2021.12.8 ツイッターから転載…梅原猛『水底の歌―柿本人麿論―』に着想を頂き、華鏡は『華鏡―仙覚論―』になりました
12月5日
梅原猛『水底の歌』より: とすれば「原万葉集(巻1.2)」の思想ははっきりする。それはたしかに鎮魂の、悲劇の死をとげた皇子や朝臣たちの、わけても律令権力の犠牲となった柿本人麿の鎮魂の歌集である。しかし、その鎮魂には、ちょうど後世の菅公の場合がそうであったように、一つの政治的ねらいが秘め
られている。人麿を死に追いやった藤原権力の告発という、ひそかな無気味なねらいを、この歌集は秘めている……まさかここに辿り着くとは と驚いた一文 紫文幻想で菅原道真をやり 比企の乱の仙覚を追ってきた私には痛いほどわかるこの一文 水底の歌は帯に国文学界と対決するとあるように 一般説と認め
られていないどころか批判されているようですが それは私の仙覚も同じ 敗者は勝者によって厳重に幾重にも隠蔽されているから文献などの証拠が残っていません だから心で推測するしかないんです 水底の歌はそういうご本でした
初印字して『華鏡 ー万葉集&源氏物語論』を書き始めているのですが 水底の歌の他にきちんと古代史を読んでおこうとしたら 梅原猛氏がいわれる詩心ない文章はこちらの高揚まで削いでなにもかもつまらなく感じていってしまうので もう読むのを止めました 水底の歌一本でいきます
ん? もしかして と大変なことが見えてきました これ 仙覚論として書けます 『華鏡 ー仙覚論ー』 書いていて気がつきました たぶんここに極まれりです これでいきます
12月6日
『万葉集』巻二の柿本人麿の死をめぐっての歌五首を入力しました 妻依羅娘子の歌にある「貝に交りて」の語の意味は水死だそう 人麿は水死したのです この語の意味が後世ではわからなくなっていて人麿の死が不明でした が ここに仙覚が登場します 仙覚は『万葉集注釈』に「宇治の物語の蜻蛉の巻にも」と
浮舟が水底に沈んでいることをさして注釈しているのです つまり仙覚は人麿の水死を知っていました 華鏡冒頭に人麿の辞世の歌を載せて書き始めての早々の仙覚登場 そして万葉集だから大伴家持とか旅人が出てきます 当然令和の出典の『西本願寺本万葉集』に触れて書きます そうしたらもうまた仙覚登場
『西本願寺本万葉集』は仙覚が作った万葉集を底本にしている万葉集です 仙覚は鎌倉時代中期だから華鏡後半にしか書けないと思っていたのに冒頭から! 仙覚論として書けるとなった所以です
久しぶりに出してみました 中野幸一先生『正訳源氏物語』蜻蛉巻 仙覚が水底に沈む浮舟のイメージを柿本人麿の妻の歌「貝に交りて」の解説に使った文章の確認に 源氏物語は何回も読んでいるのに まさかこういうところで紫式部が万葉集の語を知っていたなど深読みできませんでした
びっくり 仙覚が『万葉集註釈』に書いた「貝に交じりて」の解説で『源氏物語』蜻蛉巻を例に揚げて書いているとしたその箇所は 一字一句違わず紫式部の文章そのままでした 仙覚が要約して書いたとばかり思っていました 仙覚は傍らに『源氏物語』を置いて執筆していたのです 仙覚さんと源氏物語なんて
『水底の歌』は今どういう立ち位置なのだろうと思う 雑誌掲載当時毀誉褒貶相半ばで物凄い異端扱いだったらしい 私はそういう批判の嵐をなんとなく感じて読むのを避けていました 仙覚研究で万葉集研究の歴史を一応見たのですが 契沖とか賀茂真淵に惹かれなかった 水底の歌を拝読してそれがなぜかが
理解できたわけですが 私が感じたその方々への違和感を国文学の研究史では全然触れられてなく どちらかといえば偉大な学者扱いだからそういうものかと受け止めるだけにしていたのですが 水底の歌にはっきりその違和感への共感部分を見て 私は水底の歌への褒貶を払拭できました
仙覚が『源氏物語』を引用している件で 当時仙覚の周りには『尾州家河内本源氏物語』の奥書を書いた北条実時や 「河内本源氏物語」を作った源親行がいたわけだし どの写本を引用したのか気になって中野幸一先生『正訳源氏物語』を見たら大島本 青表紙本の本文でした ということは と考えています
引用してある『万葉集註釈』は仙覚が小川町で作りますが それは書き溜めていたのをまとめたものだそう 仙覚はこの注釈書を長いあいだ書き溜めていました だから仙覚がいつ『源氏物語』に接したかはわからず 宗尊親王の時代だったら河内本系? と思ったのでした
でもそうではなかった とすると源氏物語ブームの起きた宗尊親王時代ではなく もっと遡って後嵯峨天皇に万葉集を献上しつつ滞在した京都時代かしら など 或いは真観から借りた とか