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2020.9.29 ツイッターから転載…日々雑感 通俊経子兄妹と 賢子顕房親子の〇〇合に(笑)

9月27日

賢子もそれを助けて楽しそうに親子でやっている 白河天皇を挟んで 賢子顕房親子と通俊経子兄妹の まさに源氏物語絵合巻で繰り広げたような競い合いが始まっていた という文章が浮かんで もっと遅くまで目が覚めないと思っていたのに飛び起きて 呟いています 今日はもう起きて始動します

 

海外在住の方のツイートで果物に目覚めて買ってきました 料理に使うって 憧れではありましたが 高いしもったいなくて今まで林檎くらいしかしてこなかったけど プラムで何かしてみたい 無花果はまだ高くて到底無理 海外の方の固い無花果が欲しい

 

朝方まで原稿に終始して 朝一でスーパーに行って それから朝食 そのあと買い物してきた食品を消毒しながらしまって ちょっと寝て やっと今 これからおやつです 頂き物の梨 梨も料理に使ったら美味しそうなのだけれど これを使ったら怒られます笑 豚肉をいろいろ買ってきました

 

玉葱のロースト もう少し焦がして 焦がし醤油で味付け 輪切りにして焼くだけなのに大きいからお皿に一品になります笑

 

9月28日

おはようございます 朝の机上 やっと絵合巻を入力 顕房について展開がひらけ 何か突き抜けた感があったのですが 昨日はスーパーの買出しから家族のフォローと 日常にどっぷり 日付が変わったころやっと自分の時間が持てても書く集中力がありませんでした で ともかく今朝はまず原稿にとりかかりました

 

カラッカラの天気だから二回目の洗濯でタオルケットを干していたら ほんと 日差しが暑かった でも空気が爽やかだから苦にならなくて やはりほんとうに秋だなあと 就寝起きがけのタイミングがずれてるから このままだと夜辛くなるので昼寝 と思うのに全然眠れない なにか興奮してるみたい 書けば!

 

もう ほんとうに 華鏡 早く仕上げたい 諸々私事で心配事が起きたりで体力気力を削がれるけど そういうことをいってたらほんとうに仕上がらない 柿本人麿影供を書くのもすぐそこに見えてるのだから 頑張るしかないです

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2020.9.28 ツイッターから転載…日々雑感 白河天皇と経子さんと源氏物語絵合巻のことなど

9月24日

おはようございます 深夜枕元に置いての入力用小さなPCがどれくらい小さいか岩波文庫本と重ねてみました 今このPCのなかに経子さんの素敵な宇宙が広がっています 経子さんはほんとうに私にとって近しい とても書きやすいです 性質を投入できる気がします

 

拝読している保坂弘司氏『大鏡新考』では作者を顕房とされていて 顕房の項を何度読んでも 彼が白河天皇中宮賢子さんの実父 という箇所にくると そうだった! といつもびっくり いい加減身につきなさいと我ながら思います 制作は彰子さん崩御が動機かと つまり白河天皇親政期

 

ということは 白河天皇の内裏歌合の頃は執筆中

 

9月25日

私は古典を今の感覚で読むのがとても嫌なのだけれど 少し前からそういうご本が出版されて売れるようになって嫌だなあと思っていたら 昨日からキャッチコピーの一言で片づける風潮まで 紫式部さんは身体のこと飲食のことなど極力書かない感性を持ってらした それは品性 品性のない読み物は嫌いです

 

と こう書くのは昨日から経子さんを書いていて このおくゆかしさって 現代の感覚からしたら理解されないだろうな って昨今のTLを見ていて感じるから 華鏡は現代の人には受け入れられないかもしれない でもいいんです それは当時のままの感性で書いているだけで 現代におもねる気はありません

 

9月26日

おはようございます 栄花物語続篇の巻37と巻38の続き方を読んでいるのですが 最初与謝野晶子訳で読んだから分かりやすく自然に続いていたことが 解説の成立状況を読むと エッとなって岩波文庫の原文を読みました そうしたら 晶子さんが自然に続くよう作為をしていると判明 原文なら成立状況に合います

 

こんばんは 今日は寒いです ほぼ終日雨でした やっと白河天皇と経子さんと通俊の三人の会話が動き出しました ほんと やっとです どうしてこんなに遅いのだろうと忸怩たる思いですが日常生活のなかで書いていると集中できなかったり体調が乗らなかったり 時宜があるのでしょうね それを待つしか

 

丁々発止と会話が乗ってくると 書いていて自分で笑ってしまう 文章が冗漫になるのは避けるけど 会話は冗漫になるほど いい

 

とてつもないことを書いてると思うのだけれど 小説 だから とこのまま突き進みます もともと 仙覚は誰か を学会で研究発表したときに これは小説にしたほうがいいとの先生方のご評価 その小説にさらにこれは小説だから が加わっていく どうなることやらと思いつつ 止める気が起こらない

 

今書いていることは その学会でもお世話になっているある方のご専門分野 私の『源氏物語と鎌倉』を これは立派な研究書です と足を運んで世に知らしめて下さった方で 毎年学会でお会いする度に懇意にして頂いた 今書いていることをお知らせしたい気になっていますが どう思われるでしょう

 

自分の部屋でタブレットでTLを見て 今日はもうTwitterは見納めと安心して仮寝してたら家族に呼び出されて階下に 話を聞きながらPCのTLを見ていたら 見たはずの時間帯の流れが全然別で PCのほうが結構思索にかかわる呟きがあって 結局呼び出した家族の寝息が聞こえる今の今まで見てしまいました

 

Twitterは 今更だけれど時間をとるし思考が拡散されるから原稿に集中する時は見ない と決めても 社会に生きている以上社会の動きは知っておきたいし 仙覚さんの小説にこの社会の仕組みが凄く勉強になる 昨今の政治事情なんて平和な世だったら学べなかったと思う 趣味のこと以上に重要な昨今です

 

人は 精神的な問題がクリアできたと思ってもすぐ健康の問題とか人間関係とか 心配悩みは尽きなくて 研究や原稿に没頭すれば一時的にそこから離れられるけど 心配や悩み 苦悩 が人生の根幹なのだなあと つくづく思う そこから逃げられないのが人間で それを書くしかないのですね 小説は お釈迦様みたい

 

やっと自分の部屋に戻って小さなPCに向かいました ほっと

 

なんと 白河天皇中宮賢子さんは道長の曾孫! とここで驚いたわけでなく 賢子さんの実父顕房について読んでいたら次々の発見で目が冴えて寝る気も起こらずに朝になりました 一例 白河天皇の大井川行幸和歌序を書いた師房が顕房の父だったとか その師房と道長妻の明子さんの子の尊子さんとの結婚で顕房が

 

賢子さんはただ単に貴顕の家から入内したお姫様でなく 道長の血を引き 学識豊かな師房の孫であり ということなら相当に賢く政治力もある活動的な女性だったはず 白河天皇が寵愛して止まないわけです どうしてこの魅力が伝わらずにただ寵愛された一面だけが有名なのか訝しいです

 

ちょこっと調べて書こうと思って小さなPCをつけて前に座っていたのですが あまりの拡がりに興奮して書けそうになく 一旦休みます

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2020.9.24 ツイッターから転載…日々雑感 白河天皇の内裏歌合の項に入り、経子さんを書きたくなっています

9月21日

今日はツイートしていなかった と思って日付の変わる数分前に慌てて今 新しい段落に入るときはいつも一日か二日軌道に乗るまで集中できないのですが今日がそれ 村上天皇の天徳四年内裏歌合の項なんですが 最初の一行が詰まっていて一日うだうだと過ごしました 写真は伊勢集

 

もう窓を開けていると寒いですね 閉めようとして夜空を見たら星が瞬いていました 空気が澄んでるみたい 久しぶりの気がします 星の瞬きが? 空気が澄んでいるのが? どちらかわかりませんけど 久しぶりに深夜の入力に小さなPCを出して打っています なんか物凄い時間が開いたみたい 原稿は進んでたけど

 

もうほんとうにピッチを上げなくては と今日思いました

 

9月22日

昨夜の残骸状態の机ですが 絵合巻を読んで就寝 それでもドラマが動かなくて参っていて やっと動き出しました 絵合巻の斎宮女御の描写が素敵で 経子さんってこういう人だなあと感じたのですが それで歌合の項では経子さんに語らせようと思ったんです そうしたら白河天皇と通俊も加わって語り出しました

 

今日はtwitterを見ない呟かないと決意して とにかく白河天皇と村上天皇の時代の歌合の関係をドラマにすることだけを考えていたのですが やっと動き出して呟きました でもTLを追ってしまうと集中が途切れるのでまたPCに戻ります 通知を拝見して 今 ちょっと ウルっときています

 

どうしても動かなかったものが動き出したから感動でちょっと泣きたい気分 白河天皇が経子さんの部屋に遊びに行くと兄の通俊が来ていて そこには皇子 のちの覚行法親王(数歳?)がいて 兄妹と天皇親子四人の和気あいあいの会話のなかで歌合についての話が進行する といった状況を考えています

 

この時代 兄であっても天皇の側室の妹の部屋に勝手に入っていいのかなあ とか いろいろ制約を考えるのですが 長い人生のなか こういう日があったっていいや! みたいな勢いで書こうと思います それにしても 経子さん いいです! 斎宮女御の描写を利用しようと思っています

 

涼しくなって生きるのに大変だった猛暑の夏が記憶の彼方になったけれど コロナの危機は忘れるはずないから必死 昨夜ちょっと寒かったから風邪を引かないよう首にカイロを貼って寝たりしたのになんかおかしく 発熱? とぞっとして薬を飲んで寝ていました 起きたら改善していてほっと これから要注意です

 

生きるのに大変だった猛暑の夏 原稿は進んでいるようで進んでいなかったのかもとか 記憶が曖昧 現実には白河天皇の項が解明できて進展あったのだけれど 仙覚さんの小説としてはほんとうに予定外の回り道だったから 本筋的になにも進展してなくて そこに季節の変動があって 夏の部分がすっぽり抜けて

 

ほう 絵ではなく文を書いておられる と白河天皇 絵とはなんでございましょう と経子さん という書き出しが先ほどツイートの具合が悪くて寝た直前に湧いた冒頭 経子さんに大役を背負わせようと思ったけど無理と諦めた展開が突然復活 まさかの絵合巻からの展開 これから年代を確認して書きます

 

9月23日

おはようございます 昨朝に引き続き昨夜の残骸状態の机です 久しぶりに小さなPCで打っていると腱鞘炎の親指がカックンカックンと笑 これも猛暑の夏の生きるのが大変だったことの名残り でもだいぶよくなりました 源氏物語絵合巻から栄花物語に戻って 寛子さんの歌合の箇所を読み返したりしています

 

久しぶりの雑木林 雨でしっとり濡れて風情がありました 自粛で家に籠って近くなのにここも通らなくなってほんとうに久しぶり

 

雑木林の中にひと群曼珠沙華が 赤い花は目立ちますね 原稿は小さなPCで打ったのを今階下のPCに移して印字 紙のほうが推敲が捗ります

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2020.9.23 ツイッターから転載…日々雑感 麒麟がくる、視聴三回目 & 村上天皇の天徳四年内裏歌合に戻りました

9月19日

今日は朝新米を送った妹から届いたとの電話があって話し込んだりしたから思考が途切れて終日ウダツのあがらないいらいらの日でした 仕方ないので今気になっている用件の一つの葉書をしたためて 好きな絵葉書の画像になんかやっとほっとした気分 これから深夜 頑張ります

 

9月20日

昨日はウダツのあがらない一日でしたが 深夜原稿に向かうより確認を優先して小川靖彦先生の萬葉学史の研究をおさらい 華鏡で目下取り組んでいる白河天皇の項はこのご論考の白河天皇親政期の辺りのドラマ化です ここがあまりに難解複雑で理解しようと四苦八苦していて見えてきた世界を書きたくなって

 

白河天皇と村上天皇の歌合の項を書いたらやっと 白河天皇と万葉集に進めます そこで柿本人麿影供を書けばやっと六条藤家の祖顕季の登場 そこから二条天皇の万葉集に進んで そうしたら丹後内侍が登場できる そうしたらドラマが動き出す と なんとか 先が見えてきました

 

仙覚さんの母を基子さんと命名してすでに書いてある部分もあるのですが 基子さんまで行ったら ほんとうにドラマが動き出します 今はなんか論文書いてるみたい笑

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】に村上天皇の時代の梨壺の五人による『万葉集』の訓点作業は 読めるようにするためでなく読みやすくするためだった記事を投稿しました 十二日目 と続きましたが 次に白河天皇の万葉集という重大な原稿にかかるため ここで一旦休みます

 

ちょうど宇多天皇の新撰万葉集 醍醐天皇の古今和歌集 村上天皇の梨壺の五人 と仙覚さんの万葉集にとって重大な歴史が解明されたところで区切りがいいのと これから書いていく原稿が 仙覚さんの小説をはじめるという覚悟のそもそもの内容になっていくからで 論文的考察は終わりました の気分です

 

思い出せば仙覚さんを調べ始めた時 小川靖彦先生の萬葉学史の研究が詳細な意味でほぼ唯一の研究書だったからもう熱心に拝読させて頂いたのだけれど 二条天皇と万葉集の項は難しく 白河天皇の項に至ってはまるで無関係くらいに読めなかった でもなんか重要そうなのは感じてたけど やっと解明できました

 

麒麟がくる 視聴3回目 ついに玉三郎さまの帝 拝見しました(もっと 来月くらいかと思っていたのでびっくり) 室町時代はよくわからないから視聴後検索して皆様の反応感想を追って知識を頂いたり補って頂いたり 関白のサキ様ってほんとに古河までいらしちゃうんだ〜など後の検証の方が今のところ楽しい

 

正直のところ 光秀みたいに本音で申し上げていいですか だけれど笑 朝倉谷は私が遺跡に従事していたころ発掘調査中で整備されてた頃の憧れの遺跡で 素敵な庭園跡もあり いつか行きたいとついこの前まで思っていたのに あのサンタ様の殿には参って 行きたい気持ちも失せました

 

朝倉谷がどんなに憧れの遺跡だったかというと 同僚の青年が待てずに冬に行って 受付の方にこんな季節によく来ましたねと驚かれたとおり 他に誰もいなくて 雪は深いし 歩くのに精一杯で 遺跡は埋もれているから何もわからないし 庭園跡もわからなかった 帰ってきて 行くなら冬に行く所ではないと私に

 

推敲で手書きで醍醐天皇と書き入れていたら 新宿に醍醐という割烹のお店があって 夜景が素敵だったからまた来ようねと言ったまま行っていないお店を思い出し このコロナの情勢下まだ営業されてるかしらと見たら 店名は後醍醐でした 西口の高層ビルの何階かだったから間違いないと思う 来年は行けるかな

 

寝ようとしたら麒麟がくるの将軍向井理さんの儚い美学が思い出されてし~んと 美しいっていいですね 精神の美しさの美学 それが思い起こされて

 

じつはこの最期のシーン 見てないんです 予告で知っていたから いつかな いつかな と緊張してたらアバンで終わってたなんて 後で知って驚き 後で検索して向井さんの寄せる言葉を読んで 向井さんって美しい と感動したのでした

 

ここに戻りました 源氏物語絵合巻 村上天皇の天徳四年内裏歌合を参照して書いた文章があります それを明日入力します なので今夜はこれで 文章が動き出して嬉しいです

 

日中 TLで紫式部は醍醐天皇と村上天皇の御代を舞台に源氏物語を書いたのだろうというツイートを拝見しましたが ちょうどこの天徳四年内裏歌合のことがあったのでリアルに納得して 梨壺の五人に万葉集の訓読を頼んだ女房たちの動きと源氏物語作中人物の女房たちが重なって感じられたのでした 感謝です

 

武者震い といった感じ とうとうこれを手に入れました 原稿だけに専念して書き進めるという尊い時間 仙覚さんの小説を書くと宣言して四年 書けない間悩んで試行錯誤の四苦八苦 そこにコロナの自粛で自分に籠って 次第に書けてきました でもまだ本物でないのは自分でわかる でもこれから ここからです

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2020.9.20 ツイッターから転載…日々雑感 華鏡は村上天皇の梨壺の五人の訓点作業に入ります

9月18日

おはようございます 白河天皇の項が万葉集に向けて発進し 今朝打ってみたのですが 新撰万葉集という書名と この歌集のもとになった寛平御時后歌合に紀貫之が参加していたことの意味の大きさに驚いています よろづの言の葉とぞなれりける の仮名序の言葉は 新撰万葉集の万葉集と響き合っています

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】に『新撰万葉集』と『古今和歌集』の紀貫之仮名序の関係を投稿しました さきほどツイートしたのと同じ内容です ちょっと驚きの発見だったので感動が消えないうちにと 十日目←十日続きました!

https://www.facebook.com/sengakusyuzainote

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】 今日で連続十日目でした SNSをしていてつくづく思うのは 記事の魅力は知られているか知られていないかで決まるということ どんなに私が仙覚さんを推してもそれで閲覧が左右されます これに気づいたのは鎌倉の源氏物語と万葉集に関わったから 源氏物語で講座をもつと

 

受講者さんは集まるし 講座中も目をきらきらさせて聴いて下さる 同じ鎌倉の問題なのに万葉集や仙覚さんではダメでした 講座中に眠る方も だから仙覚取材ノートを始めても最初から多くの方の閲覧は望まない でも続けていくといつかしらファンの方がついて下さる 今見たらリーチが10人になった記事も

 

始めての二桁です とても嬉しい ありがとうございました とにかく半年続けることを目安にやっていこうと思います その頃には三桁? なんて多分無理ですが笑

 

RTさせて頂いたボードレールの照応 ふいに何かが甦りました 仙覚さんの万葉集に

 

華鏡 醍醐天皇と古今和歌集の項を終わり これから村上天皇と梨壺の五人の万葉集訓点作業の項に入ります やっと白河天皇の万葉集に近づきました 二条天皇の万葉集にも……かな だといいのだけれど 今日は空が一面レンズ雲ふうなのが多かったです 富士山にかかった巨大レンズ雲のその一連でしょう

 

今日は風が強かった レンズ雲が発生する日はいつもそうだと そんな気がします

 

村上天皇の梨壺の五人の訓点作業に入るから 醍醐天皇と古今和歌集の項の資料を片づけていたら 小川靖彦先生の萬葉学史の研究があって 何気なく開いたページに古点(梨壺の五人の作業)と古今和歌集にとられた万葉歌の違いがあり 終わったばかりのところだから確認のために また少し萬葉学史の研究を拝読

 

古点は平仮名の和歌に移し変えようとするもの 古今和歌集にとられた万葉歌は万葉集の漢字本文を訓読した痕跡 ← これ ご文章に書かれたとおりの順なんですが 知らないで読むと古点があって古今和歌集に と思ってしまいますよね 先日私がやっと気づいたような錯誤になりかねない 醍醐天皇の古今和歌集

 

があって 次に村上天皇の時代の古点なのでした ということで 古今集の時代にはまだ古点がなされてないから本文を訓読した痕跡 その後梨壺の五人により平易な平仮名の和歌に の順です 前にここを読んでいますが こんなに明瞭に理解などできてませんでした

 

9月19日

おはようございます 村上天皇の項は梨壺の五人がテーマかと思ったら 白河天皇は村上天皇の歌合を踏襲しているんですね なので廃棄した歌合の原稿を復活させて進めることに そうしたら今朝突然結びつきました 歌合は女房歌人が主体です 梨壺の五人の訓点作業は宮廷女房の依頼で始められたと石山寺

 

縁起にあるそう そうしたら昨夜の小川靖彦先生「古点は平仮名で読めるようにつけた」が結びつきます ずっと梨壺の五人の作業が古今和歌集より先と思っていたから悩みました でも正しく把握したら明解に 梨壺の五人は女房たちが歌合用に勉強できるよう 読みやすく訓点をつける作業だったのでした

 

白河天皇は醍醐天皇には大井川行幸を 村上天皇からは天徳四年内裏歌合を ならってご自分も行幸と内裏歌合をされてます お二方の天皇が勅撰和歌集を作られた後にされたことを 白河天皇も院宣を下した後に とても意識されてますね

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】に妙本寺様の思い出を投稿しました ここのところ華鏡で頭いっぱいで 投稿もつい梨壺の五人 とか堅苦しい内容になってしまいがち 一旦頭をリセットするために昼寝して起きたらこの写真が目に入り ここが原点だものなあとしみじみして

https://www.facebook.com/sengakusyuzainote

 

十一回目 ちょうど新しいサイクルのはじまりです

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2020.9.19 ツイッターから転載…日々雑感 宇多天皇の新撰万葉集から醍醐天皇の古今和歌へ そして白河天皇の原稿に戻って万葉集へ

9月16日

醍醐天皇の違和感 古今和歌集をつくった醍醐天皇と 菅原道真を左遷した醍醐天皇が結びつかなくて 古今和歌集を調べていて同じ天皇と驚きました で 新撰万葉集を父宇多天皇がつくった時 醍醐天皇は少年 もう十分感性的土壌を受けられる年齢にいました それが古今和歌集撰集に生きたかなと思った

 

のですが 新撰万葉集が菅原道真の撰といわれているなら醍醐天皇は道真を尊敬していなければおかしい なのに成長したら左遷する? というのが私の違和感でした 新撰万葉集に道真がかかわっていないというご論考に接してはたと膝を打った次第です とは昼のツイートの補足

 

宇多天皇が新撰万葉集をつくるために寛平御時后宮歌合を催し その歌合の歌を中心に漢詩をつけてつくったのが新撰万葉集 新撰万葉集が道真の撰かといわれながら疑問視もされていたのを 今日拝読した熊谷氏ご論考ではばっさり否定 華鏡は小説だから私はこの説を頂いて進めます

 

それにしても 宇多天皇は仁和寺ゆかりの方ですよね 古今和歌集より新撰万葉集に深まりたいのは宇多天皇に惹かれているからの気が

 

コロナ禍でなかったら買っていなかっただろう本たち 図書館に行かれないから最近本が増えます 仙覚さんは鎌倉時代の人なのに 華鏡がこんなに古い勅撰集の世界に入っていくとは思わなかった これはコロナ禍の私にとっての思いがけない効用でした 時間があり余るほどにある自粛

 

9月17日

おはようございます 宇多天皇の寛平御時后宮歌合には 紀友則・紀貫之・壬生忠岑が参加していて 相当若いころだったと思いますが その方々が後年古今和歌集の撰者に 歌合の歌の大半が新撰万葉集になったのだから 新撰万葉集と古今和歌集は繋がってます 宇多天皇から醍醐天皇に繋がっている文化

 

タブレットが壊れたと思った時 twitterで見て保存させて頂いていた好きな画像 それは今の自分と違う世界で 十数年鎌倉の源氏物語と万葉集研究に時間も心血も注いで行かれなかった世界 憧れから保存していたのでなく 本来の自分はこっちだという頑固な矜持からなのですが それを家族がバックアップして

 

くれてPCで一覧で見えて そうしたら修道院の写真が多いこと 好きなんだなあ 鎌倉に関わってなかったら行ってたなあとしみじみ twitterのお陰でシルヴィを読んだ時も行ったようなリアルなイメージで読めたし やはり薔薇の名前の修道院には生涯をかけていつか行きたい など思いました

 

家族に twitterのお陰でシルヴィが臨場感持って読めたのよ と言ったら 可哀想に と返されました スズダリにまで行った人だからぐうの音も出ませんが その代わり私には源氏物語だったらどんなにもイメージが膨らむけど 貴方にはできないでしょ! と内心仕返し笑 華鏡が終わってコロナも終わってたら行く

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】に 仙覚さんの生涯の理解者・金沢文庫創設者北条実時との関係を投稿しました 写真は金沢文庫に隣接するこちらもやはり実時創建の称名寺阿字池にかかる反橋 金色の剣菱文様が池に映るとそれはもうほんとうに浄土式庭園の神髄です 九日目https://www.facebook.com/sengakusyuzainote

 

タブレット保存の画像の件でも呟きましたが 鎌倉の源氏物語と万葉集研究に関しては本来の自分でない世界という気持ちがどうしてもあって 関わっているときは本気なのですが それに全霊で浸りたくないという天邪鬼精神が背後にありそれでイメージで気分のバランスをとっています イメージは大事です

 

久々に原稿に戻って白河天皇の辺りを読み返したら なんか とても新しい時代に帰ってきた気分 宇多天皇 醍醐天皇 村上天皇 をこれから白河天皇に繋げます

 

どれくらいの年代順かしらとウィキを見たら 59代宇多天皇 60代醍醐天皇 62代村上天皇……66代一条天皇(紫式部の時代)…… 71代後三条天皇(白河天皇の父帝) 72代白河天皇 ←やはり相当長い歴史がありますね!

 

何気なく系図を見たのですが これは勅撰集の歴史と関わっていました 古今和歌集 後撰和歌集 拾遺和歌集と着実に作られていた勅撰集が花山院の拾遺和歌集で途絶えたのはその後摂関家の台頭で天皇の権威がなくなったから 後三条天皇が天皇家復権をして 白河天皇が四番目の後拾遺和歌集を作ったのでした

 

こうして見ると 白河天皇の後拾遺和歌集という命名 花山院の拾遺和歌集の後を継ぐ の意識が明瞭ですね!

 

久々に白河天皇の原稿に戻り 読み返そうと大井川行幸まで書いていたのを印字したら この半月の間に親指が腱鞘炎になって ホチキス止めができなくなっていました 料理では毎日不自由してたけど 原稿で不自由を感じたのは初めてで新鮮笑

 

そうっか 今日は新月 新しいことを始める日 そうした日にたまたま白河天皇に戻って 巡りがいい!

 

原稿を見直し 宇多天皇と新撰万葉集の項から菅原道真を削除 すっきりしました これで違和感なく進めます

 

それにしても 新撰万葉集は全くの新撰なのだから ここでいう万葉集は万の言の葉の意味で いわゆる伝わっている万葉集のことではない 新撰万葉集上巻にそのいわゆる万葉集についてなにか書かれてたけど そこを詰めなくては

 

ここ半月の迷走は 歌合への執着から離れるためだった? なんて…… 栄花物語にあった寛子さんの歌合とか 歌合 魅力的すぎましたものね

 

白河天皇の内裏歌合を書きたくて宇多天皇の歌合にこだわり 道真までいって迷走しましたが 道真を切って新撰万葉集から万葉集そのものに行ったら 白河天皇の万葉集への道筋が見えてきました 歌合も削除になりそうな泣

 

突然 万葉集がいつできたかの考察に入ってしまいました 新撰万葉集があるということは 宇多天皇の時代にはもう万葉集はあった ではいつできたのかを考えると 古今和歌集序に平城天皇の時代と 仮名序「これよりさきの歌を集めてなむ万葉集と名づけられたりける」 で 平城天皇を系図で見たら桓武天皇皇子

 

宇多天皇が59代で 平城天皇は51代だから とにかく 宇多天皇の時代に万葉集というタイトルの歌集は成立していたんですね そして宇多天皇皇子の醍醐天皇がつくった古今和歌集には万葉集の歌が入っていて だからこの時代にはもう万葉集の万葉仮名は読み解かれていた……

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2020.9.19 ツイッターから転載…日々雑感 宇多天皇の新撰万葉集から醍醐天皇の古今和歌へ そして白河天皇の原稿に戻って万葉集へ

9月16日

醍醐天皇の違和感 古今和歌集をつくった醍醐天皇と 菅原道真を左遷した醍醐天皇が結びつかなくて 古今和歌集を調べていて同じ天皇と驚きました で 新撰万葉集を父宇多天皇がつくった時 醍醐天皇は少年 もう十分感性的土壌を受けられる年齢にいました それが古今和歌集撰集に生きたかなと思った

 

のですが 新撰万葉集が菅原道真の撰といわれているなら醍醐天皇は道真を尊敬していなければおかしい なのに成長したら左遷する? というのが私の違和感でした 新撰万葉集に道真がかかわっていないというご論考に接してはたと膝を打った次第です とは昼のツイートの補足

 

宇多天皇が新撰万葉集をつくるために寛平御時后宮歌合を催し その歌合の歌を中心に漢詩をつけてつくったのが新撰万葉集 新撰万葉集が道真の撰かといわれながら疑問視もされていたのを 今日拝読した熊谷氏ご論考ではばっさり否定 華鏡は小説だから私はこの説を頂いて進めます

 

それにしても 宇多天皇は仁和寺ゆかりの方ですよね 古今和歌集より新撰万葉集に深まりたいのは宇多天皇に惹かれているからの気が

 

コロナ禍でなかったら買っていなかっただろう本たち 図書館に行かれないから最近本が増えます 仙覚さんは鎌倉時代の人なのに 華鏡がこんなに古い勅撰集の世界に入っていくとは思わなかった これはコロナ禍の私にとっての思いがけない効用でした 時間があり余るほどにある自粛

 

9月17日

おはようございます 宇多天皇の寛平御時后宮歌合には 紀友則・紀貫之・壬生忠岑が参加していて 相当若いころだったと思いますが その方々が後年古今和歌集の撰者に 歌合の歌の大半が新撰万葉集になったのだから 新撰万葉集と古今和歌集は繋がってます 宇多天皇から醍醐天皇に繋がっている文化

 

タブレットが壊れたと思った時 twitterで見て保存させて頂いていた好きな画像 それは今の自分と違う世界で 十数年鎌倉の源氏物語と万葉集研究に時間も心血も注いで行かれなかった世界 憧れから保存していたのでなく 本来の自分はこっちだという頑固な矜持からなのですが それを家族がバックアップして

 

くれてPCで一覧で見えて そうしたら修道院の写真が多いこと 好きなんだなあ 鎌倉に関わってなかったら行ってたなあとしみじみ twitterのお陰でシルヴィを読んだ時も行ったようなリアルなイメージで読めたし やはり薔薇の名前の修道院には生涯をかけていつか行きたい など思いました

 

家族に twitterのお陰でシルヴィが臨場感持って読めたのよ と言ったら 可哀想に と返されました スズダリにまで行った人だからぐうの音も出ませんが その代わり私には源氏物語だったらどんなにもイメージが膨らむけど 貴方にはできないでしょ! と内心仕返し笑 華鏡が終わってコロナも終わってたら行く

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】に 仙覚さんの生涯の理解者・金沢文庫創設者北条実時との関係を投稿しました 写真は金沢文庫に隣接するこちらもやはり実時創建の称名寺阿字池にかかる反橋 金色の剣菱文様が池に映るとそれはもうほんとうに浄土式庭園の神髄です 九日目https://www.facebook.com/sengakusyuzainote

 

タブレット保存の画像の件でも呟きましたが 鎌倉の源氏物語と万葉集研究に関しては本来の自分でない世界という気持ちがどうしてもあって 関わっているときは本気なのですが それに全霊で浸りたくないという天邪鬼精神が背後にありそれでイメージで気分のバランスをとっています イメージは大事です

 

久々に原稿に戻って白河天皇の辺りを読み返したら なんか とても新しい時代に帰ってきた気分 宇多天皇 醍醐天皇 村上天皇 をこれから白河天皇に繋げます

 

どれくらいの年代順かしらとウィキを見たら 59代宇多天皇 60代醍醐天皇 62代村上天皇……66代一条天皇(紫式部の時代)…… 71代後三条天皇(白河天皇の父帝) 72代白河天皇 ←やはり相当長い歴史がありますね!

 

何気なく系図を見たのですが これは勅撰集の歴史と関わっていました 古今和歌集 後撰和歌集 拾遺和歌集と着実に作られていた勅撰集が花山院の拾遺和歌集で途絶えたのはその後摂関家の台頭で天皇の権威がなくなったから 後三条天皇が天皇家復権をして 白河天皇が四番目の後拾遺和歌集を作ったのでした

 

こうして見ると 白河天皇の後拾遺和歌集という命名 花山院の拾遺和歌集の後を継ぐ の意識が明瞭ですね!

 

久々に白河天皇の原稿に戻り 読み返そうと大井川行幸まで書いていたのを印字したら この半月の間に親指が腱鞘炎になって ホチキス止めができなくなっていました 料理では毎日不自由してたけど 原稿で不自由を感じたのは初めてで新鮮笑

 

そうっか 今日は新月 新しいことを始める日 そうした日にたまたま白河天皇に戻って 巡りがいい!

 

原稿を見直し 宇多天皇と新撰万葉集の項から菅原道真を削除 すっきりしました これで違和感なく進めます

 

それにしても 新撰万葉集は全くの新撰なのだから ここでいう万葉集は万の言の葉の意味で いわゆる伝わっている万葉集のことではない 新撰万葉集上巻にそのいわゆる万葉集についてなにか書かれてたけど そこを詰めなくては

 

ここ半月の迷走は 歌合への執着から離れるためだった? なんて…… 栄花物語にあった寛子さんの歌合とか 歌合 魅力的すぎましたものね

 

白河天皇の内裏歌合を書きたくて宇多天皇の歌合にこだわり 道真までいって迷走しましたが 道真を切って新撰万葉集から万葉集そのものに行ったら 白河天皇の万葉集への道筋が見えてきました 歌合も削除になりそうな泣

 

突然 万葉集がいつできたかの考察に入ってしまいました 新撰万葉集があるということは 宇多天皇の時代にはもう万葉集はあった ではいつできたのかを考えると 古今和歌集序に平城天皇の時代と 仮名序「これよりさきの歌を集めてなむ万葉集と名づけられたりける」 で 平城天皇を系図で見たら桓武天皇皇子

 

宇多天皇が59代で 平城天皇は51代だから とにかく 宇多天皇の時代に万葉集というタイトルの歌集は成立していたんですね そして宇多天皇皇子の醍醐天皇がつくった古今和歌集には万葉集の歌が入っていて だからこの時代にはもう万葉集の万葉仮名は読み解かれていた……

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2020.9.17 ツイッターから転載…日々雑感 新撰万葉集について & タブレットが壊れたりPCのキーボードが壊れたり

9月14日

おはようございますと言いたいところだけれど もう午後になってしまいました 久しぶりに玉川上水を通ったら葛の花が咲いていました 今季初 すっかり気持ちが華鏡のなかに入り花にカメラを向けることもなくなっています なのでこれは過去写真 またゆっくり花を撮りに行きたいなあと思うこの頃です

 

西洋ニンジンボクの花が咲き始めました 昨夜万葉集の訓点についてのご論考を拝読していたら 万葉集の歌は歌謡で伝承されたのが多いから 万葉仮名に訓点を施した梨壺の五人は 無から万葉集仮名の解読に入ったわけでなく 歌謡で耳慣れた歌を万葉仮名に嵌めていったらしいと なるほどと思いました

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】に梨壺の五人についての記事を投稿しました はじめてリアルタイム事件の投稿です笑 でも これ 仙覚さんの小説では原点だから 六日目

https://www.facebook.com/sengakusyuzainote

 

ポストに とても丁寧な宛名書きのゆうメールが届いていました 一瞬 なんか 心が震えて なんだろうこの感動 と 深夜に開けて浸らせて頂きます

 

ふっと呟きたくなって あんなものが詰まっていたなら進まないわけだよなあ と 梨壺の五人のこと 少し前大井川行幸を書いて 次に内裏歌合を書いて そして白河天皇の和歌にかける思いを書いて古今和歌集に繋げようと思っていたのにどうしても進まなかった 梨壺の五人が蓋をしてたんですね と総括

 

あまりに書けないので迷って ある時見直して 醍醐天皇の古今和歌集を書いて そうしたら村上天皇の後撰和歌集に繋がって そうしたら梨壺の五人問題が浮かび上がったのでした ここで万葉集の訓点を書いておけば 仙覚さんに繋がります

 

コンセントに差したときまで何もなかったのに 昼寝から起きてコードを抜いてスイッチを入れたら真っ黒のまま iPADが壊れました 朝起きがけに傍らにあるからTLを見て PCに向かうのは日中だけ ということでTLを見る機会が減りそう 困ったなというより真っ先に浮かんだのはこれは第二の自粛かもと

 

コロナの自粛で時間ができて華鏡の原稿に深まりました 今度はタブレットの自粛でさらに時間が濃密になり深まるでしょう たまたま立憲さんの新たな結党も見届けたし 嫌な政府は見なくて済むし 当分新しいタブレットは買わずに不自由を転機にしようと思います 写真は@蘆山寺様

 

なんかとても切ない気がするのは社会も自分も心機一転の段階に入ったから? など思いつつスマホでTLを見ていました 今年初の新米を炊いていろいろほんと心機一転 でも図書館に行かれないから調べものが深まらない 新撰万葉集などいうものが浮上してネット検索では不満 でもコロナの現状は警戒大と

 

珈琲を入れて 万葉集の歴史と訓点 というネット記事を拝読して 寝ます

 

9月15日

おはようございます メモとして 醍醐天皇の古今和歌集の時代に万葉集は読めていたが訓点はなされてなかった 次の村上天皇の時代になって梨壺の五人により訓点が付けられたのは 読み下しを容易にするためで 読めなかったからではない(万葉集の歴史と訓点より)

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】に『万葉集』の題詞の高低について投稿しました 仙覚さんの万葉集研究の根幹です これを把握するのにもの凄い労力を要しました といっても田中大士先生の何本にもわたるご論考を必死に拝読しただけのことですが要約できるまでになりました 七日目

https://www.facebook.com/sengakusyuzainote

 

Kindleで後撰和歌集を買いました iPADが壊れたので久しぶりにKindlefireを出しました 隣の緑の後拾遺和歌集は前に買ったもの 下にまだこれから購入できる和歌集が並んでいます ただこのシリーズが物足りないのは 解説がついていません

 

9月16日

おはようございます 東大寺様のツイート「東日本大震災物故者慰霊と被災地復興への祈り」をRTさせて頂きました 2011年の震災の年に始められて毎年続けられています 奈良と鎌倉 交互に会場をなさっているようですが2011年は鎌倉鶴岡八幡宮の舞殿でした 今年はリモートなのですね 2011年の写真です

 

驚き! ネットでみつけた熊谷直春氏「新撰万葉集の成立(上)」を拝読しているのですが 新撰万葉集は菅原道真の撰ではないとはっきり書いてられる 新撰万葉集について今まで道真撰といわれているとかいろいろ読んでもここまではっきり否定してられるのは初めて それでなぜこうまで私が新撰万葉集

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】に梨壺の五人の『万葉集』訓点作業が、万葉仮名表記の『万葉集』が読めるようにするのでなく それより前に成立していた『古今和歌集』の時代にはすでに読めていたのだから 読みやすくするためだった ということを投稿しました 八日目

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なんで も〜 という感じなのですが 夕方からPCの調子が悪いと思ったら どうやらキーボードが壊れたみたい でも 醍醐天皇のあたりにメドが立ったから落ち着いていて しばらく壊れたままでもいいかな など放置してたら 家族がペンタブレットで使えるかもと 今 繋いでくれています 私は書けさえすればいい

 

といってるうちにペンタブから操作してキーボードが直りました これはPCから さっきはタブレットから 壊れたはずのタブレットですが 時々使えます でも一日壊れた覚悟で使わないでいたら資料に集中できました なので これからもタブレットは離しておきます とにかく機械はいろいろありますね

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2020.9.14 ツイッターから転載…日々雑感 醍醐天皇の古今和歌集から村上天皇の後撰和歌集に

9月13日

おはようございます み山には霰降るらし外山なるまさきの葛色づきにけり 古今集を見てたら あら こんなところに と好きな歌をみつけました 古今集だったんですね という思い 意外にも採り物の歌なのでした やっと古今集にたどりつきました これから白河天皇の心のなかに入っていきます

 

採り物の歌という項があって 鶴岡八幡宮の人長の舞を見たことなど甦って見ていったのでした 最初の歌が素敵で 神垣の御室の山の榊葉は神の御前にしげりあひにけり べつに採り物の歌を見る気でひらいたわけでないのにいきなりこの項目 神々しい朝となりました 醍醐天皇の古今集の項を書いています

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】『華鏡』というタイトルの「鏡」についての思いを投稿しました 『大鏡』はもっと古い成立と思っていたのに白河天皇が即位されたころの作だったなんて 『華鏡』を書いていると知らなかったいろいろなことが深められて楽しいと 五日目

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今日はネットが調子悪くしょっちゅう中断 こういう日ってあるなあと諦めてTLを見たら素敵な生活綺麗な画像に心癒されました 書く人は 私だけかもしれないけど山姥のようになってこそ本物 という感覚が昔からあるのですが 最近は体力がそこまでなく さらにTLに流れる綺麗な生活に憧れたりして一層

 

コロナはほんとうに見えないものを見せてくれたと思う 社会もそうだけど 私個人にとってもそうでした まだどこかで繋がっていると信じていたこともそうではなかったり TLで裏切られたのではなく見えなかったことが見えただけ の言葉は大きいです FBページを始めたから余計見えるものがあって

 

夕方になってやっとPCの調子がよくなりました

 

心で繋がっていればどんなに離れても信頼関係が失われることはないと思うのですが 支配とか利害が根底にあった関係は一目瞭然ですね 華鏡は文学の核の繋がりだから裏切りはない だから小説ではないと批判されそう とこう呟いて そうっか文学の核の繋がりか~ とこれもコロナで見えたひとつかも

 

今まで仙覚さんが古点と名付けた万葉集の梨壺の五人がつけた訓点 万葉集の側からばかり読んでいたので 村上天皇がわざわざ五人に万葉集の訓点をさせたと思っていたのに 第二の勅撰集である後撰和歌集の撰進の為の一端だったなんて 梨壺の五人で検索したら後撰和歌集と出て万葉集が出ずびっくりしました

 

華鏡を書いていてよかった とつくづく思う 今まで源氏物語だけ 万葉集だけ で精一杯でした なのに小説となったら時代背景も人物像も肉付けしなければならないから いろいろ見て そうしたら思い違いや新発見が次々 こんなに驚きの連続になるとは思いませんでした

 

どうしてこんなことになったか ずっと考えていたのですが たぶん 私の万葉集の研究書の読み方が全部仙覚さんに関わるものだったから という結論に 万葉集そのものの訓点についてなど そういう読み方をしてこなかったから

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2020.9.13 ツイッターから転載…日々雑感 醍醐天皇と古今和歌集 他

9月11日

書きかけだった原稿の歌合の項 久しぶりに戻っても気持ちが入らず昼から苦戦していたのですが 夜に入って見直して これは根本的に間違っていた と気づき唖然 意気揚々と書いた原稿って危ないですね あのまま進めてたら今気づいたことが全然活かされずになってました 原稿が内側から引き止めていたよう

 

歌合の歴史として 村上天皇の天徳内裏歌合→寛子さんの歌合→白河天皇の内裏歌合 と進めていたのでした でも 村上天皇を出したら歌合だけで終えてはいけない! 華鏡は仙覚さんの万葉集がテーマの小説でした 村上天皇を出したら梨壺の五人を書かなければ ということで歌合の項の最初から見直しに

 

やはり 夜にならないと気持ちが入らない 日中は理論的になら進めるけど深くは書けない を痛感 あとは体力との勝負 徹夜は翌日の日中が辛くて避けてました

 

ということは 大井川行幸の項で醍醐天皇に触れたときに 古今和歌集についても書いておくべきだったんだ〜と 醍醐天皇の大井川行幸は古今和歌集の成立後 村上天皇の天徳内裏歌合は二番目の勅撰集である後撰和歌集の成立後 白河天皇もそれにならって勅撰集の院宣を出した後に大井川行幸と歌合 という流れ

 

やっと目が覚めるように書く視界が晴れました 遅筆だからなんとか早く進めようと意識の上では頑張っているのですが こういう根本のところの流れが見えてないと 見えるまで書けない やっと書けます

 

9月12日

おはようございます といってももう昼過ぎ 週末の朝は家族相手で忙しいです泣 深夜呟いた原稿の見直し 醍醐天皇の古今和歌集からと考えていたらそれを一段ごとに分けて書くと思いつき これではすっかり本当に「鏡」だなあと 寛子さんの歌合は白河天皇の現在だから能信と通俊の会話でいきます

 

「鏡」の部分の話者は玄覚さん 玄覚さんの独白バージョンで始めているから時々玄覚さん的思考が顔をのぞかせます これでは論文になってしまうという危惧が兆す国文学的記述になったら玄覚さんの登場 と思えばいいのでしょう

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】に白河天皇親政期についての記事を投稿しました 仙覚取材ノートは仙覚さんの小説のための記録用ですが ここのところ白河天皇から離れられなくて それでなぜこんなに白河天皇が重要かをわかっていただきたく解説を 投稿四日目

https://www.facebook.com/sengakusyuzainote

 

「白河天皇は『万葉集』にも足跡を残していて、それが二条天皇の『万葉集』に関係していきます」 という文章で最後を締めました。原稿でもほんとうに早くそこに行きたい!

 

母の郷里から新米が届いて えっ? 早くない~ とカレンダーを見たら九月 そういえば毎年そうだったかも と思いながら九月になったことも意識に定かでない生活をしてるなあと 特に今年は

 

醍醐天皇って菅原道眞を大宰府に左遷した方だったんですね つまり 古今和歌集は左遷された道眞が大宰府にいる間に作られたということ 古今和歌集も道眞もそれぞれ別々に知ってはいたけど こんなに同時代だなんて と驚いています 古今和歌集の孤高さとちょっと収集つかない

 

菅原道真は醍醐天皇の父宇多天皇の近臣で 醍醐天皇はほぼ生まれた時から少年時代をかけて道真の教養深い人間下で成長 つまり 醍醐天皇の古今和歌集院宣の下には道真のような人間に接して育った教養があったということ 道真が宮廷にいなかったら 古今和歌集は生まれなかったかもしれない って言い過ぎ?

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2020.9.12 ツイッターから転載…日々雑感 FBのFacebookページ【仙覚取材ノート】の更新を再開しました

9月11日

おはようございます 歌合は宇多天皇の御代にはじまり醍醐天皇村上天皇に継がれますが その後摂関家の隆盛で摂関家が催します 寛子さんの歌合もそうで 寛子さんは頼通娘だからそれは華麗 栄花物語でその詳細がえんえんと描かれています 歌の競い合いより装束の華麗さの競い合いで唖然とします

 

単に女房たちが居座って華麗な競演というのでなく 女房たちも歌人同様に左方右方と分かれて それぞれが春の色に秋の色にと決められて装束を整え それはそれは大変そう 写真は以前吉海直人先生が装束の井筒様といらして東京丸の内でご講演されたときに撮らせていただきました

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】に白河天皇の大井川行幸についての記事を投稿しました Twitterではその日の閃きや考えたことなど思考経過を呟いています それを原稿にまとめたりすると理解が深まって毅然とした思考に それをコラム的にノートに載せていこうかと

https://www.facebook.com/sengakusyuzainote

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】 個人のTLを再開するつもりはないけどノートを更新することにしたら 以前鎌倉禅研究会の広報用にFacebookに登録し 専用のノートを作って更新を毎日していたことが甦って懐かしい 研究会のは半年でいいねを200位頂いたけど 取材ノートは個人だからどこまでいくでしょう

 

Facebookは一旦止めて二度とするつもりなかったのに 禅研究会のために登録したのなら自分用にも活用しようと思い 仙覚取材ノートのページを作ったのでした もう鎌倉を離れたし 何回も管理人の権利をお渡しして止めようと考えたけど 残っていたからその再活用 でも心機一転になる感じで残しててよかった

 

書く内容は決まっているのに また栄花物語で離れていたから原稿に戻っても気持ちが入っていかない ひとしきり頑張って思考をうろうろさせたけど 家族にお茶を誘われたり終始して 諦めて寝て起きたのが今 起きがけに 能信と会話させればいいんだ! との啓示 通俊とです

 

朝投稿したFacebookページ【仙覚取材ノート】の大井川行幸の記事 リーチした人数とエンゲージメント数が7と1に 以前始めた禅研究会のときのことを思い出すのだけれど 最初はほんとうに知られてないから1とか2とか一桁 毎日続けて三か月四か月になるころには二桁も後半に と最初の一滴が嬉しいです

 

Facebookページ【仙覚取材ノート】は仙覚さんの小説を書くにあたり調査の記録用にと始めたのですが放置していました ここのところ気持ちに余裕がでて復活する気持ちに 投稿三日目ですが始めてみて調査の記録というより書いていて得た私なりの新発見をご紹介していこうかと

https://www.facebook.com/sengakusyuzainote

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2020.9.11 ツイッターから転載…日々雑感 引き続き栄花物語のこと & Facebookページ【仙覚取材ノート】の更新を再開

9月10日

おはようございます 昨夕拡大コピーした栄花物語を読んでいます すっかり気持ちが落ち着きました 一段階のぼった感じ それでFBにも記事を書く余裕が 栄花物語のお蔭です ずっとここに浸っていたい できたら自分の翻訳で小説化したい など考えています 仙覚さんの小説をほっぽり出して なんて

 

昨日FBの仙覚取材ノートに【華鏡】を書いている報告を投稿したのですが そうしたら仙覚さんの小説がいつそんな「鏡」なったのかを経過報告する義務があると気づき久しぶりにエーコを出しました それまではただの時代小説を書く見地だったので私にとっては歴史的変換 それを書いて残しておかなければと

 

和田忠彦氏『100分de名著 薔薇の名前』より 「文学は、ただ人びとを楽しませたり慰めたりするためのものではない。より深くテクストを理解するために繰り返し同じテクストを読むようにと、人びとを挑発したり誘ったりすることも目指すもの」

 

『100分de名著 薔薇の名前』は昨年9月の放映でした もうすっかり和田忠彦先生のご解説に魅了されて楽しかった! この余韻があったから今年になってのお正月 仙覚さんの小説にとりかかろうと思った時 エーコの和田忠彦先生訳『小説の森散策』を開いて読みふけり シルヴィの分析に出逢ったのでした

 

FBの「仙覚取材ノート」ページに記事を追加しました シルヴィの三人の話者について書きました エーコのその分析が仙覚さん小説の助けになったことを

 

栄花物語 岩波文庫の原文と与謝野晶子訳を並べて読んでいるのですが 与謝野訳は時代背景も人間心理も丁寧に描き込まれていて 先に与謝野訳を読んでいたから原文では ? あれはどこに書いてあったかしら と探すと 無い 後三条天皇の皇太弟への能信の働きかけが与謝野訳では会話なのに 原文では書かずと

 

与謝野晶子訳を先に読んでいてよかったけど 原文だけ先に読んでいたらほぼわからないです! 当時の人はリアルにのの時代の中に生きていたから 文章で主語がなくても 別の主役が同じ文章で繋がっていても 何の問題もなくわかったのでしょうね たぶん これも 私たちが週刊誌で読んでいるのと同じに

 

 

岩波文庫栄花物語根合巻より「左には源大納言の頭中将、右には……、源中将は人にかへさるべくもあらず、歌のよさあしさを定め、いよ美しうぞ物し給ひし……、上達部・殿上人ほめ申し給ふ」与謝野晶子訳でここは「左は師房の子息の顕房頭中将で、右は……、見物の高官たちは顕房の弁論にみな感心して

 

いた」 岩波文庫栄花物語を入手した時は似ていると思ったのに 実際に比べるとこうも晶子さんは意訳して下さってるんですね。顕房! 例の大鏡の作者かと言われている人物 その理由に栄花物語のこういう記述があると読んだばかり しかも大鏡の作者論でこの方が白河天皇妃賢子さんの実父と知ったばかり

 

 

なぜ栄花物語根合巻を読んでいるかというと 伊勢大輔が参加した寛子さんの歌合が書かれているから 白河天皇は4歳だから記憶に無いかもしれないけど 通俊は10歳 祖母がどれほどこの歌合に参加して譽れだったか 装束を揃えるのに家中大騒ぎだったかなど覚えているでしょう そんな話を天皇としたのでは?

 

この歌合の印象が白河天皇主催の内裏歌合に影響しているのではないかと見ています ちなみに寛子さんは頼通の娘で 後冷泉天皇の皇后 この歌合の翌年に賢子さんが生まれているから 顕房はまだ若い 頭中将ですものね

 

気がついたのだけれど 仙覚さんの小説を始めた動機は偉大な業績を残したにもかかわらず未だに誰かが不明 ということへの義憤で テーマは仙覚さんは誰か だった なのに今 白河天皇親政期にずっと拘泥しているあいだに気分が変わって 仙覚さんの万葉集に 万葉集がテーマだからこれでいいかな

 

Facebookページの仙覚取材ノート 放置していたのに再開したら新たな地平で続けてみたくなった 原稿に専念しなければいけないのにまた手を広げる? とも思うけど 前に禅研究会のページを作ったとき 普及のために半年頑張ってこつこつとフォロワーさんを増やした 新しい地平でそうやってみようかと

 

気分が変わって もう以前の私ではないところで書いている気がするから(栄花物語のお蔭?) でもこの境地 去年からみると夢のよう 嘘みたいです

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2020.9.10 ツイッターから転載…日々雑感 京都の梅小路公園から『源氏物語と鎌倉』の思い出など

9月8日

TLを見ると葛の花が咲いているらしい 当地に来て玉川上水に葛の花を見たとき 葛の花踏みしだかれての歌が好きだから感動しました それから毎年この季節を楽しみにしているのですが 今年はまだ見ていない 籠って生活しているうちに出不精になりました 例年の猛暑で花も艶やかでなくなってるし

 

白河天皇親政期に完成した文化 法勝寺 大鏡 栄花物語 後拾遺和歌集 そして題詞の低い万葉集←これを書くために白河天皇親政期について頑張っているのですが 次から次にあまりに大きな遺産が登場してまだ辿り着けません まだこれから当分の見込み あ〜あ です泣

 

岩波文庫の栄花物語下巻が届いていました 今日届く予定だったから何度かポストを見に行ったのになくて 諦めていたら夕方になって 開くのは深夜になってしまいました

 

RTさせて頂いた京都の梅小路公園 たしか平家の邸宅があったところですよね (西八条第 うろ覚えで済みません) 若い定家や光行さんたちが 歌の仲間の平家の公達を訪ねて足を踏み入れたところと思うと 歩いていて感動します

 

私は史跡を訪ねても当の史跡どころか案内板にも辿り着けないことがあって 梅小路公園でもどこかに説明板があるだろうけど とうろうろしたのですが見当たらず諦めて帰りました その後ネットを見たら あるじゃない! と笑 史跡は空気を吸って気配を感じてそれでいいと思ってます

 

家族はみんなきっちり事前に調べていくほうだから 私のこんな史跡探訪のうろうろを言ったら唖然とされるかうるさく忠告されるから 誰にも言ってません わかっていてしないのが私の性質で こういう余白というかムダが執筆にはいいんですけど それは説明しても伝わらない

 

夜の玉簾 これからたくさん咲いてくれるようです

 

月に虹彩ができて 右上にたぶん火星

 

9月9日

おはようございます 昨夜TLで梅小路公園の写真を見て懐かしく思い出しました 『源氏物語と鎌倉』執筆のための調査というか確認に行ったのでした まだ公園としての整備が始まったばかりで施設は何もできてませんでしたが綺麗でした 2006年です 写真の左上奥に京都タワーが見えています

 

地図は鎌倉ではじめて講演させて頂いた鎌倉投信邸でのパワポのスライド なにしろ鎌倉にも源氏物語受容の文化があったことを鎌倉ではじめて発信する講演ですから力が入っています笑 予行演習でご覧になって下さった鎌田社長様が 全部繋がっているんですね と 忘れられない言葉です

 

繋がっているというのは 紫式部の源氏物語が白河天皇に受容され清盛が平家の王朝文化に昇華しそれを享受した定家や光行さんが青表紙本と河内本の写本を作りそれで鎌倉にも という流れのこと 鎌田社長様は講演当日出張で新幹線から 存分にお話下さい とスマホにわざわざお電話くださったのでした

 

鎌倉の源氏物語の受容が鎌倉で一応認知され普及して 今は鎌倉の万葉集をしているのですが ここでまた白河天皇が重要な位置を占めてきて いったいこの方ってなんだろう! と底知れない方だなあと感動している最中です 鎌倉の源氏物語のときはただ源氏物語を受容した方という通過点だったのに

 

FBに【仙覚取材ノート】というページを持っています 仙覚さんの小説を始めたときに取材の経過を残しておこうと作ったのでした でも色々波乱があって気持ちがFBから離れ お年賀状をアップしての年頭のご挨拶のまま放置 なのに新しくいいねと下さった方がいらして それで目下のご報告を書きました

 

いいことを思いつきました 拡大コピー これだと書き込みも躊躇なくできる 岩波文庫栄花物語は復刊で版が古いからか小さな注の数字がさらに掠れていたりして 私にはこの注こそがこの皇后宮って誰? の解だから重要 で コピーしました 根合巻 白河天皇がお生まれに 寛子さんの歌合も詳細に

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2020.9.8 ツイッターから転載…日々雑感 なんと、大鏡の作者は白河天皇中宮賢子さん実父顕房のようです

9月7日

岩波文庫の栄花物語が届いたら原文と照合して先に進みたいので小休止 で 頂いたままになっていた大鏡を 栄花物語も大鏡も道長が主役とばかり思っていたからもっと早くの成立かと思っていたら白河天皇期 しかも栄花物語が先 教科書で習って箇条書き風に覚えていたことの如何に曖昧かを痛感してます

 

栄花物語続編最後の三巻は白河天皇期 布引の滝巻より「三月三十日に宮中で歌合せのお催しがあった。例の左右の競争は作そのものにも形に現れた席上の品にも多く見られた。陛下はまた和歌集をそれぞれの人に命じてお選ばせになる御計画を遊ばされた。大井川行幸歌合というおもしろいことも遊ばされた」

 

目下華鏡で書いている白河天皇の 勅撰和歌集院宣と 大井川行幸と 内裏歌合 についての記述です たったこれだけ 栄花物語は執筆者が女房で主に後宮の女たちの動向が主眼だから 女たちに歌合や勅撰集はこんなにも無関係だったんですね! と唖然 男たちが命懸けで優劣を競っているというのに

 

特に白河天皇期は歌に関しては女房歌人を立てていないです 摂関家主宰だったそれ以前の歌合が中宮や女房歌人が主体で 室礼にも出衣を飾るなど華やかな演出がされたのに

 

保坂弘司氏『大鏡新考』総論から作者についてのご論考を拝読していました ものごとって両面から見るものですね と感慨 今まで栄花物語だけで白河天皇期を見ていたのが 大鏡の側からの知識を得たことで立体的になり ああ そうだったのか~と 大鏡の作者は確定していないそうだけどほぼ顕房らしい

 

顕房は栄花物語でもよく出るから名前は目にしてたけど え 大鏡がそんなに新しいの? とまず驚き さらに顕房が白河天皇中宮賢子さんの実父となって えっ! となりました その顕房が大鏡作者としていかに整合性つくかのご論考が この時代の今まで繋がらなかった背景の理解になり楽しかった 顕房

 

は道長妻の明子さんの系統だけど道長の側に組み込まれて育ち それで視野が藤原氏と源氏の両方に 上東門院彰子さんの崩御で道長の栄華の終わりを感じ 一門の栄華を残すために大鏡の執筆に入ったと だから成立はその頃 つまり白河天皇が即位されたあたりです 賢子さんの実父が大鏡の作者だなんて!

 

9月8日

おはようございます 気持ちが古今和歌集に戻りました 大鏡作者成立論を読んでよかったと思います 栄花物語の成立とも兼ね合って 作者を顕房として顕房は歴史を語るには事実を羅列するのでなくそこに虚構が必要と認識していたと 三島由紀夫の小説論まで出して書かれていました 源氏物語の蛍巻の物語論も

 

華鏡を書いていて 最初は仙覚さんの生涯を論文でなく小説で という挑戦だったのですが それだと苦しい 試行錯誤の結果鏡の形式にたどりつきました でも歴史の流れのなかの本質を書くには事実の羅列ではできない 虚構が必要になってきます それでつい先日 小説華鏡 とタイトルを変えました 顕房の大鏡は

 

とても人間的だなあと共感したのでした たまたま周囲がざわついていらいらし 自分に集中したいためだけに栄花物語を必死に読んで大鏡にまで行ったのですが 本質をつかんだ気がして古今和歌集に戻ってきました 大鏡に感謝! です

 

それにしても白河天皇親政期の文化への貢献の凄さ 今まで白河天皇といえば院政と待賢門院璋子さんの印象しかなかったのですが 親政期の純粋な真摯さに感じ入っています 賢子さんを亡くし院政に入って人格が変わられたようです

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2020.9.7 ツイッターから転載…日々雑感 金沢文庫旧館の思い出に寄せて & 栄花物語続編の最後の三巻が白河天皇期だったことなど

9月6日

なんと! 書棚にもう一冊陽明文庫の本があるのをみつけて開いたら 今まで見ていた陽明文庫王朝和歌集影と内容が全く同じ 国文学資料館の展示図録で 陽明文庫和歌集影はその翌年に単行本として出されたもの 書店でみつけて持っているだけで嬉しいと買ったのでした まさか同じ内容の図録を持ってたなんて

 

昨日金沢文庫さんのツイートで拝見した写真の金沢文庫の旧館 その旧館があったのは称名寺境内にある池に面した広い平場でした 一枚目写真の桜の木の奥です 今は更地になって池を見下ろすベンチが置いてあったりして二枚目はそのベンチから 実時の邸跡地なので実時目線で池を見るとこうかな? と

 

1990年に隧道をくぐった尾根の向こう側に現在の金沢文庫である新館ができ 創建○○周年記念で特別所蔵名品展が開かれました そこで出会ったのが実時奥書のある『尾州家河内本源氏物語』 今年は2020年だからそれから30年 また創建何十周年とかの年なんですね 写真は2003年の撮影

 

以前金沢文庫の内覧会でお会いして実時の奥書がある『尾州家河内本源氏物語』の話をさせて頂いたら その方は文化財の重鎮でいられる方だから価値を即座にわかって下さって 玄関ホールに実時の国宝肖像画と『尾州家河内本源氏物語』(複製可)を向かい合わせに飾ったらいいとアドバイスして頂きました

 

近々創建の記念年だからその時には! と思いそれとなくお会いする方々に伝えても反応はゼロ 来年の記念年にはもう間に合わないと悔しく思っていた去年 その矢先のコロナ禍でした 今それが実現しても多くの方に訪ねて頂く場合でないからまた五年後くらいの実現を目指してそれまでに華鏡を仕上げます

 

華鏡には仙覚さんとの交流で『尾州家河内本源氏物語』にかかわる実時と河内本源氏物語の親行さんのドラマも入るから そうしたら目下無視されている実時の源氏物語への貢献も理解して頂けるでしょうね その重大さも

 

なんか 栄花物語の原文にあたりたくなって文庫で検索したら岩波で三条西家本が上中下巻であって 私が必用としているのは最後だから下巻を注文したら ギフト券とかが勝手に使用されて0円 えっ? と一瞬目を疑いました ギフト券 残りまだあるのかしら笑

 

栄花物語続編 最後の三巻はそれまでの巻々と筆者が別で 筆者としての有力候補も今のところまだいないよう 後三条天皇から始まり白河天皇の譲位で堀河天皇の即位まで 白河天皇の母茂子さんの没後 基子という方が後三条天皇の寵愛を受けて皇子を二人産む それが白河天皇の賢子さん入内と同じ年でした

 

このあたりの前後関係が今まで見えてなかったからノートとって見ています この年白河天皇は19歳通俊25歳 続編筆者は白河天皇周辺の女房でしょうから 基子さんについての記述が詳細 栄花物語では評価低く無視されている三巻ですが 結構筆力あって読み込んでいます

 

与謝野晶子訳栄花物語 読みやすいのですが 読み込んでみると原文ではどうなっているのだろうと気になって 文庫本栄花物語を注文したのでした 本に書き込むのは嫌なのだけど そうしているといつまでたっても字面との距離が埋まらないのでとうとう書き込みました

 

栄花物語続編の最後の三巻 作者を与謝野晶子は逸名女房としていて 解説でもそれが妥当と思われるとあり 私は逸名の語を知らなかったからずっと固有名詞と思っていて でも今ふと検索したら 作者の名前が知られていないことだそう そうだったのかとびっくり

 

おはようございます と言ってもこれから寝るのですが笑 一旦寝たのですが眠れなくて起きました メモ的にツイート 栄花物語最後の紫野巻より 白河天皇中宮の賢子さんが亡くなった時のことです 九月に故中宮の侍女の中へ、右大弁通俊から、時雨つつ朽ちにし袖は如何がするあはれ憂かれし秋は来にけり という歌を送ってきた。陛下の御健康は万人一斉にお案じ申すところであったが、幸いにも御恙はあらせられない。

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2020.9.6 ツイッターから転載…日々雑感 栄花物語続編の筆者は誰かが気になって & 思いがけず金沢文庫の思い出に

9月5日

おはようございます 昨夜から栄花物語続編の筆者が誰か頭から離れないのですが というのは今朝気がついたことで どうしてこんなに続編が気になるのだろうと思ったら 筆者が誰かだ! となったのでした で またよからぬ事が頭に浮かんできて 整合性がつくか 今日一日取り組んでみます

 

普通 一般に 栄花物語は赤染衛門の作といわれている しか知らないですよね まさか続編があって それは赤染衛門よりずっと後の人の作で 白河天皇が譲位するまで栄花物語が続いているなんて たぶん一般の人はほとんど知らない

 

懐かしい! RTさせて頂いた金沢文庫の旧館 通い始めたころはこの旧館でした 階段の縁がすり減って昇るのが怖いくらいの傷みさ 踊り場に観音像が置かれていたりして 池を見下ろせる北条実時の館があった平地に建っていて 取り壊された今は更地 新館は隧道をくぐった尾根の向こう側に建てられました

 

この頃は学問をする人だけが行くような感じの怖いところだったので 恐れ多くて 随分何度も行ったのに一枚も写真を撮ってません 壊されるなんて考えてもみなかったから 撮っておけばよかったと悔やんでいました 今日 見れて嬉しい

 

栄花物語は各巻毎に主役の天皇が違うのですが 巻が変わっても〇〇天皇は と記されず いきなり陛下は で始まります 皇后のお名前とかを熟知されてる方は何方かわかるでしょうけど 私にはさっぱり えっ ここで崩御された方は? の連続でした それでネットで表にして下さってる方がいらして書き写しました

 

栄花物語 正編は道長の逝去までの30巻 続編は頼道の時代に始まり 白河天皇譲位で堀河天皇即位まで 続編は後一条天皇が3巻 後朱雀天皇が2巻 後冷泉天皇が2巻 後三条天皇1巻 白河天皇2巻で 計10巻 最後は師実の孫の忠実が春日大社の祭礼に奉仕する描写だから藤原一族を寿いで終わるようです

 

一瞬でしたが虹が出ました 真っ白な積乱雲にかかり 綺麗でした

 

与謝野晶子訳栄花物語の筑摩書房古典日本文学全集から松村博司氏解説 阿部秋生氏「源氏物語から栄花物語へ」を拝読 ネットで検索しても栄花物語に関するご論考が全然出なくて 図書館にも行かれないし この全集は古いから最新の情報を入手したいと思ってたのだけれど こちら二つのご論考で十分でした

 

正編の筆者はほぼ赤染衛門でいいようだけれど 続編は10巻のうち筆者が3人に分かれそう どの巻がそうなのか これからノートをとって詳細を探ります 驚いたのは正編の赤染衛門説は その出どころの最古が称名寺の劔阿の『日本紀私抄』だそう 金沢文庫関連では随分いろいろ見たり聞いたりしてたけど初耳

 

金沢文庫では 初代当主実時が尾州家河内本源氏物語に奥書を残し 三代当主貞顕がたまきはるを書写し 兼好が滞在して徒然草に書き など国文学的要素満載だけど 栄花物語まで とびっくりしています 劔阿は貞顕に仕えていたから 六波羅探題で在京していた貞顕から赤染衛門の情報を入手してたのかも と想像

 

実時の奥書で金沢文庫と源氏物語の関係を知りたくて学芸員さんに結構しつこく質問したけど 当時国文学専門の学芸員がいないからと答えて頂けず それで自分で研究し始めたのでした 実時と異本紫明抄の論文を書いた時 金沢文庫の国文学関連にただお一人関心を寄せてらした山中裕先生からお電話を頂戴して

 

こういう論文を待っていたんだよ と長々お話させて頂き 嬉しかったのでした

 

そういえば 目下執筆中の華鏡は鎌倉の万葉学者仙覚さんの伝記みたいな小説になるのだけど 仙覚さんは実時と交流があったから 仙覚さんが後嵯峨院に万葉集を献上した時の仙覚律師奏覧状も金沢文庫にあったみたい なので金沢文庫の国文学関連の古典には万葉集も!

 

栄花物語続編について読んだり纏めたりしていました ご論考には与謝野晶子と栄花物語という箇所があって拝読 栄花物語の巻々を歌に詠んでいるそう その1首 土御門京極殿のあきの日にしろき栄華のはつ花の咲く

 

不思議な感じ 朝金沢文庫さんのツイートで旧館の写真を見て懐かしかった そして深夜栄花物語のご論考に赤染衛門説の最古が称名寺剱阿だと 金沢文庫に始まり金沢文庫で終わる 偶然にしてもできすぎの一日でした おやすみなさい

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2020.9.5 ツイッターから転載…日々雑感 古今和歌集の段は六条藤家を諦めて能信と伊勢大輔でいきます & 栄花物語を読みました

9月3日

おはようございます 植え替えたから今年はもう咲かないのだと思っていたプランターの玉簾 今朝一輪咲いて嬉しい こぼれ種から生えたみたいな鉢のはとっくに咲いていました 昨夜能信について深まって今日から新たな気持ちで始められるのが嬉しくて 情操教育ってほんとうに大事 教養ではない これ大事!

 

醍醐天皇ゆかりの醍醐寺 塔頭の理性院目的で訪ねたので肝心の醍醐寺様はこの写真を撮るだけで通過してました 史跡を撮るだけの目的で行ってたからこうも視野が狭かったです当時は やっと最近ゆとりをもって世界を見られるようになったのはもう書いたり発表したりの資料集めが終わったから

 

2003年に訪ねたときのものです 理性院は鎌倉の四代執権経時の長男頼助が入ってらしたから 世が世なら頼助が五代執権になっていたのに経時の早世で僧侶にされて 五代執権には時頼が でも頼助はいい人でそれを全然恨んだりせずに従兄弟の時宗を助けて蒙古襲来の折には祈祷したりしています

 

今日は元三大師様のご生誕日とTLに流れてきて 調布市の深大寺もと思い出して写真を 2003年に密教図像学会がこちらであって(はじめてこの会が箱根の山を越えて関東に!)参加させて頂いたときのものです 高野山の高僧の方と同じ卓で深大寺蕎麦を頂いたりして畏れ多い思い出ですが 元三大師堂と堂内

 

一昨日の水無瀬神宮も 今朝の醍醐寺も 今の深大寺まで みんな2003年 本当にこの頃は出かけてました 歩きすぎて足を痛めたのが水無瀬神宮の思い出の一つ 以降お洒落な靴を履けなくなって未だに苦労しています

 

栄花物語を与謝野晶子訳で読んでいました 道長の時代をざっと見ても今の私には興味が湧かなかったのですが 時々能信が登場するので注意深く 白河天皇の賢子さん入内とその前に入内していた女御道子さんの箇所はさながら源氏物語桐壺巻 でも道子さんに同情していて書き手って誰だろうと

 

9月4日

おはようございます 栄花物語を読んでいました 与謝野晶子訳はほんとうに読みやすくいいです 発見多しでした 伊勢大輔は上東門院彰子さんの石清水住吉詣でに加わっているんですね 43歳で侍女では歌が頼通の次に紹介されているから結構トップクラスです 他に皇后宮寛子春秋歌合にも参加しています

 

この時は68歳 もう白河天皇が誕生して乳母になっています この歌合は栄花物語では物凄い詳細に記されていて それがほぼ女房装束の説明 歌合が歌そのものよりいかに華麗に楽しむかの行事だったことが明らかです 写真は石清水八幡宮 2003年の撮影だから今はもう社殿は塗りなおされているでしょうね

 

石清水住吉詣での伊勢大輔の歌 ながらへん世にも忘れじ住の江の岸に浪立つ秋の松風 打ちなびく蘆の裏葉に問ひ見ばや斯かるみゆきはいつかみしま江 都出でて秋より冬になりぬれば久しき旅のここちこそすれ

 

気が散って集中できないから 昨夜は必死で栄花物語を読みました メモとろうと思ったけどそういう内容ではなく雰囲気に浸ってただ拝読 今日からTwitter上の世情に気を寄せることなくひたすら邁進したい と思います

 

民衆ってそうなのだと思う 自分に災難が降りかかって来なければ他者の苦しみが目に入らない 比企の乱で比企氏が討ち滅ぼされ必死に闘い生きているのに 誰も気がつかないで普通の暮らしをする 仙覚さんの小説を書くのにうすうす感じていたことが まさか今の世で現実の数字となって見せつけられるとは

 

親子さんと六条藤家のドラマでまわそうと思っていた八月中旬 どうしても書く気が起こらず半月も空回りしてしまった 古今和歌集について書く段 六条藤家を諦め能信と伊勢大輔でいこうと決めて栄花物語を読んだりしていますが 結局公卿の色合いがないと私の筆は進まないようです 今日は進みました

 

自分の本筋と離れているから呟かないでいたのだけれど 今日の終わりにまだ心にひっかかっているので 栄花物語続編のことです 筆者が誰かわからないのだけれど 正編が赤染衛門として道長の土御門邸中枢に仕えていた女房なのに対し 続編の筆者ってどういう立場なのだろうと気になって離れない 能信

 

が後冷泉帝に後三条天皇を皇太子にと約束をとりつけた会話がリアルに描かれているからかなり内部の事情通 でも正編みたいに天皇の後宮話では皇后中宮になった摂関家出の女性より 中宮になれずに女御で終わった女性の心に結構深く踏み込んでいる 皇后中宮レベルの家の人でなく 運よく女御になった人

 

に仕える女性でしょうか 後三条天皇に基子という方がいて 摂関家出でないのに寵愛が深くて それまで摂関家でないと姫を入内させられない暗黙の制約ができていたのを 内親王か誰かの女房だったのを見初められて これ以降世間では女子を持って入内させる夢が広まったと 正編と明らかに視点が違う

 

こうした話は寵愛が深い方の陰に泣く女性がいます 続編ではそういう女性についての見解が書かれていてとても人間的 教通娘の生子さんはそれはもう寵愛深かったのだけれど関白の娘でないからと中宮になれず 教通は落胆するし生子さんは恥ずかしむ 白河天皇の道子女御は賢子さんに押されて 毎夜

 

もしかしたら 栄花物語を苦手と思っていたのは正編の筆者の視点に馴染めないのかも とふっと今そう思った 続編の筆者は正編の筆者より身分が低そうだけど その分身分が低いゆえに感じる人としての哀れさへの洞察がある なんでこんなところを長々書いているのだろう というような箇所が幾つもありました

 

正編の筆者ならあちら側のことを書くのに 続編の筆者はこちら側の人をえんえんと というふうな

 

紫式部は正編の筆者の側だけど 視線が続編の筆者 というところが面白いです

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2020.9.3 ツイッターから転載…日々雑感 能信は古今和歌集をつくった醍醐天皇の曽孫でした!

9月1日

おはようございます 久しぶりの原稿更新 最後は16日だったから半月ぶり 半月も何してたんだろうって思います でもその間に醸造されてたものが昨日の更新に役立っています 今日から9月 原稿を進めたく思います

 

昨夜の発見 伊勢大輔は祐子内親王歌合に出席してるんですね 62歳でした その3年後に白河天皇が誕生して乳母に こういうのみんな能信が見てて 能信は東宮大夫だから能信が伊勢大輔を乳母に呼んだんですよね 能信の存在 大きいです!

 

今気がついたんですが 伊勢大輔が祐子内親王歌合に出席したとき 通俊は4歳 お祖母様がそんな歴史に残る歌合に出席していたなんて さぞ家族の晴れやかな記憶として残っているでしょう 通俊は歌壇重鎮の人たちよりも歌合を肌身に感じて知っているわけで 白河天皇に勅撰集撰者を任されて当然の人物でした

 

半月前に勢いのままに書き進んでいたら さっきツイートした伊勢大輔の祐子内親王歌合出席は目に入らなかった 再読したから気がついた 遅筆なのはほんとうに困るのだけど 原稿の醸造という意味では大切 コロナ禍で籠って書いているからこんな贅沢が

 

伊勢大輔がこんなに膨らんでくるとは思わなかった 原稿は白河天皇の乳母は親子さんただ一人 というところから始まったんですものね そのただ一人になった理由がやはり乳母だった伊勢大輔が早々に亡くなったからだったなんて 私はやはり伊勢大輔っていいなあと思います 匂いやかで

 

もう見られなくなった としまえんのカルーセル アメリカから着いたときは色も剥げてぼろぼろだったそうですね 日本の宮大工さんの手が入って 彩色もして こんなに綺麗に 日本の宮大工さんがというところが素敵! これは全体が見えるよう向かいの小さなジェットコースターに乗って撮りました

 

懐かしい飛鳥井雅経の鎌倉における蹴鞠の歴史の過去ツイート 発掘して下さった方がいらしたのでRTしました 飛鳥井雅経が鎌倉で頼朝に抱えられて頼家に蹴鞠を教えたのが鎌倉の蹴鞠のはじまりです 頼家は蹴鞠に夢中になって御家人たちの顰蹙を買い それが比企の乱の遠因に 華鏡に書きます

 

飛鳥井雅有(雅経の孫)が 金沢文庫の創設者・北条実時の娘と結婚しています 私は雅経ファンだったから 金沢文庫に通い始めてその系図を見た時に どうしてここに「飛鳥井」家の人が? と心からびっくりしました それがこの京・鎌倉の文化交流の研究に踏み込んだ最初といえるかも

 

TLに「今日は旧暦7月14日、後鳥羽上皇の840年めのお誕生日」とありましたので私も水無瀬神宮を訪ねたときの写真を 昨日ツイートした慈光寺経がなぜ埼玉の慈光寺にあるかは 私は隠岐で後鳥羽院崩御の報を得て鎌倉の将軍頼経が追悼のために奉納したものと思っています そんな思いをいろいろ込めて

 

一枚目…水無瀬神宮 二枚目…後鳥羽院水無瀬離宮跡碑 三枚目…水無瀬川 四枚目…どこにも離宮らしい風景がないのでこういう山に囲まれた一帯だったかなという思いで撮った一枚 2003年の撮影です

 

9月2日

古今和歌集って醍醐天皇の勅命だったんですね と前にも呟いてまだ身についていないのですが 書いていてまた不安になって確認しようとウィキを見たらお子さんに源高明と え! となって見たらやはりあの道長妻の明子さんの父 明子さんは醍醐天皇の孫だったんですね 古今和歌集をつくった人の

 

え! そうしたら とはたった今のツイートしての気づきで 能信は醍醐天皇の曽孫? もうこのあたりどこまで繋がるのやらの思い 古今和歌集も醍醐天皇もまったくの関心外だったから大変 さっさと醍醐天皇の古今和歌集を書いてさきに進もうと思っていたのに・・・

 

改めてウィキの能信の項を見たら 醍醐天皇の曾孫というのは書かれてないけど 反抗心というか乱暴を働き道長に怒られたようなことばかりで 今迄それしか目に入らなかったけど 20歳のとき道長の五十賀で屏風歌を 35歳で章子内親王著袴の後宴で和歌序を書いてなお和歌も読んだとあり 文化の人でした

 

とっても気分が軽やか もう たぶん半月 書けない書けないが続いていて 途中経子さんや伊勢大輔に気が行ったりしたけど続かず もうほんとうに疲れ過ぎて体力が無くなってるんだ〜 と思っていました 気力もないしと でも先程のツイートの能信が古今和歌集の醍醐天皇の曾孫!でなんかやっとやる気が

 

白河天皇が古今和歌集に目覚めたのは親子さんが唯一の乳母となって夫の隆経と和歌を教育したから の設定で書いていたのですが 能信が醍醐天皇の曾孫だとしたら親子さん達より能信からという方が現実的 年譜を見たら能信は白河天皇が13歳まで生きてるし 読書始の7歳をとっくに越えている 一考し直します

 

六条藤家の祖としての親子さん夫妻を書きたいのに どうしてもそこに筆が進まなかったのにはこういう事情が隠れていたからなんですね 無理を通そうとしてもダメということ 白河天皇の源氏物語や和歌の素養はもう全部能信と伊勢大輔によると考えていいみたい 六条藤家の入る隙がないです

 

ほんとうに どうしても筆が進まなかった 疲れてるからとか 世情がどうとか 気になること満載でとばかり思っていたのですが 書けない=書きたくない なぜならそれは無理を通そうとしているから の本能的防御だったよう いつも思うのだけれど 筆は嘘を書けないです

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2020.9.2 ツイッターから転載…日々雑感 都幾川の慈光寺のこと、慈光寺経のことなど思い出して&通俊と経子さん兄妹を前の段に入れました

8月30日

月が明るいです 右側に暗く小さく見える星 その右上に明るく大きな星 土星と木星でしょうか 勝手にそう思って見ると土星と思う星は輪があるから横に細長く感じる

 

8月31日

おはようございます 昨夜はじめて麒麟がくるを見ました 今後玉三郎さんの帝が観られるということで見始めようと TLに関西の方は鎌倉時代に興味ないとありましたが 私も関東人ですが京の宮廷のほうに関心大です やはり鎌倉武士には文化の素養がないですものね 室町幕府は源氏物語の写本で関心が

 

久しぶりに大河を見たので不思議だったのが殿と家臣の場での人数とそれぞれの距離 なんか閑散として広々と思ったらソーシャルディスタンスだったんですね コロナの時代の大河なのでした 添付の写真は都幾川 涼しい写真を探して思い出しました 以前ときがわの古民家で写真展をした時のものです

 

二枚目の写真は古民家の会場で ときがわに住む陶芸家の方の作品で 彼女のアドヴァイスで古民家の展示場を知り写真展が実現 当日彼女が受付に飾ってくださったものです 終了後我が家にお迎えしました

 

都幾川といってもご存じない方が多いでしょうから補足 仙覚さんゆかりの慈光寺がある一帯です 鎌倉時代以前関東は東海道より東山道が栄えていたので慈光寺は関東における最大の天台宗寺院でした 私は仙覚さんはここで出家したのでは? と思って訪ねたのがこの地とのご縁のはじまりでした

 

慈光寺には慈光寺経という日本三大装飾経のひとつがあります 埼玉県で唯一国宝に指定されているそういう経典が都幾川にあるんです なにも知らないで訪ねたときは不思議でした でも歴史を知ってたどっていくと当然の流れが 仙覚さんも関わっている歴史の面白さが見えてきます

 

慈光寺には慈光寺経という日本三大装飾経のひとつがあります 埼玉県で唯一国宝に指定されているそういう経典が都幾川にあるんです なにも知らないで訪ねたときは不思議でした でも歴史を知ってたどっていくと当然の流れが 仙覚さんも関わっている歴史の面白さが見えてきます

 

都幾川は今はときがわ町という表記になってしまいましたが 先のツイートの陶芸家の彼女の説明によると 慈光寺はほんとうに華麗な寺院で「華麗な都のようで幾度も振り返って見る」だったという意味らしい 戦火で焼失して今の伽藍にその風情はなく 山岳寺院の山道を登る参道に面影が残っています

 

慈光寺経を呟いたら思い出しました 慈光寺経は急逝した後京極良経を悼んで九条家が制作 後鳥羽院も参加している一切経です これが埼玉の山奥の寺院にあるのが謎ですが 仙覚さんも絡んでの四代将軍頼経がらみと思うと自然ですよね 頼経は九条家出身だから 華鏡の後編でこれを書くのですがいつになるやら

 

良経を書かなければならないから新古今和歌集に触れないわけにいかない 承久の乱にも触れなければいけない でも 目下私が書いている華鏡は前編でまだこれから古今和歌集に触れるところ 比企の乱も起きていないし 第一 まだ 仙覚さんが生まれていません!笑

 

都幾川の慈光寺様 最後に行ってからもう数年たったけど 何回行ったか数え切れない 思い出もたくさんあるし収穫も 今は仙覚さんが出家した寺院とは考えていないけど 麓の小川町に仙覚さんは晩年住んだから関係ない寺院ではありません 山岳寺院なので参道を歩いて登るとゆうに30分はあります

 

一枚目…向こうに見えている山の頂上に慈光寺様はあります 二枚目…幾十もの僧坊があったからその跡は幾つも 三枚目…歴史家さん方がわざわざ見学に行かれる青石の巨大板碑群 四枚目…上り切ると視界に連山が

 

追加:一枚目…たくさんあった僧坊の名残で 参道途中の崖縁には瓦の破片がよく落ちています 二枚目…この先が慈光寺様 ここまで来るとほっとします 三、四枚目…現在の慈光寺様 大きな多羅葉の木があります

 

今日でほんとうにとしまえんが最後なんですね ずっと行きたくてやっと行ったのが今年の2月初旬 コロナ禍直前でした(予感して行ったのかも)あまりに素晴らしくてまた行こうと思っていたところにコロナの自粛と閉園の報 せめて一回でも行かれてよかったねと家族と話しています 動画の最後下手!

 

伊勢大輔の孫としての通俊と経子さん兄妹のこと 一段落として書くのを諦めましたが 前に書いていた上東門院彰子さんの段にほんの数行ですが組み込みました この段がふくよかになったし経子さんたちも入れられてよかった 首相辞任の世情に気分が拡散していましたが 戻りました やっと

 

白河天皇の内裏歌合を書く段になったから またここに戻ってご論考を再読しています 陽明文庫王朝和歌集影 しばらく離れていたからあれはどこに書いてあったかしらとうろうろ もったいなくてマーカーを引いていないから 探してもなかなか見つからない マーカー 引きたい けど もったいない

 

ある方のご論考では白河天皇の意に沿わず翌日再びとあり 探していたご論考では負けた右方が判定を不当として右方のみで翌日再びと どちらが正しいのでしょう 記録にじかにあたるべきなのでしょうけど今は不可能

 

白河天皇の内裏歌合は晴儀歌合だから村上天皇の天徳四年内裏歌合をならったものとされるみたいだけど 古今和歌集の関連で寛平御時后宮歌合を軸に 形だけ天徳四年のをならってと書いていこうと思います

 

一連のツイート 連投になりましたが やっと調子を取り戻しました

 

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