2021.12.26 Twitterから転載…捨象ということ! 仙覚を書くということについての根本に突き当たりました
12月25日
捨象 抽象を行う場合にそれ以外の特徴を捨て去ること シャショウ の語を使ったことないし初めて見たばかりなのにまた と気になって検索しました 『万葉幻視考』で大浜厳比古が「『記紀』に記された古代の生々しさは『万葉集』では捨象され」と書き 『牧野虚太郎詩集』の解説で鮎川信夫が「初期の詩では全く捨象されていた人間的な心理の闇」と書く
たまたま私が大浜厳比古氏の詩作品に牧野虚太郎を感じ 本棚の奥から取り出した詩集なのだけれど やはりどこかつながっているよう 早世した牧野作品は12篇しか残ってなくて 作品より解説ページが長い詩集です
その12篇を読んだのだけれど 改めて言葉の繰り出し方が凄いとしみじみ 清水昶先生の詩塾に通っていたとき 文章はつぎにくる文章があっと意表をつく文章が凄いと教えられた それで私は読むときも書くときもそう心がけているのだけれど 牧野作品はまさにそう それがモダニズムなのだとしても
12月26日
深夜 牧野虚太郎の詩のモダニズムについて呟いたら そうだ 吉田一穂もだったと思い出し 久々に白鳥を読みました 牧野虚太郎の復讐をどの詩が一番好きか問われたらこの詩 と先日呟いたけど 白鳥 もありました どちらも一番好きな詩です笑 私はモダニズム詩が好きなのでしょうか 考えたことなかったけど
びっくり! こんなふうに繋がってくるなんて コトバンク「知恵蔵」のモダニズムの解説: モダニズムのピークは、間違いなく、世界的同時性をもって展開された1920年代にあった。プルースト『失われた時を求めて』、ジョイス『ユリシーズ』、エリオット『荒地』、ウルフ『灯台へ』などがあげられる。
詩でしかモダニズムを考えたことなかったけど 散文においてもあったのですね そして まさにそれがプルースト ジョイス…… 小説作法として川端康成とか個々について学んできたけど 結局私はモダニズム体系のなかで文筆修行をしていたということのよう 惹かれるわけですね
言葉の繰り出し方としてモダニズムをもっと知りたいと思いましたが また探及世界の沼に入っていきそうだから止めて 仙覚さんの小説に戻ります 書くこと自体モダニズム世界にいたようだから
なんか気になってやり過ごすことができなくてエリオット『荒地』を検索していました やっとわかったこと それは現代の感性においての危機感の欠如 モダニズムがどうとか そういうことでなく エリオットも田村隆一も おそらく牧野虚太郎も あの西脇順三郎でさえ 戦後の荒廃した大地と人心 そういうことの危機を現実にまざまざと目にして生きていたんです エリオットは第一次大戦後の
私が仙覚を書きながらなんか手ぬるいと感じて書き進めないでいたのは いくら東北の震災とかコロナとか現実が目の前にあってもエリオットや田村隆一のようには自分のこととして感じられてない いつかしら現代人はほんとうに殺伐とした危機 生存の危険 を生々しく感じることのできない人種になってしまっているんですね 比企一族を滅亡に追いやられた仙覚さんの危機感を理屈ではわかっていても書けるわけがありませんでした 反省を込めてこれから考えていきます
と呟いて 昨日の「捨象」が生きてきました 『万葉集』は非業の死を遂げた人々の悔しみ悲しみの生々しさを 牧野虚太郎の詩も現実の生々しさを 捨象することで それらに対しての鎮魂に飛翔 生々しさに決して目をそらさず けれど書かない これだったのです 仙覚さんを書く方法は
自分のなかの生ぬるさを撲滅しなければ・・・ これはかなり難しいです(なぜなら平和のなかに生きているから 平和のなかで育ってしまってきたから いくら先に危険が見えていてもまだ現実として見えてないから)