« 2019.12.3 ツイッターから転載…日々雑感、大嘗宮拝観や講演後のもろもろで日々を過ごしています | Main | 2019.12.7 ツイッターから転載…日々雑感、比企谷を菊花で満艦飾にする思い付きのことなど »

2019.12.4 ツイッターから転載…日々雑感、比企谷を菊の館に!

12月3日

おはようございます やっと動き出しました とは仙覚さんの小説のこと ずっと集中しようとしていたのですが進展しなくて このあたりエピソードにしなければと思っている箇所がどうしても動かなかったんです なのに未明に閃いて そうだ! となりました 昨日ですべての用が終わってほっとしたから

 

きっと思考を抑えていた蓋があいたんですね ほんとうに不器用と思う 他のことがあるとどんなに集中しようと思っても思考の蓋があかない 困ったものですね笑 で そのエピソードとは比企尼を菊育ての名人にしようと それも嵯峨菊の と そんなことで今朝からやっと原稿始動です

 

嵯峨菊は嵯峨天皇の時代の菊だから鎌倉時代に鎌倉にあったとしても大丈夫 とは踏んでいるのですが これから調べます 比企尼は頼朝の乳母として在京していたから嵯峨菊を見る機会あったと思うのですが・・・

 

それともう一つ 丹後内侍がいつ鎌倉に来たか 比企尼の長女だから 頼朝が政子を伴って菊の鑑賞に比企谷を訪れたときに 比企尼のかたわらに丹後内侍がいたかどうか いたとして 政子が持った丹後内侍に対する感情をどうするか・・・ と やっとこのあたりで丹後内侍のエピソードを挿入できそう

 

大覚寺様HPより 嵯峨菊は「門外不出」・・・ でもこの仕立ては比企谷には合わないから気落ちなしです たっぷりと植え揃えたい https://www.daikakuji.or.jp/blog/bojutsu-news/7869/ 

 

まだウィキの段階ですが 菊は万葉集に一首も詠まれてなかったとか 奈良時代か平安時代のはじめに中国から入ってきたらしい 古今集あたりから盛んに歌に詠まれるようになり 春の桜に対して秋の象徴の花になる決定的なきっかけが後鳥羽上皇が菊紋を皇室の家紋としたころから・・・

 

比企尼のころに菊はあったようです 古今集あたりの菊が比企尼の時代の菊でしょうか(比企尼が在京していたのは頼朝が伊豆に流されるまでだから 後白河・二条天皇のころです)

 

源氏物語的文章では 誰々が何処何処へ行きました でもそれを現代文学だと何処何処の描写をしなければならない 何処何処の角を曲がってとか その伝でいくと 比企谷のどこに菊が植えられていたかを書かなければならない という文章の問題 ずっと引っかかっています 私的に解決しなければ!

 

図書館に行った帰り またいつかの菊が植えられていた駐車場の一画を見たら 菊が増えていました

 

もう一枚

 

ガブリエル・ターギット『花と庭園の文化史事典』 菊について知りたくて行った図書館の園芸コーナーにあった本 もう面白そうで余裕があったら読みたいのだけれど 無理と知ってて借りてきました パラッと拾い読みしたけれど もっと自由な時に出会いたかった

 

『吾妻鏡』文治三年九月九日 比企尼の家の南庭に、白菊開敷せり。外に於ては未だ此事有らず、よって今日重陽を迎へ、二品并びに御台所、彼所に渡御、義澄遠元以下の宿老の類、御共に候す、御酒宴終日に及び、剰へ御贈物を献ずと云々

 

頼朝が政子を伴って比企谷へ菊を観に行った記事があったのを覚えていて、それで比企尼に菊を育てさせようと思ったのですが、記事を探し出して読んだらこんなに詳細に書かれていたんですね。まず、頼家が蹴鞠をしに行ったみたいな私事でなく重陽の節句という公務。宿老を伴っています。そこに基子さんの

 

父遠元がいて、菊が咲いているのは比企尼の家の南庭。かなり具体的です。それで妙本寺様の境内図を見直したら大分予想がたってきました。この時頼朝は41歳。頼家が6歳で実朝はまだ生まれていません。丹後内侍はすでに鎌倉にいて安達盛長夫人。人間関係が具体的に動き出せそう。

 

武士の館の菊というからには大輪の花と思ってしまっていましたが 大菊は江戸時代からで鎌倉時代は中菊と 色も 鎌倉時代は黄色と白しかなかったそう 黄色にしようかな 白では寂しいし などあれこれ考えるまでもなく 吾妻鏡に白菊! って書いてありました うん これでかなり具体的になりました

|

« 2019.12.3 ツイッターから転載…日々雑感、大嘗宮拝観や講演後のもろもろで日々を過ごしています | Main | 2019.12.7 ツイッターから転載…日々雑感、比企谷を菊花で満艦飾にする思い付きのことなど »