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2024.6.30 Twitter(X)から転載……世紀の歴史的瞬間! 一大絵巻でした。天皇皇后両陛下のご訪英、映像とご成果の素晴らしさに感嘆しつつ固唾をのんで見守らせて頂きました。無事に帰国されて私も『華鏡』に戻ります

6月22日

東の空の朝焼け 朝焼けも夕焼けもこういう黄金色と茜色と灼熱色とがあって 私は黄金色の焼け方が好きですがこれは一瞬 すぐに変わります それが朝焼けと夕焼けとで順序が逆なのが当たり前だけれど不思議で感動します だんだん明けてゆく…… だんだん暗くってゆく……

 

華鏡の原稿を読み返しました 薔薇の名前のアドソの手記で得たヒントを前提に読むと とてもじゃないけど今迄どおりの書き方ではダメ 冒頭の数段は何回書き直してもそのまま使っているのだけれど やはり今回もそれは残す その後の万葉集についてのくだり辺りから全面的に書き直します

 

先週あれほど薔薇の名前で気分が盛り上がって華鏡の原稿に戻れたのにその後停滞 戻った原稿の加筆に放置してあった白河天皇の詳細を入れようか否かを巡って思考停止になっていて これではいけないと気分一新にブログを更新したら間に光る君へが入ってたんですね そこで先週の昂揚が途切れてました笑

 

6月23日

なぜかこの絵葉書が好きなのだけれど 三鷹市ギャラリー芸術家の肖像展で購入したジョン・シンガー・サージェント どういう画家さんか知りませんが大切に手元に 今日は光る君への日だけれど本心では醒めてしまって華鏡に専念したい 先週の教訓で見たらまた数日原稿が書けなくなる もう邁進しないと

 

6月24日

原稿に気持ちが入ってかき乱されたくない自己中心な状況になり 昨日は光る君へは見ないと決めて一日を過ごしました 悔いはなく快適でこれはもう中宮彰子が登場するまで見ないでおこうと思ったら予告で来週もう登場される 見るしかなくなりました それまでに原稿を進めておかなくては! です笑

 

仙覚の万葉集は題詞の高低が重要で 仙覚が最後に辿り着いたのが清輔とともに作った二条天皇の万葉集だった その清輔を書こうとしていた時に先週光る君へを見て周明に心動かされ原稿が停滞 一週間気持ちを掘り起こしていたら清輔の出自を辿ると白河天皇の乳母親子に行き着き 諸々あってそれが頼朝に

 

関連して来る 頼朝が伊豆に流されるまで仕えた上西門院統子は待賢門院璋子の子で 璋子は白河天皇に寵愛された人 その雰囲気を統子も持っていたはずで 頼朝が出仕したのはそういう環境 これはもう頼朝が鎌倉御家人たちのあいだで文化に飢えても仕方ないなあと 光行が仕えた頼朝はそういう人でした

 

そんなあたりの入り組んだ人物関係の歴史に源氏物語を絡めた段落にとりかかっています (長く皇位につく見込みのない皇子として育った少年白河天皇 その時代彰子さんはまだ存命でしかも白河天皇を誠意を持って育てた能信は道長と明子さんの子だから彰子さんの弟)

 

6月25日

華鏡 まだ白河天皇をどう書くか迷っていたのですが思い出しました 白河天皇が重要なのは古今和歌集への信奉 仙覚の万葉集について調べていたいつから題詞が低くなったかを小川靖彦先生『萬葉學史の研究』に白河天皇の辺りからとあり それで白河天皇に着目したのでした

 

その後白河天皇の源氏物語との関係に目が行ってそれを忘れてしまっていたんですね 何か書かなければいけないものがあるのにわからないと彷徨ってきたのはこれでした 昨日気晴らしに仙覚の万葉集の題詞について呟いたのだけれど無意識のうちにはそれを自覚していたのでしょうか

 

6月29日

発掘して頂きました 25日のツイート 白河天皇の醍醐天皇信奉が万葉集の題詞が古今和歌集にならって低くなったこと それを書こうとしたところで中断していました 一週間ほど経て再開しようと思っていたところです タイムリーな発掘 ありがとうございました

 

高岡市万葉歴史館の池田弥三郎展に関して教えて頂き古書で買った秋山虔・池田弥三郎・清水好子氏お三方の鼎談からなる『源氏物語を読む』を拝読することにしました 古書が届いたちょうどその日になんだったか忘れましたが多分白氏文集か何かに集中することができてそのままになっていました

 

歴史的瞬間に立ち会う意味でしっかり見届けさせて頂こうと天皇皇后両陛下のご訪英映像を固唾をのむ心地で追わせて頂いていました 千年に一度といわれた東北の震災から続いた負の連環 一気にそれが絶たれた気がします それほど素晴らしかったですね 両陛下のご訪英は 帰国されて私も自分の時間に

 

戻ろうとしてでもまだ一気には戻れないからなんとなくたらたらとTLを眺めていました そうしたら池田弥三郎展に関してのツイートがあって そうだ まだ華鏡に戻る気分に絞れてないならあの本を読もう と思い出したのでした 新たな心地で華鏡に戻りたく思います

 

6月30日

池田弥三郎鼎談『源氏物語を読む』で池田先生が岷江入楚で源氏物語を読まれていたとあり 本棚から出して来ました 聴講させて頂いた大学院の研究室で高橋文二先生に頂いたもの なのに開いても読んでなくて今頃になって読まなくてはの気持ちになっています 改めて 時間が足りない……(泣)

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2024.6.21 Twitter(X)から転載……『薔薇の名前』のアドソの手記に触発されて『華鏡』の原稿を見直し、加筆態勢に入りました

6月15日

おはようございます 薔薇の名前のアドソの手記を繰り返し拝読しています すっかり忘れていて書物の背後にある世界史宗教史が書かれていることに驚いたのですが これ 華鏡にも必要! となりました 写本ができる過程を編年体で書いていて書物の文学史的なものは書くなど思ってもいませんでした

 

でもアドソの手記のようにこれから書く写本ができてゆくまでの長い歴史を先に何故この写本が重要なのかを概略で書いておいた方が読む方には親切と気がつきました そして改めてこの私が書こうとしている華鏡は日本版薔薇の名前にもなっていい重要さとミステリアスさを内包しているのを思い起こしました

 

仙覚の小説にこだわるばかりにそんな大切な事を忘れてたなんてと我ながら呆れるばかり 本当はもっと筆力ある方に書いて頂きたいと時々思うのですが ここまで独りで深めて来た想いは他の方にお伝えし切れない 結局そう思って取り掛かっています アドソの手記からは本当に大切なものを頂いています

 

6月16日

おはようございます 昨夜は100分de名著薔薇の名前を読んで就寝 以前よりわかった気がするのは小説の内容でなく構成がどうなっているか どうそれを華鏡に生かせるかを主眼に読んでいたからでしょう 到底手が届かないと思うはずなのだけれど 華鏡には私しか書けない主題がある そう思えたのでした

 

6月17日

おはようございます 昨夜の光る君へではあまりに想うこと多く振り回されて終了後はぼうっとして空を見るしかありませんでしたが 一晩経って起きて上澄みのように浮かんできたのは周明という人の哀しみ 表立った史実や重要人物の流れの陰でひっそりと消えていく人 文学ならではの美しい存在です

 

大石静さんの脚本はとにかく愛があって素晴らしいです 周明にも最後に朱様から周明の真意を理解して頂いてたことを告げられる台詞が用意され救われる 今迄敵対関係としてしか言われてこなかった紫式部と清少納言を仲良しさんにする 源氏物語が主役なのに枕草子を美しく仕上げる この美質 素敵です

 

6月18日

冒頭は添付のこの写真なのだけれど 仙覚の小説を書くと決め 構成に薔薇の名前からヒントを得ようと読んでアドソの手記に辿り着いて一気に書いたものだからもう数年以上も前のもの その後迷走してどんどん迂回が極まって 最後に書いたこのプリントが5月5日 御子左家の祖長家を入れた回でした

 

それでもまだ紫式部の源氏物語を入れようなど夢にも思ってなかったのに 光る君へで白楽天が出て ちょうどその頃秋山虔先生の『源氏物語』にヒントを頂き丸山キミ子氏『源氏物語と白氏文集』と出会い 漢籍繋がりで源光行が浮上して やっとここから一気に書き直しに入ります

 

昨夜から華鏡の書き直し態勢に入っているのですが 鎌倉に源氏物語を持ち込んだ源光行の原点として頼朝に身についた公家文化志向を書こうと作成してあった年譜を見たら なんと 頼朝が伊豆に流される直前まで出仕していた朝廷の空気は二条天皇が清輔の袋草紙に出会った時代 これは!と唸りました

 

6月20日

朝 道を掃いていたらちいさな紫の花が散り敷かれていて あ 咲いてる? と見上げたら咲いていました セイヨウニンジンボク まだ一枝二枝で切って花瓶に挿すほどはない でももう少ししたら大量に切って飾れます 毎年楽しみなこの時期 路地植えの白いカラーもまた一つ咲きそうです

 

華鏡の原稿に戻って 大分長く書くことから離れていたから文章を紡ぎ出す感覚をとりもどすために紙のノートに鉛筆ではじめました キーボード入力で原稿を打つ前は原稿用紙に万年筆でした でも探しても原稿用紙はもう手元にありません 鉛筆の芯の先から文章がこぼれだしていく感覚もいいものですね

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2024.6.14 Twitter(X)から転載……華鏡を書き始めるにあたり、最初に構成を視野に学んだのがウンベルト・エーコの『薔薇の名前』でした→アドソの手記の手法を玄覚の手記にと置き換えて

6月13日

今日は源氏物語を離れて華鏡に戻ろうと思っていたのですが TLで教えて頂いた秋山虔・池田弥三郎・清水好子先生の鼎談『源氏物語を読む』の注文していた古書が届いたのでこちらを読みます 池田弥三郎氏は私の学生時代に一世を風靡してらした源氏物語の権威でいらして私の源氏物語感の原点のお一人です

 

本当は今日こちらを読む予定でした ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』 でも古書の源氏物語本が届いたので先に拝読していたのですが 通知があって見たら「ウンベルト・エーコさんにフォローされました」と エッ!となって 何故? となりました 薔薇の名前を拝読中と呟いたならわかりますが不思議

 

華鏡を書く時 仙覚の生涯という長い年代を書くのにどういう話体で構成しようと考えて思いついたのが薔薇の名前でした アドソの手記で始まるあの構成です それを玄覚という仙覚の生涯を知る人物の話体に移し替えて書き始めました 昨夜原稿に戻ろうと決め それなら原点に還る意味で今日は薔薇の名前

 

を読もうと出して来て傍らに置いて朝の源氏物語の古書のツイートをしたのでした そうしたらこんなことに これ 神の啓示ですよね きっぱりと源氏物語を離れて薔薇の名前に浸りなさいとの ウンベルト・エーコ氏が見守って下さっていると思っていいでしょうか でもお陰で初心に還りました

 

誰もゐないと言葉だけが美しい 牧野虚太郎「復讐」より この詩篇を何度か華鏡のエピグラフに使おうと試みていたのですが自信がなくて止めていました が 薔薇の名前を読んでいたらまたこれが浮かんできて今日一日頭から離れない でも前と違ってあり得るかもといった気持ちなのは紫式部も光行も

 

ひたすら源氏物語に浸っている時が救いだったのですよね 源氏物語に籠められていた漢籍の事実を通してそれが実感された今だからわかる 薔薇の名前はとにかく華鏡をどういった文体で書くかを主眼に読んでいるのですが 源氏物語が内側から思いを書いているのと逆に外側から書いている 勉強になります

 

6月14日

おはようございます やっと華鏡の原稿が動き出しました 薔薇の名前にはアドソの手記の前に「手記だ、当然のことながら」という手記を世に送り出した話者の数ページにわたる長い文章があります 勿論それもエーコ氏の創作なのでしょうけれど 国名から年代固有名詞がいかにも信憑性あって圧倒されます

 

凄いなあと思いながら ふと 華鏡もこれを書けばいいんだ! と気がつきました 西本願寺本万葉集と河内本源氏物語についての由来をです それなら書ける! とウキウキしてきました 今迄仙覚の小説だからとばかりにそういった学問的概説は書くものでないと頑なに拒否していたんですね でも なぜ

 

この小説を書いているかを初めに知っておいて頂いた方が読者の方には親切 それを第三部の鎌倉時代の章になって種明かし的にこうやって立派な写本ができました と書こうとしていたんです 小説のように書かなければいけないという枷がやっと外れました 薔薇の名前にはやっぱり震撼させられました

 

薔薇の名前「手記だ、当然のことながら」より: なぜならこれは、惨めな日常身辺の些事を取り扱う物語ではなく、あくまでも数々の書物の物語であって…… この末尾の文章こそ私が華鏡で書こうとしている主題!と自覚され 仙覚の小説にこだわって見失っていた想いを蘇らされたのでした

 

西本願寺本万葉集と河内本源氏物語自体がミステリアスな存在だったのを忘れていました 華鏡はミステリー仕立てに書けるはず どなたかに仰って頂いたことがあるのですが 上質な文学はどこかミステリアスなのよって そう書けるといいと思います

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2024.6.13 Twitter(X)から転載……『源氏物語』についての掘り起こし作業ばかりしていないで、そろそろ華鏡の原稿に戻りたくなってきました

6月11日

以前はエクセルで作っていたけどやっぱり手書きのほうが楽 ということで源融のためのノートです 紫式部がなぜ融を光源氏のモデルにしたかを考えているのですが 融が藤原北家の基経に即位を阻まれた翌年に醍醐天皇が生まれてます なにか関係あるでしょうか

 

醍醐天皇を身近に感じて育った紫式部が時の左大臣融が源氏に臣籍降下しているばかりに即位できなかった悲哀 その時はまだ宇多天皇も臣籍降下した源氏で なので醍醐天皇が生まれたのはまだ即位する前 胤子も醍醐天皇もまだまさか宇多天皇が天皇になるなど思ってもみなかった頃

 

紫式部にとって「源氏」は身内のことであり その身内の源氏だった宇多天皇は即位できたけど 天皇になるのを永久に断たれた源氏が源融…… と まだ整理つかないけどこの辺りが鍵?

 

その頃はまだ宇多の帝様は即位されてなかったから源氏でいらしてね と そんなふうに紫式部が祖母から聞いて育ったとしたら…… 紫式部の源氏への原点はそれでしょうね そしてモデルに最適な人とみたのが源融

 

6月12日

おはようございます 源融の系図は融―昇―醍醐天皇更衣―重明親王―斎宮女御徽子で 紫式部の祖母は徽子女王が斎宮に下向する時紫式部の父為時の兄為頼を身籠っていました なので六条御息所のモデルとされる徽子女王の事は紫式部も祖母からよく話を聞いていたでしょう 紫式部は重明親王の日記を読んで

 

います なので紫式部にとって融の家系は相当な関心事だったでしょう 重明親王は光る君への宣孝様みたいな感じの風流で派手な方で 貂の毛皮を重ね着して宋の商人を圧倒したとか 先週の光る君へでも話の出た貂の毛皮 源氏物語では末摘花にそれを着せていますがいろんな意味で融の家系は華やかです

 

×宋の商人→渤海の商人 が正しかったかも うろ覚えで済みません

 

朝のツイートのあと気がつきました 斎王に卜定されて伊勢に下った時徽子女王は10歳 父重明親王母藤原寛子と引き離されてです 17歳の時寛子が亡くなり斎王を退下して帰洛 翌年寛子の一周忌が重明親王の氏寺棲霞寺で催されました 紫式部はそれを祖母から聞いて自分も幼い時に母を失っているから

 

徽子女王の悲しみが痛いほどわかる それで棲霞寺に関心を持ってもしかして訪ねたかも 棲霞寺は源氏物語松風巻で光源氏が造った滝も流れる風流な御堂と書かれています その描写は若紫巻で北山の僧都が光源氏に琴を差し出す場面に使われていると思うのですが 琴は重明親王が名手でした 徽子女王の徽

 

は琴の徽からの命名と 紫式部が光源氏のモデルとして源融を思ったのは藤原北家の基経に臣籍降下した源氏の悲哀をいやというほど飲まされたからでしょうけれど 融の家系はこんなにも深く『源氏物語』に底流しています

 

6月13日

呟いているといくらでも想いが掘り起こされて尽きないのですが だんだん原稿に入ることから逃げている気がしてきました(多分事実笑)それでそろそろ原稿に取りかかろうと思います 昨日源氏物語松風巻を読んだら話の筋がたったこれだけをこんなに長く!とびっくり 華鏡が頼朝の旗揚げから鎌倉末期の

 

宗尊親王の時代までを書くので一々の時代や人々を丁寧に書いていられないという決意があって それで文学ということ自体のふくよかさから離れてしまっていたんですね それを思い知りました ブルームだってたった一日のことがあのユリシーズ 華鏡も本当はそうなるべきだし本気で書いたらそうなる

 

なのに鏡の文体だからこれにすると割り切ってきたのだけれど やはり源氏物語に関わったら想いが掘り起こされて今までの欺瞞が見えてきてしまいました というか 本当は私はこちらの人だったんですよね それを義侠心で鎌倉の源氏物語と万葉集をと始めてしまったから 原稿に戻ったらどうなるでしょう

 

↓ RP 総論の難しさか…… 勝手に我身に据えて感じてしまいました 総論として(鏡の文体で)書く限り文学にはならない

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2024.6.11 Twitter(X)から転載……私には女御だった方と同じ血が流れている、という華鏡における源氏物語についての段落の最初の一行が浮かびました

6月10日

たった今ブログを更新したのですが 私なりに見えてきた紫式部が『源氏物語』を書いた意図 気分的に盛り上がっているのに光る君へ…… 先週まで光る君へを見たあとは私的な気分は吹き飛んで火曜日頃まで引きずっていました でも今夜は半々 折角築いた書く気分を削ぎたくなくブログに気を注ぎました

 

光る君へ 越前バージョンを楽しみにしていたのになんだかまひろと道長の切実で真摯な恋バージョンからどんどん時代も含めてかけ離れていっている感 原稿の方に気が行き始めたからでしょうね

 

源融の本ってないんですね 『紫文幻想』に書いたから事績はわかっているのですが それが何を読んで得た知識か忘れ 参考文献を見たのですがみんな史実の中のエピソードで一冊になった本がない 業平と親しいのだけれど業平は伊勢物語があるから独立して有名 融にはそれがなく隔靴掻痒気分です

 

源融は藤原北家の基経に痛い目に遭わされている 紫式部も藤原北家の陰謀寛和の変で受領階級の娘の身分に落ちる 紫式部の融への共感はそこにあるかと(もちろんそれだけではないですが)

 

光る君へ放映後の感想ツイート 直後は定子様関連の感動ツイート優位だったのが先程見たら宣孝様の求婚についての考察がずらり そのギャップに面白いなあと思いつつ成程と思うこと多く勉強になりました そしてまひろについて奔放の二字に目がとまり 吉高由里子さんが清楚だから奔放なんて思ったこと

 

なかったのですが ああいうのを奔放というのかとびっくり 書く人は好奇心旺盛でそれを突き詰めたいのが自然だからまひろはそれをしているだけ 動機が不純なら奔放でいいけどまひろは真摯 その違いって何だろうって思ったのは私もやはり書く人だから似てるんですよね 心の底が 光る君へは書く人が

 

主人公だから 今後まひろがどう本物の書く人になってゆくのか それを見るのが楽しみです 写真はガイドブック前編 そろそろ後編を買おうかと思います 私はといえば源融をどう書こうとあれこれ調べながら今日は源氏物語松風巻を読みました 融が造った棲霞観が光源氏が造る嵯峨の御堂なんですよね

 

6月11日

私には女御だった方と同じ血が流れている、その矜持が紫式部をして源氏物語を書かせたのだよと仙覚は言った……華鏡に書こうとしている源氏物語についての段落の冒頭です この説はあまり言われてないと思いますが『紫文幻想』を書いた時に見えてきました 紫式部の祖母が藤原定方の娘で定方の姉が女御

 

でした 宇多天皇の女御胤子です 紫式部は幼くして母を亡くしその祖母に育てられていますから 定方から胤子の話を聞いて育った祖母から今度は紫式部がそれを聞いて育ったのは当然でしょう 物語好きの多感な少女がどれほどそれに感化され夢を膨らませて成長したかは想像に難くありません これから

 

華鏡にそれを書くのですが 紫文幻想で一度書いたそれを今度は仙覚の言葉として私なりにもっとこなして書こうと思っています そこで登場したのが源融 融は宇多天皇の御代の左大臣でした(光る君へで道長が左大臣のあの左大臣です!)

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2024.6.9 Twitter(X)から転載……紫式部が『源氏物語』でなぜ「源氏」にこだわったかが、長恨歌について考え続けていたら唐突に閃いて見えてきました。そして源融が頭から離れなくなって……

6月7日

本棚の古い『國文学』紫式部特集号が目に止まり金田元彦氏のご論考を拝読していたら「秋の月ばかりが耿々と中天に輝きわたっている…、こんな風景を紫式部はあきもせずいく度も書きつづけている」の文章に出会い これは私も気にかかっていたことなのですが 今回白氏文集を読んで ああ 原点はこれだ

 

と思ったのてした 源氏物語を読むと人間世界の描写がこまやかに続いたかと思うと突然転調して 月は みたいな自然描写になる その突然の変転が鮮やかで人間社会の鬱屈を見事に吹き払う この文筆力を紫式部はどうやって身につけたのだろう というのが私の長年知りたく思っていた謎でした 白氏文集

 

だったのですね 陵園妾を読んだ時にはたと気がつきました 紫式部の文章は感性だけでなく構成も白氏文集を読み込んだ賜物 そう気がついたことを記録としてツイートしておきたいと思っていたところです

 

泣く泣く「夜いたう更けぬれば今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参る。月は入方の空清う澄みわたれるに……源氏物語桐壺巻の更衣を亡くした母を帝の使いの靫負命婦が帰ろうとするところです 延々と更衣を偲び帝の嘆きの深さ 果ては母の帝に対するあれほど寵愛されなかったら死ぬことはなかったとの

 

更衣の母の帝への恨みまで書き連ねられてきたこの場面が一転して「月は入方の」と風景描写になる 私はここを何回読んでもその転調の鮮やかさに紫式部はどこでこの文筆力をつけたのだろうと不思議でした 白楽天「陵園妾」を読んでいて 山宮一たび鎖されて開く日なく 未だ死せずんば此の身合に出づべ

 

からず 松門暁に到るまで月徘徊し に出会ったとき 紫式部の転調はこれだ! となったのでした こういう文章の力を紫式部は漢籍を読み込むことでつけていて それであの膨大な源氏物語が書けたんですね と 深夜のツイートの補足を

 

6月8日

終日長恨歌に拘って読んでいました 長恨歌も含めて源氏が原点 紫式部が源氏物語を書いた意図がわかった気がします ほんとうは華鏡でなく一篇の小説にしたい でもそれをしていると河内本源氏物語と西本願寺本万葉集の成立までまた書けなくなってしまうから無理矢理華鏡に入れようとしています

 

光源氏のモデルの一人は源融 これは嵯峨の御堂を造っているから現実的に確定 源高明の説もあるけどなんとなく私には違和感があって今後どうなるかなあと思っています(なんかすっかり華鏡が源氏物語論になっています笑)

 

そろそろ華鏡の原稿に戻ろうと思っているのですが どこからどう書こうなど頭のなかで反芻していたら 唐突に 紫式部がなぜ源氏に拘ったのかがわかりました 紫式部の人生の原点なんですね源氏は それを書いていこうと思います

 

6月9日

おはようございます 昨夜切口がみつかったらすぐ最初の1行が出て それにつられて次の切口が浮かび みたいにしてやっと華鏡の原稿に戻るメドがたちました 今迄茫洋と周辺に漂っていた事象が結構メインだったと気づき こうした新しい世界を書けるのが楽しい ここにくるまでは苦しみでした笑

 

光源氏のモデルを祀る「融神社」

 

源融神社はFBグループ光る君への投稿で教えて頂いたのですが当時もなぜ一条天皇が復興を? と疑問でした 光る君へを見ていて改めてこの一条天皇がなぜ源融神社を? と思います 一条天皇期は相当学問文学に熱心だったそう その一貫でしょうけれど 紫式部から光源氏は源融ですと言われたからとか。

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2024.6.6 Twitter(X)から転載……白楽天『白氏文集』に目を通したついでに、同じ新釈漢文大系にあった『蒙求』を借りてきました。源光行が実朝に贈った『蒙求和歌』ゆかりの書です。

6月4日

新釈漢文大系 『白氏文集』を返却して『蒙求』を借りて来ました 帰宅して机に置いてなにげなく開いたら目に入った四文字 蒙求和歌 源光行が鎌倉を去るに当たり餞別に実朝の為に撰して贈った書です ただ開いただけなのに偶然にしてもと目をみはりました

 

6月6日

今迄『蒙求』は河内本源氏物語を作った源光行が十代の頃から漢籍を学び そこに蒙求があって それは漢籍を学ぶのに少年時に学ばされる書で だから光行も実朝に『蒙求和歌』を贈って帰洛した くらいの知識で蒙求そのものがどういう書かを調べて来ていませんでした たまたま白楽天で新釈漢文大系を

 

借りたらその全集に蒙求があってやっと蒙求そのものを知る機会を得ました 序説早々蛍の光窓の雪……にびっくり そうだったのかあと 以下蒙求への認識不足という章が立てられ 読むと相当複雑というか曖昧 でも日本での立ち位置が明瞭に書かれている文章がありましたので引用させて頂きます

 

『蒙求 上』序説より: 蒙求はわが国に伝来以来、皇室の幼学の書として尊重された。元慶二年878貞保親王の学習が史上に見える最初。爾来円融天皇・近衛天皇や多くの親王の幼時の学習対象に選ばれ、引いては一般貴族の子弟の幼学の書として普及していった。後には他の書籍と共に幼学に不可欠として定着

 

なぜ幼学の書として選ばれたかといえば、詩の形態をとっていて覚えやすい。中国の故事成語が安直に学習できるという利点からであろう。

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2024.6.4 Twitter(X)から転載……白氏文集「新楽府」全50篇を読みました。紫式部の『源氏物語』執筆の原点と込めた想いの真意がそこにありました。そして、筆力の原点も。

6月1日

丸山キヨ子氏『源氏物語と白氏文集』より 長恨歌が出来て約二百余年、最初の詩文集白氏長慶集が編まれてから百七十余年を隔てて、長恨歌は源氏物語の作者紫式部の手に渡った。紫式部の長恨歌についての直接の告白は今日の所みる事が出来ない。しかし白氏文集に就いては紫式部日記に明らかな言及が

 

なされてをり、そこから推して式部が長恨歌を原典をもつて読んだであらう事はほぼ推測される。すなはち「宮の御まへにて文集の所々よませ給ひなどして……おととしの夏ころより楽府といふニ巻をぞ」といふ有名な一条である。ここから考へれば、宮の御まへには楽府のみならぬ文集のほかの部分のあつた

 

↑ちょっと回り道をして丸山キヨ子氏のご本に衝動を受けて書きたくなった気持ちが薄らいでしまったので、源氏物語と長恨歌に特化したページを読み返しています。思うのだけれど、丸山氏のご文章は研究書という解説を越えて文学ですね。研究結果の先のだから何が情熱的に書かれていて伝わってきます

 

6月2日

おはようございます 昨夜はこちらのムック本で長恨歌を読んでいたのですが 写真の美しさと読み下し文が相俟ってとてもわかりやすい それで新楽府でもこのような本がないかいろいろ検索したのですが見あたらなくて残念 仕方なく借りてあった新訳漢文大系で読むことに この検索で源氏物語と漢籍の

 

関係の研究がとてもたくさん視野に入り 中に蒙求との関係もあったり目も眩みそうになりました それで心を落ち着けて考えたのは私はもうそういうご研究を追うのは止めようと キリがなさすぎて華鏡に戻れなくなってしまいます 華鏡に書こうとしているのは長恨歌との関係のある一点 それはまだ何方も

 

書かれていないことだから私の務めはその一点を書き切ること 膨大な漢籍関連のご研究にくらくらしましたが逆にだからこそ私はと絞ることができました 今夜は光る君へ 視聴後はまた気持ちが揺蕩って華鏡どころではなくなるでしょうからその前に気分の決着がついて良かったです

 

新訳漢文大系『白氏文集 一』で新楽府を読んでいます 漢詩を漢文のまま読もうとするから難しいのであって 先に通釈を読むと物語的なことがわかってわかりやすくそれから漢詩に目を通すことに 最初漢詩は読まないでもと思ったのですが 漢詩の語彙語韻こそ紫式部に通じると思って読むことにしました

 

と投稿したのは解説に影響を受けた国文学が挙げられていて 新楽府その四「海漫漫」に源氏物語胡蝶と紫式部日記が挙げられていたから この詩は長恨歌の方士が楊貴妃の魂を訪ねに行くのと似た感じがあってそれまでの世俗だけの話と違い それで私もこの詩から漢詩部分も読むことにしたのでした

 

「海漫漫」直下無底旁無邊 雲濤煙浪最深處 …… 視界が広大で美しく これが漢詩ではどういう語でどう表現されているのだろうと思って漢詩部分も読むことにしたのでした

 

6月3日

目加田さくを氏「源氏物語の白氏文集受容ー諷諭詩の場合ー」より: 東洋において、詩は君子、知識階層男子畢生の大事業であった。喘ぐ民庶の貧窮を熱涙をもって詠出する杜甫の詩業が何よりそれをものがたる。白楽天も亦それを継承した詩人であった。源氏物語の引用詩人は白楽天が最高である。注目す

 

べきは諷諭の詩の引用が9回と高い頻度であること。長恨歌など感傷詩は7回である。紫式部が諷諭詩をいかに重視していたか。父為時の白氏文集を見た紫式部の開巻早々まづ目につく諷諭の巻名。しかも四巻つづく。その詩百六十四篇は、何れもずっしりと重く厳しい人生の詩である。父為時の貧しく鬱屈した

 

日々がそこにはそのまま詠出されているではないか。諷諭四巻が式部に与えた感動と共感の深さをおもわざるをえない。

 

目加田さくを氏「源氏物語の白氏文集受容」より: この諷諭詩を紫式部はどのように源氏物語に生かしているであろうか。夕顔帚木末摘花胡蝶幻玉鬘蜻蛉手習と全巻書き上げるまで諷諭の詩を離れえなかった。白詩諷諭の精神が紫式部の心底に溶け込んでいる。消化しつくし、自己の栄養としおえた。即ち

 

これによって紫式部の社会に対する目は深まり、作家式部の見識となった上で、自由自在に引用する段階に達している。

 

6月4日

おはようございます 白氏文集「新楽府」50篇に目を通しました 心の底から驚いています 源氏物語といえば雅優美の極致の文学 そして紫式部が白氏文集から引用した長恨歌が有名で 長恨歌も物語の悲哀感を深めているし 源氏物語と白氏文集の関係は優美な世界を否定するものではないと思っていました

 

でもいろいろな方のご論考を拝読すると紫式部が白氏文集で最も重んじたのは諷諭詩と 諷諭とはさりげなく諌めることだそう そして新楽府を読むと諷諭詩の括りには入っていないのに諷諭の詩ばかり これは白氏文集編纂の時期的関係で後で付されたからなのでしょう とにかく実際は諷諭詩ばかりでした

 

傾国を諌める詩は白楽天が決して長恨歌を単なるロマンと認めていないことがわかります 帝たる者はとかもろもろ人の心得を諭しているのが新楽府でした 当時の貴族はこういう詩を読んで政治をしたり生きていた 紫式部も源氏物語にその意を込めた それが現在私達に伝わっているだろうかと懸念しました

 

紫式部が源氏物語に込めた真意は人がつましく正しく生きることで そうやって生きている人が苦しまない世になること なのに光源氏の恋愛遍歴があまりに華やかでその表層ばかりが一人歩きし読む人はそればかり享受 なぜ今迄学者さんたちはそれを是正しようとはなされないで来たのでしようと不思議

 

なんとなく前から感じているのですが 光る君へのまひろと道長の理想の政治にかける想い 制作者さん方の根底にこの諷諭の詩への紫式部があるのではないかと これからまひろが中宮彰子に新楽府の講義をしますし この制作スタッフ陣に新楽府が単に名前だけ登場する小道具になると思えないのですが

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2024.6.1 Twitter(X)から転載……『源氏物語』と『白氏文集』の関係、ほぼ把握しました。びっくりするくらいに紫式部は白氏文集を読み込み、自家籠中のものとして源氏物語のなかに取り込んでいます。白氏文集があったからあの膨大な源氏物語が書けた、と言い切っていいくらい!

5月28日

丸山キヨ子氏『源氏物語と白氏文集』 ざっと通しで読み終わりました 源氏物語の主題が失われた愛に対する嘆きとする長恨歌との関係のあと 須磨巻と白氏文集の関係に入り こちらも凄く唸るばかりの納得 これから原文にあたって詩と比べて確認したく考えています 諷諭詩との関係もとにかく紫式部は

 

原文にきづかせないくらいに溶け込ませるほど自家籠中としています そしてそれは父為時由来だろうと 為時には現存する漢詩が二十首ありそこには七十巻中六十七迄にもわたる詩句が採られているそう 為時の白楽天への傾倒ぶりが察せられるとともに 娘である紫式部が文集を消化吸収し得て物語にしたと

 

ずっと紫式部の風景や自然感覚そして社会的視野の鋭さ広範さなど平安時代の女性としてどうやってそれを身につけたのだろうが不思議でした 経験しなければわからないくらいの機微を絶対経験していないだろう紫式部が「こなして」書いている 不思議でならなかったのですが白楽天をこなしていたのでした

 

源氏物語須磨巻と白氏文集の関係 紫式部は文集の中でも白楽天が江州司馬であった時代の作品を比較的多く採用しているという 白楽天は四十四歳の時讒言により江州の司馬に左遷された 左遷とはいうものの上官の好遇を得 風光明媚な地で中央の複雑な人間関係から解き放されて白楽天は詩作に専念できた

 

5月29日

おはようございます 紅いカラーが咲きました 昨夜は源氏物語須磨巻を読んで就寝 白楽天との関連箇所を丸山キヨ子氏のご本で教えて頂いて読むとああこれがと一目瞭然 国守も親しき殿人なればのところなど思わず笑みが溢れました

 

国守も親しき殿人なればの件 手元に注釈書がなくネットで須磨巻の解説を読んだ時 この親しき国守がどういう人物かわからないしここだけにしか登場しないと そのあと白楽天の生涯との関係を読んで 左遷されて赴任したのに上官が白楽天が来た!と喜んで好遇してくれたと この国守は上官ですよね

 

拝読した中野幸一先生『正訳源氏物語』では注は直接詩文が引用されている箇所にのみ白楽天とあり 全くの憶測になってしまう生涯との関連についての注はありません

 

丸山キヨ子氏『源氏物語と白氏文集』より: 紫式部は草堂記といふやうな文辞篇まで応用しており、その時代の白楽天が辿った道程を輪廓づけることが出来るような態度でこれを採用している。作者は切れ切れの詩としてそれを享受したのではなく、作者の運命を辿り、生活をなぞり、この一時期の詩人の姿を

 

活々と心に描きつつ詩を味わってゐたのではないか。このことは、須磨における源氏君の創造にいくばくかの養ひとなつてゐるのではないか。中略。白楽天の江州貶適の生活を一通り辿りうるが如き詩篇を駆使し、特に須磨巻に司馬在任時代の詩を集中して用ひた。

 

丸山キヨ子氏『源氏物語と白氏文集』より: 文集の詩が截り開いてみせた自適の生活の一面は、はじめて具体的に描かれた左遷文学。讒言によっての左遷を文化人としてこれを克服した姿が跡づけられる。源氏君にみられる文化人としての流寓の人の姿はそこに現れてゐないであらうか。それは源氏君の心が

 

にじみ込んでゐる筈の持物や住居や衣服に現れてゐる。中略。源氏君に描かれた流謫の折のイメージ。流謫に際して見られる忌はしい実人生の葛藤を排除し、孤高に住ふ態度。それは白楽天の江州司馬時代の作品から描かれる白楽天像として、紫式部に享受されたものではなかつたかと思ふ。

 

枕草子で有名な香炉峰の雪は簾を撥げて看るの詩は 白楽天の左遷されて赴任した江州司馬の時代に作られています 左遷された翌々年に江州の町から二十キロばかり郊外にある廬山香炉峰の麓に移住 草堂を造って暮らしたのでした この草堂が須磨の光源氏が暮らした住まいのヒントになっていると丸山氏

 

紫式部が須磨の光源氏を左遷された時代の白楽天に模して書いたというなら 紫式部は白楽天の人生を知っていたわけですものね そういう実録的庶民(文学者)の歴史書ってあったわけですよね でないと為時や紫式部が知り得るわけがない でも展覧会などでそういうのって見たことない気が

 

それでまた疑問が湧いたのですが 白氏文集がもたらされ我国で広まって人気を博したといっても 白楽天についての人となりのような略歴ってどうやって当時の人は知ったのでしょう そういうことを書いた実録みたいなのも伝来しているとはあまり聞かないのですが

 

5月30日

丸山キヨ子氏『源氏物語と白氏文集』に揚げられている長恨歌との関連箇所の原文に黄色いマーカーで線を引きました 夕顔葵絵合宿木蜻蛉巻などでも該当箇所はあるのですが 内容に直結する深さでは桐壺と幻巻 紫式部の意図はこのニ帖に込められていると感じます それでこれからこのニ帖を読むことに

 

鎌倉時代に鎌倉で尾州家河内本源氏物語ができるまでの人間関係のドラマを華鏡で描くのですが 河内本源氏物語を作った源光行が何故生涯をかけるほど源氏物語に心酔したかを今まで理解できてなくてそれで華鏡の原稿が薄っぺらに感じて停滞していました 紫式部の漢籍受容が理解できて光行の心酔に納得

 

そうしたら今度は紫式部がなぜそれほど長恨歌に心酔したかが思いがけず手にとるように理解でき それを本文に黄色いマーカーを引いて確かめたら思っている筋立てが違和感なく確認できました あとは華鏡に戻って書くだけなのですが もう少し源氏物語と白楽天の関係についての読書を深めます

 

5月31日

古書で買った古沢末知男氏『漢詩文引用より見た 源氏物語の研究』を拝読しているのですが 黄色いマーカーで線を引きたくてたまらない 引けば物凄く頭に入って整理がつく でもまた私の後に何方かが読まれるかもと思うと引けない 自分の本なのに もう私が最後の持主と割り切ればいいのに

 

古沢末知男氏『源氏物語の研究』より 源氏物語に於ける漢詩文引用は、白氏文集の場合になると多くの詞句が文集直接の引用である事が分る。其の前後尚直接文集を出典とするのでなければどうしても満足し解決し切れない要素を多分に存する。中略。文集引用の優位だけは絶対に揺るがないと言へるであらう

 

即ちこれ源氏物語に於ける漢詩文引用の中核をなすものである。他の漢籍とは到底同日には論ぜられない←線を引けないならノートにとってと一旦は考えたのですが、そうだツイートしてブログに転載すればと、やっとブログを思い出しました。ここのところ紫式部の漢籍受容でブログ更新が復活しています

 

ざっと古沢氏のご著書を拝読しました 先にこちらを手にしていたらまた熟読度が違ったでしょうけど目を通させて頂いた限りは丸山氏のご本が文学に根ざしていて私には心に沁みます 古書で購入した時に届くまでの繋ぎに図書館に行って借りたのが丸山氏のご本 こういう出逢いもあるんですね

 

丸山キヨ子氏『源氏物語と白氏文集』を拝読しているからとてもよく分かる。丸山氏が書かれていたけど、お二人は同時期に同じ研究をされていて、発表もほぼ同時期。丸山氏が刊行されたからそれが決まったかくらいの時に古沢氏のご研究を知り、でも違う攻め方でいられるので別と割り切られたそう

 

6月1日

おはようございます 今朝の紅いカラー 昨年鉢植えで買って咲いたあと放置したままだった球根がまた咲いてくれました 球根を植え替えたりしたらもっと繁茂するのでしょうね 昨夜から華鏡の原稿の文章が頭にちらほら浮かんでああそろそろ戻る時期なのだなあと 白氏文集に決着がついてきたからです

 

この辺りで少し白楽天のお浚いを 我国では平安京遷都間もない平城天皇の大同元年に白楽天は35歳で長恨歌を作り その18年後の53歳の時に最初の詩文集「白氏長慶集」が編まれた 引き続き自選の後集続後集が編まれて長慶集に附せられ75巻になり「白氏文集」と称せられた

 

白氏文集が白楽天の生前に日本に伝わったことは続後集の後記に白楽天自ら認めている 白氏文集が一度伝来するや嵯峨天皇はこれを秘蔵されて人に見せず 仁明天皇は献上者に叙位の沙汰あらせられる程だったという その時代を下るに従い流行し和漢朗詠集に紫式部にと重用された

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