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2020.6.30 ツイッターから転載…日々雑感、玄覚さんの独白バージョンで書き始めたのですが・・・& 六月も終わりですね、コロナの終息はいつになるでしょうか

6月28日

先此集ヲ萬葉集ト名ツクルハ何意ソヤ。コレハヨロツノコトノハノ義也 仙覚『萬葉集註釈巻第一』の冒頭です 佐佐木信綱編仙覚全集より 華鏡の二条天皇と万葉集の項の冒頭を仙覚さんから始めているのですが 仙覚さん関係の資料が埋もれてしまって深夜は確認不可 なので掘り出してきました

 

萬葉集註釈は必要な箇所を拾い読みしただけで 小説にするにも晩年だからその時に読めばいいと思って後回しにしてたけど たまたま発掘した資料の一番上にあったのが目に入って 二条天皇の万葉集に関連して仙覚さんを紹介がてら少し書いておこうと思っていた安易な気分が吹き飛びました

 

6月29日

万葉集註釈は仁和寺に伝わっている写本があって この図録の時に展示されていたそう 鎌倉でお世話になっている方が こんなのがあったとこの図録を送って下さいました 万葉集註釈は仁和寺本だけが特殊で 他に残る写本はみんな玄覚さん書写の本が基 記述も違うところがあっていろいろ考えてしまいます

 

深夜 ヨーロッパ城と宮殿巡りという番組を何気なく観ていたら マクベスの舞台というスコットランドのお城が出て そういえば時政の後妻牧の方はマクベス夫人に例えられていたなあと 読んでいるはずなのに忘れてるマクベス 牧の方って結構重要なのだけれど まだ書く気なかったけど 無視できないかも

 

一斉に自粛になって吉祥寺の店舗が閉まったとき 東急吉祥寺店も閉まって 愛用している日高昆布の徳用パックと 六月末に頂くお菓子水無月が 間に合って買えるかしらとちいさなことだけれど個人的に心配になっていました 間に合って 先ほど両方とも買って帰りました こんなちいさなことだけれど

 

深夜のPCデータをそれまで書いていたPCの原稿に合体させて印字し 通しで読んだら璋子さんへの情感が甦り 目下無理やり玄覚さんの独白バージョンで二条天皇の万葉集を書き出していることへの疑問が 鎌倉の講演で熱心に語ってきたことだからもっと乗って書けると思っていたのに停滞 それへの疑問です

 

璋子さんや 法金剛院 白河天皇を書いていたときの情熱 あれが今湧かない 理で書いているし書こうとしているからなんですね 璋子さんに戻ろうかしら と思い始めています

 

深夜の入力用に買った卓上用のちいさなPC 璋子さんの法金剛院の段から使いそのままにしてあったのを 今迄のPCに取り込んで合体 二条天皇の万葉集の段になって気分が万葉集になっているから久しぶりに璋子さんに浸りました 写真はかつて璋子さんが龍頭鷁首の舟を浮かべたという法金剛院の池です

 

6月30日

おはようございます ほんの小さなPCなのに ちゃんとデスクトップがこの画面なのが可愛い 書く意慾を削ぐ日常の障害は茶飯事で それがなかったら玄覚さんの独白バージョンも順調だったかもしれないけど 昨夜から璋子さんに戻る気持ちが強くなっていて 障害は理で書くことへの警鐘という思し召し? 等と

 

道長から書き直しはじめています 写真は玄覚さんの独白バージョンに疑問を持ち始めたツイートに添付した法金剛院蓮池のときの蓮の花です

 

この写真は鎌倉の講演用パワポの定番で 光行・定家世代と 親行・仙覚世代の 時代の区切りとして使っていました

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2020.6.27 ツイッターから転載…日々雑感、随分遠い迂回をしましたが、二条天皇と万葉集の段がやっと書き始められるところまできました

6月23日

おはようございます 萬葉学史の研究の二条天皇の項 これでは最初に読んだときわからなかったわけとつくづく 題詞にしても 歌より高く書くか低く書くかなんて それが政治に関わるなんて! 万葉集の題詞は古今集以降の詞書のことで ただ決定的に違うのは漢文で記されていること 古今集以降は仮名文です

 

そして古今集以降の詞書は歌より低く書かれているのに対し 万葉集の題詞は高く書かれているのと低いのとある どうやら低いのは古今集以降の詞書が低いのに影響されてのようです 仙覚さんはそこに着目して 高く書かれているのが万葉集の本来の形態とし それをした二条天皇本を重要視したのでした

 

華鏡の二条天皇の万葉集の項 やっと書いていいかなというところにたどり着きました 思いっきり先程ツイートの題詞のことなど 国文学的な内容を入れようと思っています それが仙覚さんの万葉集研究の主眼なので ここのところを書いておかないとと思います

 

仙覚さんの万葉集研究の希求がやまとの言の葉の淵源を求めてでした(言い方は違いますが) やまとの言の葉ってたしか古今集の序にあった? となって 家に古今集がないので吉祥寺に出て文庫本を買ってこようかなと 仙覚さんのやまとの言の葉についてはいろいろ言及されてますが 私なりに考えてみたい

 

やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける 古今和歌集仮名序 ネットで検索すれば出るんですね まだ私はすぐそこに思いが至らない笑 仙覚さんのやまとの言の葉と微妙に違うかしら

 

ふう〜っと やっと六条藤家 万葉集の題詞の高低問題 道長ら摂関家は古態尊重で題詞が高い体裁の写本 対して白河天皇親政期では新しい時代に相応しく古今和歌集に倣った題詞が低い体裁 院の権力が強靭化して写本も題詞の低い体裁が一般化していった 二条天皇期になって天皇と清輔が突然題詞の高い体裁を

 

仙覚さんが尊重した二条院御本は題詞が高い体裁で この「新たに採択された体裁が、二条天皇に仕える歌人たちと、六条藤家の間で踏襲されていったと見られる」 仙覚さんはこれを「六条家本」と称した

 

6月24日

おはようございます 萬葉学史の研究 六条藤家になって俄然面白くなってきました 題詞の高い六条家本に真観本があるのですが ずっと仙覚さんはどこで六条家本に目覚めたのだろうと謎でした 真観ですね 繋いだのは 後年真観は鎌倉にきて宗尊親王の歌の師になり 仙覚さんに宗尊親王へ万葉集を献上させます

 

六条藤家で面白くなったのも束の間 顕季になったらなんかトーンダウン 母親子さんが白河天皇天皇の乳母だったことから引き立てられ六条藤家の祖になったと知り 親子さんの華鏡登場も考えて盛り上がりましたが どうも顕季は経済の人ですね 通俊の後拾遺和歌集選者抜擢のあたりから関心が薄らぎました

 

白河天皇も乳母子として兄弟のように育った顕季を大事にして羽振りよくさせていますが 何か昇進を願った時に駄目なものは駄目ときっぱり 白河天皇も人物を読んでますね 顕季の項を終えて次が清輔! 顕季の孫で父の顕輔に疎まれ長く六条藤家の宮廷での活動に入れて貰えなかった人物です なんか感性の問題でわかる気が

 

ここら辺でもやはり白河天皇の文化芸術に対する感性のよさ 本物度を感じます 通しでずっと読んできて 摂関家関係の万葉集に携わる人物を見たら 顕季の経済の人のイメージが定着してしまいました 万葉集を書写したり歌を作ったりするから文学的感性豊かな人というわけではないようです

 

結局二条天皇の万葉集に繋ぐ白河天皇の項は 中宮賢子さんの薨去で白河天皇が新政への意慾を全く失ってしまうので それまでの摂関家との攻防に付随しての法勝寺建立と後拾遺和歌集 これに尽きて 後の白河院政期の堀河朝近衛朝は飛ばして二条天皇にいっていいかもとなりそう

 

Messengerからある方からお知らせが届いたと通知があり 仙覚について書いてられるのですね頑張って下さいとのこと お返事するとその方と繋がりができて電話頂くことも可能になると お礼を返信したいけど自粛させて頂きます FBは某ページの管理人のために止められなくて 自分用としては使ってません

 

ほんとうは管理人の権利も譲りたいのだけれど そのページを始めるのに普及のために半年間自分で撮った写真を使ってある歴史を連載していたから 半年後にその会が再会した時に普及が行き届いて連絡帳の役割を果たした というそういう部分があるので 手放せないでいます

 

6月25日

おはようございます 百均の付箋 珍しく紫があって購入 でも外で使うと源氏物語をしているから如何にもみたいになるので家で調べ物のときだけ用 今日からたぶん書き始めます 何度も今日からと宣言したのにやっと 原稿は意志でなく書かされてるの感強しです

 

東北の地震の余震という今朝の地震 当時数年は余震に注意といわれ 我が家では頚が細くて長いガラスの花瓶があって 東北の震災時 たまたまその花瓶の前に別の花瓶が倒れてその花瓶の倒れるのを防いでくれました で 数年は余震に備えてそのままにしてあったのですが もういいかなと思った矢先の事でした

 

東北の地震のような地震は 人間の数年なんてまだまだ単純に余震の範囲 十年は覚悟してと その花瓶を見ては心を引き締めています 八年でしょうか 積もった埃もあえてそのままにしてあるので忘れません あと二年はと思いつつ コロナ後の世界もこんなふうになるのかしらと

 

6月26日

おはようございます 父仙覚は鎌倉時代に万葉集を研究した学僧である と 二条天皇と万葉集の段は玄覚さんの独白バージョンで始まりました 白河天皇と源氏物語で回り道をしましたが ここからは鎌倉の講演でずっと語ってきたこと こなれているから思い切り書き進められると思います

 

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2020.6.24 ツイッターから転載…日々雑感、二条天皇の万葉集に繋ぐための白河天皇の親政期を調べています:法勝寺や大江匡房のことなど

6月21日

白河天皇の法勝寺関係の調べが面白くて止まりません 八角九重塔を冨島義幸先生が復元CG化された画像に出会い 今まで右の正面からのしか見てなかったのでなんか中国っぽいと思っていたのですが 斜め画像だとたしかに日本の五重塔のイメージ 冨島先生のご論考拝読したいのですが例の如くに図書館ネック笑

 

思ったのですが 即位したばかりの二十代の若い白河天皇にとって 父帝から引き続き東宮学士になった大江匡房は父帝亡き後のよき相談相手 お父さん代わりだったのでしょうね 後拾遺和歌集も法勝寺も大江匡房の進言がよほど入っている気が

 

枠という固定観念から抜けるのにどうしてこんなに時間がかかるのだろう 七大寺巡礼私記の大江親通までいってやっと見えた世界 白河天皇は大江匡房が東宮学士になってから教えられたのでなく 匡房は後三条天皇の東宮学士だったから生まれた時から賢い皇子として気に入られ 折を見てはいろいろ教えられた

 

おそらく少年白河天皇が上東門院彰子さんに源氏物語や紫式部の話を聞きに伺った時 付き添ったのは匡房ですね それを書いていた時 誰が伴って行ったのだろう 乳母かしら いや一人で? など考えていたのですが誰も思い浮かばなかった 即位してから思い出話としてそれを匡房に語るシーンを考えたのが直近

 

でもまさか幼児期から匡房が後三条天皇の皇子である白河天皇を見ていたなど思いもよらず 後三条天皇が亡くなってからとずっと思っていました 後三条天皇の 白河天皇の という東宮学士の枠を外し誕生からずっとそばにいた人と思いついたのがやっと今日 その為の七大寺巡礼私記までの思索だったようです

 

法勝寺は仏教を保護して国を治める いわば国王の氏寺の意を持って建てられた 二十歳の若者が即位したからといって早々にそんなことを思いつくはずがない でも儒者大江匡房が生まれた時から身近にいて人格を育んだと思うと腑に落ちます 何十年にも渡る長い院政もそういう視野があってのことなのでしょう

 

先程のtw 白河天皇が即位したのは21歳 それから突然30歳頃までに内裏歌合をして後拾遺和歌集をつくったり 法勝寺を建てたり をする 即位して大江匡房がブレーンになっていろいろ進言したと考えていたのですが それにしてはされることの悉くが深い 謎でした 皇子時代からずっとと考えれば自然ですね

 

6月22日

おはようございます 雨の日の柏葉紫陽花は綺麗ですね 昨夜久しぶりに萬葉学史の研究に戻ったら 白河親政期に万葉集を書写した公卿に通俊の名が 後拾遺和歌集で身近になった人物 知らない名前ばかりでちんぷんかんぷんだったページがやっと生きて動き出しました

 

メモ: 賢子さんと経子さんの時系列 1071賢子さん入内 1074中宮 1075典侍経子さん(通俊妹)覚行法親王出産 1079賢子さん堀河天皇出産 1083覚行法親王仁和寺に 1084賢子さん崩御 1086後拾遺和歌集 1087堀河天皇即位← 覚行法親王は中宮賢子さんに堀河天皇が生まれたから仁和寺入寺になったんですね

 

だんだん見えてきました 清輔の袋草紙にある顕輔?(出先でうろ覚えです)ら二人の宇治宝蔵庫本の万葉集の書写 なぜ敵対する摂関家の宝蔵庫のを? と疑問だったのですが 萬葉学史の研究でもその時期は頼通らが没した後とあります それは師実が宇治長者になってからということで 賢子さんを入内させている

 

師実が宇治長者になったのを機に白河天皇に摂関家の別業の白河の地を献上し 白河天皇はすぐにそこに法勝寺を建てた 万葉集の書写は師実の計らいですね 万葉集法勝寺後拾遺和歌集 全部繋がりました

 

摂関家対天皇家の構図は後三条天皇までで 賢子さんを中宮にした白河天皇は摂関家を取り込んだ形 それで摂関家の万葉集を書写できたのでした このネジレが今まで理解できなかったんです

 

人の動きとしての概要がつかめたので 改めて万葉集に戻って題詞と歌の高下をしっかり把握しようと萬葉学史の研究の冒頭を見たら 「題一章 題詞と歌の高下 ーレイアウトに見る平安時代の政治史・和歌史・文化史の中の古写本ー」 あまりの言い得て妙の副題に感嘆 万葉集の研究にこんなに政治が絡むなんて

 

仙覚さんが二条天皇の万葉集を規範にしたので その二条天皇本のよってきたるところを探ったら 後三条天皇 白河天皇 と遡ってしまったのでした このあとここに後白河天皇が入ります(先は長い……)

 

体力が弱っているのと 昔みたいに自分のことだけに専念できる環境でないのと 諸々で 集中できないからとても遅筆 でも その遅くなった分 そのまま書いていたら書きこぼしていただろう深みが書けている そのまま書いてとっくに完成させているより 深みが書けてる今のほうがいいと思うけど 悩み多いです

 

清輔が袋草紙に書いたという法成寺宝蔵本の二人の書写者 俊綱は頼通の次男で師実の兄 顕綱はなんと讃岐典侍日記の長子の父 いろんなところで繋がりが!

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2020.6.21 ツイッターから転載…日々雑感、大江匡房が鍵だったなんて!&法勝寺八角九重塔について

6月18日

昨日TLでちらっと読んだことが頭から離れない 分野が違うので詳細はわからないけれど(源氏物語ではない分野ということ)研究が半世紀だったか進歩していないという でもその間に女性研究者さんの凄い業績になる研究があるのにそれが反映していないと 徒然草がそうでした 林瑞栄氏『兼好発掘』

 

もう夢中になって拝読したものでした なのに女性研究者でたしか教授とかの立場でなかったから研究者さんの業界からひどい迫害にあって研究史に反映されてなかった 私はそんなふうなことを見てきたから素早く小説に切り替えたのだけれど 今 TLであることを見つけて傷つきそんなことを思い出しました

 

闘っても無駄 とにかく華鏡を完成させること それに尽きます

 

白河天皇は二冊勅撰集を出してられるんですね その最初の勅撰集が後拾遺和歌集ということでそれを図書館に借りに行きたいところなのだけれど 行かれないから 思いついて吉祥寺の古書店に行ったら 二冊目の金葉和歌集があったので これも何かの縁かなと思って買ってきて見ています 巻頭歌が顕季だなんて

 

まさか大江匡房が鍵となるとは思わなかった 後三条天皇の東宮学士ということでウィキを見たのでした そうしたら赤染衛門の曾孫と 儒者だから後三条天皇には荘園整備などの善政を 赤染衛門の曾孫だから白河天皇に和歌を説いたのでしょうね ひょっとして二人の会話から後拾遺和歌集が生まれたのかもなど

 

だから勅撰集を作るときに 赤染衛門とか和泉式部など たぶん彰子さんから聞いた人たちの歌を取り上げた

 

苦笑されるの前提でツイート 未だに白河天皇が後白河天皇とごっちゃになるときがあって ふ~ん 最初は和歌に凝ってらしたのにいつから今様に? など考えて 違う違うと自分のなかで慌てて打ち消します

 

白河天皇といえば待賢門院璋子さんとの源氏物語だけれども それは五十代になってから 勅撰集の頃は二十代で和歌 源氏物語は影もない と思ったら いや違う 即位される前は源氏物語どっぷりでいらしたのだから 和泉式部や赤染衛門が身近だったんだ〜 と勝手に納得してしまいました

 

後拾遺和歌集は勅撰集のなかで一番面白いとかつてある方から聞いた 白河天皇の和歌との関係を探っていて読んだら後拾遺和歌集は和泉式部や赤染衛門など女流歌人満載で他の勅撰集と一線を画しているという では なぜ白河天皇はそういう趣向にされたのか やはり後拾遺和歌集を見なくては始まらなそう

 

やはり図書館に自由に行かれないのがネック 予約してでも借りに行くべき?

 

6月19日

おはようございます だんだん頭のなかで固まってきているのですが 白河天皇と和歌の問題 構図がみえてきています これを萬葉学史の研究に出てくる人名と当てはめたら 当時の白河天皇中心の和歌 それに付随しての万葉集書写の活動が浮かび上がるのではないかと 人名の把握って重要ですね

 

まさか大江匡房が鍵となるとは思わなかった 後三条天皇の東宮学士ということでウィキを見たのでした そうしたら赤染衛門の曾孫と 儒者だから後三条天皇には荘園整備などの善政を 赤染衛門の曾孫だから白河天皇に和歌を説いたのでしょうね ひょっとして二人の会話から後拾遺和歌集が生まれたのかもなど

 

歌壇の重鎮源経信をさしおいて 後拾遺和歌集の選者に選ばれた藤原通俊は 妹の経子が白河天皇の典侍で覚行法親王を産んでいる 天皇にとって経信より親しい感覚の人物だった?

 

覚行法親王 仁和寺第三世門跡 白河法皇は彼を寵愛して事あるごとに褒章を与えたが 彼はそれを仁和寺の他の僧侶らに譲り昇進を助けた 仁和寺が歴代治天の君の保護を受け、法親王として御室を継承する慣例を二人が完成させた

 

後拾遺和歌集選者の件 通俊が選ばれ重鎮の経信が選ばれなかったのが通俊の妹と白河天皇の親しい関係によるとして そんな情実で? と思ってしまいますが 六条藤家の祖顕季もいたはずとウィキを見て三者三様の描かれ方の印象が 白河天皇は情愛というか愛のある人間関係がお好きだったのでは?と感じる

 

顕季は乳母子として兄弟のように接し 地位も与えて羽振りよくさせたから財を成してその邸宅が白河院の御所に使われるまでに でもそこに通俊と妹や待賢門院璋子さんのような 内側からの情熱 人としての熱さはなく それは経信も同じ 白河天皇の人間的な芸術性って これ 相当偉大なのでは?

 

通俊や璋子さんの側の人間に 文学的芸術的感性を感じるし それを重用する白河天皇の感性はたしかと思います

 

6月20日

おはようございます 昨日白河天皇の感性の確かさに気持ちが一新され それまで院政を始めた天皇とか 璋子さんを寵愛したとかの表層の次元だけで捉えていた人物像を深めたくなり それでは法勝寺を建てたのはいつかしらと調べたら なんと 後拾遺和歌集になっていく和歌の変遷と同時期でした つまり二十代

 

即位して数年後に落慶供養です しかもそれが国家の氏寺意識のスケール 天皇ではなく国王の壮大なビジョンをもって造られているんですね 八角九重塔を建てるなんて どこから発想を持ってきたのでしょう ウィキでは他に百済大寺のものしか知られていないと ウィキでそれを見たら 白河天皇は日本書紀を

 

読んで国家ということを考えられていたのかと思ってしまいました 紫式部が日本紀の局と呼ばれたと知ってるわけだから 興味を持って 即位できない不遇時代に日本書紀まで読み進んだことも考えられますね

 

私が読んでいないだけかもしれないけど 朝の日本書紀の件 昔の人やまして天皇家の方々は日本書紀にかぎらず 今の人よりずっと もっともっとたくさん歴史や宗教の本を読んで勉強されていたのでしょうね 仙覚さんの知識を見ても あの時代に! と驚嘆するのですが 便利になった現代人の方が泣

 

白河天皇建立の法勝寺九重塔がどこから着想を得てのことか知りたくて大安寺のウィキを見てたら 七大寺巡礼私記を書いた大江親通という人物を知る 白河院政期の諸大寺の実情を知る重要な資料と 白河天皇や大江匡房と関係ある人物か ウィキでは不明 でも白河天皇 百済大寺と無縁ではなさそう?

 

江談抄というのがあって 大江匡房の談話を信西の父藤原実兼がまとめたものだそう その成立時期が 大江親通といわれる七大寺日記と重なる 偶然かもしれないけど 気になります

 

白河院政期で堀河天皇の御世です

 

大江匡房は六十代半ば 晩年に近いです

 

大江匡房は後三条天皇の学友的家庭教師(東宮学士)だったから 皇子の白河天皇の東宮学士にもなり 白河天皇がまた皇子の堀河天皇の東宮学士にした というほど後三条白河両天皇に信頼されていたんですね その匡房乃至大江某による二つの書 偶然にしては と思います

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2020.6.18 ツイッターから転載…日々雑感、後三条天皇周辺の事情がわかりやっと原稿にかかれそうです

6月15日

ズッキーニの花 フェンネルの苗を買いに行った時にあって どんな風にあのズッキーニがなるのか楽しみに買ってみたものです 昨夕ベランダから見たら開いてたのに 日中だと萎むのですか?

 

6月16日

萬葉学史の研究に すでに後三条天皇期か白河天皇期か答えが書いてあるのに そして最近また通読したばかりなのに 後三条天皇について把握できていなかったからピンとこなかった 今鏡など辿ってきて 能信のことなど背景を知って ご著書に戻ったら 一挙に理解できました 萬葉集の書写が活発に行われたのは

 

白河親政期である可能性が高い そうです そしてそれは摂関家の方々が相次いで没した後のことと思われる ← 六条藤家隆経没の翌年後三条天皇崩御の翌年上東門院彰子と頼通没の翌年教通没 と これはもう完全に白河天皇が万葉集の書写をされたということですね そしてその近臣に顕季の存在

 

過去のツイートで読み返したいのがあって 遡っても出てこないから人名で検索したら 大河清盛にその人物が出ていて 私も見ていたはずなのに この辺りの歴史に疎かったから全然記憶にない TLで皆様盛り上がってられるから きっとそのフォロワさん方 私の昨今のツイートに呆れ返ってられるんだなあと苦笑

 

でもいいんです 私の視点は万葉集 それについては何方も触れてられない

 

袋草紙をもう一度確認したくなって 図書館が今週から開いたはずだから行こうかとHPを見たら 滞在時間短縮のために本を予約してから受け取りに来て下さいなど やはりコロナの影響で状況が厳しい 当分行けないと自戒してたけど やはり当分行きたくないと気持ちを確認しました

 

東の空に細い月が 今夜は空気が澄んで夜空が綺麗です 他の本を探して文庫の棚を見たら なんと和漢朗詠集がありました 講談社学術文庫 川口久雄氏全訳注 2センチ分厚い文庫本 読み通したらしく所々角が折ってあったり 栞用に絵葉書が挟まっていたり たしかに自分の本 すっかり忘れていました

 

6月17日

おはようございます 昨夜みつけた和漢朗詠集です 挟まっていた百合の花の絵葉書は手作り 昨夜読み返して思ったのですが 分りやすい! 解説もついてるから知識は簡単に入るし でもこれに料紙に墨文字の朗詠集の魅力は全くない 写本の魅力というのは全くの別次元の崇高さ 畏怖の世界なのだなあとつくづく

 

たぶん今日から書き始めるから 極力Twitterは見ないことにしようと思う 改憲案に抗議とか会期延長などハッシュタグの一票として今迄必死に追って見ていました でも都知事選の候補者が出揃ったらこれからは大変 気分を煽られるのは必定 都議選当日までしばらく逃避するべきだろうな と思っています

 

やはり袋草紙を見たくて図書館に行きたいとなり 別の図書館の開館状況を読んだら コロナで閉館中に9000冊もの予約があったそうで 予約しても配備できたと連絡がくるまで取りにいけないそう 図書館の方々も大変なのだなあと もう袋草紙は諦めました

 

去年の今頃は三菱一号館美術館でラファエル前派展に行ったのでした 鎌倉での活動に終止符を打って禁断から抜けたようにモロー展に行ってラファエル前派展に行って 無理していたもののそぎ落としをこの一年やってきたのだなあと思う その締めくくりがまさかのコロナの自粛ですが 全部執筆にいい流れ

 

でも 家族といると自分だけのために時間を使うなど無理だから 気を遣いつつやってきたことの弊害が出ているのかなあと思う今日この頃 まさかの眩暈復活 の予感 無理しないようヒーリング音楽を聴いて過ごしています せっかく華鏡が乗ってきているのだけれど

 

6月18日

まだ朝は涼しいから久しぶりに熱い珈琲を入れました 起きたら目眩感がすっかりとれていて嬉しくて おはようございます 昨日書き始めそうだった華鏡ですが 人物がわかって萬葉学史の研究を拝読したら今まで何度読んでも頭に入らなかったのがすうっと入ってきて驚きました で それをノートに纏めています

 

思念でなく物体としての把握って重要ですね 昨日和漢朗詠集の活字化された文庫本の分かりやすさと料紙に書かれた写本の和漢朗詠集の崇高さの違いに驚きましたが 今度は論考のなかにある人物名が生きた人間として把握されているかで論考の理解度が違う 文化の中には結局人間がいるんです

 

恐る恐るまた遠心力に引っ張られるような目眩感が起きるかと気にしながら動いているのですが まだ無くてほっと 一晩中タブレットを耳元に置いて ヒーリング音楽を聴きながら就寝 たしかにこの音楽 自律神経の乱れを治します

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2020.6.17 ツイッターから転載…日々雑感、後三条天皇周辺に六条藤家の淵源を探りました

6月12日

おはようございます やはり乳母って存在 凄いですね 比企尼を思い出してしまいました 白河天皇の乳母親子は六条藤家の祖の隆経妻 顕季の母です 六条藤家がここから始まるっていうのも宜なるかなでした

 

ただ 乳母といっても漫然と 乳母 だったというのでなく その人自身に教養と意志があることが大事 比企尼も春日局もそうですよね 親子さんの下で隆経も顕季も白河天皇の近臣になって 存分に教養を発揮されたのでした

 

ウィキですが 後三条天皇があまりに素敵な方で眼をみはってしまいました お子さまの白河天皇から全然想像つかない (親子さんの動向を後三条白河天皇の年譜に当てはめたらどう見えるかと思ってウィキを)

 

逆だったんですね 六条藤家といえば万葉集ですが 初めに万葉集ありきでなく 白河天皇の近臣になったから 後三条天皇白河天皇の摂関家との対抗策としての万葉集研究に巻き込まれた それが隆経の六条藤家の祖としての始まり それが清輔の時代まで引き継がれているうちに専科の家系みたいになったのでは?

 

遠因まで辿り着くと やっと 見えてきましたみたいになって 書くことに進めます

 

ここまで来たら 親子さんになにか喋らせたくなって 声の降りてくるのを待つ気分 比企尼には最高の決めセリフを書いてあります そんな決めセリフ 親子さんにも

 

後三条天皇から二条天皇清輔までをざっと年譜に組み込もうと書いてみたのですが いつもしている鎌倉時代だと1200年代 どこに何の事跡ががだいたい見当つくのに 1100年代以前だからさっぱり 源氏物語千年紀がたしか1008年だから そこから入れていきます(相変わらずの雑記で汚くてすみません)

 

画像があまりに素敵で驚いた後三条天皇ですが 大江匡房に和漢才知誠絶古今と書かれるなど教養人で善政を行った方らしく わずか五年で国家を淳素に戻し とあります こういう治世もあるのですね(と 今の世を鑑みて)

 

いろいろ書き込んでみたのですが 白河天皇誕生で親子さんが乳母になったのは33歳 その二年後に顕季が生まれて 白河天皇は顕季を乳母子として兄弟のように親しんだそう それが院の近臣になって 万葉集 これから後三条天皇の摂関家との関係を探ります

 

六条藤家の万葉集が後三条天皇と隆経から始まっているのか 白河天皇と顕季からなのか ごっちやになってわからなくなってきたので まず後三条天皇の時代を把握しなくては というところにいます 頼通との対抗とか

 

としまえんの閉園がいよいよ決まったそう ドイツ製のメリーゴーランドをいつか観たいと思っていて やっと今年になって夢が叶ったのが二月 また行きたいと思いつつコロナで自粛していて 八月の閉園までにまた行かれるでしょうか 写真 撮り切れない素晴らしさでした 全部木製だそうです

 

明るくなってきてまた雨の音 後三条天皇関連を見てたら夜が明けてきて 能信って誰? とほんの気まぐれにウィキを読んでいたら これが一番後三条天皇即位の裏として分かりやすかった 長くなりますが面白いのでご紹介

 

道長には頼通・教通の母倫子の他に明子という妻がいて能信は明子の子 後三条天皇は後朱雀天皇の第二皇子で 兄の第一皇子が後冷泉天皇になった時に皇太弟にと推したのが能信でした でも世間では後冷泉天皇に皇子が生まれたらその子が皇太子になるからと皇太弟の後三条天皇に冷たく 娘を入内させる公卿

 

はいなかった それで能信が自分の養女茂子を入内させ皇太子妃不在の事態を回避 した が 結局後朱雀天皇に皇子がなく後三条天皇が即位 茂子に生まれたのが白河天皇なのでした 能信あっての後三条天皇と白河天皇 その人が明子さんの子だったなんて というのが私自身の驚きです

 

6月13日

おはようございます 能信が頭から離れないのですが 後三条天皇に対する能信は 頼朝に対する比企尼ですね 何がなんでも我が君を守りとおし位につける それだけの器量がある我が君だったんですね 結果として後三条天皇は摂関政治で乱れた荘園を整理し直し民衆を楽に 政治は頼通達摂関家を離れ天皇親政に

 

後三条天皇も能信も 私には今まで関心外の知らない人たちでした 源氏物語の一条天皇から璋子さんの白河天皇の間だにあって地味な存在 でも そこに なんだか私は惹かれています 明子さんの子 というのも面白い

 

RTの陽関 思い出してしまいました 渭城の朝雨軽塵を潤し 客舎清清柳色新なり 君に勧む更に尽くせ一杯の酒 西の方陽関を出ずれば故人なからん

 

漢詩っていいですね やはり 今朝は雨が降っているからいっそうこの詩が身に沁みます

 

ツイートしてから漢詩が頭から離れないのですが 夜光の美酒葡萄の盃 この盃を受けてくれ とか先ほどの詩の君に勧む更に尽くせ一杯の酒のこの畳みかけるフレーズがとても好きで光景が眼に浮かぶのですが 私が好きな漢詩はお酒ばかり ってさっきから考えています笑

 

6月14日

大江匡房が東宮学士とあるのでてっきり東宮より年長かと思ったら皇太子の学友的存在の家庭教師とあり えっと思って年齢を見たら 東宮より八歳年下 東宮学士拝命の翌年東宮は即位されて後三条天皇に 天皇のブレーン的近臣で 善政の推進にあたって重要な役割をなす

 

後三条天皇の近臣には他に隆経がいて 妻の親子が顕季を産む 天皇即位の時 顕季は14歳 万葉集が隆経の時に始められていたか 顕季になってからか この視点でまた萬葉学史の研究に戻ります

 

高砂の尾の上の桜咲きにけりとやまの霞立たずもあらなむ 大江匡房 どこかで聞いたことのある と思っていたら百人一首のこの歌のかたでした 後三条天皇を読んでいるとお名前が出てくるのでウィキを見たら 尊仁親王の学士と 後三条天皇とは東宮時代からのご関係なのでした 赤染衛門が曾祖母とは

 

いつも図書館で調べものをしてたのに 今は行かれないからウィキで済ますことが多くなり そうしたら肖像画があるので図書館でしか爪らしく調べるより手早く実感がわくと気づきました 後三条天皇の肖像画でまず驚いたし

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2020.6.13 ツイッターから転載…日々雑感、六条藤家の万葉集の遠因をたどって後三条天皇に

6月9日

おはようございます 紫陽花の季節なので思い出して写真を以前通っていた鎌倉禅研究会時に撮った建長寺様の紫陽花を いろいろほんとうにありましたが 諸々決着がついて(思いがけず絶対不可抗力的にコロナが後押しをしてくれて) 今日からほんとうに独りになりました 今日から華鏡だけに専念します

 

昨年秋の鎌倉ペンクラブ連続講座【現代作家が読み解く万葉集】のチラシを マイページのトップに固定したツイートにしていましたが 外しました 終わってすぐに削除するつもりが 終わってからいいねを下さる方がじわじわ延びて未だに そろそろ今年のチラシと間違われているかの心配が出てきました

 

無数の星が見えるかしらと コロナの自粛で空気が澄んだ筈と夜空をみるのだけれど 霞がかかったような東京の空では無理 それでもその霞の奥にチラチラと瞬いているような小さな星たちの気配がする ふだんの空では到底見えてなかったそれらの瞬き 嬉しくてこの自粛期間何度もベランダで眼を凝らしました

 

星って不思議な気がする 宇宙というとなんか違う 無窮というとそうだと思う なにがどう違うかわからないけど とにかく星を見るのが好きです

 

6月10日

今日から華鏡 ほんとうは昨日同じ言葉を呟いて実行したかったのだけれど 配布資料の作成にかかって日常の雑事を溜めに溜めていたから 昨日はその処理に終日 今日からほんとうに自由の身です 配布資料の作成に古い資料や写真を掘り返していたら こんなのもあった などいろいろありました

 

写真は先日ツイートしたパークホテルに滞在した折の鎌倉の夜の海 鎌倉といえば海 なのですが 在住でないと海は撮れない この時はその日頃の鬱憤晴らしに撮りに出ました 波が寄せては引いていくのが楽しくて何枚も撮ったり 遠くに材木座海岸が見えていて嬉しかったり 手持ちでブレててすみません

 

ふっと思い出したので忘れないために 鎌倉の夜の海をほんとうに撮りたいのですが 宿泊しないと無理と考えていたら あ 先日泊まっていいのよ 終電に遅れたらいつでも電話して とお電話番号を交換した方がいらっしゃいました 皆様 私が遠くから通ってるのをご存じだから 優しい!

 

突然明日あたり梅雨入りかもとのことでびっくり 暑さでふうふう言っていた今日のあまりの展開でした 慌てて衣類を片づけたり家の中の見直し さきほど夜空を見たら雲がなんか変 空気が澄んで空が綺麗なのは日中の強風で塵が吹き払われたのだと思いますが 夜空に真っ白な雲 地震でもあるのかしらと

 

6月11日

おはようございます 突然 六条藤家の天皇家での近臣としての活躍は○○の母の親子が白河天皇の乳母だったところから始まる というフレーズが降りてきてびっくり 二条天皇の六条藤家との二人三脚の万葉集について書き始めていたのですが まだ決定打でないなあと感じていて 昨夜はウィキにあったご論考を

 

二本拝読しつつ寝ました 大中臣家との繋がりとか そういうご論考で あまり万葉集とは関係ないからざっと眼で追っただけなのに それが今朝のフレーズのこんな重要な書き出しになるなんて どうして六条藤家が白河天皇に がずっと謎でした でも近臣なんて偶然の成行でよくあることだしと通過してました

 

あのまま書いていたらこの書き出しはなかった 例の休会手続きのための配布資料の作成で中断して気分を削がれたから その気持ちの離れた分 自己韜晦から抜けられたんですね これ なにかの思し召し?

 

カフェロシアさんでテイクアウト 数に限りがあって滅多にお目にかかれないというゲブジャリア 眼にとまって即座にこれ下さい と買ってしまいました ミントで味付けしたカッテージチーズを薄く延ばしたスルグニチーズで包んだジョージア料理です 美味しかったことといったら!

 

梅雨入りの日の雨の雑木林@井の頭公園 吉祥寺の帰りに降られました

 

イラストの方の呟きや作家の方の原稿料のこと そして最近の編集者さん業界の事などTLで見て 私は新人賞受賞と同時に挫折して小説の業界に残れなかったのが今となっては幸いだったのかも とふと気づく だから15年間も純粋に鎌倉の源氏物語活動に打ち込めたし 励まして下さる良縁の方ばかりと知り合えた

 

だから 鎌倉の源氏物語や令和になっての仙覚さんのことで 行政や権威ある立場の人たちの仕打ちに純粋に傷ついたり怒ったりしたけど 若いときに小説の現場に残って仕事してたらこんなものではなかったと思うと 昨年までの諸々の怒りや苦しみが あっけらかんと消えていく気が 時が解決してくれて?

 

でも 華鏡を書いているからですよね 境地がそこに到達したのだと思います で さらに現実に戻って この小説 今の編集者さん業界に持ち込んだらどうなるのだろうと 先を考えてしまいました ここから先はまた未知の世界です

 

公園の入口 この坂道を降りて行くと公園の池の光景が広がります 濃い青の紫陽花が綺麗で眼について 先日閉店された芙蓉亭さんの入口脇になります

 

石岡瑛子さんの回顧展 11月から来年の2月まで どうかコロナが終息していて気兼ねなく観に行けますように と思う

 

原稿料の件 講演でも最初に講演料を明示して頂いたのはほぼ皆無(一件だけありました) 仕事なのに変だなあと思っていたのですが著名な作家の方々がそうだなんて Twitterをするまでそういう現実って見えてませんでした ただつくづく個人ですることの立場の弱さを痛感したから 私自身は強くなっています笑

 

お夕食後 突然疲労感でダウン やはり吉祥寺に出ると緊張するのかと思う(他に理由が見つからない) 自粛が解けて 感染者数も一時よりは減り ともすると以前の重大な危機感を忘れそうなくらいの吉祥寺滞在だったのですが

 

眠いのを必死にこらえてのメモだから ひどい汚いです でもやっと親子について書けそうに 明日から入力

 

巨大な白い夾竹桃でした@井の頭公園

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2020.6.12 ツイッターから転載…日々雑感、所属している歴史の会、年内休会を申請し発表担当の配布資料を送ることに

6月6日

おはようございます 水茄子が手に入ったので塩漬けに 昨日取りかかったら あると思っていた焼ミョウバンがなくて 急いで吉祥寺に出て購入し それで疲れて早寝してしまったので今しています笑 今夜のお夕食の楽しみに

 

ケリがつきました 例の例会を中止して頂いている会の件 6月まで中止になっていたのですが 7月再開と決まったそう 私の意向ではせめて秋以降の決断をして下さるくらいの方たちであって欲しかった コロナでこうした情勢下での判断基準が人を炙り出しますね 私は年内は行くのは無理と休会を申し出ました

 

幹事さんは会場を大きな会議室に変更するなど配慮して下さって良かったのですが 集まる方々の意識って重要ですよね 自粛解除でマスクなしで街に繰り出すのと変わらないなら怖いです 中止を提案した時のご反応で そういうことが見えてしまいました

 

休会を申し出た会の配布資料の作成にかかっています たまたまコロナで例会中止になった3月が私の発表担当 なので再開したら行かなければならないのが重圧でした でも年内休会と決めてご相談申し上げ 全員分の配布資料を作って幹事さんから皆様に配って頂くことで了解して頂きました

 

これでほんとうに華鏡だけに専念する生活になります いろいろ切れない縁ってありましたが コロナでそんなこともいってられずにあっさり切れて 私にはこれからがほんとうの専念する生活です こういうめぐりあわせだったのでしょうね 華鏡は

 

華鏡は待賢門院璋子さんを書き終わって順調だったはずなのですが つぎの段落の二条天皇の万葉集に移ったころから例の会の7月再開が気にかかって それで集中できずにいました えいっとばかりに年内休会を決断し 今日その旨の了解を頂きほっと これで完全に外部との接触がなくなります

 

こういう状況になるのを心から望んでいました でも社会で活動するかぎりきずなやしがらみから切り離されない こんなことがあっさりできてしまったのもコロナだからなんですね 絶対にコロナの状況下以外あり得なかったと思います あとは皆さまがそれぞれに無事でいつかの再会を喜びあえますように

 

6月7日

おはようございます 昨夜ルッコラをサラダにしてオリーブオイルと岩塩だけで頂いたら美味しかった と思ってたらTLに同じ呟きの方が なぜか同じ日にと不思議 我家では胡椒がダメな人がいるので 使う人は各自で取り分けたお皿にふりかけます 水茄子は美味しくて幾つ食べた? などちょっとした競り合い笑

 

窓から涼やかなフェンネルが見えているだけで楽しい 最近スマホのカメラ機能で 近づいて撮る があるのに気がつきました(気がつくとそればかり使います笑)

 

近づいて撮った夏萩です (源氏物語絵巻の末摘花みたいな庭の風情に憧れ 萩を植えたくて買ったのですが しだれて風に靡くのは宮城野萩で夏萩は木の萩なので靡かないと知ったのは植えてからでした)

 

配布資料の作成 少し進んで次が問題の姫の前 『吾妻鏡』建久三年の義時に嫁ぐ記事です 再来年の大河鎌倉殿の13人の要の女性 どんな女優さんが演じられるのでしょうね たまたま発表担当になったページがここだなんてとなにかのご縁を感じ得ませんでした これから比企氏系図を作ります

 

写真は埼玉県比企郡にある比企遠宗館跡 姫の前の系図は 遠宗―朝宗―姫の前 となります 比企尼は遠宗に従って上洛し頼朝の乳母になりますが 朝宗の母は比企尼ではないから 遠宗には比企尼とは別に本妻みたいな女性がいて これが朝宗の系統 比企尼の系統は丹後内侍―島津忠久&範頼妻&安達景盛

 

配布資料をつくっていてなにが嬉しいって 実際に発表するのだったら『吾妻鏡』の漢文を読み下ししなければならないところ 資料の作成だけですむ気軽さ いつも資料を作るのに精いっぱいで 深夜眠いのを我慢して読み下しの練習をしてたから それからの解放感!

 

配布資料の姫の前関連の比企氏系図の作成を終わりました エクセルでしようと思っていたのですが 慣れたパワポで 今まで仙覚さん関連でしていたのに足して姫の前関連を入れました 姫の前は頼朝にあんなに離縁しないよう義時が言い含められて結婚したのに 比企の乱で離縁されたのですね

 

丹後内侍を入れようか迷ったのですが 個人的に推しなので入れてしまいました笑 それにしても丹後内侍の三人の子供の見事さ! 彼女をドラマにしたらきっと仏映画のようになる カトリーヌ・ドヌーヴとか・・・ なんて たった今思いついたのですが

 

6月8日

おはようございます 今日の吾妻鏡配布資料は永福寺について 壁画が完成したそうです 秀衡建立の円隆寺を模したとあるので どんな絵かしらと鎌倉歴史文化交流館発行の図録を見たのですが 燃えてしまった伽藍の壁画が残っているわけないですよね 図録でわからないから円隆寺を検索したら 平泉でも碑だけ

 

でも この円隆寺が仏師雲慶があの運慶かで問題になっている寺院なんですね 京で造らせた雲慶の仏像があまりに見事なので忠通が京から出すことを禁じたという 平泉というと毛越寺とか有名どころの寺院ばかり思ってしまいますが 円隆寺こそ知りたい寺院の気がしてきました

 

なんと この円隆寺は毛越寺の金堂でした どうりで平泉の地図に円隆寺を探ろうと思っても合致する場所がなかったわけ だいたいに雲慶仏師の話も『吾妻鏡』に書かれていて 頼朝の奥州合戦の際に見聞したと書かれています 文治五年のこの条 私もあの会に参加していて発表を聞いてたはずなのですが泣

 

岩波文庫版のこのページ 自分でも予習して四苦八苦の書き込みがあるのに 忘れるものですね 雲慶仏師のエピソードとしては覚えていました 本仏は薬師丈六 玉を以て眼を入るるの事、此の時始めて例となす ってもうこれは運慶でいいかと素人考え的には思ってしまいます(時代が合うかわかりません)

 

もともとオンラインとかテレワークが必要な機関やグループに所属してないけど 例の会の休会で得た外部との完全無接触 なのに孤絶している感がないのはTwitterで社会と繋がっているから ということに気づいたのは大きい ラインで連絡取れ合うなら コロナ以降の世界でも この籠った隠棲生活を など思う

 

休会のための配布資料の作成を終わり 事務の引継ぎのための整理作業にかかっています こういう諸々 世事に疎いのにお引き受けしたり のこういうことが もうほんとうに終わりになるのだから 今夜のうちに済ませたい

 

と なんか休会というより退会気分 たぶん引き続き休会のまま もう行かないだろうな あの教室には という気分です こうして人はいつのまにか抜けるべきところから抜けていくのですね コロナが本質をあぶり出してしまいました お世話になった教室なのに

 

思ったより大変でなく引き継ぎの整理がついて なにしろ昨年は令和改元から仙覚さんのことでもう支離滅裂な忙しさだったから手が回らなくて ミスがあるのではと心配でした 無事に引き継ぎできそうでホッとしたところです で 突然開けた無の世界 なあんにもすることがないって こんなことある?って心境

 

お月様が綺麗です 近くにいられるお星さまはどなたでしょう

 

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2020.6.9 ツイッターから転載…日々雑感、鎌倉の建長寺様から『蘭渓録』をご恵送賜りました→北条時頼の原稿を書いていたことを思い出しました

6月3日

そうっか 私は鎌倉に「出仕」していたのか と今日あることがあって気づいた 清輔が膨大な知識の蓄積の袋草紙を成したこと 弟の方が取り立てられて二条天皇の側近になって清輔が外されていたこと それらが全部重なって見えてきました コロナで籠らなかったらこの膨大になりそうな華鏡は書けなかった

 

清輔は出仕できないでいた分 籠って 袋草紙の執筆に専心できたんですよね 私も鎌倉に通っていたあいだ 書こう書こうとして書けなかった 「出仕」を止めたら書けてきた 不遇 ってことは結構大事です う〜ん とても大事と思います

 

6月4日

鎌倉の建長寺様からご恵送賜りました 建長寺開山蘭渓道隆禅師様の語録(原文は中国語)の現代語訳です 蘭渓和尚様は中国からいらして日本に最初に禅を伝えた方です その語録の現代語訳 驚異のご労作 心して拝受させて頂きました

 

このご本の土台になっているのが建長寺様で毎月開催されている鎌倉禅研究会でした 私はそこで数年学ばせて頂いて ご翻訳者彭丹先生のこの語録翻訳のご講義も最初から拝聴していました 懐かしいというより今は離れて遠い世界ですが 『華鏡』で時頼の項を書く段になったらきっと生きてくると思います

 

時頼が蘭渓道隆和尚を建長寺様の開山にし 仙覚さんが万葉集を献上した宗尊親王を鎌倉に招かれたのも時頼です こんなに深く鎌倉の禅の世界の時代背景を身に沁みて覚えさせて頂いた鎌倉禅研究会に心から感謝申し上げます 華鏡にきっと生かさせて頂きます

 

建長寺様から蘭渓道隆禅師様の語録が届いて忘れていたことが一気に甦りました 私 一時期北条時頼を書いていたんですよね 鎌倉禅研究会で鎌倉と源氏物語について建長寺様の会場で講演させて頂いたのを機に関心をもって そうしたら当時宗務総長でいられた研究会主管の方が 時頼を書くなら実際の儀礼

 

を見ておいたほうがいいと たまたま禅師の生誕八百年法要の催される年でしたので その法要に招待して頂いたのでした 前日に鎌倉の海が眺められるパークホテルで講演会があって宿泊 翌日建長寺様に移動して というスケジュールでした 京都をはじめ全国の禅宗寺院のそうそうたる方々がそのホテルに

 

一堂に集い お夕食の席もご一緒させて頂き その席で語録の現代語訳をされた彭丹先生とお隣で 最初の写真がその夜のお料理でしたが 私日本のこういうの食べられなくて と頂いたのも思い出して懐かしくなりました 彭丹先生は中国人でいられるから当時はまだ日本食がお口に合わなかったんです

 

蘭渓道隆禅師様生誕八百年法要の日の朝 宿泊のパークホテルから早起きして鎌倉の海の日の出を見にいったとき 昇ってくる朝陽が海に一筋の光の道をつくって それを部屋に帰って彭丹先生にお見せしたら こういうのを光の道っていうんですか と問われて咄嗟の造語だったのでお返事に困ったのでした

 

時頼の原稿があったから タウンニュースで鎌倉と源氏物語のコラムの連載をいただいたとき 躊躇なく始められたし 二年半も続けられたのでした 好きな回の第四回「ファーストレディ 松下禅尼」を添付させていただきます

 

北条時頼の原稿をすっかり忘れていました なぜ中断していたかは『尾州家河内本源氏物語』の実時の奥書問題が解決できないでいたからで 今なら書けるし 華鏡の後編で書くつもりでした でも ふっと あれを完成させたら一篇になる? との思いが兆しこれから見てみます

 

時頼の原稿 見直したのですが 一瞬にして止めました これも膨大 コラムで要約したからてっきり簡単な文章のイメージだったのに 若書きだったのですね当時はまだ やはり華鏡の後編で書くことにします もっとこなれて書けると思う

 

あ~あ せっかく間近に一本 完成作品ができると思ったのに の気分 やはり外から何かが届いて外部との繋がりができると 欲がはたらきます 自戒して禁欲的になってまた籠ります ツイートしたのはこの気分を取り戻すためだったかのよう 気が済みました

 

6月5日

おはようございます 摂関家と天皇家の勢力争いは即位できない皇子として白河天皇に源氏物語をもたらしたが 万葉集にも影響を及ぼした と今朝段落の冒頭が閃きました 別のバージョンで書き始めていて順調に進めそうだったのに 昨日時頼の原稿を思い出すなど事件があって 深いところで撹拌されたよう

 

小川靖彦先生『萬葉学史の研究』をノートをとりながら読み進んでいるのですが 題詞が高いとか低いとか もうごっちゃになって大変 やっと顕季を通過して そうしたら今朝の冒頭が降りてきて やっと少しこなせたようです

 

今朝閃いた段落の冒頭文 この方が書き進んでいたのよりずっといい いつもそうだけど 無理矢理力技で書いてるものは 頭の隅でいつかこうなると思いつつ閃かれて座を明け渡すはめになるまで正統を主張しています笑 で 今朝の冒頭でまた調べ物は過去に戻って道長頼通に あえて無視して通過していました

 

月の回りにくっきりと暈が 綺麗です

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2020.6.3 ツイッターから転載…日々雑感、二条天皇の万葉集の段に入って小川康彦先生『萬葉学史の研究』を再読、六条藤家についての見直しを

5月30日

我家の薔薇 蔓薔薇です 近づけなくて網戸越しに

 

璋子さんが終わっていよいよ滋子さん とやっとの思いでワクワクしたのに 続いて書き出したらなんか二条天皇になっていきそう そうしたらもう万葉集 璋子さんと源氏物語で気分高揚してたのに厳しい世界に入っていくのかと やはりこんなふうに源氏物語と万葉集って 色合いが違う

 

久しぶりに朝散歩したら 玉川上水べりでは紫陽花が まだ花が若い

 

自粛生活になっての早々 朝の散歩を始めたときには青々していた麦畑 籠って入る間にこんな麦秋光景になっていて驚きました

 

5月31日

こんにちは 今日で五月が最後なんですね コロナで気を取られてうっかり過ごしてしまったけど 去年の五月は令和の改元でした 昨夜から二条天皇の万葉集に入るから振り返っていたらこんな画像をみつけました 令和改元特別号に仙覚さんを取り上げて頂いた時のタウンニュースです 仙覚さんは二条天皇

 

の万葉集を規範にしていて 仙覚さんの研究に取り掛かったとき 私は二条天皇自体を知らなかったから その辺の歴史の探訪から始めたのでした それがやっと今日から執筆に 心が引き締まっています 鎌倉市内配布の紙面で入手できなかったのを鎌倉の方が送って下さったのでマーカーが引かれてました

 

それにしてもまだ一年前なんですね あれからいろいろあって おかげで籠って執筆生活に やっと仙覚さんの小説が軌道に乗りました

 

新しいフォロワーさんがいられるので先のタウンニュースの取材に至ったきっかけのコラムを再掲 以前二年半ほど鎌倉と源氏物語というコラムを連載していてそこに仙覚さんと妙本寺境内の万葉集碑を書きました 既に担当記者さんが転勤になって 編集長さんがコラムを思い出されての取材になったのでした

 

この画像の万葉集研究碑と 先ほどのタウンニュースの画像の碑 2009年撮影とおそらく昨年撮影 あまりの文字の剥落に驚きました それほど境内にあっても顧みられなかったという事 その後鎌倉市でも仙覚文庫を設立したり 再来年鎌倉殿の13人で鎌倉が舞台になるからもう綺麗になっているでしょうか

 

二条天皇が内裏で和歌会をされたのが当時の歴代天皇方の中にあって唐突で不思議だったのですが 先日TLで美福門院得子さんが六条藤家の出身と教えて頂いて 二条天皇には即位前から六条藤家がついていたんだ~と納得 清輔の袋草紙も耳にする機会は当然あったんですね

 

清輔については丹後内侍とのからみで去年すでに書いているから察しがついて進められそうだけど 去年は美福門院得子さんが六条藤家出身を知らなかったから 書いていて平面的で詰まって中断してました どうしても膨らまなかったのにはこういう事情があったんですね でもまさか得子さん関係を詰めるなんて

 

これで立体的に二条天皇の和歌会が想像できて人が動き出しています ほんと 去年動かなかったときのどうしようもなさ! 原稿が動いたときの解放感 ほんとうに両極端

 

6月1日

おはようございます 去年の今頃は夏の学会発表に向けて古筆切と奮闘していたのでした その時の古筆切が金沢文庫本万葉集 原稿が万葉集に戻ったので資料を出していたらこの入門書が出てきて懐かしい あまりにスッキリ気分が万葉集に移行できて我ながら驚いています

 

昨年夏に古筆切で研究発表をしたのはずっと鎌倉の源氏物語と万葉集の活動を見守って下さっているある方からのこんな古筆切があるのだけど というお問い合わせが発端 それで古筆切の世界を開示されて見ていたら 源氏物語の古筆切で気になるのがあって それを探って発表したのでした 私はこういう方々に

 

ほんとうに恵まれていて それぞれが全部原稿の土台になって生きている この古筆切から見えてきた世界は後編に書くから当面はこの方には感謝の気持ちが伝わらない 早く原稿を仕上げてそれぞれの方に喜んで頂きたいと思ってはいるのですが

 

汚ない走り書きですが昨年の学会発表準備のノート 4月13日の日付で今見たら金沢文庫本万葉集がいつ冷泉家に入ったか に続いて玄覚が書写した可能性は? など 一年前はこんなことを追及してたんだなあと 玄覚さん 後編で活躍して頂きます

 

次のページも重要 (仙覚さんの)文永三年本に見る書写形式(漢字に片仮名訓)は「二条院御本」に源流を発する→西本願寺本・金沢文庫本も同じ この二条院御本が二条天皇の万葉集です(それにしても走り書きが凄くてすみません)

 

エクスプローラでの閲覧ができなくなり 今日からGoogleChromeでTwitterを見ることになって奮闘 日常どっぷりの無駄な時間を過ごしてしまいました(と イライラ) 仙覚さんの生涯は決して日常の時間ではないです

 

シャルルアズナブールを聴いています GoogleChromeですっかり気分が日常に堕してしまって気分を煽るために 気分を取り戻すのは大変

 

音楽を止めました 小川靖彦先生『萬葉学史の研究』を読み返して寝ます

 

6月2日

おはようございます 夏萩が咲きました 雨の朝 露が綺麗です 昨夜は久しぶりに小川靖彦先生『萬葉学史の研究』を拝読 仙覚さん研究を始めて最初にある意味熟読させて頂いたご本ですが難しかった その後何回か読み返すことがあって その都度わかったつもりになっていたのに やはりまた気付きがたくさん

 

今まで六条藤家を意識的に避けてきていたから 二条天皇に六条藤家が関わっているとなると避けられなくなって多少把握し そうして読んだら なんと 祖の顕季が白河院の近臣で万葉集書写の歴史にも重要な関わり この辺り 今日一日また熟読させて頂きます

 

研究から離れて小説を書いているのに この段は研究の再来! 源氏物語でも物語論とか語る部分があるから 万葉集論みたいになってもいいと思って浸ります

 

源氏物語の光行さんも六条藤家寄りの人なんですよね 私は御子左家から中世歌壇に入ったからどうしても対抗意識が抜けなくて 光行さんのときも意識的に外していました たぶんまた光行さんのときに見直すことになるでしょう 研究は公平にならないといけないですね笑

 

萬葉学史の研究を拝読していて仙覚さんが二条天皇の万葉集に絶大な信頼を寄せていたとある中に重家本もとあり あ と思って年齢を調べたら 二条天皇即位の年に31歳 この方ですね! 二条天皇と万葉集をされていたのは 清輔があまりに有名だから気持ちの中で弟のこの方を無視してました 24歳も離れてます

 

美福門院得子さんには甥にあたり ウィキによると二条天皇側近のために後白河院から解官にあってます まさにツボ! 萬葉学史の研究 もう少し読み進みます

 

6月3日

おはようございます 柏葉紫陽花も満開に 小川靖彦先生萬葉学史の研究を拝読していてまた白河天皇に戻り 結局は万葉集問題も白河天皇に端を発してたのだなあと面白く思ったのですが 万葉集をもともと頑張って次点などしていたのが摂関家の道長頼通 そこに摂関家の力をなくして天皇親政にしようと天皇が

 

参入して 題詞と歌の高低を逆にして書写することを張り合った 頼通や上東門院彰子さん方が亡くなられ摂関家の立場が弱くなって万葉集も白河天皇親政時代に天皇家に特化したと この親政時代に近臣だったのが六条家の祖の顕季です

 

題詞と歌の高低問題は煩雑なので省略しますが その白河天皇親政時代の万葉集とは別の万葉集を作ろうと対抗したのが二条天皇で そこに顕季の孫の重家が 六条藤家は祖の方の時代からずっと天皇の傍らで万葉集をされてる 清輔だけが外されていて 袋草紙が認められて昇殿を許されるのは二条朝期途中から

 

インクを換えようとしてカートリッジの予備が入っている籠を出したら古いパトローネがあって 何だろうと蓋を開けたら桜貝が数個入っていました 鎌倉の海で拾ったのを鎌倉の方から頂いたもの インクも私の趣味だから 籠にはこんな細かな趣味のものが雑多に入っています 籠の取手には大きな木蓮の造花が

 

細々した趣味のものが入っている籠と 籠に絡ませた木蓮の造花 こういう造花が越してきた当時の吉祥寺では容易に入手できました 今はチェーン店ばかりになってすっかり潤いのない街に

 

籠のなかに入っていたパトローネと そのなかに入っていた桜貝です パトローネってフィルムカメラ世代でない方にはわからないかもと思いながら投稿しました笑

 

メモ: 堀河百首より をやま田の稲葉の露にそほちつつ人めもる身はくるしかりけり(顕季) 顕季は堀河百首の歌人だったんですね 万葉集の歌を17首利用しているそうです

 

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