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2020.12.8 ツイッターから転載…日々雑感 全体の見通しがたったので目次をつくったら今までのペースでは到底間に合わないとわかり、突然ですがTwitterを一時休止することにしました

12月5日

おはようございます TLを遡って見ていて 長くなったからもう止めようと思った時にノートルダムドパリの映像が 仙覚さんの小説を書こうとしていろいろ構成を考えていた時に100分で名著で紹介されて ユゴーが壁に記された宿命の文字に触発されて一気に書き上げた小説と 華鏡はそれに触発されました

 

昨夜読みたくなったご本 地元の図書館にあるのを確認しましたが コロナ以降図書館に行くのを自粛していて よほど今回解禁にしようか考えて いやいやここまで我慢してきたのだから油断しないと決め 今 ネットの古書で注文しました コロナでいったいどれくらい古書を買うのだろう・・・

 

華鏡用にコロナ後に買った本だけで本棚の一コーナーできそう でもそんな本棚に余裕あるわけでないから全部ツンドク状態 ただ読まないツンドクではなく全部立派に生かさせていただいています 小説が終わったら一式まとめて何方かに差し上げてもいいし また古書店にかな

 

徽子女王の項を完成させたから 試しに以前仕上げていた白河天皇の項を繋げてみたら 文体が違うから繋がらない! 白河天皇の項はそれで完結してるから動かしたくないけど 徽子女王のほうも文章がこなれてきて動き出しているから変えられない いずれ白河天皇の項になった時おのずと決まるでしょうけれど

 

華鏡の格段のタイトル 第一段【紅葉の大井川行幸 醍醐天皇『古今和歌集』】第二段【琴の音 村上天皇女御徽子女王『斎宮女御集』】第三段【華の後宮 村上天皇『後撰和歌集』】としました 久しぶりに白河天皇を思い出したら道子女御を思い出して 道子女御の項も斎宮女御になるなあと

 

村上天皇後宮の女御それぞれが見えて 紫式部と女御荘子女王との関係も見えてきて それがどんなふうに源氏物語になっていったかも垣間見えて 華鏡がやっと本格的に動きだしました(単に源氏物語が好きだからでありませんように笑)

 

徽子女王が村上天皇に入内するのは村上天皇からの熱心な誘いがあったからですが いつからそんな の疑問は 父重明親王が行幸に召されて琵琶を弾いた その後の宴で親王に打診があったのだと思う その後に誘いの歌が贈られてくるからですが とはずがたりで二条が後深草院な鍾愛の人になる時も 事前に父親

 

に宴の席で そちの娘を のようなことを打診されている 時代はずっと離れるけど ふっと 行幸に召されて琵琶を弾いた記事が目にとまってそう思いました そちの娘を と天皇から言われたら断れないのでしょうね 大変な世界!

 

というのは 重明親王が娘を入内させたくてのことだったらさっさと日程が決まって決行されるはずなのに 徽子さんは渋って最初は歌に返事もしない 入内したのはやっと一年近く経った十二月です

 

12月6日

おはようございます すっかり書く体制に入って華鏡が順調になりました もうずっと 二月末の鎌倉のイベントに行くのを止めてから籠って 友人はオンライン駆使で外と繋がってるから楽しいというけど 私はあえてそれをしないで原稿に向かっていました 苦しかったけど今この境地に辿りつけたのもその結果と

 

いろいろ乗り越えました こんなこと言う日がくるなんて と思いますが そうあることを望んで頑張ってきたのだから よかった 華鏡はこれからです (突然こんなこと言うなんて 華鏡に源氏物語が入ってきたからの気がします やはり源氏物語は私の原点 それを離れていたから自分を見失ってたような)

 

華鏡の中でも 待賢門院璋子さんに 源氏物語があってよかった 源氏物語によって私は救われた みたいな台詞を呟かせてしまいました 白河天皇にも笑

 

「源氏物語と離れて」 は鎌倉の源氏物語に関わって 鎌倉の歴史に介入して それは『源氏物語と鎌倉』に結実し 意味はあったのですが 私自身の精神性と全く違う次元のところで頑張ってました (それにも気がつかないくらいに) でも鎌倉の源氏物語はほんとうの意味で源氏物語ではなかったです

 

再来年の大河が鎌倉に決まって良かったのかな お陰で鎌倉から抜けられたし 源氏物語の原点に立ち返れたし

 

と 朝の呟きが多くてすみませんでした

 

ふっと 突然 道長の万葉集への取り組みも書かなくてはいけない ということが見えてしまいました それを既成のこととして白河天皇親政期を書いていたのですが

 

徽子女王の項の推敲が終わり 久しぶりに聴いています ラフマニノフGluck-Sgambati: Melodie (Sergey Rachmaninov, piano) - YouTube  これから第三段「華の後宮」 荘子女王の項に 『源氏物語』夕顔巻からはじめる予定でいます

 

12月7日

おはようございます 朝起きたら決然として心が定まっていました わき目も振らずに書くことにしようと その為にTwitterは見ないと 昨夜目次を作ったからだと思います 頭では先は長いとわかっていましたが 書く時間を考慮したら今までのペースでは到底終わらない それがはっきり見えたのでした

 

今 このツイートをもってTwitterから離れます 私にはここに呟くことで考えたことの確認になりさらなる思念への連鎖になっていました そしていいねを押して下さる方にあたたかなものを感じて励まされていました まさか離れる決意をするなんて思ってもいませんでしたが とにかく完成させなければと

 

TLを見ると心が揺らぐのでほんとうにこのツイートを最後に当分見ないでおきます いつか呟くこともあるかもしれませんが 気持ちとしては小説の完成の暁に と 今までいいねを下さったり コメントして下さったり のお励まし ほんとうにありがとうございました

 

■Twitterに写真でご紹介した目次です。今後の予定になります。

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◆小説【華鏡】目次

一.紅葉の大井川行幸 ―醍醐天皇『古今和歌集』(完成)

二.琴の音 ―村上天皇女御徽子女王『斎宮女御集』(完成)

三.華の後宮 ―村上天皇『後撰和歌集』

四.梨壺の五人 ―村上天皇による『万葉集』の訓点作業

五.女房歌人たち ―村上天皇の天徳内裏歌合

……

……

〇紫式部『源氏物語』 ―村上天皇後宮を意識して

(↑この章立ては今まで全く考えていませんでした)

……

……

〇藤原公任『和漢朗詠集』

〇白河天皇 ―法勝寺建立

〇白河天皇の紅葉の大井川行幸 ―醍醐天皇の『古今和歌集』を信奉して

〇王政復古 ―白河天皇『後拾遺和歌集』

〇白河天皇最愛の中宮賢子 ―藤原顕房『大鏡』

〇ふたたびの斎宮女御 ―白河天皇女御道子『西本願寺本三十六人集』

〇待賢門院璋子 ―国宝『源氏物語絵巻』

〇後白河天皇と建春門院滋子 ―最勝光院建立

〇二条天皇の『万葉集』 ―題詞が高い『万葉集』の復活

(ここの部分は大分書き散らしたものがあります)

……

……

↓ ここからは今まで鎌倉の講演で語ってきたことですので、調べたりすることなく

  順調に書き進めると思います。

  そして、ここからが再来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と重なる世界です。

〇源頼朝と北条時政 ―伊豆流刑生活

〇北条時政の大番役での在京生活

〇運慶と北条時政

源平の争乱

鎌倉幕府樹立

〇北条時政の京都守護

〇比企の乱 ―仙覚誕生

 比企の乱は北条時政が比企能員を討って比企氏を滅ぼした乱

 仙覚は能員の孫で、乱の年に生まれた

 母親が乱勃発とともに鎌倉を脱出し、比企へ逃れて出産したために

 北条氏の残党狩の目を逃れ、大人になるが

 生涯、比企氏残党の素性を隠し、《仙覚》の名で活動

 『万葉集』はその大変な生涯のなかで研究された

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今後ですが、Twitterを休止するので「ツイッターから転載…日々雑感」はできなくなります。

Twitterに呟くことで思念を自分で確認し、それが芋づる式につぎの思念を生み出してくれるので、Twitterは私には大切な考えるツールでした。でも、それも今までのようには必要なくなった気がして休止することにしました。

一日経ちましたが、その間にも今までだったらTwitterに呟いて、ここに転載してメモとして残したい思念が湧き上がっています。それを呟こうとして、あ、止めたんだった、となって呟かず、今までだったらスマホかタブレットに向かって過ごした時間をPCに向かうことで原稿に向かえています。まだ中途半端な感じですが、原稿だけに集中するということはできています。これがいいのでしょうね。

とりあえず、Twitterからの転載もない以上、このブログも一時休止になります。今日は朝から、時々メモとして残したくなる今までの呟きのようなものを、このブログに残していこうか考えていました。でも、やはり原稿と違う言葉の発信をすると、原稿の集中とは別次元の思考状態になります。だから、当分、ブログも休載ということにするしかないでしょうね。またTwitterに呟いたら転載でご報告させていただきます。

とりあえず、休止の宣言をしてからあとに湧いたできごとを書いて残します。

斎藤正昭氏『紫式部伝 源氏物語はいつ、いかにして書かれたか 』を古書で取り寄せました。これは以前に『源氏物語』の成立問題で一番ぴったしに納得したご著書です。村上天皇女御の荘子女王が具平親王のお母さんになる人と知って、俄然、具平親王が気になって、このご著書を再読したくなったのでした。

昨日一日、メモをとりながら拝読していました。やはり納得できるものでした。荘子女王から発展して考えた【華鏡】の路線は大丈夫のようです。そして、このご著書では気づかれていない私なりの説もみつけました。なので、それを書きます。

ただ、思ったのは、紫式部さんはあの『源氏物語』を壮大な想像力で書いているのではなかったんですね。帚木三帖と呼ばれる「帚木」「空蝉」「夕顔」巻は、紫式部がまだ道長に召されて宮廷に出仕する前の、具平親王を光源氏として書いたもの。それが認められて、今度は現実の宮廷社会を見ながら書いた・・・、全部経験が基になっているのです。

これでは私が仙覚さんの小説を書けるわけなかった・・・の思いがしました。私は武士の世界も政治の世界も知りませんし。

ならば、なんの経験もない私が書くとしたら?

と思ったとき、私には文学史的な華鏡の今の書き方がいいんだ、との結論になったのでした。結局、国文学史にのっとった鏡の形式で書いているから、時々自分でも論文みたい、と思います。でも、

論文みたいな小説、それでいいんだと思ったのでした。だって、これを書ける人はほかにいませんもの。

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2020.12.6 ツイッターから転載…日々雑感 具平親王と夕顔のことなどから、『源氏物語』帚木空蝉夕顔三帖は越前で書かれたのではないかと

12月4日

おはようございます 【華鏡】は主題が見えて構成が整い その方向で書き直し始めているので 今日は今まで書いた分を見て頂いている方に 新しい構成の原稿を送らせて頂こうと思います とりあえず完成しているのは徽子女王までだけれど 年内の収めにのご報告を

 

編集者さんて 奇特な方ですね お願いしたわけでないのに 私の生涯の集大成だから 心を込めて見る って仰られて その 集大成 ととらえて下さっているお心にぐっときました いつのまにか見て下さる方は見て下さっている と

 

紫式部の年譜に具平親王の事象を書き入れました 紫式部と親王は九歳違いでした(前に数歳とツイート) 夕顔のモデルだった大顔事件は親王31歳紫式部22歳の時のよう その二年後に紫式部は父為時の赴任に伴って越前に行きます 翌年単身帰洛して結婚するから 夕顔巻の原点は越前で醸造されていたのかも

 

宣孝が亡くなって源氏物語を書き始めたと言われてますが 為時はその年に越前から帰っていて それから出仕まで五年位あります その間に執筆としても 思念のなかでの醸造は ゆったりとした越前での暮らしのなかだったでしょう と思います

 

夕方近くなった逆光の 雑木林の隙間から覗く紅葉が一幅の絵でした@井の頭公園

 

blogに転載するための重要メモとして: 帚木三帖という言葉が朝からずっと消えないでいるのだけれど 帚木空蝉夕顔は並びの巻だというのを今ウィキで読んだ 夕顔を越前で醸造していたとすると この三帖は越前で育まれていたことに まだ紫式部が出仕する前だから宮中のことを描きようがなく なのに

 

帚木で雨夜の品定めに光源氏が登場するとしたら 越前以前に見知ったモデルは具平親王でしかありえない そして 雨夜の品定めこそ 具平親王の邸宅千種殿で行われていた文人たちの集いの光景にほかならないでしょう 紫式部も実際に見ていた風景だし 父為時らが参加していた 以前から雨夜の品定めが

 

男たちばかりの会談なのに生き生きと紫式部が描き切っているのが不思議だったけど 具平親王の席を見知っているからこそ描けたと思うと納得 帚木三帖の ある意味突き詰めた感のないのびやかさは 越前以前の記憶だからなのでしょう 結婚後とか死別後にこれは書けないと思う 私自身書く者として

 

ふっと思ったのだけれど 私が白河天皇の周辺を書いていて徽子女王に行き着き それで主題が見えて構成し直し 醍醐天皇から書き始めていて 最初に書いた白河天皇の項はずっと後に送られる 長編小説として完成したら 白河天皇から書き始めたなど後世の人にはわからない 源氏物語も紫式部の中でそんな転換

 

があったのかも 書くってそういうことだから 書いていく中で転換が起きて主題が浮かび上がるものだから

 

メモ: 荘子女王の父代明親王の妻は定方娘 妻が先に亡くなり 代明親王も亡くなった後 残された子供達を育てたのが亡くなった妻の兄妹だった その一人に道雅と結婚した女性がいた つまり妻の妹で その妹が産んだのが為頼為時ら 紫式部の父たち 荘子女王はその妹達に育てられていたから為時らと親しい

 

斎藤正昭氏『紫式部伝 源氏物語はいつ、いかにして書かれたか 』は帚木巻が先に書かれた説らしい このご著書 物凄く面白くて感銘を受けたのに手放して今手元にない 私は読んだ内容をすっかり忘れる質なので どう感銘したかも覚えてない もう一度読んでみたい気が

 

成立論で一番納得したことだけは覚えています

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2020.12.5 ツイッターから転載…日々雑感 荘子女王皇子の具平親王の『源氏物語』夕顔巻との関係をめぐって

12月3日

おはようございます まだ紫式部日記のあたりをうろうろしているのですが なんか向こう側に見えそうになっている世界が膨大すぎて焦点がつかめない感じ 年譜を作ろうとして紫式部主体にするか具平親王のにするか等迷い 昨夜は安部晴明が始まったので中断してそのまま寝ました 起きたら徽子女王の項で

 

書き足りなかった文章が浮かび それを今日入れます 紫式部日記 写真中央は高橋文二先生の編ですが ここに紫式部の年譜があって それを軸にさせて頂こうかと 文二先生に私は長く 何十年も 源氏物語を教えて頂きました こうしていても耳にお声が響いて懐かしいです ほぼ耳学問的学びでした(←これが大切)

 

これからは独り その覚悟ができて こういう時に詩が生まれるのだなあと ランボーのような ニーチェのような言葉が走馬灯のように頭の中を駆け巡っています 誰も書いたことのない世界に入っていくから 呆れられても突き放されても 私はやる! の信念で進みます 今までは仲よきことは美しき哉 でした

 

月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて…… 源氏物語の中で好きな文章は? と訊かれたらまずこの文章 というくらい好きなのだけれど 帚木巻だったんですね 夕顔巻を読み返そうとしたら ふと眼にとまって

 

夕顔巻読了 私はほんとうに読むのが苦手 読みたい本でなく必要で読んでいると眠たくなって耐えるのに必死 疲労困憊します笑 でも読み通しました 読後の感想ですが なにかとんでもないことを書きそうな もう少し精査して書きます

 

書くって 時には人を傷つけるから 紫式部さんもそれを思うことあったでしょうし それにしては詳細にかなりリアルに今で言う週刊誌記事のようなことを堂々と書いてらして 私にはできない といつも思ってしまうのだけれど

 

前から思っていたことなのですが 夕顔巻を再読して 改めて これ 想像で書ける? を痛感 想像を越えた描写の部分と それを繋ぐ惟光の働き そんなことで夕顔巻ができているような

 

夕顔巻を読もうとしてたまたま帚木の空蝉のところが目に入って先に読んだから 空蝉のところはただの夕顔巻の惟光の運びの書き方と同じで 夕顔巻の他の箇所の描写は想像では書けない域 という違いを実感しました

 

夕顔と具平親王の件を終日検索していました 疲れたけどだいたいつかめました そうではないかと考えた方向が整合性つきそう これで執筆にかかれます

 

日中検索していた夕顔と具平親王の関係の件 辿り着いたのがどうやら角田文衛先生が言い出されたのが最初 ということで 家にある二冊を出してきました といってもこれは同じご著作で 著作集のを源氏物語千年紀記念に豪奢な紫の装幀で再刊行されたもの なので私は著作集の方で拝読していて 紫の方は未読

 

拝読 と書きましたが そうなんです かつて読んでいたのでした それで大顔の件を知っていたのですね でもここにあるもっと重要なこと 具平親王と大顔の遺児を紫式部の伯父頼成が引き取って子息の養子にして育てた ということは 当時全く理解してなかった 再読したら頼成は荘子女王と親しかったとまで

 

当時は荘子女王を知らなかったわけだし 今だから再読がすうっと入ってきたんです 終日検索してやっと辿り着いた原点とも言うべき角田文衛先生のご著作 灯台もと暗しで二冊も我家にあったという結末です

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2020.12.4 ツイッターから転載…日々雑感 村上天皇女御荘子女王を書こうとして、紫式部日記に紫式部と具平親王の関係を見ています。

12月1日

おはようございます 今日はこれから 紫式部日記です 我家にある三冊全部を出してきました 以前から気になっていたことが浮上して先生方がどう書いてられるか その箇所を探して拝読します

 

ついに出してきました 日本史大辞典 本棚の奥から 白河天皇が何年頃とやっと身についたら 醍醐天皇になって知らない年号に四苦八苦して また村上天皇の時代は とか もう知らない年号の頻出で それが西暦だと何年頃かピンとこない 一々タブレットで検索していたのだけれど これからこういうことが続くと覚悟して

 

『源氏物語と鎌倉』を書いていたときの赤線でしょうか まだ仙覚さんは視野に入ってなかったから 1203年の比企の乱のところはノーマーク

 

仙覚さんの小説のためのfacebook「仙覚取材ノート」 ご無沙汰してたのだけれど 方向性が決まって動き出したのだから 年内の締めのご報告に【華鏡】の今のところの段階と決意を投稿しました 多分当分facebookへの投稿はもうしない 当初とすっかり状況が変わりました 写真は100分で名著の薔薇の名前から 『個別の真実のなかに事実をとらえなおすこと』

 

12月2日

たまたま流れてきたマーラーのベニスに死すのテーマを聴きながら作業しているのですが 去年の今頃TVで放映されたのを観て そうしたら武漢で防護服で消毒するニュース映像が映るようになり 同じだと思ったのですが まさかその一年後の今 世界中がそうなっているなど 思ってもいませんでした

 

RTさせて頂いた 学芸員さんの「この仏像を並べたい」 展覧会を観たいです! 龍華寺様は金沢文庫から歩いてすぐで ちょうど金沢文庫によく通っていた時にこの脱活乾漆造の菩薩坐像が発見されたのでした その時の興奮とその後のご研究 部外者ながら今も鮮明です

 

なにか 見えてきた気がするのですが 荘子女王って 入内した時 とっくに両親が亡くなっているんですよね 兄か誰かに育てられてます そういう人が入内するかなあと考えたら これは村上天皇からのたっての希望だったのではと 荘子女王の父は醍醐天皇皇子の代明親王 その兄弟に兼明親王がいます 前中書王と

 

呼ばれたほどの文人 荘子女王の子の具平親王がやはり文人の誉れ高く後中書王 荘子女王はきっと兄の家で育てられながら感性豊かな女性ということが村上天皇に伝わったのでしょう 徽子女王も村上天皇からの熱心な誘いで入内していますから 話題が豊富な荘子女王と村上天皇は話が合ったと思います その

 

女王から生まれたのが具平親王で 紫式部の父為時は荘子女王のいとこ 紫式部は具平親王とは又従兄妹の関係なんですね そして九歳しか違わない 紫式部は村上天皇後宮をかなり身近に聞いて育ったことになるでしょう もう少し整理しつつ考えます

 

村上天皇は天徳内裏歌合をした人ですが それは女房主体の歌合だったんですよね それでその四年前に女御全員の四人が歌合をしている 私はそれを天徳内裏歌合に向けての村上天皇の手始めだったと思っています で それをした最初が荘子女王 私は歌の上手な徽子女王が認められてトップと思っていたので意外

 

でした そこから荘子女王はなにもエピソードが残されてなく研究では扱いが低いけど 何かある! と気になってました だから具平親王の母と知り 紫式部の父といとこと知り と状況が見えてきたら 歌合を最初にさせた村上天皇の意向もうなずけました

 

あとは これらのことがどう紫式部の村上天皇後宮をモデルに源氏物語を書いたことに結びつくか 今まで文献で調べて書いたとばかり思っていましたが かなり現実は生々しそう

 

醍醐天皇皇子の一覧表とか 作れば進むとわかっているのにやる気が起こらなくて 半日とか終日とか無駄にしてしまう テキパキすれば! と心のなかでハッパかけるのだけれど 動けない 前はこういう時サボってると自分を責めてたけど 今はこの時間が重要なのだ とわかってきました いつの間にか先が開ける

 

今も 横になって休もうか それとも食事の支度にかかる? など思いながら 醍醐天皇皇子の一覧表を作ろうって気にならないでこんなツイート笑

 

紫式部さんの具平親王との関係って どういうのかなあと ずっと考えています 今まで大人の親王に少女の紫式部が仕えたとばかり思ってたら九歳違い 紫式部日記の道長に問われて複雑な境地を垣間見せている紫式部さん ただの家族関係の複雑さでないような

 

頼通に具平親王の娘の隆子女王が嫁いで困ることって 紫式部さんにあるのかしら あるとしたらどういうこと? 道長家と親王家が不和ならそんな縁談話は起こらないし 複雑さは紫式部個人にしかない問題としか思えないのだけど どういう事情関係か年譜を作らなければ!

 

どういうわけか家族がみんな遅い昼寝で就寝中なので お夕飯の支度ものんびりで 醍醐天皇皇子の一覧表を作ってみました 36人もお子さんがいるんですね で 中宮穏子のお子さんが最初で 同じ穏子さん所生の朱雀天皇と村上天皇は20年後 その20年の間に代明親王 重明親王 兼明親王が生まれていて それぞれ

 

お母さんが違う 代明親王と重明親王は 兄弟でも20歳も違うから それぞれの女王の荘子さん徽子さんを入内させられたのでした その20年の間に生まれた皇子を見ていると 寵愛された更衣さんの歴史がわかって結構複雑 穏子さんはそれに耐えて 最後にまた醍醐天皇の愛を取り戻したかのような朱雀村上お二人

 

BSP 安部晴明を観ていました

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2020.12.3 ツイッターから転載…日々雑感 【華鏡】の原稿が整ってきました 第一段 紅葉の大井川行幸―醍醐天皇の古今和歌集 第二段 琴の音―斎宮女御 第三段 華の後宮―村上天皇の後撰和歌集 という国文学史に沿った構成になります

11月29日

今気づいたこと 私が知った順序では源氏物語が先だから いくら村上天皇の後宮をモデルにして書いたと知っていても 最近知ったばかりの村上天皇後宮のことは 源氏物語より後のことになっています だから最近読んだいろいろなエピソードも ああ 紫式部もこう書いてたなあとしか感じていませんでした でも

 

えっ! と今気づいたんです 紫式部は偶然とか自発的とかで書いたのではなく 後宮のそのままを書いたのだ!と 最初に感じていたのは 私は紫式部の数ならぬ身という語句を使った歌がなにか気になっていたのですが その語句 徽子女王が使っているんです 紫式部は身分上にですが 徽子女王は寵愛の薄さに

 

そして今気づいたのは桐壺帝と更衣の比翼の鳥連理の枝 これ 村上天皇が女御芳子に歌で贈っているんですね 天皇は芳子さんにもう入り浸りで中宮安子が激しい嫉妬 芳子さんは桐壺更衣 中宮安子が弘徽殿の女御 なのでした

 

源氏物語が村上天皇朝を範にして書かれたという準拠論は詠みましたが こういう具体的なことでなく政治や歴史上の文献的考証だけだったから こういう中の文章に即したご論考って もう何方かが書かれているでしょうね 検索したら出るかな(今は原稿にかかるからしませんが)

 

【華鏡】原稿が整ってきました 第一段 紅葉の大井川行幸―醍醐天皇の古今和歌集 第二段 琴の音―斎宮女御 第三段 華の後宮―村上天皇の後撰和歌集 

第一段終了 第二段進行中 第三弾まもなく取り掛かります といった具合

迷いがなくなりました

 

第四段はタイトルがまだ決まってないのですが 天徳内裏歌合 第五段は梨壺の五人の万葉集 第六段から紫式部の源氏物語と上東門院彰子さんに その先に白河天皇期があって 道子さんの西本願寺本三十六人集が

 

やはり私は歴史が好きなんだなあ ということと やはり私は国文学が好きなんだなあ ということの両方が噛み合わさって こうなりました 仙覚さんの小説だからと武士の世界を書こうとしてばかりいたから書けなかった 匂いやかなものがないと 私はダメです

 

11月30日

おはようございます 写真は京都の井筒様が丸の内の講演にいらして実演を見せて下さったときのもの 原稿の各段に写真を添付しようとして 斎宮女御の段に選びました 徽子女王がこういう裳をつけられる方だったかわかりませんが 手持ちで正確な写真は無理で雰囲気だけ 固い原稿なので写真で和らぎを

 

第二段斎宮女御の項 もう書いてるのを編集して加筆しているからとりかかれば進むのに 毎日なんか日々のことに追われて深夜いざはじめようとすると渾身の力を込める気力がもうない それではいい文章になるわけないから寝て 起きたら快調で推敲しました 毎日こうして最初に原稿に向かえばいいのかも

 

第二段琴の音―伊勢斎宮の項の推敲を終わりました 朝原稿に集中することがこんなにもいいなんて 毎日の雑事で今までどんなに体力気力を削がれていたかですね でも推敲だからこんな短時間の朝でできる 書き溜めて楽になってきたのでしょう 井筒様の実演はほんとうに素晴らしく素敵でした

 

着付け終わった全身の写真をご紹介できたらいいのですが ご覧のように参加者がぐるっと周りで見ている状況だから その方々の写っていない写真を探すのが無理 そして この時はスマホを変えてはじめてのカメラ機能を使って 設定を調整してなかったから画質大きさすべてダメ あ~あ です

 

昇りかけの満月 雲がかかって不思議な絵になりました

 

半影月食を撮りたいのに スマホでは無理 ちょうど今頃最高月食のようなのに

 

ついに夕顔! 夕顔を書くことはないと思っていたのに 第三段華の後宮の書き出しを夕顔から始めることに 村上天皇の後撰和歌集の段ですが 徽子女王の入内と重なっていると思ってたら もっと荘子女王の方が近くて それなら荘子女王を書くべきかと 徽子女王の儚さがいっそうくっきりで辛いのですが

 

荘子女王は具平親王の母になる方です 心が深くて和歌が上手な徽子女王の入内で天皇が勅撰集に奮起されたように運びたかったのだけれど 逆でした 徽子さんはどんどん数ならぬ身を痛切に感じるまでに追いやられる感じがします だからそんな歌を残されたんですね

 

私もしつこい笑 とっくに半影月食は終わっているのですが また撮ってみました 今夜の満月 満月はやはり晴明です

 

紫式部と具平親王の関係を見たら 紫式部の父為時と具平親王の母荘子女王の二人 その二人の母がウィキではともに定方娘なんだけど 同一人かしら それとも姉妹? いずれにしても紫式部は荘子女王とそんな身近な関係にあったんですね びっくり

 

村上天皇の後宮を書かれたご論考では 徽子女王が斎宮女御だし 中宮安子は冷泉帝を産むから重んじられているし 女御芳子は連理の枝の寵愛ぶり とで荘子女王は地味でほぼ列挙された名前だけの扱い なのに紫式部との関係をたどったら…… 驚きました

 

どうしてこういうことが起こるのだろう 私にとって目が覚めるような事柄や人間関係がほとんど意味ないものとして重要扱いされてない だから部外者で調べていると それは見えない だからよほど深くかよほど迂回して辿り着いて いつもびっくりします

 

村上天皇の後撰和歌集の段 和歌の上手な徽子さんの入内で活気づいての後宮 という線で運びたかったのに 荘子さんがそこに立ちはだかって なんとなく無視できなくて調べていっての紫式部の父との関係でした 無視できませんよね

 

今日はずっと原稿にかかってる 仙覚さんの小説にかかってこんなこと初めて やっと小説を書く体質になったかもと思う 書くことって頭ではない 体がそこにのめり込むこと 浸透すること 一体感 やっとその地平に立ちました 私の転機の月11月 今年の転機はこれだったよう 大収穫でした 感謝

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2020.12.1 ツイッターから転載…日々雑感 徽子女王の項を書こうとしています。紫式部は彼女に聖性をみたのでしょう、ということを書けるかな

11月28日

おはようございます ダ・ヴィンチの描く女性が好きなのですが 古典を考えていて初めて彼女たちが浮かびました 紫式部は古典のなかでただ一人聖性といったことを志向した人ではないでしょうか 仏教は人間から離れられない宗教だから マリア様のような女性を構築する基盤がなかった キリスト教があったら

 

おはようございます ダ・ヴィンチの描く女性が好きなのですが 古典を考えていて初めて彼女たちが浮かびました 紫式部は古典のなかでただ一人聖性といったことを志向した人ではないでしょうか 仏教は人間から離れられない宗教だから マリア様のような女性を構築する基盤がなかった キリスト教があったら

 

聖性という言葉が浮かんだのが起きてすぐ 源氏物語があまりに恋愛でどろどろした内容だから 苦しみとかそういう観点で語られてばかりいるけど 聖性の観点でみると紫式部の志向といったものが浮かび上がってきます 日記でも無垢というものに靡いてますよね これは他の古典にない清浄性と思います

 

と こんなことを考えていたら 突然 ララのテーマが頭の中に流れました ララも聖なる人だった ララを思って徽子女王を書くことになるのかも

 

徽子女王が動き出してきました 八歳で斎宮に卜定されたところから始めます 旧稿で徽子女王の項は書き上げていたのですが 全く動いてなくて斎宮の説明になってしまっていて これではいけないと思いつつどうにも動きませんでした 自分らしい主題を見つけ 書き直し始めて やっと

 

斎王は卜定で決まるというけど 身分の低い更衣から生まれた内親王がなりやすいからやはり作為はあっただろうとどこかで読んだ 徽子女王の場合 身分の低い両親ではないけれど 同じ立場で同い年くらいの荘子女王がいるのに徽子女王が決まったのには あの子なら大人しいから言うこときくだろうのような

 

選別があったのでは? 後年 徽子女王が村上天皇に入内して規子内親王の出産で里帰りしていた時に荘子女王が入内します 内裏に帰った徽子女王はそこで村上天皇の愛が荘子女王に移っていることを知る 大人しい徽子女王より 後年具平親王のような皇子を産むくらいの荘子女王の方が魅力あったでしょうから

 

そこから徽子女王の斎宮の時代には思い浮かばなかった実人生の苦しみを見る目が働き始めます 徽子女王のそういうところの真価を最もよく知るのも村上天皇で 心の交流は徽子女王とが終始あるのですが

 

朝から呟き多くてすみません

 

今日のクリスマスローズも素敵です

 

待機しています 斯道文庫オンライン講演会「書誌学のこれまでとこれから」

 

先日の徳川美術館中継でも紹介された尾州家河内本源氏物語の北条実時奥書 書誌学のオンラインシンポを見ながら なにかメモするのにノートをと探してシステム手帳を思い出しました 開いたらこの奥書のコピーが こうやってずっと持ち歩いていたんですよね 直筆か否か 会う人ごとに見て頂いて

 

斯道文庫オンライン講演会 佐藤道生先生のご講演が終わりました いろいろ懐かしく思い出しつつ拝聴していました

 

これから自分の時間になって コピーしていたご論文を拝読するのだけれど ご覧のようにコピーが一枚に二頁の指定しか印字できなくて ルーペを出して読むことに なんでかなあ 昨日もこういう印字だった どこか設定が変わった?

 

朝投稿したダ・ヴィンチの女性像 カラーがこちら ほんとうに好き 部屋に飾ってあるのですが心が凛とします 飾ってあるのにもう長く眼をとめる余裕なかったなあと 仙覚さんの小説にとらわれて志向が武士武士にばかりなってたから 徽子女王を書いてようやく自分を取り戻しました

 

諸井彩子氏「上東門院彰子サロン」より: 長元五年、彰子が法成寺で法要を営んだ際、仏前に供えた菊を女房たちが詠んだのを機に翌日歌合を開催した。これは、内裏歌合がなくなった時代に女房たちが咄嗟に歌を詠み歌合ができるほどレベル高い女房が揃っていたこと。この菊合が後の頼通の歌合開催の契機に

 

彰子サロンが定子サロンや選子内親王の斎院サロンに比べて地味で活発でなかったようにいわれていることへの反証のようなご考察 そしてこのあたりでは伊勢大輔がしっかり立場を作って彰子さんの信任を得ています 和泉式部の初出仕の際も彰子さんに相手をするよう言いつかって緊張をほぐすなどいい感じ

 

これから徽子女王の原稿にかかるのですが 朝にツイートしたように徽子さんが動き出しているのだけれど ちょっと辛い話になるから取りかかれないでいました でもそうもしてられないからやっと決意 思うのですが 斎王に選ばれての初斎院で何ヵ月 野宮では三年 と潔斎の期間を過ごすのは 神に近づくためと

 

いうけれど それは両親との別れ もしかしたら永遠の別れになるかもしれない伊勢への下向に際して その群行に向かう最後の両親との別れの際に 悲しんだり泣き叫んだりしないための準備期間だったのでしょう すっかり神になって淡々と別れられるようにとの 徽子女王の場合 本当に永遠の別れになってます

 

原稿から離れ 寝る前に気分転換にとTVをつけたら 美しき日本の山々 九州のくじゅう連山 六月山には様々な花が咲くとハルリンドウ 秋の濃い紫のリンドウより淡い色の花でした くじゅう連山は九州で唯一コケモモの咲く地とも 山はいいですね ほんとうは嶮峻な岩山が好きだけど 湿原があるこういう山も

 

美しき日本の山々 石鎚山だそうです なんか寝るのが惜しくなって見てしまいそう

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