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2020.11.29 ツイッターから転載…日々雑感 「2020.11.27」ははじめて鎌倉で講演させて頂いた【紅葉賀】から10年目の記念日でした。その日に「華鏡」第一章が完成して新たな一歩です

11月27日

おはようございます 今朝のクリスマスローズです 昨夜徳川美術館の源氏物語展中継を見て 尾州家河内本源氏物語が大きく映し出されて 実時の奥書もアップされ 金沢文庫の創設者まで解説されてよかったのですが だから鎌倉でできた写本とまでは言われない 結局私はこれと格闘してたんだなあと思いました

 

鎌倉武士の実時が源氏物語を作ったなんてという感動は話されても それが鎌倉に源氏物語の文化があったことに結びついて語られてこなかったから 鎌倉は武士の都だけで今まで来たんですよね だから鎌倉の一般市民の方が私たちとは源氏物語は無縁 と思って諦めて暮らしてらした 学問があと一歩民間に歩み

 

寄ればそういうことは起こらないと思うのだけど…… 私は学問は学問として学問から見えた文化は一般市民が 国民が すべての人が享受して初めて意味あると思っています そしてこの尾州家河内本源氏物語は仙覚さんの西本願寺本万葉集と密接な関係があり そこまで書くのが「華鏡」です

 

もしかして今日って11月27日! 鎌倉で初めて鎌倉の源氏物語について講演させて頂いたのが2010年11月27日 10年経ったんですね なんかどきどきしてきました 鎌倉投信邸社屋をお借りしてお話させて頂いてのその帰り道 鎌倉の道は狭いから聴いて下さった方々がバス停に向かうのに皆様一緒になって 口々に

 

私たちにも源氏物語があったのね~ と感動を話されていたと 後になって聞きました 鎌倉夫人という言葉があるくらいの土地だから雅を解する方々はいられるんですよね なのに武士武士って もう嫌になってたの とは別の方の言葉 10年前はまだそういう状況でした ほんとうに鎌倉にも雅はあったんです

 

思い出しました 当時鎌倉は武士の都鎌倉での世界遺産登録を目指していて そこに私が公家文化もあったと外から割り込んでいったから とても嫌がられたのでした で 登録に失敗して新たな価値を求め始めて河内本源氏物語に行き着き 仙覚さんの万葉集に など やっと目を向けて貰えるようになったのでした

 

昨夜徳川美術館の中継で紹介された『尾州家河内本源氏物語』夢浮橋巻の北条実時の奥書です 影印本を刊行された八木書店様のカタログで ちょうど十年前の私の最初の講演の年に刊行がはじまったものですから 講演時に配布させて頂くのに大量に頂戴しました それを使ってのパワポのスライドです

 

二枚目もパワポのスライド 源平の争乱時代に生きた源光行さんと藤原定家 その二人のつくった河内本源氏物語と青表紙本源氏物語 そのうちの河内本源氏物語が鎌倉でできていて それは初代将軍頼朝の時代のことで 六代将軍宗尊親王の時代に『尾州家河内本源氏物語』になった という系図です

 

やっと仙覚さんの万葉集の原点として醍醐天皇の古今和歌集に辿り着き そこから書き始めて乗ってきています たぶんこれでもう以前のようには迂回なく書き進めると思います 推敲にかかっていても推敲の変化具合が和らいでいるのが感じられて ああ やっとこなれてきたなあと

 

10年前の今夜の@鎌倉 2010年11月27日 私の生涯ではじめての講演をさせて頂いた日 鎌倉投信邸様にてでした 写真は講演終了後の打ち上げに 社長の鎌田様が庭にライトアップして下さいました 鎌倉の方の心配りは風流です 紅葉は華道家の宮内信江様が都内のご自宅から伐り出して活けて下さって

 

鎌倉投信様は鎌倉の昭和の古民家を改造して社屋にしてられます 一枚目は玄関で紅葉の活花は宮内信江様 二枚目が門から 三枚目は折角講演に大勢の方が見えるからと社長の鎌田様が新しくして下さった竹垣 最後が会場で50名の方がぎっしりでした 建長寺様の長椅子をお借りして下さったのも鎌田様

 

前月に打ち合わせに行ったとき 庭に紅葉の木があるのを見て 主催して下さった鎌倉の方が講演を「紅葉賀」と命名されたのでした それで四枚目にあるようにパワポの最初のスライドを真っ赤な紅葉にしました 墨文字の掲示板も鎌倉の書道家さんに書いて頂いたり 風流の極みの最初の講演でした

 

徽子女王が女御になった村上天皇と 紫式部が仕えた一条天皇では 40年しか隔たってないんですね 第62代と第66代だから それ位なのでしょうか 源氏物語が村上朝を意識して書かれたというから もっと古く 100年位は昔と勝手に思っていました これでは紫式部がじかに徽子女王について話を聞いていたことも

 

ありうるでしょう 事実 村上天皇女御の荘子女王がお産みになった皇子は 少女時代の紫式部が仕えたといわれる具平親王だし そういう人たちの周辺では村上天皇の後宮話を実話であるいは身近な伝聞で話せる人もいたでしょう 華鏡第二段徽子女王に入って 計算してびっくりしました

 

紫式部は 徽子女王の父重明親王の日記を読み込んでいたそうだから 相当 徽子女王を意識してます でも それが遠い昔でなく 少しだけの過去で親しい人から噂話も聞けるような女性だったなら 創作のモデルとして昔話にあったから というのと違い かなりリアルな関心 と ちょっとぞくっとしています

 

勝手な感触だけれど 紫式部は身分上では女御とか更衣とか 女房でも上臈とか 自分より上の女性がどんなにいてもどうでもいいことだけど 徽子女王の斎宮女御という 成長期を清浄な神の領域で過ごした女性に 言い様のない関心 というか手の届きようのない敬虔さ を感じ ある意味羨ましかったのでは

 

と呟きながら 徽子女王の段のメインの深まりを探っています

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2020.11.27 ツイッターから転載…日々雑感 華鏡は、醍醐天皇の古今和歌集から書き直しています

11月25日

おはようございます 徽子女王を書いていて心地よかったのですが 昨夜なぜか停滞して心の底でこれでいいのかなあ という疑念が湧いて中断 なぜかわからないから無理に書いて進めることをしないで寝ました 起きたら そうだ醍醐天皇の大井川行幸だ!と これを書き入れなければならなかったのでした

 

増鏡とか栄花物語を読むと 内野の雪 など風流な章ごとのタイトル 華鏡もそうしなければと考えるのですが 私は詩を書いていたときも漢字二文字だけの固いタイトルにこだわっていたくらいで 風情から程遠いタイトルしか浮かびません泣

 

醍醐天皇の大井川行幸を調べていて 宇多天皇が小倉山の紅葉を見に大井川御幸をとあり 大井川といえば嵐山なのに小倉山ってどこ? 小倉山は定家の山荘で歩いたことあるけど 大井川との関係は知らなかったと検索 大井川を挟んで嵐山の対岸にあるのが小倉山なのでした 私が歩いたのはこの中〜 など開眼

 

京都地元人でないから 例えば定家の山荘を訪ねるといえば研究書か観光案内を見て 京都駅からピンポイントでそこに向かいます 結構ピンポイント的にはかなりマイナーな所でも行っていますが こういう俯瞰的視野って 身につくのが難しいです 大井川行幸でも大堰川と大井川って違うの? とか苦労しました

 

醍醐天皇の大井川行幸が 延喜七年と延長四年説があって 古今和歌集仮名序の撰者拝命が延喜五年 この延喜五年拝命説にも奏上説もあり 勝手に決めることは許されないから四苦八苦しているのですが いずれにしても醍醐天皇の大井川行幸は古今和歌集院宣以降になります 正確な年次は書けないけど 後 になら

 

仙覚さんの万葉集の原点を遡っていったら古今和歌集に行きつきました それで古今和歌集から書き始めて最初の章を終えました 華鏡第一章「よろづの言の葉」 紀貫之は醍醐天皇よりも早く宇多天皇から仕えているんですね 宇多法皇に召されて大井川行幸仮名序を書いていて それがとてもいいです

 

宇多法皇がまず大井川行幸を好み 醍醐天皇を誘って それが白河天皇の大井川行幸に 華鏡を書いていて白河天皇から遡ったから 宇多法皇に行き着いた今日はやっと原点に辿り着いた! の思い 第一章がやっと充実して納得です 村上天皇は醍醐天皇の皇子 徽子女王の登場は第二章になりました

 

早めに寝ようとしたのに眠れなくて 起きて小さなPCに向かっていました 徽子女王の斎宮時代 母寛子さんが亡くなって任を解かれて帰京するまでの章 琴の音 のタイトルにしました 徽子女王といったら琴の音の歌ですものね 明日印字して推敲しつつ膨らませます サフランは今は細い松葉のような葉だけです

 

あまりに淡々と書いているので心が籠っていないのではないか心配なくらい でも主題と方向性を掴んだら もう模索でぐるぐる書きあぐねなくても書くべきことだけ書けばいい気になって 長大な時間のかかる大作になるかと思っていたのが 案外コンパクトにまとまるかも の気がしています 掴むって凄い

 

11月26日

やっと午前の仕事が終わってPCに これから印字して徽子女王の段の推敲を 醍醐天皇の段は紅葉の大井川のタイトルにしました 華鏡はずっと哲学的断章みたいな断章でいくと決めていたのですが やはりそうなりました 主題ごとに段ができて主人公がいる その連なりの先に仙覚さんの万葉集があります

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2020.11.26 ツイッターから転載…日々雑感 華鏡、最初から書き直しはじめて順調です。私らしい主題が見えてきました

11月23日

おはようございます 華鏡 書き直し作業に入って一日たちました 前に書いていた原稿の組み直しだから一から書くのと違って楽なのですが コピペでなく一文字一文字の入力にこだわっています そうすると指の先から新たに見えてくる世界が流れ出てくる 昨夜の源氏物語がまだない時代だったんだ ~みたいな

 

それが眠りにつく直前のことだったから 今朝起きたらそれが展開していて 徽子女王の項に紫式部が源氏物語の範をとったのはこの村上朝だったと入れようと どんどん私らしい主題に深まりそうで広がりが予測不能です

 

今年最初のクリスマスローズ 綺麗に開きました 今みつけて(夜になって玄関を開けたらみつけました)

 

11月24日

今朝のクリスマスローズ 清楚です 朝からネットが繋がらず印字できないから推敲できなくています 仕方ないからさらに先を打っていようかと小さなPCに戻ってきました 徽子女王が華鏡最初の主人公さんだなんて 不思議な展開です 情感込めて書きたい

 

使命感とか義務感とかさらには大河と被る問題とか 諸々のしがらみから離れて自由に書いていいとなったからとても気持ちが楽になって 原稿にも素直な気持ちで向かえています 昨日一日取りかかっていましたが 文章が無理なく出てくる感じ 自然に自然な私らしい作品になっていきそうな感じです

 

改めて 朝のご挨拶用に用意した修学院離宮の写真です ネットに繋がらないからスマホで先程ツイートしました 一から書き直してみてわかったのですが 今まで苦しみながら書いていた原稿は 私自身の主題に巡り合うための模索だったのですね 徽子女王に突き当たってちょうど大河の配役が発表になって

 

たまたまですが最初から書き直しはじめたら これって今まで見えてなかった私自身の主題じゃない? 仙覚さんの小説とばかり気張って書いていたから見えなかったけど 私が書きたかったのは これだ! っていう感じが見えてきています もう少ししたら確信になると思います

 

さっき 書誌学がテーマのご本を予約させて頂きましたが 楽しみ 私は書誌学は学んでないし 必要でその世界を覗かせて頂いているけど 私がかかわる世界ではないとわかる 書誌学がテーマの小説は類を見ないそうだけど 写本にかかわった人たちの小説も 類を見ない! と自負しています

 

華鏡のテーマは 写本にかかわった人たちの人生 その連なりの歴史 だから写本等の作品に関してはきっちりと史実を明確に書いて かかわった人たちの人生は推測を交えるから想像するしかなく そこが小説 そのふたつの構成で進めます

 

『源氏物語と鎌倉』も 源氏物語の写本にかかわった源光行さん・親行さん親子の人生を解説した本だから 副題が「河内本源氏物語に生きた人々」でした 今度はそこに仙覚さんの万葉集が加わるから 結局私は『源氏物語と鎌倉』以降ずうっと同じテーマを追ってるのですね

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2020.11.24 ツイッターから転載…日々雑感 華鏡、原稿を最初から書き直しはじめています

11月22日

おはようございます 華鏡は最初から書き直すことに決めました 今日から集中して一気に書き進みます やっと望んでいた前屈みにのめり込むようにして書く状態になりました TLもあまり追えなくなりますがとにかく一気に隠って集中します 写真は文化園前から見た公園の雑木林 左手方向が吉祥寺です

 

長く蕾のままだったのですが やっと開きかけた今年最初のクリスマスローズ 原稿を最初から書き直すにあたり PC周りを整えてファイルに日付を入れたら 20201122 0と1と2ばかり並びました 新しいことを始めるにあたって縁起いいかなと

 

華鏡 最初から書き直しているのですがさくさく進んで心地よい やはり今まで無理してたのだなあと痛感 増鏡を読んだら最初に序があって これこれこういう内容で誰から誰の御代を書く と説明がある なるほど華鏡もそうすればいいと踏襲したら なんと 結局『源氏物語と鎌倉』の改訂版みたいに笑

 

当然なんです 『源氏物語と鎌倉』では源氏物語しか扱ってなく それが終わったから万葉集にとりかかって そうしたら源氏物語に関わった人たちが全くいっしょに万葉集にもかかわっていた ということ だから『源氏物語と鎌倉』に書けなかった万葉集と仙覚さんのことを 華鏡に入れて書くことに

 

RTさせて頂いた写真の石垣が 昨夜の夢で歩いた街にそっくりでびっくり こんなことってあるんですね 深夜も入力したい方 深夜用の小さなPCで再挑戦の華鏡を打っているのですが ネットに繋いでいないからいちいち印字に階下におりてプリンターを動かします その時に少しTLを見ます 遡れないけど

 

最初から書き直している華鏡 すでに書いてある原稿の組み直しだからスイスイの作業なのですが なんと 旧稿で取り組んでいて 書き直しに入ったらその乗った気分を忘れてしまうと恐れた徽子女王 編年体で書き直してたら彼女が最初の女御としての登場人物でした 旧稿ではあんなに後だったのに

 

旧稿で書いた中宮や女御は 待賢門院璋さんに始まり 上東門院彰子さん 白河天皇の賢子さんや経子さん 思念の繋がりで書いていたから編年がごっちゃでした

 

寝ようとして気づいたのですが 徽子女王の後に荘子女王を書くのですが そうしたらその次は紫式部さんですね 今まで源氏物語は既存のものとして扱っていたのに 編年体で書き直して徽子女王を書いてたら 源氏物語がまだ生まれてなかったことに気づきました 不思議な感じ 源氏物語の出来始めを書くなんて

 

そういえば万葉集 仙覚さんの存在が知られていないから その普遍化のために頑張って仙覚さんを書いてたのに 源氏物語はあまりに周知だから 紫式部さんとか源氏物語自体を説明する必要があるなど 思ってもいませんでした

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2020.11.23 ツイッターから転載…日々雑感 華鏡は構成を考えて最初から書き直そうかと

11月20日

華鏡 徽子女王の入内を書いたら荘子女王が浮かんで気持ちがそれていました そこに大河の配役発表があって離れていて今夜久しぶりに徽子女王に戻ったら琴の件が浮上 入内前のこととして書いておくべきだったと気づきました 暫くの停滞が軌道修正になりました 荘子女王はまだ先

 

徽子女王が琴の名手で村上天皇もそうだったから二人で奏であったとあって 琴はどんな琴だったろうとウィキで検索しました 当時琴は皇室ゆかりの方しか携われない貴重な楽器だったそう それで源氏物語若菜下巻の女楽で検索したら やはり琴は皇室ゆかりの女三宮 紫の上は和琴です 徽子女王も皇室ゆかりの

 

人だから琴なんですね 女楽 楽器にしてすでに紫の上は女三宮に気圧されています 辛いです こんなYouTubeがあって聴いていました Singer Songwriter IKUMI MATSUDA 女楽の再現です

 

女楽で明石君は琵琶だけど 明石君も琴を持っています それは光源氏が明石を去る際に明石君に与えたもの 明石君はそれを松風巻で弾いています 皇室ゆかりの人でないのに琴を持っている明石君 何気に紫式部さんは明石君を徽子女王になぞらえて高貴に書いてますね

 

11月21日

雑木林の紅葉@井の頭公園

 

雑木林の紅葉をもう一枚@井の頭公園

 

今年も咲きました 駐車場の片隅に植えられた菊 去年みつけて 吾妻鏡の比企尼の記事を思いだし そこから比企尼が解明されていった 早くそれを書きたいのにまだまだ当分たどり着けそうにありません 急ぎたいけど 華鏡の構成が確定したここからは 丁寧に書いていくことを心がけます

 

昨日から 構成を整えるためにいっそ最初から書き直そうかと思い始め 従来の鏡はどうなのかの参考に増鏡を読んでいました いっそ最初から書き直したほうが勢いがつくし でも今取りかかっている徽子女王を中途半端にして離れたくないしと一日考えていて 今結論が 道子女御まで書いて最初から書き直します

 

書き直したら徽子女王から道子女御への繋がりを忘れそうと気づいたからです 道子女御あっての徽子女王だったのに 徽子女王に入れ込んでしまい 道子女御を忘れてました 書き直したらきっとそうなります 道子さんへの思い 再燃しました 一日考え込んでいた収穫です 書き直そうかという迷いには文体の件も

 

あったのですが 鎌倉殿次第では無駄になるかもしれないと迷いながら書いていたから 自分の文体という充実感がありませんでした もうその束縛から離れたのだから 自由に書いていいわけですよね そこのところに目下思念が終始しています

 

さっき決意したみたいな呟きをした後 また気が変わって最初から書き直そうかと それで最初からの原稿を見直していたのですが 天皇だけをとっても年代順が入り乱れて錯綜甚だしい で 最も古い時代の天皇は? と考えた時 それは宇多天皇で新撰万葉集からでした だとなると宇多天皇から始めればいいんだ!

 

と思った時 玄覚さんの独白バリエーションの冒頭の呪縛から突然解き放たれました 宇多天皇ー醍醐天皇ー村上天皇ー白河天皇ー後白河天皇ー二条天皇 と並べればいいんですよね 新撰万葉集ー古今和歌集ー梨壺の五人の万葉集ーといったふうに残された知的文化遺産の繋がりでと そう思ったらテーマが明確に

 

知的文化遺産の系譜 それがテーマです その系譜のなかで生きた人々 それを書きます 徽子女王も村上天皇の御代に入れられるし 語り手は? 最後に「私は○○です」 と 誰に言わせようかしら

 

前にも呟いたことありますが 私はカフカの「橋」という掌編に感化されていて それは淡々と事象が語られた最後に話者が橋だったことが明かされ 「私は橋です」で終わる それで私は「私は歌です」という相聞歌の短編を書いたことがありました それがさっき甦って 最後に締めくくる話者を何にしようかと

 

それが決まったら 冒頭が書けます 今浮かんでいるのは この国には万葉集と源氏物語という…… という始まりの文章 書誌学とも違う いってみれば写本文化? ならば 私は筆ですとか笑

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2020.11.21 ツイッターから転載…日々雑感 再来年の大河の配役が決まり見通しがたったので、華鏡の構成もこれできちんと方向性が定まりました(時代が被っているので、今までどうなるのか見当つかず様子を見ていたのでした)

11月19日

おはようございます 写真は鎌倉駅ホームから見えるホテルニューカマクラにて 新館に泊まるとホームから見える屋根の旧館が見えます 何回ここに泊まったでしょう 文豪が泊まったホテルとして憧れていたのにすっかり馴染んでしまいました 大河で書かなくていい部分がきっちり見えてすっきりしました

 

白河天皇を書いているあたりから華鏡の方向性が見えてきました 道子女御に出逢い 徽子女王にたどりついて これだ! という感覚で書けるようになりました そこに大河の俳優さん方の発表 これはもう武士の歴史に戻ることはないなあ との一層の感慨を覚えています 私の鎌倉の歴史は武士とは別物

 

今日は風が強いから 庭の竹の葉ずれの音がずっとしていて 松籟もこういうのかしらと思いつつ楽しんで聞いています 松は針葉樹だから葉が擦れて音がするとも思えないけど 梢どうしが擦れたり重なったりする音かなあと

 

夜になっても風が強いし 温かいしでベランダに出たら 雲間にひとつ明るい星が 星って清浄ですね 諸々あって澱んでいた心が一気にすうっと 華鏡は構成から見直そうと思っています 先が見えなくて迷妄の淵でしたが晴れました 無駄になるかもしれないと思いながら書くって 今さらに不毛だったなあと

 

これで はっきりと その主旨で という書き方ができます

 

あ でも 構成から見直すのは前編を書き終わった時にのことで 今はこのまま最後まで(前編の最後の比企の乱まで)書き進みます

 

11月20日

おはようございます 過去写真を見ていたらこの松の木がありました ここのところ松籟ということばかり考えているから目に留まりました 松籟は高い梢の松でしょうけれどこの松だったら葉ずれの音がするかなあと笑 修学院離宮の松です 昨夜は荘子女御を書いている途中で寝落ち 今日から気を入れます

 

RTさせて頂いた『建治三年記』 私は建治四年記が欲しいんですけど・・・(出てこないかなあとずっと待ってます)

 

今日も温かいし風が強いです 昨夜は夜空が明るく 夜なのに雲が白かった どこかで地殻変動が起きているのかと疑っています

 

大河頼朝役の俳優さんに大泉洋さんと なんかほっとして涙ぐみそうになっています 華鏡と被る人物だから ここで私的に意に沿わない方のキャスティングになったら再来年が地獄でした(大袈裟でなく笑)これで俳優さん発表に決着がついたので安心して大河話題から離れます

 

自粛でどこにも行かれなくても気にならなかったのですが 華鏡が展開して深いところで感情が動いているから無性に過去写真を探ってる 修学院離宮 また行きたいです さっき華鏡の構成手直しが鮮明に浮かびました 史実としての華鏡のあいだに小説として仙覚さんの生涯を入れる この形式で行こうかと

 

今まで小説だからとあえて年号や年月日を入れなかったのですが 華鏡の部分にきっちりそれを入れて 小説の部分はドラマを膨らませてその年号を生かす というふうに

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2020.11.19 ツイッターから転載…日々雑感 再来年の大河ドラマのキャスティングが発表されています

11月16日

かの御形見の琴を掻き鳴らす。をりのいみじう忍びがたければ、人離れたる方にうちとけてすこし弾くに、松風はしたなく響きあひたり(源氏物語松風巻)→明石君ですが ここ 徽子女王の琴の音にのお歌が下敷きにありますよね もう言われていることかもしれませんが 明石君って深い処で徽子女王と響き

 

合ってます 以前から衣配りの際の白い装束とか どこか崇高さが与えられていると感じていたのですが 徽子女王だったなんて 野宮関連で大井川が思念に浮かび 松風 が響きあったとき 人格も踏襲されたのかも 娘が一人 というのも同じだし(勝手な 野宮→嵯峨野→大井川→明石君 の連鎖です)

 

それにしても 嵯峨野の写真 探してもどこにも松が写っていない 河原に松林とかあったかしら など考えるのですが

 

11月17日

おはようございます TLにノートルダムドパリの写真が流れてくると必ずRTするのは ユゴーが小説のそこに思いを込めて書いたと知ってから 宿命の文字が壁に刻まれているのを見て閃いて書いたと その精神は私の仙覚さんの小説に繋がるものなので 忘れないための大切にしているからのRTです

 

と 突然こんなことを呟いたのは 今徽子女王を書いていたり白河天皇にこだわったり の迂回がずっと続いていて やっと私らしい主題に巡り合った気がしているのですが ユゴーのその文字って何だったろうと昨日から思い出そうとしていたら 今データを整理してたら突然出てきたからです

 

紫式部だって源氏物語に物語論を書いているし まだ私は小説だから小説らしくしなければいけない みたいな呪縛から解放されていないから書けないけど いつかそういう文章を堂々と入れられたらいい と思っています

 

山中裕先生の準拠論を拝読していたら 紫式部は伊勢斎宮の竹河を三回書いているけど全部ほぼ同じ文章 行幸は三回ともバリエーションがあって それは紫式部が実際に見た光景だからで 竹河は行ってないのを読んで書いたからと そんなふうに分析されると行ってなくて書いている私としては辛いですね笑

 

と ここのところ伊勢斎宮に行って実際に地形を見て空気を感じて徽子女御や道子女御さん方が暮らしてらした光景を見たくてたまらないから コロナが終わったら行くけど 原稿には間に合わなそう

 

玄関を開けて出るとサフランの花がいっぱい目に入って嬉しい どうしてこんなにサフランが好きかと考えて やはり吉岡実さんの『サフラン摘み』があるからでしょうね 詩集はもう手放したけど持っていた時の質感重み楽しみは記憶が薄らぐことなくとどまっている 可愛らしい薄紫の花です

 

11月18日

おはようございます 一昨日から再来年の鎌倉を舞台にした大河のキャスティングが毎日四人ずつ発表されています 華鏡に重要な比企の乱で滅ぼされる比企能員も発表されました この小説は構想四年 梗概はできているのに書こうとしてどうしても書けないでいました 今思うとこの大河が先に控えていた

 

からなんですね 再来年の大河とまったく被るから無駄になるよ という天の神様が阻止して下さっていた そう思います なぜ書けないかは 比企の乱の歴史が知られていないから そういった武士の歴史をこなして書かなければならなかったからでした それは私の筆に合わないから書けるはずがなかった

 

キャスティングの発表でその武士の歴史を書かなくていいことを把握しました それは大河がすべてやって下さる 大河が決まったニュースに私はそれを予感して方針を変え 自分なりの小説を探し そして行き着いたのが華鏡です 書かなくていい部分 それが見えてきましたので すっきりしました

 

今日はこのままTLを下に遡らないで推敲にかかります 原稿が徽子女王に乗ってきました(まさか大河は徽子女王とは被らないでしょう笑)

 

昨日の発表で衝撃だったことをツイート 畠山重忠は仙覚さんの故郷比企の武蔵嵐山に館を構えた人で 永福寺造園の際に水際の石を持ち上げて運んだという力持ち その配役がなんと中川大志さん 比企能員は重忠も含めた13人の評定衆に殺されるわけだから 当然美しい大志さんが重忠なら能員は逆になり

 

ますよね 美男ばかりのドラマなんて絵にならないから TLで比企氏派の方と不満を述べあいました笑 武蔵嵐山は東武東上線で仙覚さんの故郷小川町の少し手前です 菅谷館跡といって史跡になっています 武蔵嵐山は都幾川の流れる風景が大井川の流れる嵐山に似ているからとつけられたそうです

 

今朝のサフラン サフランって一つの球根に花が一つ ではないようです 一茎に二つ咲くし 一つの球根から幾つも茎が延びるし 華やかです 華鏡の徽子女王の項 今まで村上天皇後宮の同じ立場の荘子女王はただ活字だけの人でしたが 具平親王の母と書いたら突然動きだしました 源氏物語夕顔まで書くかもです

 

吉祥寺に出たついでに思い出してシステム手帳の年間カレンダーを購入 自粛が続きそうで要らない気もしていたのだけれど一応と 帰って嵌めようとしたら自粛に入る直前の状態のままでした 行こうと思っていてクルーズ船の横浜を通るから不安で行かなかった会のチケットがそのままはさまっていたりして

 

まだ一年経っていないのにと不思議な感覚 あの時はたしかにあったのに今はもうない 過去だからというのでなく あれから世の中も自分も変わった そしてもうもとに戻らない こんな一年を過ごしたんですね 写真は鎌倉の鶴岡八幡宮源平池 右端に見える白い建物も 今はもうない 建て替えられました

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2020.11.16 ツイッターから転載…日々雑感 原稿に戻りました。もうこれから迂回や停滞することなく、まっしぐらに進みたいです

11月14日

どうやらこのまま書くことに集中していけそう 途中だった白河天皇の項に村上天皇の項を無事に入れて構成が整いました 写真は2012年11月@修学院離宮(なんか TLの方の影響か 今日は浮舟が気になって小野の里の修学院離宮を この浮舟気分 どういうわけか徽子女王に違和感ありません)

 

11月15日

おはようございます と そんな時間でもないですが一日の始まりのご挨拶 やっとコンスタントに継続して書いていけると思えるところにきました ほんとうに長かった この状況を作れるまでに いろんなことを撤退して独り籠って書くことに苦しんで やっとつかんだ境地です もう大丈夫と思います

 

書いていると見えてくるものがあります 徽子女王が娘の内親王の伊勢下向に異例の母親として同行したこと これは 斎王に選ばれた徽子女王が10歳で群行に出たとき それが母寛子さんとの永遠の別れになったんですね 寛子さんの死去で斎王であることから解き放され帰京したわけですから 娘が斎王に

 

なったとき 徽子女王はその悪夢の再来の危機感に怯えたのではないでしょうか これはどなたのご論考にも指摘されていませんが 小説は心を追うものだから学問的にいろんな事情を類推するより心でわかります まして夫は十人も後宮のいる村上天皇 内親王一人が心の拠り所だったでしょうから

 

とツイートしたら12:00の3分前 おはようございますに間に合いました笑 週末だから午前は忙しいです コンスタントに書く状態になったからTLを追うのは止めてご挨拶だけと決めてここに来たのですが やはり見てしまいますね でも今までより時間を短縮して書くほうに専念します

 

ある会のお世話になった方にお礼状を投函 日曜日の一回の集配ギリギリに間に合いました 多分この会ともこれが最後 講師の先生に 僕が生きている間に仕上げて下さいよ と仰って頂いている仙覚さんの小説 やっと目処がたってこれからだけれど この方だけでなく間に合わせたい方はまだ他にも 頑張ります

 

RTさせて頂いた斎王群行の記事 拝読したら良子斎王は10歳 まさに徽子女王が斎王として群行したその年齢 可愛らしすぎて痛々しい 徽子女王はこのまま母寛子さんと永遠の別れになったのです

 

11月16日

おはようございます 『正訳源氏物語』賢木巻から野宮のようすを打ち込んでいます 源氏物語は徽子女王をモデルの一人にした徽子女王より後の時代なのに 私には源氏物語が原点で 徽子女王は最近浮上したばかりの人物だから時々混迷します 紫式部さんは徽子女王の父重明親王の日記も読んでいたそうです

 

野宮といえば源氏物語賢木巻 それはもう徽子女王を書きはじめたときから描写を引用させて頂こうと思っていたのに 山中智恵子さんも『斎宮女御徽子女王』でそうされている なんだか真似してるみたいになって嫌なんですけど……

 

二個めのサフランが咲きました 五個ずつ植えた鉢が二個だから蕾がまだ他にあって咲きそう サフランって 葉が出る前に咲くんですね だから土が葉に覆われず 花だけが咲いていて不思議な感じ

 

TLのトップに Fleetが読み込めません と表示が出るのですが べつに読み込めないものを頑張って読むつもりないからこのままに でも なんだか何かしなくてはいけないのかと 落ち着かないですね

 

サフランがいっぱいで夢のよう こんなふうに咲くのなら 10個全部を一鉢に植えてもよかったです

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2020.11.14 ツイッターから転載…日々雑感 村上朝における徽子女王の存在が把握できて原稿に戻りました

11月13日

おはようございます サフランの花がひとつ咲きそう 今年は何も植えないと決意して チューリップも諦めたのに サフランの球根を見たら これだけ許そう! と買ってしまいました 庭いっぱいにサフランにしてパエリアを なんて無理ですが 夢は楽しく

 

年譜にしたら見えてきました 徽子女王入内の三年後に後撰和歌集院宣 その後 女御三人それぞれの歌合(四人いた女御の一人は早逝しています) その後に後撰和歌集奏覧があって二年後くらいに紫式部も源氏物語に引用した天徳内裏歌合 徽子女王も簾越しにご覧になっていたそうです この年に内裏火災があり

 

ここから村上朝は前期の華麗な文化期が終わってドロドロした後期に(登子さんの登場など) 徽子女王も出産した皇子が即日亡くなったりで鬱状態の里居がち ここに梨壺の五人の万葉集訓点作業が入ります ここから見えてくるのは 徽子女王が関係したのは後撰和歌集で万葉集訓点は無関係 また女御三人の

 

歌合は女御たちの自発的主催ではなく村上天皇が仕掛けたんですね 天徳内裏歌合は女房主催だから いずれそれを開くための準備として 徽子女王はその他にも前栽歌合を催すなど積極的です 華鏡は徽子女王の後撰和歌集時代と 広幡御息所の万葉集訓点時代の 二期に分けて梨壺の五人を書くことにします

 

サフランの花 咲いていました! 五個球根を植えたのに他はまだ蕾もなく ようやく葉が出るみたいです

 

源氏物語が村上朝を準拠として書かれたなら 準拠論で先程の歌合事情などどう書かれているかしらと 山中裕先生『歴史物語成立序説』を出してみました もう相当な昔に夢中になって拝読したご本です 村上朝とは明記されてなかったけど 男踏歌の件で天暦四年の「李部王記」にと 天暦は村上朝期 李部王は

 

徽子女王の父重明親王の唐名です と 山中智恵子さん『斎宮女御徽子女王』を拝読した直後だから考えなくてもよくわかりました 結局歌合との関係は書かれてなかったけど 最近の研究は進んでいるのでしょうか コロナだし どこかのご論考を探して見る余裕ないからもう私見で書きますが

 

ここまで見てきて思うのですが 後世において歌合の範とされた天徳四年の内裏歌合 これが女房主催だということがなにか不思議だったのですが 徽子女王が入内して天皇が伊勢斎宮での女性たちだけで歌合をしたなど文化を嗜んでいた話を聞いていただろうことが原点ですね 天皇は女性の力を知ってらしたと

 

妹の力 徽子女王が村上天皇に与えた影響力 というものが浮かび上がってきました まさか こんなことになるなんて!

 

相変わらずラフマニノフのメロディが頭の中にたゆたうように流れているのだけれど いつか見た動画のニンフの踊りのような足取りで徽子女王の声が降りてくるのを待ってます あともう少し……

 

一品足りない時は山芋のステーキ 味付けは手抜きで焼肉のタレです

 

書くほうに意識がいくと 料理が手抜きの素材集みたいになります笑

 

風俗博物館展示の「天徳内裏歌合」をツイートして下さった方々の写真をRTさせて頂きましたが その華麗さ盛大さにおいて後世の歌合の規範になり 紫式部も源氏物語に引用した村上天皇後宮の女房たちが主催した歌合です この歌合に至るまでに斎宮女御徽子女王の存在があり 歌合にも簾越しに女王は見てらしたと

 

11月14日

おはようございます 気持ちがすっかり原稿に入りました このままもう調べたりの迂回で逆戻りすることなく進みたい 二条天皇の題詞が高い万葉集がなぜできたかを探ろうとして村上天皇まで遡ってしまいました笑 久々に使った小さなPCが可愛いです これからは前屈みにのめり込むようにして打つ生活に

 

天皇の系譜…村上天皇ー冷泉天皇ー円融天皇ー花山天皇ー一条天皇ー三条天皇ー後一条天皇ー後朱雀天皇ー後冷泉天皇ー後三条天皇ー白河天皇ー堀河天皇ー鳥羽天皇ー崇徳天皇ー後白河天皇ー二条天皇

 

二条天皇の万葉集の秘密の背後に 白河天皇の古今和歌集信奉があって その白河天皇の古今和歌集信奉の背後にあったのが村上天皇の天徳内裏歌合だった という展開です

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2020.11.13 ツイッターから転載…日々雑感  斎宮女御徽子女王と源順のことなど

11月12日

源順を検索しました 梨壺の五人というと必ずトップに源順の名があがるのに いろいろ読むと順番が違うしどうも源順はなにかの意味で下位(わからないのですが) 源順の記述で梨壺の五人の詳細が残っているからの功労賞なのでしょうか この時の身分は学生です 文章生になるのはもっと後

 

村上天皇崩御後に徽子女王の皇女規子内親王が伊勢斎宮に選ばれます その時に入った野宮で規子内親王が歌合を開き そこで徽子女王の琴の音にの歌が作られた その歌合に源順も参加していて 琴の音にの歌が作られた題詠のテーマを出したのが源順なのでした 源順は規子内親王の伊勢群行にも従ってます

 

源順がその時60代とすると 徽子女王は40代 規子内親王は20代 と このような関係 この三人が群行で伊勢に行ったのでした 規子内親王は心強かったでしょうね

 

徽子女王は絵を描くことが好きだったようで 知人からここに絵を描いて下さいと紙を送られたりしている 源氏物語で斎宮女御というと秋好中宮だけれど 絵合巻では彼女が絵を描いている姿に冷泉帝が惹かれる 紫式部さんは斎宮女御のモデルに徽子女王を範にして 絵が好きなところまで取り入れたんですね

 

華鏡で 経子さんを源氏物語の斎宮女御のイメージで書いていて その後道子さんが西本願寺本三十六人集の書写者と知って関心を持ち 道子さんが娘の伊勢斎宮に同行した母の範として徽子女王が浮上 この三人 どうしてもイメージが重なると思っていたら 徽子女王は絵を描く! まさかの経子さん繋がりに

 

ほんとうなら徽子女王を源氏物語の斎宮女御をイメージして書くべきなのでしょうけれど そう書きたいとは思わない あくまでも源氏物語の斎宮女御のイメージは経子さん 道子さんは伊勢斎宮に同行する母ということで六条御息所なのだけれど それもイメージが違うけど 野宮繋がりで賢木をイメージします

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2020.11.12 ツイッターから転載…日々雑感 山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』、拝読し終わりました

11月11日

おはようございます 昨夜は山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』を拝読していて寝落ち 大鏡と栄花物語に徽子さんについての描写があり それがとても素敵で タブレットに引用している途中だったので 朝起きてタブレットを見てびっくりでした むしょうに松籟を聞きたくなって嵯峨の写真から探し

 

たのですが無くて紅葉の写真を 松籟というと徽子さんを思うし 大井川を思います 琴の音にのお歌と明石の君の松風でしょう 松籟を感じる写真を撮りたいと痛切に思うこの頃 松の木をそんなふうに撮ったことないから 大鏡と栄花物語の徽子さんの描写 思ったとおりの方でした お歌のとおりです

 

ただ直観で経子さんと道子さんと徽子女王を同じタイプの女性に感じ 経子さんから道子さん 徽子女王へと遡って見てきたわけだけど 決定的に違うのは徽子女王が高貴だということ 徽子さんは親王のお子さんだから女王で女御 道子さんは女御だけど藤原氏 経子さんは側室 とここに何かを感じているのですが

 

ドゥルーズのプルーストとシーニュを読んで もう書くことに戻ろうと思ったのですが やはり山中智恵子さんの徽子女王を手にとってしまいました 山中智恵子さんご自身の精神性が深いから 同列で徽子女王を正確に見極められるのでしょうね 私もその深さにあやかりたいと 拝読していてとても心地いいです

 

伊勢斎宮とは 山中智恵子さん『徽子女王』より: 斎宮は荒祭神の后だから、「ヨナヨナ御カヨヒアルニヨリテ、斎宮ノ御衾ノ下ニハ、アシタゴトニクチナワノイロコヲチ侍ル」と斎宮女房が語った時の、われにもあらぬ不思議な血のなごみ、また神の御杖代たる時の斎々しさ、人に還るときのおぼつかなさ……

 

このおぼつかなさ、わりなさに揺曳する典雅なエロスこそ、「いとあてになまめかしうおはする」徽子の歌の、底の底に在るものである。しかもこのゆらめきをみずから塞いて、後宮の葛藤から、何歩か身を引いていたところに、うるわしい歌が生まれたといえる

 

村上天皇は晩年近くなって登子という女性を召して寵愛します それは亡き兄重明親王の正室だった人であり 后安子の妹であり 徽子女御は重明親王の娘だから登子は継母であり といった複雑な関係になります 登子は徽子とほぼ同年で重明親王とは親子ほども年が離れていたから 風流の人重明親王によって洗練

 

された魅惑的な女性になっていた 紫式部は登子を朧月夜に反映させているとも その登子事件に対する徽子女王は「歎いたものの、渦中にあって傍観し、ひたすら登子の背信を、わが恥のごとく内省し、わが慎しみを深くするより術がなかった。それは徽子の後宮なるものへの慎しみであり、消極的対峙…

 

村上天皇期における後撰和歌集と万葉集訓点作業を見ているのですが そこに徽子女王がどう関わったかの可能性を 後撰和歌集院宣は徽子女王の入内から三年後でした 徽子女王もその興奮を共有したことでしょう 十三年後の梨壺の五人の万葉集訓点時はこの登子さん事件の頃 徽子女王は心痛只中の時でした

 

やっと徽子女王が動き出してきました

 

11月12日

おはようございます 山中智恵子さん『伊勢斎宮徽子女王』の帯です 昨夜読了しました 何冊か読んだ徽子女王評が村上天皇の寵愛薄く里第に帰っていることが多かった とあったのが気になって読んでいたのですが 服喪だったり懐妊後の体調不良だったりの後の里第逗留が長い 天皇は頻繁に内裏へと促します

 

印象ですがこれは寵愛の薄さでなく 徽子女王の感性が後宮のどろどろを拒否しての結果です 村上天皇とはお歌を読む限り深く理解しあっていて 村上天皇はそうした精神的支えとして徽子女王に内裏にいて欲しいと願ってる 最後頃は痛切な願いにまでなって と思いました これは他の妃たちとは次元の違う事象

 

女御徽子女王まいらむとて、まいり侍らざりければ の詞書の村上天皇のお歌「あふ事はいつにかあらんあすか川さだめなき世ぞおもひわびぬる」そして最後のお歌「かかるをもしらずやあるらんしらつゆのけぬべきほどもわすれぬものを」この絶命の歌が徽子のもとに届いたのは崩御の後であったか返歌なしと

 

ビーツの輪切り 薔薇の花みたいで綺麗 久々に貴婦人を作ろうかと

 

田原加奈子氏「村上朝の後宮と歌合」を再読してたら 四人の女御のうち 徽子女王と荘子女王の二人が親王の子で そのために他の女御と違い一族の期待を背負って天皇の寵愛を競う必要がなかったと 二人が里居がちだったのにはそれが大きいですね 寵愛の薄さの問題ではないと なんかすとんと腑に落ちました

 

昨日か一昨日だったか呟きましたが 徽子女王の場合 やはり高貴ということに意味がありました 性格にも含まれる高貴という育ちと気質 それが物事の是非の判断になるなら 一般の後宮のなかでの寵愛の深さ薄さを他の女御更衣と同列に考えるべきではないと

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2020.11.10 ツイッターから転載…日々雑感 ジル・ドゥルーズ著/宇波彰先生訳『プルーストとシーニュ』を拝読して

11月9日

いつもなら楽しみに伺うお酒の会も コロナ対策はしていますからとお気遣い頂いても 今は自粛を通したいと そんなわけで溜まっていた返信等を書いて投函 根のついた香草を繁殖したらいいなと鉢植に とこれも済ませ 昨日の明月記で思考が中断したから今日は溜まっていた用をこなしました

 

RTさせて頂きましたが 新訳が出たんですね ジリ・ドゥルーズ著 宇波彰先生訳『プルーストとシーニュ』懐かしくなって本棚から取り出しました 何度読んだでしょう 私にとって書くことへの教示というか 言ってみればバイブル 書くことに詰まると取り出します しばらく離れていたから忘れてました 今夜はこちらに浸ります

 

『プルーストとシーニュ』を拝読しているのですがびっくり 頁毎に黄色のマーカーで線がびっしり引かれてて 今まで何度読んでも同じその傍線のところで感動してました なのに今回違う こんなの初めて それで驚いています 今までは ○○は何々である みたいな知識として覚えるような文章に傍線だったのが

 

今夜は こうするにはこうこうと術を教えてくれるような文章に目が留まる 感動ではなく そうなんだ と納得 なんか今まで概念で生きていた というか 書くことを概念で捉えていた かのよう 不思議です

 

まだ第一章ですが 例えば今までの傍線「プルーストの作品の基礎は、記憶のはたらきの提示ではなく、シーニュの習得である」→今回「習得することはまず第一に、ひとつの物質・対象・存在を、あたかもそれらが解読・解釈を求めるシーニュを発するものであるかのように考えることである」

 

だいたいに 習得 という語自体に今まで留意したことがなかったから驚きがいっそう

 

11月10日

おはようございます 起きがけにふっとミケランジェロのピエタが浮かんで そうなんだ 習得は無垢の大理石からピエタ像を彫り出すことなんだ と納得 今まで書くことは思念を連ねるという横軸の作業と思っていました でも習得は彫り出すという縦軸の作業 平面から立体へ 初めての感覚 新鮮です

 

写真は昨日みつけた今年初めてのクリスマスローズの蕾 蕾をみつけた日にシーニュを読む たまたまの偶然ですが 嬉しい

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2020.11.9 ツイッターから転載…日々雑感 山中智恵子さん『斎宮女御徽子女王』より & YouTubeで村井康彦先生「明月記の世界」を拝聴しました 他

11月7日

たぶん 新しい地平をつかんだ こんな挑戦 まだ何方もしていない そんな感じがしているからもう被ることを恐れる必要はなくなった と そんな気がするここのところですが それで気を緩めるとまた完成が遠のくから来年には完成 の目処は肝に銘じなくては などつらつら

 

今日ふっと思ったこと 華鏡第二章「仙覚の生涯」では仙覚さんの人生が中心になるから 文化は万葉集一色になって雅な感じがなくなる と思っていたのですが 実時が古今和歌集を書写してました! 親行さんと これを入れるとまた膨大になって完成が遠のくから外していたのですが これは入れなくては

 

白河院が野宮の道子さんを訪ねるシーンは 後白河院が大原に建礼門院を訪ねた時のようと思ったらいいのかしらと考えて いや あれは平家物語で白河院の時はまだ源平の争乱も起きてなかった と気がつきました

 

まあ似たような感じとして思うことにし 後白河院が実定さんを伴ったように 白河院は通俊を伴ったと そんな風な展開になりそう

 

山中智恵子さん『斎宮女御徽子女王』より: なげくらん心を空にみてしがな立つ朝霧に身をやなさまし この徽子の歌を採る勅撰集は、『新古今集』だけであるが、あまたの徽子の歌のうち、とりわけて徽子の有羞清冽のメタフィジックをあらわすものとして、後鳥羽院、定家そろっての採択評価は鮮かである。

 

徽子さんはこの頃出産で宮中を下がっていて 村上天皇から まかでてのち久しくまいりたまはねば との詞書の あまのはらそこともしらぬ大空におぼつかなさを嘆きつるかな を贈られての返歌 山中智恵子さんは「帝の歌も、里第の女御への心づかい、あるいは生れくるものへの不安と期待が、渾然とした詠歎を

 

背後に、名歌といってよい」 と こういう心の情趣を詠み交わすお二人です その後山中智恵子さんは和泉式部の つれづれと空ぞみらるる思ふ人あまくだりこん物ならなくに を置き さらに源氏物語明石巻の 歎きつつあかしの浦の朝霧に立つやと人をおもひやるかな を置いて 紫式部は徽子の歌の心そのままと

 

仮寝はしたけど夜明かししてしまったから 珈琲をのんで寝ることに 明日は週末だし 大統領選のこととか立太子の礼とか村井康彦氏のYouTubeなど 相当目まぐるしくなりそうで いっそすべてに目をつむって山中智恵子さんに浸ろうかなど思う でもできないでしょうね

 

源氏物語は村上朝を意識しているというし 村上朝の梨壺の五人の一人 清原元輔は清少納言の父だし 和泉式部は上東門院彰子さんに仕える女房の一人だったし で 彼女たちは徽子さんの『斎宮女御集』を相当読み込んでいたのでしょうね 影響はあまり言われてないのか 私は聞いたことなかったです

 

山中智恵子さん: 『斎宮女御集』は、徽子亡きのち、間もなく成立していると思われるので、紫式部が、村上・徽子の相聞を、一首に集約し、人麻呂の島がくれゆく舟の明石を、背後にひびかせたものと思われる。

 

11月8日

始まりました 明月記の世界 拝聴させて頂きます

 

RTさせて頂いたコメントの「『新古今和歌集』編纂時、後鳥羽院が日本紀竟宴にならって新古今集竟宴を行なった」の件 白河天皇の勅撰和歌集にかけた思いに重なります 定家は知らなかったようなのが不思議ですが 後鳥羽院は宮中での流れを把握されていたと 宮中独自の古典や古典観があるのでは?

 

今日は物凄く疲れていてそれが治らない 夜明けまで読書していて寝て でも今朝は朝一でスーパーに行く予定だったらか飛び起きて それが悪かったと思う 睡眠の起きるバイオリズムを崩すと疲れがとれないですね でも明月記YouTubeは拝聴しました 自分が今書いている世界と共通したり乖離したりです

 

乖離した部分が自分の世界 共感したり同調している場合ではないから とにかく早く仕上げないと何方にもこの乖離部分をわかっていただけない歯がゆさを抜け出せない と ここのところ何をとっても 自戒 です

 

明月記の世界で為家の話が出て 嵯峨厭離庵裏手奥の為家墓を訪ねたことを懐かしく思い出しました この後法輪寺にもまわって やはり明月記の世界で法輪寺からは京都市街地が一望できる というお話のとおりの一望をしたことも

 

ここのところ 伊勢斎宮の世界に浸り 今日YouTubeで京都のお話に浸ったから やはり京都に行きたい思いが切実で 今夜はとてもやるせない それでかつて訪ねた京都の写真を見て為家墓の写真を出したり…… こちらは京都御苑 この空気の中で道子さんや経子さん 徽子さん方は生きてられたのですよね

 

11月9日

おはようございます 昨夜はあのまま前後不覚に寝てしまい お陰で疲労困憊がとれました 明月記 昨日のお話ではたぶんご著書にも鎌倉との関係は語られないだろうなと 起きて思い出したのは時氏のこと 鎌倉五代執権時頼の父で松下禅尼の夫 六波羅探題北方として在京中に定家と親しく交流してて 明月記にも

 

度々登場します 時頼はその在京中に生まれていて それがちょうど定家の青表紙本源氏物語ができた時 たぶん時氏一家はそれを見ています 私はだから時氏一家が鎌倉人で最初に青表紙本源氏物語を見た人たち みたいに思っています たぶん松下禅尼はその時源氏物語に関心を持ち 鎌倉に持ち帰ったとも思う

 

というのは 松下禅尼は四代執権経時と五代執権時頼の母として鎌倉における国母の立場 なので国母の先輩上東門院彰子さんを物凄く尊敬し見習っています 華鏡後編ではそれも書きます 楽しみなのですが そこにいくまでなんて果てしなく遠いこと!

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2020.11.7 ツイッターから転載…日々雑感 山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』を拝読しています

11月6日

この辺りは近くに公園もあるし 出れば綺麗な 秋 を見られるのだろうけど 諸々あるし籠っていて出られない 終日家のなかの日常にいて 今 深夜の自分の時間に入る前にTLを見たら 綺麗な秋の色 秋の風 秋の青空 胸がすうっとしました ありがとうございます!

 

京極という語 今まで作家の方とかドラマの登場人物の名前で親しんで考えたことがなかったのですが 京都の東西の境界を言う言葉だったんですね 東の境界は今の寺町通とか 西は残ってなくて花園からの南北のよう 徽子女王の郡行を読んでいて 京極にて斎宮寮頭がそこまで送ってきてくれた勅使らを返すと

 

怪我したり火傷が治らなかったり世事で諸々あったりでなんか生きているのがやっとみたいな溜め息ばかりつく一週間でしたが どうやら上手く収まりそうで久々に集中できて本を読んでいます たぶんこれからはもう大丈夫と思いますし こうして読める幸せが戻ったから もう ほんと 大丈夫でしょう

 

女御道子さんが47歳で娘の伊勢斎宮に同行した時 白河天皇が出発前の野宮を訪ねるのが可能だったかとか 道子さんの伊勢での生活がどのようなものだったかを知りたくて山中智恵子さんの徽子女王を拝読しています

 

徽子女王のお歌の最初は村上天皇に入内した時の後朝の贈答歌 山中智恵子さんはその完成度から徽子女王は伊勢斎宮での生活で歌を学んだのだろうと 道子さんも20年間の斎宮生活で帰洛後に三十六人集を書写するまでの嗜みを修練したのかも ですね

 

『斎宮女御徽子女王』より: (斎王は)斎宮女房たちとたのしみ、手習や絵描き、古今集の暗誦なぞ、常の女王生活がなされていたと思われる。

 

徽子女王の斎王卜定は8歳 翌年野宮に入ります その野宮で「徽子は自邸にあっては味わえない、はるかなる野の道を露にぬれて訪れてくるものの気配を、時に遠く、時に身近く、切実なものとして、幼い鋭敏な心に感じたと思われる。この頃、徽子の弾琴の技も磨かれ、古歌の詠みならいも、およそ学びの苦労

 

もなく…」→ 後年の「琴の音に峰の松風かよふなりいづれのをよりしらべそめけむ」に結実

 

このお歌 他の方の詠歌とどこか発想が違う どうしたらこういう感性が育つのだろうと ずっと不思議でした 8歳から17歳までを斎王として暮らした方の詠歌だったんですね!

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2020.11.6 ツイッターから転載…日々雑感 山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』のことから精神の美しさについて…書きたいことに辿り着いた感じ

11月4日

おはようございます という時間でもないけれど 爽やかな快晴の綺麗な朝 井の頭公園から動物園がある文化園に渡る陸橋です 落葉が散り敷かれていますが まだはらはら散る風情にはなっていません

 

雑木林@井の頭公園

 

雑木林@井の頭公園 陽射しが綺麗だと撮りたくなります

 

スーパーに行ったら店先の花屋さんに八重の竜胆の鉢植があって帰りに買って帰ろうと思いながら でも 今は水遣りに気を配る余裕ないから絶対に買ってはいけないと自戒 季節になるとその季節ごとの花が並ぶのが新鮮で毎季節ごとに誘惑です

 

山中智恵子さん『斎宮女御徽子女王』巻末の年譜を見ていました 女王とは親王の子のことで 村上天皇の四人の女御のうち徽子さんと荘子さんの二人が女王 中宮に次ぐ立場です 先に拝読した斎王研究で村上天皇にそれほど思われてなかったような書かれ方で気分悪かったのですが その真意を探るべく年譜を

 

拝読した内容では里第にいることが多いことからの推測でした それを年譜で見ると服喪だったり懐妊だったり出産した皇子の即日死去だったり 関係が疎遠なのではなく無理ないなあと天皇からは音信がしょっちゅうあるし 村上天皇御集での女御更衣への歌ではダントツ徽子さんが多いです 気持ちが晴れました

 

年譜を追って 私は天皇に大切にされていたと思えたから その線で書きます なにしろ村上天皇の後宮では中宮以下十人の女御更衣がいたのですから 訪れが少なくても それは仕方ないでしょう もっと読みたいけど目が疲れて朦朧としてきたから止めて寝ます

 

11月5日

書きたいことに辿り着いた感じでもう書くのにとりかかればいいのだけれど世事諸事諸々で停滞しているあいだも頭のなかは徽子さん道子さん経子さんが生きて呼吸して頑張ってくれてます 大人のメルヘンとかつて中傷されたけどそれが私の書きたいことならそれでいいじゃない! と開き直りました

 

鎌倉は武士の都だから武士がメインでそれに合わせ 今流通したり読まれている小説があまりに自分の書きたい世界とかけ離れているからさまよっていました 徽子さんのことでわかったのですが 透明な世界観で生きている人は精神が汚れない それがわからない人が多いですね

 

たまたま座ったソファに置かれていたタブレット 手にとってtwitterはもう見終わっていたからKindleを見たら最近買った斎宮の中公新書があり ここから始まったんだ〜と懐かしく 開くと徽子女王の項が この時はまだ徽子さんに心入れしてなかったから再読 そうしたらここでも村上天皇の寵は薄かったと

 

たしかにこのご文章はすでに読んでいて覚えているのだけれど 徽子さんについてはこの観点が定着しているんですね 琴の音にのお歌への絶賛はされてるけど 徽子さん自体への評価は歌の透明さに現れる人間性を理解されていない と そんなことを思いました 斎宮検索に始まって辿り着いた徽子さん問題です

 

11月6日

おはようございます 精神の美しさ という言葉が浮かんで飛び起きました 今の世に欠けているのはこの概念かもしれませんね 昨夜Kindle本斎宮のあと 山中智恵子さんの徽子女王を拝読したのですが 全然違う 同じ人物を評しているとは思えない 孤高な精神を理解することなく日常次元で捉えたら間違います

 

栄花物語に綴られた徽子さんの日常次元での状況をそのまま受け取ったら寵が薄い となる 幾ら斎宮女御集で天皇との歌のやり取りが他の女御更衣よりダントツ多いとしても でも山中智恵子さんはそのやり取りのお歌を読んで情愛の細やかさを読みとって書かれている 寵が薄いとかの次元の話にはなりません

 

道子さんが同じ 栄花物語での道子さんが白河天皇の寵を賢子さんに奪われてあまりに寂しく書かれているから そのまま受け取ったら寂しい女人 となる でも西本願寺本三十六人集に出逢って道子さんを見直したら 精神の孤高 ということが見えてきました ここだったのだなあ 私が書きたい原点は と思います

 

意味の変容なんだな と思う 私は山中智恵子版斎宮女御徽子さんを読んでいるわけでなく 山中智恵子版をとおしてポルトガル文の尼僧を読んでいるのだし 精神とかそういったものは目に見えないし形がないからたまたま徽子さんに形を借りているだけ 精神の美しさはそうとしか書けないし読めないんですよね

 

ただ 仙覚さんの精神の美しさといったらそれはもう孤高の極みで それは万葉集という形に姿が現れているから 万葉集に関してはきっちりそのものずばりで書きます そのための白河天皇期への拘りです

 

山中智恵子『斎宮女御徽子女王』より: 『斎宮女御集』の大半は、当然のように、村上天皇との、繊細を極める情趣深い贈答歌で占められていて、新古今集を待って完成する、王朝の象徴体の、いちはやいあらわれが見える。それは、稀有の天禀によるものであるが、何よりも徽子が、女御であるより先に斎宮で

 

あったことによる。神を斎くひととして、数々の禁忌のなかに在ったことにより、禁忌はむしろ、優艶の抒情を、清冽に洗いあげ、たおやかな情念は、禁忌にたわむことによって、かえって勁い自在を得たのではなかろうか。

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2020.11.4 ツイッターから転載…日々雑感 村上天皇後宮の女御と歌合のことなど

11月1日

天徳内裏歌合が女房主催なら 広幡御息所や徽子女王も参加されてたのかしらと田原加奈子氏「村上朝の後宮と歌合」を拝読したのですがわからず そうだ と思いついてもう読まないと決めて片付けた山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』を見たらありました 「左方人は宰相(広幡御息所か?)」と 彼女は

 

宰相中将更衣と呼ばれていたようです そして徽子女王については「記載はないが、簾中に在って、この晴儀に臨んでいたことと思われる」← 前にこの歌合を書いた時には徽子女王も広幡御息所も村上天皇後宮にいられることを知らなかったから それで筆が進まなかったんですね やっと実態が見えてきました

 

西本願寺本三十六人集の道子さんが斎宮女御だったことから斎宮女御徽子女王に行って そうしたら徽子女王が村上天皇の女御だったことを知り それなら天徳内裏歌合に参加されてただろうと考えたらやはり! いろいろ複合的に見てきてやっと繋がりました

 

11月2日

おはようございます 山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』 やはりよかった 徽子女王が琴の音にのお歌のとおりの人として捉え直せて嬉しい ふつうなら人がどう言おうと歌の読み方に惑わされないのですが 斎宮女御の歴史に関しては全くの未分野だったからつい影響されてしまいました 今日から新たに

 

RTさせて頂いた若紫 報道の写真で見ていた時には気づかなかったのですが TVの画面に映し出されたのを見た時 一瞬違和感を覚えました すぐ内容に引き込まれて忘れましたが 今思うとそれだったのですね 長方形の尾州家本に馴染んでいるから尾州家本みたい! と思ったのでした

 

田原加奈子氏「村上朝の後宮と歌合」より 醍醐天皇の後宮は中宮の他に十六人の女御更衣がいた 村上天皇後宮はそれに次ぐ多さで 皇后安子 女御は徽子女王の他三人と更衣計子(広幡御息所)他四人 朱雀天皇が女御二人 冷泉天皇は中宮の他女御三人 円融天皇は中宮の他女御三人更衣二人に比して圧倒的に多い

 

後宮の賑わいが 女御主催の歌合の多さなど 村上天皇の後撰和歌集編纂や梨壺の五人の万葉集訓点作業などの文化政策と連動している

 

11月3日

おはようございます 原稿に戻ったのでまた経子さんのテーマの Gluck-Sgambati: Melodie (Sergey Rachmaninov, piano) を聴いています まだ徽子女王を書く段階ですがその先に道子さん そして底流に経子さんがいます 今日は文化の日 亡き父の誕生日なので我家では毎年ケーキで祝う楽しみな日です

 

写真の紅葉は2011年12月 嵯峨嵐山を散策したときの天龍寺付近にて 白河天皇の大井川行幸を書き始めたときに写真を探したら たまたま大井川行幸と同じ紅葉の季節 その時に使った写真がこちらです 一二か月前はまだ白河天皇期がこんなに深まると思わずに書いていたんですね

 

去年みつけた駐車場の片隅に植えられた菊 今年も咲きそう この菊を見て吾妻鏡の重陽の節句の条を思い出して読み 比企尼の真実に辿り着いたのでした 勇んでそれを書こうとして なのに今はまだ平安時代 鎌倉時代の比企尼までいつになったら辿り着くのでしょう

 

菊は駐車場を借りている車の主が造園師さんだからのよう 勝手に車の脇に植えているといった感じ

 

石蕗が咲きました やっと自分の方向性が見えてきた気がします というか掴めたと 仙覚さんの小説を書こうとして 「仙覚ー存在を消して生きた男」のタイトルで書こうとして書けなくて三年もの間書けなかった 「華鏡」にしてなんか書けてきそうになり ここにきてやっと

 

「仙覚ー存在を消して生きた男」のタイトルの時は鎌倉に通っていて 鎌倉の方々に応えようとして自分を枠にはめてしまっていた気がする コロナの自粛で家に籠っている状況が続いて 少しずつ純粋に自分だけの思考に育ってきました それは結果として男性視点の時代小説から女性視点の女房小説風 みたいな変化です

 

とらわれている自分から抜ける って 時間がかかりますね!

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2020.11.1 ツイッターから転載…日々雑感 ショーン・コネリー氏訃報→薔薇の名前を思い出して厳粛な気分に→原点に帰って徽子女王から離れ原稿に戻ります

10月30日

ギリシャでM7.0 日本時間の10月30日(金)20時51分頃、地中海で規模の大きな地震がありました。

 

朝 源光行について呟きましたが 彼を考察した論考はあまり無くて古いものが大部分 だからでしょうか 往時学者さんといったら相当な権威だったのでしょう とても上から目線の書きっぷり 例えば光行さんは源氏物語を研究するのに四人の方に助けられたと 後徳大寺実定 藤原俊成 後京極良経 久我通光 です

 

それに対してある論考では 光行は地下の役人だからそんな権威者と知り合うはずがない 箔をつけるための嘘 みたいな描かれ方 そこからです 私が権威ある方のご研究でも真実でないこともあると肝に銘じて思ったのは ちなみにその後私は光行さんを調べて 彼は平家滅亡後に後白河院と鎌倉幕府を繋ぐ役割で

 

吉田経房の配下となって鎌倉に遣わされたことがわかりました こちらは朝の実朝の歌碑を載せた『解釈』に論文で載せました ちなみにその論文を書くきっかけとなったのが鎌倉の方と話していての一言 光行は吾妻鏡での序列で偉い御家人たちより上なんです 貴方 それ 凄いことよ と教えられてのことでした

 

10月31日

おはようございます 今日は『正訳 源氏物語』から梅枝巻 昨日届いた『王朝の美術 源氏物語絵巻と三十六人家集』からヒントを頂いて 明石の姫君の入内の準備に草子作りをしている詳細を 今まで源氏物語を読んでいて主人公の姫君たちの思いにばかり気がいっていたから 源氏物語がこんなに具体的に往時の

 

習慣を記してくれているなど思ってもみませんでした ここの箇所だって読んでいたはずなのに こうして役立たせて頂いている『正訳 源氏物語』は十冊のうち残りは書棚にあと二冊 その都度取り出して八冊が山積みになってます

 

もう午後なんですね 週末っていつもこんなふうに時間が過ぎる とぼやくのも毎週の習慣になりつつあります笑

 

家族が初ズーム体験 我が家はみん奥手だからズームも当分無関係と思っていたのに 毎年参加していた学会がオンラインになって初挑戦 事前の準備に支障なかったものの 結果として みんな慣れてないから目線が上だったりカメラが下から過ぎたりで上手く映っている人がいなかった 慣れておいた方がいいよ

 

美術系の学会だったらまず美しく映ることに気を回すでしょうけれど もともと学問だけしていれば満足みたいな地味な人たちの集まりだから どう見えるかなんかに関心ないでしょうけど 私もいつ必要になるかわからないから慣れておくことはしようかと これからのシンポがあったら申し込んでみようかなと

 

やはり 歴史秘話ヒストリア若紫発見の番組を観たのが気分を拡散したなあと 楽しいし 映像的にも重要だろうし 観るべきと思って観たのだけれど やっと気分が華鏡に戻って振り返ると はて そんなに重要だったかと 拡散した分時間喪失気分の方が強い 隠遁者はだから徹底的に隠遁する ズームなんかに気を回してはいけません

 

なんとなく肌寒いから ストーブをつけるまでもないけど 風邪気味だったら嫌だなあと 電源を入れてシーツにくるまってたら肌寒さが抜け 風邪気味ではなさそうと安心したのに もう6時近い 華鏡に専念する暇もなくお夕飯の支度にかからなくては泣 こうして私の週末は過ぎていきます

 

たぶん こうして 若紫で拡散して散った時間の修復を図っているのでしょうね すぐには執筆に戻れない

 

昇りたてのフルムーン 火星と 雲ひとつない夜空です

 

だいぶ高く昇ってきました 今夜のフルムーン 火星と

 

ショーン・コネリーさんの訃報 ショックです 薔薇の名前 私のなかでは到達すべき高峰 心に刻んで華鏡を書き進めます 電撃を受けたようでした

 

ただいま《望》です《現在の月齢 14.80》(at 23:49)

 

凄く久しぶりに原稿に戻って最後に打ち出した華鏡を見ています 賢子さんが亡くなり 後拾遺和歌集ができて白河天皇期が終わろうとしたところで西本願寺本三十六人集の道子さんが浮上 そこから徽子女王にまで行って収拾つかなくなっていたのでした ショーン・コネリーの訃報で薔薇の名前の原点を掘り起こ

 

されました これを啓示と受け止めたら 徽子女王にもう拘泥するのは止めようとの思いが湧きました 村上天皇期に広幡御息所と梨壺の五人を入れ そうして白河天皇期に道子さんを書いて白河天皇期を終わらせる もう ほんと いろいろ収拾つかなくなっていたんですね 危くもっと暴走するところでした

 

たしかに山中智恵子さんの徽子女王は素敵だけれど 私の広幡御息所も道子さんも経子さんも素敵 彼女たちを世に出してさしあげるのは今は私しかいない 各自一冊にはならないけど 紹介させて頂くことにはなる 心を込めて明日から(やっと気持ちの入れ替えができました)

 

11月1日

おはようございます 暴走を吹っ切って気持ちが定まったと思ったら11月 忘れてたけど11月は私の幸運月 毎年期待するのに今年はそれも忘れていたほど集中していたのでした でもその幸運はすでにこの暴走からの復帰に顕著 今日から前屈みにのめり込むように書く生活に入ります 写真は先週の雑木林です

 

RTさせて頂いた風俗博物館の村上天皇天徳内裏歌合 ここから白河天皇の内裏歌合に行って 経子さんの絵合巻を書き それで白河天皇期が終わり と思ったら道子さんの西本願寺本三十六人集が浮上して伊勢斎宮まで暴走したのでした 心機一転に頂いた画像の気分!懐かしく拝見しました

 

歴史秘話ヒストリアで青表紙本の話題が出て 私は国文学者じゃないし 本文研究をするわけでないけど 関心を持っていて興味深く拝見しています いずれ自分なりの考えをまとめ華鏡にそれを書きます 人間の動きとして

 

なんか 懐かしいな 青表紙本とか河内本 『源氏物語と鎌倉』を書く時に必死に勉強したのでした

 

TLで流れてきたので 古典の日フォーラム2020式典をYouTubeで見ていました 今休憩でまもなくこれから東儀秀樹さん方の演奏が始まります YouTubeは古典の日フォーラムHPに行けばわかります

 

古典の日フォーラム 毎年興味を持っていても京都だから無理と諦めていたらYouTube 初めて見たのですが 一般の方々用構成なんですね 舞楽に始まり たっぷり源氏物語世界に浸らせて頂きました でも離脱 私の源氏物語世界に戻ります

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