« 2019.12.20 ツイッターから転載…日々雑感、丹後内侍と範頼のことなど | Main | 2019.12.24 ツイッターから転載…日々雑感、範頼がいつ頼朝と対面したかを知りたいのですが&エリエッテ・フォン・カラヤン回想記『KARAJAN カラヤンとともに生きた日々』を拝読しています 等 »

2019.12.22 ツイッターから転載…日々雑感、範頼のことなど&鎌倉ペンクラブサロンに行きました

12月19日

曇天の吉祥寺 時折雨がぱらっと朝から仙覚さんの権律師という僧位が頭から離れなくて これは今書いている第一章比企の乱には関係ないのだけれど いつ どこで 仙覚さんが出家したかは詰めておかないといけない問題で 解決にはまたかなりの時間を要するから 今から考え始めてちょうどいいかも

 

今まで 権律師は僧位としては最下位とばかり思っていて疑問を持たなかったのですが 鎌倉ペンクラブの講座の後である方から 僧位は人数が決まっているからそうそうなれるものではない と忠告を頂き そうっか 僧位を頂くくらいの場での出家だったんだあ~ とやっとことの重大さに気がついたのでした

 

仙覚さんの小説 物語ふうにドラマで仕立てていけばいいのだけれど それでもこの僧位の問題とか いろいろ解決しなければならないことだらけで 歩みは研究と変わらない 楽しいです

 

12月20日

おはようございます 原稿に籠りたいけど諦めて しつこくしつこくRTさせて頂いています 狂ってる と思われるくらいに怒ってるということの証に 怒らなければ何も変わりません まず怒ると自分が一歩前に進みます 鎌倉の源氏物語と万葉集でたくさん怒る経験をして乗り越えた経験から 写真は吉祥寺駅南口

 

RTさせて頂いた片淵須直監督の「歴史を知らないと、個人は描けない」 まさに今私が直面している問題 思わず共感でRTさせて頂いてしまいました

 

比企の範頼館跡といわれる息障院です 吉見は比企尼の領地だったらしく 丹後内侍と安達盛長の娘を範頼と結婚させ比企尼はここを与えたらしい ここは範頼が稚児として入れられたという坂東十一番札所の吉見観音とは歩いてすぐのところです

 

坂東十一番札所の吉見観音です 年齢から推察して比企尼は平治の乱後すぐに範頼を引き取ってここに入れたんですね その一方で伊豆の頼朝に二十年間物資を送り続けた 伊豆に流された頼朝に比して範頼のほうがいい思いをしていると感じるのは私のひがみでしょうか 範頼はこの後上洛して門脇宰相の娘が

 

嫁いだ範季の養子になって可愛がられている 範季の娘の重子が順徳天皇の母の修明門院だから 範頼が育った環境はそうとうだったはず 一方で頼朝は伊豆 兄弟ともに比企尼と丹後内侍のお陰で生き延びたといっても 文化に重きをおく頼朝に範頼の育った人脈はかなりのひがみになったのでは?

 

わかりました! 丹後内侍が二条天皇に女房として出仕したのは吉見系図に載っていて 比企系図にはないんですね ずっと不思議に思っていたのですが 比企氏はそれを把握していなかった 吉見氏は吉見氏の祖の父が範頼で その範頼の妻の母が丹後内侍だから 範頼の経歴から丹後内侍の動向が詳細に伝わった

 

範頼が謀反の容疑で殺された時 遺児が二人 比企の慈光寺に入れられます 一人は僧侶になり 慈光寺の別当にまでなりますが もう一人は僧になるのを拒否して たしか石川県だったと思うのですが そこで吉見氏の祖になります 比企氏から程遠い吉見氏の系図に丹後内侍が載るのはそういう経緯からでした

 

たしか長男の遺児は殺され 次男と三男が 比企尼と丹後内侍の必死の懇願で助けられて慈光寺に 大切な比企尼と丹後内侍に対してそれ程の冷酷な仕打ちをする頼朝が今迄理解できませんでした が 京育ちの雅を身につけ 丹後内侍の娘婿にまでなった範頼に対し 頼朝がそれほどまでの嫉妬を持っていたとすれば

 

12月21日

おはようございます 仙覚さんの小説は 比企の乱が起きて仙覚さんを身籠っている基子さんが鎌倉から逃げて比企へ向かうところまで書いていて中断 それはその時伊藤詩織さんの事件が報じられたからでした 詩織さんの受けた被害と基子さんの身重の身体と 事件が小説を超えて突き刺さってきて 私には他人事

 

でなくなり それからこの事件は私の中でずっと一体化してありました 書けないでいる間に時房を調べ 時政を調べ その間に令和になり 仙覚さんに注目が集まるようになって 私にもやっと書けそうな気が満ちてきた時の勝訴 会見で詩織さんが長かったと仰ってられたけど 私にもその 長かった が実感として

 

でなくなり それからこの事件は私の中でずっと一体化してありました 書けないでいる間に時房を調べ 時政を調べ その間に令和になり 仙覚さんに注目が集まるようになって 私にもやっと書けそうな気が満ちてきた時の勝訴 会見で詩織さんが長かったと仰ってられたけど 私にもその 長かった が実感として

 

あります 仙覚さんも時の権力者によって人生を奪われました それを書くのにただ比企の乱が起きた とだけでは意味がないと自覚できたのもこの中断期間 昨日 片淵須直監督が「歴史を知らないと、個人は描けない」と仰られたと読んで しみじみ この中断期間に私はそれをしてたのだなあと思ったのでした

 

基子さんが比企に着いて地元の人に匿われて無事に出産という中断前のそのままで書いていたら ここのところの比企尼や丹後内侍の見直しはなかったし 範頼がそんな風に京で丹後内侍と関わっていたなど出てこなかったし 今 私の中では彼女彼らが生き生きと蠢き始めていて 小説はやっとこれからです

 

スクランブル交差点@渋谷

 

鎌倉の帰りです ペンクラブのサロンの後の飲み会で始めてのお店に 昼間見るいつもの風情とは違う狭い路地の奥でした

 

これは飲み会に向かうまだ早い時間の小町通入口付近の花屋さん 帰りはもう閉まっていました

 

12月22日

おはようございます 昨夜の鎌倉の路地 歩いていたら吉兆庵美術館 北大路魯山人展をしてました 昨夜投稿の写真もこれも どの店も五人は無理で路地を放浪 私には楽しい散策でした

 

そして最後に行ったお店が中のお一方がもう50年も独りで通ってらっしゃるという本当は隠しておきたかっただろう小さなカウンターだけのバー 得難い経験をさせて頂きました ちょっと言葉にできない いつか独りで行きたい

 

昨日は鎌倉ペンクラブのサロン 独語の通訳で翻訳者でベルリンフィルのコンサート等のコーディネーターをされている松田暁子さんのお話を聴きました なかなかこういうお話は聴けないですよね という内容 楽しかったです 写真は会場の早見学園窓から見えた妙本寺方向

 

 

|

« 2019.12.20 ツイッターから転載…日々雑感、丹後内侍と範頼のことなど | Main | 2019.12.24 ツイッターから転載…日々雑感、範頼がいつ頼朝と対面したかを知りたいのですが&エリエッテ・フォン・カラヤン回想記『KARAJAN カラヤンとともに生きた日々』を拝読しています 等 »