2020.11.9 ツイッターから転載…日々雑感 山中智恵子さん『斎宮女御徽子女王』より & YouTubeで村井康彦先生「明月記の世界」を拝聴しました 他
11月7日
たぶん 新しい地平をつかんだ こんな挑戦 まだ何方もしていない そんな感じがしているからもう被ることを恐れる必要はなくなった と そんな気がするここのところですが それで気を緩めるとまた完成が遠のくから来年には完成 の目処は肝に銘じなくては などつらつら
今日ふっと思ったこと 華鏡第二章「仙覚の生涯」では仙覚さんの人生が中心になるから 文化は万葉集一色になって雅な感じがなくなる と思っていたのですが 実時が古今和歌集を書写してました! 親行さんと これを入れるとまた膨大になって完成が遠のくから外していたのですが これは入れなくては
白河院が野宮の道子さんを訪ねるシーンは 後白河院が大原に建礼門院を訪ねた時のようと思ったらいいのかしらと考えて いや あれは平家物語で白河院の時はまだ源平の争乱も起きてなかった と気がつきました
まあ似たような感じとして思うことにし 後白河院が実定さんを伴ったように 白河院は通俊を伴ったと そんな風な展開になりそう
山中智恵子さん『斎宮女御徽子女王』より: なげくらん心を空にみてしがな立つ朝霧に身をやなさまし この徽子の歌を採る勅撰集は、『新古今集』だけであるが、あまたの徽子の歌のうち、とりわけて徽子の有羞清冽のメタフィジックをあらわすものとして、後鳥羽院、定家そろっての採択評価は鮮かである。
徽子さんはこの頃出産で宮中を下がっていて 村上天皇から まかでてのち久しくまいりたまはねば との詞書の あまのはらそこともしらぬ大空におぼつかなさを嘆きつるかな を贈られての返歌 山中智恵子さんは「帝の歌も、里第の女御への心づかい、あるいは生れくるものへの不安と期待が、渾然とした詠歎を
背後に、名歌といってよい」 と こういう心の情趣を詠み交わすお二人です その後山中智恵子さんは和泉式部の つれづれと空ぞみらるる思ふ人あまくだりこん物ならなくに を置き さらに源氏物語明石巻の 歎きつつあかしの浦の朝霧に立つやと人をおもひやるかな を置いて 紫式部は徽子の歌の心そのままと
仮寝はしたけど夜明かししてしまったから 珈琲をのんで寝ることに 明日は週末だし 大統領選のこととか立太子の礼とか村井康彦氏のYouTubeなど 相当目まぐるしくなりそうで いっそすべてに目をつむって山中智恵子さんに浸ろうかなど思う でもできないでしょうね
源氏物語は村上朝を意識しているというし 村上朝の梨壺の五人の一人 清原元輔は清少納言の父だし 和泉式部は上東門院彰子さんに仕える女房の一人だったし で 彼女たちは徽子さんの『斎宮女御集』を相当読み込んでいたのでしょうね 影響はあまり言われてないのか 私は聞いたことなかったです
山中智恵子さん: 『斎宮女御集』は、徽子亡きのち、間もなく成立していると思われるので、紫式部が、村上・徽子の相聞を、一首に集約し、人麻呂の島がくれゆく舟の明石を、背後にひびかせたものと思われる。
11月8日
始まりました 明月記の世界 拝聴させて頂きます
RTさせて頂いたコメントの「『新古今和歌集』編纂時、後鳥羽院が日本紀竟宴にならって新古今集竟宴を行なった」の件 白河天皇の勅撰和歌集にかけた思いに重なります 定家は知らなかったようなのが不思議ですが 後鳥羽院は宮中での流れを把握されていたと 宮中独自の古典や古典観があるのでは?
今日は物凄く疲れていてそれが治らない 夜明けまで読書していて寝て でも今朝は朝一でスーパーに行く予定だったらか飛び起きて それが悪かったと思う 睡眠の起きるバイオリズムを崩すと疲れがとれないですね でも明月記YouTubeは拝聴しました 自分が今書いている世界と共通したり乖離したりです
乖離した部分が自分の世界 共感したり同調している場合ではないから とにかく早く仕上げないと何方にもこの乖離部分をわかっていただけない歯がゆさを抜け出せない と ここのところ何をとっても 自戒 です
明月記の世界で為家の話が出て 嵯峨厭離庵裏手奥の為家墓を訪ねたことを懐かしく思い出しました この後法輪寺にもまわって やはり明月記の世界で法輪寺からは京都市街地が一望できる というお話のとおりの一望をしたことも
ここのところ 伊勢斎宮の世界に浸り 今日YouTubeで京都のお話に浸ったから やはり京都に行きたい思いが切実で 今夜はとてもやるせない それでかつて訪ねた京都の写真を見て為家墓の写真を出したり…… こちらは京都御苑 この空気の中で道子さんや経子さん 徽子さん方は生きてられたのですよね
11月9日
おはようございます 昨夜はあのまま前後不覚に寝てしまい お陰で疲労困憊がとれました 明月記 昨日のお話ではたぶんご著書にも鎌倉との関係は語られないだろうなと 起きて思い出したのは時氏のこと 鎌倉五代執権時頼の父で松下禅尼の夫 六波羅探題北方として在京中に定家と親しく交流してて 明月記にも
度々登場します 時頼はその在京中に生まれていて それがちょうど定家の青表紙本源氏物語ができた時 たぶん時氏一家はそれを見ています 私はだから時氏一家が鎌倉人で最初に青表紙本源氏物語を見た人たち みたいに思っています たぶん松下禅尼はその時源氏物語に関心を持ち 鎌倉に持ち帰ったとも思う
というのは 松下禅尼は四代執権経時と五代執権時頼の母として鎌倉における国母の立場 なので国母の先輩上東門院彰子さんを物凄く尊敬し見習っています 華鏡後編ではそれも書きます 楽しみなのですが そこにいくまでなんて果てしなく遠いこと!

