2020.11.29 ツイッターから転載…日々雑感 「2020.11.27」ははじめて鎌倉で講演させて頂いた【紅葉賀】から10年目の記念日でした。その日に「華鏡」第一章が完成して新たな一歩です
11月27日
おはようございます 今朝のクリスマスローズです 昨夜徳川美術館の源氏物語展中継を見て 尾州家河内本源氏物語が大きく映し出されて 実時の奥書もアップされ 金沢文庫の創設者まで解説されてよかったのですが だから鎌倉でできた写本とまでは言われない 結局私はこれと格闘してたんだなあと思いました
鎌倉武士の実時が源氏物語を作ったなんてという感動は話されても それが鎌倉に源氏物語の文化があったことに結びついて語られてこなかったから 鎌倉は武士の都だけで今まで来たんですよね だから鎌倉の一般市民の方が私たちとは源氏物語は無縁 と思って諦めて暮らしてらした 学問があと一歩民間に歩み
寄ればそういうことは起こらないと思うのだけど…… 私は学問は学問として学問から見えた文化は一般市民が 国民が すべての人が享受して初めて意味あると思っています そしてこの尾州家河内本源氏物語は仙覚さんの西本願寺本万葉集と密接な関係があり そこまで書くのが「華鏡」です
もしかして今日って11月27日! 鎌倉で初めて鎌倉の源氏物語について講演させて頂いたのが2010年11月27日 10年経ったんですね なんかどきどきしてきました 鎌倉投信邸社屋をお借りしてお話させて頂いてのその帰り道 鎌倉の道は狭いから聴いて下さった方々がバス停に向かうのに皆様一緒になって 口々に
私たちにも源氏物語があったのね~ と感動を話されていたと 後になって聞きました 鎌倉夫人という言葉があるくらいの土地だから雅を解する方々はいられるんですよね なのに武士武士って もう嫌になってたの とは別の方の言葉 10年前はまだそういう状況でした ほんとうに鎌倉にも雅はあったんです
思い出しました 当時鎌倉は武士の都鎌倉での世界遺産登録を目指していて そこに私が公家文化もあったと外から割り込んでいったから とても嫌がられたのでした で 登録に失敗して新たな価値を求め始めて河内本源氏物語に行き着き 仙覚さんの万葉集に など やっと目を向けて貰えるようになったのでした
昨夜徳川美術館の中継で紹介された『尾州家河内本源氏物語』夢浮橋巻の北条実時の奥書です 影印本を刊行された八木書店様のカタログで ちょうど十年前の私の最初の講演の年に刊行がはじまったものですから 講演時に配布させて頂くのに大量に頂戴しました それを使ってのパワポのスライドです
二枚目もパワポのスライド 源平の争乱時代に生きた源光行さんと藤原定家 その二人のつくった河内本源氏物語と青表紙本源氏物語 そのうちの河内本源氏物語が鎌倉でできていて それは初代将軍頼朝の時代のことで 六代将軍宗尊親王の時代に『尾州家河内本源氏物語』になった という系図です
やっと仙覚さんの万葉集の原点として醍醐天皇の古今和歌集に辿り着き そこから書き始めて乗ってきています たぶんこれでもう以前のようには迂回なく書き進めると思います 推敲にかかっていても推敲の変化具合が和らいでいるのが感じられて ああ やっとこなれてきたなあと
10年前の今夜の@鎌倉 2010年11月27日 私の生涯ではじめての講演をさせて頂いた日 鎌倉投信邸様にてでした 写真は講演終了後の打ち上げに 社長の鎌田様が庭にライトアップして下さいました 鎌倉の方の心配りは風流です 紅葉は華道家の宮内信江様が都内のご自宅から伐り出して活けて下さって
鎌倉投信様は鎌倉の昭和の古民家を改造して社屋にしてられます 一枚目は玄関で紅葉の活花は宮内信江様 二枚目が門から 三枚目は折角講演に大勢の方が見えるからと社長の鎌田様が新しくして下さった竹垣 最後が会場で50名の方がぎっしりでした 建長寺様の長椅子をお借りして下さったのも鎌田様
前月に打ち合わせに行ったとき 庭に紅葉の木があるのを見て 主催して下さった鎌倉の方が講演を「紅葉賀」と命名されたのでした それで四枚目にあるようにパワポの最初のスライドを真っ赤な紅葉にしました 墨文字の掲示板も鎌倉の書道家さんに書いて頂いたり 風流の極みの最初の講演でした
徽子女王が女御になった村上天皇と 紫式部が仕えた一条天皇では 40年しか隔たってないんですね 第62代と第66代だから それ位なのでしょうか 源氏物語が村上朝を意識して書かれたというから もっと古く 100年位は昔と勝手に思っていました これでは紫式部がじかに徽子女王について話を聞いていたことも
ありうるでしょう 事実 村上天皇女御の荘子女王がお産みになった皇子は 少女時代の紫式部が仕えたといわれる具平親王だし そういう人たちの周辺では村上天皇の後宮話を実話であるいは身近な伝聞で話せる人もいたでしょう 華鏡第二段徽子女王に入って 計算してびっくりしました
紫式部は 徽子女王の父重明親王の日記を読み込んでいたそうだから 相当 徽子女王を意識してます でも それが遠い昔でなく 少しだけの過去で親しい人から噂話も聞けるような女性だったなら 創作のモデルとして昔話にあったから というのと違い かなりリアルな関心 と ちょっとぞくっとしています
勝手な感触だけれど 紫式部は身分上では女御とか更衣とか 女房でも上臈とか 自分より上の女性がどんなにいてもどうでもいいことだけど 徽子女王の斎宮女御という 成長期を清浄な神の領域で過ごした女性に 言い様のない関心 というか手の届きようのない敬虔さ を感じ ある意味羨ましかったのでは
と呟きながら 徽子女王の段のメインの深まりを探っています