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2019.9.30 ツイッターから転載…日々雑感、清輔と袋草紙のことなど

9月28日

「仙覚は素性を隠して生きる苛酷な運命にあったからこそ、膨大な『万葉集』の研究に没頭し、世情を離れて、真実をみつめる人生を送ったのではないでしょうか」 寄稿した原稿の校正が届きました いつも仙覚さんの文章の最後はこういうふうに締め括ります 仙覚さんの万葉集研究 それくらい凄まじいです

 

おはようございます 添付の写真は遊びでミニチュアシリーズ 鎌倉に行くと店頭によくこういうミニチュア陶器が一個100円とか二個100円とかで売っていて 可愛いのでついつい買ってしまいます笑

 

妹がキルトが好きで山口百恵さんの『時間(とき)の花束~Bouquet du temps』を買っていて 妹の先日の入院で手術を待つあいだ私はそれを見せて貰って読んでいたのですが 綺麗な人は綺麗な仕事をするくらいにしか思っていなかった百恵さんのキルト作品 なんと カメラマンが張り付いて外に出られない

 

苦しい生活のなかで 家でできることといえばキルトだった という積み重ねでできていた作品なのでした 私はそれを仙覚さんの万葉集研究と重ね合わせて感じたのですが 人事を越えた凄まじい仕事は結局一心不乱に没頭することで生まれるのだなあと 籠って書きます私も と敬意の思いでいっぱいです

 

二条天皇への清輔の関与がだいたいわかりました 袋草紙は先にできていて 評判を聞いた二条天皇が献上させた その後清輔は昇殿を許される それが私が丹後内侍が出仕したと推測するのと同じ頃で二条天皇の崩御まで四年間 その間清輔は二条天皇の師のような関係で万葉集をお教えしたのでしょう

 

清輔と丹後内侍の出仕が同じ頃って面白い 私も鎌倉ペンクラブに入った時の同期が何人かいらして 同期だからと心配したり活躍を応援しあう そんな温かみのある同期 丹後内侍にそうさせようかな!

 

清輔と丹後内侍の出仕が同じ頃って面白い 私も鎌倉ペンクラブに入った時の同期が何人かいらして 同期だからと心配したり活躍を応援しあう そんな温かみのある同期 丹後内侍にそうさせようかな!

 

昇殿を許された年、清輔は59歳 丹後内侍は頼朝より少し年上の設定だから18歳くらい どう動かそうかしら

 

ふつうなら老人の清輔が余裕で若い丹後内侍を労るだろうけど 頼朝の乳姉弟の丹後内侍はしっかりものの設定だから 逆になりそう(笑)

 

年譜をみると ちょうどその頃清盛が出資して後白河院に蓮華王院を建てている頃 なんかいろいろ蠢いています

 

これでやっと動線的文章が書けます

 

まさか 二条天皇の題詞を高くという仙覚さんの支持した万葉集問題から 清輔と丹後内侍のこんな話になるなんて!

 

今日のブラタモリ【比叡山】 もう体力的に行くことはないと思うけど もう一度行って訪ねたかったのは常行堂 その常行堂を今日は放映していて正座して魅入っていました しかも私が行っても外観を拝むしかない常行堂のそのなかを タモリさんの一行が入って 僧侶の方の案内で扉を閉めて実際に常行を

 

南無阿弥陀仏を唱えながら90日 横になるのを許されず ひたすらお堂のなかを巡る行 と そこまでは読んで知ってたのですが 僧侶の方が「私はこう発声します」と見本で唱えて下さったのが な~~~~ む~~~~ あ~~~~ の一音の長いこと なだけで巡る四辺の一辺を歩けそう こういうことは

 

本で読むだけではわからない 私は一辺を数回以上の南無阿弥陀仏を唱えるくらいに想像していました にない堂でもあるこの常行堂 なんかわからないけど私の仏教観の原点 憧れです

 

9月29日

おはようございます 鎌倉の方から届いたチラシ 鎌倉にはロシアから亡命して七里ヶ浜に住み 鎌倉を日本のバレエの発祥地にしたエリアナ・パヴロバさんがいられました そこにお子様を通わせていらした方々が貴重な遺品や資料を保管されています 鎌倉の源氏物語でお世話になっている素敵な方々です

 

ただいま《朔》です

 

先程投稿のエリアナ・パヴロバさんのイベントは この湘南邸園文化祭のなかの鎌倉エリアです 湘南には古い素敵な邸宅がたくさん残っていて その文化を保存されようとしている方々の活動です

 

朝の連投になりますが 私が鎌倉で最初に講演させて頂いたのも 鎌倉の古民家を社屋にされている鎌倉投信邸でした 鎌倉でも源氏物語が受容されていたということに発奮した協力者の方が たまたま鎌倉投信様が鎌倉に移ってきて古民家を社屋にという新聞記事を見て 直談判で会場にお借りしてのでした

 

鎌倉の方のなさることはこんなふうに雅です ちなみに最初は写真展をとの申込だったのですが 狭いからそれは無理 講演会なら との鎌田社長様のお話で講演になりました 2010年11月のことです 以降 講演が定番になって 写真展は鎌倉ではまだ開いていません 比企ではしました

 

やっとここに 資料のなかから掘り出しました 村田正博先生「仙覚『万葉集註釈』の形成ー清輔『袋草紙』とのかかわりをめぐってー」 仙覚さん研究をはじめた最初の頃に集めた資料のひとつです 今やっと袋草紙がどういうものかわかって 再読するために出しました 黄色いマーカーがいっぱい引かれています

 

それをざっと目で追ったのですが 私が知りたい六条藤家の万葉集のことなど 村田先生のご論考は精神的な面で追っていられるから凄く貴重です

 

メモ: 村田正博先生の仙覚さんと袋草紙 拝読し最初に読んだ時よりわかって楽しく で 頭の整理 清輔は俊成と同時代だから次点の時代の人で 仙覚さんは俊成の孫の為家の時代の人 清輔の袋草紙をどこで入手して読んだのだろう 寛元四年からの二十年間に でも京都在住時代でしょうね 確実に

 

清輔さまは仙覚が万葉集の註釈の書をなすにあたり、その精神をいただいた方です と やっと基子さんの言葉で清輔の立位置を示すセリフが出てきました 村田先生のご論考を拝読して

 

9月30日

おはようございます 新しいフォロワーさんが多くなられたので以前の再掲ですが 昨日投稿のはじめて講演をさせて頂いた鎌倉投信邸当日の続きを 打合せの時庭に大きな紅葉の木があるのを見て 主催者さんが講演を源氏物語にちなんで紅葉賀と 鎌倉投信社長の鎌田様も恐縮するばかりに協力して下さって

 

せっかく大勢の方がみえるのだからと青々とした真新しい竹垣に(三枚目奥に見えています) 三枚目の手前の紅葉は華道家さんが大田区の自邸から色とりどりの紅葉の枝を伐って運んで活けて下さったもの 四枚目は終了後の夜の庭で華道家さんが壷に活けた紅葉がライトアップされて素敵でした

 

無名の私の講演になぜ鎌倉の方がこんなに協力して下さったかは ひとえに鎌倉の方が「鎌倉は武士文化だけでなく源氏物語の文化もあった」ことに驚喜されたからです それくらい10年前の鎌倉では鎌倉に源氏物語 ひいては公家文化があったことが知られていませんでした 10年の活動で大分広まりました

 

薔薇が咲いています 手入れに手が回らなくて気がつくと咲いている 枯れてしまった花も幾輪か ごめんなさいと詫びながら でも咲いているのを見ると嬉しい

 

九月尽の雑木林@井の頭公園

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2019.9.28 ツイッターから転載…日々雑感、清輔『袋草紙』のことなど

9月26日

おはようございます 昨日はツイートをしなかったんですね TLを遡って気がつきました 疲労蓄積 気がつくと寝ていましたこの二日間 でもたぶんそれは次を書く前の恒例の頭の整理 睡眠がなによりの展開への繋がりです で 書きはじめました 最初の一行を今印字 思考はPC 推敲はペンと紙でが習性

 

余裕ができたので久々に瀬戸蔵ミュージアムで撮った写真を 可愛い! と思って撮ったこれらの写真が 封印していた撮影意欲の解禁になりました それからはこの展示フロアで撮りまくり笑 可愛い! は健康ですね

 

メモ: 清輔の袋草紙 二条天皇に奏覧だけれど 天皇の即位前から着手していて即位の年に奏覧 内裏和歌会も即位後早々 清輔と二条天皇の万葉集等の研究は即位より前に?

 

袋草紙を図書館で見たいのだけれどもうこんな時間 仕方なく二条天皇の側から探って見えてきたもの 二条天皇は9歳で仁和寺に入り 立太子のために13歳で帰る それから後白河院に譲位されるまでの四年間 つまり後白河天皇の時代に歌や万葉集をしていたのかも 即位した翌年に内裏和歌会をしてられる

 

二条天皇 仁和寺で仏典をよく読みこなした賢帝といわれるけど 即位までの15や16歳で清輔たちと万葉集って 当時の学問事情は凄い 鎌倉の宗尊親王でこれは見てるから 背景が想像つきます 実時みたいな人がいたはず 誰だろう

 

そうっか 宗尊親王を考えればいいんだ となりました 今日の結論(これって凄い 運命的 宗尊親王に献上した万葉集の参考に 仙覚さんがしたのが二条天皇の万葉集なんて)

 

二条天皇で書き出してすらすら行くと思ったのに 二条天皇と清輔っていつから? とまた調べものに いつも書くけど筆は嘘をつかない 書き始めて ん? となり 調べ始めたのでした 今は明快

 

二条天皇が作った万葉集というと いかにも天皇が最初からご自分の意志でご自分の力で作った万葉集と思うけど 年齢からしてそれには若すぎるし 宗尊親王御所での源氏物語や万葉集愛好の状況を見ると 親王の文学嗜好を理解して実時ら近侍する者が師や環境を整えてます 二条天皇もそうして清輔に学んだと

 

清輔は たぶん 宗尊親王御所における源氏物語の親行とか 京という離れた地だけど歌の師の為家 実朝における定家で 袋草紙は近代秀歌 なんでしょうね

 

と こんなふうに二条天皇における文学事情が具体的に動いてきて 今日は収穫 丹後内侍はこの二条天皇に出仕しています 吉見系図では無双の歌人と書かれているけど 歌って 残っていない気が 同僚に二条院讃岐がいます

 

清輔が万葉集にこだわって 二条天皇に感化したのだと思うけど 明日はそれを詰めます 小川靖彦先生『萬葉学史の研究』 また出してみます

 

やっと繋がりました 清輔と丹後内侍 丹後内侍は天皇に近侍する係だから 清輔が二条天皇に万葉集を伝授している席にいた可能性 吉見系図に無双の歌人と書かれた謂れには 清輔と交流していたこともあるからかと 紫式部が実資でしたっけ 外部との取次役をしていたような そんな丹後内侍が見えてきました

 

やっと丹後内侍と清輔が動いて 説明でなく二条天皇の万葉集を書けるところに

 

9月27日

おはようございます 昨夜小川靖彦先生『萬葉学史の研究』から「新たな規範の創出ー平安後期の『萬葉集』3<二条朝>」を拝読して就寝 仙覚さんの研究をはじめて真っ先にお世話になった というよりほとんどこちらで仙覚さんの研究内容を教えて頂いたご著書です でも当時は難しくて大変でした

 

とにかく仙覚さんの世界を知りたい一心で わからなくても通しで全部読んでなんとなく把握した気分でしかありませんでしたが 二条朝の題詞が高く歌が低い のこれが今になって重要と生きてくるなんて 難しくてもスルーしなくてよかったとほっと ここを拝読していたから 今の丹後内侍の章が書けます

 

高いとか低いとか文字で説明されても 私の質としてそういうことは頭に入らないから 仙覚さんが寛元四年本ではそれまでの慣習を踏襲して題詞を低く歌を高くした が 文永三年本では自らの意志を通して二条朝に倣い題詞を高く歌を低くした というような こういうご論考は覚えきれませんでした笑

 

写真は題詞を低く歌を高くの例です 田中大士先生の一連のご研究は 残っている各地の写本のこういうことを精密に調査分類されて 現存しないといわれてきた仙覚さんの寛元四年本万葉集を突き止められたとても魅力的なご論考でした! でも複雑! もう文字を追うのだけで大変でメモメモメモ でした

 

二条天皇と清輔の万葉集研究は こういうことにこだわって それまでの形態と違うものを打ち出したのでした 斬新! 二条天皇の知力 そして気質 というものが窺えます

 

TLを追っていると暗澹とするばかりだけれど 比企の乱で生涯を抹殺された仙覚さんがこうだったわけで 私は理解していたつもりでもやっぱり概念でしかなかったとさらに暗澹 ここ近々に起きた個人的な怒りも当初は烈火のごとくと思ったのにもう現今はそれどころでない 仙覚さんの小説でこれが書けるか勝負

 

今だから 仙覚さんの小説の意味があるのだけれど 現実のほうが進みが速くて追いつかない

 

新日本古典文学大系『袋草紙』を借りてきました まさかこの古典を読むことになるとはと自分でも不思議 題名に華がないから関心外だったのですが「和歌故実の百科全書」の意だそう 万葉集も含む六条藤家の学統の全貌が見えてくるそう 万葉集! やはり特別なんですね

 

私の中世和歌はほぼ御子左家と九条家の関係から入っているから 清輔がいる限り俊成の出番はなく 亡くなってようやく兼実に取り立てられ そこから俊成の活躍が という流れで把握していたその清輔 彼の側で中世和歌を見るとまた違う色合いがあります 清輔には清輔の苦悩があったんですね

 

鎌倉の方からお電話を頂いた 仙覚さんの小説如何ですかと もう大分経ってるから電話してみました… 急ぎたいのはやまやまだけど

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2019.9.27 ツイッターから転載…日々雑感、丹後内侍と安達盛長のことなど

9月24日

しばらく京都の人脈を書きそうなので京都が恋しくなっています 光能さん どこに住んでらしたのだろう とか(それにしてもやっぱり私は京都となると奮い立つなあ笑 仙覚さんを書くのに鎌倉より京都…)

 

照合するのにどの年譜を使おうかと思ったら 時政! もともと2009年作成の丹後内侍の年譜を利用して作ったものなのだけれど この時政の年譜に運慶も滋子さんも丹後内侍も盛長も光能もぴったり収まっているなんて もっといえば 定家や光行さんも

 

図書館で二条院の集をコピーしてきました 冷泉家時雨亭叢書に入っています 解説だけのつもりが 影印本の写真があまりに綺麗で全部ではないけど一緒にコピー いいですね こういう世界

 

盛長がいつから伊豆の頼朝に近侍したか考察中 伊豆に流された最初からとしたい説があるけど 丹後内侍との間に安達景盛が生まれていて その景盛の年齢を逆算していくと 島津忠久を産んで京にいると思われる丹後内侍なのだから 盛長も在京していなければならない 丹後内侍と結婚して頼朝に遣わされた

 

と見るのが景盛の年齢からは自然な流れなのだけれど それだと吉見系図の 丹後内侍は鎌倉に下向して盛長と結婚 の記述と齟齬 ここをどう乗り越えるべきか 思考中です 一旦寝て考えます(でも こう書いてきても 景盛の年齢は動かしようがなく 吉見系図なら間違った記述というのも可能の気が)

 

一旦横になったのですが 思考が止まらなくて頭の中でぐるぐる そうこうしているうちにおのずと流れが見えてきました まず 頼朝が伊豆に流された後 丹後内侍は二条天皇に女房として出仕 天皇の崩御で宮廷を下がって惟宗氏と密通し島津忠久を産む その後盛長と結婚 盛長に伊豆に行って貰って頼朝の従者に

 

と こういう流れですね 子息たちの年齢からはこうしかあり得ない 吉見系図の齟齬は 鎌倉への下向と盛長との結婚を一つの文脈で考えないことにすればクリアします

 

盛長に引っかかって原稿に取りかかれないでいましたが やっとこれで入れます じつは盛長と遠元(基子さんの父)も気になっていて(盛長は遠元より年下だけど 遠元の叔父) 遠元まで書けば光能を登場させられるし 基子さんの姉に到達できる←ここが主眼 書いているうちに きっとそうなっていきます)

 

基子さんの姉 遠元の娘だから遠子と命名しているのですが 早く書きたい(仙覚さんの小説だけれど登場人物に女性がいっぱい 男性社会は理で動いているから事跡の連なりで心を入れにくいけど 影で支える女性陣は心で動くから書きやすいです!)

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2019.9.24 ツイッターから転載…日々雑感、福島金治先生『安達泰盛と鎌倉幕府』を拝読して、丹後内侍→安達盛長→光能に

9月23日

おはようございます イメージの払拭 これが重要なのでした 昨夜年譜を作りなおして見ていたら迷宮に入り込んでしまいそうで止めて就寝 起きたらそうだイメージを払拭しなければいけないんだと気がつきました どうしても大河とかのイメージで時代や人物像が造られています 時政がそうだったように

 

丹後内侍が嫁した安達盛長もそうでした 伊豆の流人の頼朝に近侍していたから 従来の時政同様田舎人に造られていて過小評価 考えてみれば上西門院に出仕する頼朝の近辺にいた人たちなんですよね 比企尼も丹後内侍も 従来のイメージを払拭すると二条天皇に出仕とかも自然な流れで可能です

 

こうして疑問を持たなければ 専門書を見ることもない一般の私たちは 田舎者 と映像で見させられればそれでそう思ってしまう ドラマが歴史に忠実すぎる必要はないけれど 正反対のイメージを押し付けてくるのは止めて頂きたいです

 

古いご論考を拝読していると 昔は学者さんは皆「偉かった」から 視点が凄い上から目線 最初にそれを感じたのは既に鎌倉の源氏物語をしている時で 光行が地下の役人だからこんなことのできるはずがないと 人脈もないはずだからそんな貴重な写本を借りられるはずがないと そんな論調 でも調べたら

 

光行は地下の役人どころか京・鎌倉を繋ぐ重要なパイプ役として鎌倉に遣わされてきていたんですよね 文献でとか官位や役職でしか人を見ないからそういう論調 私がおかしいと思って調べ始めたのは 鎌倉の方に吾妻鏡では光行が重要御家人より上席に座っていると言った時 鎌倉の方が驚いて 貴方 それ

 

大変なことよ! とほぼ血相を変える勢いで言われたから そして調べて後白河院と頼朝を繋ぐために派遣されてきたとわかったのでした 吾妻鏡の記事に疑問を持つこととか 文献上での「偉さ」でなく 人間としての視点で学問もあるべきと痛感しています

 

そういえば 時政も盛長も生涯官職につくことがなかった それが多分従来の研究で貶められていた原因 頼朝にしてみれば官職に就かせる以上に重要な身内 だったのでしょうけれど 文献にそれは現れないから 平気で見下すような論調で書かれてきたのでしょう

 

去年だったか金沢文庫で開催した安達一族展に出た安達盛長像 写真でしか観ていないのですが 今日開眼した盛長像に立派さがぴったり それまでドラマの盛長像に辟易しつつ見ていたから 文庫の展示像にびっくりしたのでした あの坐像のとおりの人間だったら 丹後内侍も尊敬して一緒になったでしょう

 

すっかりこの辺りの人間像が一変しました 筆が進まなかったわけ! 魅力ないと進まないんです 結構天邪鬼で

 

毎朝四時に起きて自分の時間を持ち そのまま朝の日常に突入して一日を過ごすから 夕方になるとぐったり お夕飯の仕度をするには身が持たないので夕方軽く寝ます で 今は快調 こんなふうに体力を調整しながら原稿に取り組んでいるのですが 進まない笑 でも丹後内侍がわかったからやっとこれから

 

安達盛長を調べたくてもどうやらこの一冊しか資料がなさそうで なのに地元の図書館で検索したらなく あ~あ と思ったのですが ふと もしかして持ってる? と探したらありました 以前も同じことしてたんだなあ 盛長を調べるとか笑

 

開いてパラ見したらいきなり光能 盛長の甥は遠元で 遠元の娘は光能に嫁していて 光能から盛長を通して伊豆の頼朝に京都情報がもたらされた←まさに ここです 私が知りたかった盛長

 

前にも読んだはずだけど 例えば光能が誰かも知らずに読んでいても なんの血肉にもなっていないんですね 今なら 光能は基子さんの姉の旦那様

 

9月24日

おはようございます 昨夜は福島金治先生『安達泰盛と鎌倉幕府』を拝読しながら寝落ち 福島先生は私が金沢文庫の展示や図書室に通っていたころに学芸員でいらして 途中から愛知の大学に移られました 紹介して下さるという方もいらしたけど まだ私はそこまでの勇気がないまま移られてしまった思い出

 

拝読して光能と盛長の関係が見えてきたのは奇跡 比企谷の段が終わり次は時政と奮ったのも束の間 丹後内侍に謎がみつかり 盛長に発展して いったい何が書きたいんだろうと先が見えなかったのですが 光能の出現でわかりました 独白バージョンの基子さんの感情移入できることが必要だったんですね

 

やっと今朝 最初の一行の最初の語が浮かんできました 年譜と照合してはじめます

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2019.9.23 ツイッターから転載…日々雑感、丹後内侍を再調査したら、「花の蹴鞠」の設定が間違っていると判明しました

9月21日

久々に吉見系図 もう出すことはないと仕舞いこんでいたから蓋に埃が むせて咳笑 丹後内侍だったか丹後局だったかの確認に 系図では内侍 吾妻鏡では局 同一人物か問題視されています

 

9月22日

丹後内侍を書く気分で昂揚していますがまだ調べ物 考えたら丹後内侍も比企の乱で影響受けるんですよね 子息の島津忠久も比企氏ゆかりということで領地の薩摩に下って島津氏の祖に 一緒に下った丹後内侍ゆかりの神社もあるそうです 仙覚さんだけで書いていた去年までの原稿が嘘のように膨みます

 

吾妻鏡の丹後局は京から下ってきて政子に仕える女房 吉見系図の丹後内侍は在京中の彼女です 内侍ってよく把握できてないからウィキで見たら「天皇に近侍して、常時天皇への奏上や、天皇からの宣下を仲介する等を職掌とした内侍司の女官の総称。尚侍・典侍・掌侍がある」と 二条天皇に近侍していた…

 

薩摩では「丹後局」なんですね ゆかりの神社は花尾神社 丹後局の荼毘の場所まであるようです 墓は多宝塔 立派です いつか訪ねたいと思っていた神社です(こう体力が落ちて執筆に時間がかかっていては無理かもともう諦め気分ですが)

 

内侍か局かは どうも二条天皇に出仕していたころが内侍で 鎌倉に下って政子に仕えてから局 そんな気がしてきました (2009年頃 花の蹴鞠を書いていたころにどうしてこう思えなかったのだろう 凄くまじめに どっちだろう どっちだろう って試行錯誤していました笑)

 

資料に挟まってちいさな中世関係年号表が出てきたのでマーカーを 黄色は比企の乱と承久の乱 緑は仙覚さんと万葉集 ピンクは河内本源氏物語 入り組んでぎゅっと詰まってます!

 

今書いているのは比企の乱勃発までだから この年号表の最初の黄色いマーカーまで 中篇にするとしたら緑のマーカーの二つ目で完 とにかく先は長いです 気の遠くなるような(笑)

 

メモ: 吾妻鏡にでる丹後局と丹後内侍は別人かも 吾妻鏡への登場は4回 2回は丹後局で政子に仕える女房 2回が丹後内侍で安達盛長の妻として甘縄邸にいる時 吾妻鏡は別人ということをきちんと書き分けていた?

 

花の蹴鞠執筆当時 別人かと疑問視されながらほぼ同一人と決着がついているような学説だったから 疑いもなく同一人として小説を進行させていました でも今気がついたらこれは別人ですね 疑いもなくだったから気がつかなかった 花の蹴鞠 鎌倉の源氏物語活動で止むを得ず中段して無念だったけど却って幸い

 

凄い大幅に年齢設定やらを書き換える必要になります 大変というより 当時あやふや感があったのを明確にできるかと思うとやり甲斐あります 丹後内侍がほんとうに二条天皇に仕えたかも確信を持ちたいし… だって比企尼の娘って 義朝に仕えた武士の子ですよ それがどうして女房として出仕?

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2019.9.22 ツイッターから転載…日々雑感、丹後局&丹後内侍のこと

(写真はTwitterで @odayuriko)

9月19日

おはようございます 今日から時政 二条天皇を追っているとどんどん話がそれるので思い切って中断 そうしたら気分がもとに戻って時政になりました 二代后多子さんの二条天皇への入内は頼朝が伊豆に流されたその年なんですね そのあたりを書くとなったら大変 それで止めました笑

 

でも そういう背景が頼朝が伊豆に流されたり 丹後内侍が二条天皇に女房として仕えていた時にあった と知ったことは凄い収穫 最勝光院滋子さんを追って法住寺殿を書いていた時の閑院内裏の状況 そこにまさか丹後内侍がいたなんて… 知っていたのに結びついてなかったから 驚き以外の何物でもなく

 

吾妻鏡がいっぱい! 新しく会員になった方たちのためにコピーしてきて分けているところです 寛永版ですが 木版って凄いですね 返り点やルビまで彫ってあります

 

9月20日

おはようございます 『年中行事絵巻』より閑院内裏です 時政が大番役で上洛して勤めた内裏の警護 それが閑院内裏だったわけですが 時政を調べなかったらこの内裏にまで関心が行かなかった 時政を調べているのは比企の乱を起こした人物だからですが その時政によって京都とという舞台がリアルに

 

その閑院内裏にこそ比企尼長女の丹後内侍が女房として出仕していたなんて と 今回新規に書き始めた仙覚さんの小説でいろいろ深まり 今まで最勝光院滋子さんとか運慶とか遠回り遠回りばかりしていたと思っていたのが ここにきてそれが全部仙覚さんの小説に包括できることになり 迂回ではなかったと

 

なんか感慨 執筆に必要な舞台を調査していたってことになるんですね まだ当分仙覚さんは誕生しませんが 誕生したときの社会情勢を たっぷり書き込みます みずみずしい文化論の小説になると思う というか そうしたい

 

9月21日

おはようございます 写真は『年中行事絵巻』から法住寺殿 二条天皇に譲位して東山の麓に後白河院が造った仙洞御所です この辺り 最勝光院滋子さんを書くのに夢中になって調べたり把握したから資料もたっぷり 比企谷の段を終え時政の段に移ったらまさにここが舞台 書いた文章もたっぷりあります

 

昨日それらを読み返して 最初はそれを活かすつもりで読んでいたのですが そうすると基子さんの独白バージョンにそぐわない 乗り気だった気分も停滞して空白の一日になってしまいました TLで練習は100%でも本番は80%の力を とあって これだ! と思いました 最勝光院滋子さんや運慶を書いて

 

いたとき たしかに100%の力を出し切っていて だから捨てがたいのですが 基子さんの独白バージョンから見ると力んでいて痛々しい 独白バージョンで最初から書き直すことにして 今日からはじめます

 

それにしても時政を書こうとしてこの華麗さ ドラマでいつも伊豆の田舎者としてしか描かれてこなかった時政ですが 仙覚さんの小説の必要で調べはじめたらとんでもない! 田舎者なんかでは決してなく 二年間も在京して内裏を警護したり興福寺の高僧と親戚だったり吉田経房と懇意だったりと驚愕

 

(鎌倉幕府は時政の構想・デザインとコメントを頂いて)そこまでは思っていなかったので驚きです。ありがとうございます。とにかく時政の冷静な知性に目を見張っています。鎌倉時代後半の時頼を、さすが時政の血を引いてるなあといつも思っていました。こう見てくると鎌倉幕府はまったくの時政の流れですね。源家が三代でとだえたのもむべなるかなと

 

お能の世界にいられる中所さまにはわかって頂けると思うのですが 真の力のある人はどう隠されようと隠し切れないですね 無視しようとしても仕切れない 時政の従来からの先入観で調べていて感じる印象を まさかと自分で否定して否定して今日まできましたが 中所様のコメントが起爆剤になってくれました

 

昨日 時政の段に入りきれなくて 集中度が足りないからと自分を責めて ツイッターも止めなければいけないなあと思ったりしたのですが 普通に平穏に生活している私にはツイッターで流れてくる現今の政情こそ比企の乱のモデル 物凄い社会経験になっています でも それにしても 信じられないほどの暗愚

 

比企の乱 今までは私的にた というか従来は学説として 時政が頼家の子が将軍になると 自身の外戚の地位を比企氏に奪われるから起こした乱 と言われてたけど 時政という人間の視点で考えたら もしかしたら鎌倉幕府の体制を思って比企氏では無理という判断があったのかも という気がしてきました

 

それと 先ほどのツイートに追加ですが 今まで時政を過小評価してきた背景に 時政が頼朝からなんの地位も与えられていないから という理由があったのですが これは逆ですね 時政が黒幕として厳然としてあって 頼朝はそれを告知し実行していただけ 頼朝はいい岳父を持ちました

 

補記: それが関係悪くなったのは 先妻の子政子と後妻牧の方の争い 吾妻鏡は義時や政子の側の北条氏の視点で描いているから 吾妻鏡だけを信奉してきた従来の見解が歪んだのは仕方ないです でも 牧の方も含めて京での視点を入れたら 時政は鎌倉幕府に拘泥する気持ちがなくなって伊豆に引き上げたんですね

 

比企の乱 仙覚さんは比企氏で 時政に滅ぼされた比企の乱によって生涯を決められた人物だから 今までどうしても被害者的立場でしか書けなかった 時々 ? と思うことあったんですよ でもそれが何かわからなかった 頼家は相当酷い人間です でも彼が竹御所の父だから悪く書けなかった この辺り 一考です

 

頼家の酷さの一例 安達景盛が京から連れてきた鍾愛の女性に横恋慕し この女性欲しさに景盛を言いがかりつけて出征させ その留守中に彼女を奪って御所に軟禁 連日鍾愛と 彼女が逃げ出さないよう 信頼できる数人の側近しか御所に近づけないようにした

 

このエピソードを花の蹴鞠で書いていたから 今度の仙覚さんの小説に 若狭局といい関係になって竹御所まで生まれている頼家のこれを書くか 悩みました 頼家はさらに 鎌倉に帰って事実を知った景盛が彼女を返してくれと訴えるのを謀叛として景盛を殺そうとまでします このエピソード 書くことにします

 

朝から連投で済みません 昨日もやもやして書けなかった理由がわかりました 従来のままの時政ではいけなかったんです 今まで? と思っていた部分が氷解 時政は幕府を守るために比企の乱を起こしたんですね 頼朝は賢かった だから力を貸して幕府を整えた でも頼家傘下の比企氏に幕府は預けられないと

 

ここまでくれば 我が子・孫であるにもかかわらず 頼家が政子と時政に殺されたのも納得

 

なんか 頼家の暗愚ともいうべき傲慢さ 現代に通じるものが… と これがツイッターで学ぶ比企の乱のモデルの所以です

 

いつも思うのですが 筆は裏切らない 理で書こうとして書けないのは理性は表層しか捉えてないから 一昨日比企谷の段落を書き終えて次は時政 と思ったのだけれど それが理で運ばれていたということで 深いところの流れは別の段落を望んでいた 頼家の件でそれに気づきました 丹後内侍を書きます 景盛の母

 

常滑で買った唯一の自分用土産 孔雀の絵のグッズを集めているから嬉しい 常滑はあの渋い大きな甕のイメージしかなかったのですが 登窯に行く散歩道の途中に こんな輸出用磁器を販売しているお店がありました(まだゆっくり常滑行の整理もついてなくて)

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2019.9.19 ツイッターから転載…日々雑感、比企尼の功績を書くことで頼朝の初出仕を書いていたら、平家物語にまで発展して驚愕

9月17日(写真はTwitterで @odayuriko)

しばらくツイートを控えると思うので 瀬戸蔵ミュージアムでたくさん撮った写真のご紹介が遅れるのが気がかり 一件だけ先にご紹介しておきます これは鋳込みという陶磁器の製造方法 型物の作り方です 部分部分を作って最後に繋ぎ合わせるそう 私は猛禽類が好きなので この壁に魅入りました

 

原稿に入り切るまで物凄い体力を要するので疲労困憊 その割に進まないのが最初の日です さらに今日は常滑行の疲労というか身体の節々の痛みがあるからPCを打っては寝て 寝ながら推敲 起きてまたPCの繰り返し 2,3日経って没入したらスムーズになると経験上わかっているので今日は我慢の日でした

 

原稿自体は楽しいのですけどね! まだ頼朝の時代をうろうろ 比企尼が褒賞に比企谷を貰ったその原因となる頼朝と乳母・比企尼との関係 ここを綿密に書かなくては! と気づいたのもつい最近 それまでの仙覚の生涯を! とがんじがらめになって書いていた自縛から抜けて自由に書けるようになって

 

比企の乱が比企谷で起きているから 比企尼との頼朝の交流は大切なんです そして 仙覚さんはその比企の乱で生まれました 写真は瀬戸蔵ミュージアムにて

 

頼朝の初出仕が上西門院で その上西門院に滋子さんが仕えていて 滋子さんを寵愛する後白河院は上西門院の弟で ということで 頼朝を書いていたらどうしても滋子さんが気になって 時代がどういうふうに重なるのか年譜で見たら たぶんこの頃後白河院が滋子さんを見初めている

 

ということは 頼朝は初出仕の場で女房として仕える滋子さんを見ているわけだし言葉を交わしたかもしれない 後白河院が滋子さんを見初める現場に居合わせたかもしれない など こんな時間になって いつもの習性でこんな時間だから体調もよくなって 原稿に燃えてきました(のだけれど 寝なくては)

 

以前からずっと頼朝の初出仕の上西門院と 後白河院が滋子さんを見初めた時代の重なり具合が気になっていたのですが やっと今夜年譜で確認したところです 写真は瀬戸蔵ミュージアムにて

 

この時頼朝は13歳です 比企尼が乳母だから 初出仕となればさぞ装束に気を遣っただろう ということでこのあたりを懇切に書いています

 

9月18日

おはようございます 仙覚さんの小説を書き始めて 比企の乱を起こした時政を書かなければならなくなり 調べはじめたのが2017年 そこから運慶との関係が浮かび上がり 円成寺様大日如来像に至って最勝光院滋子さんが浮上 仙覚さんの小説には活かせないなあと思っていたのですが 昨夜 繋がりました

 

今書いている部分は以前花の蹴鞠という中断している小説が活かせています もう少ししたら去年書きかけていた最勝光院滋子さんの短編を活かせる 運慶を入れたいと思っていたのだけれど 仙覚さんとは擦れ違いで無理と諦めていたのですが これなら入れられる 仙覚は誰か みたいに力んでいたときとは

 

まったく違う色合いの「長編」になっていくのは 文化を視点に据えているから仕方ないですね そういえば 上西門院の時代は二条天皇 万葉集の題詞を高く書くか低く書くかの問題で 仙覚さんが参考にした万葉集の天皇です これを書かなければと昨夜気づきました 写真は瀬戸蔵ミュージアムにて

 

不思議な繋がり 二条天皇 書くつもりなかったのに題詞の問題で重要になってきたら そこに比企尼の長女丹後局が入る 頼朝とは筒井筒の仲の女性で 頼朝が伊豆に流されたあと二条天皇に女房として仕え 頼朝が幕府を開くと子の島津忠久を連れて鎌倉に下向します その後安達盛長と結婚し景盛を産む

 

今 比企尼の乳母の時代を書いているから 筒井筒的丹後局も登場させています 花の蹴鞠ではかなりの中心人物なのですが 仙覚さんの小説には不向きと思ってそこまで書くつもりなかったのに これからどう展開していくのでしょう どうなるかまったく見当つきません

 

我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらね乾く間もなし(二条院讃岐) 急に二条天皇が浮上したのでそのあたりを調べています そうしたら花の蹴鞠を書いていたころやはり調べていて そのブログ記事に突き当たりました 讃岐が沖の石の讃岐の異名をもつことになった歌 歌枕沖の石は宮城県多賀城市に

 

なんの変哲もない住宅地にある海辺の石のような「沖の石」 近くには「末の松山」もあり 東北の震災で「波越さじとは」がほんとうに津波もここまでは来ないという歌だったことが明らかになりましたが 沖の石もなにかそういう謂れが? 訪ねた2,3年後に東北の震災がありひしひしと実感しました

 

二条天皇の歌壇って、平経盛が参加しているんですね!

 

二条天皇ってどういう方かと思っていたら 二代后の方だったのですね 二代后は読んでいたけど 清輔と一緒に題詞を高く書くことにこだわった万葉集の賢帝と結びついてなかったから読み直してみました 酷い書かれ様 多子の側で書いてるからでしょうか 私は実定さまのファンだから この辺り 好きなんですが

 

でもお陰で二条天皇主催の歌会の様子が想像できてきました 比企尼の長女の丹後内侍が女房として入った宮廷には 二条院讃岐だけでなく 多子さんや経盛や実定がいて 丹後内侍はそういう世界を見ていた人ということに 詳細を知るとイメージがガラッと変わります

 

自分の気の回らなさに唖然とするのだけど 後白河院とか最勝光院滋子さんとか二条天皇って まったくの平家物語世界と表裏一体なんですね 万葉集とか今様とか青墓とか いろいろ諸々単体で関心をもってのめり込んでいたのに それが全部平家物語という大きな世界にするっと内包されてしまうなんてと驚愕

 

これも そんなことを今更! と苦笑されてる方がいられるかもしれないけど 私のなかでやっと結びついたと同時に 小説世界が具体的に 絵 になりました 例えば今まで大番役で時政が六波羅を歩いていても 平家物語的絵柄で浮かんでなかったから 法住寺殿単体でとか笑

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2019.9.17 ツイッターから転載…日々雑感、11月に鎌倉ペンクラブ公開講座で仙覚さんのお話をします&仙覚さんの小説に戻りました!

9月16日

おはようございます 常滑行で大きなイベントは終わったのでこれから集中体制に 11月の仙覚さんの講座までかかっていられるから約一か月白拍子と寺院揺曳に専念して気持ちから離したい 放置したままだったのでどうしても中途半端な悔いが残っていて 写真は常滑登窯にて 縦写真です

 

鎌倉ペンクラブ2019年度公開講座「現代作家が読み解く『万葉集』」のチラシ案が届きました 秋らしい紅葉の色の背景に四回分の講座が 完成品が届いたらアップさせて頂きますが予告を ①11月2日城戸朱里(詩人)先生「乱世の言霊~大伴家持を中心に~」②11月9日織田百合子(作家)「仙覚律師の生涯

 

~京・鎌倉の文化交流」③11月16日星野高士(俳人)先生「和歌の鎌倉・俳句の鎌倉~虚子・立子俳句への系譜」④11月23日松平盟子(歌人)先生「恋をうたう女たち~万葉集のドラマティックすぎる心模様」 以上毎週土曜日です 往復はがきにて申込み 受講料四回通し4000円 一回のみの受講1500円

 

詳細は完全なチラシが届いた時にチラシをアップしてご覧頂けるようにします 一回だけの受講が可能ですから興味をお持ち頂いたらどうぞご予定に 詩と小説と俳句と短歌 各分野で活躍される先生方がお揃いです 私はテーマの『万葉集』にちなんで仙覚さんを研究しているからと担当させて頂くことに

 

常滑の現存する国内最大級の登窯 明治20年ころ開かれ 昭和49年まで使用されていたそうです 約20度の傾斜地に八つの焼成室を連ねています 全長22M 最大幅9.6M 最大天井高3.1M の大型の登窯で明治末期の常滑では60基ほどもあったそう(写真はTwitterで @odayuriko)

 

三枚目の写真は焚口です

 

仙覚さんの小説に戻ったほうがいいかなあ という気分になってきています 常滑に行く前はあんなに白拍子に執心してたのに 11月の講座の準備でまた中断するからそれまで白拍子と思っていたのに 昨夜ある方へのメールに書いてみたいと呟いた本音 それを引きずっている気もします 写真は水琴窟@常滑

 

9月17日

おはようございます 昨夜から仙覚さんの小説に戻りました と思ったら今朝 そうだ! 11月の講座準備開始までに第一部【比企の乱・鎌倉の章】を書いてしまおうと そうしたら第二部は自然に【承久の乱・京の章】となり 第三部は【将軍頼経・鎌倉の章】 やる気スイッチはどこで入るかわかりません

 

竹御所がメインの中編ならこの第三部で完なのだけれど 仙覚さんの生涯を描くなら第四部【宗尊親王の章】第五部【小川町の章】が必要 どうなるかまだわからないけれど 書き切りたい 写真の曼殊沙華はたしか金沢文庫を訪ねた時に参道で咲いていたもの 白拍子で曼殊沙華の章を書いていたから懐かしい

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2019.9.16 ツイッターから転載…日々雑感、常滑に行きました

9月13日

平安京の南端「九条大路」の文字が眼にまぶしい 九条家についていろいろ調べさせて頂いているので 九条家があったという一帯を歩いてもいるけど どうして九条通だけが他の大路のように大路といった表記の通りがないのだろうと不思議でした やっと謎が解けました

 

久々に岐阜での発表資料をプリントしています 研究からもう離れたと思って気分まで離れてのん気にしていたら お世話になった方にご報告していなかったと気づいたりして… 金沢文庫本万葉集の制作者を金沢貞顕として発表したのですが それは貞顕に仕えた称名寺の長老釼阿の紙背文書に仙覚律師奏覧状

 

があったという佐佐木信綱博士の書状からの論証 信綱博士ご自身が金沢文庫に出向いて仙覚との交流の痕跡を探したほどの価値ある書状です これを頂いたのが二月に講演させて頂いた小川町立図書館長様から 織田さんに必要かと思って用意しておきましたと 発表要旨はお送りしてあったのですが配布資料

 

はその後の完成だったので帰ってからと思っていたのでした この書状 おそらく万葉集研究の方々には出回っていないと思う 私はもう結論を発表したから研究から離れますが 重要と思うこういうことを どなたか引き継いで下さったらいいと思います 研究は人脈で得る資料、大きいです

 

9月14日

リベンジ富士山 先日の岐阜行では雲がかかって見えなかったから笑

 

ホテイアオイ? でしょうか@常滑

 

9月15日(写真はTwitterでご覧になれます @odayuriko)

おはようございます 昨日はこれを見るために常滑に 現存する国内最大級の登窯 明治20年ころ開かれ 昭和49年まで使用されていたそうです もう感動もので 凄い凄いを連発してしまいました 縦写真です

 

もう一枚 鎌倉時代の古瀬戸灰釉瓶子@瀬戸市瀬戸蔵ミュージアム 考古でこういう遺物に接してすっかりファンになっていますから この展示には歓喜の極み! 離れられなくなりました笑

 

眼福としか言いようのない贅沢な1日でした もう研究発表や調査のために写真を撮る必要がなくなったから カメラは持たずに気楽な旅を のつもりだったのですが 現地に着いて 現物を目の当たりにしたら もう撮影モード全開 スマホでやたらと撮りまくりました PCに取り込んで少しずつご紹介していきます

 

常滑で撮った最初の一枚 常滑は散歩道のコースができていて 番号の振られた看板に沿って行けばいいのですが 登窯は一番遠いところにあるから抜け道を通ったらこの光景に 素敵でした

 

抜け道写真をもう一枚 さっきのもこれも縦写真です

 

腰が痛くなりそうで 矯正グッズで背骨を伸ばしながらスマホを見ています 相当歩いたから背骨が固まっていて それで腰が痛くなりそうに いつもは背骨が矯正グッズにすぐ沿うのに 固まっているから背骨がそれを阻止してる感

 

昨日 撮らないと決めて旅に出たのに 心に触れる光景 眼に眩しいものたち に接したら 迷いもなく撮りまくっていました 長い研究生活で必要だから撮るといったことを繰り返していたら 私は写真の原点を忘れていたみたい 心に触れたものを撮る これがこんなに楽しく素敵なことだったなんて!

 

RTの名古屋金山駅前のタクシー事故 たまたま名古屋から新幹線で帰った日だから 妹が心配してメールを それで知ったのですが ほんとうにこういう事故がある度に池袋を思います

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2019.9.13 ツイッターから転載…日々雑感、「白拍子の風」を見直しているといろいろ思うこと多いです

9月11日

どう見ても首都圏直撃 しかも専門の気象家さんたちが前代未聞の危険注意を呼びかけていた今回の台風 それに対しての備えが成田を始め びっくりするくらいできてなかったなんて これがまさか現実? と唖然 賢さってどこへ行ってしまったのでしょう とTLを追いながら暗澹としています

 

こんな時ですが 私個人の問題として やはり今は今後の地盤固めに邁進 白拍子の風に没頭していたら忘れそうなのでメモとして呟きを 鎌倉ペンクラブでの仙覚さんの講演は11月9日で それは仙覚さんの動向からみる京・鎌倉の文化交流としたのだけれど 今までと全く違う視点だからパワポを早めに始めないと

 

と呟いたら 突然 仙覚さん気分が開けました 白拍子にすっかり埋没してたのに

 

久々に会った妹は金融業界夫婦 なので私よりずっと社会を知っています 半沢直樹の世界?と聞いたらニコニコとまさにそう と そして これだけ潰しにかかる世の中で私がよく潰れないでやってきてると思う なんて言われてしまいました 最初の頃は同情してくれてたのにと肩透かしをくらった感です笑

 

でもね と言ったのですが それは源氏物語も万葉集も本物だからよ 本物は絶対潰れないのと それが私の信念です

 

9月12日

おはようございます ブログを更新しました 件名は『白拍子の風』はわたしの「見出された時」になりました 2001年5月に完を打った原稿だから18年前の作品 それを読み返していると ああ 私は今自分を取り戻してきているという気持ちが強いです 文学者はこうやって自己を確立していくんですね

 

白拍子の風より:童舞を統べるには、選りすぐるだけの多くの稚児を身内に抱えていなければなりませんが、摂関の貴族の出でいられる慈円さまは、容易にそれがおできになる立場にいられました←慈円が童舞を統率されていたので、『明月記研究』所収の童舞に関する土谷恵先生のご論考を夢中で拝読しました

 

18年前のあの頃はまだTwitterがなかったから(してなかったから?)、童舞を描いていても読者の方にどれくらいイメージして頂けるか見当もつかなかったのに、Twitterを始めたら若い平安クラスタさんの多いこと! ビックリしつつTLを楽しみに拝見させて頂いています 写真は勧修寺さまにて

 

気持ち という表記 私たちが習ったころは「ち」は要らなかったと思うのに いつのまにか付くようになって 最初は抵抗して付けずに書いていたけど 慣れてきたから今度は無いと ん? と迷う 白拍子の原稿にはまだ付いてない こういう迷いを払いたくて新潮社漢字講座を受講したのだけど

 

こんなこと書いていたんだあと感慨 白拍子より 「それにね、こういう境涯だから、いつのまにか耐えることが苦しみばかりでなく喜びにもなってしまったの。苦しみが深ければ深いほど喜びも深いわ」

 

今よりこれを書いていた時のほうが はるかに精神性が高かった気がする 歴史をやっているあいだに精神の深みを離れ表面的になってしまった 鎌倉の源氏物語で闘っていた殺伐とした日々 それをこんなふうな感慨で思う日も来るのでしょうか

 

ほのかに香るセイヨウニンジンボク 台風で倒れそうになって伐った枝 束ねて机上に置いてあるのですが爽やかないい香りがします チェストツリーという精神安定剤になるんですよね さすがです

 

やっとこの時間に良い体調で起きています 片付けものが済んだら仮寝して 日付が変わってから起きて机に向かうのが私には体調としていいサイクルなのですが ここのところそれができなくて疲れが溜まっていました 今夜は早々に家族に宣言して寝て起きて片付けものをして 今から自分の時間 久々に快調です

 

それで今TLもチェックし終わったのですが 思いがけないご助言を頂いていたり びっくりしつつ ありがたいなあと 割と独りで孤独感に耐えている感じで暮らしているのですが そうではないような… 自覚がないというか認識が遅いというか 愚かで済みません

 

そういえば と気づきました 鎌倉の源氏物語の活動中のツイッターは私には闘いの場でした 鎌倉の源氏物語として河内本源氏物語があるのですが 私は人文系の出身でないから 鎌倉に! 源氏物語が! と感動して それを鎌倉市民の方に普及する活動を始めたんですね 市民の方もびっくりされ感動されて輪が広

 

がりました そうしたら専門家さんたちから攻撃されて 河内本源氏物語があることなんかみんな知ってると 学者さん方は周知でも一般市民の方がご存知ないから 私はそれをお伝えする役割と思ってしていたのですが TLで お前は何だ! とか 監視してやる とか… この夏に研究発表をしたのを最後に私は鎌倉の

 

源氏物語活動からも離れる覚悟をしたのですが そんな最近まで 私にはこのTLの場が敵に監視されている緊張感の中にありました 文学に戻って 白拍子の原稿で自分を取り戻しつつある今だから「敵」を感じずに温かい感じで受け入れて頂ける土壌に 私が変わったから 関係も変わってきてるのかも

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2019.9.12 ツイッターから転載…日々雑感、『白拍子の風』は私の「見出された時」になりました

9月8日

台風の最接近時刻の3時まで起きていようと思って何をしようか考え 白拍子の風をプリントして 今 それを大きいダブルクリックで束ねました A4で65頁 原稿用紙換算にしたら何枚なのでしょうね 専念しようしようと思いながら拠ん所無い事情続きですっかり仙覚さんから気持ちが離れてしまい 白拍子のほうが

 

親近感 青墓を訪ね 梁塵秘抄うたの旅を拝読し TLで琴歌の実際を聴いたり ほんとうに白拍子的感性になっています と その時はのんきにつぶやきを始めたのに TLにどんどん氾濫の危険や停電… 無事にと祈るばかりになってきています

 

写真はかつて大雪が降った日の井の頭公園 タブレットに入っていたので

 

雨戸を閉め切っているので外が見えないのですが ついさっき白拍子を呟いた時はなかった音が ガタッという雨戸の風に打たれる音がし始めました

 

白拍子の風 換算したら250枚程度 書いたのは何十年前にもなるずっと昔 鎌倉の源氏物語に20年費やし その前に寺院揺曳を書き それは白拍子が終わって直後から始めたのでした 日中 あの頃はよく書いてたなあと我ながら感慨し どうして今書けないのだろうと考えて 鎌倉の源氏物語があったからだと今更に

 

でも 自分の文章って不思議 忘れてない 忘れてないどころか一字一句 淀みなく自分のなかから読んでいて湧き出てくる やはりいいなあこの世界 と自分で自分に浸っています笑 台風は3時を過ぎたけど 今のところ恐いようにはなっていません 眠いけど もう少し起きて様子を見て寝ます

 

「曼珠沙華・京の章」としたのは 当初第二部として失意の白拍子が鎌倉に下る「白蓮華・鎌倉の章」を書くつもりだったから それで鎌倉を調べ始めたら面白くなって寺院揺曳というエッセイが生まれ 鎌倉の源氏物語の研究に発展して 白拍子は影もなくなってしまったのですが 今頃になって復活するなんて笑

 

寝ることにしますが 当地はTLに呟かれる神奈川県寄りの方よりは雨も風も怖くないです 川の氾濫危険が頻繁ですがどうか氾濫しませんように

 

RT 氾濫危険の狩野川は伊豆の時政の館がある韮山を囲んで流れる川。地形の高低がわからないから氾濫して韮山の遺跡に影響あったら、と心配しました

 

9月9日

セイヨウニンジンボク 台風で枝がしなって道を塞ぎかけていたから伐ったら もう終わったと思っていた花が高いところにまだ咲いていました で これは台風の余韻の花束です

 

はっとなって気がつきました 白拍子の風は私の「見出された時」なんですね おこがましくも私は失われた時を求めてのような小説を書きたくて 仙覚さんの膨大な人生ならそれができると思い それで最初 玄覚の独白による回想録の手法で始めたのでした でも 私自身が失われた時を求めて見出された時に

 

今回辿り着いたみたい それが白拍子の風 今はとても澄んで白拍子の風に向きあえる 少し前 ほんとうにこの一二ヶ月位の間 気持ちがドロドロしていきり立っていました 考えたらそういった鎌倉でのいろんなことが全部失われたにおけるソドムとゴモラだったというわけ 凄く明瞭 なんという視界の晴れやかさ

 

見出された時は意図せずして不意に訪れるものなんですね 今は凄くそれがよくわかる (それを小説でうまく書けるでしょうか いえ 書けますように) (でも 白拍子の風はもう完結しているし そうなっていると思うし だから世に出しておきたいんです)

 

白拍子の風より: 朝の早い時間でしたので、川はまだ鏡のように鎮まった底知れぬ深い青い色をしていました。低い角度から射す朝日はものそれ自体を落ち着かせ、そうしてそこかしこに潜む、この人の世にあるよりも遥かに貴重な世界を垣間見させるかのように、間隙を縫って射し届いたわずかなところにだけ

 

それこそくっきりときらりと光る輪郭を与えていました。←朝一番ののぞみで発って川を渡った時に見た新幹線の車窓から湧いた文章です。好きな文章。あの時の新幹線、あの時の光景、なにもかもが懐かしく思い出されます。少し前にTLで描写の文章はくどくて不必要という主張を見ましたが、私はその正反対

 

現代は描写をたんに説明としか捉えられない感性が育っているのでしょうね。そんな中で私の白拍子なんかまるで化石。それでもいいって思っています。自分が気に入っているのだから

 

三日連続の千葉行きに台風の後処理で枝切り さすがに疲労が出て体がガタガタ 交通事情で出かける人も出かけられない日となって 一日気分が上昇できずにいたのですが 無理矢理白拍子に向かったら やはり気分いいです笑

 

白拍子の風より「青墓」 岐阜の発表のついでに青墓を訪ね 義朝との歴史を知ったりしたら 自分で書いた白拍子の小説の青墓がいつの時代のなのか思い出せなくあやふやになってしまったのですが ここを読んだら平家滅亡後 義朝の時代よりずっと後世でした

 

逢うことも叶わぬならばもろともに思ひ遂げてよのちのちの世に こんな歌作っていたんだあとびっくり 主人公の白拍子の歌なのですが紛れもなく作ったのは私 歌会などで作るのは苦手なのに 作中だとするすると歌が出てきます 歌は思いなんですね 文章を思いで運んでいるからと思います(現代短歌と違う?)

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2019.9.10 ツイッターから転載…日々雑感、千葉の妹を見舞っての三日間、無事に妹も生還してほっと。車窓から虹を見ました

9月6日

青墓は京からは徒歩で二日ほどの道のり! 梁塵秘抄うたの旅より

 

今日は半月、上弦の月です

 

そろそろ無色透明な言葉に飢えてきていて 大切な日常をこなしているのだけれど心が虚しい 読むものも ああ これは私の世界の言葉ではないとなり では私の世界の言葉って と考えた時結局それは自分の作品のなかにしかなく こういうじれったさが高じると 書く という体制に煮詰まっていきます

 

つくづく後白河院の感性って近いなあと おこがましいと憚られるのを忌憚なくいえばです 梁塵秘抄うたの旅 を拝読していてずっとそんなふうに感じていたのですが 今日唸ってしまった箇所 「日本のうたとは、ほそく、清らかな声で歌われ、しづまりしむもの」 先日書いた「澄み昇る」に通じます

 

梁塵秘抄うたの旅より: 「しづまりしむ」であるが、これこそ日本のうたの最も重要な感覚で、極意につながるのかもしれない。しーんと澄み切った、入静状態、あるいは瞑想で得られるあの、安らかだけれども冴えわたっている感覚をほうふつとさせる。

 

9月7日

おはようございます 今日持って出る本を探していました 昨夜から説明のための文章を受け付けなくなって ひたすら無色透明な文章に浸りたく 昨夜は考えつかなくてグラックのアルゴールの城を鞄に入れたのですが 今朝になって あ! 源氏物語だ となって視界が開けました 原点回帰の灯台下暗し笑

 

ずっと研究に浸っていたから調べることが読書の前提になっていたんですね だから 何かを読んでいても知識が優先 梁塵秘抄うたの旅もそれが苦しくなっていたのですが 中に後白河院のうたという章に しづまりしむ の語があって それが心に響き こういう世界を求めていたんだ! となったのでした

 

道中のお供は高橋文二先生「平安京の不在 ー『源氏物語』の時空ー」 ご論考ですが決して衒学的でないのが文二先生 先生のご文章はそれ自体が文学です このタイトル自体にも牽かれて

 

いろいろ大変だったけど終わり良ければで雨降って地固まるですね 妹が手術して 私が鎌倉の活動で忙しくしてる間会ってなくて 手術が無事に終わって今日はもう元気 久しぶりに親身に話せてきっとこれは神様の贈り物 昨日の車窓の虹のきっといいことあるのお知らせはほんとうでした 感謝の思いでいっぱい

 

車窓の風景@千葉県 成田が近いから飛行機が と思って撮ったのだけど写ってなくて(たぶん雲の中) 拡大して探してたら 半月が写ってました

 

車窓の風景@千葉県をもう一枚 台風が近づいているから? 昨日も今日も雲が雄大

 

福島県沖近辺の地震、多いですね。昨日、久しぶりに三陸沖があったので気になっています。岩手県沖が発震すると三陸沖につながるので

 

東北方向の雲です

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2019.9.7 ツイッターから転載…日々雑感、梁塵秘抄うたの旅など拝読しています→白拍子の風がふつふつ

9月3日

おはようございます BSプレミアム地球に好奇心 ストラディヴァリに挑む を観ています ストラディヴァリの生誕地クレモナで行われたバイオリンという楽器のトリエンナーレ バイオリンには魂柱があり 幅僅か6ミリほどのその小さな柱が楽器の音を左右すると 楽器も音も職人もすべて完璧な美しい世界です

 

研究生活をしていた長年の精神的貧乏症で 観ると覚悟を決めてTVの前に座ったのに 机にこれから必要になりそうな仙覚さんの小説のための資料を並べて区分けしようとしたり…笑 でも結局楽器の完璧性が勝って引きつけられています

 

最終審査に残った三つのバイオリンから優勝したのは 最終審査の演奏で2位になったもので それに二次審査までの造りなどの評価を足して優勝と ? と腑に落ちなく感じてたら 終わりの座談でも司会者さんたちがそんな感じ せっかくそれまで完璧性に唸ってたのにと残念な気持ちを呟いてたらTVからも残念と

 

最終審査の演奏を聴いていて 澄み昇るという言葉が湧きました 白拍子の歌声が 僧侶の声明が 声が澄んで空高く昇る様子を思い起こす言葉として使うのですが ふっと 久しぶりにそれを感じてどきっと 何かが思い起こされた感

 

9月4日

おはようございます 昨日に引き続きBSNHKプレミアムカフェを「覚悟を決めて」観ていました はるかなる音楽の道「さすらいのバイオリン」 バイオリニストの古澤巌さんがロマの人々と回った東欧の旅 言葉もなく打たれていますが 私にはロマの人々も白拍子たちも一緒で 終始白拍子を思っていました

 

言葉にできたらいいのですが それでは本質と遠い ただ受け止めて白拍子の小説に生かすことにします 氷艶も 柚希礼音さんが歌い始めた瞬間ぞっとしたのですが あとで ああ 梁塵秘抄の梁が震えるってこういうことか と思ったのでした 今更ですが後白河院って凄いですね

 

鎌倉の源氏物語の課題に取り組んでいるあいだ研究めいた生活をしてたから TVも音楽も封印して 物凄いストイックに暮らしていました 研究も終わって今は逆に精神をふくよかにしなければならないから意識的にいい番組があると「覚悟して」観ることにしています 音楽も聴き初めたり

 

特に青墓を訪ねて白拍子の小説が自分のなかに甦ったりしているから・・・(ほんとうは仙覚さんの原稿に戻るまえに白拍子さんたちを世に出したがっている自分がいます)

 

↓RT 映画化は私も夢 出版はなんとか個人でできるけど映画は・・・

 

でも 仙覚さん いつか映画にしてみせます! 白拍子は漫画化 どなたかいい絵描きさんと出逢いを!(慈円が主人公なので僧侶推しの方笑)

 

9月5日

おはようございます 中央線ホームから吉祥寺オデオン座 空海を観たのもいつだったかしら しばらく原稿にかかれないのでその間を充電期間に で 今日の道中のお供は『梁塵秘抄うたの旅』 新幹線では車窓に気をとられて読めなかったので ちょうどいいのでしばらく浸ります(どうもまだ青墓の余韻が…)

 

秋らしい駅構内の活花でした

 

9月6日

おはようございます 外出二日目 次は浦安 もう少し行くと佐倉 気兼ねなく満喫する日がくるかしら 道中のお供は昨日に引き続き梁塵秘抄うたの旅 仙覚さんにかかれないでいるあいだにどんどん白拍子がのしてきます なんか意味があるのでしょうか 今日は白拍子の原稿自体を道中になんて思ってしまいました

 

白拍子の風のタイトルは 六浦にある遺跡に立った時 突然一陣の風に見舞われ とっさに白拍子の風 の語が浮かんだのでした 采女の風の歌が心にあるから それから白拍子について調べはじめて書いた小説 宇治平等院から始まるから その時初めて平等院に行ったりして

 

車窓風景@千葉県

 

采女の袖吹きかえす明日香風都を遠みいたづらに吹く ふっと気になって検索したらやはり万葉集 なんとなくここのところ万葉集といえば別のイメージの歌が多かったから こういう雅な歌が忘れられて 志貴皇子いいですね

 

只今上弦です

 

帰りの車窓の風景@千葉県 左端に虹が出ています 気がつかなくて 撮ったあとに目視で見つけて それから虹を中心に撮ろうとしても電車がカーブしてて撮れませんでした 雨も降っていないのに

 

白い雲の向こうに虹のかけらが垣間見えています これは車線を乗り換えてのだからさっきの虹とは別 この虹 ちょっと気になります 雨は全然気配もなしです

 

車窓の風景 都心に近づくにつれて空気感が変わり からっとして 虹が出るようなしっとりさがなくなりました 空気って こんなに違うんですね

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2019.9.3 ツイッターから転載…日々雑感、高橋大輔さんの氷艶! 素敵でした& 研究を離れて自由にのびのび!

9月1日

九月に入りました 氷艶待機中です緊張して笑 その前に原稿を送信してしまって終了後から心機一転仙覚さんの小説 など思っています 気分はすっかり仙覚さんです(氷艶も参考になるかもなど 基子さんが源氏物語のファンだから) 写真は仙覚さんゆかりの東松山市岩殿観音です

 

仙覚さんを書いた原稿の最後は いつも 「仙覚は素性を隠して生きる苛酷な運命にあったからこそ、膨大な『万葉集』の研究に没頭し、世情を離れて、真実をみつめる人生を送ったのではないでしょうか。」のようになります

 

あ、忘れていたことを思い出させて頂きました。以前、この寺院で仙覚さんが育ったとお伝えしたある方に、観音の力ですね、と観音信仰のことをご教示頂いたんです。私は歴史的事実でだけ追っていましたから気づかなくてはっと心に留めたのですが忘れていました。貴重なご示唆、ありがとうございました。

 

柚希礼音さん、さすが!

 

氷艶、終わっていろいろ思うこと多々 このまま仙覚さんに入れます

 

ただ 途中で一回ツイートしましたが 柚希礼音さん さすがでした 宝塚ということの凄さを目の当たりにした感じで 歌い始めたその一瞬で世界を鷲掴みにした感じ 宝塚って凄いですね なにかそこから頂きました

 

こんなにきれいにスコーンと何もかも抜けるなんて 今までのことが全部遠い過去 ひとつひとつが思い出せない ある意味豊饒の海の聡子さんの境地がこうかと そんな地平に出てしまった感 こうならなければ仙覚さんの小説は書けなかったんでしょうね そのためにもがいてもがいてやっとここに来ました

 

写真は東松山市の岩殿観音入口付近にある足利基氏の塁跡 気持ちが岩殿観音に入っているから 懐かしく訪ねた時の写真を見ています 中にこれがあって 秋らしい花が咲いているので添付 2010年10月の撮影 何度この地を訪ねたでしょう また行く時があるでしょうか 行かない気がする

 

岩殿観音入口には弁天沼があって朱塗りの橋がかかっています 橋をわたるとちいさなお堂が 中を覗くとちいさな女人の像があるのですが 弁天様にはなんか見えなくて 私にはここに隠れ棲んだ基子さんに この地 ほんとうになにかあります

 

橋と 渡った先のお堂です

 

氷艶の余韻から抜けられず すっかり日常の時間感覚が狂って 夜になって明日の予定に気がついて慌てたり笑 源氏物語はやはり私のなかで生きてます 享受史などして物語に浸る余裕がなかったけど でももうそれも終わり 研究を離れたんだもの 今日の氷艶 物凄い画期 仙覚さんという文学に浸ります

 

机の上や周辺に山積みになった尾州家本や万葉集の資料に手を出そうとして ああ これらを見る必要のない生活に入ったんだと手を引っ込める… なんか 不思議です

 

9月2日

氷艶を宮本亜門さんは源氏物語の原著や研究書でなくあさきゆめみしに頼ったと それは思いが描かれているからと だから昨日放映の氷艶には思いが溢れていました 思いって 人の心の大切な部分 研究していると失ってしまう方も多いのでは 仙覚さんの小説に戻るにあたって重要な指針を頂きました

 

思いを中心に書いているから強く思ったのかも おはようございます 無事に今日の予定に入っています

 

今日は牧の方について議論が沸騰 調べた方に私が捕捉したら 先生が 面白いですね 小説に書いてみて下さい と仰るので 書くつもりなんですよ 比企の乱の前はこうだったと みんな書きます と申し上げたら 皆様が そうっか 比企の乱にはみんな絡んでくるものねと 歴史の方々との話題 楽しい

 

牧の方については 坪内逍遙がマクベス夫人っぽく書いているとか すでに書かれているようだけど 読まないでおきます 私には私なりのイメージがあるから

 

研究を離れた生活がこんなにのびのびできるなんて! 逆に今までどれほど窮屈だったか あんな精神状態では書けないのも無理なかったと今にして噛み締めています 心が 思いが のびやかに広がっています と 今日の会での皆様との会話でも思いました 私は文学の人なんですね やはり と しばらくは感慨twを

 

ツイートしてたら乗り過ごしてしまいました(泣) まだ日常感覚が戻ってません 岐阜のあとの氷艶 そして牧の方… 別次元に生きてる感

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2019.9.1 ツイッターから転載…日々雑感、宗尊親王が『万葉集』を欲しがったのは後嵯峨上皇皇子だからと気づいたことなど

8月29日

今頃になって気づくなんて 遅い! と我ながら呆れるのですが なぜ宗尊親王が仙覚に万葉集を献上させたかというと それは宗尊親王が後嵯峨上皇の皇子だからですよね 仙覚は建長五年に後嵯峨上皇に万葉集を献上しています 上皇は大変喜ばれたそう 宗尊親王はそれを知っているから自分にもと献上させた

 

それが文永二年で文永三年にも仙覚は万葉集を作り それが令和の出典となった西本願寺本万葉集に 発端は後嵯峨上皇でした! なぜ今頃になってというと 学会で発表の後の質疑応答で 源氏物語を専門とされる先生が源氏物語と万葉集の二つを同時に作る感性がわからないという主旨のご質問をされたからです

 

国文学の世界の領域的感性って凄いんですね 私は蒐集という意味で両方とも欲しい という感性に違和感なかったのですが。 でも それでずっと考えていて そうだ! 後嵯峨上皇から話を聞いていたからだ と気がついたのでした そうお答えすればもっと納得して頂けたのに申し訳なかったです

 

物凄い明瞭に事情が見えてきました 変だと思っていたんですよね でもまだそれは点だったから 変 というだけで止まっていた でも 後嵯峨上皇から話を聞いて献上させようと思って仙覚を出仕させたとしたら というふうに線で繋がったら 仙覚が下向した途端に宗尊親王の側近たちがいろんな万葉集の

 

写本を仙覚に与えるような協力をして それで仙覚の文永二年本ができた 私はそれを側近たちが仙覚を見込んで協力してとばかり思っていたのですが もともと宗尊親王の命令があったのなら 側近たちの異常なまでの協力体制が理解できます 点と線 繋がらないとどこかおかしいという不可解が

 

鎌倉で宗尊親王の御所は若宮大路沿いの雪ノ下教会の一帯です 近くに比企谷が控え 仙覚はそこで万葉集の校訂をしました 将軍御所から側近たちが比企谷へせっせと万葉集の写本を運ぶ姿は見えてきていましたが それが宗尊親王の命を受けてだっととは… 小説世界が明瞭になりました

 

日中のTLで 呉座先生の『応仁の乱』を小説と思って読んだ方のレビューが紹介されていて 家族でおかしくて笑ってしまいましたが 私が仙覚さんの小説では『万葉集』研究の実態を詳細に書く と言ったら それじゃあ読者にこれでは小説ではなく歴史書じゃないかって間違われるよと(笑) それでもいいと

 

私は思っていて 仙覚さんの研究内容を 〇〇本万葉集と〇〇本万葉集を何々のようにして… など国文学的事実を詳細に書いていくつもり 学者としての根を詰めて研究を持続する仙覚さんを書きたい フェルメールの絵の天文学者とか地理学者とか そんなイメージ そのもっと暗い狭い日本的世界だけど

 

8月30日

最近思うのですが Twitterは前と違って個人の理不尽な仕打ちにあった報告がしやすくなって というか許されるようになって 私なんかみたいに社会を知らずに社会に出てしまった者のいい教訓 教科書的役割になっている こうしたことをずっと以前に知っていたら もっと心構えというのができていたかもなど

 

今朝のRTの取材の話や預けた画廊に作品を奪われたなど見てなにか胸に詰まっています 私も原稿料をまるまる持ち去られたことや祖父が収集していた骨董品を親戚がいいものだけ持って行ってしまったなど 心当たりがあるから 今まで怒らずに何気なく過ごしてきたことの 怒るべきなんだ の思いがふつふつ

 

ふつうに過ごしているなら怒りは必要ないかもしれないけど これからは 例えば仙覚さんの小説を守るためとか そういうことで怒ることも必要なのだなあと 思うこの頃(独りで奮闘しているから世間知らずでは許されなくなってきそうで)いざとなったら弁護士さん同伴とかも考えます

 

弁護士さんって遠い存在と思ってたけど ある会でお名刺交換した方が弁護士さんで あ と思って 私これから難しい立場になりそうなんだけど そういう時お願いできます? って伺ったら いいですよと その方がいるから心強いです でも とにかく早く仙覚さんを書かなくては!

 

あと一通お便りを書いたら いろんなことの後処理の終わり 晴れて自分だけのための時間に戻ります

 

陸の宝珠 お便りと一緒にと思って買ってきました ついでに家族用にバラで幾つか この時期 このお菓子が楽しみ (源吉兆庵さん 最初は岡山が本店で だから岡山のマスカットオブアレキサンドリアが入っていて 吉祥寺にできたのに いつのまにか鎌倉が本店になって 鎌倉に行ってお店を見るとなんか変)

 

8月31日

2000字の原稿「仙覚は誰か」を書きました 研究発表が終わったら書こうと思っていたもの お礼状など所用が片付いたので 九月中旬締切だけれど早く執筆に専念したいから終わらせました これでもうほんとうに専念に(自分で用を作らなければですが笑) 今日はじめてのツイートです 写真は比企で

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