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2019.12.29 ツイッターから転載…日々雑感、「丹後内侍と安達盛長の結婚」と「範頼とその二人の娘の結婚」のこと&その他もろもろ

12月27日

おはようございます 源氏物語は人を結びつける不思議な力を持っているようです というメールを頂きました 先日行った実践女子大での源氏物語シンポで展示されていた貴重書 中に黒川真頼の蔵書印があって 私の源氏物語の鎌倉での活動を支援して下さっている方が黒川真頼のゆかりの方だからご報告した事

 

へのご返信です 支援して下さるのもそういうご環境があってのご理解でした なので最初の鎌倉投信邸をお借りしての講演には 黒川真頼のお孫さんが描かれた業平像の掛軸をかけて下さったり 不思議なご縁はさらにあって 私の鎌倉の源氏物語の最初の研究は北条実時の編纂説がある異本紫明抄だったのですが

 

その所蔵先が岡山のノートルダム女子大の黒川文庫で 私は文庫名までは知らずにいて 『源氏物語と鎌倉』の書評を書いて頂いた方に お礼状に鎌倉の黒川真頼ゆかりのその方の事を書いたら 実は僕はその女子大に勤務していたんですよと教えて頂き 黒川真頼繋がりのあまりの不思議さにびっくりしたのでした

 

写真は先日の上野で 西洋美術館園庭のブールデル「弓を弾くヘラクレス」です(覚え違いでなければ)

 

範頼が安達盛長と丹後内侍夫妻の娘といつ結婚したかを年譜で考えて 範頼の嫡子が生まれる前年くらいと考えると 範頼が平家追討に赴いていた九州から鎌倉に帰って二、三年のうち となります その頃丹後内侍の娘が出産可能な年齢として15歳とすると 娘は丹後内侍がまだ京にいる間の誕生で 盛長との結婚も

 

当然二人は京で結婚していたことに 盛長が頼朝に仕えて源平の争乱で忙しく立ち回っていたころ 丹後内侍は京で 島津忠久と安達景盛と もう一人男子と そして範頼の妻になる女子の 四人の子どもたちと過ごしていたことに 鎌倉幕府創設の準備に比企尼に呼ばれて丹後内侍は その四人の子どもと共に下向?

 

それともう一つ 吾妻鏡で丹後局という女性が頼朝から若狭国を下知されているのだけれど 局と内侍を公私の区別で使い分けているだけで 丹後局も丹後内侍だとすると 丹後内侍は若狭国を下知された この若狭って 頼家側室の若狭局という呼称に関係あるのかな と疑問

 

丹後局は政子が頼家を懐妊した時の倍膳を務めていて 内侍と同一人物と思わなかった時は幕府にそれ位有能な別の女房がいたと思っていましたが 頼家の懐妊はまさに幕府開設のドタバタ中 そんな時期にそんな有能な女房がすでに育っているはずないから ここはやはり内侍として 若狭国の下知はその功労?

 

今気づいたのですが 範頼は京で範季に育てられているから 平治の乱の時に10歳くらいとして 比企尼に吉見観音の稚児として入れられ その後範季に引き取られたのが数年後くらいなら15歳ほど それからずっと京で暮らすから 範頼は将来自分の妻となる盛長と丹後内侍の娘の誕生を見ているし 少女時代をも

 

暮れの吉祥寺

 

今迄範頼と盛長丹後内侍の娘の結婚は 比企尼か丹後内侍が決めたものとばかり思っていたけれど 年譜を見ていたら 範頼が頼朝に加担して源平の争乱で明け暮れ 京から離れている間に少女だった娘は成長し 鎌倉に幕府が出来て母親の丹後内侍に連れられて鎌倉に下向 そこに戻ってきた範頼が見出したのは

 

美しく成長した娘だったし 娘にとっても気さくな「お兄ちゃん」だった人が大将軍の威厳を持った人間として目の前に現れたら とてもベタな話になるけど これはもう二人の大恋愛による結婚ですね 孫娘がそれ程惚れ込んだならと 比企尼が吉見御所を与えたのもムベなるかな の話に思えてきました

 

範頼は書かないつもりだったのに 背景として存在する人間を 状況だけでも把握しておこうと調べ始めたら止められなくなって とうとう比企尼の孫娘との大恋愛にまで気持ちが入ってしまいました 昨夜あたりから この小説って仙覚さんの生涯を辿るんだったはずだけど と不安になってきています笑

 

12月28日

暮れの吉祥寺 買い物客で溢れているかと思ったけど 人混みはまばらな感じ 仙覚さんの小説 年内に第一章比企の乱を終わらせたいと思ったけどだめで 丹後内侍の段をと思ったのも無理みたいだけど ここで年末の諸々に気を向けたらまた気が拡散してしまう とばかりに範頼から離れずに頑張っています

 

写真は先日の上野 西美庭園にてカレーの市民 上野行ったの と言ったら妹に年末になってもまだ小説にとりかかってるの と驚かれました 普通の生活をしていたら書けません

 

12月29日

おはようございます ロダンといえばカミーユ・クローデル 前にピカソのジュヌビエーブ・ラポルトについて書きましたが 偉大な芸術家の愛人だった女性の手記や生涯を夢中になって読んだ時期がありました リルケのルー・ザロメとか 私はたぶん激しいものを持っているのですが 環境からそれを発揮するのが

 

許されなくて 書くことでそれを紛らわしてきた部分があるのですが てっきりその慎ましさが(自分で言う?)受け入れられているとばかり思っていたのに 先日のカウンターバーで織田さんは激しいものを持っているから と言われてばれていたことにびっくり 今はまだじかにそれを発揮することはできないけど

 

仙覚さんの小説が完成した暁には もっと大胆に自由に生きたいと思います と 年末にあたって笑 (ここまでの境地になれたのが今年の収穫かな でも ここにくるまで 長かった)

 

RTの銀パリ 父が早世してなかったら 私も通う人たちの人になっていただろうな と 先程ツイートしたことの 私のなかでの象徴的な存在 父が通っていて 丸山明宏さん方を撮っていました 今も家に写真があります

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2019.12.27 ツイッターから転載…日々雑感、範頼・範季のこと&高御座を観てきましたなど

12月24日

おはようございます 相変わらずという時間ではないけれど 鎌倉ペンクラブサロンの松田様のお話で封印していたクラシックを少し聴いてみようかなってかけたのですが やはり私にはまだ音楽は許されないみたい 結局真摯に自分のなかの言葉に耳を済ませて聴いていなければ言葉は浮上しないとわかりました

 

写真は吉祥寺コピスのクリスマスツリー 今日も籠って原稿と向き合おうと思っていたのですが 出てきています 資料探しだから仕方ないです

 

高御座 御帳台 を観てきました 資料が金沢文庫にならあるけど遠いし と渋っていたら あ 東博の資料館にはありそう と気づいて検索してやはりあって それならば高御座も観られるし となって出かけました 行ってよかった 素晴らしいの一言

 

12月25日

おはようございます 写真は昨日の上野 西美のハプスブルク展は観たいのですが諦めて東博へ 範頼の私が考える経歴が研究史と齟齬がないかの確認に 私が考える経緯は結局研究史では明らかでないんですね 不明でした なので私としては一安心 大いに構築できます

 

12月26日

範頼をみていたら 範頼は建久四年に頼朝に誅殺されているんですね ちょうど今吾妻鏡を読む会で建久四年 もうじき発表担当なのだけど 誅殺のところに当たったら嫌だなあと あまりに運命的過ぎますよね 写真は一昨日行った上野公園 東博(右端)へ向かう途中の光景です

 

今日は新月、始まりの日です

 

ただいま《朔》です

 

範季は『平家後抄』にとの注で本棚から「下」を出して見たら 以前わくわくして読んだ辺り この辺の知識はこのご本から得ていたんだ と今さらに感慨 範季の箇所も当然読んでいて 読み返せば記憶があるのがわかるのだけれど 注で教えて頂くまで思い出しもしなかった 知識が身につくのは繰り返しが重要

 

でも なぜ範季が範頼を引き取って育てたかは 角田文衛先生も 謎 と

 

RTの蘇民祭 私が仙覚さんのことでお世話になった比企の方は 何年か前 そのポスターになった方 どういう経緯で撮られたのか知らないけど お会いしたのがちょうどポスターの翌年だったから私も見ていて ああ となったのでした 事故で亡くなられて 私はその方のためにも仙覚さんの小説を完成しなければ

 

 

 

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2019.12.24 ツイッターから転載…日々雑感、範頼がいつ頼朝と対面したかを知りたいのですが&エリエッテ・フォン・カラヤン回想記『KARAJAN カラヤンとともに生きた日々』を拝読しています 等

12月22日

昨日 バーのマスターが新参の私たちを気遣ってのもてなしに手品をして下さって(こういうシチュエーションよく見ますよね 何かのシーンで まさか実際に自分が遭遇するとは!) 六色の骰子状のものの好きな色を上にして蓋を閉めてと 連れの女性は白を選んで蓋を そうしたらマスターが貴女は一本立ちしてる

 

から白 と当てたのですが そんなふうに言われるなら何を言われるか怖いですよね したくなかったのにどうしてもとみんなが言うものだからしたのですが マスターはたぶん私を見抜いてられるから 思ったとおりのことは言わずに エメグリを選んだから当たり障りなく爽やかな緑と 私は内心やはり自分は屹立

 

してないんだあ~ と思ったのでした笑 ちなみにその彼女 もう一回チャレンジして赤を置いたら やはり当てられて マスターがこういう人は赤か白しか選ばないんですよと 私が屹立するのは小説が完成した時だから何をどう思われても仕方ないです(と覚悟だけは据わってます)

 

じわじわとインクの染みのように滲みでてくる昨日のバーのカウンターの記憶 7人しかかけられない小さな店に私たち5人がすでにいて そこにラップを踊りそうな若者が2人入ってきた こんな若い人たちが気後れもせずこういう店に? と驚いたのだけれど 今思うと 彼ら ただの若者でなくきっとミュージシャン

 

だったんですね 注文の仕方も慣れてたし 私たちにも気さくに話しかけてきて 耳を傾けてきた 私ともう1人の新参者の彼女が先に帰ろうとすると ドアまで追ってきて握手を求められました なにか 年配者を忌避する若者がふつうのはずなのに またお会いしましょうと 煩しがられてないだけでも驚きだったのに

 

範頼がいつ頼朝と対面したかを知りたいのですが 吾妻鏡初出は寿永二年(1183)その時はまだのようで 翌寿永三年の義仲追討には義経とともに頼朝に命じられて上洛している ということは初出の記事の後にはじめて対面したのでしょうか 兄弟初対面のようすを想像しています

 

エリエッテ・フォン・カラヤン回想記『KARAJAN カラヤンとともに生きた日々』を拝読しています 鎌倉ペンクラブのサロンでお話して下さった松田暁子さんのご翻訳 エリエッテ夫人はディオールのトップモデルからカラヤン夫人になった方 二人の出会いがあまりに素敵なので翻訳をお受けしたそうです

 

私は偉大な芸術家の方が愛した女性の回想記を読むのが好き ピカソとの17年を綴ったジュヌビエーブ・ラポルトの回想録はもう本当に好きでした なのでこのご本に興味を持ってエリエッテ夫人ってどういう方? とお訊ねしたらちょうど持ってるからと頂いてしまいました 松田さんは何度もカラヤン夫妻に同行

 

して通訳をされているから 一般に私たちがカラヤンと言ってしまうところを カラヤンさん と言われます 私も 仙覚さんは 普通には仙覚ですが どうしても呼び捨てにできないからそんなところに親近感 話が逸れましたが 偉大な方が愛した女性の発言にはとても深いものがあって それが好きなんです

 

12月23日

昨夜twのピカソとの17年のジュヌビエーブ・ラポルト 彼女は慎ましやかな女性で 当初思い出は生涯胸の底にしまったままにする覚悟で いくら書くよう勧められても書かなかった それがいつしか思いが言葉として涌いてきて書く決心をした 仲間は 今は彼女は書いているからと じっと見守って待ったという

 

私はこの 今彼女は書いているから という仲間たちの見守りと 言葉として涌いてきたものを書く という彼女の真摯な姿勢に打たれて いいなあ これが書く原点だもの と忘れられないご本です

 

思いがけずジュヌビエーブ・ラポルトが思い出されて これは私自身の書く原点でもあるなあと思う 仙覚さんの小説は地味で難しい堅苦しいものとばかり自負してたのに 思いがけず先日の小さなカウンターバーで 織田さんは愛があるから書いてるんだよ と教えられて そうなんだあ と自分で思ったのでした

 

仙覚さんの小説 ずっと何か足りない 何かが欠けている と感じていたのですが これだったんですね! 文学には愛が根底 あまりに厳しい仙覚さんの生涯と厳しかった私自身の研究生活10年で こういうふくよかな潤いある感性の自覚を失っていました

 

吉祥寺コピスのクリスマスツリーです

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2019.12.22 ツイッターから転載…日々雑感、範頼のことなど&鎌倉ペンクラブサロンに行きました

12月19日

曇天の吉祥寺 時折雨がぱらっと朝から仙覚さんの権律師という僧位が頭から離れなくて これは今書いている第一章比企の乱には関係ないのだけれど いつ どこで 仙覚さんが出家したかは詰めておかないといけない問題で 解決にはまたかなりの時間を要するから 今から考え始めてちょうどいいかも

 

今まで 権律師は僧位としては最下位とばかり思っていて疑問を持たなかったのですが 鎌倉ペンクラブの講座の後である方から 僧位は人数が決まっているからそうそうなれるものではない と忠告を頂き そうっか 僧位を頂くくらいの場での出家だったんだあ~ とやっとことの重大さに気がついたのでした

 

仙覚さんの小説 物語ふうにドラマで仕立てていけばいいのだけれど それでもこの僧位の問題とか いろいろ解決しなければならないことだらけで 歩みは研究と変わらない 楽しいです

 

12月20日

おはようございます 原稿に籠りたいけど諦めて しつこくしつこくRTさせて頂いています 狂ってる と思われるくらいに怒ってるということの証に 怒らなければ何も変わりません まず怒ると自分が一歩前に進みます 鎌倉の源氏物語と万葉集でたくさん怒る経験をして乗り越えた経験から 写真は吉祥寺駅南口

 

RTさせて頂いた片淵須直監督の「歴史を知らないと、個人は描けない」 まさに今私が直面している問題 思わず共感でRTさせて頂いてしまいました

 

比企の範頼館跡といわれる息障院です 吉見は比企尼の領地だったらしく 丹後内侍と安達盛長の娘を範頼と結婚させ比企尼はここを与えたらしい ここは範頼が稚児として入れられたという坂東十一番札所の吉見観音とは歩いてすぐのところです

 

坂東十一番札所の吉見観音です 年齢から推察して比企尼は平治の乱後すぐに範頼を引き取ってここに入れたんですね その一方で伊豆の頼朝に二十年間物資を送り続けた 伊豆に流された頼朝に比して範頼のほうがいい思いをしていると感じるのは私のひがみでしょうか 範頼はこの後上洛して門脇宰相の娘が

 

嫁いだ範季の養子になって可愛がられている 範季の娘の重子が順徳天皇の母の修明門院だから 範頼が育った環境はそうとうだったはず 一方で頼朝は伊豆 兄弟ともに比企尼と丹後内侍のお陰で生き延びたといっても 文化に重きをおく頼朝に範頼の育った人脈はかなりのひがみになったのでは?

 

わかりました! 丹後内侍が二条天皇に女房として出仕したのは吉見系図に載っていて 比企系図にはないんですね ずっと不思議に思っていたのですが 比企氏はそれを把握していなかった 吉見氏は吉見氏の祖の父が範頼で その範頼の妻の母が丹後内侍だから 範頼の経歴から丹後内侍の動向が詳細に伝わった

 

範頼が謀反の容疑で殺された時 遺児が二人 比企の慈光寺に入れられます 一人は僧侶になり 慈光寺の別当にまでなりますが もう一人は僧になるのを拒否して たしか石川県だったと思うのですが そこで吉見氏の祖になります 比企氏から程遠い吉見氏の系図に丹後内侍が載るのはそういう経緯からでした

 

たしか長男の遺児は殺され 次男と三男が 比企尼と丹後内侍の必死の懇願で助けられて慈光寺に 大切な比企尼と丹後内侍に対してそれ程の冷酷な仕打ちをする頼朝が今迄理解できませんでした が 京育ちの雅を身につけ 丹後内侍の娘婿にまでなった範頼に対し 頼朝がそれほどまでの嫉妬を持っていたとすれば

 

12月21日

おはようございます 仙覚さんの小説は 比企の乱が起きて仙覚さんを身籠っている基子さんが鎌倉から逃げて比企へ向かうところまで書いていて中断 それはその時伊藤詩織さんの事件が報じられたからでした 詩織さんの受けた被害と基子さんの身重の身体と 事件が小説を超えて突き刺さってきて 私には他人事

 

でなくなり それからこの事件は私の中でずっと一体化してありました 書けないでいる間に時房を調べ 時政を調べ その間に令和になり 仙覚さんに注目が集まるようになって 私にもやっと書けそうな気が満ちてきた時の勝訴 会見で詩織さんが長かったと仰ってられたけど 私にもその 長かった が実感として

 

でなくなり それからこの事件は私の中でずっと一体化してありました 書けないでいる間に時房を調べ 時政を調べ その間に令和になり 仙覚さんに注目が集まるようになって 私にもやっと書けそうな気が満ちてきた時の勝訴 会見で詩織さんが長かったと仰ってられたけど 私にもその 長かった が実感として

 

あります 仙覚さんも時の権力者によって人生を奪われました それを書くのにただ比企の乱が起きた とだけでは意味がないと自覚できたのもこの中断期間 昨日 片淵須直監督が「歴史を知らないと、個人は描けない」と仰られたと読んで しみじみ この中断期間に私はそれをしてたのだなあと思ったのでした

 

基子さんが比企に着いて地元の人に匿われて無事に出産という中断前のそのままで書いていたら ここのところの比企尼や丹後内侍の見直しはなかったし 範頼がそんな風に京で丹後内侍と関わっていたなど出てこなかったし 今 私の中では彼女彼らが生き生きと蠢き始めていて 小説はやっとこれからです

 

スクランブル交差点@渋谷

 

鎌倉の帰りです ペンクラブのサロンの後の飲み会で始めてのお店に 昼間見るいつもの風情とは違う狭い路地の奥でした

 

これは飲み会に向かうまだ早い時間の小町通入口付近の花屋さん 帰りはもう閉まっていました

 

12月22日

おはようございます 昨夜の鎌倉の路地 歩いていたら吉兆庵美術館 北大路魯山人展をしてました 昨夜投稿の写真もこれも どの店も五人は無理で路地を放浪 私には楽しい散策でした

 

そして最後に行ったお店が中のお一方がもう50年も独りで通ってらっしゃるという本当は隠しておきたかっただろう小さなカウンターだけのバー 得難い経験をさせて頂きました ちょっと言葉にできない いつか独りで行きたい

 

昨日は鎌倉ペンクラブのサロン 独語の通訳で翻訳者でベルリンフィルのコンサート等のコーディネーターをされている松田暁子さんのお話を聴きました なかなかこういうお話は聴けないですよね という内容 楽しかったです 写真は会場の早見学園窓から見えた妙本寺方向

 

 

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2019.12.20 ツイッターから転載…日々雑感、丹後内侍と範頼のことなど

12月17日

丹後内侍は尊卑分脈で教盛の娘になっていて 私はそれを猶子になったと捉えているのだけど 逆に教盛娘が比企尼の養子になったという説も そんな辺りを見ていたら教盛の娘の教子が範季の妻に生っているんですね 範季といえば範頼を引き取って育てた人 範頼は比企尼にも引き取られて吉見観音の稚児に

 

丹後内侍が門脇宰相の娘というのは如何にも唐突な気がしていたけれど 範頼を介すとあながち無関係とは思えない 出先なので詳細を追えないけど 一考の余地ありです

 

範頼の範季との関係がもしかして比企尼からの か 丹後内侍から比企尼へか とにかく年代をすっきりさせなくては

 

原稿は高揚した気分で一気に書きたいけど イベントとかの外出で中断すると 高揚を取り戻すためにする見直しが 気づかずにいた意外な発見をもたらす 一気に書いていたほうがよかったのか 中断がなるべくしてそうさせられているのか いつも考えてしまうけど 展開が変わることは確か どうなのでしょうね

 

そうっか 前に範頼を書いていた時 吉見観音の稚児と範季の養子の前後関係がどうしても解けなかったけど 平治の乱で比企尼が引き取って稚児にしたのを 丹後内侍の伝で範季のところに と考えると整合性が 帰宅したら年代を精査して考えます

 

まさか 範頼は書く予定になかったのに書くことに? 丹後内侍と盛長のあいだに生まれた女子が範頼の妻になって 範頼は比企尼から領地の吉見を貰って住んでいますものね 吉見には範頼御所も

 

12月17日

学生時代以来初めてかもしれないリアルタイム視聴のドラマ グランメゾン東京 別にキムタクさんのファンではないけど 予告編で 見る! と決め 最初はシナリオのあまりの王道さに困惑したけど 本物の料理 本物の俳優さん 本物のシチュエーション にドラマ自体がどんどん本物感に深まってこちらも惹かれて

 

今週は実践女子大のシンポジウム二日目でしたが もちろん間に合って観ました いつも検索して反応を読むのも楽しみ で RTさせて頂くのですが これはあえてのRT 目下のところ仙覚さんの小説にかかっているから おのずとTLが鎌倉時代 でも私の原点は仏文のヌーボーロマンだったはず と TLの気分転換です

 

またまたグランメゾン東京ですが 世事に疎いから 検索でみどころやツボを教えられています 先のRTの キムタクだから許されるバイクの降り方 というのを読んでも バイクに乗らない私には何があったのかわからなかった あえてつぶやくほどことが起きたの? ともう一度見て そうだったのか~と笑

 

済みません グランメゾン東京の連続TW これですっかり気持ちが抜けました 筆致に影響するような気分の詰まり方ってあります そういう時の気分一新には目下のところこれが一番 なぜなら このドラマ 正統派だから 正統派の文学を目指しています 仙覚さん そう書きたい(歴史臭を抜けたい)

 

12月18日

おはようございます TLに流れてくるある方の撮影スタイルが好きなのですが コメントに 誰もいない身近な場所でなんでもない写真を撮るのが好きとあり あ! と思いました これは私が一番苦手としているスタイル で これは先日の実践の帰りのバス停で空の景色に惹かれて撮ろうとして 撮ったところでどう

 

なるの? と思い 止めようとしてこの方のコメントを思い出し 撮りました 私は写真を仕事にしていたから 撮って何かに使われるというような意味のある撮りかたしかできないんです でもこの方に見習って これから なんでもない写真 を撮っていきたいです

 

昨日の範頼の件 平治の乱の時範頼は4歳 比企尼は伊豆の頼朝に仕送りをするのと同時に 範頼が残党狩りに遇わないよう比企に引き取って吉見観音の稚児にした その後 丹後内侍が教盛の猶子になって二条天皇に出仕し 教盛娘の教子が範季の妻になった縁で範頼を呼び寄せ範季の養子となって育てられた 続

 

教子と範季の娘が順徳天皇の母の重子で修明門院だけれど 重子が誕生した時はもう範頼は頼朝と一緒に源平の争乱で戦っているし 丹後内侍は既に鎌倉に下向 順徳天皇が誕生した時にはもう範頼は亡くなっています 比企の乱はそれから数年後 仙覚さんの生涯に範頼がどれくらい関わるかを年譜でみたのですが

 

ほぼ関係なかったでしょう 比企の乱のころはもう丹後内侍は高齢だし それから十数年後に仙覚さんが順徳天皇に逢うとして 伝はやはり叔父の円顕でよさそう

 

ただし 直接の関わりがなくても 丹後内侍は教子と連絡とれただろうし 重子に働きかけることもできたかもしれない

 

でも 以前から丹後内侍と安達盛長の娘が範頼の妻になっているのが不思議だったのですが 丹後内侍とのこういう繋がりだったんですね 範頼は京で丹後内侍に相当お世話になっていたのでしょう 普通には頼朝の弟だから範頼の方が立場が上に思うけど ここでも比企の尼たちのほうが様々画策

 

また空の色に惹かれて@吉祥寺 お詫びですが ここ何日か新しくフォローして下さった方がいられます ありがとうございます で お詫びなのですが私は原稿の合間にTLを追っているのであまり長くなると追いきれなくなるのでフォロー返しを自粛させて頂いています 失礼とは思うのですが申し訳ございません

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2019.12.18 ツイッターから転載…日々雑感、実践女子大の源氏物語シンポジウムに行って

12月14日

ここに来ています 実践女子大での源氏物語のシンポジウム 実践の創立百二十周年記念の行事のよう 今日明日の二日間で今日は古筆切と紙のお話 ちょうど春に古筆切に取り組んでいたから懐かしく拝聴しました

 

私はここで中高を過ごしました それがなかったら今の河内本研究はありません というのも 大学が同じ敷地にあったからで 源氏物語の権威の山岸徳平先生が学長でいらしたことなど聞いて知っていたから なので金沢文庫で尾州家河内本源氏物語を見つけた時 その下地があったから これは! と思ったのでした

 

実践女子大学国文学科の源氏物語シンポジウム 二日目明日15日のプログラムです 井筒様の十二単 三条西家の古典学 源氏物語と組香 お能の宝生和英氏 予約不要・無料です アクセスは渋谷駅東口から54番バス日本赤十字センター行で青山学院初等科下車(二つ目の停留所です) 13:00開演

 

実践女子大学源氏物語シンポジウムの会場となっているビルの一階に香雪記念資料館という一室があり そこで源氏物語に関する貴重書の展示がされています 古筆切が豊富な展示でした 明日も行くのでゆっくり堪能したいと思って これから頂いてきた展示解説を読んで予習

 

武蔵野書院様がいらしていて 冊子『武蔵野文学』を頂きました 特集「流布本で読む軍記物語」 これが無料配布なんて!

 

香雪記念館は むかし 中高の校庭をぐるりと取り巻く築山の茂みの中にある 白壁の土蔵のような 富貴堂のようにこじんまりとした 仕舞班の人が練習に使うほか誰も入れない由緒ありそうな建物で 名前の素敵さもあって 心の奥に大切にしまわれた思い出だったのですが ある時取り壊されて大学に移転と どこ

 

に移転になったのかしらと 以前にもシンポジウムがあった時に大学内の敷地を見渡したりしたのですが なくて 諦めていたら なんと 大学のビル内の一室になって 展示場に 風情って 失われるものですね 心の中の富貴堂のような香雪記念館 永遠にとっておきたいです

 

12月15日

井筒様太っ腹 写真撮影可ですって 主催者の方が禁止をマイクでお話されたら出てらして

 

撮りたてのほやほやで 桜襲です(玉鬘の細長実演に重ねて明石の姫君の桜襲をしてくださいました)

 

桜襲のアップをどうぞ

 

桜襲はとても白い薄い衣に桜の花模様を織って 先に着ていた赤い衣に重ねると桜色に

 

二日間の実践女子大での源氏物語シンポ 源氏物語三昧にとても豊かな気持ちになっての帰りです 明日からまた厳しい仙覚さん世界 でも底流に実時の源氏物語があるからいずれ浮上します 写真は会場の実践女子大五階の窓から 西陽に輝いていました

 

二日間が終わってしみじみ思ったのですが やはり実践は源氏物語への取り組みが違う 学問としてでなく 源氏物語と真剣に取り組んで文化として継承させようとしています 隣接する女子大でこういう取り組みをしているから 中高でも源氏物語がそれとなく浸透しているのだなあと思いました

 

実践女子大での井筒與兵衛様解説での十二単(実際は細長)お服上げ実演 重ねる毎の順にアップさせて頂きます(なぜかPCに取り込めなくて編集できず、枚数が多くなって恐縮ですが) 玉鬘の橘襲です 最初は白い衣から

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 その二

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 その三

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 その四

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 その五

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 その六

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 その七

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 その八

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 その九

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 橘襲が完了して檜扇を

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 袖の重ねを整えています

 

実践女子大での十二単お服上げ実演 橘襲の完成です

 

こちらが少し下のほうまで写っていますね(補助椅子を出すほどの盛況で 井筒様は動いて撮っていいと仰られたのですが 自分の席からしか撮れませんでした)

 

橘襲 最初に白い色を着たのは白い花が咲くから 緑はその葉 そして実がなって黄色に という意味合いだそうです 織で浮き出た紋様が素敵でした

 

細長の黄色い衣を外し 唐衣と裳を着けて正装に これが正式の十二単だそうです

 

裳を着けて

 

裳です

 

この唐衣は鶴岡八幡宮様にある実際の唐衣を復元されたそう 鶴岡八幡宮様のは一ヶ所紋様の色を間違えて織ってあって 神様にお供えするのに間違ったままのを というのは 当時の感性はそれを気にしないような 今と違うものがあるのかと 井筒様は考えられてしまったそうです

 

空蝉の実演 脱ぐ時は一番下の白い衣まで全部一緒にスルリと

 

空蝉の実演 脱ぎ捨てられた一式

 

12月16日

おはようございます 十二単の深夜の連続TW ご迷惑かなと心配しましたが楽しんで頂けたようでほっと 橘襲の緑ですが これは雅子皇后が妃殿下でいらした時の十二単をご覧になって作られたそうです 今回も雅子様は緑をお使いになられてましたが 井筒様のお眼にも斬新に映ったそう 新風だったんですね

 

お服上げ実演で十二単の正装として着付けられた唐衣と裳 最初から会場に室礼のように飾られていたのですが ピンときてなくて 着付けた段になってわかりました 気づいていたら裳の裾のほうを撮っていたのに

 

実践女子大の源氏物語シンポに武蔵野書院様がいらしていて 初日にこのご本を見て惹かれたのですが もう新しく図書は購入しないと硬く決意しているから買わずに帰って でもやはり欲しいと思って購入するつもりで昨日改めて手に取ったらとうてい個人で持つにはの価格 諦めてこのチラシを頂いて帰りました

 

なのに チラシに載せられている目次を見たら やはり欲しい というかとにかく拝読しなければ となってむずむずしています まさかこういうご本が出ていたなんて

 

実践女子大の源氏物語シンポに行ってよかったと思うのは ずっと鎌倉の源氏物語の歴史として源氏物語の内容でなくチェスのコマのように源氏物語という存在だけで終始してたから それがやはり源氏物語は馥郁とした香りのある優雅なものだということを甦らせて頂いたこと そして これは二日目のプログラム

 

に三条西家の古今伝授があって 夏の岐阜での発表に三条西家の源氏物語が必要になって少し調べたから 拝聴するのが楽しみでした そうしたら 今まであまりこの分野の研究にはお目にかかってないのに こういうご本まで出ていて なんかまた広がっていきそうで楽しい

 

それと これはたぶん最大の収穫と思うのですが 実践女子大の源氏物語は 三条西家の歌学を継いでいられるとのこと 普及している白い本に対する批判の原点がそんなところに? の気がしました なんとなく目から鱗(振り返ってみると結構過激なシンポだった?)

 

俊成さま〜 三条西家の歌学にとって 俊成さまは神様ですって 昨日実践で小高道子先生が仰ってられました! 「三条西家の古典学ー古今伝授と源氏伝授」というご講演でした 三条西家は二条家の歌学を継いでいるからと そして 例の草の原の判詞のあたりの解釈をめぐって 時間を費やすなどされてました

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2019.12.16 ツイッターから転載…日々雑感、『吾妻鏡』を読むことなど

12月10日

ふう〜っと やっと自分に戻ってこれから 今日は人と会う用で終日時間をとられ 大切な人だから会うことを大切にしたいからだったのだけれど 仙覚さんの原稿に集中している今は普通の世間話が何よりもの疲労 帰宅して寝て起きての今です 小説に没頭したいけれど 浮世に生きているとそれを守るのが難しい

 

この第1章比企の乱 第1章というくらいの短さだけれど これってこの章だけで一年分の大河になる? っていう感じの内容 これから丹後内侍と二条天皇の万葉集を書き 時政の大番役で在京中の建春門院滋子さんを書き 六代御前を書いて やっと比企の乱 そしてやっと基子さん←やっぱ年内は無理ですね笑

 

とどうしようもないことを呟いて やっと自分を取り戻しました ほんとうに一気に集中して書きたいです

 

今読んでいる全譯吾妻鏡です 索引と第1巻 比企尼を索引で検索して第1巻の何ページと何ページ 比企能員を検索して第1巻の何ページと というふうに読んでいって年譜にしたら 比企尼が大倉御所成立直後に比企谷を与えられていること 能員が御家人になったのはそれから ということがわかりました

 

能員は頼朝の父義朝の代から従っていた御家人たちとは違うんですね その能員が 娘の若狭局が頼家の側室になって一幡を産み ゆくゆく一幡が三代将軍になると外戚の地位を得る これは時政だけでなく 他の御家人たちにとっても許しがたいことだったかも だから軍勢が一気に比企谷に押し寄せた?

 

そうっか それで納得するのは 頼朝が亡くなると御家人たちが結集して頼家の将軍としての権力を分散させようとしたこと そういう動きに能員が不満を持って その不満が謀反の嫌疑をかけられるよう仕向けられる それらの動きって 古い御家人たちの能員への許しがたさからきていたんですね 納得

 

比企の乱って 単に時政の外戚の地位争いだけでなく スケールの大きい嫉妬、嫉みの問題 だったかも(能員 幕府の中で浮いていたのかもです)

 

そういえば むかし 新人賞を頂いたころ 何方かに 嫉妬や嫉みに気をつけなさい と言われた 嫉妬やネタミソネミが人を滅ぼすと

 

雑木林の紅葉@井の頭公園

 

12月12日

おはようございます 今朝のクリスマスローズです 植え替えなかったからさながら自生の群落 でもそれがまた可愛い 昨日は疲れて何もできませんでした 出かけるとやはり体力の消耗が激しいです 籠って書きなさいとの司令ですね 昨日の比企の乱の妬み説 吾妻鏡の御家人たちの動きが不審だった謎が解けて

 

今まで一幡と実朝に領地を半分ずつみたいなその辺りの政治面は書けないと思っていたのですが 御家人たちの心理状態から動きが見えてきたので書けそうな気がしてきました 比企の乱の年に仙覚さんが生まれたところから書くはずだったのに 比企の乱の根本まで踏み込むなんてと 小説の文章に畏敬を感じます

 

昨日 歩いていて見たフェンスからはみ出す小菊たち 小菊のこういうところが好きです

 

通りすがりに 富士山が見える丘 とあったので入ってみました 牟礼の里公園 綺麗に整備された小さな公園です 所々日本庭園風 富士山はたぶん望遠でなきゃ撮れない距離 そして今日は見えてませんでした 皆様気候のいい時は寝転んで読書したりとのんびりしています

 

そして発見 藤棚があるんですね 前に来た時はなかったような 藤の季節になったらまた来よう!

 

12月13日

おはようございます 道を掃いていたら 昨日の強風で遠くの銀杏の木から吹き寄せられた黄色い葉と やはりどこかからの赤い桜の葉がとりどりで綺麗でした 一昨日の外出疲れが響いて創作意欲ゼロ 昨日は年末の片付けものをして過ごしました せっかく比企尼で盛り上がったのにあ~あです

 

こちらは我家の紅葉の吹き寄せ 昨日の大半は寝て過ごしたような感じだったからTwitterも見なくて 先程から遡って見ていたら 池原陽春先生『萬葉集訓読の資料と方法』が二年前の今日発売と 発行されてすぐには図書館に並ばないから見送ったまま忘れていました Twitterはとてもいい注意喚起のツールです

 

『全譯吾妻鏡』を古書で買ったのですが 挟まれていた月報にこの書込みが 史学出身でない者が吾妻鏡を読むとまずこの読み方に突っかかります 私ももう何年も読む会で学んでいますが 学生時代に学んでいないといくら覚えてもその都度忘れる なのでこの月報を見るたびに物凄い親近感!

 

もしかして Twitterをご覧の方のなかに元の所持者の方がいらっしゃるかも ですね お譲り下さってありがとうございました ずっと大切に役立たせて頂きます

 

夜の吉祥寺 隣でノートパソコンを使っていた男性 ちらと見えた画面が長い文章を作成中 小説?と思い 今の方はこうやって外出先でも入力できて文章を書けるんだ~ と思う 私には無理 何本も万年筆を潰した原稿用紙での執筆からキーボードに入ったから 筆先から滲み出る文章って まず横書きでは書けない

 

私の書いている仙覚さんの小説は どうなるのかなあ 現代の方に受ける小説とは全然違う気がする でも いいんです 書きたいように書いていて楽しいから(と やっとその心境になりました)

 

月が綺麗です スマホにて

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2019.12.11 ツイッターから転載…日々雑感、比企尼は鎌倉幕府創設時の御台所政子周辺を整える教育係でした!

12月9日

おはようございます といってももうそんな時間ではないですね笑 比企尼が鎌倉に下るにあたり 領地の比企から書きたくなって 比企尼の領地ってどこ? と考えて 最初は吉見観音のある吉見にしようと思ったのですが そこに住んだ形跡はなくただ領地だったらしい で やはり一般論で宗悟寺の奥?と

 

宗悟寺は東松山市にあり ここには若狭局が持って逃げたという伝承の頼家の位牌があります 宗悟寺の脇道の奥一帯に比企尼邸があったそうなのですが 訪ねたとき その道をいくら行ってもなにひとつなく 人ひとりいないし 怖くなって途中で帰ってきてしまいました 二枚目の写真がそれです

 

宗悟寺の山号は扇谷山 鎌倉との関連を考えると意味深ですね 近くに大谷瓦窯跡があり 比企氏は窯業でも財を得ていたのでしょうか 二枚目は最初の投稿の道をさらに行った所 その先もずっとこのようなので 勝手にこの平地が尼邸跡と心に刻んで引き返したのでした でもここも伝承の域です

 

ちょうどいいのでご紹介 宗悟寺様境内には比企一族顕彰碑があります この碑を建てた方に案内して頂いたのがこの写真を撮ったときの二回目の訪問で この日は若狭局が持って逃げたという頼家の位牌を拝ませて頂きました 伝承では若狭局はこの地に住み 比企尼邸よりさらに奥の串引沼に身を投げたとか

 

土地は その地がたしかに当時その人たちの住んだ場所かどうかにかかわらず 伝承であっても その地に行くと 空気感というか その人たちがたしかに生きていた息吹 のようなものを感じますね

 

昨日の行方不明だった菊の本と一緒に 丹後内侍のこの年譜も行方不明で どう探してもなくて諦めていたら 今 出てきました 持ち運び道具の一式に そういえばここ数日この一式を使わないでいた~と唖然 毎日運ぶからと入れたのでした ほっとして執筆再開 丹後内侍をいつ下向させるか問題で必要の年譜です

 

繋がりました! あまりの完璧な適応に自分でびっくり 政子のマイフェアレディ計画は丹後内侍が教育係になります なぜなら丹後内侍は二条天皇に出仕した女房経験があるから 昼にこの年譜を見つけ 吾妻鏡と照合して比企尼と丹後内侍が鎌倉幕府創設後のいつから鎌倉に下向していたかを年譜化したんですね

 

そうしたら二人とも頼朝の最初の大倉御所の時期から鎌倉に これはもう頼朝が御所内の政子周辺の体制や制度作りに比企尼を頼ったと思っていいと思いました それで比企尼はまだ京で暮らしていた丹後内侍を呼び寄せたのだと思います じつは 日中 政子が伊豆の田舎暮らしの出なのに 頼朝に従って上洛した時

 

宮中で堂々と振舞っているのが以前からずっと疑問だったということをツイートしようとしたんです ネットの不具合でできなくて削除したのですが その京での振舞いへの疑問が丹後内侍の下向理由に繋がったのでした これだと吾妻鏡にある丹後内侍と丹後局は同一人物になりますね 公の女房名と私事の区別

 

(実朝のご質問があって)実朝には少年時代に京から下ってきた源光行という人物が歌の師としてついていて、それで京の話をたくさん聴いて育ったから、京への憧れが強かったのだと思います。光行は平家に仕えていたから、建礼門院徳子など京の女性に憧れを募らせるような話をしたりしたのではないでしょうか。

 

書き忘れましたが、実朝が定家を歌の師にしたのは、光行が帰洛したためで、光行は定家と親交があったから間を取り持ったのではないかと考えています。

 

12月10日

おはようございます 今朝浮かんだセリフ 比企尼のです 「丹後内侍を呼びましょう。二人で貴女様をお助けします」 仙覚さんの小説での展開ですが 鎌倉に幕府を開いたときの体制作りに頼朝は比企尼に助けを求めた 鎌倉の谷戸に館を建てたから下向して自分を助けて欲しいとの頼朝の願いに応えてです

 

やっと小説が動き出しました 長かった ここまでくるの 写真は去年12月の鎌倉駅東口 月が綺麗だったのですがスマホでは泣 この時はまだ鎌倉から離れるなんて夢にも思っていなかった 一か月後の鎌倉ペンクラブ新年会で叱咤激励されて小説に専念する決意をしたのでした それからやっとここまで感謝

 

小説の文章は不思議 人間関係や人間の心理にきちんと根差していないと筆が進まない 書いても書いてもそういうことが理に適っていないと結局没 なにがおかしいのだろうと思って史実を練り直すと従来の見解では見えていなかった世界が浮かび上がる そうするとわくわくして書けるようになります

 

なぜ丹後内侍を書くようになったかというと それは仙覚さんが二条天皇の『万葉集』を重視したから 二条天皇と清輔を書いていたら そういえば同じ宮中に丹後内侍がいたんだ! となり それから丹後内侍を調べ始めて  その下地があるからそれが目下の関心の頼朝の幕府体制作りに視点がいきました

 

これらのことは いずれ 仙覚さんの万葉集になっていくのですが ここで丹後内侍にからめて二条天皇の万葉集を書いておくのは布石です

 

Twitterのご縁で 素敵な万葉花暦のカレンダーを頂きました!

 

今日のクリスマスローズです

 

 

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2019.12.9 ツイッターから転載…日々雑感、比企尼についての考察が進展中です

12月7日

おはようございます 雪予報だったのにそうではなかった朝 積もったら大嘗宮に行こうかななど思っていました 政子さんが出産の1ヶ月前に産所の比企尼邸に入ったその辺りの比企谷の四季などを描写したいと 昨日ずっと考えていてまだ本文に取りかかっていないのですが 今朝お台所に向かっていたら ふっと

 

そうだ ここで政子と丹後内侍を会話させようと思いついて そうしたら そうっか 比企尼邸での政子の世話は丹後内侍がすればいいのだと展開し そうしたら そうだ! 産所に決まった時に世話係として ここで丹後内侍を京から呼び寄せることにしたとすればいい となりました 二人の友愛みたいなの書きたい

 

島津忠久ご落胤説を巡って政子が怒って丹後内侍を鎌倉から追い出し 丹後内侍が住吉大社で出産したなどの伝承がありますが 吾妻鏡に政子が丹後内侍を憎む記述はなく 丹後内侍は比企の乱まで鎌倉にいます 比企の乱の時の二人の関係は今後の展開に任せますが 際立った人間性を持つ女性同士の友愛っていい

 

菊の育て方の本をコピーしてからその本が行方不明で 昨日一日家中探し回ってもなく 図書館の返却日までに出て来なかったらどうしようと思っていたら まだコピー機の中に収まったままで発見してほっと 写真は昨夜の発光する福島県方向の夜空です

 

気がついたのですが 政子は丹後内侍を憎んでいませんね 後年 頼家が丹後内侍の子の景盛の愛妾を奪ったとき 政子が自ら乗り込んで頼家を諌めています それから景盛は政子のお気に入りになって景盛は鎌倉幕府の忠臣になります 丹後内侍を憎んでいたら 政子のこの行動はなかったと思います

 

12月8日

おはようございます 仙覚さんの小説 本文にかかっています 凄い久しぶりのこの感覚 こころゆくまでしみとおっていく感覚 文章が開いていくってこういうことなんだなあとしみじみ嬉しい 今までずっと見ても見てもびくとも動かなかった字面が開いて 二行だったところにエピソードが入って何行にも

 

心が開く ということと 文章が開く ということを 物理的に二行のあいだが開いてが何行にもという字面で見ているのですが なんか 嘘のような奇跡的な感じ 長く論文やコラムみたいな文章ばかり書いてきたから こういう開かれた文章の明るさがまばゆい 解放感! 写真は過去の たぶん鎌倉にて

 

たくさんついていたクリスマスローズの蕾がみんな開花して可愛いのですが 植替えをできずにいたから小さな鉢に密集 ごめんなさいと詫びながら でもやはり白い花は清楚でいいですね

 

春日局ではないけれど 比企尼は鎌倉幕府創設にあたり政子周辺の体制を整える相談役に比企から呼ばれた気がしてきた 比企谷を与えられて能員邸ができるのが本当に幕府草創期なので 鎌倉には京の宮廷のような仕組みを知る者がいないはずなのに 頼家を懐妊した政子にすでに「女房」がついていたりして

 

『吾妻鏡』に二十年仕送りを続けた恩に報いて とあるので 如何にも報恩のために鎌倉に呼び寄せたみたいになっているけれど 頼朝には他に頼る人物はなく 政子は宮廷の仕組みを知らないから 政子が御台所として君臨できる体制を築いてあげられる女性の人材が必要だったはず 頼朝はそれを比企尼に?

 

頼朝はすでに両親を失っているから 政治面では岳父時政に 大奥管理を乳母だった比企尼に というふうに頼って 二人が両親の役割をして頼朝を支えたのではないかと思えてきました 比企尼も比企谷も比企の乱もメジャーに扱われたことないからどなたもここまで追及されてなくて どうなのでしょう

 

とはずがたりの時代でさえ 新将軍を迎える御所の室礼を相談された二条が あまりの鎌倉の無知に唖然としてるのだから 鎌倉幕府成立当初の体制作りには 一からしなければならず 相当知識ある司令官がいたはず それが比企尼だったとして 政子に仕える女房を選ぶ面接官のような場面が浮かんで仕方ないです

 

選んだ後は 御家人の妻から選んだそれら女房に 行儀作法や敬語の使い方とかを教え 政子自身にも毅然として君臨しなさいとか そんな恥じらっていてはダメ もっと毅然と とか そんなふうな情景があったのでは? 想像し過ぎでしょうか笑

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2019.12.8 ツイッターから転載…日々雑感、仙覚さんの小説・執筆に入りました

12月5日

おはようございます 今日から本文 しみじみ玄覚さんの独白バージョンで書き始めた当初の集中を思い出しているのですが 我ながら完璧な出だしと思っていたのにすぐ躓いてそれから迷走 二年にわたる長い迷走でした それは時房を書こうとして調べ始めたら 父時政も調べなければならなくなり だったから

 

仙覚さんのことだけだったら玄覚さんの独白バージョンで気持ちよく集中できた でも仙覚さん以外の人物の膨らみが全くできてなかったことに書き始めてわかったのでした 物語が動かなかったわけ! たぶん もう 大丈夫 わくわくしています

 

チェンバロ 素敵ですね TLでは毎日拝見して コンサートに行きたいなあと憧れているのに 仙覚さんの小説が終わるまでは禁欲生活 せめてTVで観て聴いています NHKらららクラシック いい番組でした

 

鎌倉ペンクラブの講座を終えてのご報告に比企の方から「貴方様が播かれた貴重な種子は確実に鎌倉に、そして比企にも根を下ろしつたあります。○○様の供養の為にも最後の仕上げを期待しております」と頂きました。この方のご協力がなかったら今の私はありません。土地ならではの情報をたくさん頂いて。

 

○○様をご紹介頂いたのもそのひとつ。仙覚さんゆかりの方です。大変応援して頂いたのに事故で亡くなられて、私はその方の為にも小説を完成させなければと念じています。

 

久しぶりに原稿を見たら なんか書き急いでいるなあと 大幅に手を入れなければならないと思う 今まであんなに時間があって 書こう書こうとしていたのに書いたものがこんなだったなんて やはり小説は気持ちが膨らんでいないと書けない 比企尼の菊花の宴感覚でやっと気持ちに余裕が出たようです

 

何度も何度も戻ったとツイートし その時はほんとうに研究から小説に感性が戻ったと思っていて 書き進めてはいたのだけれど 玄覚さんの独白バージョンの自分で認めるあまりの完成度にとうてい追いついていないのが自分でわかるから とにかくそうならなければと必死でした やっとほんとうに戻ったかも

 

何より 自分の書いた文章を読んでいて心が入っていく 今まで心が焦っているから 読んでいても字面を追っているだけしかない感覚 無機質な感覚でした やっと有機的に?(日本ではこんな深夜というより未明に呟いている私は異常ですが Twitterだと海外の方が今現在活動されていてTLで並ぶ 面白いですね)

 

12月6日

おはようございます 比企谷の能員邸が頼家の産所になっているので 改めて年譜を見たら頼朝が旗揚げして鎌倉に入って僅か三年後 ということは比企尼は鎌倉幕府成立早々に比企谷を贈られて鎌倉に住んでいたんですね 政子はまだ初々しい初産の妊婦 片や比企尼は三人も娘を育てていてしかも頼朝の乳母

 

今朝起きて早々に 政子は比企尼が苦手だった という文章が浮かんだんです それで気になって比企尼登場後の鎌倉幕府での政子と比企尼の関係を考えているのですが 政子は伊豆で頼朝が比企尼からの仕送りをどんなに心の励みとしていたかを一番よく知っています だから比企尼に対して尊敬とか感謝とかで

 

しか見ていなかったのに 実際に産所となった能員邸で比企尼の世話になったら 一方は京の雅を身につけた しかも頼朝を20年間も守った気丈な女性 そして自分はただ伊豆で育っただけ 政子のうちに卑下とか反発心とかの複雑な感情が湧いておかしくない 後年の比企の乱の遠因はこんなところにありそうです

 

政子が我子に乳を与えたがったら それは下々のすること 上流階級の女性は乳母に任せるものと言われ させて貰えなかった というエピソードを聞いたことがあるのですが 吾妻鏡に書いてあるのでしょうか もし自分で頼家に乳を含ませ育てていたら 比企の乱は起こさなかった と後年政子は後悔したでしょうね

 

吾妻鏡の初期の頃を読み返さなければ! そんなことを言って政子を諌めたのがもしかして比企尼? などという想像も

 

と 朝からこんなに頼家の産所となった比企尼について呟きましたが こう動いてこそ小説 これが動かなくてずっと苦しんでいました 原稿を読み返しても 字面がびくとも動かない ほんとうに参っていました 膨らんだから これからどんどん もっと膨らませれば きっと満足します

 

丹後内侍の処遇をどうするか まだ年譜を確認していないので決めていませんが 政子が島津忠久を身ごもった丹後局を憎んでそれで丹後局が鎌倉から逃げて住吉大社で産み落としたという伝承があるくらいだから 政子の中での比企氏への恨みは相当ですね ただ丹後内侍と丹後局問題 これをどうするかも課題

 

なんの大河だったか忘れましたが 比企尼を二木てるみさんが演じてらして その清楚な初々しい尼姿のイメージがあるから それから脱却して今朝の政子との確執を理解するには 一昨日来の 比企谷を菊花で満艦飾にして頼朝を呼び寄せる策略家 を思いつくまで考えられませんでした

 

頼家と実朝の産所 頼家は比企谷の能員邸 実朝は名越の時政邸 共に七月中旬から十月中旬までの三ヶ月 そしてそれぞれ能員が頼家の 時政が実朝の乳母父になって外戚の地位を争う これが比企の乱の発端ですね 政子は三ヶ月も比企尼に世話されて 早く御所に帰りたかったでしょう

 

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2019.12.7 ツイッターから転載…日々雑感、比企谷を菊花で満艦飾にする思い付きのことなど

12月4日

おはようございます 昨日から菊三昧 菊にこんなに関心を持つ日が来るとは! 菊は手がかかると聞いてはいましたが 一年中手入れが必要なんですね それで思ったのですが 比企尼はそれを利用して菊で満艦飾の館を造り頼朝を呼び寄せたと 深慮遠謀です笑

 

というのは 昨夜引用した『吾妻鏡』の「外に於ては未だ此事有らず」の文章なんですが よそではまだ咲いていないのに比企尼のところだけ満開だったから頼朝が来て酒宴をしたと ここに引っかかっていて 鑑賞用に丹精込めて時期を計算して菊を栽培すればそういうこともできるかもと思ったのでした

 

重陽の節句 正治二年に後鳥羽院が飛鳥井雅経に その頃は九月に侍りしに、九月御坪なる心もとなき菊をおらせ給いて、結びつけて少将雅経に賜わる。 長月や今日の盛りに匂へどもまだ露なれず白菊の花 御返事 長月や今日をや露も待ちつらん置けばしをるる白菊の花 後鳥羽院といえば白菊ですね!

 

白菊に人の心ぞ知られけるうつろひにけり霜もおきあへず 後鳥羽院

 

後鳥羽院の白菊 今まで私は白黄紫と種々ある中で 院が白菊を選んのだと思っていたし 菊も まだ庶民に普及していない高貴な花だったとは知らなかったから 現代の嗜好として白菊をあえて愛でる院の感性に驚いていたのですが 白と黄色しかなかった時代の宮中の花だったと考えると意味合いが違ってきますね

 

白菊は白菊それ自体で高貴なのでした

 

高貴な花 白菊で埋め尽くされた比企谷 なんて! 今まで仙覚さんの小説は堅苦しいか地味一方かで とうてい源氏物語の 蛍の光で玉鬘を浮かび上がらせる などのような雅な誇張をできるはずがないと諦めていたのですが なんか 比企尼! でなにかできそうな気が笑

 

今日は半月、上弦の月です。

 

比企尼の家での重陽の節句より二、三年前に別のところで重陽の節句をしているので 鎌倉にいつ重陽の節句が入ってきたのかなあと気になっています 比企尼宅のが壇ノ浦から三年後 頼朝が鎌倉に入ってからは十年近くになりますが 京の文化を鎌倉でもするようになっていたんですね

 

その別宅での重陽の節句を見て 比企尼が菊を育てる準備をはじめ 盛大に咲くまでに育ったのが正治二年の記事 という気がします 菊は挿木みたいにして増やしていくそうだから 二、三年も経てば相当増えたでしょう

 

一枚目の写真のご本を拝読しているのですが 私が好きな姿の菊があったので それが二枚目 現代の品種らしいです 鎌倉時代の菊ってどんなだろうと探っているのですが 三枚目の上段右端が皇室の御紋になった一文字 とすると後鳥羽院が愛でられたのもこの一文字? 比企尼の菊は心の中で二枚目の神馬に

 

まだ本文に取りかかっていないのですが 比企尼宅の菊のエピソードでやっと物語が動き出して 今まで詰まっていたところから一気に展開しそう というのは 実朝なんですが 実朝の存在がある意味キーマンなのに入れようがなく省略を決め込んでいました 比企尼から丹後内侍を書いたら時政に そこに入れます

 

時政も実朝も丹後内侍も比企尼も みんな個々には私なりに極めてるから 道筋さえつけば詰まっていた時のようには時間を取らない 結局小説を書くということは そういう個々の肉付けに日がかかるということなんですね 時政に半年 丹後内侍に半年 みたいに

 

今年もお年賀状を準備する時期がきて 2016年に学会で「仙覚は誰か」の研究発表をして それを論文でなく小説で書くと決めてから毎年お年賀状に 書く書く書く とばかりの決意報告 今年の新年会でいつになったら書くんだとペンクラブの方に喝を入れられて やっと今年は少し進みました とご報告できそう

 

『吾妻鏡』文治二年九月九日 重陽の節を迎へ、藤判官代邦通、菊花を献ず、即ち南縣の流を移して、北面の壺に栽ゑらる、芬芳境を得て、艶色籬に満つ、秋毎に必ず此花を進ず可きの由、邦通に仰せらる←比企尼宅の菊花の宴の一年前のことです。邦通が菊を献上したのを頼朝が喜んで、これからは毎年献上

 

するよう申しつけています。ということは、それまで重陽の節句はなかった。重陽の節句を頼朝が気に入ったのを見て、比企尼が、では来年は自分のところでと一念発起し、翌年見事に咲かせて頼朝を迎え入れたと、こういう流れですね。菊の栽培に気合を入れる比企谷の人たちを描写したら面白そう

 

私の文章にそれは入りませんが ドラマ化したら絵になります!

 

先ほどの菊を献上した邦通 なんか重要な人だったなあと思い出せなくて調べたら 安達盛長が頼朝に紹介した人物でした 盛長の人脈が広かったということで読んだことがありました で 改めてこの安達盛長という人 献身的に頼朝に仕えていますが 実は頼朝よりも人間が大きい気がするのは私だけでしょうか

 

なんで盛長の人脈が広かったかが 謎です 背後に比企尼?

 

地震が関東に集中していますね。しかも栃木とか、ふだんあまり頻度高くない地域で 現在のHi-net地震マップです

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2019.12.4 ツイッターから転載…日々雑感、比企谷を菊の館に!

12月3日

おはようございます やっと動き出しました とは仙覚さんの小説のこと ずっと集中しようとしていたのですが進展しなくて このあたりエピソードにしなければと思っている箇所がどうしても動かなかったんです なのに未明に閃いて そうだ! となりました 昨日ですべての用が終わってほっとしたから

 

きっと思考を抑えていた蓋があいたんですね ほんとうに不器用と思う 他のことがあるとどんなに集中しようと思っても思考の蓋があかない 困ったものですね笑 で そのエピソードとは比企尼を菊育ての名人にしようと それも嵯峨菊の と そんなことで今朝からやっと原稿始動です

 

嵯峨菊は嵯峨天皇の時代の菊だから鎌倉時代に鎌倉にあったとしても大丈夫 とは踏んでいるのですが これから調べます 比企尼は頼朝の乳母として在京していたから嵯峨菊を見る機会あったと思うのですが・・・

 

それともう一つ 丹後内侍がいつ鎌倉に来たか 比企尼の長女だから 頼朝が政子を伴って菊の鑑賞に比企谷を訪れたときに 比企尼のかたわらに丹後内侍がいたかどうか いたとして 政子が持った丹後内侍に対する感情をどうするか・・・ と やっとこのあたりで丹後内侍のエピソードを挿入できそう

 

大覚寺様HPより 嵯峨菊は「門外不出」・・・ でもこの仕立ては比企谷には合わないから気落ちなしです たっぷりと植え揃えたい https://www.daikakuji.or.jp/blog/bojutsu-news/7869/ 

 

まだウィキの段階ですが 菊は万葉集に一首も詠まれてなかったとか 奈良時代か平安時代のはじめに中国から入ってきたらしい 古今集あたりから盛んに歌に詠まれるようになり 春の桜に対して秋の象徴の花になる決定的なきっかけが後鳥羽上皇が菊紋を皇室の家紋としたころから・・・

 

比企尼のころに菊はあったようです 古今集あたりの菊が比企尼の時代の菊でしょうか(比企尼が在京していたのは頼朝が伊豆に流されるまでだから 後白河・二条天皇のころです)

 

源氏物語的文章では 誰々が何処何処へ行きました でもそれを現代文学だと何処何処の描写をしなければならない 何処何処の角を曲がってとか その伝でいくと 比企谷のどこに菊が植えられていたかを書かなければならない という文章の問題 ずっと引っかかっています 私的に解決しなければ!

 

図書館に行った帰り またいつかの菊が植えられていた駐車場の一画を見たら 菊が増えていました

 

もう一枚

 

ガブリエル・ターギット『花と庭園の文化史事典』 菊について知りたくて行った図書館の園芸コーナーにあった本 もう面白そうで余裕があったら読みたいのだけれど 無理と知ってて借りてきました パラッと拾い読みしたけれど もっと自由な時に出会いたかった

 

『吾妻鏡』文治三年九月九日 比企尼の家の南庭に、白菊開敷せり。外に於ては未だ此事有らず、よって今日重陽を迎へ、二品并びに御台所、彼所に渡御、義澄遠元以下の宿老の類、御共に候す、御酒宴終日に及び、剰へ御贈物を献ずと云々

 

頼朝が政子を伴って比企谷へ菊を観に行った記事があったのを覚えていて、それで比企尼に菊を育てさせようと思ったのですが、記事を探し出して読んだらこんなに詳細に書かれていたんですね。まず、頼家が蹴鞠をしに行ったみたいな私事でなく重陽の節句という公務。宿老を伴っています。そこに基子さんの

 

父遠元がいて、菊が咲いているのは比企尼の家の南庭。かなり具体的です。それで妙本寺様の境内図を見直したら大分予想がたってきました。この時頼朝は41歳。頼家が6歳で実朝はまだ生まれていません。丹後内侍はすでに鎌倉にいて安達盛長夫人。人間関係が具体的に動き出せそう。

 

武士の館の菊というからには大輪の花と思ってしまっていましたが 大菊は江戸時代からで鎌倉時代は中菊と 色も 鎌倉時代は黄色と白しかなかったそう 黄色にしようかな 白では寂しいし などあれこれ考えるまでもなく 吾妻鏡に白菊! って書いてありました うん これでかなり具体的になりました

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2019.12.3 ツイッターから転載…日々雑感、大嘗宮拝観や講演後のもろもろで日々を過ごしています

11月28日

やっとすべてのお礼状とかご報告のお便りを書き終わりました 書いているうちにほんとうにいろいろ全てが終わったんだなあと自分で感慨 あとは小説の完成だけになりました 昨日の近美の鏑木清方明石町 ほんとうに美しかった 圧巻でした 写真は看板のアップです

 

11がつ29日

おはようございます 深夜にRTさせて頂いた幣束様の大嘗宮一般参観のコメントに後鳥羽天皇も順徳天皇もとあり なんとなく江戸時代に復活の江戸時代が強くインプットされていたから中世の天皇に思いがいってなかったのを痛感 改めて順徳天皇もなさった大嘗祭ということに感じ入ってしまいました

 

でも 中世においての大嘗祭は京都 今は東京の皇居 皇居は江戸城なんですね ふだんはあまり意識しないけれど皇居に足を踏み入れると看板に江戸城の文字があってはじめてそれを実感しました 中世と今とは大嘗祭の雰囲気も違ったかも スダジイが飾られた柴垣 この柴垣が俗界との境界だそうですね

 

TLではいろんな上皇さまのクラスタさんがいられるけど 私はあえていうなら順徳院さまかな って常々思っています 後白河院後鳥羽院崇徳院様方強烈な個性の陰で目立たないけど 私はこの方の学問分野での調査をしていきたいなあと 写真は2013年に訪ねた佐渡に渡られるために滞在された寺泊の行宮地

 

昨日 やっとすべてのお礼状などお便りを書き終えましたとツイートしたのに 寝ようとして眼に入った書棚に大切な方の全集が! あ この方にご報告するのを失念していたと 今それを書いて いたのですが 本を出してからの八年をしみじみ振り返りました ちょうど八年前のその時から見守って頂いて

 

11月30日

おはようございます 鎌倉ペンクラブの仙覚さん講座にいらして下さった方からのメール 「ず~と以前歴史散歩で仙覚の石碑を見た時はこんなに素晴らしい人だと思いもしませんでした。織田さんの講座のおかげで色々分かり?(理解したかは謎)」と 仙覚さんの功績 もっともっと普及して欲しいです

 

写真は仙覚さんを調べるにあたり はじめて妙本寺様を訪ねた2009年秋の撮影 この時はまだ碑文が読めました 最近の令和になっての報道写真を見ると白い文字がすっかり消えて無残に 白いペンキを注入するとかしたらいいのに と思います 万葉集が脚光を浴びるまでこの碑は知られなさ過ぎてました

 

(中也と小林秀雄が 「和解」した 海棠のある あの寺ですか? のご質問を頂いて)

そうです。海棠の木のちょうど背後になります。皆様小林秀雄と中原中也に思いを馳せて帰られてしまいますが。プルーストのタイトルに、土地 土地の名 というのがあって深いところで影響されているのですが、いつも仙覚さんの碑を語る時中也を重ねて思っています。土地はすべてを見て記憶しているはずだから、そのご縁なのでしょうね。

 

TLで教えて頂いた読売新聞朝刊11月25日号の中西進先生の記事「漢文引用から源氏に迫る」を繰り返し拝読しているのですが 今日『源氏物語と白楽天』を借りてきました このご著書 以前から図書館で見ていて気になりながら なぜ万葉集の中西先生が源氏物語を? が謎でした その答えが新聞記事にありました

 

中西先生はプリンストン大学時代に与えられた研究室が中国学の教授ので漢籍が並んでいたからそれを読んで過ごされたと そして日本の文学がそれら漢籍を多く引用するのになぜその部分を引用したかが気になって そのことばかりを考え続けられたと 『源氏物語と白楽天』はなるべくしてなった本でした

 

令和になって鎌倉に万葉集の地盤ができ 私は鎌倉での活動に終止符をうって仙覚さんの小説に専念 を覚悟した頃から なんとなく私の中で源氏物語への回帰が始まっていて 私にはまだし残した大きな仕事があることを思い出させられたのですが そんなだから違和感なく中西先生の白楽天を手にとれたんですね

 

し残した大きな仕事が源氏物語に関係することなので その準備が始まっているのかも と思っています

 

12月1日

昨夜のキラリナ上空の細い月@吉祥寺

 

新宿文化センター前の銀杏の街路樹 峰岸純夫先生のご講演「関東の戦国末期ー三つ巴の争覇ー北条・上杉・武田」を拝聴しての帰りです 西日本で応仁の乱が起こった時 関東は何をしていたかというお話 歴史を揺るがしたように習った応仁の乱は 実は関東には何も関係なかったと 衝撃的な始まりでした笑

 

それにしても峰岸先生のファンは多いです! 会費がちょっとお高い設定だったから心配していたのですが 満席 今日は懇親会を辞して帰ってきました 小説世界に没頭するためにです

 

12月2日

おはようございます 昨日の地下通路 えんえんと 真新しい白い壁が窮屈さと無縁で 思わず撮りました 今日も外出 疲れているのですが無事に出立

 

TLに流れてきていましたが 昨日の空です おそらく富士山あたりで発生したレンズ雲が当地まで届いてきたのだと思いますが こんなに列をなして というのは珍しいです

 

太陽の周りでは彩雲ができていました

 

彩雲 その二 艶のある雲 流動的な形状 ところどころに彩雲 目を奪われる光景でした

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