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2020.8.30 ツイッターから転載…日々雑感 辞任の報で気分が変わり、転機ととらえて白河天皇の大井川行幸に戻ります

8月29日

おはようございます 今日から大井川行幸の項に戻ります 華鏡を書いているとよく考えるのですが 比企の乱で比企氏が滅亡する時比企谷では地獄絵図なのに鎌倉市中の一般の人は関係なく平然と暮らしている 昨日それをまた強く思い 持病が大変だからとそれまでの悪政を忘れて擁護する方々は それまで

 

どれほどの人が棄民されて苦しみ苦しみ続け無念をはらせないままでいられることを思い出されないのかしらと 忘れてしまっていられるのかしらと 不思議でならないのですが 比企の乱のときの一般市民を考えると世の中ってこうなんだ~ の思いが強いです 華鏡ではそれも書くつもりでいたのですが

 

釈然としないのが世の中ということで 自分がどの位置にいるかで変わってくる・・・ だから華鏡では比企の乱を起こす当事者の時政も悪く書きません ただ現在は法の国家だから比企の乱当時とは違うと思うのですが

 

ちょこっと呟きます 比企の乱で比企氏だけが地獄絵図の中 一般市民はふつうに過ごしていた・・・ 権力によって潰される側は同情されません 見て見ぬふり どんなに苦しんでもです そういう一般市民のなかにあっての仙覚さんの苦悩 華鏡でそれを書こうとしているのですが 昨日からそれがひしひし

8月30日

クーラーを入れてるほどだから決して涼しくはないけど 熱い珈琲を入れました 白い湯気がなんか懐かしい 仮寝して起きて独りの時間 昨日は大井川御幸に戻って書いたら落ち着きました すっきりと白河天皇を済ませて二条天皇に進みます もともとこっちが本命です 丹後内侍も登場させなければならないし

 

清輔との絡みも 先は長いけど元に戻ったからたぶん進むでしょう 昨日の辞任事件は転機でした うすうすは感じていたけど実際の世のなかをつぶさに見た思い 権力ってこうも強いんですね 私はあくまでも仙覚さんの立場だから 対極にいる人たちの構造 勉強になりました 華鏡に活かします

 

大井河ふるき流れをたづねきて嵐の山の紅葉をぞ見る 大井川御幸での白河天皇のお歌です この御幸は古今和歌集の醍醐天皇にならったものでふるき流れはその醍醐天皇の御幸のこと 大井川ツイートに添付している一連の嵐山写真 たまたま訪ねたのが紅葉の季節だったので写真を見てイメージを膨らませました

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2020.8.29 ツイッターから転載…日々雑感、通俊の妹の経子さんと伊勢大輔のことなど&総理辞任の報で気持ちが一転、大井川行幸に戻ります

8月27日

おはようございます 写真は八重桜 伊勢大輔にちなんで過去写真を出しましたがあの歌の八重桜はどんな桜だったのでしょう 起きたら能信が動きはじめていました 能信と伊勢大輔の会話で経子さんの項をはじめます プロットができたときは これでいく! と燃えるのに いざ書こうとすると動かない

 

そういうときはシチュエーションができてないんですね いくつかそういったうじうじの逡巡を重ねてわかりました 動き出すとシチュエーションができる 能信が少年白河天皇を連れて伊勢大輔の邸を訪ねるところから始めます 年齢を確認してから(二人は白河天皇が成長する前に亡くなってますので)

 

源氏物語桐壺巻を読むと 光源氏の読書始は七歳なんですね 七歳になったから始めたと もっと早く4,5歳くらいからと思っていたので意外でした 今の小学校入学と一緒 これくらいでないと教えても無理 ということなのでしょうか で 白河天皇も七歳くらいからと考えて 能信の行動をそのあたりに

 

この君はほんとうに光源氏をほうふつとする が 今朝湧いた能信の言葉です 伊勢大輔と能信は現実に上東門院彰子さんの宮廷を知っています なので光源氏は現実以上の人でしょう ふたりの会話をとおして少年白河天皇の特異さを出せたら

 

伊勢大輔の邸宅に八重桜があったら如何にも過ぎ? と考えて そうだ 彰子さんに記念に贈られたとすればいい と思い そうしたらその桜の下で花びらを浴びながら少年白河天皇と通俊と経子さんの兄妹が戯れている構図が浮かび そうしたらなんか柏木の女三宮を垣間見るシチュエーションみたいになりました笑

 

気がついたのですが 当時は数え年だから七歳は今の六歳 幼稚園の年長さんでしょうか 今の幼稚園児くらいに読書始開始なら理解できました

 

読書始は ふみはじめ と読むようです 桐壺巻より「七つになりたまへば、読書始などせさせたまひて、世に知らず聡うかしこくおはすれば、あまり恐ろしきまでご覧ず」「読書始は皇族が漢籍を学び始める儀式で『御注孝経』を読むのが例」だそうです

 

白河天皇の七歳前後: 7歳読書始 8歳のころ伊勢大輔死去 10歳母茂子死去 13歳能信死去・元服 14歳昭子入内 16歳父後三条天皇即位・親王宣下 19歳賢子入内 ←能信と伊勢大輔邸を訪ねるのは7歳の頃まで 11歳で能信と彰子さんを訪ねる項を既に書きました 13歳の元服で経子さんと引き離され再会するのが16歳

 

なんか TLを見ているといろいろなことが 昔ならあり得ないような勢いで踏みにじられていく(京都芸大の名称にちなんだニュースを見てその他もろもろ思い起こし)

 

当事者たる方々の無念やいかに と胸が痛みます

 

8月28日

おはようございます 起きて朝の支度を済ませてざっとTLを追ったのですが この先日本はどうなるんだろうと暗澹とした気分になりました こんなになにもかもガラガラと倫理的なものが 命に関わるものが なし崩しに崩れていくなんて せめて と健康な主体の料理の本を出しました 個人で守っていくしかない

 

光源氏の読書始の注の『御注孝経』は『孝経』について玄宗皇帝が撰述した注だそう ウィキに「幼い天皇の君徳の涵養を図るとともに、天皇への忠誠を官人教育を通じて強く認識させる目的」とあります 伊勢大輔の邸宅で能信と伊勢大輔のふたりが白河天皇の読書始について語らい合う場面を考えています

 

書き始めればいいのに疲れていて集中する気力がない と こういうときは今までの経験で疲れているから書けないのではなく まだ書く材料が整っていないから という気がするので たぶんそうだろうとウィキを見たりしています 写真は井の頭公園西圓の八重桜 しばらく伊勢大輔にちなんで桜を

 

そういえばと思い出したのですが 去年の今頃は研究発表で岐阜の学会に行っていたのでした コロナ禍で今年は中止 去年だったから無事に発表でしたのでした 今年だったらどうなっていただろうとはずっと思っています 岐阜は梁塵秘抄の青墓の地 伊吹山のチラシは乗ったバスにあったのを頂いて

 

伊吹山のチラシの下にあるのは配布資料 発表テーマは「『西本願寺本万葉集』と『尾州家河内本源氏物語』と大型写本の関係について」 この発表の準備の過程で北条実時の『尾州家河内本源氏物語』への関与の次第が見えてきて 仙覚さんの小説を書ける見通しがついたのでした

 

【安倍首相辞任の速報】

 

朝 日本はどうなってしまうのだろうと 暗澹たる面持ちで呟いた夕刻に日本が変わることを知り どうなるにしてもとりあえず「冷酷」ということからは逃れられたかと思うと安堵もあるけど複雑 この政権で命を落とした人がいても災害で家を失った人がいてもコロナのことも一顧だにされなかったのだから

 

参照させて頂いている中野幸一先生の正訳シリーズ源氏物語と紫式部日記 華鏡は白河天皇から源氏物語に深まって書いているのだけれど 今日は原稿に手がつかなかった 朝から何か予感してたかのような暗澹たる気分でした 辞任の報を受けてもそれは続いていて これから原稿に向かう? となってもダメで

 

多分 白河天皇にはまりすぎて冗漫になっていたから

 

現実の厳しさに触れたのだと思う 仙覚さんの小説だからこれが根幹

 

経子さんはいつか短編で書きます

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2020.8.28 ツイッターから転載…日々雑感、通俊の妹の経子さん!

8月25日

おはようございます まさか経子さんが動き出すとは思わなかったのですが ウィキで見た最初からなにか気になっていました 白河天皇との距離がただの寵愛を受けた女房でない親密感を感じて もしかしたら自分的に歴史上の一番の推しの女性をみつけたかも 写真は@三菱一号館美術館ラファエル前派展

 

今日はこれから経子さんと白河天皇を書くのですが 歴史上のできごとをたんたんと書くのはなんの問題もないのですが 白河天皇をひとりの人間として女性のこころと響き合う対象として どこまで書いていいものか など ためらいがあります笑 筆の運びで決めますが

 

白河天皇と経子さんを書くのに抱く畏れは 紫式部も藤壺や桐壺帝など宮中の恋愛模様を踏み込んで書いたときに抱いたかもしれないと ふと思ったり

 

白河天皇の大井川行幸の段 やっと最初の一行を書きました 匂いやかなそこはかとなさが白河天皇が経子といるときに感じる優しさだった 経子さんをこんなふうな女性として書いていきます この段は経子さんからはじまって源氏物語松風巻へそして大井川行幸の予定 また予定は未定ですが

 

メモ: ウィキでは経子さんは後年公定室になったと 公定のウィキを見たら公任の曾孫 さらに高松殿と呼ばれていて 道長の妻明子さんの高松殿に住んだらしい ということは経子さんも高松殿に 経子さんが能信の実家に住んだなんて! 能信はすでに亡くなってるけど 経子さんは公任の曾孫と結婚したんですね

 

中世の女性はよく再婚する 維盛妻が吉田経房と 義時正室の姫の前も比企の乱のあと公卿に 経子さんも白河天皇のあと公定と結婚しても不思議はないけど 私にはちょっと意外 白河天皇が待賢門院璋子さんを鳥羽天皇に入内させたのと同じく経子さんの将来を思ってのことでしょうか

 

白河天皇の大井川行幸ツイートに添付している一連の嵐山の写真 鎌倉の琵琶奏者の方が福知山のほうで演奏されるというので行ったついでに嵐山で降りて散策したときのものです こういう鎌倉の方とのおつきあいがあって鎌倉の源氏物語は広めていただきましたが 原稿にとりかかったらさらに奥が深い……

 

それにしても 白河天皇の周囲 上東門院彰子さん宮廷にいた能信とか伊勢大輔がいたのに女房歌人の姿が見えない 経子さんは伊勢大輔の孫だから教育を受けていたでしょうけれど 天皇の歌会や行幸の参加者は公卿ら男性ばかり 真摯というか潔癖なのかなあと考えてしまっています 私的には好きだけど

 

「大堰川」がありました! 灯台下暗しですね いつも投稿しているファイルの中の掲示板の写真に やっと腑に落ちて気が楽に こういう無駄な試行錯誤の多いこと! 仕方ないです 知らない世界を新規開拓ですから

 

8月26日

こんにちは 吉祥寺に出て帰ったらもう午後 なんとなく出かける機会ができそうな そんな漠とした気分もありますが 今度いつ鎌倉に行くのだろう とか もしかしたらもう行かないで全部メールでとか 次にくる生活形態が読めません ただそれまでになんとか原稿の形態が整っていますように

 

中野幸一先生『正訳 源氏物語』桐壺巻より 大人になりたまひて後は、ありしやうに、御簾の内にも入れたまはず。御遊びのをりをり、琴笛の音に聞こえ通ひ、ほのかなる御声を慰めにて……光源氏が十二歳で元服すると、父桐壺帝はそれまで子供だからと藤壺を訪ねるとき同席させていたのを

 

禁止します 光源氏は遠くから藤壺の気配を感じることにのみみずからを慰めるのですが 白河天皇の乳母子的遊び相手だった経子さんも 天皇の元服で引き離されたのではないかと思い そういう設定で書いています 成長した経子さんが典侍として登場して再会と よくありますよね 子供だった遊び相手が……の

 

白河天皇の元服は十三歳 親王宣下は父後三条天皇の即位に伴ってで十六歳 ということは 十三歳で経子さんと引き離され 十六歳で再会かと 中宮賢子さんの入内は天皇が十九歳のときだから 関係は経子さんのほうが先だったのでいいでしょう

 

ありきたりのことしか浮かばないので今日はもう原稿は諦め早めに寝たのですが そうしたら浮かんで そうっか 乳母の伊勢大輔を書いてそこに三人を遊ばせればいいと どんなシチュエーションにしようか 明日考えます

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2020.8.27 ツイッターから転載…日々雑感、白河天皇の大井川行幸から源氏物語松風巻へ

8月24日

おはようございます 白河天皇が醍醐天皇の行幸を真似て催した大井川行幸 晴れやかだったのは龍頭鷁首の舟を浮かべて楽人たちに奏させたから一層だったでしょう 大井川といえば明石君が籠った山荘 松風ばかりがひびく寂しいところ と思ったらそれは現在の渡月橋あたりとか 今日は松風を読みます

 

写真は2011年に訪ねたときの渡月橋あたり 二枚目の鷁首の舟は奈良猿沢池の采女祭のときのもの 白河天皇の行幸も冬だったそうで 旧暦の冬って今のどれくらいかななど考えています 昨日の自由間接言説のこと かなり深くひびいていてこれから書くときにはっきり自覚できると思います やっとの思い

 

白河天皇は勅撰集院宣の翌年にこの行幸を 鷹狩のあとの余興だったらしいのですがかなりの盛儀 筆記係みたいな師房が漢詩の故事を出してそれ以上の素晴らしさと このとき歌会が催されたのですが 白河天皇の和歌への入れ込み方は熱いです 24歳くらい(うろ覚えで1,2歳違うかも知れません)

 

松風巻は絵合巻の次でした 中野幸一先生『正訳源氏物語』から かの御形見の琴を掻き鳴らす。をりのいみじう忍びがたければ、人離れたる方にうちとけてすこし弾くに、松風はしたなく響きあひたり…… ざっと読んだのですが辛い巻 紫の上が明石君のことを知らされ 明石君は我が子を手放すことになる

 

明石君を訪ねた光源氏が帰っていく行列の晴れやかな賑やかさを 明石君は松風が響くだけの大堰の自宅で遠く聞く 身分の違いを感じて心痛める明石君 こういう描写 凄いですね 松風って タイトルが地味でつい忘れてしまうけど 読み返して好きになりました 若い時には痛感できない巻かも

 

旧暦にかぎらず数字とかの換算に弱いのですが 白河天皇が大井川行幸を行った10月24日は検索によると新暦の11月20日頃らしい この写真が12月3日の撮影で 今と気候が違ってもこんなふうな景色だったかなと原稿を書くにあたり考えています 紅葉などの描写をするつもりはなくても一応把握しておきたく

 

白河天皇の大井川行幸は醍醐天皇をならってでした で 醍醐天皇って? と検索したら ヤダ、古今集を作らせた方じゃない~ となり我ながら唖然 古今和歌集を買って解説を読んでほかにも多々調べているのにまだ身についてません笑 白河天皇はほんとうに古今和歌集を範にされてたんですね

 

身をかへてひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く 源氏物語松風巻のタイトルになった明石君の母上の歌 白河天皇の心のうちに入っていく書き出しにしたくていろいろ見ています 大井川行幸の大井川は明石君が住む大堰川でいいのかなあと検索 地図に大堰川がないから心配で

 

大井川でウィキを見ると桂川の項になります 桂川は亀岡市から嵐山で京都に入り 伏見区で鴨川と 大阪との境で木津川と宇治川に合流して淀川になります で 嵐山に入った辺りが大井川らしいのですが それが明石君の大堰川のことでいいのでしょうか 謎

 

考えたところで結論が出るわけでないから止めて ふうっとひと息ついたら そうっかなんにもしない時間ってあってもいい と気づいて水割をつくり チーズを出して こんな夜 初めてかも いつもギリギリまで根を詰めて 倒れるように寝ていました 独りバーカウンター これからこれで行こう! などと

 

そうだ 経子さんを登場させよう と思いついて飛び起きました 一旦寝たのですが 松風を読んでいると経子さんは明石君だなあっていう気がしてたんです 中宮賢子さんが紫の上なら経子さんは明石君 賢子さんの子供なら文句なく堀河天皇として即位できるけど 先に産んでいる経子さんの子は仁和寺に それを

 

経子さんは静かに受け止めて 白河天皇の愛情もしっかり信じて 二人で仁和寺に行って見守る など 知性があって奥ゆかしいところ 明石君だなあと感じていたのですが 明日 そんなところから書き始めます 松風を読んでいると明石君の知性と気品は紫の上をしのぎますね 今まで認めたくなかったけど

 

ラフマニノフのエレジーを聴いて寝ます 経子さんが動き出したら切なくて 美しい女人という言葉が文体の底に横たわって

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2020.8.25 ツイッターから転載…日々雑感、能信が祖父だったから伊勢大輔が乳母に、その孫の通俊が側近に&三谷邦明氏「源氏物語の言説分析」を拝読しました

8月22日

週末朝の家族の相手やブログ更新などしてたらこんな時間に 今朝はもう気持ちがすっきり整って こんなにきっちり気持ちが定まるなんてというくらいに整って 今日は書き始めるぞ! の気分だったのですがまだとりかかってません笑 白河天皇の歌合の段ですがとてもきっちり調和がとれて見えてきました

 

白河天皇は祖父が能信だったのが生涯に影響を及ぼしていますね 能信がこんなに後をひくとは思っていなかったのですが 伊勢大輔を乳母にしたり おそらく親子さんの乳母抜擢も能信です その伊勢大輔の孫の通俊と経子さん この二人は大物や著名でないから脇扱いですが重要です 書いていてだんだん

 

見えてきて 最初から見えていたらもう少し書き方が変わったと思いますが とりあえず先に進めて推敲で書き足します 白河天皇の彰子さんとの対面も少し手を入れなければ です 写真は京都島原の角屋さんにて 2006年に末摘花の写本の展示で伺いました

 

白河天皇が寵愛した典侍の経子さん 通俊の妹で通俊が勅撰集の院宣を賜った年に天皇の皇子 のちに覚行法親王となる方を産んでいる 仲がよく法親王のために仁和寺に二人揃って行ったりも なぜ通俊が撰者に選ばれたかが謎で 経子さんの縁との見解も読みました でも二人が伊勢大輔の孫と知ると見えてきます

 

伊勢大輔は白河天皇の乳母 老齢だから通俊経子さん兄妹は乳母子というわけでなく孫世代だけど でも乳母子みたいな幼年期の遊び仲間だったのでしょう 通俊が六歳上だから経子さんも天皇と同い年くらいか年上だったかも 経子さんは頼朝における丹後内侍みたいな女性だったのだなあと 仲がよくて当然です

 

もう通俊の院宣拝命の段は書いて 次に進もうと思ってるのに 今頃になってこういうことが見えてきて 経子さんは省いたのに書きたくなって 未だに先へ進みません それにしても 頼朝も白河天皇も 乳母の力って大きい 政治権力的にそれは言われてきたけど 人間的な意味で育まれ方の影響が

 

人って変わりますね 今朝 ふと去年の今頃は を考えたら今朝のこんなきっちり整った境地が一年後に得られるなど到底思えない修羅場の真っ只中でした でもその修羅場があったから乗り越えた境地なんですね 学生時代から禅僧の悟りを求めての行脚に憧れていて 密教を学んでいるとき 師の方に一般人向けの

 

高野山での短期修行に参加したい旨申し出たら 貴方には文学があるでしょときっぱり断られた 事あるごとにそれを思い出すのですが 今朝の境地 やっぱり私には文学が修行のようです

 

三谷邦明先生のこちらのご論考「源氏物語の言説分析」を拝読するのが主眼でしたが 自然描写となるともう心惹かれてさきのツイートの方を先に拝読 こちら 眠らずに読み通せないでしょうね 今日は昼寝してないし

 

そうそう 「近代小説のように、全知的視点で物語る」って この視点が私の近代小説の苦手さです いろんなことの解明が進んでいる近代が 全知的視点 などという不自然さを許容しているのが

 

8月23日

三谷邦明氏「源氏物語の言説分析―語り手の実体化と草子地あるいは澪標巻の明石君の一人称的言説をめぐって―」を拝読しました 難しいので簡単に要約したり呟くことができないのですが 今まで感じていた疑問というか不可解が謎解きされた感じで気分爽快 理解しなくても感じればいいんです 書くには

 

自由間接言説という言葉が出てくるのですが これは「書かれたテクストのみに現象する、作者の発話と登場人物との間の、全く新しい相互関係を表す言説」とのこと つまり「語り手と登場人物の二つの声が混淆的に存在しているところに自由間接言説の特色がある」のだそう これ 私が今まで感じていた

 

源氏物語を読んでいての え? これ誰の見解? 文章は続いているけどこれ前の文章と語り手が違う などの謎の溶解です 凄い大胆にいえば文章って何でもあり なんです 意識の深いところで繰り出す文章なら それを近代小説の筋が通った書き方をしなければならないとなったから不自由だったんですね

 

若紫・草子地 で検索して拝読した三谷邦明氏ご論考の自由間接言説 もうずっと抱えていた書く時の語り手の問題が解決して嬉しいのですが もう一件検索して得た元島淳志氏「『源氏物語』英訳研究」も拝読して そうしたらこちらは三谷邦明氏のご論考を踏まえた上でのサイデンステッカー訳源氏物語

 

のご分析 自由間接言説は複数の語り手の文章がひとつの段にさりげなく混ざっているのですが それがサイデンステッカーの英訳になるとすべて一人称に統一されているとか 紫式部が書いた外側からの語り部 内部を見通す語り部 あるいは作者そのものの視点 など 複雑なことが一掃されているそうです

 

言説の問題は複雑でじっくり構えて読まないといけなかったから お陰様で浮ついた生活上の余分な感情が削ぎとられ いい感じです このままこちらのご論考に入ります 白河天皇の大井河歌会 若いときの白河天皇って なんか後鳥羽院を彷彿します 晩年の璋子さんとのイメージ強すぎ

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2020.8.23 ツイッターから転載…日々雑感、そろそろ次の段を書き始めます&草子地について

8月21日

皆様執筆の邪魔になるから電話しないの と仰って下さるから ほんとうに私の身辺は変化がなく静かで たまにお電話頂いて喋ると懐かしくつい喋りすぎて喋らなくてもいいことまで喋って そうだったの~ など変に傷を掘り起こされてしまったりして やはり遠慮して頂いていて正解と思っている今日の午後です

 

ほんとうに私がした経験は話してわかることでなく ついつい昔の仲間だと以前のように通じると思うから喋ってしまうけど 経験の差が決定的な理解不能を露呈してこんなにも私は変わったのかあ~ となりました でも 結局 こうならないと文学は本物を書けない 強くなったと思います

 

カンナ グラジオラス 山百合 植えたいなあ と写真を見て思う みんな母の実家で祖母が植えていた花 幼い頃一緒に過ごした花って 特別なんですね

 

やはりかつての友からの電話で引き起こされた感情を引きずって(感情なんて一気に転換できるものではないですものね) 修羅を経たんだなあと思ったとき 修羅を経て静かなるときあかときの底に棲みたる大いなる修羅 の一句が思い起こされました 文学を挫折して少したった頃の作 多分まだ修羅はこの先ある

 

と予感してたのです それから〇〇年 源氏物語と鎌倉を経て今があるのだけれど あの時感じたまだ修羅はあるの思いが今回はない それは書いている手応えがあるからで あの時は書けなくなった 今は逆にだから書けるようになった 多分 本物 この先何があろうと 自分は自分で守ってみせる の気概を得ました

 

夕刻合地様が吉本隆明源氏物語論から草子地についてを紹介して下さってRTさせて頂いたのですが 私は源氏物語の文体に侵食されているから草子地は華鏡でも意識して使っていて でも 使う決意するまでには やはり小説とは一人称なり三人称なりで最後まで統一とれてなければいけないという現代小説理論から

 

の脱却に物凄い苦しみました それが解決できたのは ウンベルトエコー『小説の森散策』で人称について シルヴィに関わる三人の存在という理論を拝読したからでした その三人とは ネルヴァル本人 作品の中の私 そして第三にモデル作者 です 書くということは書き手が意識の中の言葉を紡ぎ出すものだから

 

最初から最後まで統一とれて人称がきっちり というのは私には無理 エコーの理論で軽快になりました そんなことを考えていたのがノートを見たら1月20日頃 半年前のそこから華鏡が動き出したのだと懐かしく振り返りました

 

もういい加減書きなさいと心のなかで何かが指令しています笑 段落の最初 切口は ノーマルに考えているだけのを書くとつまらないから いつもウダウダと日常にかまけて自分で不満を募らせて…… そろそろそれも限界かな と こうなってやっと書き始めます いつも

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2020.8.22 ツイッターから転載…日々雑感、与謝野晶子訳『栄花物語』を購入しました

8月20日

おはようございます 写真は昨夜の名残 起きたときに目に入った状態です 私の世界はまったくこのまま 暗くて狭い でも心の中は縦横無尽 広く果てしないしだから書いている でもやはり現実生活で暗く窮屈だと思念が広がらないからTwitterでRTさせて頂いて眼福に 華鏡が終わったら出掛けたいです 広く遍く

 

届きました 栄花物語 与謝野晶子訳です 読まないわけにいかないなら今がその時と日本の古本屋さんで探したら 一件だけこれがありました 定価700円ですから年代物の推して知るべし ですよね 源氏物語も与謝野訳から入ったから晶子さんが栄花物語をどう料理しているか楽しみです

 

気がついたら昼寝していました こんなにしっかり昼寝したのは久しぶり ここのところ十分な休みをとれないでいたから疲れがたまっていたんですね 起きて爽快になってそれがわかりました 昼寝直前ツイートの与謝野晶子訳栄花物語 抄訳かと思ったらしっかりの内容 ルーペが必要な字面で戦々恐々に笑

 

与謝野晶子訳栄花物語 つくづく眺めているのですが 与謝野晶子は源氏物語を訳したうえに栄花物語もされてたんですね しかも両者ともとんでもない長編 お子さんも何人かいらしてしかも明星の女主人としての役割も果たし どこにそんな時間が と全然そんなに大変でないはずの私には理解不能に陥っています

 

源氏物語を与謝野晶子訳で始めたから文章に馴染んでいて 細かい字面をなんとか頑張って読みたい気分 華鏡執筆の傍ら読んでいきます このご本 解説が充実していていいです! 「源氏物語から栄花物語へ」は阿部秋生先生 ここからいこうかなと

 

栄花物語を箱に納めました あまり引きずられてもいけないし 字が細かくて目を痛めそうで 気持ちを戻して陽明文庫王朝和歌集影所収のご論考に 歌合は頼通が熱心だったそうで だから陽明文庫に歌合の記録が残っているんですね この時代は勅撰集が長く不在だった とは万葉集の白河天皇の側から読んだこと

 

ですが その実態が摂関家主導の歌壇は歌合の繁栄だったのでした それを白河天皇の側からいうと天皇家の権力が弱まっていたからと それを克服しようとして白河天皇が後拾遺和歌集を出されたのでした 時代の表と裏 両方見えて面白い

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2020.8.20 ツイッターから転載…日々雑感、タイトルの変更。小さなフォントで小説を入れて「小説 華鏡」にしようかと

8月17日

おはようございます まだ階下のPCに行かれず過去写真を出せないので眼に入った積んである書籍をパシャリ 綺麗ですね 自分の空間を取り戻してからなんとなく気分が変わりました 屹立って感じ 書いているものが定着したからか 屹立したから定着したのか 相俟っているような この気分が欲しかった

 

唐突に思ったのですが 華鏡の前に小さなフォントで小説と入れようかと 「小説 華鏡」となります これ いいかも たぶんこれでいきます 写真は筆立てに使っているお気に入りのマグカップです

 

ここのところ陽射しを避けて窓を開けないし 時間的にもよく見た時間に外を覗いてないから ハグロトンボちゃんは元気かな って気になっていたのですが 夕刻玄関を開けたら ひらひらっと舞い上がって ひらひらひらひら いつもの飛び方 庭は暑いから半日陰の玄関側に棲息してるらしい(去年がそうでした)

 

森敦さんの『意味の変容』がなんか気になって考えていたらエリ・エリ・レマ・サバクタニが浮かんで離れなくなって 本は二階だから取りにあがるのが面倒で 検索してこのご論文に辿り着きました なんか不思議に気になってます

 

先ほどのご論考 デスクトップ上でざっと目で追っただけなのにどきどきして なんか 仙覚さんの根本命題にかかわっているかの感じで そうだとしたら私にはとても書けないなあと思いながら でも読むしかない と覚悟を決めて印字しました 次の段に入れば入れる状態なのに入らずにまた迂回 なぜ?

 

8月18日

おはようございます 昨夜印字したエリエリレマサバクタニを手に寝たのですが結局読まずに就寝 でも心は頂いて次の段の書き出しが見えてきています ようやく六条藤家の祖の親子さんと顕季が書けると思って始めていたのが それがほんとうは自分で嫌だったよう いつも書きますが私はドラマ仕立ての

 

今更に古今和歌集 今頃になって購入するはめになるとは思わなかった 竹西寛子さんのエッセイで馴染んでそれでいいと思ってました 華鏡で必要になっても検索で間に合わせて でも白河天皇の和歌にかける真剣さにあったらきちんと読んで把握しなければと でも私が読むのは解説や受容の歴史です

 

白河天皇には根底に古今和歌集信奉があります そして天皇に従った六条藤家の祖の顕季にも 古今和歌集仮名序に二人の信奉の原点を見ることができます なぜ顕季が柿本人麿影備を始めたか こういうことが白河天皇の万葉集の原点で それを書きます 昨夜のエリエリレマサバクタニが戻らせてくれました

 

8月19日

おはようございます 今日はこれ 中野幸一先生『正訳源氏物語』絵合巻です 白河天皇が内裏歌合を開くのに 村上天皇の天徳内裏歌合を参考にしますが この歌合は紫式部も参考にしていて それが絵合巻だそうです これからその箇所を探して読みます

 

絵合巻から紫式部が天徳内裏歌合を参照して書いたという箇所 この歌合は『陽明文庫王朝和歌集影』所収の赤澤真理氏「歌合の場ー女房の座を視点として」で詳細に紹介されていて それを拝読しているから参照がリアルに実感できました 紫檀の箱に蘇芳の華足、敷物には などの引用がそうですね

 

新潮日本古典集成『古今和歌集』から奥村恒哉氏解説を拝読して唸ってしまいました 明晰ですね このご解説もそして古今和歌集も 古今和歌集に曖昧はないのだそうです それは律令国家の明晰さと相俟っていて 源氏物語の朧月夜の大江千里の歌は源氏物語より以前の歌なのに古今集には採られず新古今集に

 

朧月夜という曖昧さが貫之ら撰者に嫌われ 古今集自体に朧月夜の語がないそう それが今度は定家によると古今集は余情妖艶がないとなり 新古今に朧月夜の歌が採られた…… 知ってみるものですね こういう分析 竹西寛子さんのエッセイで感じ入って満足していた古今集感と全然違う 知ることの醍醐味でした

 

拝読した奥村恒哉氏古今和歌集解説に久曾神昇氏『古今和歌集成立論』があって 拝読したいけど図書館に行きたくないから購入できたら と検索したら数万円 で諦めたのですが 陽明文庫王朝和歌集影所収の後藤祥子氏「十巻本歌合・二十巻本歌合の成立と意義」にまた 久曾神昇氏『伝宗尊親王歌合巻研究』が

 

あり こちらはもう検索しないけど 世の中には大変な研究者さんがいられるのだなあと目をみはりました 多賀宗隼氏のご研究にふれるときにもそう思います

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2020.8.17 ツイッターから転載…日々雑感、白河天皇の後拾遺和歌集院宣の項を書き終えました

8月15日

物凄い日射し 部屋の片隅なんですが眼についたので撮ってみました 気晴らしに

 

そうっか と 動き出すと見えて来るのですが 伊勢大輔が65歳の高齢で乳母になったのは 摂関家に嫌われていた皇太弟後三条天皇の皇子では即位の見込みがないから成り手がなくて それで能信が手を尽くして駆り出したんですね だから乳母がみんな早々に亡くなって 親子さん一人が残って六条藤家への流れ

 

やっと通俊さんが動き出しました 伊勢大輔が祖母で白河天皇の乳母だった ということが後拾遺和歌集撰者に繋がった という流れが見えてくるまで全く動かなくて困り果ててたのですが いにしへのの歌の作者の匂いやかさを通俊の雰囲気に重ねたら 雅になって私的にお気に入りな流れに笑 創作です

 

ふうっと なんて心地好いんだろう 展開がひらけるって 通俊さんの個性や動きがこんなに見えてくるとは思わなかった 白河天皇の和歌は六条藤家の祖の親子・顕季によるとばかり考えていたから動かなかった ここでまた六条藤家が私のなかで後退です きっと書くのは二条天皇期になるのでしょう

 

通俊さんの梗概ができて順調に進むと思ったのですが 通俊さんの最初の一言が降りて来なくて 考えたら今日は昼寝をしないで頑張ってたからきっとそのせい それで一旦寝ると宣言したら 今日は早いね と家族に驚かれました 家族に気を遣ったからもあるのに……

 

8月16日

おはようございます どうしても通俊さんが動かなくて 起きたら声が降りてきてくれるかなと期待したのですが 降りてきてくださったのは上東門院彰子さんでした 冒頭が彰子さんの薨去でそれに対する白河天皇の思いが書けていなかったのでした これから手を入れて通俊さんに進みます 写真は@海蔵寺

 

上東門院彰子さんの件 書き入れました 円仁の如法経のこと 入れられないと諦めていたのをここに入れました 入れたいのに入れられない 進みたいのに進めない というときはなにかあります なにかがつっかかっていてそれが原稿の進行の障害に 解決すれば進みます ということでこれから通俊さん

 

終わりはいつも急転直下 あれほどうじうじ書けない書けないと混迷していたのに 糸がほぐれたら一気に完 こうなるとわかっていても書けないあいだののたうちまわり感は半端なく嫌です 通俊さんの項が終わり次へ 白河天皇の万葉集の段 ここで六条藤家が書けそうです 写真は@海蔵寺 少し涼やかに

 

2014年11月の撮影だから涼しそうで当然なのだけれど この時の写真は海蔵寺様のお庭の手入れの良さにあいまって凛とした風格で撮れていて 今の私にこの凛とした風格はいいなあとアップさせて頂いています 宗尊親王ゆかりの寺院として訪ねさせて頂きました

 

メモ的に 白河天皇の万葉集の段は なぜ万葉集の写本に題詞が高いのと低いの二つの形態があるかという その従来の謎に私なりの答えを見出だすもの しっかり書きたいけど こちらは雨が降って少し涼しくなりました もっとざっと降って欲しかった

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2020.8.16 ツイッターから転載…日々雑感、後拾遺和歌集撰者の通俊さんと伊勢大輔のことなど

8月13日

こんにちは いろいろしていたらこんな時間になってしまいました「神無月はおほかたも時雨がちなるころいとどながめたまひて」は源氏物語幻巻の巻名になっている大空にの歌が繰り出される文章ですが 紫の上を偲んで止まない光源氏の思いの結集した箇所 そして上東門院彰子さんが亡くなったのが神無月

 

華鏡で白河天皇が亡くなった彰子さんを偲ぶ個所を書いていてその符合に気がつきました 紫式部は彰子さんが神無月に亡くなるのを知っていたかのように 源氏物語のなかで最高の惜別の場面を書いているのです 心の繋がった人どうしであるのだなあと こういう時空を超えた符合が と感じ入りました

 

でも いったい これ どういう方々が読んで下さるのだろう という疑問はいつも気持ちのなかにあります 一般の方には難しすぎるし 専門家さん方には反発をくらうでしょうし・・・ でもいいんです 私は自分が面白いから面白いと思ったことを書いていきます

 

少し体調悪く休んでいて虹も夕焼けも見てないから せめてペルセウス座流星群を見て寝ようとベランダに そんなに簡単に流れるわけないから当然見られなかった まだ蒸し暑く夜風が涼しいということもできず でも昇りかけの黄色い月と南東に火星かしら 赤い星が見えました 宇宙は壮大です

 

8月14日

おはようございます ここのところ梓川から山のことを考えているのですが 山が好きといっても登山したのは富山に住む知人の案内で大日岳だけ 眼前に聳える剣岳に絶句しました あとは立山とか谷川岳など観光で行って眺める山 山を眺めて過ごしたいんです 河口慧海さんのチベット旅行記でヒマラヤの

 

とりこになって ヒマラヤを遠望できるホテルに宿泊するのを夢見ていましたが 昨日までそれを忘れていて思い出してびっくり あんなに憧れていたのに 源氏物語と鎌倉の10年がなかったら行ってました コロナ禍が終息したら行きたいけど 体力が残っていますように でも ヒマラヤ 終生の憧れです

 

コロナ禍の自粛で家族内で人が増え 私は遠慮したり譲ったりの放浪生活だったのですが なんとなく慣れて形態が定まり 昨日my机を取り戻しました それで埃を払うなどしてたら インク壺と思っていたのがまさかの鉛筆削り 自分のものでも忘れるんですね笑

 

取り戻したmy空間には 大好きな絵葉書たちが

 

いにしへの奈良の都の八重桜の伊勢大輔は後拾遺和歌集撰者の通俊の祖母 までは知っていたのですが 白河天皇の乳母だったんですね 何人かいる乳母が皆早世して親子一人になった という早世した乳母の一人 それじゃあ通俊は白河天皇には気心通い合う兄弟同然だったでしょう 天皇より6歳年長です

 

煩雑な日常に気をとられて原稿が進まなかったのですが やっとmy机を取り戻して集中したらこんな発見 煩雑な日常以前の もう書ける! と思いあがったまま書いていたらこの発見には辿り着かなかった 毎回書くけど 煩わされての停滞はちょっと待ての天の声です

 

でも このまえも呟いたけど いにしえの の歌の紫式部に機会を譲られたときには初々しい新参だった伊勢大輔 その人が通俊の祖母だったというのは驚きだったけど さらに晩年には白河天皇の乳母になっていたなんて 乳母になった時65歳くらいです

 

重子さんと会うのでは? というのが今読み返していての思い 重子さんは順徳天皇母の修明門院 重子さんの母教子さんは丹後内侍が養女になった門脇宰相の娘です 重子さんは丹後内侍を覚えているでしょう その丹後内侍ゆかりの仙覚さんが京にいると知ったら 重子さん 会うのでは?

 

と 書くにしてもこれは後編だからずっと先だけれど 今まで丹後内侍と仙覚さんの接点がどうしても作れないと思っていたのに これを書けば作れるかも など思いました

 

白河天皇の後拾遺和歌集撰者の通俊を書こうとして書けなかった理由が通俊が過小評価されていたことだと気づいて位階などを見てました 父の経平が白河天皇の側近だからその縁故でと考えても経平よりも先に位階を授けられたり公卿になっています ウィキでは妹の経子が白河天皇の寵愛を受けたからその縁で

 

と書かれてますが それだけで撰者拝命なんておかしいですよね また撰者になったのを妬まれて歌壇の重鎮から若いからダメの評価 この若いからを私は真に受けて年齢をあたったら 白河天皇より六歳年長 しかもウィキにはなかった伊勢大輔の孫で伊勢大輔は白河天皇の乳母 こうなるともう繋がります つまり

 

通俊は白河天皇の幼い時からの遊び相手というか兄のような関係のご学友だったんです 幼い時からの兄同然 となれば天皇の寄せる信頼の深さもわかりますよね この線で書いていきます まず白河天皇より年長 これが鍵でした

 

さっきのツイート 岩佐美代子先生が昭和天皇のお姉さまの照宮さまの遊び相手として選ばれて宮中にあがってらしたご経験を書かれたのを拝読しています それがあるから 白河天皇にもそういうお役目の少年がいただろうとの発想です ちなみに通俊の最初の位階が撰者拝命の年 ということはそれ以前から懇意と

 

昨夜少し手を入れた原稿を通しで印字し直したのを見たら 前編後編とばかり思っていたのに いつの間にか直していて 第一章第二章になっていました 目下第一章の二条天皇の万葉集に行きたいのに行こうとしては白河天皇に戻って を繰り返しています笑

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2020.8.15 ツイッターから転載…日々雑感、英雄たちの選択「鎌倉」を見て永福寺のことなど

8月10日

ご出演の坂井孝一先生が男前というツイートに触発されて#英雄たちの選択を見たら 永福寺がメインだったんですね コロナが終わったら そこで蹴鞠の会を開いて頂くのが夢 じつはコロナの直前にその働きかけを開始しようと思っていた矢先でした いつ終息するか そうしたらその時は晴れて開催して頂きたいと頑張るつもりです

 

実朝だったか 頼家か 永福寺で蹴鞠をした記述が吾妻鏡にあります

 

見ないでおこうと思っていたのにツイートに誘発されてオンデマンドで見てしまいました 頼朝の回 こうしたことを一生懸命調べたり把握したりして今があるのだなあと 懐かしかったです 華鏡ともっとダブるかとそれを怖れていたのですが全然そんなことはなくて普通に 鎌倉 でした

 

8月11日

おはようございます 深夜ツイート永福寺 オンデマンドで見た英雄たちの選択に登場しました 参加した発掘調査時の現地説明会の写真をご紹介 一枚目2005年まだ一面の薄野原でした 二枚目2013年基壇ができた時のでまだ池は掘られてません 三、四枚目2017年ほぼ完成してこの後鎌倉市の指定史跡公園に

 

鎌倉に京都の宇治平等院と同じ結構の寺院があり それが平泉にもあって 日本列島に夏の大三角のような感じで華麗な寺院が点在するというので狂喜して情報を追っていました かつては奥州合戦で滅ぼした平泉とも連携して平泉で永福寺展が開かれたりして それも行きました

 

2013年と2017年のあいだに 実験的に池の一部を掘って水を湛えた現地説明会があり その時の写真がもう自分で満足するほどの素敵さなのですが どうしたわけか紛失 フィルムカメラだったのかなあと デジカメになる前のほうが記録的にも想い出にもいい撮影がたくさんあります

 

調子をもとに戻して西武池袋店モネの庭からの薔薇 せっかく源氏物語に浸り紫式部日記に浸ってあとは一心不乱に原稿に と思ったのに永福寺に寄道してすっかり気分がだいなし と反省 鎌倉に永福寺が残っていたら鎌倉の印象が変わるというより歴史観そのものが変わっていたでしょうね

 

と書いてわかりました 私の「華鏡」は 『源氏物語と鎌倉』も 永福寺のように鎌倉にあったのに今は無いから省みられもせず鎌倉は武士の都の一点張りできていた鎌倉観の真逆の世界です 現実の物体がないから取り上げられなくても 人の思念のなかには伝わっていて それが文化なのに

 

だから 最初はとても嫌がられました (今は どうかな?笑)

 

TLに涼しそうな谷川の写真を見て あ 私にもあったと取り出しました @上高地 梓川です 暑くて朝一で吉祥寺に出ようとしていたのですが 一歩踏み出しただけでもうくらくらして止めました 都心で37° 練馬や八王子で38° たぶん当地三鷹も38°くらいでしょう はじめての気がします この暑さ

 

RTの中島智氏 「文章としては、総じて後者は「悪文」になる。けれども、その〈星座〉を受けとるように精読していくと、意味/表象を越えた広がりが解凍してくる。」← そうありたいと願って書いています 華鏡を

 

新人賞受賞式で 私がヌーボーロマンで文章を学んだと知った私の受賞の反対派の先生が どうりで悪文だと思った と言われたことを思い出しました笑

 

8月12日

朝一で出て吉祥寺 いろいろ回っていますが冷房の効いた建物から建物への移動なのであまり暑さを感じてなくてTLを見ていたら 東京は39° ほんと? とびっくり 念のために喫茶室で休んでました 落ち着いたのでまた行動再開して帰ります 帰途暑いだろうな 嫌だな です笑

 

先日どうしてる? と心配の電話をくれた学生時代の友 関心を持ってくれたので華鏡を送ったら今日その返事 彼女は歴史が苦手で読めないのはわかっていたけど 旦那様が読んで下さっていると 私の集大成だから心して読むと仰ってまだ1/3だそう 大した量でないのにそんなに丁寧に読んで下さって!

 

その彼女は起業家さん コロナの終息はまだ先のようだから意を決してはじめました(笑わないでね) とあるので何かと思ったら 裁縫の苦手な私が手作りのマスクをはじめました とマスクが二枚お便りと一緒に入ってました 意を決してマスク! と 彼女らしくて笑ってしまいました

 

昨日から挙げている梓川の写真 涼しそうでいいのですが これもコロナ前の世界なんですね 源氏物語と鎌倉の日々にも決着ついたし これからは毎年行きたい と思っていたら焼岳に噴火の兆候 少し様子を見てと思っていたらコロナ いろいろすべてがコロナ前と変わってコロナ前の写真が切実に

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2020.8.14 ツイッターから転載…日々雑感、紫式部日記を拝読、面白い発見が多々でした

8月9日

面白いのを見つけました 紫式部日記の五節も過ぎて 「高松の小君達さへ、こたみ入らせたまひし夜よりは、女房ゆるされて、間のみなく通りありきたまへば、いとどはしたなげなりや」← 彰子の母倫子とは違う道長のもう一人の妻明子が高松殿 その子達が女房の部屋に出入りするのを許されて 紫式部たちの

 

すぐそばを通って歩くのでひどくきまりが悪い思いをしていると 紫式部は年の盛りを過ぎたのを口実に隠れまくっています この小君達の一人が能信 当時14歳 後に養女茂子さんを後三条天皇に入内させて白河天皇の祖父になります

 

華鏡で私は能信を白河天皇が彰子さんに会いに行くのに付き添った設定にしました 書きながら能信は紫式部と会ってるだろうなと想像してたのですが こんなふうな状況だったんですね 以前この日記を読んだ時には全く目にとめなかった箇所

 

(中宮彰子さんが)昨夜(よべ)の(道長からの)御贈物、今朝ぞこまかに御覧ずる。中略。手筥一具、片つ方には白き色紙作りたる御冊子ども、『古今』『後撰集』『拾遺抄』、その部どものは五帖に作りつつ、侍従の中納言、延幹と、おのおの冊子一つに四巻をあてつつ書かせたまへり……、内裏に還られる中宮に

 

道長が贈ったのがそれまでに出されてた三つの勅撰集 白河天皇の後拾遺和歌集は四つ目です こういう贈物として勅撰集が用いられたなんて! ←紫式部日記を読んでいたらこんな箇所があって 今まで気にしてなかった箇所 今だからですね 感銘

 

中野幸一先生『正訳紫式部日記』 通しでざっとですが解説まで拝読してしまいました 何回か読んでいる日記ですが 白河天皇について調べて書いている今だから理解が全然違う 今まではただ源氏物語ファン紫式部ファンとしてでした 全然違う今回の楽しさ 白河天皇をやった功名です

 

紫式部日記の追加 教通は道長の五男で公任の娘婿になって和漢朗詠集を贈られた人 ということを知ったばかりなのに その教通が頼通の後を継いで氏長者になり それをまた継いだのが白河天皇に白河の地を献上して法勝寺を建てさせた師実 とここまで把握して紫式部日記を読んだら 賀茂の臨時祭の奉幣使に選

 

ばれ 当日の出立の儀式に「使ひの君の藤かざして、いとものものしくおとなびたまへるを、内蔵の命婦は、舞人には目も見やらず、うちまもりうちまもりぞ泣きける」 ← 成長した我君の晴姿に乳母が感涙して止まないという記事なのですが 華鏡で頼朝が初出仕する姿を見送る比企尼をまさにこう書きました

 

執筆形態いろいろ ワードにエクセル 普通の万年筆に超極細万年筆 原稿用紙にノート等々 如何に暗中模索の試行錯誤か一目瞭然かと でもやっと 専念すればこれから書ける というところまで来ました

 

今日は 昨日までのどうしようもない世事の煩わしさから抜けて その罪滅ぼしのように終日自由に時間を使えたので紫式部日記を読んでいましたが ずっとこういう時間を持てなくて感性が枯れていたなあと痛感 枯れた心情で書いたってプロットにしかならないわけですよね としみじみ思いました

 

8月10日

おはようございます TLで河内桃子さんのお名前を見て懐かしく思い出しました 薔薇が好きで生垣にしたいけど 女優のお仕事は地方公演が多いから手入れができず諦めましたとのこと 私も原稿にかかると植木の水遣りに気がまわらなくなり枯れさせてしまうことも それできっぱり園芸は無理と決めました

 

時々 河内桃子さんのそのコメントを思い出します とくにTLで素敵に薔薇を育てていられる方々のお写真を拝見する昨今は 人は何かにかかわると何かを捨てなくてはならないんですよね で 私にはTLで拝見させていただく薔薇のお庭のお写真にその諦めの空洞を埋めていただいています

 

今日から一心に原稿に向かって の形態に入りたいと思う 不安だった体調も大丈夫になってきているし 原稿は試行錯誤の段階を抜けた気がする 一心不乱に机に向かって文章を繰り出す といった状態にいつなれるのだろうと思っていましたが どうやらそこに辿り着いたみたいです

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2020.8.11 ツイッターから転載…日々雑感、伊勢大輔の孫が通俊だった件など、中宮彰子さん周辺の女房たち

8月8日

おはようございます 見るままに露ぞこぼるるおくれにし心も知らぬ撫子の花 上東門院彰子さんの後拾遺和歌集中のお歌です 白河天皇の万葉集書写の状況を昨日のうちに書いてしまおうと原稿に向かったのに どうも私はプロット的に書くだけの叙述が苦手 一晩考えてこのお歌から始めることにしました

 

昨日は朝からTLも見ないで集中して原稿に向かったのに 日中煩わしいことがあって振り回されて気は散るし疲れるし で何もできないで一日が過ぎました 本来ならプロット的に書いてそれでよかったのだと思いますが 夜になって上東門院彰子さんが思い出されて書くことに 結果としてよかったと思います

 

今日はもうこれから集中します

 

白河天皇は中宮賢子さんが亡くなったとき食事も喉を通らないほど悲しんだというから 賢子さんオンリーだったのかと思ってたのに 同時並行で通俊の妹経子さんにも子供が生まれていたりして 経子さんにもそれは優しく 驚きなのだけれど これって平安時代の帝には普通? でも思いやりは光源氏的ですよね

 

昨日に引き続き世事に振り回されて集中できなくいるのですが イライラしたいのを踏ん張って原稿に努めていたら やっと動き出しました 彰子さんの薨去で伊勢大輔の孫の通俊と 赤染衛門の孫の大江匡房が 彰子さんを偲んで語らい合う場面 やっと思いつきました ここから通俊の選者抜擢へ持っていきます

 

後拾遺和歌集は和泉式部の歌が大量に入集していて 赤染衛門も つまり彰子さんの宮廷がメインです 当時を知るお孫さんたちが側近にいたからでしょう ご論考などでは通俊の妹の経子さんが白河天皇の寵愛を受けた縁で拝命とありますが 私もその線で書こうと思っていたのですが 男たちの談話から発展したと

 

伊勢大輔の歌 いにしえの奈良の都の八重桜けふ九重に匂いぬるかな 紫式部が後輩の伊勢大輔に作歌を譲って詠まれた歌 このエピソードの後日段が 通俊の後拾遺和歌集選者拝命だなんて!

 

8月9日

おはようございます 大空を通ふまぼろし夢にだに見え来ぬ魂の行く方尋ねよ 源氏物語幻巻の巻名由来にもなった歌です 彰子さんの薨去への白河天皇の思いってどうだったのだろうと 昨夜中野幸一先生『正訳源氏物語』を読み返していて辿り着きました

 

いろんな巻のいろいろな箇所を読み返していて 源氏物語ってやはりいいなあと つくづく感じ入りました もう○○年も通しで読んでないから 当時読んでも見落としていたりわからなかったりの人の気持ちの部分がたくさん

 

昨夜源氏物語の文章に浸ったからか 今朝の原稿が変わって 昨日まで四苦八苦して書いていた白河天皇と後拾遺和歌集の冒頭を破棄 まったく違う書き出しに 思考は理ではプロット的に書けるけど 情の部分は深まらないと書けない 平安時代ふうな感性になりたい 平安時代ふうな写真をまず撮りたいです

 

毎晩 源氏物語を読んで就寝しようかしら・・・ なんて きっと文体が変わる というか取り戻す 取り戻すのに必死だったけど 頑張っても周囲の環境が浸ることを許してくれないと結局無理やり理で書き進める みたいになっていて ずっと不本意でした 原稿も中盤にきて余裕できたし これ いいかも

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2020.8.10 ツイッターから転載…日々雑感、白河天皇の万葉集書写の状況を把握したくて考えています

8月5日

おはようございます 袋草紙にある白河天皇親政期に最初に万葉集の書写をした俊綱は頼通の次男なんですね 頼通は長男がいることと正室を気遣って男子が生まれると次々に養子に出しました 白河天皇に白河の地を献上した師実は六男 つまり俊綱と師実は兄弟 仲もよく交流もありました 長男がなくなり

 

ちょうどその頃生まれたのが師実で 養子に出されず氏長者の後継者となったのですが 頼通が俊綱を養子に出さずにいたら俊綱が氏長者になっていたでしょう そうしたら師実以降の系譜はなく 九条家もなく 鎌倉将軍頼経の下向もなく と 歴史が変わってしまう なんていっていいかわからないけど畏怖

 

この俊綱が白河天皇親政期に道長が所持していた万葉集を書写し 白河天皇には師実養女の賢子が入内している 白河天皇周辺のこういった摂関家の人々に興味があります 父帝後三条天皇は徹底的に摂関家を嫌われたようですが 白河天皇には源氏物語に通じるなにか摂関家的な雅の志向があるような

 

決断するにはその発端となる動静があります 白河天皇の即位前後における周辺当事者さん方の年齢と動静を年譜にしてみました しばらくこれを見て状況把握に努めます

 

先程の年譜 原因と結果は 即位したから勅撰集院宣(ピンク) 師実が氏長者になったから白河の地を献上されて法勝寺建立(緑) ですね 万葉集がどこに入るか原因がみつからないので考えていたのですが 通俊たち近臣が書写してるから即位後なのは確か 親政期を通してずっとと考えていいかも

 

万年筆で書き出してみようと思って 思い付いて並べました 左がいつも使っている中字(と思う 細字だったかな) 右が鈴木大拙先生の手帳に憧れて買った超極細万年筆 これでは原稿書けないですね笑 いつものは慣れて書きやすいです 原稿用紙はいつ買ったのかもわからない古さ しかも横書き 縦に使います

 

8月6日

おはようございます 昨日の年譜 即位から勅撰集院宣と師実から法勝寺建立は点と線 万葉集の書写は廷臣とずっと取りかかってるのだから面 ということで白河天皇は即位後の法勝寺等の件が片付いた後 譲位まで(水色の囲い)ずっと万葉集にかかっていた と見ることにしました

 

今日も暑いですね 背後からもわっとした熱気がくるのでカーテンを閉め夜のような雰囲気の部屋でPCに向かっています 白河天皇が万葉集に取り組んだ状況がだんだん絞られてきました 法勝寺完成の翌年に内裏歌合をしているからその年までは和歌全般に関心 そこで何かの話が出たのでしょうね 隆経から

 

古今和歌集を学んだときに 万葉集に興味を持ったことを思い出す という流れで書こうと思います それから堀河天皇の誕生があり 法勝寺八角九重塔の完成があって 中宮賢子さんの薨去 白河天皇はがっくりしてここですべての興味を失い そこに後拾遺和歌集が完成して譲位 という流れではないかと

 

RT 東京ドーム来年のテーブルウェア・フェスティバル中止 まだ来年と思うけど 来年でも中止にしなければならない状況が今なのでしょうね 今年いっぱいは自粛と長く見積もったつもりが まだ来年もと覚悟しなければならない状況 テーブルウェア・フェスティバルは何回か行きましたが素敵でした

 

ふうっと一息ついて中休み これから白河天皇の万葉集の段に入るにあたり 今までの原稿を見直して タイトルから通しで印字してみました 自分でもこんがらがってしまうほど天皇女院の方々の錯綜ですが でも これでいく! と先に進みます 長い原稿の最初のほうをどうこういってもはじまらないから

 

原稿が深まると眠りが深く かつ気がつくと寝ていたり になるのですが 眠る前はこう書き出そうと考えていたことがあるのに 仮寝して起きたらべつの冒頭が浮かんでいて 眠りってこういう効用があるんです 理で運ぼうとしていることを阻止して たぶん 意味の深みからことばを救いあげてくるという

 

8月7日

こんにちは 今日は白河天皇の万葉集の項を書いてしまう決意でTLも追っていないのですが(さっきちらと見たら辞意表明とか)再読したいご論考がどこだったか忘れ 検索してもみつからなくて ブログ内検索したらありました 『陽明文庫王朝和歌集影』に赤澤真理氏「歌合の場―女房の座を視点として」

 

Twitterは思いついたことを瞬時に呟けるので載せていて それをまとめてブログに日録として保存しているのですがこういうときに便利 マイページの記事一覧から検索したいワードを入れると出てきます コピーだったかタブレットだったかとにかく何の媒体だったかも忘れてて やっとブログを思い出して

 

白河天皇は 源氏物語絵合巻にも参照された村上天皇の内裏歌合にならって開催しようとしたのですが それが音楽的効果を取り入れた晴儀歌合だったので意に添わず 純粋な歌合にしたそう ここには女房歌人も参加せず 白河天皇の純粋さを見る思いがします

 

TLをざっとさかのぼって一時間前ほどの分を拝見しました 白河天皇に集中したいから気分に影響しない程度にここまで 社会は動いてますね 今は私の頭のなかだけだけれど 華鏡も完成したら動く社会のなかに入りますように と願います コロナ後の世界に本はいっそう重要になる気がします

 

立秋だったんですね TLで見て ふと残暑お見舞いを出そうかしら と思いました コロナでもう皆様との音信不通も半年になったし 仙覚さんの小説が華鏡になって膨らんで順調に執筆中 ということもぜんぜん何方もご存じないから そのご報告に いつもならお年賀状がそのご報告になっているのですが

 

思い出しました 後拾遺和歌集には上東門院彰子さんの歌が三首ほどあります 彰子さんの薨去は白河天皇即位の翌年 後拾遺和歌集院宣の前年です 以前後拾遺和歌集をつくる際に敬愛する彰子さんの歌を入れるよう あえて白河天皇が選者に指示したと書こうと思ってました 思い出したので入れます

 

選者の通俊について考えていて思い出したのでした 通俊は今日九重に匂いぬるかなの歌人伊勢大輔の孫だったか曾孫だったか直系です 紫式部と交流した歌人の系譜の通俊を白河天皇が重用して当然 選者抜擢はそのあたりにあるのでしょうか たぶん歌の感性・志向が一緒

 

もう万葉集に行こうとしているのにまた後拾遺和歌集 簡単にここを済ませて先に進みたい のだけれど

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2020.8.6 ツイッターから転載…日々雑感、また白河天皇親政期に戻ってしまいました、白河天皇と万葉集をめぐって

8月3日

おはようございます 今日から清輔 やっとここに来ました 仙覚さんと袋草紙の関係 何もわからないまま ただ仙覚さんの名前が入っているから拝読していたご論考 何回読んだでしょう でもやっと六条藤家を理解した今 また拝読したら違うでしょうね 書くのが楽しみになりました

 

仙覚さんの研究をし始めて 四苦八苦して拝読したご論考の一つです 村田正博先生「仙覚『萬葉集註釈』の形成ー清輔『袋草紙』とのかかわりをめぐって」黄色いマーカーに赤いボールペン 四苦八苦した痕跡 懐かしい

 

夜の奈良公園 仙覚さんの万葉集に原稿が近づいたから懐古趣味になって ふと思い出して過去写真を ある方の出版記念の会の帰り 奈良駅まで戻る道筋で撮った写真です あの頃はほんとうになにも知らなくて 興福寺に門がなくて通路のように通っていたなど いつ境内に入ったのかしらと不思議でした

 

2005年のときのですが こんなになにも知らない私を呆れもせずに見守って下さったこの方をはじめとする方々 この時の列席者さんを今見たらもう驚くばかりの第一線の研究者さん そこに私なんかを入れて下さっている・・・ 今朝思ったのですが 華鏡はとにかく早くこういう方々にお礼として届けたい

 

ご論考を拝読していました でもほんとうは調べなおしたりしないですぐに書き始めればいい とわかっているのだけれど いつも段落の最初に取り掛かる時はうだうだと無駄に時間を過ごします 頭のなかではずうっと考えているのですが…… すぐに取りかかれない症候群は 前はこんなでなかったと思うのだけど

 

そうだ あれがあった と思い出して持ってきました プラチナの極極細万年筆 鈴木大拙展にあった大拙の手帳にびっしり書き込まれた小さな文字 普通の細さでない極細さに魅了されて探したら このプラチナがありました ノートをとるのにいつもの万年筆では滲むので嫌だなあと思っていたので これでこれから

 

結局 二条天皇の万葉集の段にすぐ取りかかれないのは 白河天皇親政期の万葉集書写の実態を把握仕切れていないからとわかり また小川靖彦先生の萬葉学史の研究を出して ノートにまとめようかと 複雑過ぎて理解から逃げていました そのつけがまわってきたかの感

 

この万年筆だと超がつくくらいにインクが出ないので 私の超がつくくらいの速書きだとすぐインクが間に合わなくなってかすれてしまいます なので超丁寧に(笑)ゆっくり書くので これ 続くかわかりません ペン先を普通の極細に変えるかも

 

ゆっくり書いているのに字がこんなにかすれて これはB5のノートですが 鈴木大拙先生の手帳はこの半分位で このかすれたインクで文字がぎっしり書き込まれていました でも雰囲気はこんな感じ ゆっくり書きは頭に入りますね 気持ちが落ち着いてきます

 

萬葉学史の研究に 聖代に編まれた"勅撰和歌集"とされた(古今和歌集仮名序)『萬葉集』に とあったので 初めて丁寧に古今和歌集仮名序を読みました 顕季が柿本人麿影供を始めたのも ここに因があったんですね

 

8月4日

小川靖彦先生『萬葉学史の研究』から白河天皇親政期の万葉集を整理し 朝一で吉祥寺に出てもずっと考えていたのですが 突然視界がひらけて見えてきました 白河天皇と万葉集 まさかこれが書けるとは の思いです 次の段は二条天皇の万葉集でなく白河天皇の万葉集として 古今和歌集から始めます

 

昨日一日 二条天皇の万葉集の段を書き始めればいいのに取り掛かれないでいてうだうだしていました こういうことだったのですね まだそこに至ってない! 白河天皇期の万葉集をきちんと書け! という意識のなかでの指令が飛んでいたようです

 

今日もハグロトンボは姿を見せてくれました 何回もひらひらひらひら移動してあちこちに 可愛いです

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2020.8.3 ツイッターから転載…日々雑感、白河天皇と後拾遺和歌集、隆経の項を終わりにします

8月1日

おはようございます 今日から8月 カレンダーをめくったら あ 今月中に華鏡完成するかなって そんな気が(無理ですが笑) 和漢朗詠集から始まった平安時代の知らなかった国文学史 昨夜後拾遺和歌集を書くメドがたって気が軽くなったからでしょう それにしても学校では深く習わなかった有名処でない古典の

 

世界のなんて楽しいこと! 関わった人で辿るからですよね そこにいろんな事情があって 思惑がある 源氏物語みたいな有名作品では研究し尽くされて私たちも享受させて頂いているけど 和漢朗詠集も後拾遺和歌集も とにかく楽しいかったです

 

毎年庭に来るオハグロトンボ 今年も姿が見られて嬉しいのですが なかなか羽根をひらいた姿が撮れないでいました 梅雨明けの今日は晴れて気持ちいいのか やっと撮れました

 

集中したいのに お茶する? と声をかけられて 今はしないと心を鬼にして断ったのに 悪いなあ どうしてるかなあ など気になって 結局家族とお茶して戻ったのだけれど 結局日中はこういう具合で原稿中断 愚痴をこぼしたくなります と これは愚痴 (コロナの時代は後悔することのないよう一層こうなります)

 

先ほどの愚痴 いつもそうだけど 集中力が切れて戻っても続きが書けないとき 邪魔されなかったらどんなに進んだだろうとその時は悔しく思うのだけれど 苦しんで続きをひねり出そうとすると思いがけない深みを引き出す展開になる 邪魔される前とは異質な展開です 邪魔は私にとって警鐘なのかも

 

写真は昨年の西武池袋店モネの庭にて ふつうに池の睡蓮を撮っていたのですが 帰り際に そうだ 仏のモネの庭には柳の木があった と思い出し 探したらあって そよぐ柳の葉を手前に入れて撮りました これもコロナ前の世界 空気が記憶が美しいです

 

8月2日

おはようございます 親子さんの夫隆経を検索したら垂井の泉という項があり 読んだら歌枕で 隆経の 昔見し垂井の水はかはらねどうつれる影ぞ年を経にける の歌がありました 岐阜県不破郡垂井町 行ってみたいですね

 

少年白河天皇がのちに後拾遺和歌集を作ることになる下地を乳母親子さんの夫で六条藤家顕季の父の隆経に担当させました 後拾遺和歌集から見ていたら白河天皇の性質が見えてきて 源氏物語で即位できない皇子として光源氏に自分を重ねて見ていたときとは書き方が違う 源氏物語の項を少し書き直します

 

急転直下で隆経を書いたこの項 終わらせます 昨夕愚痴った邪魔が入って書けなくなった文章では もっと長くなる予定だったのに 今朝 急転直下の終了 邪魔はやっぱりストップという天の声でした

 

華鏡は玄覚さんの独白バージョンなので 隆経の項で玄覚さんに こんな壮大な呟きをさせてしまいました笑 世のなかには天賦の才というものがあり、白河天皇はその才能を持っていた。すなわち、天皇という才能を。

 

国宝源氏物語絵巻の項を書いているときに あまりに三田村雅子先生のご著書・ご論考を参照させて頂いたので 即位が二十歳過ぎだった白河天皇も皇位につけない皇子という光源氏という弱いイメージができてしまって 三田村先生のその影響から抜けたいのに抜けられずにいました やっと 抜けました!

 

貞仁様は本当に和泉式部がお好きですね と これは親子さんのセリフとして使おうと思ってたのだけれど 親子さんは終わりにするから勿体無いけど使えないなあと思ってたら 通俊のセリフで使おうと昼寝して起きたら心が決まってました 後拾遺和歌集を細かく書くのも冗漫になるし もう万葉集に行こうと決め

 

でもそうすると通俊が入らないと悩んだときに 後拾遺和歌集の院宣と万葉集の書写が同じ白河天皇の親政期だったことを思い出し 同時進行にすれば良いとの発想です で 白河天皇を交えての通俊と顕季三人の雨夜の品定め的な会話で軽く後拾遺和歌集の院宣を書いてしまおうかと 万葉集はきっちり書きたい

 

昼寝の起きがけに勢いで呟いた雨夜の品定め的場面は省略し いきなり二条天皇の万葉集に入ることにしました 結果として隆経の子で六条藤家の祖の顕季は省略 その子長実の時代になります 白河天皇の後拾遺和歌集を書き切って私自身が力を頂きました 人はおのれの道を全うするために生きる人がいる

 

と これは白河天皇と後拾遺和歌集の段の結びの文章ですが これが書けて私も私自身の文章を取り戻した気がします 書くってこういことだったのだ という思いがペン先のインクから滲み出る文章に籠っています これを感じたくて長く苦しんできました 挫折して○○年 鎌倉を撤退して一年 やっとです

 

作品って 書く人の精神力次第なんですね まだ自分をつかめてなかったころに書いていた源氏物語と白河天皇の段の白河天皇は強くないです 皇位につけない皇子として鬱屈しています でも後拾遺和歌集を書いたら違ってきました 私のなかでの覚悟が反映しました 華鏡はこれからです

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2020.8.2 ツイッターから転載…日々雑感、白河天皇の乳母親子さんについて調べました

7月30日

おはようございます 蘆田氏のご論考 やっとノートをとって把握しました 大中臣家は今日九重に匂ひけるかな の伊勢大輔の家系なんですね 彼女の孫娘にあたる人が六条藤家の祖顕季の妻 ご論考ではその結婚を望んだのは親子さんだろうと 白河天皇が即位してすぐ後拾遺和歌集の院宣を出したのには それまで

 

に乳母で顕季母の親子さんが和歌の素養を教えていたのだろうと思い 親子さんという人物を知りたかったのでした たぶんその通りでしょうし 華鏡はその線で書きます 後拾遺和歌集選者に選ばれた通俊も伊勢大輔の孫で 結婚で顕季は通俊と義兄弟になったと 歌壇の重鎮がいるのに抜擢されたのもそれが強い?

 

ほんとうに手書きで文章が変わる そして淀みなくあふれ出る 華鏡の原稿 機械に打ち込むのとペン先からインクでにじみ出るのとではこうも違うんですね 推敲しては印字し直し先を書いて印字して推敲 これを今やっています 写真はコロナ前の世界 横須賀線車窓から またいつ鎌倉に行くのでしょう

 

ドロップボックスの写真を整理してたらこれがあって 突然 あ これもコロナ前の世界 って思ったのでした

 

スーパーとかコンビニくらいしか心当たりがない感染者さんのツイートに滅入って お夕飯の支度も気が乗らなかったのですが 家族も籠ってお夕食だけが一日の息抜きのようになっているから それを手抜きするわけにいかず なんとか作りながら食材の新鮮さで癒されました どうなるのでしょうねこれから

 

でも 気が滅入ってなにもかもすることが嫌になっても 不思議と原稿には差し支えないんですよね これって単に日常生活が嫌だけなこと? なんて思ったりしますが コロナは心底気が滅入ります 原稿は前に入れられなかった後三条天皇の荘園整理令がきれいに入り ここから後拾遺和歌集につなげます

 

手書きの文章を推敲したくて入力しようとしたら 深夜だから小さなPCでするのに久しぶりで 電池切れで使えなくなっていました 仕方なくウィキとか見てたら 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ の小倉百人一首の歌 顕輔の歌だったんですね 好きなのに今までは知らない作者でした

 

7月31日

今朝は開店早々のスーパーに行って大量の買物をしてきました 帰宅後の消毒が大変だから最近一回の購入量が減っていて それで冷蔵庫の食材が尽きてきて昨夜は献立に気が乗りませんでした 今日のもまだ消毒が終わってなくてなかなか原稿にかかれませんが 原稿はやっと物語が流れだしてきたかの感です

 

今ツイートに添付した薔薇の画像に朽ちた花が混じっていて思い出しました この画像は2018年に奈良円成寺を訪ねたときのもの この当時建春門院滋子さんを書いていて 滋子さんの花ってなんだろうと思っていました そうしたら帰り際の池の際にこの朽ちた花 病で崩御した滋子さんを思い出したのでした

 

ようやく動き出したかの感の華鏡 二条天皇の万葉集の項が終わったら 最勝光院の滋子さんを書きます やっと近づいてきたかな っていう気がします 滋子さんの花は 薔薇 そうしたいのですが

 

現実世界のあまりのひどさ大変さと反比例するように原稿が動き出して こういうコロナの世に仙覚さんの小説を書くことになったのも これもなにかの宿命ですね 小説が完成した暁(後編までです 前編は今年中には完成させたいけど)にはコロナが終息していますように

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