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2023年2月15日 Twitterより転載…パウル・ツェラン『罌粟と記憶』『誰でもないものの薔薇』『雪のパート』を読んで、仙覚のほんとうの境地に辿りつきました

なぜか突然パウル・ツェランが気になって、タイトルに惹かれて買っていたまま読んでいなかった三冊の詩集、『罌粟と記憶』『誰でもないものの薔薇』『雪のパート』を読みました。それだけでは理解不能なので図書館に行って飯吉光夫氏『パウル・ツェラン ことばの光跡』 を借りてきて、大体のことを把握して。

ツェランはアウシュヴィッツで両親を殺されていて、そのことが生涯の苦になっていてやり場のない怒りや慟哭の雄叫びを詩にしていたのでした。私がツェランの詩に惹かれるのはそれが「詩」という一般的な言葉ではなく、「詩」ではあっても意味がある言葉ではなく雄叫びという心の底からの発露だったからでした。誰でもないものの薔薇、この語韻、この語呂、意味がないのに心に突き刺さってきます。

買ったまま読まなかったのは、帯などに書いてあるアウシュヴィッツなどの壮絶な人生を読むのが怖かったからです。なのに買ったのは、タイトルの言葉が綺麗だったからです。そうです、タイトルにして雄叫びの心の発露があったのでした。

数日、ツェランに関連した読書と思索で過ごしました。そしてわかったのです。私がこれから書こうとしている仙覚こそツェラン側の人だったということが。比企氏ゆかりの男子ということがばれると殺される運命にある仙覚は、生まれながらにしてツェランが心に負った雄叫びするしかない苦悩を負っていたのです。その発露が『万葉集』の研究に充てられたのでした。

ツェランを読んで、考えたことは必然でした。その一連のTwitterでのツイートを転載させていただきます。

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2023年2月8日

『罌粟と記憶』 パウル・ツェラン第一詩集 どうしてパウル・ツェランの詩集のタイトルってこんなに綺麗なのだろう といつも思う 『誰でもないものの薔薇』『雪のパート』 タイトルだけで買っていました 中はまだ 読む勇気がないまま何十年も本棚に飾っていて 今日 ふと 罌粟と記憶を開いて読みました

詩の言葉がタイトルの美しさと同じことに気がついて この方の詩は私が読んできたたくさんの方々の詩と違う 意味ではなく言葉なのだ と思いました ただただ字の繋がりが美しい 少しツェランを読んでみようと思います

発露 という言葉が浮かびます

誰でもないものの薔薇 このタイトル この詩集に出逢って詩集自体は読んでいないのだけれど 言葉として深いところで影響されていた 私はそれを深めるべきだったのになんか寄り道ばかりして 中世の鎌倉などという日本史にまで踏み込んで 今日 罌粟と記憶を開いた時 私は何もかも中途半端に過ごしてきた

の思いが強くしました 自分の立ち位置について考えることあって罌粟と記憶を開いたのですが 結局この中途半端だった生き方に今自分で疑問を感じているのでしょうね これから仙覚の小説に取りかかるから それまでに自信をつけたいです

 

2023年2月9日

おはようございます しんしんと雪に降り込められる予報に備えて朝から大忙しでした 雪のパートのパウル・ツェラン ランボーは青春の想い出 バルトもシモンも学習したから 発露で見出だしたのはツェランが初めて そんな思いに駈られています 怖くて読めない時期を経てようやく読める時節になったのかも

パウル・ツェラン 私が持っている三冊 罌粟と記憶・誰でもないものの薔薇・雪のパートと 今日借りてきた訳者飯吉光夫氏『パウル・ツェラン ことばの光跡』 事前の知識なく読むか先に解説を読むか悩んだのですが 昨夜詩を読んでこれなら解説を読んでも影響されなく読み進めると思ったので借りてきました

買ったまま一度も読んだことのない三冊の詩集 タイトルの美しさに惹かれて買ったのでした 海外文学は小説の師が仏文の教授でいらしたので仏文関係の読書はしました ツェランは独語だから師の教えで知った訳でなく書店で惹かれてでした ツェランというと帯に書いてある人生が先に知識に入って それを

共有するかりかいしないといけないみたいになってそれで読むことに勇気がいったのですが 昨夜誰でもないものの薔薇を開いて読んで 私はやはりツェランの詩が好きだと悟り やはり読もうと思いました その時思ったのは ツェランの人生と詩は別ということ 例え詩に人生が込められていたとしてもです

今日図書館で『パウル・ツェラン ことばの光跡』を借りに開架の棚の奥のほうの海外文学のコーナーへ行くのに ここのところずっとそこばかりに佇んでいた日本の古典文学のコーナーをさっさと通り過ぎてゆく自分をどこか上の方から俯瞰して見ている自分がいて驚きました 人はこんなにも変わるんですね

飯吉光夫氏『パウル・ツェラン 光の光跡』 第六章大災害のあとで とあとがき を拝読し それから年譜を読んだら 読み終わって自然に涙が出ました そうだった なぜ寺院揺曳を中断してまでツェランに惹かれたのか ここでした 夢窓疎石を書いていた最後に私も9.11に遭い言葉を失った それを書いていて

なんかまだ生ぬるい 私自身明確な答えをつかんでいない と感じていたのです ツェラン 続けて拝読します

 

2023年2月10日

おはようございます 降り始めの雪 多摩東部(23区に隣接する地域です 隣は杉並区)の三鷹市も降ってきました 雪の井の頭公園 撮りに出たいけど 今は不要不急で何かあって原稿が書けなくなったら大変だから我慢 雪の公園はさながら森は生きている状態 行くといつも転がれ転がれ指輪よ と 呟いてしまいます

飯吉光夫氏『パウル・ツェラン ことばの光跡』あとがきより: 死者を想って、他に遣り場のない気持ちのあまり必死に書かれるツェランの詩……

飯吉光夫氏『パウル・ツェラン ことばの光跡』の気になった箇所をノートに書き写しながら読み進んでいるのですが 先ほどツイートして少しわかってきました ツェランほどの苦しみを経験していなくても ツェランがそれで文明論的・一般的論考の贅肉をそぎ落としたその詩を読むのだから突き刺さって当然と

飯吉光夫氏『パウル・ツェラン ことばの光跡』より: 彼の詩は物憂い似而非気分などはどこにも見られない、むしろ緊迫した切実な胸中のあらわれであるのだ。そしてこれはユダヤ人としての彼の戦時中の体験がその何よりの動機を生みだしている。それゆえにこそパウル・ツェランは、戦後のドイツの

いかなる詩人たちにも先んじて、詩作の初心、詩のよりどころ、心の表現に立ち戻ったと言いたい←このご本の拝読から離れられないでいます。平穏に暮らしている私が果たしてツェランを読む資格があるかとしょっちゅう自分に問い合わせさせられるのですが、たぶん私にも自分で気づかない心の奥底での

ツェランと同じ苦悩哀しみ怒りがあるのでしょう、だから詩を読んでいると意味がわからなくても突き刺さる。以前文学を基盤にしていた時は少しはこういうことを身近に置いて生きていた。鎌倉の源氏物語の活動に入って、活動という日常次元に終始していたらすっかりそれを忘れていたと気づいてきました

 

2023年2月11日

おはようございます 眩いばかりの朝の光 雪はもう消えているけど大気が清浄になったからでしょう 昨日連絡を頂いてそろそろ動き出す九月の講座 お受けした時はコロナの終息が見えそうだったからなのにそれから第八波 なのにマスク不用とかとんでもない世の中で九月の講座でマスクはどうなるでしょう

しつこいくらいにパウル・ツェラン関連のツイートをしていますが これが私の小説修行の方法で かつては恩師のクロード・シモンの翻訳とあとがき そのあと高遠弘美先生のプルースト研究 そういう方々の言葉に対する真摯なご格闘と結果を拝見しつつ自分のものにしたいと私もまた格闘して今まできました

ツェラン関連のツイート これが最後にします 飯吉光夫氏『パウル・ツェラン 光の光跡』あとがきより: ツェランはナチスに母親が殺されたことを一つの衝撃的な出来事として受け取って、心の持っていき所のなさを自然の災厄のようにうたう。平穏無事な日常的な生活、そこへ自然の暴威が突如として割って

入る。「ひとつのどよめきーいま真実そのものが、人間どもの中に歩み入った、暗喩たちの吹雪のさなかに」のような詩は軽佻浮薄な人間界に、自然の法則にのっとった回避不可能の事態が生じる様子を伝えているだろう。 一度起こった悲惨事を詩でいくら表現しても、取り返しがつかない。詩はこの出来事の

まわりを空まわりするだけである。この空白部は沈黙といってもいい。← この文章がそのまま 『寺院揺曳』で書いていて甘いと悩んでいた夢窓疎石と9.11との関係に対する答えで ここに触れた時は震撼としました ウクライナの戦争 そしてトルコの大地震 思うこと多々ですが 寺院揺曳に戻って完成させます

すっかり世界が変わりました 境地のことです 鎌倉の源氏物語に出逢って以来 その普及活動ですっかり日常の感性にすり変わり文学の感性を失っていました なのに鎌倉の源氏物語から派生して仙覚の小説を半ば義務的義侠心から書こうと決意して取り組んだものの書けるはずがなく 数年近く枯渇の苦しみの

中で一人のたうちまわっていました 無理矢理紫文幻想を書き 次は仙覚の小説としての万葉幻想 と思いつつ 紫文幻想のようには苦しまず自然に溢れるように書きたいと気持ちの整理に努めていて 白拍子の風に寺院揺曳と かつて書けていた頃の原稿に取り組んだら 書けていた感性が蘇り そこにツェランで命が

吹き込まれたという気がします あとはゆっくり詩集をひもどきながら寺院揺曳を完成させにかかります 戻ってみればかつての自分の自然だった世界 それを取り戻すのにこんなにも時間と労力を費やしました お陰ですっかり鎌倉が過去のことになりましたが講座が九月にあります 新しい境地で臨みます

明日から『寺院揺曳』に戻ります 詩を読んでいました パウル・ツェラン あとからあとから繰り出される言葉 決して有機的なものを含まない言葉の羅列の凄まじい詩群 こんな体験初めてなのですが詩集と眺める私自身の身幅の本当に小さな一画だけが一切の日常から切り離されて存在する現実の気がしました

 

2023年2月12日

おはようございます 誰もゐないと言葉だけが美しい 牧野富太郎の詩です 誰 言葉 たまたまかも知れないけどツェランの詩と同じ 世界苦という言葉があるか知らないけど 人間は誰もが根源的な苦しみを持っていて ツェランの場合はアウシュヴィッツという明確なものがあるからわかりやすかったけど 牧野

富太郎はまだ二十歳前後の若者ではあったけど根源的な苦しみを持っていて 詩はその発露だった のではないかと起きてすぐ思いました ツェランの詩に最初に接した時に感じたこの発露の思い それは根源的な苦しみに対する悲鳴や怒り雄叫びなのでしょう 牧野富太郎もそれだった ある意味形而上的にまで昇華

された苦しみだから言葉になった時 余分なものが削ぎ落とされて美しい 私にそんな深い苦しみがあるかと問えば早くに父を亡くしているし それでも呑気に生きてきたようでも根源的な苦しみはあってだから雄叫びを感じとったのかも知れない など思います

ツェランを読むのを止めたのは寺院揺曳に戻りたくなったからでなく あのまま読み進んだら危ないと思ったから 以前 ある掌編を書いた時 ある方には君は上手いなと言われ ある方にはあのまま行ったら危ないと言われ それで書き方を変えました そうしたらある方からどうしてあれを止めたのと惜しまれた

今思うとあの時ツェランで感じたこのまま行ったら危ないを回避したのかも知れないですね だからそれ以降書くものがつまらなくなり 歴史に逃れた 根源的な苦しみを回避しては本物の文学が書けず でもそのまま行ったら日常生活に差障りが出る 回避したあの時に私は今立ち戻っているのかも知れません

もちろん危ないことは避けるつもり 家族のためにも その拮抗を考えます たぶん寺院揺曳でそれができる

そうっかとやっとここに辿り着きました この根源的な苦しみこそ仙覚さんだったのですね 比企氏残党の素性が知れたら殺される運命 なので終生それを隠して生きるしかなかった その根源的な苦しみからの雄叫びが万葉集研究だったのです 『紫文幻想』では一族の鎮魂の為にと書きましたが それは甘かった

 

2023年2月13日

おはようございます 深夜二冊の詩集を読みました 誰でもないものの薔薇と雪のパート タイトルに惹かれて買っていて読んだことのなかった詩集 飯吉光夫氏のご著書で大体の思惑がついてもうこれでツェランを離れようと覚悟しての拝読 詩集ってなんだろうと思いました 好きで繰り返し読むのが詩集と思って

いたから そういうことの隔絶した世界のツェランの詩集 日常という安易な衣をまとって読んでいること自体が不遜に思えました 雪のパート 綺麗な詩でした 思ったのは今後ツェランを読むにふさわしい人格になろうと これから書く仙覚さんはツェラン側の人です 孤高とか荒涼とかの言葉も必要のない世界

 

 

 

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2023年2月14日 Twitterより転載…ズームで澤田直氏「イメージと哲学 20世紀フランス思想の映像論」を拝聴しました

私はものを書いていますが、私の原点は写真です。随分長くそれを忘れていました。そのあいだに鎌倉の『源氏物語』の活動をしたりして、とにかく私自身のよって立つ基盤を見失っていました。

たまたまTwitterで岩野卓司先生ご主導のズームでイメージ論を学ぶ機会を頂き、なにか気になって澤田直氏の「イメージと哲学 20世紀フランス思想の映像論」四回連続講座を拝聴しました。その最後がロラン・バルトの『明るい部屋』でした。

写真は存在を示すものではない そこにかつてあったことを意識するもの・・・

私は写真が好きです。Twitterでパリの古い写真を流して下さる方がいて、それを見ていると、ああ、この人たちはこの時こんなふうに生活して生きていたんだ・・・、の思いにとらわれます。

この『明るい部屋』のお講義を拝聴して思い出した写真がありました。それが、アンリ・カルティエ・ブレッソンの「決定的瞬間」です。写真の道に進んで最初に習った写真の歴史の中で知った一枚。舗道ですれ違う何人かの人をただ俯瞰で写しただけの写真ですが、見知らぬ人たちがその一瞬すれ違ったという歴史的一瞬がそこにあるのです。

以前書いていた『寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺・鎌倉佐々目遺身院』の原稿にその「決定的瞬間」を詳説した文章があります。新年になったら仙覚さんの小説『華鏡』にとりかかろうと思っていたのに、なぜか突然その『寺院揺曳』という過去原稿のkindle出版に舵を切って目下推敲にとりかかっています。

もう少ししたら『寺院揺曳』のkindle出版が終わります。それで気持ちに余裕が出て更新の滞っていたこのブログに気持ちが向いたのでした。

以下、Twitterからの転載です。

 

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2023年1月12日

RTさせて頂いた澤田直氏による「イメージと哲学 20世紀フランス思想の映像論」 私はようやく今日全四回を拝聴しました 最後はロラン・バルトの『明るい部屋』 もう食べてしまいたいくらい好きとかつて思った写真論のこのご本 でも内容をすっかり忘れて情なく思っていたのですが 今日拝聴して

写真は存在を示すものではない そこにかつてあったことを意識するもの という展開に Twitterで流れてくるアジェとかの仏の古い写真をRTさせて頂くたびに ああ かつてこういう風景があったのだ と見とれてRTボタンを押しているのがそれだったんだと バルトが私の中で生きていたことを感じました

でも 絞首刑の青年の写真は じっさいに『明るい部屋』にあったか覚えてなくて 例として分かりやす過ぎて怖かったです 明るい部屋はバルトの晩年の写真論だったと そうなんですね お母さまの例があっての思索の深まり いい時間を過ごさせて頂きました 岩野卓司先生 本当に有難うございました

2023年1月13日

おはようございます 私のロラン・バルト『明るい部屋』は古い版で銀色のカバー ハトロン紙がもう破れています 大切な一冊で本棚のいつも見える正面の棚に 久しぶりに出して見ました 昨日の澤田直先生のお話の余韻をまだ引きずっています 考えたら私には歴史や古典をするよりも先にこの世界がありました

時間と空間 特に時間論が私の根底なのはこの『明るい部屋』が原点なんですね 鎌倉の源氏物語とか目下推敲している佐々目遺身院のような研究とか書き物はその時間と空間を表象するための素材 と言ったら言い過ぎかもしれませんが 考え方としてはそうだったんです だからいくら古典を書いても一般の方々

と違う そうわかったからには私はもう独自の私の路線で突き進みます 昨日のお話ではバルトの写真論は初期と晩年とあって 明るい部屋は晩年 初期のは全くの記号論的で無機質 お母さんの死という体験があっての明るい部屋 バルトにしても自身の体験無くしてこれは書けなかった 私の華鏡もそうなると思う

私のロラン・バルト『明るい部屋』には青インクの線や書き込みがぎっしり ふと開いたら昨夜のお話のメインテーマのお母さんの死から写真論が展開することになったそのページ ここ まさにこの文章 まさにプルーストであり私にはシモンのアカシア こういうのが私の「文学」です ここに還ろう!

ある日私はナポレオンの末弟ジェロームの写真を見た。そのとき私はある驚きを感じて思った。私がいま見ているのは、ナポレオンを眺めたその眼であると。私はその驚きを人に話してみたが、誰も驚いてはくれず、理解してさえくれない←『明るい部屋』の冒頭です 再読したくなって開いての冒頭 まさにこれ

私が感じていることです 誰も理解してくれない 書くことで必死に訴えてきましたが心から理解して頂いたと安堵したことはなかった そういうことだったのですね そして今日 理解してくれる人 バルトに再会しました なんか とても嬉しい

 

 

 

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2023年2月14日 もう2月も半ばになってしまいましたが、今年最初の投稿です。滞っていてすみませんでした。

昨年最後の投稿を今読んだら、新年から仙覚さんの小説にかかると書いていました。そのつもりだったのですが、どういうことからだったか覚えていないのですが、過去原稿の『寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺・鎌倉佐々目遺身院ー』を先にkindle出版しておこうと思ってその推敲をしています。もうできている原稿だから1月中には出版できるくらいの軽い気持ちで始めたのにまだ終わりません。やっと近々刊行へのアップロードができるかな、というところにきました。気持ちが軽くなってきました。

その間ですが、Twitterでいろいろな方の情報を得てズームでいろいろなことを学ばせて頂いたり考えること多く、振り返ってみるとそれは今後書いていく上で重要なことなので、Twitterでその都度呟いたことをここに転載しておこうという気持ちになりました。逐次、転載してゆきますね。

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2023年1月6日
あけましておめでとうございます。今年最初の投稿は、昨年暮れにkindle出版した小説『白拍子の風』を紹介させていただきます。

京浜急行金沢八景駅から歩いて数分の高台に上行寺東遺跡という中世墳墓群の遺跡がありました。マンションの建築で発見されたのですが、貴重な遺跡を残してほしいという歴史学者さんたちの保存運動にもかかわらず、横浜市は遺跡を破壊し、マンションを建てました。

その遺跡には岩盤を彫った阿弥陀如来坐像があり、春分の日と秋分の日の年二回、太陽がその頭上から一直線に沈みます。阿弥陀様の背後には遠く朝比奈峠のある山が見えます。その向こうが鎌倉です。V字形に切り通された朝比奈切通も見えました。遺跡の保存は叶いませんでしたが、市はその阿弥陀様の一画を樹脂で固めたレプリカとして残しました。

私が遺跡発掘の仕事に従事していたときにはすでにそのレプリカでしか上行寺東遺跡を見ることができませんでしたが、でも、それでもその遺跡が好きで、一人でよく訪れました。

ある日、いつものように訪ねて、高い階段を上って遺跡の端に立った時、さっと一陣の風が吹いて煽られました。その時、采女の袖ふきかへす明日香風都を遠みいたづらに吹くの志貴皇子の歌が浮かび、すぐに続いて白拍子の風のタイトルが浮かんで、突然構成ができたのでした。

 

 

 

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