6月26日
おはようございます 新潮社校閲講座終了後に手にした7月からの講座一覧表を拝見していて 物語論 という分野があることを知り 気になって図書館で本を借りてきて拝読 というのは Wikiで検索した時にウンベルト・エーコも物語論にのっとって薔薇の名前が書いたというような概略だったから 言語学と
表裏一体のような文学研究のよう 図書館にあったのはジャン=ミシェル・アダン『物語論ープロップからエーコまで』 2004年刊 ちょっとこだわるのは 私は結構文学を勉強してきたと自負していたのに この物語論の登場を全く知らなかったこと 鎌倉の源氏物語に取りかかったのが1999年だから 私は寺院揺曳
を放置していたのと同時に 文学論からも遠ざかっていたのだという空白の期間をつけられて愕然としたのでした さらに読んでいたら 私が学んだヌーボー・ロマンは「すでに古典となった」なのだそう! 思わず苦笑 ここにはエーコとかシモンとか 私の範疇の小説家さんが蠢く 無視できなさそう
ジャン=ミシェル・アダン『物語論』より: 時間的進行にはモチーフの連鎖が取ってかわり、それらは論理的必然性に基づいて一から他が生じるのでなく、類似や形式的対照の原理に従って、クロード・シモンの言う練られた言語の「音楽的」秩序に従って結合されるのである。
クロード・シモン: 小説を、波乱とか教訓としての結末とかによって例証される、一つないし複数の設定された意味を担う教育的な寓話と見なすことがもはやできない以上、私たちに何ができるのでしょうか。(中略)もはや私が心がけるのは、小説の文章のみならずテクスト全体について構成を探し求めること
しかありません。つまり、なんらかの心理的ないし社会的な本当らしさを基準としてではなく、テクストそのもの、練られた言語の論理、フローベルの言う「音楽的」秩序に属する的確さを基準として成立する構築物を探求することです。
おかしいですね。シモンはヌーボー・ロマンの作家に入れられているけどはみ出てる。そのシモンが私の創作の原点だからエーコに惹かれるのかも、となんとなく納得
仙覚を書いていると どうしても時代小説だから 時代小説そのものの文体になってしまう そこを抜けたいんです
玄覚の語りではそれができているのに……
寺院揺曳の校正 今日は第二章「冷泉為相」その二 読み返したら「往復の途次為相は佐々目遺身院を眼にしたかもしれない。頼助と擦れ違っていたかもしれない。少なくとも活発な佐々目遺身院の儀式、法会の気配は感じとっていただろう」 こういう人と人の重層がこの歴史随想の基盤です

こんなところに両統迭立が 鎌倉後期はこの両統迭立を理解しておかないと 鎌倉幕府自体を理解できないんですよね
今日はスマホを家に置いて出てしまったので 途中呟きができなかったけど 道中のお供はRTの橋本陽介先生『ノーベル文学賞を読む ガルシア=マルケスからカズオ・イシグロまで』でした 面白かった! です
今日は新潮社漢字講座全三回の最終日 楽しかったのですが たまたまRTさせて頂いたのが同じ新潮社講座で7月開講の物語論の講師のご著書 橋本陽介先生『ノーベル文学賞を読む』 物語論に目下興味津々 漢字講座の楽しかった事とで呟きが錯綜笑
橋本陽介先生『ノーベル文学賞を読む』はじめにより: ノーベル文学賞を巡る言説において、意外に見過ごされているのが、受賞作家の作品の質の高さである。世界中に様々な文学賞があるが、やはりノーベル文学賞の水準は高い。← なんか久々に高い水準ということが基準にのぼったという感じ嬉しい
新潮社漢字講座の最終回で これだけは今日のうちに呟いておきたい余韻を RTの部首ガチャ 何日か前にTLに流れてきたのだけど さすが!講師の小駒勝美先生が入手されたのを持ってらっしゃいました 受講生さんに笑いが 講座終了後に見せて頂きに先生の周りに集まって歓談 マニアックな世界っていいですね 受講記念の新潮社ノート 三冊になりました笑

6月27日
ジャン=ミシェル・アダン『物語論ープロップからエーコまで』より: 『薔薇の名前』の結末「自分自身にこの物語を語れば語るほど、それが一方で様々な事件の、他方でそれらをつなぐ時間の、自然な要素連続のかなたへと延びる緯糸を秘めているかどうか、私にはますます分からなくなってしまう。間もなく
死を迎えようとしている一介の老修道士にとって、辛いことだ。自分の書いた文字が何か隠れた意味を含んでいるのかどうか、一つならずたくさんの意味か、あるいはそこにはまったく意味が含まれていないのかどうか分からないのは」← 読んだ時、この終わり方になんか唖然として意味がわからなかったの
ですが、物語論的結末だったのですね。薔薇の名前ほどのストーリーをもつ作品なら、当然明確な結末というか断定的終了があるはずだし、それに向けて読んでいるとばかり思ったのに突然はぐらかされたような。でも源氏物語夢浮橋で慣れているから動揺はしませんでした。まさに物語の王者源氏物語と思う!
仙覚の小説を書くにあたり 文体を考えて源氏物語をお手本に と考えた時があります 源氏物語には明確な三人称的文体・独白等の他に 草子地というのがあって これは誰? みたいな 突然誰かわからない(多分居合わせた女房の)文章が入ります その自在さが私には魅力で それは近代のかちっと
して明確な最初から最後まで一貫した三人称文体の小説ではあり得ないことなのですが 私はあえてそれをしてみたいと思ったのでした でも 物語論を読んだら 紫式部の筆致はまさにそれ 小説はなにも近代のリアリズム小説のように なにからなにまでお見通しのように書かなくていいんですね と納得
早く仙覚の小説に役立てたいのと 早くエーコにたどりつきたいのとで 根を詰めて昼夜を問わず物語論を読んでいたら すっかりバイオリズムが崩れて体調不良 寺院揺曳の校正を淡々としているほうが健康的 焦りは禁物ですね 読むのはやめて 道中のお供程度に軽く考えて 脇に置くことにします