2019.12.29 ツイッターから転載…日々雑感、「丹後内侍と安達盛長の結婚」と「範頼とその二人の娘の結婚」のこと&その他もろもろ
12月27日
おはようございます 源氏物語は人を結びつける不思議な力を持っているようです というメールを頂きました 先日行った実践女子大での源氏物語シンポで展示されていた貴重書 中に黒川真頼の蔵書印があって 私の源氏物語の鎌倉での活動を支援して下さっている方が黒川真頼のゆかりの方だからご報告した事
へのご返信です 支援して下さるのもそういうご環境があってのご理解でした なので最初の鎌倉投信邸をお借りしての講演には 黒川真頼のお孫さんが描かれた業平像の掛軸をかけて下さったり 不思議なご縁はさらにあって 私の鎌倉の源氏物語の最初の研究は北条実時の編纂説がある異本紫明抄だったのですが
その所蔵先が岡山のノートルダム女子大の黒川文庫で 私は文庫名までは知らずにいて 『源氏物語と鎌倉』の書評を書いて頂いた方に お礼状に鎌倉の黒川真頼ゆかりのその方の事を書いたら 実は僕はその女子大に勤務していたんですよと教えて頂き 黒川真頼繋がりのあまりの不思議さにびっくりしたのでした
写真は先日の上野で 西洋美術館園庭のブールデル「弓を弾くヘラクレス」です(覚え違いでなければ)
範頼が安達盛長と丹後内侍夫妻の娘といつ結婚したかを年譜で考えて 範頼の嫡子が生まれる前年くらいと考えると 範頼が平家追討に赴いていた九州から鎌倉に帰って二、三年のうち となります その頃丹後内侍の娘が出産可能な年齢として15歳とすると 娘は丹後内侍がまだ京にいる間の誕生で 盛長との結婚も
当然二人は京で結婚していたことに 盛長が頼朝に仕えて源平の争乱で忙しく立ち回っていたころ 丹後内侍は京で 島津忠久と安達景盛と もう一人男子と そして範頼の妻になる女子の 四人の子どもたちと過ごしていたことに 鎌倉幕府創設の準備に比企尼に呼ばれて丹後内侍は その四人の子どもと共に下向?
それともう一つ 吾妻鏡で丹後局という女性が頼朝から若狭国を下知されているのだけれど 局と内侍を公私の区別で使い分けているだけで 丹後局も丹後内侍だとすると 丹後内侍は若狭国を下知された この若狭って 頼家側室の若狭局という呼称に関係あるのかな と疑問
丹後局は政子が頼家を懐妊した時の倍膳を務めていて 内侍と同一人物と思わなかった時は幕府にそれ位有能な別の女房がいたと思っていましたが 頼家の懐妊はまさに幕府開設のドタバタ中 そんな時期にそんな有能な女房がすでに育っているはずないから ここはやはり内侍として 若狭国の下知はその功労?
今気づいたのですが 範頼は京で範季に育てられているから 平治の乱の時に10歳くらいとして 比企尼に吉見観音の稚児として入れられ その後範季に引き取られたのが数年後くらいなら15歳ほど それからずっと京で暮らすから 範頼は将来自分の妻となる盛長と丹後内侍の娘の誕生を見ているし 少女時代をも
暮れの吉祥寺
今迄範頼と盛長丹後内侍の娘の結婚は 比企尼か丹後内侍が決めたものとばかり思っていたけれど 年譜を見ていたら 範頼が頼朝に加担して源平の争乱で明け暮れ 京から離れている間に少女だった娘は成長し 鎌倉に幕府が出来て母親の丹後内侍に連れられて鎌倉に下向 そこに戻ってきた範頼が見出したのは
美しく成長した娘だったし 娘にとっても気さくな「お兄ちゃん」だった人が大将軍の威厳を持った人間として目の前に現れたら とてもベタな話になるけど これはもう二人の大恋愛による結婚ですね 孫娘がそれ程惚れ込んだならと 比企尼が吉見御所を与えたのもムベなるかな の話に思えてきました
範頼は書かないつもりだったのに 背景として存在する人間を 状況だけでも把握しておこうと調べ始めたら止められなくなって とうとう比企尼の孫娘との大恋愛にまで気持ちが入ってしまいました 昨夜あたりから この小説って仙覚さんの生涯を辿るんだったはずだけど と不安になってきています笑
12月28日
暮れの吉祥寺 買い物客で溢れているかと思ったけど 人混みはまばらな感じ 仙覚さんの小説 年内に第一章比企の乱を終わらせたいと思ったけどだめで 丹後内侍の段をと思ったのも無理みたいだけど ここで年末の諸々に気を向けたらまた気が拡散してしまう とばかりに範頼から離れずに頑張っています
写真は先日の上野 西美庭園にてカレーの市民 上野行ったの と言ったら妹に年末になってもまだ小説にとりかかってるの と驚かれました 普通の生活をしていたら書けません
12月29日
おはようございます ロダンといえばカミーユ・クローデル 前にピカソのジュヌビエーブ・ラポルトについて書きましたが 偉大な芸術家の愛人だった女性の手記や生涯を夢中になって読んだ時期がありました リルケのルー・ザロメとか 私はたぶん激しいものを持っているのですが 環境からそれを発揮するのが
許されなくて 書くことでそれを紛らわしてきた部分があるのですが てっきりその慎ましさが(自分で言う?)受け入れられているとばかり思っていたのに 先日のカウンターバーで織田さんは激しいものを持っているから と言われてばれていたことにびっくり 今はまだじかにそれを発揮することはできないけど
仙覚さんの小説が完成した暁には もっと大胆に自由に生きたいと思います と 年末にあたって笑 (ここまでの境地になれたのが今年の収穫かな でも ここにくるまで 長かった)
RTの銀パリ 父が早世してなかったら 私も通う人たちの人になっていただろうな と 先程ツイートしたことの 私のなかでの象徴的な存在 父が通っていて 丸山明宏さん方を撮っていました 今も家に写真があります