2020.12.8 ツイッターから転載…日々雑感 全体の見通しがたったので目次をつくったら今までのペースでは到底間に合わないとわかり、突然ですがTwitterを一時休止することにしました
12月5日
おはようございます TLを遡って見ていて 長くなったからもう止めようと思った時にノートルダムドパリの映像が 仙覚さんの小説を書こうとしていろいろ構成を考えていた時に100分で名著で紹介されて ユゴーが壁に記された宿命の文字に触発されて一気に書き上げた小説と 華鏡はそれに触発されました
昨夜読みたくなったご本 地元の図書館にあるのを確認しましたが コロナ以降図書館に行くのを自粛していて よほど今回解禁にしようか考えて いやいやここまで我慢してきたのだから油断しないと決め 今 ネットの古書で注文しました コロナでいったいどれくらい古書を買うのだろう・・・
華鏡用にコロナ後に買った本だけで本棚の一コーナーできそう でもそんな本棚に余裕あるわけでないから全部ツンドク状態 ただ読まないツンドクではなく全部立派に生かさせていただいています 小説が終わったら一式まとめて何方かに差し上げてもいいし また古書店にかな
徽子女王の項を完成させたから 試しに以前仕上げていた白河天皇の項を繋げてみたら 文体が違うから繋がらない! 白河天皇の項はそれで完結してるから動かしたくないけど 徽子女王のほうも文章がこなれてきて動き出しているから変えられない いずれ白河天皇の項になった時おのずと決まるでしょうけれど
華鏡の格段のタイトル 第一段【紅葉の大井川行幸 醍醐天皇『古今和歌集』】第二段【琴の音 村上天皇女御徽子女王『斎宮女御集』】第三段【華の後宮 村上天皇『後撰和歌集』】としました 久しぶりに白河天皇を思い出したら道子女御を思い出して 道子女御の項も斎宮女御になるなあと
村上天皇後宮の女御それぞれが見えて 紫式部と女御荘子女王との関係も見えてきて それがどんなふうに源氏物語になっていったかも垣間見えて 華鏡がやっと本格的に動きだしました(単に源氏物語が好きだからでありませんように笑)
徽子女王が村上天皇に入内するのは村上天皇からの熱心な誘いがあったからですが いつからそんな の疑問は 父重明親王が行幸に召されて琵琶を弾いた その後の宴で親王に打診があったのだと思う その後に誘いの歌が贈られてくるからですが とはずがたりで二条が後深草院な鍾愛の人になる時も 事前に父親
に宴の席で そちの娘を のようなことを打診されている 時代はずっと離れるけど ふっと 行幸に召されて琵琶を弾いた記事が目にとまってそう思いました そちの娘を と天皇から言われたら断れないのでしょうね 大変な世界!
というのは 重明親王が娘を入内させたくてのことだったらさっさと日程が決まって決行されるはずなのに 徽子さんは渋って最初は歌に返事もしない 入内したのはやっと一年近く経った十二月です
12月6日
おはようございます すっかり書く体制に入って華鏡が順調になりました もうずっと 二月末の鎌倉のイベントに行くのを止めてから籠って 友人はオンライン駆使で外と繋がってるから楽しいというけど 私はあえてそれをしないで原稿に向かっていました 苦しかったけど今この境地に辿りつけたのもその結果と
いろいろ乗り越えました こんなこと言う日がくるなんて と思いますが そうあることを望んで頑張ってきたのだから よかった 華鏡はこれからです (突然こんなこと言うなんて 華鏡に源氏物語が入ってきたからの気がします やはり源氏物語は私の原点 それを離れていたから自分を見失ってたような)
華鏡の中でも 待賢門院璋子さんに 源氏物語があってよかった 源氏物語によって私は救われた みたいな台詞を呟かせてしまいました 白河天皇にも笑
「源氏物語と離れて」 は鎌倉の源氏物語に関わって 鎌倉の歴史に介入して それは『源氏物語と鎌倉』に結実し 意味はあったのですが 私自身の精神性と全く違う次元のところで頑張ってました (それにも気がつかないくらいに) でも鎌倉の源氏物語はほんとうの意味で源氏物語ではなかったです
再来年の大河が鎌倉に決まって良かったのかな お陰で鎌倉から抜けられたし 源氏物語の原点に立ち返れたし
と 朝の呟きが多くてすみませんでした
ふっと 突然 道長の万葉集への取り組みも書かなくてはいけない ということが見えてしまいました それを既成のこととして白河天皇親政期を書いていたのですが
徽子女王の項の推敲が終わり 久しぶりに聴いています ラフマニノフGluck-Sgambati: Melodie (Sergey Rachmaninov, piano) - YouTube これから第三段「華の後宮」 荘子女王の項に 『源氏物語』夕顔巻からはじめる予定でいます
12月7日
おはようございます 朝起きたら決然として心が定まっていました わき目も振らずに書くことにしようと その為にTwitterは見ないと 昨夜目次を作ったからだと思います 頭では先は長いとわかっていましたが 書く時間を考慮したら今までのペースでは到底終わらない それがはっきり見えたのでした
今 このツイートをもってTwitterから離れます 私にはここに呟くことで考えたことの確認になりさらなる思念への連鎖になっていました そしていいねを押して下さる方にあたたかなものを感じて励まされていました まさか離れる決意をするなんて思ってもいませんでしたが とにかく完成させなければと
TLを見ると心が揺らぐのでほんとうにこのツイートを最後に当分見ないでおきます いつか呟くこともあるかもしれませんが 気持ちとしては小説の完成の暁に と 今までいいねを下さったり コメントして下さったり のお励まし ほんとうにありがとうございました
■Twitterに写真でご紹介した目次です。今後の予定になります。
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◆小説【華鏡】目次
一.紅葉の大井川行幸 ―醍醐天皇『古今和歌集』(完成)
二.琴の音 ―村上天皇女御徽子女王『斎宮女御集』(完成)
三.華の後宮 ―村上天皇『後撰和歌集』
四.梨壺の五人 ―村上天皇による『万葉集』の訓点作業
五.女房歌人たち ―村上天皇の天徳内裏歌合
……
……
〇紫式部『源氏物語』 ―村上天皇後宮を意識して
(↑この章立ては今まで全く考えていませんでした)
……
……
〇藤原公任『和漢朗詠集』
〇白河天皇 ―法勝寺建立
〇白河天皇の紅葉の大井川行幸 ―醍醐天皇の『古今和歌集』を信奉して
〇王政復古 ―白河天皇『後拾遺和歌集』
〇白河天皇最愛の中宮賢子 ―藤原顕房『大鏡』
〇ふたたびの斎宮女御 ―白河天皇女御道子『西本願寺本三十六人集』
〇待賢門院璋子 ―国宝『源氏物語絵巻』
〇後白河天皇と建春門院滋子 ―最勝光院建立
〇二条天皇の『万葉集』 ―題詞が高い『万葉集』の復活
(ここの部分は大分書き散らしたものがあります)
……
……
↓ ここからは今まで鎌倉の講演で語ってきたことですので、調べたりすることなく
順調に書き進めると思います。
そして、ここからが再来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と重なる世界です。
〇源頼朝と北条時政 ―伊豆流刑生活
〇北条時政の大番役での在京生活
〇運慶と北条時政
源平の争乱
鎌倉幕府樹立
〇北条時政の京都守護
〇比企の乱 ―仙覚誕生
比企の乱は北条時政が比企能員を討って比企氏を滅ぼした乱
仙覚は能員の孫で、乱の年に生まれた
母親が乱勃発とともに鎌倉を脱出し、比企へ逃れて出産したために
北条氏の残党狩の目を逃れ、大人になるが
生涯、比企氏残党の素性を隠し、《仙覚》の名で活動
『万葉集』はその大変な生涯のなかで研究された
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今後ですが、Twitterを休止するので「ツイッターから転載…日々雑感」はできなくなります。
Twitterに呟くことで思念を自分で確認し、それが芋づる式につぎの思念を生み出してくれるので、Twitterは私には大切な考えるツールでした。でも、それも今までのようには必要なくなった気がして休止することにしました。
一日経ちましたが、その間にも今までだったらTwitterに呟いて、ここに転載してメモとして残したい思念が湧き上がっています。それを呟こうとして、あ、止めたんだった、となって呟かず、今までだったらスマホかタブレットに向かって過ごした時間をPCに向かうことで原稿に向かえています。まだ中途半端な感じですが、原稿だけに集中するということはできています。これがいいのでしょうね。
とりあえず、Twitterからの転載もない以上、このブログも一時休止になります。今日は朝から、時々メモとして残したくなる今までの呟きのようなものを、このブログに残していこうか考えていました。でも、やはり原稿と違う言葉の発信をすると、原稿の集中とは別次元の思考状態になります。だから、当分、ブログも休載ということにするしかないでしょうね。またTwitterに呟いたら転載でご報告させていただきます。
とりあえず、休止の宣言をしてからあとに湧いたできごとを書いて残します。
斎藤正昭氏『紫式部伝 源氏物語はいつ、いかにして書かれたか 』を古書で取り寄せました。これは以前に『源氏物語』の成立問題で一番ぴったしに納得したご著書です。村上天皇女御の荘子女王が具平親王のお母さんになる人と知って、俄然、具平親王が気になって、このご著書を再読したくなったのでした。
昨日一日、メモをとりながら拝読していました。やはり納得できるものでした。荘子女王から発展して考えた【華鏡】の路線は大丈夫のようです。そして、このご著書では気づかれていない私なりの説もみつけました。なので、それを書きます。
ただ、思ったのは、紫式部さんはあの『源氏物語』を壮大な想像力で書いているのではなかったんですね。帚木三帖と呼ばれる「帚木」「空蝉」「夕顔」巻は、紫式部がまだ道長に召されて宮廷に出仕する前の、具平親王を光源氏として書いたもの。それが認められて、今度は現実の宮廷社会を見ながら書いた・・・、全部経験が基になっているのです。
これでは私が仙覚さんの小説を書けるわけなかった・・・の思いがしました。私は武士の世界も政治の世界も知りませんし。
ならば、なんの経験もない私が書くとしたら?
と思ったとき、私には文学史的な華鏡の今の書き方がいいんだ、との結論になったのでした。結局、国文学史にのっとった鏡の形式で書いているから、時々自分でも論文みたい、と思います。でも、
論文みたいな小説、それでいいんだと思ったのでした。だって、これを書ける人はほかにいませんもの。