« September 2020 | Main | November 2020 »

2020.10.30 ツイッターから転載…日々雑感 山中智恵子さん『斎宮女御徽子女王』と西本願寺本三十六人集のこと&NHK歴史ヒストリア源氏物語若紫発見と実朝歌碑から光行さんのこと

10月29日

今見たらもう雲が広がっていますが 昇りたての十三夜の月は煌々として綺麗でした

 

えっ 時房タリーズ閉店! と驚いたら儀平さんも そして儀平さんは既に…… しばらく行ってない間に儀平さんが…… なんか 世の中の変わりようが怖い

 

山中智恵子『斎宮女御徽子女王』はじめにより: 『大鏡』や『栄花物語』によって、高雅で美しく、さながら荻吹く秋風のひととして、まことにさびしい俤のみを伝えている徽子が、後宮の女御更衣や女房たちと、むしろ寛潤に交友し、梨壺の五人の源順や大中臣能宣、『三宝絵詞』の源為憲等の文人たちとの

 

豊穣な交流……こういうことが徽子女王の家集を読み解くことで映し出されるそうです(私は栄花物語のなかの後宮での徽子女王のあり方に疑問を持って それで山中智恵子さんのご本を読むことにしたのですが やはり でした)

 

10月30日

NHKヒストリア源氏物語若紫の回 いい番組でしたが光行さんを研究して鎌倉の源氏物語をご紹介している私としては 河内本が全く出て来ないなあ 番組の編成上仕方ないのだなあと思っていたら それを指摘して下さっているツイートに出会ってRTさせて頂きました 15年前 私が鎌倉の源氏物語を始めた時 写本と

 

いっても何方もご存知なく(一般の鎌倉市民の方に) 講演でお話しても 展覧会では墨文字の文章ばかりであんな地味なものにそんな背景があったんですね と驚かれました それが今は 写本発見! などと画期的ニュースになる 時代が変わったなあと 私は一人番組を見ながら感慨していました 鎌倉でも河内本の

 

認識が広まって 私は講演活動から手を引き 今は小説に身を入れていますが 万葉集の仙覚さんが主人公だから 同時代の光行さんや定家を書こうかでも書くとまた広がるし〜と悩んでいました ヒストリアを見て 省略された光行さんを思って やはり華鏡に光行さんの源氏物語活動は入れよう! と思ったのでした

 

先ほどのツイート補記: 同時代の と書きましたが 仙覚さんと光行さん定家が同時代なのではなく 仙覚さんの万葉集や光行さん定家の源氏物語活動が生まれる地盤が 平安後期から鎌倉中期 という意味での長いスパンでの同時代です(なので目下鎌倉中期に辿り着くために平安後期の白河天皇を書いています)

 

こういうことを書くのはどうかなと憚られて遠慮していましたが ちょうどいい機会なので少し 実朝に定家が万葉集を送った裏にも光行さんの功績があって 私はそれを学会の機関誌に随想で載せたのですが 同時期に発売された研究者さんの実朝本には光行さんの存在はありませんでした まだそれを書いた論考

 

には接していません でもこれから何冊か実朝本が出るそうですね そこで何方かが書かれていたら 私の随想は役立ったと喜ぶべきでしょうか 鎌倉の光行さん関連でもそういうことが幾つかあって もうそういう思いをするのは嫌! の思いで小説に移行しました 小説でみんな書こうと思っています

 

源光行の存在と功績を知って頂きたく再掲 掲載誌『解釈』2019-1,2月号が発行された時に載せた気がします 実朝に定家が送った万葉集は鎌倉右大臣家本として仙覚が万葉集の校訂をした時に使った四つの写本の一つです

 

実朝が万葉集を定家から贈られた時 光行さんは長年暮らした鎌倉を離れて京にいました 大江広元婿の飛鳥井雅経も後鳥羽院に召されて帰京しています 三人は親しく京で独り鎌倉に残された実朝を心配し合っています 私はその三人を 京都実朝応援隊 と勝手に名づけて支援しています

 

鎌倉市に実朝の歌碑は石碑としては三基あります ①鎌倉国宝館「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」②鎌倉商工会議所「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ」③鎌倉海浜公園「世の中はつねにもがもな渚こぐ海人の小舟の綱手かなしも」です

 

山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』を拝読していたら 西本願寺本三十六人家集に斎宮女御集があって えっ! となってウィキで見たらたしかにある 頭が混乱して年譜に戻って混乱の理由がわかりました 白河天皇の時代に作られたということで調べていたからなんか時代がごっちゃになってしまってました

 

西本願寺本三十六人集の本が今日届く予定 源氏物語や万葉集の本は揃っているけど コロナ禍の自粛で閉じ籠ってから調べる必要が出たのは もう終活を目指して本は買わないと決めたのに買うしかなく何冊になったでしょう 昨日山中智恵子さんの本が届いて 今日西本願寺本三十六人集 これでやっと最後かな

 

西本願寺本三十六人集の書写者の一人が白河天皇の女御道子さんで 彼女が伊勢斎宮に選ばれた娘に同行して伊勢に行った ということで同じく娘に同行して伊勢に行った斎宮女御徽子女王が浮上し それで今山中智恵子さんの斎宮女御を拝読しているのですが ほんと もう混乱 です笑

 

届きました 日本美術全集9『王朝の美術 源氏物語絵巻と三十六人家集』 大型本です 探していてないだろうなと思ったら中古であって お高いんだろうなと思ったら1000円 即買しました 開くのが楽しみです

 

最後にきました 欲しかった西本願寺本三十六人集についての情報 ほんとうは道子さん書写の凡河内躬恒集の写真を見たかったのですが 原寸大カラー写真口絵は装飾料紙の綺麗な4冊だけ がっかりしてたら解説に小さな白黒写真が 仕方ないなあと思っていたら今まで読んだことのない情報 使わせて頂きます

 

白河天皇期のために本を買うのも 白河天皇期を書くのも これが最後と思います それで 最後にきました と最初に呟きました 最後という意識 これを自覚することは重要と思います 自分が引き締まります

|

2020.10.29 ツイッターから転載…日々雑感 広幡御息所と山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』のこと

10月28日

広幡御息所と村上天皇の逢坂もの沓冠歌のエピソードが心から離れないのですが これって清少納言の香炉峰の雪ですよね それをずっと考えていたら 梨壺の五人の一人の清原元輔は清少納言のお父さん 清少納言は広幡御息所のエピソードを知っていたわけです 清少納言の誕生は村上天皇の崩御の前年あたり

 

清少納言は少女の頃から広幡御息所の話を聞いていて 成長したらいつか自分もと思っただろうし 枕草子に香炉峰の雪を書いた時 とうとう私もやった! という意識になったでしょう そんなことがだんだん見えてきて 目下 村上天皇の梨壺の五人エピソードに清少納言が入るかも なんて気分が浮かんでいます

 

清原元輔って ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは の歌の人だったんですね 写真は2011年1月に訪ねたときのものですが 東北の震災でほんとうに津波はこの近くまできてもこの松には届かなかったと 高台にありました

 

広幡御息所の沓冠歌のエピソードは栄花物語に書かれていてツイートしましたが 十訓抄巻7にあるというので見たら 栄花物語とほぼ同じ 一瞬物語的な古典より十訓抄のほうが学問的かと思ったけど 年代を見ると栄花物語は平安後期 十訓抄は鎌倉中期だから 十訓抄が栄花物語を使っているんですね

 

それから 梨壺の五人の源順は後年徽子女王と親しく 徽子女王の琴の音に嶺の松風の歌は 徽子女王の娘の規子内親王が斎王に選ばれて潔斎に入ったとき そこで歌会が開かれて源順も呼ばれ その時の題詠だそうです そして源順は規子内親王の伊勢群行に同伴しているんですね もちろんその時徽子女王も

 

細部を詰めているといろいろ意外な事実が浮かび上がって面白いです(私が知らなかっただけの話ですが)

 

10月29日

秋の風情

 

今朝の雑木林@井の頭公園 さわやかな明るい朝です

 

昨日届くと思っていたのに今日届いて これから拝読します 山中智恵子さん『斎宮女御徽子女王』村上天皇の後宮が少し見えてきて書き出しの一文が浮かびそうになってきています

 

やはり 山中智恵子さんのご文章は凛として心が改まります 参考に見るだけ みたいに購入したのですが 本を開いて 羅列された参考文献を見て 後記を読んで しばらくここにとどまろうかと

 

一心不乱 という言葉が昨日あたりから浮かんでいるのだけれど やっと書くことがそういう姿勢になっていく気がする 前かがみにかがみ込んで自分が書いた文章のなかだけに入っている感覚 そういう書く姿勢を求めてやってきたわけだけれど やっとそうできてくるのかも

|

2020.10.28 ツイッターから転載…日々雑感 村上天皇の後宮、斎宮女御徽子女王と広幡御息所のこと

10月27日

月が綺麗です 窓を開けていると寒い季節になりました 村上天皇の梨壺の五人のためにまた栄花物語を読んでいます なんと栄花物語のほぼ冒頭 最後だった白河天皇から一気に逆戻りになりました

 

検索していたら田原加奈子氏「村上朝の後宮と歌合」に遭遇 まさに欲しかったご論考 村上天皇に万葉集に訓点をつけるよう勧めた広幡御息所について書いたご論考を探していました 仙覚さん研究で万葉集のご論考を拝読していた時には梨壺の五人がつけた とだけで 広幡御息所という方は出て来なかった

 

梨壺の五人がつけた訓点が 仙覚さんの名づけた古点 次に道長らがつけたのが次点 仙覚さんが最後に残った152首につけたのがみずから名づけて新点 というわけで 村上天皇の梨壺の五人の作業を華鏡で書かないわけにいかないのですが 小説的には広幡御息所のほうが重要 やっと辿り着きました

 

変遷: 小川靖彦先生のご本で西本願寺本三十六人集が白河天皇天皇期と知る→女御道子さんが書写者の一人→道子さんは伊勢斎宮に同伴→斎宮女御徽子女王は村上天皇の女御→村上天皇後宮の広幡御息所が梨壺の五人を勧めた ←今ここ

 

人文出身の方には周知のことかも知らないけれど 全く未知の分野に踏み込んでしかも孤独に籠って書いているから 辿り着くのが大変 でも辿り着くまでの右往左往が書く時の膨らみになります

 

でも今思うと趣味は人を救う ですね 小川靖彦先生のご本で西本願寺本三十六人集の文字を見た時 万葉集とは関係ないのにもう夢中になってそこから離れられなくなり そうしたらそこに道子さんが浮上してきたのでした あの時西本願寺本三十六人集をスルーしてたら今の展開はなかったです

 

与謝野晶子訳栄花物語より: 陛下(村上天皇)は計子(広幡御息所)を最も趣味を知った女性として見ておいでになった。逢坂もはては往来の関もゐず尋ねて訪ひ来来なば帰さじという歌を陛下は同じようにお書きになって、女御更衣たちのところへ一つずつ持たせておやりになった。これは句の上と下に「あはせた

 

きものすこし」という八字が伏せてあるのである。このお返事をいろいろに女御更衣たちがしたなかに、計子だけは伏字を知って薫物(たきもの)を参らせたのだった……沓冠歌、すなわち語句の頭の字と語句の末尾の字を並べると意味がある歌、それを計子さんだけが理解し正しくお返しをしたという

 

あふさかも

はてはゆききの

せきもゐず

たづねてとひこ

きなばかへさじ

の冠と沓を並べると あはせたきものすこし となります

 

与謝野晶子訳栄花物語より: 先先代の醍醐の御代に古今集二十巻が撰ばれた。それは今から二十幾年前のことである。陛下(村上天皇)もまた撰集のことをお思い立ちになって、大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、阪上望城などに古今集以外の新古の作を混ぜて二十巻をお撰ばせになった。後に撰んだというの

 

で後撰和歌集と命名せられた……斎宮女御徽子女王の村上天皇後宮での動向を見ています 徽子女王は8歳で伊勢斎宮に卜定されて10歳で伊勢へ群行 17歳で退下 20歳で村上天皇に入内します 後撰和歌集の院宣はその三年後 ちょうど入内後の後宮生活が慣れたころなんですね 梨壺の五人とも懇意だったでしょう

 

後撰和歌集の奏覧はその七年後 その間に徽子女王は歌合をしています その後皇子を産むものの即日亡くなり それから皇子に恵まれず女御として失意の中天皇とも疎遠に 梨壺の五人の万葉集訓点作業はその頃ですから 徽子女王は関わっていないことになりますね

 

明日山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』が届くからはっきりすると思うけど 徽子女王は村上天皇の後撰和歌集も 梨壺の五人の万葉集訓点にも関係していないですね 徽子女王の最初の歌は村上天皇入内時の後朝の歌だから 後撰和歌集撰集の盛り上がりのなかで歌の磨きをかけたのだと思うし

 

梨壺の五人の万葉集訓点時には村上天皇との関係はぎくしゃくしていたらしいから とても広幡御息所が進言したというその作業に関わっていたとは思えない 二度目の伊勢は娘の規子内親王の伊勢斎宮に同行してだけれど それは村上天皇の次の冷泉天皇の次の円融天皇の時代 人生の後半に入ってです

 

そしてその頃からの歌のほうが多いしいい気がします 私の好きな琴の音に嶺の松風かよふらしの歌もそうで 斎宮女御歌集はそうしたお母さんの歌を規子内親王が中心になってまとめられたよう 私の華鏡では梨壺の五人の万葉集が主題だから 徽子女王は入らないかも 結局また私は広幡御息所さん一筋かな

 

徽子女王が村上天皇の女御だったと知った時には あんなに素晴らしいお歌の作者が後宮にいるなら それが村上天皇への刺激になって…… など想像し興奮しましたが ほぼ関係なさそうとなって意気軒高だった気分が萎えています 興奮も関係ないことをつかむために必要だった としてもちょっと寂しい笑

 

斎王研究の史的展開に使っているモローの栞です

 

と 時々こんなツイートをして 本来でない気がする小説の感性を保たっています たぶん もっと進めば自分らしい小説になると思うし ちょっとそうなってきました

 

唐突なツイートだったかしらと気づいて補足 華鏡は鎌倉の万葉学者仙覚の生涯を描く小説ですが 仙覚を研究していて論文では書ききれない部分があるので小説に 義務的にというか義侠心で始めたのでした だから本来の自分の感性とは違うものがあり 書きながらずっと二律背反に苦しんでいました

 

でも 華鏡はもうたぶん生涯これにかかりっきりで 終わったら好きな自分の小説に戻る という時代は来ないから 華鏡を自分らしい小説に持っていくしかないです

 

以前 ある方に評されて このまま行ったら怖い と言われたことがあって そのこのまま行ったら怖い小説が本来の自分の小説と思うのだけれど 平和な家族のなかにあってまだそうは突き進めないでいるうちに仙覚さんに出会ってまた小説を書いているのですが〜 いつか思いっきり書く時代が来るかも

|

2020.10.26 ツイッターから転載…日々雑感 斎宮女御徽子女王のことなど

10月25日

腱鞘炎で指が痛いからPCで打ってお礼状を出そうとしてたのに そのPCが動かなくなって もう下書きはできて清書の印字するだけなのにと困惑してたら 清書するだけならそれを手書きで済ませば! と思いついて便箋を出しました 気になっていることを一つずつ片付けて道子さんにかかります

 

書きました 痛さに耐えて命がけ みたいな気分笑 でもほっとしています これで次に進めます

 

10月26日

おはようございます 昨夜は心機一転に気持ちを入れ替えたく早々に就寝 未明に起きて『斎王研究の史的展開』から道子さんの章を拝読しました 今日から道子さんに専念します 系図を見たら道子さんって道長の曾孫なんですね たぶん道長の道を頂いての道子さん どうりで動向に矜持があるはずでした

 

栄花物語に書かれたような 賢子さんに気圧された可哀想な女御の面だけを信じたら 道子さんを見誤ると思う

 

栄花物語のこの最後の三章 白河天皇期の段ですが 筆者が特定されてません 後三条天皇の基子さんとか 道子さんとか 後ろ楯の弱い出自の女性を筆を尽くして書いているところにある種の特徴がある気がする

 

昨朝 TLに流れてきた東博の展示解説を観て 元永本古今和歌集にえっ!となり 元永本の料紙の素晴らしさは知っていたけど1120年という解説に 白河天皇期じゃない! と驚き 年譜を見たら西本願寺本三十六人集の八年後 しかも書写者が同じ でびっくりしました それで少し元永本古今和歌集について調べたり

 

その前に斎王研究のことで考えることがあったりで いろいろ気忙しかったから落ち着かず反省 知識に振り回される生活をしないようにしようと決め それで早々に就寝したのでした 写真は徳川美術館石山切展図録解説編の裏表紙です

 

あまり通らない所だから記念に@吉祥寺文化園付近にて

 

琴のねに峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ 徽子女王のこの歌は歌として私のなかで孤高に屹立させておきたかったのに 斎王研究のご本を読んだら女王が村上天皇の女御で後宮内での俗な話を読んでしまったからそれがとても嫌でずっと引きずっていました が なんか突然見えてきました

 

華鏡で村上天皇の項に天徳内裏歌合を書いたら梨壺の五人がどうしても入らなくなって 仕方なく前に戻って数行の解説でいれました が 徽子女王がこの後宮にいるとしたらそれは大問題 梨壺の五人の万葉集訓点は歌会に励む女御からの依頼でした 斎王研究に紹介されていた後宮の女御のなかに広幡女御も

 

広幡女御は歌会を積極的に開いていた方でその方の望みで訓点解読がなされたよう ここに徽子女御が絡んでいたら それは歌において切磋琢磨する後宮だったということ 徽子女御への考察が足りなかったから梨壺の五人が書けなかったんだなあと 今さらに思いました 写真は伊勢斎宮集でネットから

 

道子さんの世界にまっしぐら と昨夜から気持ちを切り替えて心機一転覚悟して臨もうと思ったのに また村上天皇の梨壺の五人に徽子女王を入れてしばらく関わることになりました あ~あ の気分 いつになったら二条天皇の万葉集に辿り着くのか

 

もう~っといった気分なのですが 徽子女王に火がついてしまいました 山中千智恵子さんの『斎宮女御徽子女王―歌と生涯』を古書で注文 山中智恵子さんのファンだからこのご本は知っていたのですが 歌だけ 斎宮女御には絶対手は出さないと決めていたのに泣

|

2020.10.25 ツイッターから転載…日々雑感 所京子氏『斎王研究の史的展開』を購入しました

10月24日

今日の雑木林@井の頭公園 日が射しこんで綺麗です

 

雑木林の下草@井の頭公園

 

なぎさんに教えて頂いた所京子氏『斎王研究の史的展開』が届きました もう本は買わないと決めていたから迷ったのですが 地元の図書館にないし 遠方の図書館には今は行かれない えいっとばかりに購入してよかった 道子さんと善子内親王のこと なぎさんが教えて下さったとおりに章立で紹介されていました

 

しかも 私が道子さんに関心を持ったのは西本願寺本三十六人集の書写者の一人だったことからだったのに この所京子氏のご見解もそこに着目されてのご考察 同じ着目点を持たれていてびっくりしました 華鏡の道子さんの段 格段に膨らむ予感

 

昨日親指が腱鞘炎なのを無理して万年筆でお便りを書いたから じっとしていても親指の付根がずきずきしてもうイラッとしたくなるのだけれど まだ済ませなければならないお便りがあって 今日はもうキーボードでと打ち始めたら華鏡で文章入力に乗っているから手書きよりすらすら書けてこの方がいいと唖然

 

雨戸を閉めようと窓を開けたら昇り立てのオリオン座が目に入ってびっくり 今冬(まだ冬ではないけど)初のオリオンかも そういえばここのところ窓を開けても星は一つか二つ 月が見えていても星が見えなかったような 不思議に思ってベランダに出たら我家にしては満天の星 紺碧の夜空ではないのに 不思議

 

いつもよりガスって白っぽく明るい空なのに…… 月が出ていて見上げた時の夜空の方が紺碧に近かったのに……

 

寝る前に とベランダに出てオリオンを眺めました もう高く昇っていて オリオンを中心に我家にしては満天の星 ほんと 久しぶりです こんなにたくさんの星を眺めるの 不思議な夜と思いながら惜しみつつ雨戸を閉めました

 

折角購入したのだから 道子さんと善子内親王の項に入る前に他の斎王の方々を読んでおこうと拝読していたのですが 知識的に興味は湧くものの どんどん道子さんへの感性が遠退いていくので そっと本を閉じました 明日から道子さんオンリー

 

なんだろう この 読むほどに広がる殺伐感

|

2020.10.24 ツイッターから転載…日々雑感 白河天皇女御の道子さんと斎王善子内親王のことで斎宮を!

10月23日

おはようございます さっき ふと 独擅場 という言葉が浮かび やっとここまで来たと思いました これを手に入れたくて頑張っていたのですが 道子さんに出逢ったお陰です 道子さん 最初は弘徽殿女御 次は六条御息所の立場だったんですよね でもどうしてもそうは書けない で ずっと追っていたら竹河になり

 

ました 経子さんも道子さんも白河天皇に関わった実在の女性ですが 白河天皇といえば賢子さんか璋子さん 私は普通に知られていることを自分流にこなして書くのに抵抗ある天邪鬼で 経子さんと道子さんにはほんとうに自分の心を入れて書くことができました なのでこれが私の独擅場かと お二人に感謝します

 

もう限界! っと万年筆を離しました お礼状を書いて二通 まだ書きたいのだけれど腱鞘炎の親指が痛くて悲鳴をあげてます でも二通書くほどには治ってきたのですが 酷い字!笑 家族が達筆だといいよね 酷いんだかいつも通りなのかわからない って でも痛い あと何通か キーボードにする?

 

斎宮は伊勢に捨て置かれていたわけではなく、父方の兄弟、母方の従姉妹などのネットワークのなかで、常に都とのつながりを続けていたものと思われる ← 榎村寛之氏中公新書『斎宮』より

 

コロナ禍でなかったら取材と称して明和町に行ってただろうな とつくづく思う でも今はもう行けない 華鏡を書き終えるまで自粛

 

こういう禁欲が今までなかった 取材と称して思い立ったらすぐ出かけてました だから書けなかった と今は思う 禁欲 無欲 になること

 

物凄い疲労感と睡魔だったのですが頑張って榎村寛之氏『斎宮』を読了しました 後白河院とか頼朝とか後世の人たちの知られている歴史と表裏一体にあった斎宮の実態 清盛が使節として斎宮を訪れていたなど 面白かったのですが 今は白河天皇院政期の道子さんと善子内親王が過ごした斎宮がどんな所だったか

 

それを感じたくて読んでいるわけだから 後世の分は読まなくてもよかった? いずれ必要になるかしら など反芻 それより斎宮は京都同様の碁盤の目のような区画のさながら超巨大なオフィス街だったということに目を見張りました 清盛も目を見張りながらこの直線道路を進んだだろうと

 

道子さんや善子内親王は決してひなびた自然いっぱいの田舎に行ったわけでなく 庁や寮の建物が建ち並ぶ都会に暮らし 京との連絡の取合いも頻繁だったなど イメージはできました 隣接する伊勢神宮が自然いっぱいの地と対照的だったそうです 意外! と驚きました

|

2020.10.23 ツイッターから転載…日々雑感 白河天皇女御の道子さんと源氏物語竹河巻のことなど

10月21日

小柴垣 という言葉が好きなのですけど 深い意味合いはなくただ好きで 今の季節 柴垣に小菊がはみ出して乱れ咲いているのを見ると いいなあと でもそうした光景はどんどんなくなっていて ここ三鷹市は多摩地区だし近くに雑木林もあるくらいだけど 小菊の柴垣ってもう見ないです これは過去写真

 

伊勢斎宮について読むよりもネットで見ていたほうがリアルに把握できて楽しいのですが 源氏物語竹河巻もゆかりの巻らしく後で見てみることに 現在の竹神社は合祀されるまで野宮と呼ばれていた とか いろいろ 複数検索するとやっと繋がって理解に至ります 伊勢斎宮にも野宮があったなんて と感動

 

京都嵯峨の野宮神社は 光源氏が伊勢に行ってしまう六条御息所を訪ねるシーンで憧れだったのですが 行くと境内は狭く人混みでとても光源氏が荒れ果てた野を装束が露で濡れるのをはらいながら心は御息所への思いに溢れて歩くしっとりした情趣の場とは大違い 写真もこんなふうに撮るのが精一杯でした

 

サラダセットという袋詰め 思わず買ったのですが 開けるのが楽しみ 数種類は入っています

 

今ある方のツイートへの返信で心の回復という言葉を使いましたが、私は一度文学に挫折して書けなくなりました。その時師に言われた言葉が十年書き続けなさいでした。でも十年経っても十五年経っても書けないまま、それで研究に入りました。その結果やっと今華鏡で書けている思いを噛みしめています。

 

心の回復は時間がかかります。これは理屈ではないし、焦っても無理です。

 

伊勢斎宮をネットで見ていて源氏物語竹河巻が伊勢斎宮を歌った催馬楽「竹河」にちなんでいるそうで 正訳源氏物語から竹河巻を出してざっと拝読 玉鬘の姫君が冷泉院に入内する巻でした 先にいた后や女御がもう既に年配者なところに若い大君の入内で寵愛される って奇しくも道子さんと賢子さんそのままで

 

なんか皮肉な気が 源氏物語のほうが先に書かれたのだけど そこで歌われた催馬楽がタイトルの巻の内容どおりに道子さんが負けて伊勢に下るなんて紫式部さんも思ってもいなかったでしょう

 

催馬楽竹河「竹河の 橋のつめなるや 橋のつめなるや 花園に はれ 花園に 我を放てや 我を放てや めざしたぐへて」←伊勢斎宮には花園だった場所があるとネットで見たばかりです

 

10月22日

おはようございます 写真は徳川美術館の国宝源氏物語絵巻絵葉書セットが入っていた包装紙 袋ではなく広げるとこんなふうに一枚の絵に そしてこれが竹河巻の大君と妹のシーンです 竹河巻は源氏物語本体では付属的存在ですが 絵巻では包装紙になるほどの逸品 衝撃の一夜明けて竹河巻を見直さなくてはと

 

大変なことに気づいてしまいました 白河天皇は源氏物語を読んでいられるから竹河巻は道子さんの巻と気づいてらしたんですね それで国宝源氏物語絵巻図録の解説を読んだら 竹河巻は一連の御法巻とは違う一連 そうっかと納得 改めてこの解説には 今にしてわかるということがいっぱいでした

 

https://www.youtube.com/watch?v=CNL6qkqXyEw&feature=emb_logo

を見た後だったから 催馬楽竹河の「花園」がぴ~んと来たのでした 四季の花が植えられた花園 斎王もここに遊んだかもしれない ということは道子さんもここで といろいろ想像が膨らみます こんなにリアルに伊勢斎宮での道子さんの動向が見えてくるなんて!

 

道子さんが皇女の斎王に同行して伊勢に行ってしまうにしても 京にいる白河天皇をはじめとする人たちには伊勢は見えないところだから 伊勢斎宮をそんなに調べなくてもいいと思っていたのですが 始めてみたらどっぷり嵌まってどんどん源氏物語竹河巻まで繋がって やはり文化の波及力は凄いなあと感嘆

 

昨日なぎさんが教えて下さったとおり ウィキでも野宮は卜定で新しい斎宮のために一時的に造営されるので 嵯峨の野宮神社と限らないとありました その「一時的に造営される殿舎」で 昨年の大嘗祭一般参賀で拝見した殿舎を思い出しました それにしてもこの大嘗祭がまだたったの一年前だったなんて

 

今まで伊勢斎宮も 大嘗祭一般参賀も ただ関心をもって見ていただけだったのですが 道子女御の斎宮同伴で一挙に身近に 古典とか 知識は 一応好きでも趣味や興味の範囲でしかなかったのに 今回は思いがけず肉薄して感じられているのが不思議 書けないでもがいていたことから抜けたのが一端かと

 

つい最近 たぶんTwitterで読んだのだけれど 物事をほんとうに理解するにはそれについての深い知識 教養が必要と 今 それを実感しています 知識があるから 見てわかる 華鏡を書く過程で白河天皇期はこんなふうに私を導いてくれました

 

変遷: 小川靖彦先生『万葉集と日本人』に西本願寺本三十六人集は白河天皇院政期にできたと→徳川美術館図録解説に白河天皇女御の道子さんが書写者の一人→道子さんは伊勢斎宮に→伊勢斎宮は源氏物語竹河に書かれた→国宝源氏物語絵巻の竹河巻が立派→竹河巻は道子さんを思わせる巻だから重要←今ここ

 

白河天皇を終え 二条天皇の万葉集に行くために小川靖彦先生『万葉集と日本人』を拝読したら西本願寺本三十六人集に突き当たり 夢中になって抜けられなくなり 突き進んだら 竹河巻の重要さに気づいた という流れ 止められないにはそれだけの理由があり 把握するまで自分でもそれはわからない んですね

 

研究ではないからだいたいのことを把握し終わって後は書き始めるだけ ここまで来るといつも調べる熱意が失せて感覚が日常次元になります だから明日は溜まっているお礼状などをして 明後日くらいから書き始めようかと 白河天皇期の大団円になるはずだけれど う~ん そうしなければと武者震い心地です

 

道子さんと経子さんがどうしても似た感じの女性に思えていて 経子さんの描写に絵合巻の斎宮女御を使っていて そうしたらなんと道子さんがほんとうに斎宮に赴く女御だったということで でももう斎宮女御は使えないと思っていたら 道子さんは竹河巻の人でした という不思議な流れになりました

|

2020.10.21 ツイッターから転載…日々雑感 白河天皇女御の道子さんから伊勢斎宮への関心が

10月19日

おはようございます 栄花物語は道長の話と思っていたから華鏡に必要ないと思っていたのですが それはいわゆる赤染衛門筆といわれる正編で 続編に白河天皇が書かれていると知り 古書で探していたら与謝野晶子訳に出逢ったのでした 思い返すと栄花物語を読んで思考が深まり 華鏡に文学としての自信が

 

それは難しい膨大な古典に読み耽る作業が 日常との隔離をもたらしてくれて それまでの箇条書き的知識で書いていたことが 意識の流れとなって言葉が浮かび出るようになったこと 読み耽るって 重要なんだなあと痛感しました 白河天皇の項を終わろうとしてまた道子さんのために最後の三章を読んでいます

 

雨が降りだした雑木林@井の頭公園

 

道子さんに気持ちが入ったから経子さんが遠のいて前に聴いていた曲に気持ちが沿わなくなりこちらに これからはこの曲に同伴されて道子さんと過ごします  Rachmaninoff plays Elegie Op. 3 No. 1

 

昨日の公園です@井の頭公園

 

ご恵送頂きました 差出人のご住所が扇ガ谷で心当たりがなかったので ? となったまま開けたら 鎌倉にお住まいでいられる万葉集研究者菊池威雄先生からでした 「鎌倉と万葉集」を寄稿されていてこれから拝読させて頂きます

 

やっと自分の時間になって 今日はもう遅いからすぐ原稿にかかろうと思ったもののの やはりTwitterをざっとでも見ておこうと開いたら伊勢斎宮を訪ねた方のツイートに遭遇 そうっか 道子さんが行くこの伊勢 今までことさらに意識から外してたけど とうとうきちんと知らなければならない時が来たようです

 

とりあえず ツイートの方が写真に載せていられる新書の『斎宮』を探そうかと

 

Kindle版があったのでそれを購入しました

 

家族からの突き上げ 来年までに書かなくてはと言いながら 白河天皇が終わったと言ってはまた戻る そんなのいつまでたったって終わるはずないじゃないと とうとう家族からも見放されました ただ 私は梗概で書いても仕方ないところ 深まっているこの感覚 これがあってこその文学だから ひるみません笑

 

10月20日

今さらに藤原公任 古書で購入 今届きました 白河天皇の項 思い返せば公任の和漢朗詠集に始まりました でも公任にそれほど思い入れてなかったので検索で済ませていたのですが 西本願寺本三十六人集が公任の三十六人集で作ったものと読んで 今さらですが公任を正確に読んでおこうかと

 

道子さんの伊勢斎宮同伴で 昨夜購入のKindle版斎宮を拝読中ですが 今はとにかくこんなふうに道子さんの周りを攻めていきます

 

Kindle版斎宮のあとがきに斎宮博物館のHPが紹介されていたので見たらYouTubeにアップされている動画の解説が分かりやすくよかった それによると斎宮に選ばれた内親王は一年間斎王のための御所?で暮らした後 野宮でまた一年間過ごしてから伊勢に出立するのだそう 源氏物語で伊勢に同行する六条御息所を

 

光源氏が野宮に訪ねる場面 あれは伊勢に出立するまでが斎宮に決まってから一ヶ月とか短いのを光源氏が緊迫して訪ねたのかと思っていましたが 一年間もある間のどこかだったなんて いつ訪ねたんだろうとかねがね不思議だっのが氷解しました

 

六条御息所の娘が斎宮女御になって絵合巻の主人公 その斎宮女御の風情が経子さんに似ているのでそこの描写を華鏡に借りました そうしたら今度はほんとうに斎宮になる白河天皇絡みの姫君が登場して その方が道子さんの娘 経子さんと道子さんて 私のなかではなんか印象が同じなんですがそれが不思議

 

そのあたりを明確に整理ついたら書き始めます

 

Kindleで購入した中公新書 榎村寛之氏『斎宮』には代表的な斎宮として大来皇女以下七人の方が紹介されていますが その貴重なピックアップの一人に白河天皇の皇女があり 私にはそれが道子さんの善子内親王だったら嬉しいのに 賢子さんの媞子内親王 道子さん関係はあまり記録に残されてないのかも

 

媞子内親王はのちに郁芳門院になる方 郁方門院って 今まで資料を読んでいて何度かどこかでお目にかかっているお名前だけれど こうやって今度どこかで読んだら ああ 斎宮だった方 と知っているお名前として身近に感じられるようになるんですね

|

2020.10.19 ツイッターから転載…日々雑感 白河天皇女御の道子さんに辿り着きました

10月17日

ウィキを見ているのですが 女御に定員はなく 複数いる場合 承香殿女御などと呼ぶと 白河天皇には道子さんが先に入内していて 二年後に賢子さんが 白河天皇の即位で二人共女御になります その翌年 賢子さんが中宮になるんですね 道子さんはそれで実家に籠って でも白河天皇は気を遣って内裏においでよと

 

道子さんは娘の善子内親王の伊勢斎宮下向に同行して伊勢で21年間暮らします その間に賢子さんは亡くなっていて 多分白河天皇は伊勢から帰った道子さんを大切にしたのだと思う 若い時の過ちを償うみたいに それで西本願寺本三十六人集の制作にも加わらせて書写者の一人にしたのではないでしょうか

 

結局 道子さんは実人生では寂しい思いをしたけど 西本願寺本三十六人集の書写者として名を残しました 道子さんの名は文化に永遠に引き継がれます これ 仙覚さんの万葉集と一緒 仙覚さんも政治によって人生を引き裂かれたけど 万葉集において永遠に功績は残りました 早くそれを書きたい 書かなくては

 

栄花物語で道子さんを読んだ時 書くとは思わなかったけど 実家にさがったのは毎晩賢子さんが召されて行くのを見ているのが辛いからと それを読んだ時 源氏物語の桐壺更衣が賢子さんで 道子さんは弘徽殿女御だけど 道子さんの方が桐壺更衣っぽい性格だなあと感じました だから書けそう

 

道子さんの章 だんだん構成が見えてきているのですが 書くことの文章としても集大成になる気がする 今まで四苦八苦してきたことの手慣れて練れて 道子さん 美しい章にして差し上げますね

 

小説は文章が命を持つことだから その文章が自分の内にある間はその魅力が伝わらない ということを重々承知のうえで 思考の経過記録として呟いています

 

10月18日

おはようございます 仮寝から起きて栄花物語を読んでいたら夜が明けこのまま朝に突入かと 松のしず枝以降の三章が後三条天皇と白河天皇で栄花物語は終わります その松のしず枝の最初のほうに春宮白河天皇への賢子さんの入内があり 賢子さんは十四五 道子さんは三十ばかりと 天皇は確か十九歳

 

賢子さんの入内の行列や支度の華麗さは目をみはるばかりで 道子の女御がどんな心持でいるであろうと気の毒に思われた と記述自体でそうなっています 賢子さんは無邪気な美しい女御 道子さんはしとやかな柔順(おとな)しい女性であった と描かれています 書き始める前にひととおり再読してみます

 

最初に読んだ時には気づかなかったけど 最後の章のほんとうの最後も道子さんの伊勢下向でした 道子さんにはじまり道子さんに終わる最後の三章 この三章だけ作者不明なのですが どういう意図があるのか気になっています 写真は手持ちの料紙を適当に並べて撮ったものです

 

雑木林も秋色めいてきました@井の頭公園

 

色づいた木々の葉の奥にたわわになる柿 公園の柿って どなたが採るのでしょう

 

与謝野晶子訳栄花物語より: 道子の女御は世の中を味気ながって実家にばかりいた。陛下はそれを哀れに思し召して准三后にその人を遊ばされた。父である能長も女御も陛下の御恩を身に沁みて感じるであろうと思われた。道子が御所へ参ることはもう二三年も絶えていたのであるが、陛下がただ来るだけでもと

 

強いてお勧めになったので、九月の二十三日に宮中へ入った。曹司は承香殿である。道子は懐妊していた。能長はどんなにそれを嬉しく思ったか知れない/ 道子の女御は九月の十四日に姫宮をお生みした。陛下は皇子でないことをこの際ことに残念に思し召した ← 誕生したのが善子内親王で 伊勢斎宮になる方

|

2020.10.17 ツイッターから転載…日々雑感 白河天皇の西本願寺本三十六人集のことでいっぱいです!

10月15日

もうすっかり気持が西本願寺本三十六人集に入ってしまって白河院周辺のドラマになる話ではないと困惑していたのですが 三十六人集の書写者の一人に院の女御で道子さんという方がいて ウィキで見たら賢子さんより先に入内されていて 皇女が斎宮になって伊勢に同行と これまさに六条御息所ではないですか

 

まして西本願寺本三十六人集の書写者になるほど綺麗な筆跡の持ち主だとしたら この辺りでドラマを考えるといいかも

 

白河天皇女御の道子さん 栄花物語に書かれてました 栄花物語自体の最後も道子さんの伊勢同行に続いて忠実の晴れやかな春日祭でのようすで締め括ってます

 

最初に読んだ時にまさか書く事になる人と思わなかったけど結構言葉を尽くして賢子さんに押されて寂しい女御という立場を栄花物語の記述者は書いていて なんか不思議な気がしたんですよね

 

一旦寝たのですが起きてツイート この伝でいくと経子さんの再婚を書かなければならないみたい 経子さんの再婚相手は公任の孫 西本願寺本三十六人集の三十六人というのは公任の『三十六人集』に選ばれた三十六人の家集だそう 何か関係あるでしょうか

 

欧州の方がどんどん危機感募らせているのに 日本の現状は何! って 酷好きません? 怖いです

 

10月16日

朝一で吉祥寺 平日だから人込みもなく咳をする人も皆無 海外の方の危機感とは程遠く 帰宅してTLを見ても世情は絶対に的外れ TL上で意識ある人だけが危機感を持っているなんておかしすぎます 道子さんと経子さんの項 頭のなかで動き出しています 白河天皇期の切なく素敵な大団円になると思います

 

TLで 海外在住の方々のきのこ祭に触発されて きのこを山盛りに買ってこようと思ったのですが いつものように小さくパック詰めされたいつも見ているきのこしかないスーパーでは購買意欲も萎えて ふつうに買ってきました 果物といい 海外の方々の野性味あふれる食材のふんだんさが羨ましいです

 

白河天皇女御の道子さんは 賢子さんの入内ですっかり白河天皇の寵愛を奪われ 実家に戻って暮らす寂しい女性 と栄花物語に書かれていてそのイメージだったけど 西本願寺本三十六人集の躬恒集の奥書に承香殿女御 とあるのを見ると やはり女御という語の威厳は凄い と思ってしまいました

 

ざっと白河天皇の六十賀の後宴の贈物と読んだ時に白河天皇が贈られたと理解してしまったのですが 違って 白河天皇がお礼に鳥羽天皇に差し上げたので 西本願寺本三十六人集は白河天皇が制作されたもののよう それで納得 白河天皇なくしてあの料紙を誰が作れます?

 

栄花物語の最後が道子さんの伊勢下向と忠実の春日祭の晴姿 忠実って誰だろうと検索したら 師実の孫 そしてなんと あの頼長のお父さんではありませんか そういう流れなんですね 個々に知っていてもなかなか全体の流れに結びつかなくて

 

10月17日

おはようございます 西本願寺本三十六人集の絵葉書で重之集と宗宇集 もう大好きで集めていましたそれが今頃白河天皇と結びついて取り組むことになるなんて! 今朝は ふと なぜ公任の三十六人集をこういう調度の冊子にしたのだろうとの疑問が 図録の解説ではこういうところに踏み込まれてませんものね

 

九博で買った伊勢集のマグネット コースターほどの大きさです もっと買ってくればよかったと後悔しているのですが 九博オープンの記念展示の時のだからミュージアムショップにまだあるか疑問 冷蔵庫に貼って毎日ご満悦で料理しています

 

伊勢集のマグネットで思い出したのだけれど 源氏物語と万葉集の違い 後奈良天皇が一緒にあった尾州家河内本源氏物語と西本願寺本万葉集のうち 万葉集だけを手放した 今まで文学として内容が華やかか地味かで考えていたけど 源氏物語には背景に装束や調度の華麗さがある 源氏物語本自体が調度なのかも

 

RTの新しい麒麟がくるのキャスト 三条西実澄が三条西実隆のお孫さんなんですね 実隆の時代が向井理さんの将軍の時代だったから 時代が進んでいます これから玉三郎さんの正親町天皇が出て三条西実澄が光秀との間に入って取り持つとか 明日からのバージョンらしいけど さて 私は観るべきか否か迷います

 

朝からのんびりしていますが 今日は週末でまだ誰も起きてきません 朝食は出来ていてもう私は済ませました!(昨日吉祥寺で巨大な白茄子を買って半分に切って肉詰めにしたのですが まだ茄子が余っていたのでベーコンと茄子のスパゲティを作りました)

 

(これで私はもう原稿にかかっていい! となった途端に家族が起き出して いつもの日常が始まって 私の時間がなくなる それが週末)

|

2020.10.16 ツイッターから転載…日々雑感 なんと! 『西本願寺本三十六人集』も白河天皇の時代のものとわかりました

10月14日

また Gluck-Sgambati: Melodie (Sergey Rachmaninov, piano) を聴いて離れてしまった経子さんを偲んでいます 階下に堀河天皇期が書いてある本をとりに来て

 

図書館に行かれないから いつもは借りて済ますのを 白河天皇の項を書くために買った古典たち しみじみ終わって片付け中 こんなに気持ちを入れて書くなんて 始めた時には思ってもいませんでした

 

びっくり また大変な問題が 小川靖彦先生『万葉集と日本人』を拝読しているのですが それは 『萬葉学史の研究』で四苦八苦して読み解いた白河天皇親政期のことがこちらにあっさり簡単に紹介されているのを昨日発見したからで 堀河天皇期を萬葉学史の研究で読む前にこちらをと思ったからで そうしたら

 

なんと あの西本願寺本三十六人集は白河院政期に白河天皇の財力で作られていたと そういえばあの料紙! 和漢朗詠集からの流れで白河天皇絡みだと気づいてよかったのでした わざわざ徳川美術館まで石山切展を観に行ったくらいなのに 制作の経緯にはまるで目が入ってなかった その事に驚いています

 

またこんな魅力的な素材が出現して せっかく真面目に親子さんと顕季の六条藤家に専念しようと考えてたのに どうなっていくのでしょう 見当がつきません とりあえず 寝ます

 

徳川美術館新館開館二十周年記念秋季特別展『王朝美の精華・石山切ーかなと料紙の競演』図録 『万葉集と日本人』によると白河院六十賀に鳥羽天皇が贈ったという説もと 図録の解説を拝読してみます

 

振り返ってみると白河天皇の項には公任の和漢朗詠集から入ったのでした そこから国宝源氏物語絵巻の料紙の問題にいって…… 終わったと思った白河天皇の項はまだ終わってなくて 西本願寺本三十六人集の料紙世界で幕を閉じるのでしょうか なんか とても不思議

 

石山切は西本願寺本三十六人集のうちの貫之集下と伊勢集の断簡をいうそうです

 

徳川美術館の石山切展は2007年 私が鎌倉ではじめて講演させて頂いたのが2010年だから まだ私には料紙も源氏物語にも深まってなく ただ好きで名古屋まで観に行って夢中になっていただけ まさかその背後に白河天皇世界が広がっていたなんて(知らないということはなんておそろしい)

 

ああ 完全に また顕季が吹き飛んでしまいました 堀河天皇期を読んでいてなんか気乗りしなかったのですが まさかこんな展開になるなんて でもほんとうに白河天皇って料紙がお好きなんですね (私と趣味が一緒 なんておこがましい笑)

 

顕季のことは二条天皇の項に入ったら 説明で通過します

 

10月15日

おはようございます 昨夜ちらっと徳川美術館石山切展図録の解説を読んだのですが 私が好きな王朝継紙はこの西本願寺本三十六人集に始まるそう どうりで和漢朗詠集を東博で観た時に 王朝継紙がないなあと思ったのでした カルチャーに習いに行っているのに実技しか身についてなく 今頃になってこんな事に

 

王朝継紙は この技法を復元された近藤富枝先生の命名 染めた和紙を細い糊代をつけて小さく千切り 重ね合わせて貼ります この表紙の作品では黒い紙とベージュの紙 それぞれに箔や葦手ふうの絵が散らされています

 

ご満悦! 徳川美術館石山切展図録は解説資料編との二冊になっていて それで図録ばかりを見ていて 解説資料編を開いたのは今回が初めて 不勉強極まりなかったのですが だからこその新鮮さです まさか白河天皇期がここに行き着くなんて

 

昔から円環という言葉が好きで どうしようもなく離れたものも 遠い宇宙をめぐって 惑星の軌道のように再びの邂逅する というような感覚があるのですが 白河天皇の項でまさにそれが起こって感動 何も知らずに和漢朗詠集に始まったのが西本願寺本三十六人集で終わりなんて

 

円環を閉じるにあたって白河天皇の項を見直したら 訂正するべきことも出てくるだろうし コンパクトに纏まると思う 華鏡 先へ進むより それをしたい気分

 

ずっと気になっていたことをようやく確認 西本願寺本三十六人集は 西本願寺本万葉集と一緒に 戦国時代に後奈良天皇から西本願寺第十世証如に下賜されたもので それで両方とも西本願寺と冠されているのでした そうだろうとは思いつつ気持ちが万葉集に特化していたから調べるに至ってなくて やっと

 

後奈良天皇をウィキで検索したら 三条西実隆に和歌や漢籍を習って造詣深い方と 西本願寺本万葉集を所持してらしたなら一緒に尾州家河内本源氏物語も持ってらしたはず なのに源氏物語は手放されなかった〜 尾州家本の方は豊臣秀次に渡り その後徳川家康にと 代々いつも滅ぼされるまで所持されています

 

後奈良天皇のお子様が正親町天皇 って 麒麟がくるで玉三郎様が演じられた天皇 西本願寺本万葉集と西本願寺本三十六人集が下賜されたのはあの時代なんですね と ここでさらにウィキを検索したら なんと 後奈良天皇が下賜されたのはまさに足利義輝 あの向井理さんが演じられた将軍の時代でした!

 

私は麒麟がくるを二回しか見てなくて 二回目で向井理さんの将軍義輝最期と 玉三郎さんの正親町天皇登場 もうそれで十分と気持ちが満腹して以前も以後も見ていないのだけれど 三条西実隆が登場した(する)回って あるのでしょうか

|

2020.10.15 ツイッターから転載…日々雑感 やっと六条藤家の祖顕季を入れらる? 舞台は堀河天皇期になります

10月13日

新しい段落への移り変わりの時期は気分が入るまでうろうろするのですが この間に滞っているお礼状をしたためようと 夜になって思いつきました 日中必要があって小川靖彦先生『万葉集と日本人』を開いたら 白河天皇の項のことがわかりやすく書かれていて でも今だからわかるんですよね 書いたから

 

たしかこのご本だったと思うけど(何冊か開いたので) 仙覚さんの権律師の件 昨年暮れの鎌倉ペンクラブの講座で 権律師というのはふつうあり得ないとある方から疑義を頂いたのですが 頼経の推挙だろうというご考察の資料があるみたい 第二章で重要になるので覚えておきます

 

野菊の群れも どんぐりも 雑木林に行けば撮るチャンスあるのに 今はどこにも行かない 家から出ないから季節のそうした自然に触れてないです もう ずっと でもその分ひたすら華鏡に籠って少しずつ到達すべき 到達したい 書く地平に近づいてきました 素直に嬉しい

 

白河天皇親政期は後拾遺和歌集の完成で堀河天皇への譲位で終わるのですが 年譜の水色で囲った期間が万葉集に取り組んだ時期と思います が 顕季の柿本人麿影供はもっとずっと後年で待賢門院璋子さんが入内した年 鳥羽天皇の御代になっていて もう全然華鏡に入る事象ではないとわかりました

 

古今和歌集を絶大に信奉する白河天皇が 古今和歌集の詞書が歌より低いのにならって万葉集の題詞が低い体裁にしたというふうに今の今まで考えていたのですが 今まで書いてきて白河天皇が万葉集に思い入れを持っていた感じがないのと この年譜の中に万葉集をしている形跡が見い出せないのとで 万葉集は

 

院政期に入ってから 顕季主導のもとで行われたのかも という気分が突然沸きました 後拾遺和歌集の完成で通俊が役目を終え 代わりに顕季が院の近臣として台頭してきます それが堀河期 讃岐典侍日記の長子さん登場もさせられる時期ですが えっ! と 突然 それを書くの? と内心悲鳴が

 

長子さんの父顕綱が白河天皇親政期で最初に道長所持の万葉集を書写した人なんですよね 白河天皇親政期にそれを入れられなかったから ついでに讃岐典侍日記もスルーと 楽を決め込んでいたのですが 二条天皇の項に行く前に書き忘れていた何かがある気がしてたのは これ? 顕季の活躍 書くことになりそう

 

だんだん気持ちが絞られると 白河天皇が拘ったのは天皇勅命の勅撰和歌集なのであって 万葉集に特化してではない だから後拾遺和歌集の完成で終わり それを引き継いで顕季が堀河朝で万葉集をした と こういう流れかも

 

オランダ 大変そう ほかの方の国々でも同様 日本だって例外でないはず どうか皆様無事にこの時期を乗り越えられますように 私もとにかく注意して生きます

 

10月14日

おはようございます すぐに二条天皇の項に入れると思っていたのになぜかうじうじ停滞していて こういうときはなにか重大なことを書き忘れていると思っていたら やはりそうでした 入らないと思っていた六条藤家の祖顕季 今度はばっちり入れられます 今日から顕季 二条天皇がまた遠のきました笑

 

一年くらいまともに写真を撮っていないから過去写真も尽きてきて 今朝もいろいろ探しながらこの桔梗は前にも載せたけど と外してたら 日本の色のツイートに桔梗色 TLに流させて頂いて 私も桔梗にしました ほんと 花の写真を撮りに行きたい!

 

堀河天皇といえば讃岐典侍日記 になるでしょうけれど 考えたら女房日記で紫式部日記と同じくらい好きなのに 我家に本がない! 何も知らずに図書館で借りて読んだ玉上啄弥本に嵌まって それは古い本でその後に出された新刊本にはない注や味があるから 読みたくなったらそれを借りて読んでいました

 

白河天皇期に最初に万葉集を書写したのが讃岐典侍日記の長子さんの父 ということで 堀河天皇期では長子さんに触れないわけにいかないと思うけど ここは本もないことだし思い切って触れないでおこうと思う(今はですが笑)代わりに顕季の母で白河天皇の乳母だった親子さんを書く気持ちになっています

|

2020.10.13 ツイッターから転載…日々雑感 梨壺の五人を入れて、白河天皇の項を書き終わりました

10月11日

華鏡 村上天皇の梨壺の五人を少し前に戻って入れることにし それはすぐ済む作業だから そうしたら二代后多子さんにかかります 最近はもうずっと Gluck-Sgambati: Melodie (Sergey Rachmaninov, piano) を聴いています なんか胸に迫ると経子さんが浮かぶんですよね 透明だった経子さんが

 

経子さんと離れるのが惜しいです

 

華鏡 まだ気分が乗らないけれど梨壺の五人を入力して通しで印字して白河天皇の項終了 推敲は深夜 深夜になれば独りで集中できるからきっとなにかが変わります(人がいる時間の入力は義務で字面を並べているだけの感じでフラストレーション)もう疲れて背骨が痛いから少し休んで起きて推敲します

 

原稿がここまでくると紅旗征戎非吾事が吾事のようにもなってくるけど 仙覚さんにとっての比企の乱 光行さんにとっての源平の争乱の 今がどこにあるのかわからない このままであるはずがないと思って注視しています ことここに至って極まれりとか その機が近いとか なにかあると

 

10月12日

おはようございます 白河天皇を終えて乗り越えたんだなあとしみじみ 仙覚さんが二条天皇の万葉集を規範にした とだけ事実を連ねて進めるなら簡単でした でもなぜ二条天皇の万葉集がそんなに特異だったのか それが謎で解いていったら白河天皇の万葉集問題があったのでした 解けてほっとしています

 

白河天皇があまりに文化的に魅力で(法勝寺建立 後拾遺和歌集の勅撰 乳母伊勢大輔 経子さん……) 小説的に離れられなかったのですが 仙覚さんの小説にどうしてこんなに と白河天皇への執着が自分でも不思議でした でも終わってみて これぞこの華鏡の根幹だった の気分です

 

と書いて思い出したのですが 法勝寺のことはまあまあ知ってはいても後拾遺和歌集に関しては全くの無知 まず本を買ってこの集について調べてなど 当初のうろうろ迂回の新発見の驚きと感動 今にして思うと懐かしいです

 

NHKBS1を見ていたら 永久凍土が溶けて現れた巨大なクレーターとか 大変なことが起きているんですね

 

秋の野 久々のスマホ撮り 白河天皇にかかっている間 何を見てもスマホを出して撮る気になりませんでした

 

華鏡 今まで「第一章 仙覚以前・第二章 仙覚」としていたのを 「第一章 仙覚以前ー比企の乱まで・第二章 仙覚の生涯」にしようかと さっきふっと思ったのでメモ

 

10月13日

おはようございます 今は白河天皇の項と二条天皇の項の過渡期 急に終了なった白河天皇の項で重大な書き落としがないか 時間がたつとしみじみ浮かんでくるのでそれを待っています 二条天皇の項は多子さんを書くつもりだけれど はじめたら仙覚さんの万葉集についてになってしまって ? と笑

 

なにか書き忘れているかもしれない白河天皇の項と 書き始めたけれど多子さんが入ってこない二条天皇の項の 両方のあいだで心を無にしてのんびりしていた昨日でした 無っていい! いつも頑なに心を満杯にしているから寛ぎました 今日は両方をしっかり読み直していきます

 

この呟きのような状態のとき なにもしゃべりたくなくて家にいても無言が多いです 無言でいたい状態 って気持ちいいです

|

2020.10.12 ツイッターから転載…日々雑感 原稿に戻って、白河天皇の内裏歌合の項を前に書いていた経子さんも生かして無事に終了など

10月9日

おはようございます 昨日読んだ平家物語二代后のあまりの酷さがショックで夢にまで見てしまいました 前にも何回か読んでいるけど 多子さんしか興味なかったので 二条天皇がどういう人かは関係なく読み飛ばしていたんですね 万葉集で高僧になれる人格と読んでいたからこその違和感でした

 

二条天皇についての記載はここに既に書かれていて 長恨歌の踏襲と つまりこうだからこう と当て嵌めているわけ 強引に多子さんを二代后にしてしまった人格だからこうだろうと ということ 私が思うままに書いたら 平家物語派の方から 違う! って批判されそう でも思った通りに書きます

 

久々に出した日本史辞典 実定さんと多子さんの生誕年の確認に 結果 二人とも載っていなかった 唖然 ネット上での記事でも弟の記述がありました でもウィキを信じる限り兄ですよね 図書館に行かれるようになったら大きな辞典で確認します

 

たった一歳違いのようだけど 兄か弟かって 書く上で大きな問題です 上から目線になるか 下からか

 

目覚めてちょっとTLを見ただけでも胸が潰れる思いの事件や報道が RTも躊躇われできませんでしたが とにかく私は華鏡に比企の乱で人生を翻弄された仙覚さん でも潰れずに万葉集を完全な形に仕上げてくれた仙覚さんに思いを託して 書きます

 

古い年譜が出てきたのですが 二条天皇のこの時代に光行さんと定家が生まれているんですね 多子さん入内の2、3年後 多子さんの入内は平治の乱の翌年なんだ~ と今更に確認 だから頼朝が伊豆に流された年に入内したってこと…… などいろいろ繋がっていきます

 

原稿に戻りました 経子さんを書いていたのだけれど 前後を読み返したら やはり経子さんは別の機会に短編にしようかと 醍醐天皇の古今和歌集で終わって次の村上天皇の梨壺の五人に行く前に経子さんを入れていて あと推敲すれば終わりだったのですが 削除するかも

 

経子さん やはり女院とか女御でないから弱いのかなあ と思う ここのところずっと女院に拘って書いていて その方たちの華麗な人生と対照的な背負っているものの大きさ重さ そしてそれに耐える賢さが求められる人生 に感じ入っている気がする だから そうした重圧のない経子さんでは弱いんですね

 

経子さんにぞっこんで浮き足だって書いていました そこに届いた田中大士先生『衝撃の『万葉集』伝本出現』 拝読してこんなにすっかり気分の軌道修正されるとは思わなかったです

 

村上天皇の梨壺の五人を書いてから経子さんを入れればいいかも

 

華鏡 白河天皇の内裏歌合の項 前に書いていた経子さんも生かして無事に終了しました これは村上天皇が二番目の勅撰集である後撰和歌集を編んだ後 内裏歌合をしたのにならってのことでした(醍醐天皇の古今和歌集の後の大井川行幸をならったように) これから村上天皇の梨壺の五人の項にかかります

 

10月10日

週末だから午前は家族奉仕 ひとりだけ早く起きて食事の準備したりでもうぐったり笑 白河天皇の項 見事に吹っ切れて推敲を残すのみ 最後は賢子さんの崩御ですべてに気力を失った天皇が経子さんを公任の孫に嫁がすところにしました これは後年待賢門院璋子さんを鳥羽天皇に嫁がせたのと同じ構図です

 

それにしても ほんとうに 白河天皇って長い院政を敷いた巨人のような人物 というより 国家にも文化にも女性にもすべてに心を砕く熱い情熱を持った こんなにゆたかな人物だったなんて ほぼ唯一ではないですか? こういう人・・・

 

YouTubeで則天武后の映画?の広告が出て見てしまいました 映画なのかDVDかわからないけど 撮られていたことも知らなかったから興味津々 観たいなあと思うけど 映画だったら今は行かれない ただ 則天武后とはちょっとイメージが違うし 話が韓国ドラマの王宮ものみたいな気が

 

台風も その他TLを見ての心配ごと怒ることいろいろあるけれど 今は華鏡にだけ心を砕いている私としては 一度くらい 乱れ咲く満開の萩を 見に行きたい! 家から出ていないからまだ今年一度も萩の花を見ていません

 

顕季の柿本人麿影供も 顕季が親子さんの子だということも 結局入れられなかった 研究的に興奮してこれは書いておかなくては と使命感に燃えた部分が全滅で 多子さんのような思ってもみなかった人の浮上 じつはこうなることを望んでいて まだならないと忸怩たる思いで頑張ってきたので やっとの思いです

 

華鏡 二条天皇期に入ったのですが どうしても村上天皇の梨壺の五人を入れられない このままいったらたぶんもう書かない 多子さんに特化していくだろうからたぶんもう入らないですね 白河天皇期の最後も経子さんの再婚を消して待賢門院璋子さんで締めました

 

やっと動き出したかも そんな気がする

 

|

2020.10.11 ツイッターから転載…日々雑感 平家物語二代后多子さんのことなど

10月8日

おはようございます 平家物語に来ることだけは避けたかったのに 二条天皇の万葉集の項に来たら経盛書写本があって 突然多子さんが浮上 もうすっかり虜です この伝でいくと建礼門院徳子さんも書かなくてはならないし 徳子さんだけは避けたかったのに避けられないですね 光行さんの終生の理想の女性です

 

二条天皇の項は 清輔と題詞が高い万葉集を真剣に作っていく真面目に国文学的考察の内容にするつもりだったのに なんでこんな豹変に? と自分で驚いています でも 二条天皇の多子さんへの一瞬にして恋に堕ちたシチュエーションを思ったら 人間にはこういう衝動があるって そんなことを思い出しました

 

題詞が高い万葉集が 一瞬にして恋に堕ちるシチュエーションに! 笑ってしまいますね

 

セロリの葉の処理に迷っていたら マリネした鯖の切身が余っていたので そうだと思いついて一緒に炒めました

 

もうすっかり二条天皇と清輔の万葉集を書く気分は抜けて 多子さんの内的言葉が浮かんできています この独白 誰に聞かせようと相手を考えるのですが 独白の内容が二条天皇に関わることだからうかつに親しい女房にさえ語れないですよね…… とここまで書いて そうだ! 兄の実定さんならと思いつきました

 

と これが私がtwitterを止められない理由 気持ちの中に監視されているという嫌な気分があっても twitterで呟くことが書くことの前進になっていることは事実です

 

小学館全集の平家物語で 多子さんが実定の姉と注があり えっ? となってウィキを見たら 実定1139誕生 多子さん1140誕生 実定の妹ですよね まだよく調べますが

 

あくまでもウィキの記述だけれど 多子さんは近衛天皇とは平家物語二代后で懐旧するほど親しかったようには思えない 同年に忠通娘の呈子が入内していて 近衛天皇はすっかり忠通に掌握されている 世間の期待も呈子のほうに そして平家物語での二条天皇は傲慢 これ かなり意図的に脚色されてる気が

 

多子さんが近衛天皇に入内したのは11歳 近衛天皇の崩御は天皇が17歳で多子さんが16歳の時 でも数年前から病気でそれを忠通だけがにぎっていて父の鳥羽天皇も合わせてもらえなかったそう こういう状態で多子さんが平家物語にあるような親しい育みができたとは思えないのですが

 

二代后というような前代未聞のことを周囲の反対を押しきってまで強引に成し遂げた二条天皇が悪者扱いされてるけど 仁和寺にいた時の高僧になるだろうと言われてたほどの人格はどこにいってしまったか 平家物語は意図して創作してる気がします

|

2020.10.9 ツイッターから転載…日々雑感 なんと! 二条天皇の万葉集の項は二代后多子さんを書くことになって、平家物語を読みます

10月7日

おはようございます 昨夜は小川靖彦先生『萬葉学史の研究』の白河天皇から二条天皇への流れを再読 把握しました 結局題詞が低い万葉集は院の近臣の問題なんですね 白河天皇が院政に入ってからの なので白河天皇親政期は経子さんの項を後拾遺和歌集の完成で終わらせ 次は清輔と二条天皇に進みます

 

忠兼本ができたのは 顕季が公卿に列することになったくらいにずっと後 白河天皇も経子さんも通俊も関わりません 前から書いているけど顕季はなんか経済人なんですね 柿本人麿影供をしたり六条藤家の祖になる活動をしているけど文学の香りがない 私には膨らませようがなく書けなくて 済みません

 

白河天皇親政期の最後が後拾遺和歌集と決まって気持ちがすとんと決着つきました 今までゴールが見えなくて暴走というか迷走していた感じ 『衝撃の『万葉集』伝本出現』を拝受拝読して仙覚さんの万葉集研究という基本に戻りました

 

万葉集の時代区分: 平安中期(道長・頼通) 平安後期1(後三条天皇・白河天皇) 平安後期2(堀河天皇・近衛天皇) 平安後期3(二条天皇)

 

二条天皇といえば二代后多子さんだった と二条天皇時代の題詞が高い万葉集写本に 経盛書写本があるのを見て思う 大宮権大夫として多子さんに仕えたとあり 二条天皇の内裏歌会で活躍と ここから平家歌壇を率いる人物になっていく 多子さんがいつ入内したか 清輔の活躍とどう重なるか 年譜に入れてみます

 

多子さんといえば兄の実定さん 私には光行さんのことで重要だから たしか二条天皇時代の実定さんについて重要な論文があったけど それ どこに仕舞ったか 探します

 

二条天皇対後白河院の構図のなかで拝読したご論考だから 後白河天皇の資料の箱を見ればあると思う と思い出してきました 華鏡 ちょっと時代が進みました笑

 

たまたまだけれど おすすめユーザーのなかに国文学教員という方があって その方のアカウントに行ったらその方にフォローされているし その方をフォローしていられる方々にそうそうたるお名前が その方々に「フォローされています」 えっ? となって 知らなかった~ とびっくり 怖くなりました

 

鎌倉の源氏物語の活動をはじめた時 お前は何だ と非難され 監視してやる! とフォローされたことがあって 専門家さんからの監視の恐怖は 今はもう抜けたとはいうもののトラウマになっています でも もうほんとうに抜けなくちゃ 強くならなくてはと思いますが 華鏡を書いて少し強くなりました

 

華鏡のために 頑張ります

 

多子さんが二条天皇に入内したのは頼朝が伊豆に流された年で 二条天皇崩御まで五年あるから 清輔が内裏昇殿を許されたり 丹後内侍が女房として出仕していたちょうどその時代 ということは 丹後内侍は多子さんと接してますね! 清輔と接しているとしてそれを書こうと思っていたけど 多子さんとまでとは

 

私は 平家物語の実定さんが みんなが新しく遷都した福原京で月見をするのに 実定さんは京に残っている多子さんを思いやって一人京に戻り 多子さんと二人でしみじみお月見をするシーンが とても好き

 

二条天皇は近衛天皇が崩御されるまで仁和寺にいて 崩御で突然立太子の為に帰らされるのだけれど いつ多子さんを見初めたのだろう 近衛天皇崩御後でしょうけれど 二条天皇は13歳 多子さん16歳 ずっと仁和寺の修行生活だった二条天皇には悲しみに沈む多子さんを一目見てこの世ならぬ美しさと思ったのかも

 

この辺りを書いたら面白いかも 二条天皇の万葉集期として

 

多子さんを望む二条天皇に 周囲はみんな反対したけど 二条天皇ががんとして受け入れずに入内させた というあたりの二条天皇の多子さんへの執着って 寺院生活しか知らないゆえの現実に魅せられた 一般人とは違う感覚だったのかも(平家物語を読んでみます)

 

なんか 六条藤家を書けなかったのは 女院とかの女性が絡まないからだった という気がしてきました笑 待賢門院璋子さんに始まり 上東門院彰子さん 経子さんに そして今度は多子さん あと続いて滋子さんを書きます

|

2020.10.7 ツイッターから転載…日々雑感 『衝撃の『万葉集』伝本出現』を拝読して、仙覚さんの万葉集研究の陰に光行さんと定家!

10月5日

おはようございます コロナはまた大切な人を 深夜目覚めてTLを見て驚きました 高田賢三氏の訃報 つい先日TVでご自宅を案内される元気なお姿を見たばかりなのに パリでデビューされたばかりの頃 お金がないから自分で と室内の白い壁面一杯に大きく華やかに花の絵を描かれていた 以来 壁面装飾が憧れに

 

こんなことってある? という驚きと怒りと悲しみ これから先まだまだコロナの危機は続きます それどころかどんどん危険に ご冥福をお祈りするとともに とにかく残された私たちみんな 気をつけて生き残らなければと思います

 

田中大士先生『衝撃の『万葉集』伝本出現』で 讃州本ー忠兼本ー雲居寺書写本ー親行本ー仙覚寛元本の系譜の雲居寺書写本が廣瀬本にあたるそうです 雲居寺といえば光行さんが万葉集を書写した寺院 源氏物語で二大写本をなした仲の二人ですが やはり万葉集も雲居寺で書写し合ったのでしょうか 興味津々

 

これから原稿に戻ります 白河天皇の項からなかなか抜けられないと思っていたら廣瀬本のご本のご恵送 賜って拝読してすっかり思考が整いました 忠兼本中心に白河天皇の万葉集の項を書いて二条天皇に進みます 私のなかでは もう 忠兼さん! 家族にもう「さん」が付いてる と笑われました

 

田中大士先生『衝撃の『万葉集』伝本出現 廣瀬本で伝本研究はこう変わった』をようやく読了しました 楽しかったし思考がリフレッシュされました 最後が廣瀬本は定家が書写した万葉集を書写した本 という章で ずっと題詞の高低とか○○本云々で緊張してきたから親近感ある定家の登場で ほっと和みました

 

定家が発見した土佐日記には 原本の文字遣いまで忠実に写し取った為家本と 意味が通りにくいところを自身の判断で変改した定家本があり 廣瀬本はその為家本系統の万葉集で定家の手が加えられることなく定家を通りすぎた本とのこと

 

定家は実朝に万葉集を贈っていますが それは実朝亡き後将軍頼経の所持になって仙覚さんが校訂に使っていますが それはきっと定家が手を加えた本なのでしょうね とは私の推測

 

廣瀬本のもととなる定家書写本は 建保三年(1215)に書写されてるから 時代は順徳天皇・実朝期 廣瀬本のもととなる定家書写本が実朝に贈られた可能性はあり でしょうか まだ推測の段階ですが

 

キッチンをとられてこんな時間にツイート笑 光行さんの雲居寺書写万葉集は鎌倉に来て子息の親行さんが書写します それが親行本 光行さんの雲居寺書写が定家と関わってるかもしれないとなると 華鏡ではスルーしようと思っていた光行さんを無視できなくなる? と また延びそうな嫌な予感しかありません

 

雲居寺は今はありませんが 東山の中腹?に正法寺様という京都市街を一望に見渡せる寺院があって その辺りにあったそう 正法寺様から歩いての帰途 龍馬博物館がありました そこら辺と思うと分かりやすいかも

 

仙覚さんが将軍頼経に命じられて万葉集の校訂をした時に校勘のために使った四本は 松殿入道殿下御本(題詞高) 光明峯寺入道前摂政左大臣家御本(題詞低) 源実朝本(題詞低・定家から贈られた) 親行本(題詞低・忠兼本の系譜の光行本を書写)←仙覚さんの万葉集研究の陰に光行さんと定家!

 

松殿入道殿下御本は伊房卿手跡で白河天皇親政期のもので顕季三男で清輔父の顕輔所持本 清輔まで忠兼本が六条藤家の家本だったのを 清輔が伊房手跡の顕輔本のほうが由緒あると判断して変えた→二条院御本に結実?

 

田中大士先生『衝撃の『万葉集』伝本出現』から小川靖彦先生『萬葉学史の研究』に戻ってこの辺りを読み返していたら 今まで猫に小判だったのが猫でなくきっちり小判と判別でき人になって見えてきました笑

 

ちょっと複雑 と乗りで書きたいけれど ちょっとでなく相当複雑 なのでしばらく今度はこちら 萬葉学史の研究からノートにとってまとめます

 

こんなところで突然清輔登場 もしかして別に項をたてなくても 白河天皇の万葉集から二条天皇の万葉集へ進められる?

 

六条藤家を書かなくてはと 祖の祖となる白河天皇乳母の親子さん夫妻から 祖の顕季を書こうとしても どうしても筆が進まなかった 今まで知られてきていることをただ自分流にこなしてだけ書くのがほんとうに嫌 自分なりの基点を定めてでないと私は書けないよう 忠兼本でようやくその基点が定まりました

 

10月6日

おはようございます 萩の花が好きで植えたいのに膨大にひろがるので諦めたけど 萩の花の写真はないかしらと探したら 2010年の今日は峰岸純夫先生『太平記の里 新田・足利を歩く』の撮影に同行させて頂いて新田荘を訪ねていたのでした 写真をご紹介させて頂きますね 群馬県です

 

一枚目と二枚目…上野国新田郡庁跡 三枚目…この日の最初はここからスタートしました。峰岸先生が四方を指差して説明して下さって 四枚目…新田義貞公ゆかりの生品神社 五枚目と六枚目…二ツ山古墳 七枚目と八枚目…新田荘遺跡円福寺、新田氏累代のお墓があります

 

こちらのご本です 吉川弘文館歴史の旅シリーズ『太平記の里 新田・足利を歩く』 表紙の写真も右下の一枚を除いて使って頂きました 中は地図が豊富で訪ねるには携行に最適なご本です

 

『衝撃の『万葉集』伝本出現』を拝読して気持ちが定まりました 推敲が終わっていない経子さんの項を終えてそれから忠兼本にかかろうとも思ったのですが このまま伝本追及に気持ちを据えて小川靖彦先生『萬葉学史の研究』の再読に入っています 写真は仙覚さんが晩年過ごした埼玉県比企郡小川町の槻川

 

2013年10月8日の撮影 7年前の明後日ですね笑 槻川のほとりに庵を構えたといわれているようですが その出典がどこなのか私には不明 でも一応槻川を撮ってきました 小川町からは慈光寺のある山が見えるはずだけどみつけられませんでした あの頃 ほんとうによく小川町を訪ねていました

|

2020.10.6 ツイッターから転載…日々雑感 田中大士先生『衝撃の『万葉集』伝本出現』をご恵送賜り拝読しています

10月2日

もう びっくり 今日届いた郵便物を見ていなかったことに気がついて 玄関に行って見たら このご本が 一瞬息が止まるかと思ったくらいです もちろん嬉しくて ずっと孤立無援どころか見えない敵と闘っている気分なのですが そうではないんだ という無上の安堵 廣瀬本出現での総括 待ち望んでいたご本です

 

今日の満月 いろいろありましたが すべてに感謝します

 

田中大士先生『衝撃の『万葉集』伝本出現 廣瀬本で伝本研究はこう変わった』 待ちきれなくて拝読し始めているのですが あとがきの冒頭に廣瀬本との出会いについて 《その時の第一印象は、「この本は、題詞が高い!」ということに尽きます》に 思わず吹き出してしまいました しかも「!」までついていて

 

これは知らなかったです それまで二十巻そろいの伝本は仙覚さんが校訂した本の系統しかなかったのが 廣瀬本は非仙覚本では初めての完本だった 序「廣瀬本『万葉集』の出現」より

 

源氏物語の写本に 青表紙本源氏物語と河内本源氏物語の二大写本がありその他の系統の写本を別本系統というように 万葉集にも仙覚本と非仙覚系統本がある って面白いですね 結局写本の研究ってこういうところを詰めていく作業ですものね

 

10月3日

おはようございます 田中大士先生『衝撃の『万葉集』伝本出現』を拝読しながら寝たのですが 一気に読めると思ったのに何度も確認しながらで半分くらいしか 田中先生のご論考とは2012年のアナホリッシュ國文學万葉集特集号が最初の出会い この出会いがなかったら たぶん私は写本研究に目覚めてません

 

田中大士先生のご論考との出会いがなかったら 当然仙覚さんの小説を書くところの至ってないし 華鏡が生まれることもなかった 久々にこのご本で「親行本」の語を目にして そうなんだよなあ 田中先生の親行本に辿り着いたご論考で 小説は書ける! と確信したんだった と懐かしかったです

 

今日は終日『衝撃の『万葉集』伝本出現』を拝読しています 田中先生の親行本に辿り着いたご考察を拝読した時の興奮再びですが ご考察はさらに進んでいました 書くことに専念するようになってご論考を拝読していなかったからなのでしょうね 新鮮です

 

10月4日

おはようございます 昨夜のうちに拝読し終えたかったのですが まだあと少し 仙覚さんまでの私が知っていた経緯は 讃州本ー忠兼本ー雲居寺書写本ー親行本ー仙覚寛元本 だったのですが 雲居寺書写本というのが新たに加わってこの謎解きがまさにサスペンス そうくるのか~といった展開 拝読してよかった

 

やはりこのご本は華鏡で白河天皇の歌合の項を書いたら万葉集はもうナレーション的に流して と思っていたことへの忠告でした ここにある写本の忠兼という人物 最近白河天皇親政期を書いていて小川靖彦先生の萬葉学史の研究で顕季の甥?とかと知ったばかり この忠兼本ができた状況が詳細に書かれてます

 

萬葉学史の研究を拝読しても 自分に興味のない経緯や人物は書こうと思わないから読み飛ばしますよね 忠兼本は知ってたけど田中先生のこのご著書を拝読するまで完全にスルーしてました 知らない世界はあっちからこっちからと 複合的に見ないと恣意的になって大切なことを見落とします

 

『衝撃の『万葉集』伝本出現』を賜ってほんとうによかった 独りだと恣意的になる以上に方向がぶれる それを指摘して下さる方が傍にいればいいのだけれど 目下この分野に取り組んで書いているのは たぶん 私独り 方向は間違っていないと思えたことで充実感を取り戻しました

 

昨夜徹夜して読んでいたからぐったりしていて昼寝しました 起きたら 忠兼が動き出していて 文書で済まそうと思っていたのにやはり忠兼本のできた具合をイメージにしなければと 顕季がかなり立派になってからのことなので それまでに白河天皇の万葉集事情を入れます

|

2020.10.4 ツイッターから転載…日々雑感 中秋の名月 & 白河天皇の歌合で賢子さんのことなど

10月1日

おはようございます 岩波文庫後拾遺和歌集目録序には 賢子さん崩御への通俊の哀悼が記されています 集が完成するのを見ずに崩御されたのでした 大切な宝物が国から奪われたと 如何に賢子さんが輝いた女性でいらしたかを彷彿 賢子さんの逸話って残ってないのでしょうか

 

今日の雑木林@井の頭公園 陽射しがすずやかです

 

雑木林の曼珠沙華 この前も撮ったけど ここだけひと群赤い花 柵で近寄れなくてズームでここまで

 

吉祥寺東急百貨店で北欧物産展が開催されていて 立ち寄ったらニシンのマリネが 嬉しくなって即購入 こちらのは純粋な北欧の味と よく国産では日本人向けに昆布出汁を使っていたりするそうです 貴婦人 作ろうかな!

 

風流ではないけど 隣家の屋根上に昇ってきた中秋の名月 朝TLで今年の中秋の名月は世界中の人が特別な思いで願いを込めて見るでしょうとのツイートを読んで 私もそう思って撮りました 月の清浄さに願いを込めて

 

10月2日

おはようございます 華鏡に通俊が勅撰集を拝命するところを 中務内侍日記の伏見天皇が京極為兼を呼び出したイメージを借りて書いたのですが 目録序を読むとぴったり 岩波文庫が届いた時に一回読んでるから難しくて忘れてもイメージは生きてたんですね 拝命はとても個人的だと思い その線で書いています

 

つくづく思うのだけれど 伏見天皇には中務内侍日記が 堀河天皇には讃岐典侍日記が 建春門院滋子さんにたまきはるがあるのに 白河天皇には何もない それが白河天皇親政期に誰も通暁していない原因だなあと まず親近感が持てないから 白河天皇は待賢門院璋子さんで誤解されてるけど 女性に潔癖な気がする

 

歌合の記録を見た時から感じてたこと 歌合はそもそもの村上天皇の時代から女房たちが主催 だから歌の競い合いだけでなく調度に趣向をこらしたり十二単まで競って豪華絢爛に 白河天皇の直前の寛子さんの歌合など栄花物語で女房装束の詳細な説明がえんえん なのに突然白河天皇は女房なしの内裏歌合です

 

純粋に歌だけの競い合いで真剣勝負 その結果負けた右方が判定に不服を申して 翌日 右方だけで歌合をやり直してます 白河天皇って 待賢門院璋子さんのエピソードがあまりに広まったから 人格を誤解されてる気がする もっとも賢子さんの早すぎる薨去でそこから人格が変わったようですが 人生観が狂った?

|

2020.10.3 ツイッターから転載…日々雑感 白河天皇中宮賢子さんの魅力について…大河ドラマの主人公にいかがでしょう & 『後拾遺和歌集』所収の通俊の目録序のこと

9月29日

おはようございます 相変わらずの深夜の残照の机上ですが TLに野宮神社の写真が流れてきたので 賢木巻を出しました 大好きな巻 光源氏が野辺を歩いて訪ねていく描写 最高です はるけき野辺を分け入りたまふよりいとものあはれなり しばし読み返していました

 

秋の花みなおとろへつつ、浅茅ヶ原もかれがれなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて、そのこととも聞きわかれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり

 

だいぶ腱鞘炎の親指の痛みがとれてきたので家事に支障がなくなりましたが 書くにはまだペンを持つと カックンカックン なんか 可愛くて笑ってしまいます でも書くと字の汚さより前に書いたのとの濃さ薄さが一目瞭然 定家とか紫式部さんとかの歳をとって字が汚くなったという嘆きに共感したりして楽しい

 

ひととおりの家事を済ませてこれからPC 一気に経子さんのところを終わらせてしまおうかと あと 柿本人麿影供は詳細なドラマ仕立てでなくナレーション的に済まそうかと そうしないと先に進めない!

 

9月30日

おはようございます すとんとツキが落ちて白河天皇の項から離れる気に 経子さんと絵合の項はあと推敲して終わり 白河天皇と万葉集の項を綿密に書く気持ち満帆で進めてきたけど止めて 六条藤家の祖顕季と柿本人麿影供を入れてナレーション的に終わらせ たぶん 今日 二条天皇と清輔に入ります

 

写真は鎌倉の海蔵寺様の萩 見事との評判を聞いて訪ねたらほんとうに見事で圧倒されました 海蔵寺様は宗尊親王ゆかりの寺院とあとで知って再訪しています お庭の手入れの行き届いた 鎌倉のなかでも風流な雅な寺院の気がするのは宗尊親王ゆかりだからでしょうか

 

2014年9月18日の撮影ですが 今年はどうなのでしょう いつかまた行きたく思っている寺院です

 

もう~ ごちゃごちゃして メモをとりながら推敲しているのだけれど 例えば母方だけで見ていたのと 父方を入れて見たのとでは人間像がまったく違って浮かびあがる 知らなかった人物を調べながら書いているからそういう脆さをしょちゅう痛感します やっと白河天皇中宮賢子さんの入内がわかりました

 

賢子さんは顕房の子なのだけれど 師実の養女となって入内しました このあたり 誰のどういうはからいで意図なのかずっとわからなかったのですが 顕房の父師房が頼通の養子になっていて 師実は頼通の子 師房とは兄弟のような関係ですよね 賢子さんはそういう繋がりのなかの人でした

 

賢子さんは師房が道長と明子さんの子の尊子さんと結婚してできた子の顕房の子だから道長の曽孫 そして祖父師房は村上天皇皇子の具平親王の子で村上源氏の祖といわれるくらいの人だから 村上天皇の血も引いている 白河天皇に寵愛され亡くなった時に悲しまれただけのイメージの女性なんかじゃないです

 

さぞ学識高く才能にあふれ 活動力もあって 魅力にあふれた女性だったことでしょう 白河天皇が失って嘆きの極みに落とされたのも当然でした

 

ゆうきまさみ先生が大河ドラマの素材を連ツイされてるけど 賢子さん主役なら 賢子さんは殆ど知られてないけど 夫は白河天皇 祖父が村上源氏の祖の師房で 師房は道長孫の尊子さんと結婚して頼通の養子になって上東門院彰子に可愛がられ 賢子さんは頼通の子の師実の養女になって入内など状況が魅力

 

と いきなり賢子さんの魅力に目覚めてしまいました 側室経子さんの側の応援隊だけれど・・・笑

 

あ そうか! 大河ドラマになったら経子さんも登場人物ですね 兄の通俊も 白河天皇の乳母だった伊勢大輔の孫兄妹対 道長の栄華を継ぐ頼通家側の賢子さん 面白そう

 

賢子さんが中宮になったから法勝寺の建立がはじまるのだから 大河ドラマが叶ったら あの八角九重塔建立の映像が観られる! 大井川行幸の龍頭鷁首の船を浮かべた光景も なんて 次々映像が浮かんでしまっています(仙覚さんを大河にって思っていたのに……なんて変心笑)

 

月が綺麗ですと 煌々と輝く中秋の名月直前の月を期待したのですが 一面薄い雲に覆われて朧月 ともちょっと違う風情の月でした

 

朝のツイートで経子さんと絵合の項で白河天皇を離れると呟いて 終日推敲したりしてたのだけれど 諸事諸々あって集中できずそれでも頑張って終わらせようとしてたのに なんか気になって後拾遺和歌集の解説を読んでいたら 村上天皇の内裏歌合から白河天皇の内裏歌合にいったものの それでは梨壺の五人を

 

飛ばしてしまっていたことに気がついて唖然 梨壺の五人の万葉集訓点作業こそ 仙覚さんが命名した古点なのに 終日集中できずにもやもやしていた原因はこれだったのかと 霧が晴れたかのように爽快 経子さんや賢子さん方女性陣の魅力に引きづられて万葉集を忘れるところでした笑

 

経子さんや賢子さんは従来的小説になるけど 仙覚さんの小説「華鏡」はそれでは書けない だから鏡の形式にしたのだけれど うっかり経子さんと賢子さんに気持ちを入り込ませてしまいました 仙覚さんの小説は編年で事象が連なっていくところに真実が浮かび上がる構成で あえて小説的描写を避けています

 

岩波文庫『後拾遺和歌集』所収の通俊の真名序みたいな目録序を読んでいました 撰集拝命の状況は「承保の比、予 侍中たり。季秋の天、夜 閑かに 風 涼し」すなわち拝命は陰暦九月 つまり秋だったんですね たまたまだけれどそんな時節にこれを読んで縁を覚えてなんか嬉しい

 

日中は諸事諸々の気を散らされる攻撃から自分を守って頑張るのに必死で 推敲にしがみつくのがやっとでした だから進んでいると思っていたのに こういうものを読んでじっくり浸る という作業ができてなかったことに愕然 だから深夜のこの時間が大切なんです もう日中の用は交わし切れないと諦めるしか?

|

« September 2020 | Main | November 2020 »