2024.6.13 Twitter(X)から転載……『源氏物語』についての掘り起こし作業ばかりしていないで、そろそろ華鏡の原稿に戻りたくなってきました
6月11日
以前はエクセルで作っていたけどやっぱり手書きのほうが楽 ということで源融のためのノートです 紫式部がなぜ融を光源氏のモデルにしたかを考えているのですが 融が藤原北家の基経に即位を阻まれた翌年に醍醐天皇が生まれてます なにか関係あるでしょうか
醍醐天皇を身近に感じて育った紫式部が時の左大臣融が源氏に臣籍降下しているばかりに即位できなかった悲哀 その時はまだ宇多天皇も臣籍降下した源氏で なので醍醐天皇が生まれたのはまだ即位する前 胤子も醍醐天皇もまだまさか宇多天皇が天皇になるなど思ってもみなかった頃
紫式部にとって「源氏」は身内のことであり その身内の源氏だった宇多天皇は即位できたけど 天皇になるのを永久に断たれた源氏が源融…… と まだ整理つかないけどこの辺りが鍵?
その頃はまだ宇多の帝様は即位されてなかったから源氏でいらしてね と そんなふうに紫式部が祖母から聞いて育ったとしたら…… 紫式部の源氏への原点はそれでしょうね そしてモデルに最適な人とみたのが源融
6月12日
おはようございます 源融の系図は融―昇―醍醐天皇更衣―重明親王―斎宮女御徽子で 紫式部の祖母は徽子女王が斎宮に下向する時紫式部の父為時の兄為頼を身籠っていました なので六条御息所のモデルとされる徽子女王の事は紫式部も祖母からよく話を聞いていたでしょう 紫式部は重明親王の日記を読んで
います なので紫式部にとって融の家系は相当な関心事だったでしょう 重明親王は光る君への宣孝様みたいな感じの風流で派手な方で 貂の毛皮を重ね着して宋の商人を圧倒したとか 先週の光る君へでも話の出た貂の毛皮 源氏物語では末摘花にそれを着せていますがいろんな意味で融の家系は華やかです
×宋の商人→渤海の商人 が正しかったかも うろ覚えで済みません
朝のツイートのあと気がつきました 斎王に卜定されて伊勢に下った時徽子女王は10歳 父重明親王母藤原寛子と引き離されてです 17歳の時寛子が亡くなり斎王を退下して帰洛 翌年寛子の一周忌が重明親王の氏寺棲霞寺で催されました 紫式部はそれを祖母から聞いて自分も幼い時に母を失っているから
徽子女王の悲しみが痛いほどわかる それで棲霞寺に関心を持ってもしかして訪ねたかも 棲霞寺は源氏物語松風巻で光源氏が造った滝も流れる風流な御堂と書かれています その描写は若紫巻で北山の僧都が光源氏に琴を差し出す場面に使われていると思うのですが 琴は重明親王が名手でした 徽子女王の徽
は琴の徽からの命名と 紫式部が光源氏のモデルとして源融を思ったのは藤原北家の基経に臣籍降下した源氏の悲哀をいやというほど飲まされたからでしょうけれど 融の家系はこんなにも深く『源氏物語』に底流しています
6月13日
呟いているといくらでも想いが掘り起こされて尽きないのですが だんだん原稿に入ることから逃げている気がしてきました(多分事実笑)それでそろそろ原稿に取りかかろうと思います 昨日源氏物語松風巻を読んだら話の筋がたったこれだけをこんなに長く!とびっくり 華鏡が頼朝の旗揚げから鎌倉末期の
宗尊親王の時代までを書くので一々の時代や人々を丁寧に書いていられないという決意があって それで文学ということ自体のふくよかさから離れてしまっていたんですね それを思い知りました ブルームだってたった一日のことがあのユリシーズ 華鏡も本当はそうなるべきだし本気で書いたらそうなる
なのに鏡の文体だからこれにすると割り切ってきたのだけれど やはり源氏物語に関わったら想いが掘り起こされて今までの欺瞞が見えてきてしまいました というか 本当は私はこちらの人だったんですよね それを義侠心で鎌倉の源氏物語と万葉集をと始めてしまったから 原稿に戻ったらどうなるでしょう
↓ RP 総論の難しさか…… 勝手に我身に据えて感じてしまいました 総論として(鏡の文体で)書く限り文学にはならない