« 2019.9.17 ツイッターから転載…日々雑感、11月に鎌倉ペンクラブ公開講座で仙覚さんのお話をします&仙覚さんの小説に戻りました! | Main | 2019.9.22 ツイッターから転載…日々雑感、丹後局&丹後内侍のこと »

2019.9.19 ツイッターから転載…日々雑感、比企尼の功績を書くことで頼朝の初出仕を書いていたら、平家物語にまで発展して驚愕

9月17日(写真はTwitterで @odayuriko)

しばらくツイートを控えると思うので 瀬戸蔵ミュージアムでたくさん撮った写真のご紹介が遅れるのが気がかり 一件だけ先にご紹介しておきます これは鋳込みという陶磁器の製造方法 型物の作り方です 部分部分を作って最後に繋ぎ合わせるそう 私は猛禽類が好きなので この壁に魅入りました

 

原稿に入り切るまで物凄い体力を要するので疲労困憊 その割に進まないのが最初の日です さらに今日は常滑行の疲労というか身体の節々の痛みがあるからPCを打っては寝て 寝ながら推敲 起きてまたPCの繰り返し 2,3日経って没入したらスムーズになると経験上わかっているので今日は我慢の日でした

 

原稿自体は楽しいのですけどね! まだ頼朝の時代をうろうろ 比企尼が褒賞に比企谷を貰ったその原因となる頼朝と乳母・比企尼との関係 ここを綿密に書かなくては! と気づいたのもつい最近 それまでの仙覚の生涯を! とがんじがらめになって書いていた自縛から抜けて自由に書けるようになって

 

比企の乱が比企谷で起きているから 比企尼との頼朝の交流は大切なんです そして 仙覚さんはその比企の乱で生まれました 写真は瀬戸蔵ミュージアムにて

 

頼朝の初出仕が上西門院で その上西門院に滋子さんが仕えていて 滋子さんを寵愛する後白河院は上西門院の弟で ということで 頼朝を書いていたらどうしても滋子さんが気になって 時代がどういうふうに重なるのか年譜で見たら たぶんこの頃後白河院が滋子さんを見初めている

 

ということは 頼朝は初出仕の場で女房として仕える滋子さんを見ているわけだし言葉を交わしたかもしれない 後白河院が滋子さんを見初める現場に居合わせたかもしれない など こんな時間になって いつもの習性でこんな時間だから体調もよくなって 原稿に燃えてきました(のだけれど 寝なくては)

 

以前からずっと頼朝の初出仕の上西門院と 後白河院が滋子さんを見初めた時代の重なり具合が気になっていたのですが やっと今夜年譜で確認したところです 写真は瀬戸蔵ミュージアムにて

 

この時頼朝は13歳です 比企尼が乳母だから 初出仕となればさぞ装束に気を遣っただろう ということでこのあたりを懇切に書いています

 

9月18日

おはようございます 仙覚さんの小説を書き始めて 比企の乱を起こした時政を書かなければならなくなり 調べはじめたのが2017年 そこから運慶との関係が浮かび上がり 円成寺様大日如来像に至って最勝光院滋子さんが浮上 仙覚さんの小説には活かせないなあと思っていたのですが 昨夜 繋がりました

 

今書いている部分は以前花の蹴鞠という中断している小説が活かせています もう少ししたら去年書きかけていた最勝光院滋子さんの短編を活かせる 運慶を入れたいと思っていたのだけれど 仙覚さんとは擦れ違いで無理と諦めていたのですが これなら入れられる 仙覚は誰か みたいに力んでいたときとは

 

まったく違う色合いの「長編」になっていくのは 文化を視点に据えているから仕方ないですね そういえば 上西門院の時代は二条天皇 万葉集の題詞を高く書くか低く書くかの問題で 仙覚さんが参考にした万葉集の天皇です これを書かなければと昨夜気づきました 写真は瀬戸蔵ミュージアムにて

 

不思議な繋がり 二条天皇 書くつもりなかったのに題詞の問題で重要になってきたら そこに比企尼の長女丹後局が入る 頼朝とは筒井筒の仲の女性で 頼朝が伊豆に流されたあと二条天皇に女房として仕え 頼朝が幕府を開くと子の島津忠久を連れて鎌倉に下向します その後安達盛長と結婚し景盛を産む

 

今 比企尼の乳母の時代を書いているから 筒井筒的丹後局も登場させています 花の蹴鞠ではかなりの中心人物なのですが 仙覚さんの小説には不向きと思ってそこまで書くつもりなかったのに これからどう展開していくのでしょう どうなるかまったく見当つきません

 

我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらね乾く間もなし(二条院讃岐) 急に二条天皇が浮上したのでそのあたりを調べています そうしたら花の蹴鞠を書いていたころやはり調べていて そのブログ記事に突き当たりました 讃岐が沖の石の讃岐の異名をもつことになった歌 歌枕沖の石は宮城県多賀城市に

 

なんの変哲もない住宅地にある海辺の石のような「沖の石」 近くには「末の松山」もあり 東北の震災で「波越さじとは」がほんとうに津波もここまでは来ないという歌だったことが明らかになりましたが 沖の石もなにかそういう謂れが? 訪ねた2,3年後に東北の震災がありひしひしと実感しました

 

二条天皇の歌壇って、平経盛が参加しているんですね!

 

二条天皇ってどういう方かと思っていたら 二代后の方だったのですね 二代后は読んでいたけど 清輔と一緒に題詞を高く書くことにこだわった万葉集の賢帝と結びついてなかったから読み直してみました 酷い書かれ様 多子の側で書いてるからでしょうか 私は実定さまのファンだから この辺り 好きなんですが

 

でもお陰で二条天皇主催の歌会の様子が想像できてきました 比企尼の長女の丹後内侍が女房として入った宮廷には 二条院讃岐だけでなく 多子さんや経盛や実定がいて 丹後内侍はそういう世界を見ていた人ということに 詳細を知るとイメージがガラッと変わります

 

自分の気の回らなさに唖然とするのだけど 後白河院とか最勝光院滋子さんとか二条天皇って まったくの平家物語世界と表裏一体なんですね 万葉集とか今様とか青墓とか いろいろ諸々単体で関心をもってのめり込んでいたのに それが全部平家物語という大きな世界にするっと内包されてしまうなんてと驚愕

 

これも そんなことを今更! と苦笑されてる方がいられるかもしれないけど 私のなかでやっと結びついたと同時に 小説世界が具体的に 絵 になりました 例えば今まで大番役で時政が六波羅を歩いていても 平家物語的絵柄で浮かんでなかったから 法住寺殿単体でとか笑

|

« 2019.9.17 ツイッターから転載…日々雑感、11月に鎌倉ペンクラブ公開講座で仙覚さんのお話をします&仙覚さんの小説に戻りました! | Main | 2019.9.22 ツイッターから転載…日々雑感、丹後局&丹後内侍のこと »