ができた」と見せて頂き、今日は「版下?(中の文章の部分)」を見せて頂き、来月は実物を持ってきて頂きます。私も頑張らなくては!

 

10月3日

なぜかヒマラヤ杉が大好きです。枝垂れた枝が長い人の手を思わせるからでしょうか雪男を並列して感じます。以前書いた小説にその描写をめんめんとして、小説の筋とは無関係のその描写が勝手に自分で気に入っています。見ると撮る癖は今でも。栃木県立博物館の正面口にありました。

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運慶特集号のPenを読んでいて永福寺出土の焼けた仏像の小さな片腕を思い出しました。雲中菩薩位のです。印象が膨らんでしまっているかもしれませんが、ふくよかでしっとりした張りのある彫りが胸に残っています。Penにあった円成寺大日如来像の腕の描写がまさにそれでした。可愛い手でした。

 

寝ろのハッシュタグがついていたと読んで当時を思い出しました。東北の震災時私はツイッターを始めたばかりでした。震災の発生でツイッターがリアルタイムの情報発信力を持っているのに気づき、ツイッターがまだ普及していなかったので私が得た情報を常連だった掲示板に挙げてお知らせしてたのでした。

 

その時に匹敵する異常時なのだなあと実感しています。

 

拝聴したかった宇都宮氏展の永村真先生「宇都宮氏の信仰」。図録にあって拝読していたら善峯寺の写真が。?と思って読んだら、なんと、宇都宮氏の氏寺と。宇都宮氏には為氏が関係しているし、玄覚はなぜ善峯寺に行ったのだろう。為氏は二条家。玄覚とは冷泉家の関係だった気がするけど、違ったかなあ。

 

三毳山ふもとの円仁生誕地に建つライシャワー大使来訪記念碑です。円仁は宋に渡った時の紀行『入唐求法巡礼行記』を残していてライシャワー大使が西遊記・東方見聞録とともに世界三大紀行に推しています。そして自ら岩舟も訪ねられてその記念碑。石が磨かれ過ぎてかえって肉眼では読めませんでした。

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また入唐求法巡礼行記に戻るかな! 円仁の世界、惹かれます。(なにか戻ってきてるのかも)

 

続 日蓮も読んでいます。鎌倉にそうやって流布していたのなら仙覚も読んだものとして原稿を進めます。

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2017.10.3 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(66)運慶願経から兼実との関係は? 円仁の生誕地、栃木県岩舟を訪ねました。

9月30日

承久の乱がキーワードで運慶と仙覚が同時期に京都にいた可能性があることから運慶を探って、六波羅蜜寺に運慶の工房があったらしいことから時政が浮上して、そんなことから仙覚の上洛時のエピソードがリアルに浮かんできて、またとんでもない妄想にまで発展してきています笑。時房関連で。

 

基子さんの姉が光能に嫁いでいて、光能は既に他界していますが彼女は健在で、たぶん上洛した仙覚を世話したのは彼女。基子さんも仙覚を出産したあと西に向かったというから京都にいます。光能夫人、基子さん、仙覚。そこに時政と運慶。さらに東寺の円顕や九条家の道家。役者が揃ってきました。

 

と、ここまで書いてまた九条家が気になってきました。運慶は兼実とどれくらい接触していたのでしょう。昨夜載せた地図。運慶願経を書写した唐橋法住寺辺は、やはり思ったとおり、東福寺に近いです。兼実は運慶の父康慶の興福寺南円堂造仏事始を東福寺境内にある最勝金剛院で執り行っています。

 

メモ: 文覚を年譜にいれること。

 

9月30日

おはようございます。運慶展を観て体力に自信が回復したらやはり伊豆の韮山に行きたくなり、運慶展のバスツアーで韮山に行って夜運慶展貸切観覧があったのを思い出して見たらもう満席。時政の韮山、結構縁がないです。でも明日は遠出。昨秋からの念願の取材にやっと行かれます。なので今日はその準備。

 

運慶展。初日に行って圧倒され、無着像も北円堂の再現も、長岳寺の仏像の思ってもみなかった清らかさも、みんな凄いと思っていたのですが、それは運慶という一人の仏師の人生に照らし合わせての理の感動でした。三日たっていま心の中心にあるのは円成寺の大日如来像。ほとけ様として鎮座まされます。

 

書店で運慶展特集を見比べてPenを買いました。もっと凄い特集号冊子はあるけれど研究や発見に関わる意気軒昂なのばかりで、私が知りたい当時の環境がよくわからない。Penを選んだのは単純に東大寺や興福寺の境内図が載っていたから。北円堂とか西円堂とかいっても初心者にはピンときません。

 

10月1日

半年ぶり以上の久しぶりの遠出でとにかくカメラだけは入れあとはもう成り行きといった状況で出てきました。仙覚の小説に取りかかった最初から西の善峯寺とともに行きたかった場所。善峯寺はTVで見てあまりの境内の高低差に無理と判断。諦めました。体調を崩して東のここも無理と諦めていたのですが。

 

ひたすら広い平野を走り続ける車窓を見ていると馬に乗った武士が鎌倉に向かって駆け抜けてゆく姿が見える気がする。この辺りを通るといつもそう。実際武士たちはそうして鎌倉に集結していたのですものね。この辺り、もしかして享徳の乱地域? よく知らないけど。

 

この山を見たくて来ました。慈覚大師円仁の生誕地、栃木県の岩舟です。この山の威容は石を切り出したから。江戸時代くらいからだそうで、円仁が見た岩船山はまだ緑の山だったでしょう。円仁の生誕地はこの岩舟と少し先の壬生の二説がありますが。

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慈覚大師円仁が修行し、ここから先輩の僧侶に連れられて比叡山に行ったという大慈寺です。往時の修行寺の面影はなく、古い大師堂がひっそりとありました。

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みかも山。円仁の生誕地はこの麓にあり、銅像が建っていました。東山道が通る駅で、順徳天皇の八雲御抄に円仁の生誕地とあります。

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両毛線岩舟駅は無人駅でハブ駅の小山に戻ってお昼の休憩。これから次の目的地に向かいます。

 

帰りの車内です。今日の散策の二つ目は下野薬師寺跡。金沢文庫初代長老審海はここから来られました。私が金沢文庫の展示を観に通うようになったのは1999年からで、そのころから訪ねたかったのがやっと願いが叶いました。回廊跡の奥に復元建物が。

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このまま寝過ごしたら鎌倉に行ってしまう……。湘南新宿ライン。宇都宮から 笑

 

下野薬師寺は、奈良時代に東大寺と筑紫の観世音寺と並んで全国に三つしかなかった戒壇院の一つです。審海がいたころも大きくて格が高く、審海は鎌倉に呼ばれても来るのを渋ってらしたみたい。尊氏が全国に安国寺を設けた時に下野はこの薬師寺の地をあてたみたいで、いまは安国寺が建っています。

 

下野に奈良がありました@下野薬師寺 まだ時間がとれないのですが、この一枚だけ早くご紹介したくて。

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2017.10.2 ツイッターから転載…仙覚の小説覚書(65)慈覚大師円仁の生誕地「岩舟」に行きました。【その1-三毳山と生誕地】

仙覚がその悉曇章で万葉仮名に目覚め、万葉集研究者を目指すことになった慈覚大師円仁。円仁の生誕地は栃木県の岩舟町です。壬生町の説もありますが、私は岩舟町説をとりました。

万葉集に三毳山が歌われ、順徳天皇は『八雲御抄』で「みかほの関」「みかほの山」を円仁の生誕地としています。

三毳山は両毛線岩舟駅ホームからすでに眺められました。駅でタクシーに乗っていろいろお訊ねして教えて頂き、まず三毳山を全景で望めるところに。

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岩舟駅では目の前に岩船山がそそり立っていますが、三毳山を撮った場所からだとこのように見えます。

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円仁が9歳までいたという寺院、高平寺の存在を私はガイドブックでは把握できていませんでした。お世話になったタクシーの運転手さんが教えて下さって驚き、回って頂きました。

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円仁の生誕地は三毳山の麓にありました。鬱蒼と茂る樹木の中に整備されて高平寺別院として誕生寺が建てられています。

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車もすれ違えないくらいに細い山道の奥まったところにひっそりとありました。でも、別院「誕生寺」が建てられて、土地の方の慈覚大師円仁に対する敬意・愛着といった誠意が感じられるあたたかな空間でした。

それを感じたのは、順徳天皇が配流先の寺泊で、佐渡に渡るまでの数か月を過ごされた行宮があった場所に似た感じがしたからだと思います。土地の豪族の五十嵐氏が順徳天皇を慕って佐渡の天皇墓に正対する位置にお堂を建てた、そのお堂の感じが似ていたのです。心があふれて感じられました。

下の写真は、円仁が比叡山に上るまで修行したという大慈寺に向かう途中の車窓から見えた標識。時間がないから回るルートに入れられなかった円仁のお母さまのお墓の案内です。

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地元の小学生は慈覚大師円仁を「ぼくたちの先輩」というそうです。奈良時代の、遠く比叡山にまで行ってしまった円仁を、現代でもまだそんなふうに身近に感じて話すなんて、素敵ですね!

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