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2024.6.14 Twitter(X)から転載……華鏡を書き始めるにあたり、最初に構成を視野に学んだのがウンベルト・エーコの『薔薇の名前』でした→アドソの手記の手法を玄覚の手記にと置き換えて

6月13日

今日は源氏物語を離れて華鏡に戻ろうと思っていたのですが TLで教えて頂いた秋山虔・池田弥三郎・清水好子先生の鼎談『源氏物語を読む』の注文していた古書が届いたのでこちらを読みます 池田弥三郎氏は私の学生時代に一世を風靡してらした源氏物語の権威でいらして私の源氏物語感の原点のお一人です

 

本当は今日こちらを読む予定でした ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』 でも古書の源氏物語本が届いたので先に拝読していたのですが 通知があって見たら「ウンベルト・エーコさんにフォローされました」と エッ!となって 何故? となりました 薔薇の名前を拝読中と呟いたならわかりますが不思議

 

華鏡を書く時 仙覚の生涯という長い年代を書くのにどういう話体で構成しようと考えて思いついたのが薔薇の名前でした アドソの手記で始まるあの構成です それを玄覚という仙覚の生涯を知る人物の話体に移し替えて書き始めました 昨夜原稿に戻ろうと決め それなら原点に還る意味で今日は薔薇の名前

 

を読もうと出して来て傍らに置いて朝の源氏物語の古書のツイートをしたのでした そうしたらこんなことに これ 神の啓示ですよね きっぱりと源氏物語を離れて薔薇の名前に浸りなさいとの ウンベルト・エーコ氏が見守って下さっていると思っていいでしょうか でもお陰で初心に還りました

 

誰もゐないと言葉だけが美しい 牧野虚太郎「復讐」より この詩篇を何度か華鏡のエピグラフに使おうと試みていたのですが自信がなくて止めていました が 薔薇の名前を読んでいたらまたこれが浮かんできて今日一日頭から離れない でも前と違ってあり得るかもといった気持ちなのは紫式部も光行も

 

ひたすら源氏物語に浸っている時が救いだったのですよね 源氏物語に籠められていた漢籍の事実を通してそれが実感された今だからわかる 薔薇の名前はとにかく華鏡をどういった文体で書くかを主眼に読んでいるのですが 源氏物語が内側から思いを書いているのと逆に外側から書いている 勉強になります

 

6月14日

おはようございます やっと華鏡の原稿が動き出しました 薔薇の名前にはアドソの手記の前に「手記だ、当然のことながら」という手記を世に送り出した話者の数ページにわたる長い文章があります 勿論それもエーコ氏の創作なのでしょうけれど 国名から年代固有名詞がいかにも信憑性あって圧倒されます

 

凄いなあと思いながら ふと 華鏡もこれを書けばいいんだ! と気がつきました 西本願寺本万葉集と河内本源氏物語についての由来をです それなら書ける! とウキウキしてきました 今迄仙覚の小説だからとばかりにそういった学問的概説は書くものでないと頑なに拒否していたんですね でも なぜ

 

この小説を書いているかを初めに知っておいて頂いた方が読者の方には親切 それを第三部の鎌倉時代の章になって種明かし的にこうやって立派な写本ができました と書こうとしていたんです 小説のように書かなければいけないという枷がやっと外れました 薔薇の名前にはやっぱり震撼させられました

 

薔薇の名前「手記だ、当然のことながら」より: なぜならこれは、惨めな日常身辺の些事を取り扱う物語ではなく、あくまでも数々の書物の物語であって…… この末尾の文章こそ私が華鏡で書こうとしている主題!と自覚され 仙覚の小説にこだわって見失っていた想いを蘇らされたのでした

 

西本願寺本万葉集と河内本源氏物語自体がミステリアスな存在だったのを忘れていました 華鏡はミステリー仕立てに書けるはず どなたかに仰って頂いたことがあるのですが 上質な文学はどこかミステリアスなのよって そう書けるといいと思います

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