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2020.7.30 ツイッターから転載…日々雑感、白河天皇と後拾遺和歌集と乳母親子さんのこと

7月28

おはようございます 原稿を手書きでと思ったのは 初耳学的に調べながら書く段階が終わり これからはほとんど調べなくてももう大丈夫な処に入っていくからで 昨夜万年筆で印字した原稿の推敲をしてたら ペン先からインクで繰り出される文字がこれって思考の繰り出しなんだ って 懐かしかったです

 

昨夜推敲したのを印字し また万年筆で推敲 といきたいところだけど 宅配がくる予定 中断して下まで駆け下りて の手間を省きたいから待っていたのに来ない 諦めて二階に上がってきたのですが 日中集中するって難しい

 

なんか 突然 後拾遺和歌集が入り込んできて 白河天皇の編纂が書けそうです 写真の金葉和歌集は白河天皇の二冊目の勅撰集ですが この解説が勅撰集の歴史にとてもいいので読み返しています

 

これ 万年筆の手書きで書いている成果と思います (突然入り込んできたので自分で驚いています)

 

宅配はまだきません 諦めて二階に行ったあと寝てしまいました 昨日今日と眠りが深く異常なくらい これは書くことに深まっていくときの前兆でしょう さっき寝て起きたら直前までの文章をきっぱり訂正できました あ 宅配さんは別に私ひとりの家でないので寝ていたとしても不在にはなってません

 

7月29日

おはようございます 蘆田耕一氏「『袋草紙』に見える大中臣家をめぐって」を再読しました 六条藤家について調べ始めて最初に出会って拝読したご論考 親子さんのことが書かれている箇所があっての再読です あれから巡り巡って今だからわかることがいっぱい 白河天皇の乳母親子さんを書きます

 

白河天皇の段では入れられなかった親子さんと後拾遺和歌集 二条天皇の段で二条天皇が和歌に関心を持った環境をついて書いていたら その淵源に白河天皇の和歌への関心があり 乳母親子さんの関わりがあったのではないかと

 

白河天皇の乳母親子さんを考えていると どうしても頼朝の乳母比企尼と比べてしまうのですが 頼朝が流人で白河天皇は皇位につく見通しが立たなくても立場は皇子 違うのは当然でも我が君のためならという母親以上の献身と思いやりは一緒 その中でやはり親子さんの持つ和歌的世界の教養に着目しています

 

ここは 親子さんをきっちり書いて のちの比企尼の布石にすべきでしょうね と覚悟

 

そうっか 頼朝も14歳で伊豆に流されて 11歳ではないけれど 11歳で人生が決まった少年というテーマに沿うんですね 11歳で運命に弄ばれた少年の系譜 華鏡はそういった少年を主軸とした周囲の人々の物語

 

タブレットで読んでいた蘆田耕一氏「『袋草紙』に見える大中臣家をめぐって」 マーカーを引いたりチェックしたいので印字しようとしてもいつものエクスプローラーではpdfが開けなかったりして苦労してたら グーグルクロームで試したらすぐできました 今度から最初からそうしよう

 

私はやっぱり紙の資料に黄色いマーカーを引いたり赤インクで囲んだりのアナログな感覚でからだにしみ込ませないとダメ 文章入力も万年筆の手書きにしたら繰り出される文章が変わってきました これぞ自分の文章 っていう感じで嬉しい 最初からタブレット世代の方ってどうなのでしょう

 

あまりに感染経路不明とか自宅療養の感染者の方はご自分で買物にスーパーにとか聞くのでもう吉祥寺に出るのも嫌なのだけれど仕方なく出るなら朝一番に とお店の開く十時めざして行ってきました 若い方が多いと会話が街路に満ちるのが朝は無く安心 帰宅したら買ったものの消毒とか洗濯 ぐったりです

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2020.7.28 ツイッターから転載…日々雑感、二条天皇と万葉集の項のために丹後内侍の年譜を出したら2009年に作ったものでした

7月26日

おはようございます 昨夜この年譜を出しました 丹後内侍に特化した年譜 これを作ったの11年も前なんですね まだ万葉集も仙覚さんも机上にのぼってきてなかったころ 花の蹴鞠という小説のためだったのですが それが今になって役立つなんて

 

11年前に花の蹴鞠を書いていたんだなあというより それが未完なのは鎌倉の源氏物語活動に入ったからだったと思い出しました 2009年に花の蹴鞠 2010年に鎌倉で最初の講演 2011年に『源氏物語と鎌倉』刊行 花の蹴鞠を読んで下さっていた方に続きはいつ書くんですかと問われたことも それは華鏡に入れます

 

二条天皇の万葉集の段になってやっと書いている気持ちが整ってきました それまでは鎌倉の源氏物語活動に追われているような それから逃げるのに必死だったような そんな感じで過去を背負っていました やっと原稿の前だけを見つめて書く透明感 とても気持ちいいです

 

今日は終日起きると眩暈がして気持ち悪いのでだらだらしてました で ふと思い出してこういう時の対処の仕方があったなあと 今夜はそれをして寝ます 高校時代の友人から電話があって 音沙汰無いから心配でと こういう時代だからお互い心配し合いますね 原稿書いてるからと言うとああよかったと

 

なぜ電話したかというと 源氏物語の話が出たので思い出したと そうっか 彼女のなかではまだ私は源氏物語の人なんだあと思い 一生懸命万葉集について話したのだけれど 一般の人には万葉集って馴染みがないんですね それで華鏡を思ったのですが これ 一般の人に理解されるには 相当難しい!

 

眩暈を治す体操をしたからか 単に夜型時間になったからか 快調になって原稿に向かっています この二条天皇に丹後内侍が出仕した頃に後白河院の法住寺殿が完成したり 建春門院滋子さんが高倉天皇を産んだり が並行してあるわけだけれど それを入れたらごっちゃになってしまう 気配だけでも入れますね

 

あ そうか 丹後内侍に法住寺殿ができていくようすを見させていけばいいかも 懇意だった二条院讃岐と建春門院滋子さんの噂話をさせたり

 

この状況を見たら 丹後内侍は後白河院を知っているんですね 内侍は天皇のそばに仕えて世話をする役職というから 後白河院とも話を交わしたことがあったのかも など妄想 丹後内侍と同じ時期に清輔が昇殿を許されているから 丹後内侍と清輔の交流は書きます そこで二条天皇の万葉集が成立するのですが

 

その二条天皇の万葉集が二条院御本といって 仙覚さんが宗尊親王に献上した文永本の規範になっているのだけれど 鎌倉で同じ比企谷に暮らしたことのある両者が 時代が違って会ったことはないといっても 同じ二条院御本に関わっているって 丹後内侍が京から何かもたらしていたのだろうかと これも妄想

 

丹後内侍が二条天皇に出仕した三年後位に二条天皇は崩御 その後何方が天皇に? と見たら二条天皇の皇子の六条天皇 二歳で即位と え では誰が政治を? と見たら後白河院 二条天皇の親政と院の院政を争っていた院が 六条天皇でまた院政を獲得するんですね 院にとって六条天皇は孫 ふ〜んと納得

 

と ツイートしてるといろんなシチュエーションが湧きます 一人でノートにメモ取りながら考えていてもこうはなりません Twitterは私にとって閃きのツールになっています 不思議ですね 今これを呟くまで 丹後内侍と清輔二人の対話場面しか浮かんでいませんでした

 

写真はコロナ前の世界として昨年の今頃撮った西武池袋店モネの庭と三菱一号館美術館ラファエル前派展から載せるようにしているのだけれど 昨年まで載せていた写真の選び方と今年と違う 今のツイートの華やかな薔薇 昨年はあまりに鮮烈で載せなかった 今は こういう生き生きした色合いに救われます

 

7月27日

おはようございます 昨夜何気なくフォーレを聞いていたら失われたでプルーストが書いていたんだっけ と思い出して検索 読みたい記事にはたどりつかなかったけれどベートーベン弦楽五重奏曲を晩年好きだったと読んでそれを探して聴いて寝ました ずっと音楽も封印していたけど なんとなく戻るのかな

 

万葉集には題詞を高く歌を低く書く書き方と題詞を低く歌を高く書く書き方の二とおりあり って華鏡の中の文章なのですが 自分で書いていて笑ってしまうくらい 読む方に到底一回では理解していただけないでしょうね でも一応こうやって書いていきます 少し手書きでしてみようと思って万年筆を出しました

 

モンブランもパーカーも 万年筆を何本書き潰したか もう手書きをすることはないと思って緑色のウォーターマンが一本あるからそれでいいと思っていたのですが 以前このペン先に惹かれて買ってしまっていたもの プラチナです

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2020.7.27 ツイッターから転載…日々雑感、『万葉集』藍紙本のこと&二条天皇期の万葉集など

7月23日

おはようございます(という時間でもないですね12:28)昨夜思ったのですが 後白河天皇と二条天皇妃の件や 原稿を読み返しての白河院と璋子さんのこと 小説はそこに人としての感情が読み解けるから書ける ただ万葉集だけでは衒学的にしかならないから筆が進まない 当たり前だけど新鮮でした

 

写真は昨年今頃の吉祥寺 あっと思って撮った目にとめただけの光景です でもそれが今となっては夢のようなコロナ以前の世界 少しコロナ以前の世界の写真を発掘して投稿していきます(といってもとても個人的で 昨年三月以降八月直前まで 私的に精神風土が自由だった時期 たぶん二度とない)

 

ブログの更新をしていて手間取ってこんな時間 でもブログは記録として残るので大切です TLに百合の群落が流れてくると行きたくてたまらなくなります 去年も見て今年は日比谷公園に行こうと思ってたのでした 写真は我が家の 過去写真です(庭中百合で埋め尽くしたいと思ったことも)

 

コロナ後の出版 ってどうなのでしょうね 紙の本でお世話になった先生方にきちんとお礼のご報告をして喜んで頂きたいけど 電子書籍の方が今の状況では楽に手にとって頂けるとか まだ先の話だけど 考えてしまいます

 

五島美術館の源氏物語絵巻展中止の報にショックを受けています 当然の中止と思うし 開催されても私は行かなかったと思うから 中止 というそのことがショックなのではなく まさに今コロナ真っ只中の世界なのだ そしてそれが秋以降も終息の見通しが立たないのだ ということの事実を突きつけられて

 

ほんとうに コロナ後の世界はどうなるのでしょう 経済から社会は変わってしまっているだろうけれど そういう社会的なことはともかく 感性が 人間どうしのありようが変わる不安 文学に絞っていうと 文学そのものの感じ方感じられ方が変わると思うし もう変わっている 古典に対しても変わるものはある

 

華鏡を書いているから 痛切にそれを感じます コロナ後の世界にどう対処していくのか 模索がはじまっています

 

7月24日

おはようございます 高岡市万葉歴史館『美の万葉集』から小川靖彦先生「萬葉集古写本の美ー藍紙本萬葉集についてー」を拝読してたら夜が明けてしまいました 白河天皇親政期に作られた写本です このご論考 前に拝読してはいたのですが 白河天皇の時代のものという知識がなかったから 今日は新鮮に拝読

 

藍紙本は平安時代の万葉集古写本として残る6点中地味に思っていました それを小川先生はご論考中で「清雅」と この語に打たれて心がしんとしづまっています 相対的に厳粛にとらえられていて経典のような供養目的の製作かと 華鏡にはとてもタイムリーなご論考拝読でした

 

読もうとして探しだして拝読したのでなく 他のご論考を探していたら出てきたのでした 白河天皇親政期の製作と知ったばかりの昨今なので再読に

 

昨日夕方に熟睡してしまったものだから 徹夜しても大丈夫で でもこのまま起きていたら疲労困憊になるだろうから寝るしかないかと思うのですが〜 二条天皇の万葉集の項 白河天皇の万葉集をどう入れるか思考中です

 

メモ: 小川靖彦先生「萬葉集古写本の美」より 栄花物語に禎子内親王の裳着の折 紀貫之筆古今和歌集他 小野道風筆萬葉集が 上東門院彰子さんから贈られていると 禎子内親王は後三条天皇の母になる方です 後三条天皇もこの万葉集をご覧になっているでしょうか 或いは継承して それを白河天皇が継承?

 

それにしても「平安時代の貴族社会において『萬葉集』が調度品として珍重されていた」ことって 凄い! 頼通はこの禎子さんの父が三条天皇で藤原氏でないことから 後年 後三条天皇の即位を阻むわけですが 裳着のこの時にはそんな将来が控えているとは誰も思い描かなかったでしょう

 

藍紙本万葉集をいつも古写本万葉集が載っている『墨』で見てみようとしたら 表紙がそうでした 桂本とか他の本に比べて地味だなあと思っていたのですが 経典のような意味合いの書写の読んで そうだったのだ~ と感動しています

 

禎子内親王が頂いた小野道風筆の万葉集 小川靖彦先生『萬葉学史の研究』にある種々写本のうちに該当するのがあるか見たのですが どうも天皇家の写本は近臣たちに降りてきてないようです まだ確信ではないけれど

 

万葉集と水だし緑茶 やっと二条天皇の段の入力に入ります 藍紙本万葉集とか後拾遺和歌集とか諸々 入るといいのですがたぶん無理 白河天皇の乳母親子さんからの六条藤家を書かなくては!

 

写真の表紙が藍紙本万葉集の『墨』は古いから 藍紙本万葉集の書写者は伝藤原公任になっています が 昨夜拝読した小川靖彦先生のご論考では藤原伊房になっていて 『墨』以降に解明されたらしく それでなんとなくピンとこなかったのですが 白河天皇期に伊房がいると知って読んだら いろいろ繋がりました

 

美福門院得子は二条天皇を育てていた の次の展開をどうするか浮かばず思考が迷走していましたが 思いがけず仮寝して起きたらその起きがけに 二条天皇とは先に書いたが丹後内侍が仕えたあの天皇である という玄覚さんの独白バージョンが脳裡に流れて あ これで行こうとなりました 急転直下です

 

白河天皇親政期の万葉集とか諸々 白河天皇期があまりに魅力満載で切り捨てがたかったのが 玄覚さんの独白バージョンに戻るなら動きが楽に 玄覚さんの思考のなかで白河天皇をたぶん語れます 写真は昨年訪ねた西武池袋店モネの庭 TLにモネの庭関連のツイートが流れてましたので

 

7月25日

おはようございます 二条天皇の項の入力があまりにスムーズに進むので今までの苦労は何だったのだろうといった気分です 切口がみつかるとあとはその方向で入っていけばいいので 結局大変なのは切口をみつけることなのでした 今朝は曇って暗いので 西武池袋店モネの庭から思いきり艶やかな一枚を

 

今日はまだ早いけど寝ることにして小さなPCに入力した原稿をUSBに移しました ネットに繋いでないので原始的な移動です笑 昼にシンセサイザーを造ってしまった大学生さんをTLで見ましたが シンセサイザーって和みますね 時々タブレットのアプリで弾いてみたくなります 一度試して 無理 と諦めましたが

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2020.7.23 ツイッターから転載…日々雑感、原稿を大幅に見直し、待賢門院璋子さんの段で白河天皇の項終了に

7月21日

おはようございます 11歳の少年白河天皇が上東門院彰子さんを訪ねた設定にしたのは 北条実時と宗尊親王の11歳問題の布石で根拠はなかったのですが その後白河天皇が10歳で母茂子さんを亡くしたことを知り 11歳問題に白河天皇ご自身が史実として関わっていたんですね 永遠の母親像を求める光源氏その人

 

だったんです 前に書いた段ではそれが入っていないから コンパクトにまとまっていて崩したくない思いを絶ちきって この段を祖父能信が伴って連れていくところから書き直します と やっと気持ちが整然としてきました 祖父能信ということも今までは入れてなかったことだし

 

写真はラファエロ前派展図録の表紙から この会場では自由に写真を撮らせて下さるコーナーがあって ラファエロ前派展にてと断り書きをつければSNS投稿可でした 今度ハードディスクから出してみますね コロナ前の世界として

 

玄覚さんの告白バージョンで書いているのだけれど 以前の原稿では法勝寺について今の感覚で かつて白河の地にあった と書いていて 今日から原稿の見直しに入って大変なうっかりに気がつき 調べたら法勝寺は応仁の乱で廃絶と ということは玄覚さんが語る当時まだ建っています 気がついてよかった

 

写真は以前歩いたときの法勝寺があった一帯 この茂みのなかに法勝寺金堂の礎石が残っています ここをまっすぐ行くと平安神宮 道の両側に待賢門院璋子さんの円勝寺など 六つの「勝」のつく寺院が建っていました 白河天皇の法勝寺以降五人の歴代天皇の御願寺+円勝寺 璋子さん、凄い!

 

以前書いていた11歳の白河天皇が上東門院彰子さんを訪れる段と 最近取り組んでいた白河天皇の法勝寺建立あたりの段がうまくつながりました 安堵

 

7月22日

おはようございます 先週たしかもう雨は終わり と言われたはずなのにまだ降ってばかり 今朝もまた降りだしています 何方かが過去の孔雀の写真を発掘して下さったのでRT 毎年五月の繁殖期に孔雀を撮りに多摩動物公園に行ってました 今年はコロナで行かれなかったけど 孔雀さんたち元気でしょうか

 

さきほど降り出していますとツイートしましたが もう晴れてきています 訂正のためのツイートです

 

コロナ前の世界 を意識したら 去年の今頃撮った写真がいろいろ愛おしくなりました これは池袋西武百貨店につくられたモネの庭に行った時の 薔薇が咲き乱れて素敵で今年も行こうと思ってたのに

 

華鏡 少年白河天皇と上東門院彰子さんの段と それ以降の法勝寺建立などの段の接合が終わりました すっきりしたと思ったら そのあと書いてあるのが待賢門院璋子さんの法金剛院 すっぽり白河天皇の人生の中間部分が抜けています で これからそれを埋めるべく 白河天皇の万葉集書写に入ります

 

写真は昨年行った西武池袋店のモネの庭 夢のようだったコロナ以前の世界の象徴のような写真たち ふしぎなのですがコロナ以前はその前もずっとそうなのに 私には二月に鎌倉での活動に終止符を打ったその時からの半年だけが夢のような記憶 精神が自由になった美しい気分が写真で甦るのでしょうね

 

二条天皇中宮シュ(女偏に朱)子内親王のウィキを読んでいたら 彼女は二条天皇とは疎遠で後白河院が身を案じていたと その彼女にはな澄憲との密通があり 海恵という子までいる 玉葉に書いてあるらしいけど なんでそんなこと書くかなあと 世に残すための日記にあえて? と思ってしまいました

 

内親王は鳥羽天皇と美福門院得子さんの子で二条天皇妃になったのに 二条天皇と別居して後白河院の高松殿にいる 二条天皇は対立する実父後白河院の影を内親王の背後に感じてよく思わなかったらしい いろいろ複雑

 

近衛天皇妃だった多子さんが二条天皇に再度入内して二代后多子さんになるわけだけれど その二条天皇が目下万葉集で書こうとしている方だなんて 平家物語を読んでいた時には想像だにしませんでした

 

美福門院得子は後白河天皇の皇子を預かって育てていた。二条天皇である。 という書き出しで二条天皇の万葉集の段に入ることにしました 待賢門院璋子さんがもう完璧に書けているので白河天皇をこれ以上追っても無駄との判断 急遽 突然 万葉集 です 急遽 本題に突入 新しく書き始めます

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2020.7.21 ツイッターから転載…日々雑感、白河天皇のこと、11歳で上東門院彰子さんを訪問した段を書き直しに・・・

7月18日

まさかの訃報。ファンでした。花の蹴鞠で主人公の飛鳥井雅経役をイメージして書いてたのに・・・ 三浦春馬さん・・・

 

夜に入ってふと机上に挿した絵葉書が目にとまり手にとったら 二枚重なっていたその二枚目が先日コロナが心配でお便りを下さった方の去年のお年賀状 小説頑張って下さい。あなたならきっといいものが書けると思います。 嬉しかったから絵葉書で隠して飾っていたのでした 大変な一日だったけど頑張ります

 

陽明文庫王朝和歌集影に載っているご論考を拝読していて 禖子内親王が読めず PCなら手書入力して読む方法があるけど タブレットではできず ウィキでご論考中にあった言葉を検索し そこにある禖子内親王をタップしてウィキへ など四苦八苦してたら 家族に漢和辞典のオンラインを使うよう勧められました

 

便利そう!

 

陽明文庫王朝和歌集影から 山本啓介氏「歌合の作法」を拝読しました 歌合のようすが昨日の赤澤氏とこちらとで随分具体的にイメージできるようになりました 奇跡のよう これまで二条天皇と万葉集の段は題詞の高い低いなど 国文学の論文ふうにしか書けないと思ってました

 

あ それから 昨日注に見て読みたいけど図書館に行かれないから諦めたご論考 国会図書館の遠隔複写で申し込みました

 

まだ白河天皇と後拾遺和歌集の段が終わってないのに…… 白河天皇と後拾遺和歌集ー白河天皇の万葉集と摂関家ー後白河天皇と二条天皇の確執ー二条天皇と万葉集 と 思いつくままにメモしたけど ふうっ 先は遠い! (ここのところ涼しいから家の片付けもの優先にしてました 明日から身を入れて書きます)

 

7月19日

おはようございます 涼しかったから家の片付けなどしていてこの図録が ラファエル前派展 去年の今頃 行ったのでした 夢を見ました 真っ白な高峰の連山 ヒマラヤの夢を見るときは気持ちが整った証 以前見ていたときは恩師がパリに滞在されていた時で 夢の後パリからお便りが届きました 亡くなられてもう

 

それは叶わないけど 昨夜励まして下さる方のお葉書をみつけて パリからのお便りが思い出されたのかも

 

夢のようだった涼しかった数日が過ぎ 快晴の今日は湿度がもわっとしてもう・・・ 振り返っても返らない夢のようだったコロナ以前の世界 写真は去年の今頃 ラファエル前派展会場の三菱一号館美術館から撮った光景だけれど いつかまた行く日もあるでしょう それまでとにかく籠って原稿に頑張ります

 

去年は二月に原稿に専念するために鎌倉での活動に終止符を打ち 封印していた自分の趣味・自分のセンスのための自由な精神活動に移って 最初に行ったのが汐留のモロー展でした 考えてみるとこれがコロナ前の夢のような一時期になるんですね 私にはつかの間だったけど 夢のような半年でした

 

そうした折々に何気なく撮った数々の写真 もっときちんと撮りたいなあなど当時は不服だった写真たちが コロナ以前の楽しかった日々の記録に 昨夜ラファエル前派展のカタログを発掘したときから そうっか もう戻らない日々の何気ない思いが籠った貴重な写真なんだ~との思いが湧いています

 

深夜の入力用に買った小さなPCが 一昨日強制終了してもシャットダウンしなくて電源を抜いて終了させたのですが 壊れたのかなあと怖くて それで涼しいのをいいことに家の片付けものをしてたのですが もう深夜は手書での覚悟で古い原稿用紙をもって上がってきて 恐る恐るつけたら PCは壊れてなくてホッ

 

今日は無事にシャットダウンできました 掃除していたのは原稿に詰まっていたのがあって そこにシャットダウン事件が重なったのですが 再開するのに通しで読み直したら前に書いていた能信の部分が不十分で そこを書き直すことからしなければならないと判明 それはもう昼のPCに移した分だから明日します

 

7月20日

とっても古い写真だけれど おはようございます 大雪の井の頭公園 森は生きているの気分満喫で撮りました スマホだったから今度降ったら一眼レフでと思っていたのに 木が剪定されたり降っても工事中だったりで 写真は撮ったその時のが大切 と思ったショット コロナ以前の世界はもうないのならもっと大切

 

昨日から時間という思考が入ってきて感じ入っています 時間がテーマの小説を書いていたはずなのに忘れていました 単にコロナが終息したらと思っていた時はコロナを挟んで時間は一つの平面でした でも違うんですね 質が変わってしまっているんです それがどういうことなのか それをどう書けるかです

 

そういえばと思い出しました 比企の乱は比企氏にとってまさに今のコロナだし 絶対に乱以前の世界に帰れない その悲惨さを書くのに対照的にそれ以前の優雅だった日々をたっぷり書いておかなくてはと 京の宮廷の雅な方たちを意識して書き始めたのでした なんか嵌ってその危機感から遠のいていました

 

だんだんというかやっと気持ちが定まってきています 11歳の白河天皇が上東門院彰子さんを訪ねた段がコンパクトにまとまっているので崩したくなく その後に能信の件が出てほんとうはその段に入れればいいのだけれどするのが嫌で すっかり白河天皇に嵌まって原稿を進めていました でも掃除とかで中断

 

して再開した今日 原稿を読み返していたらやはり能信は11歳の段に入れるべきと というのも原稿はすでに待賢門院璋子さんの法金剛院を書き終わっているからで それは白河院崩御で建立を思い立ったわけだから その後に白河天皇と能信を書いていても無理がありました 11歳の段をこれから読み返して

 

能信を入れますが 結局あんなに熱く後拾遺和歌集とか白河院関係をやったのに たぶん 後拾遺和歌集も不要に そして できている法金剛院の段の続きに二条天皇を書いて 急遽 万葉集が書けることになりそうです 白河天皇に嵌まりすぎてブレーキをかけられたのかも 数日の涼しい掃除は

 

そうっか あんなに後拾遺和歌集をやって それで入れないのはなんか~ と思ってたけど やったから白河天皇の11歳問題に辿りついたし 能信が祖父だってことも見えてきた 無駄ではなかったんですね

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2020.7.18 ツイッターから転載…日々雑感、『陽明文庫王朝和歌集影』から赤澤真理氏「歌合の場―女房の座を視点として」を拝読しました

7月15日

おはようございます カサブランカの二輪目が開きました ひとつの茎に蕾が二個つきます 昨年は球根を掘りあげなかったので茎が細く 花がつきそうもなかったのに 咲いたらこんなに立派 カサブランカは強いです こんなに美しいのに と見習わなくちゃ

 

今年一月末鎌倉の帰りの湘南ライン車内で 再来年の大河が鎌倉が舞台の義時主役と知り その時は青ざめました 私の書こうとしている仙覚さんの小説と時代も登場人物も全く重なるから このままでは亜流か二番煎じか悪くしたら剽窃になりかねない と奮起しても遅筆はどうしようもない そこにコロナの自粛

 

鎌倉の予定も全部キャンセルして家に籠り 小説の土台から考え直して構成を整えて 今の華鏡になりました そのままだったら普通の時代小説だったのが コロナの自粛で自分を取り戻しての自分の文学の把握です 強くなったなと思います 強くなければ本物は書けない これが今の心境です

 

雨に濡れるカサブランカ 伐らずに庭に残した蕾も開きました 綺麗です

 

昨日まで蕾だったカサブランカが咲いているのを見て勢いよくカーテンを開けたら 音に驚いてひらひらひらっとオハグロトンボが飛び立ちました 黒い羽根に翡翠色が光って 雨の庭のしっとりした風情のなかの信じられないあでやかさ それを撮れたらいいのですが止まったまま動かずになってしまいました

 

TLに山百合の写真が流れてきて 私の忘れられない山百合の写真をご紹介 2012年の撮影 鎌倉に というより六浦によく行っていた時の写真です 鎌倉駅から金沢八景行のバスに乗ると 途中 朝比奈峠を越えます 歩く人用に朝比奈切通がありますが バスは峠越え その崖に山百合が咲いていました

 

私の研究の原点は金沢文庫だから 金沢文庫の周辺を必死になって歩きました 勤めているときは毎週末に 結局それで体を壊したり……笑 なので金沢八景-鎌倉駅のバスに何度乗ったか 朝比奈峠を越えるときの緊張感とか 思い出しても楽しいです 六浦は鎌倉とは峠をはさんで金沢八景側です

 

7月16日

おはようございます 今 TLを見ていてあるツイートをタップしたらいきなり入力が始まって送信されてしまいました 自動入力です なんか音声も出たような それで最初のツイートや送信されたツイートを探しても無し ロックされた画面についてのツイートでした 皆様もお気をつけ下さい でも何だろうと心配

 

なにかにひっかかって もし私のアカウントがロックされたら Facebookでご報告します でも 無理にFacebookは使いたくないので余程のご報告がなければ 原稿に籠ります

 

改めておはようございます 白河天皇と後拾遺和歌集の段は書き始めるところにきているし 朝の事件でしばらくTwitterを止めようかと思ったのですが 私のTwitterは思考過程の記録でブログへの転載用なので止められないことを思い出しました 写真は昨夜の続きで朝比奈峠から見たバスの車窓の六浦の海

 

鎌倉駅ー金沢八景のバスで朝比奈峠をとおると バスの曲がり具合でほんの一瞬 六浦の海が見えます ほんの一瞬で気をつけていても見逃すほど なのにこの写真 こんなによく撮れていてほんとうに六浦かなあと心配なのですが 六浦路の帰りの撮影で鎌倉側の海が見えるはずがないので六浦と思います

 

金沢八景駅から見た六浦湾です この一帯 中世では観光地として栄えていて料亭がたくさんありました 今はわずかに千代本さんが残るだけ 私はここで中世の旦那衆みたいに湾の月を眺めながら酒宴を などという夢を持っていて Facebookで以前呟いたら 企画したら参加しますよ という方がいらした笑

 

7月17日

おはようございます 何気なく見ていた書棚にこの『陽明文庫王朝和歌集影』があって 後拾遺和歌集はあるかしらなど軽い気持ちで開いたら目次に赤澤真理氏「歌合の場ー女房の座を視点として」があって 二条天皇の内裏歌合の場での二条院讃岐の立位置が知りたかったので絶妙のタイミング 拝読します

 

『陽明文庫王朝和歌集影』から赤澤真理氏「歌合の場ー女房の座を視点として」を拝読しました 源氏物語絵合巻に参照されたのが村上天皇内裏歌合 その後廃れて後冷泉朝に再び活発化と 女房が歌人として参加する場合もあり そうではなく出衣の華やかさを添えるためにも 興味深いご論考でした

 

注に参照したい本があるのにコロナで図書館に行きたくないから密林で買おうとして検索 見たら数千円以上もするので諦めました 大変な世の中になっていますね うっかり外に出たくないです

 

比企尼の長女で頼朝と乳姉弟の丹後内侍が二条天皇に女房として出仕していて それで丹後内侍なのですが そこで二条院讃岐と懇意になっています そんなことで内裏歌合での女房のありようを知りたかったのでした 丹後内侍も歌人だったらしいです 歌人としてでなくても出衣の役で参加したかもですね

 

7月18日

おはようございます 昨夜はあまりに『陽明文庫和歌集影』の赤澤真理氏ご論考のインパクトがあったからか なんか 夢のなかで歌合っぽいことに翻弄されてました笑 持っているだけで嬉しくて買った本が 今になってこんなに役立つなんて 今日は山本啓介氏「歌合の作法」を拝読します 当分この書に浸りそう

 

TLに見た もうコロナ以前の世界はない の言葉がずっと胸に重くひかかっていて それは薄々察してはいても終息を願っていたし 終息すればもとのように動けると思っていました だから少なくとも年内我慢 延びても来年くらいは我慢 とどこか気楽に構えていたのだけれど 終息後の世界が以前と全く違う迄は

 

ちらほらと 終息後の世界は というテーマの本や講演会の案内が見受けられてきて 今後どうなっていくのだろう とか それに対しての身の振り方 とか きちんと考えておかなくてはと 思い始めていました だからそんな矢先の もう元の世界はない の断言は身に響きました

 

思い出したのだけれど 山百合は母の実家の田舎の家の玄関脇にあって 母が仕事を持っていたのと野で遊ばせたい父の意向とで私と妹は毎年夏休み中預けられていました 行くと毎年株が増えて山のような山百合の花 そんな思い出が山百合→カサブランカ好きになったのかも 祖母がなくなった今はありません

 

だから毎年カサブランカが咲いた日が私の一年のハイライト なんか それまでが私のコロナ前の世界だったかのようで写真を見ても楽しい それが終わって これからコロナ後の世界をきちんと考えて過ごすんですね

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2020.7.16 ツイッターから転載…日々雑感、後拾遺和歌集から和泉式部のこと

7月13日

おはようございます カサブランカが咲きました 今日は和泉式部日記を少し読もうかと 学生時代夢中になって読んだ日記 それが今棚にあるかどうか それを探すところから

 

和泉式部日記 新潮日本古典集成でありました 野村精一先生校注だったんですね 国文学の学会で紹介して頂いて 源氏物語二大写本に秘めた慰謝という論文を喜んで下さって 潮廼舎文庫にもお誘い頂いていたのを実現しないうちにお亡くなりになられて 今日は野村先生の追憶で拝読させて頂きます

 

昨夜 親子さんについて読んでいたら 白河天皇は10歳のころ母の茂子さんを亡くしていて 他の乳母も早生して親子さんだけになったから 白河天皇にとって親子さんは母親同様だったと それで親子さんに位を与えたり厚遇するのですが 少年時に母を亡くすって 白河天皇は育ちからして既に光源氏なんだ〜と

 

先月の時点ではまだ親子さんについてこなれてなくて気づかなかったのですが、巡りめぐって親子さんに戻ったら、そうだったんだ~となりました。永遠の母親思慕は白河天皇の心の深さの原点ですね。

 

生まれた時から母を知らない仙覚さん。11歳で父親の発狂から幕府での重職を継いだ北条実時、11歳で両親から離され将軍になるべく鎌倉に下向した宗尊親王、と華鏡の隠れたテーマが運命を背負った11歳の少年で、以前白河天皇を無理矢理11歳で彰子さんのもとに行かせたのでしたが白河天皇もだったなんて

 

なんかまだよくわからないのですけれど 白河天皇のこと 待賢門院璋子さんから書きはじめて今があるのですが 根本のところで理解していなかったかの感がしてきて書き直そうかという気持ちになっています たぶん書き直さなくても今の段で書けばいいと思うのですが…… 後拾遺集には撫子が多いですね

 

これがあったから進まなかったんだ という思い 表層から深みへ 一歩入りました

 

7月14日

おはようございます 和泉式部の為尊親王と敦道親王は三条天皇のご兄弟だったんですね このあたり白河天皇を書くのに頑張って把握したばかりだから 文学でしか捉えていなかった和泉式部の現実がリアルに見えてきてびっくり 公任は白河に別業を持っていて 彰子さんも訪ねているし 和泉式部も親王と一緒に

 

行ってます 公任といえば紫式部がこのあたりに若紫やさぶらふと声かけられて逃げた人 和泉式部は貴顕と付き合って別業を訪問まで この対比が私には複雑でした

 

和泉式部の恋愛 為尊親王と敦道親王の逝去が源氏物語千年紀の1008年直前で その年に紫式部が公任から声をかけられたのだから 和泉式部が公任の白河別業を親王に伴われて訪ねたのは紫式部が源氏物語を書き出した頃 紫式部が公任に声をかけられた年の和泉式部は親王の逝去後で失意で籠っていた頃らしい

 

寵愛される貴顕を失ったあとの和泉式部と 生き方は地味だけれど源氏物語を書いた紫式部 というこの対照的な二人の女性を公任がどんなふうに二人を見ていたか ちょっと興味(和泉式部については実人生を読まない方が夢が残ります)

 

公任の和泉式部評がありました 新潮古典集成野村精一先生解説より 暗きより暗き道にぞ入りぬべき などの歌を賛して 凡夫の及ぶべきところにあらずと評したという逸話が『俊頼髄脳』にあるそう この歌が和泉式部の人生のどの時期のものか 気になります

 

よく読んだら公任は暗きよりの歌よりも 津の国のこやとも人をいふべきにひまこそなけれ蘆の八重ぶき を賛したとのことでした 凡夫の及ぶべきところにあらずは津の国のの歌への賛で 暗きよりに対してではないです

 

なぜか どうしても和泉式部を追っていると心が殺伐としてくるので切り上げて 源氏物語に戻りました 例によって中野幸一先生『正訳源氏物語』 桐壷巻をざっと読んだのですが 心がすうっとして一気に殺伐感解消 なんなのでしょうね これ 紫式部さんの文体の奥にある何かだと思います

 

中野幸一先生『正訳 源氏物語』第一巻です 訳の下に本文が添付されているので 本文が必要になっても最近はもうこの正訳に頼りっぱなしです

 

中野幸一先生の正訳は美しいです。現代語訳というのでなく、原文を現代の人が読みやすいように書き慣らして下さったって感じ。拝読していて少しも現代文ということを感じないどころか、途中で、あれ?、原文を読んでいたっけ、と思って下に添付されている原文を見ると明らかに違って現代文なんです。

 

白河天皇の後拾遺和歌集を書こうとして和泉式部に辿り着き 68首も採られた和泉式部への天皇の思いを探ってここまできたら やはり私は和泉式部よりも源氏物語というところに落ち着き この段に和泉式部を入れなくても書ける気がしてきました でも 和泉式部を辿ったからこその結論で意味ある展開でした

 

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2020.7.14 ツイッターから転載…日々雑感、白河天皇の上東門院彰子さんや六条藤家と親子さんのことなど

7月10日

おはようございます TLにポテトサラダがロシアが原点と読んで そういえばカフェロシアさんのメニュー「毛皮のコートを着たニシン」がポテトサラダをベースにニシンとビーツの煮たのがミルフィーユになっていたと思い出しました 大好きなメニューです

 

テイクアウトで購入した「毛皮のコートを着たニシン」 左のピンクのソースがかかっているのがそうです 下からポテトサラダ・マリネしたニシン・刻んだビーツが重なっています(私はどうしても毛皮のコートを着た貴婦人って覚えていて でも隣で貴婦人下さいといった人がいてお店の人に通じてました)

 

紙の本の後拾遺和歌集が届きました 今日は一日これで過ごします

 

後拾遺和歌集選子内親王 「上東門院尼にならせたまひける頃よみて聞えける 君すらもまことの道に入りぬなりひとりやながき闇にまどはん」← ページを繰っていたらふと眼に入って

 

だいたいわかってきました 後拾遺和歌集 kindleと紙の本では同じ本かどうかわからないけど kindleは旅のお供程度にいいですね 紙の本には解説どころか通俊の後拾遺和歌抄目録序があって それがとてもリアルにこちらに伝わってくる 白河天皇と通俊の心が通じた関係も伺えました

 

解説でおかしかったのは どうも通俊は時の歌壇の重鎮経信や大江匡房を敬遠していたこと 二人とも地位や立場に比して歌の入集数が少ないです ここから思うにこの二人が選者に選ばれなかったのも 白河天皇の気質は通俊側なんですね 文学的か衒学的かの違い? 私は白河天皇の気質が好きです

 

十年近く(曖昧ですが)の歳月をかけて選んでいて その間に中宮賢子さんの崩御があり ですから 白河天皇がずっと通俊に任せっぱなしという事はあり得ず ふたりで語らいあうこと多かったと思います そこで白河天皇から上東門院彰子さんの歌を入れるような話があったと 私は推測しました

 

そうっか とはたと気づいて飛び起きました 白河天皇と通俊は経子さんの部屋で後拾遺和歌集についての対談してたのですね 経子さんも交えて だから白河天皇と経子さんはあんなに親密なんだと なんか二人の関係に意志の疎通のできているほのぼのしたものを感じてました

 

思うのだけど 源氏物語を好んで読んだ白河天皇(私の勝手な決めつけですが)は女性の気持ちがわかって優しかったのでしょうね 中宮賢子さんが亡くなった時食事も喉を通らないほど悲しんだというのに 賢子さんと並行して通俊の妹経子さんにも優しい 源氏物語の女性陣の苦しみを熟知してるからと思う

 

通俊が後拾遺和歌の選者に選ばれたのには経子さんの存在が大きかったようにウィキに書いてあったけど 源氏物語世界に生きる人たちと 経信や大江匡房はそうでない人たち の二項対立の気がします それから 解説では例えば一番入集歌の多い歌人は和泉式部とか詳細にありましたが上東門院彰子へは皆無

 

歌人として認められていないのでしょう だからこそ私はそこに白河天皇の彰子さん入集の意志を感じてしまったのでした 時の権力者だから入れられて当然と従来の研究者さんは思ってられるのでしょうね これから上東門院彰子さんのお歌を詳細に読んでみます kindleでは二首だったけどそれも確かめます

 

よくわからないのだけれど kindleと紙の本では底本が違って同じ本の電子書籍版ではないらしい 歌数は同じで赤染衛門が掉尾 なのに索引の白河天皇や上東門院彰子さんの歌数が違って 昨夜呟いた白河天皇と彰子さんが2首ずつというのは 紙の本では白河天皇7首 彰子さん2首 紙の本優先に見ていきます

 

歌集にこんなにのめり込むのは新古今和歌集と玉葉和歌集以来 でもまさか後拾遺和歌集にくるとは思わなかった 後拾遺和歌集は見れば見る程白河天皇の意向の入った通俊選ですね 経信や大江匡房だったらこうはならなかった こうっていうのは彰子さん主体の時代の歌人が多い源氏物語風

 

7月11日

おはようございます 感染の危機感が日増しに強まる中での政府の対応 人間って為政者のなると人の命というものが見えなくなるんですね と仙覚さんの生涯を思う 時代が変わって民主主義の世の中になっても と信じられないのですが でもとにかく私は華鏡を完成させなければならないから頑張ります

 

写真は横川で発見された上東門院彰子さんの経箱 円仁の経典を弥勒菩薩到来の世まで残すために埋めたその事業に彰子さんが支援しての経箱です 彰子さんは国母としての務めを終生忘れずにいろいろ務めています そういう心意気の為政者が 今 欲しい

 

呟こうとして先にTLを見るとひどい現実に呟こうとした意欲がなえてしまう でも呟きます 後拾遺和歌集のこと この勅撰集は若き帝王の若気の至りみたいな院宣発布ですね 即位して間もないころの院宣だから誰に進言されて? とずっと考えていたのですが どうやらご自分の意志で決められたみたい

 

だから和泉式部だけ突出して多かったりと構成が破天荒 これは帝王でなければ誰もできません 結果として選者の通俊が未熟と責められているけど 白河天皇はそれでよしとされてたのですものね なぜこんなことを というのは 源氏物語と関連して和泉式部集などを読んでいたのだと思います

 

誰の進言で? が解けないうちは原稿にかかれなかったのですが やっと進みます(最初 大江匡房の進言でと考えていたのですが 匡房はこの集では冷遇されていることがわかって それで進みました)

 

7月12日

おはようございます 昨夜のツイートの続きですが白河天皇は若気のいたりみたいな後拾遺和歌集を経て 晩年近く再び勅撰集を出します それが金葉和歌集で 普通に歌壇の重鎮俊頼選 この対比が面白いです 今日からやっと六条藤家にかかります 昨夜白河天皇は誰と和泉式部集を読んでいたのだろうと考えたら

 

六条藤家が浮かびあがりました 万葉集まで出て来ないと思ってました笑 後三条天皇に隆経が仕え 妻の親子さんは白河天皇誕生で乳母になり その二年後に顕季誕生 親子さんのもとで顕季と一緒に白河天皇は和歌を勉強していたんですね だから天皇になれば勅撰集を出せるっていう野心もそこで芽生えたと

 

貞仁様は和泉式部がお好きですねと親子が笑った 華鏡後拾遺和歌集の段の冒頭が浮かびました やっと舞台が整ったようです(長かった〜 枯渇したかと思ってました)

 

岩波書店新日本古典文学大系金葉和歌集解説より 古今後撰拾遺の三代集は以後の和歌史の古典的権威 しかしその後長い空白期 それは道長ら摂関家強大化により天皇が政治の中枢から外れたことに起因 そうした背景にあって四番目の勅撰集である後拾遺和歌集は 白河天皇による天皇の復権を目指す文化的改革

 

続) 後拾遺和歌集成立後、和歌史上で注目すべき様々な現象が認められ始められるようになった。中略。或いはまた元暦校本万葉集に代表される、万葉集の書写や訓点が盛んに行われ…… 解説のなかだけでも なんか 万葉集が近づいてきたかの感で ほっと!

 

続) 俊頼は、後拾遺和歌集以前の勅撰集とは全く異なった名称金葉和歌集を冠した点も注目される。金はすぐれたの意、葉は言の葉の意で、万葉集の名称を意識したのであろう。

 

金葉和歌集の成立って 待賢門院璋子さんの時代なんですね 崇徳天皇の即位の三年後 後白河天皇誕生の前年になります 白河院は俊頼の選を気に入らずに三回も奏覧させている その三回目の本が璋子さんの手元にあって 兄の太政大臣実行がそれを借りて書写したと 璋子さんは和歌にも関心がお有りでした!

 

親子さんに関連して六条藤家の歌道の家としての活動が隆経からだったか顕季からかごっちゃになって それでブログを見たのですが ブログでもわからないからこれから調べるって 後拾遺より万葉集は後だし また萬葉学史の研究に戻らないといけないかも

 

六条藤家とか親子さんとか六条藤家の祖とかを調べていた時の興奮が戻ってこなくて なんだったかなあとブログを確認したら 6月12日に「ここまで来たら親子さんになにか喋らせたくなった」と そして今朝 親子さんの声が降りてきたのでした 「貞仁様は和泉式部がお好きですね 」と 奇しくも1ヶ月前でした

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2020.7.12 ツイッターから転載…日々雑感、後拾遺和歌集、kindle本と紙の本を購入して読んでいます

7月8日

おはようございます 以前和漢朗詠集を買ったときに kindlefireで読もうとしたら電池切れで 充電しようとしたらコードがなくて諦めていたのが 昨日偶然でてきて充電しました 七夕ってTLを見たら願い事をする日だったんですね 親行の河内本しか頭にないから願わなかったのを コードは心で願ってたのかも

 

私のkindlefire こういうのも入ってます  仙覚著『万葉集註釈』 100円だったので全巻買いました 嘘みたいでしょ

 

私のkindleをご紹介 その3 高遠弘美先生訳プルースト『失われた時を求めて』 旅のお供にこれを鞄に忍ばせて 紙の文庫本で読むより読みやすいし持ち運びに便利 全巻こちらも揃えます

 

安達景盛の生誕不詳には かえって意味ある と たった今気づきました

 

まだ気持ちが乗らないけど ずっとPCに向かって文章を練っているほどには集中してきました それで書いたのが白河天皇と能信の源氏物語 白河天皇と大江匡房の法勝寺で これから白河天皇と通俊の後拾遺和歌集に入ります とにかくざっとでも進めることにして そのうちに気持ちも入ってくるでしょう

 

後拾遺和歌集 Kindleで購入 岩波の本の電子版らしいけど久保田淳先生の解説がついてなくて 私は解説こそ拝読したいので 紙の文庫本も買いました 明後日届くみたいです

 

さして行く道も忘れて雁がねの聞こゆるかたに心をぞやる 御製〔白河天皇] ←新古金集に馴染んだ身に御製は後鳥羽院だから 白河天皇 ということが新鮮でした

 

7月9日

おはようございます 今日はKindleのこれを読んで過ごします 後拾遺和歌集 作者名を見ているだけでも楽しい!

 

なんだか随分遠くにきてしまったとの感でなんとなく郷愁に満ちて過去写真を見ていたらこれがありました 武蔵国分寺の薬師堂 原点だなあと 新人賞を頂いた「まほし、まほろば」という作品の舞台です 懐かしいなあと魅入ってしまいました こんなところですでに仙覚さんと万葉集に至る道筋が

 

武蔵国分寺は鎌倉街道上道に接していて 仙覚さんは比企と鎌倉の往還に何度も通っていたはず 当時まだ国分寺は焼失していないから 仙覚さんも拝観したことでしょう 仙覚さんの歩いた道をたどって鎌倉街道を撮りにいったら薬師堂があって 小説を学びはじめた初期を思い出して懐かしかったのでした

 

後拾遺和歌集に上東門院彰子さんのお歌は二首 「一条院うせ給ひてのち、なでしこの花の侍りけるを、後一条院をさなくおはしまして、なに心も知らでとらせ給ひければ、おぼしいづることやありけん 見るままに露ぞこぼるるおくれにし心も知らぬ撫子の花」「時のまも恋しき事のなぐさまば世はふたたびも

 

背かざらまし ← 前中納言顕基が一条院崩御のあと出家して横川にこもっているところに上東門院からどうしているかと問われて送った歌の御返しです」 二首とも一条院崩御のあとの寂しい思い溢れるお歌 やはり心の深い方だったよう 横川の円仁の法華経埋経に寄せた願文を見ても哲学的思索をなされる方と

 

なんとなく えっ?となって年齢を計算しました 一条天皇崩御は32歳 その時上東門院彰子さんは24歳なんですね 三、四十代くらいまでご一緒かと思っていました 幼くおはします後一条天皇は4歳 紫式部日記に誕生を記されたのが1008年でそのたった三年後に彰子さんは夫を 後一条天皇は父を失ってたなんて

 

後拾遺和歌集から主だった方の歌をご紹介と思って まず二首の上東門院彰子さんから始めたら ここでぐっときてしまって終わりにします 白河天皇は彰子さんのこの二首を入れるために勅撰集を命じたとか……妄想ですが あ でも 撰進の命は崩御の直後…

 

記憶でですが 一条天皇崩御のあとの遺品の整理で道長のお陰で政治が乱れたと書かれた書状を見つけ 道長が怒って破棄したとか 彰子さんは愛され方で定子さんに敵わない思いを終生抱いていただろうし 崩御の後にまでそんな書状をみるはめになって 私まで辛くなっていましたが この二首のお歌は美しい

 

切り上げて寝ることにしたのですが 彰子さんへの思いが溢れて切なくて戻ってきました 白河天皇の後拾遺和歌集撰進 彰子さんへの追悼号にします 孤高の麗しい精神で 強大な支配力をもっても最後まで冷静でいらした(頼通を諌めたり)紫式部の薫陶が生きた生涯だったんですね 横川の埋経のことも書きます

 

白河天皇のこの時期のこと 能信と大江匡房の絡みを書いても気分が乗りませんでした 困ったなあ中断前はあんなに乗ってたのにと 通俊の後拾遺和歌集にはとにかく心を乗せなければと思っていたのですが まさか彰子さんに決着つくとは でも これ 華鏡として正解 後編で松下禅尼を書く時の布石になります

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2020.7.8 ツイッターから転載…日々雑感、都知事選が終わり華鏡に専念する日々に戻ります、今年も【七夕は鎌倉の源氏物語の日】がきました他

7月4日

雨の朝の玉簾の蕾第一号 放置していたベランダのプランターを整備して生き返った玉簾です おはようございます 都知事選が終わるまで煽られるのが嫌だからTLは見ないという当初の覚悟は跡形もなくついに終盤戦 宇都宮けんじさんのどんどん風格ついて輝いていかれるご様子にひょっとしてひょっとしてと

 

こんなに見事に開いた時期もあったのになぜか今年はまだ蕾です 我が家のカサブランカは 日照とかいろいろ影響あるのでしょうね 周りに木や家が建って 諸事あって原稿に向かえないでいましたがその間もずっと思念は進行していて 昨夜頃から彰子さんと能信が会話しはじめています こんなことって!

 

石巻や鳥取で感染した方々は東京にきて帰られた方々とか 横田基地のマップでは東京の赤い地域に入った人は何日か隔離と 東京都心部 相当ヤバイと思うし 当地は多摩だからやはり地図の赤い都心部地域には例え美術館でも行かないでいようと思います

 

朝蕾だった玉簾が開いていました でも過去写真を見てたら玉簾の開花は9月 たった一輪なのはこの一輪が間違って咲いたのでしょうね でも嬉しい

 

7月5日

雲が刻々と金色に染まって目が離せませんでした

 

もう一枚 風が強く 嵐のような風 雲と関係あるのでしょうか

 

家の背後になる西の空はもっと強烈な金色に

 

TLは コロナを配慮して最終日の街宣を止められたために 他の候補の方の街宣ばかりが怒涛のように流れてくる こうなるのをわかっていて止められた方だからこそ信頼できる と思う 慎重過ぎてし過ぎることのないコロナ 最終街宣を取りやめるなどのありえない決断こそあり得ない真の候補者さんと思います

 

案じていますとお葉書を戴いた 東京にいる私に どうぞどうぞお気をつけてお過ごし下さいとも 鎌倉の活動を最初からずっと見ていて頂いた あとは成就のご報告をと思っていました この方にはまだ華鏡のことをお伝えしていない 書けたらと思っていたけれど そろそろやはり華鏡 前編に全力投球しなければ

 

7月5日

おはようございます 朝一で投票にいってきました どうか願いが叶いますようにと祈る思い 昨夜届いた恩師のお葉書に励まされているなあとしんみり 東京を離れられてから糸の切れた凧みたいだったとつくづく思いました 都知事選に気をとられることもなくなるからこれから心機一転頑張ります

 

都知事選が終わりました ほっとしたのは山本太郎さんの立候補で宇都宮けんじさんの票が割れてという敗北にならなかったこと 両陣営の方々に心から感謝します そして 私的には宇都宮けんじさんが今でも政治活動に前向きに健在でいて下さったことの確認ができてほんとうに嬉しかったです

 

都知事選が終わりました ほっとしたのは山本太郎さんの立候補で宇都宮けんじさんの票が割れてという敗北にならなかったこと 両陣営の方々に心から感謝します そして 私的には宇都宮けんじさんが今でも政治活動に前向きに健在でいて下さったことの確認ができてほんとうに嬉しかったです

 

宇都宮けんじさんは 最初にたったひとりで立候補の会見をされ そして コロナを配慮したったひとりで夜の街で最後の街宣をされた孤高なお姿 政治家としての美学のお姿 ずっと心に焼き付けられていくと思います 心からありがとうございました

 

7月6日

おはようございます 都知事選の明けた朝 今日から私は華鏡に心機一転頑張ります 密教では血脈といって人から人の教えを大切にします それを教えて頂いた方からの励ましを得て 今迄随分枯渇していたなあと 人から人の温もりから離れていたから原稿に心を込められなかった そんな気がしての心機一転です

 

それにしても 共産党の方々 なかでも志位委員長と小池晃さんの知性に裏打ちされた信念のブレなさ 大きなことのためには潔く身を引いて それがのちに裏切られても文句一つ言わないで達観されている凄さ 感服しています

 

そういえば私 仙覚さんの小説を書くからこんなに政情に関心を持つようになったのだから 以前はひたすら文学だけに没頭していたのだけれど 共産党不破委員長のファンで 新人賞を頂いた小説で憧れの人を不破さんと命名して書いたのでした だから志位委員長との交代の時期も知っています

 

政治の世界の魑魅魍魎は仙覚さんの人生がそれであったのだから理解しているつもりだったけど でも今は民主主義の選挙で選ばれた人が政治をする時代だから鎌倉時代とは違うと思っていたのに 選挙をする人たち自体がなにもわかってなくて魑魅魍魎を選んでしまうなら選挙なんてと思ってしまいました

 

私の原稿はこれから仙覚さんの人生に入って書いていくのだけれど 今日のここの感想はどう書けるか自信がない 今までは為政者の側の酷さとだけしか認識してなかったので でもこれがたぶん中世にあってもそうなんだという気が微かにしています 人間社会ってそうなのかも

 

でも だからこそ仙覚さんは万葉集に没頭し 普遍の芸術性 普遍の真理に浸った 対極の意味で 今日の経験は私には有意義だったのでしょう 仙覚さんの原稿の華鏡 普遍の価値に仕上げます

 

用あって昨年夏に岐阜の学会で発表した時の資料を見ていたら 昨年の今頃はこんなことをしていたのだなあと一年後にこんなコロナの世界になるなど夢にも思わなかったと 人生は 歴史も 本当に先は予測つかない 写真は自分で作った王朝継紙の端切れですが左の一枚は徳川美術館の講座で頂いた本物です

 

昨年の今頃発表用の配布資料をコピーに立川のキンコーズに行っていました そんな写真を見ていたらなぜ撮ったのかこの一枚があって料紙っていいなあと改めて思いました 発表は源氏物語写本の大型本についてでしたが 金沢文庫本万葉集にも言及していて そこが目下の関心事で読んだのでした

 

白河天皇と能信のこと 白河天皇があまりにいい流れで院政まで書けてしまったから 法勝寺を入れるのに苦労して やっと入れられたと思ったら 能信が入ってない 気持ちの流れを選挙とかで中断して書いた院政までの文章は 能信の生前没後に分けて 生前に源氏物語 没後に法勝寺 と気持ちを込めて書くべきと

 

やっとそこに思い至りました 情ないくらいに気がつくのに時間がかかる 執筆を再開したら もう中断したくない!

 

やっと気がついたのですが 白河天皇はずっと大江匡房に教えを受けていたわけでなく 能信に源氏物語を 匡房に法勝寺を 開示されていたんですね (選挙前に これ わかっていたか 今となっては不明)

 

貴方の鎌倉での活動の今迄の著作を読み返していますと頂いたので それなら華鏡をこそ見て頂きたいと思って纏めています 今迄の著作はこの華鏡への序章だったから それに付して去年の岐阜での発表資料をと思って見ていたら この方にこそこれは聴いて頂きたかったという内容 去年お送りするのを遠慮して

 

たのは 鎌倉でいろいろなことがあって気持ちが支離滅裂だったからだけれど 今ならすっきり以前みたいにお送りできる 気持ちって整理つくと変わりますね で 今ツイートしてるのは 配布資料の一文章をご紹介したいから 引用します 「尾州家河内本源氏物語は親行の稿本ではないかとの説もあるが、親行は

 

思われているほどにはこの写本に関わっていないのではないか。従来の研究は尾州家河内本源氏物語が河内本源氏物語の由緒正しい写本ということに捉われ、親行を偉大に扱い過ぎたために論点がずれてしまったのだろう」← 尾州家本についてはもう立派な研究書が出ていますが、小説の進行にはここが重要で

 

それともう一点 金沢文庫本万葉集について 「金沢文庫本万葉集は金沢北条氏三代当主貞顕の手になるものではないか。文庫のさらなる充実を図った貞顕が蒐集・制作したものの一つではないか。風格から推して貞顕の六波羅探題在京中に制作されたものだろう」←貞顕は『たまきはる』を書写したりしています

 

昨年の学会で発表したものです。本当はこれらを論文に仕立てて機関紙に載せるべきなのですが それをしてると仙覚さんの小説にかかれなくなるので 小説を書くほうを選びました 鎌倉滅亡の時代の貞顕までは書けないけど 実時と親行の関係は書きます(ここが私の鎌倉の源氏物語の原点なので力を込めて)

 

7月7日

【写真は大宮八幡宮乞巧奠です】『源氏物語』は紫式部が書いた本は残っていず、私たちが読むことができるのは昔の人が書き残してくれた写本があるからです。『源氏物語』には二大写本といって「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」があります。「青表紙本源氏物語」は藤原定家の校訂で京都で成立。

 

「河内本源氏物語」は源光行が始めて鎌倉で成立しました。仕えていた平家が滅亡したために光行は鎌倉に下り、頼朝・頼家・実朝三代の将軍に仕えるのですが、武士に囲まれ雅とはほど遠い鎌倉の地で、親しかった平家の方々を偲ぶよすがとして『源氏物語』の校訂を始めたのでしょう。光行の代では完成せず

 

親行が引き継ぎ、それからなお二十年近い歳月を要して建長七年七月七日に完成しました。親行は六十歳半ばに、時代は第六代将軍宗尊親王の世になっていました。建長七年七月七日の朝、「河内本源氏物語」の完成をみた親行の胸に去来したのは、まず紫式部のことであり、それから玄宗皇帝と楊貴妃でした。

 

写真は鎌倉の源氏物語の講演用に作ったパワポのスライドです もう定番になっていて どんなテーマの時も親行さんの河内本完成のときはこれ 親行さんは河内本完成の日付を長恨歌のこの詩句から固執しました それほど親行さんには長恨歌が原点だったということ 七月七日は鎌倉の源氏物語の日です

 

たまたま深夜親行さんと実時の『尾州家河内本源氏物語』のことで呟きました その親行さんです 鎌倉時代の宗尊親王周辺で親行さんを筆頭に 政府高官の実時が先導して 源氏物語愛好のブームが起きていました その宗尊親王の御所跡地あたりが今更地とか 発掘調査されるのでしょうか 興味津々

 

華鏡のご報告のお便りを書きました これからが勝負です 頑張ります

 

今年の七夕は自粛のおかげで落ち着いてツイートできた 去年は鎌倉の諸々で憤っていたりしたからうっかり忘れるところだったのを思い出しました そういえば去年は小川町で仙覚さんの講演をさせて頂きnそのパワポを作っている過程で実時と仙覚さんの最初の出会いが見えてきて小説が動き出したのでした

 

日付が変わって今年の七夕は終わり 去年の小川町の講演が今年だったらと思うと 昨年だったことに奇跡的と感謝を禁じ得ず 昨年発表した学会も今年は中止で昨年だったことにこれも奇跡的と感謝 そうした流れの中での華鏡 恩師の方へのご報告が奇しくも七夕の日だったことに気がついて偶然にしてもと思う

 

今日から新しい流れです

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2020.7.2 ツイッターから転載…日々雑感、白河天皇の摂関家大好き! みたいな感じが見えてきました

7月1日

おはようございます 七月ですね 華鏡は道長から書き直し始めて二日目 能信が結構面白いです 昨夜は道長妻で能信母の明子さんを検索 父親の源高明は光源氏のモデルともいわれた人物ですよね そういう人を妻にして道長っていう人も面白いですね ここから後三条天皇の即位になり白河天皇にまでいく

 

光源氏のモデル論は追及したことがなかったので 深く知らないのですが 高明の大宰府左遷とかそういうモデル的人生を紫式部は知っていて源氏物語を書きはじめていたわけで それから道長に重用されたのだけれど 現実的になった明子さんの存在を式部さんはどんなふうに思っていたのでしょう

 

写真は過去の 2009年撮影です 七月でどんな写真があったかなと見たらこの玉川上水の山百合と甘草がありました 気のせいかもしれないけど 最近より昔のほうが玉川上水べりの植栽が生き生きしていた気がします

 

あのまま書いていたら大江匡房を書いていたと思う それを考えると玄覚さんバージョンで迂回したことが熱に浮かれた気分を冷ましたことになって 再開したら賢子さんの浮上 不思議です

 

後三条天皇と白河天皇を巡っては 大江匡房や六条藤家の人達がいて 調べている間面白くて早くこれを書きたいと燃えまくっていたのだけれど すべて同次元でなのに関わる人が違う 道長で書き直し始めてどれをとるか悩むなあと思っていたのですが 筆が ふっと賢子さんに入っていって あ これは とびっくり

 

賢子さんのことはそんなに重視してなくて 玄覚さんバージョンで始める直前ころに何気なく見た程度 その時はまだ大江匡房か六条藤家が重要と思っていました でも 賢子さん 思っている以上に重要だって 筆が入っていって認識させられました ここには心がある 大江匡房や六条藤家を書くのに心は…です 

 

賢子さんの入内で師実から贈られたのが白河の地 そこに法勝寺を建てたのでした 賢子さんから書き始めるのは法勝寺への布石 と今気が付きました

 

長く離れていると主題が見えなくなっていたり・・・ 法勝寺に戻れてよかった

 

悲観的に考えないようにしているのだけれど 今日はやはり考えてしまう 香港のこと都の感染者数のこと三味線のこと鎌倉のお能のこと 夕食時コロナ前よく行っていた吉祥寺のスーパーが今月で閉店との話を聞く コロナで行かなくなったのは何もそこだけでなく必要最小限の買物しかしなくなったからだけれど

 

このスーパーだけでなく Twitterでも今度ロックダウンしたら持たないと呟かれる店長さん 生協のチラシでも商品の載らない白い空白が沢山あった たぶん卸せなくなった企業が出たのでしょう この先どうなるのかと思う 廃墟となっていく吉祥寺はまだ浮かばないけど 砂上の楼閣のような危うさを感じます

 

Twitterで とにかく生きて下さい 生きていて下さい 生き延びて下さい との呟きを眼にした すべての人にそう思います

 

RTさせて頂いた 胸の暗いざわめき 私だけの思い過ごしでなかったんだなあと (先ほどのツイートのことです)

 

だんだんわかってきました といっても推測ですが 賢子さんの入内のこと 後三条天皇や祖母陽明門院が嫌う摂関家からの賢子さんの入内をなぜ白河天皇がしたのだろうと ずっと謎でした 能信ですね 源氏物語を愛する白河天皇は道長息の能信に特別な思いを抱いていた 史実では大夫殿と呼んで父後三条天皇が

 

受けた恩を忘れなかったといわれますが それよりも道長の子ということへの憧れと尊敬だったのでは? 以前少年白河天皇が中宮彰子を訪ねたとき 赤染衛門の曾孫の大江匡房が同伴したのだろうと推測しましたが それより能信だった方が可能性高い 何しろ彰子さんとは異母兄弟ですものね 白河天皇はそうして

 

少年時代から摂関家に馴染んでいたから師実とも縁ができていたのでしょうし それで賢子さんの入内にもなった 父後三条天皇とは摂関家に対する思いが違うんです だから父帝の思惑を裏切ってでも賢子さんの子を即位させたかった とそんなふうに読むと全部辻褄が合います

 

11歳の少年白河天皇が中宮彰子さんを訪ねたとして 能信は白河天皇が13歳のときに亡くなっているから それまで十分彰子さんのもとに連れて行くなどできたでしょう 面白いですね 三者の対談を想像するのは

 

7月2日

おはようございます 今朝思いついたこと 能信は紫式部を見てますね たぶん仲が悪い異母姉に仕える女房だから親しくはなかっただろうけど 後年自分が擁する少年白河天皇の源氏物語志向に接して もっと深く付き合っておくのだったと後悔してたりして それでも知っている限りの範囲で語ってあげたでしょう

 

紫式部が仕えた側の道長妻倫子さんは日記にも登場するから身近だけど 明子さんは永井路子さんの小説で読んだだけ 能信という子息がいて 後三条天皇の即位に倫子さん側の子供たちと争って など 今回白河天皇の源氏物語で調べなければ想像だにしなかった世界 物事はほんと 多角的に見るべきですね

 

私が忘れているだけで 永井路子さんの小説に書いてあったりして笑

 

紫式部については研究史も辿ったし 一般書もほぼ眼を通してるし なのに全く知らない視点でじかに彼女を知ってる人がいたという 驚き以外のなにものでもないです 研究もそうだけど 論文で詰まっていても 一人投入すると一挙に開けることがよくある 人の交流って そういうこと

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